テーマ:気になる日本語

書き込み欄へ テーマ一覧に戻る
お名前: そんし
確かに保守的かどうかは年齢とはあまり関係がないように感じます。
以前、奈良女子大の学生さんとメルトモになった事があります(当然これは自慢話なのですが)。

日本文学を専攻されている方で、私の得意の南北朝時代の研究をされているというのがメルトモになるきっかけでしたが、言葉の乱れという、今回の話と全くおなじテーマでメールでの対話をしたことがあります。

学生仲間の言葉の乱れが、どうにも我慢できないというもので、日本語の美しさを学んでいるはずの仲間の言葉遣いが乱れていることをどう思うかという質問があり、今回とほとんどおなじ事を話した記憶があります。

私の回答に、やはりカーターさんとおなじ反応がありました。年長者からの反応として自分が期待していた保守的なものとあまりに違うのでビックリしたというものでした。

早速教授にその話をしたら、江戸時代の文献にも、今の若い者は言葉が乱れていると嘆くものがあり、いつの時代でも繰り返されてきたものだと言われたそうです。

ちなみにその方とは卒業までメルトモを続け、最後に送ってもらった卒論のコピーは、ちょっとした宝物になっています。

ところで、昔から私の周囲では「ちがーくね?」とか「ちがーかった」などと使っていて、いまでも年代にかかわらず使っていますから地元の方言だと思っていました。

そんし

[2011年01月09日22時03分]
お名前: カーター
 ひさしぶりに多くの皆さんから書き込みを頂きありがとうございます。このサイ
トは設立の経緯から年配の人が多いので、もう少し保守的かと思いましたがそうで
はなかったので意外に思っています。
 ところで、もう6年以上前になりますが、娘の大学の入学式に出席したところ、
国文学の先生の話があり面白かったので紹介します。講義で学生と話をしていたと
ころ学生が「ちがくて、わからなかった」と言う表現に驚いたそうです。「〜が
違っていたので、わからなかった」と言いたかったのでしょうが、その時に「あ
あ、最近はこのように言うのか」とすぐにメモを取ったそうです。その先生はその
場で学生の日本語を間違っていると注意することはできたのですが、言葉と言うも
のは時代によって変わるものだと言う認識で訂正することはしなかったそうです。
 会社に戻ってみると、会社の女性がやはり「どうもちがくて、〜」と言っている
のが聞こえて来ました。かなり進んでいるのだなと思いました。その女性はすでに
30歳になろうとしていましたが、どうもわざと若い人の真似をしていました。別
の女性が言っているのが聞こえましたが、過去形で表現するのに「ちがかった」と
言っていました。
 この表現は違っていると言う意味の形容詞として使っているようです。代表的な
形容詞の美しいと同じように変化して、美しくてーちがくて、美しかったーちが
かったという言い方のようです。これと似たような表現に関西弁に「ちゃうかっ
た」と言うのがあります。「それとちゃうな。」と言うような言い方です。関西出
身者が東京へ出て来て標準語を真似て「ちゃうかった」が「違うかったーー違かっ
た」と変化したのでしょうか?もっと詳しく知りたい人は下記へ。

http://www.web-nihongo.com/bbs/user/res/4/465.html

[2011年01月09日19時27分]
お名前: そんし
「表現力が乏しい」というのも別の角度から見たらこうなる・・・というお話です。

言葉とは空気を振動させて相手の鼓膜を刺激することで情報を伝達するという通信用の信号のひとつに過ぎないという考え方もあります。

それも言葉の無い動物たちが発する感情を表現する奇声などのアナログな信号ではく、言葉ひとつひとつの組み合わせで膨大な情報を一気に伝えることのできるデジタル信号です。

動物たちの鳴き声は直接的な感情が込められるのが普通です。人間で言えば、文化とか芸術とか感性などという感情表現手段として使われる言葉です。

それに対して生活に必要な合理的な伝達手段と考えれば、単純化されるほど情報伝達力は増すという側面があります。高機能を求めると伝達速度は落ちます。

言葉が進化して複雑化していくと、微妙なニュアンスの違いまでも的確に表現できるようにはなるのですが、まわりくどくなるため、伝える速度は極端に落ちます。

知的な人ほど芸術性を重んじるようになります。一方実生活では高速伝達能力に重きを置かれるので、できるだけ単純化して幾種類もない言葉だけを使うのが理想と考えます。

こうなると言葉の芸術性を取るか、実用性を取るか、見る方向をちょっと変えただけで言葉の地位は大きく変化するといったところです。

そんし

[2011年01月06日00時08分]
お名前: 四角五角
 確かに言葉は生き物で時代とともに変化するものだと私も思います。

 私が最近の若者言葉で気になるのは表現力が乏しい事。ほとんど「やばい」「超」とかで表現しきってしまっている事。
 あと、口調。文法的に間違っていてもその言葉に誠意を感じれば良いのですが、これまたどこか投げやり的な感じがして好感をもてません。

>年長者との会話では年長者の言葉に合わせられる若者は、出世が早いでしょうし、若者
>の言葉を否定はしないが自分は絶対に使わないという年長者は若者からも尊敬される。
 社会でうまく生きていこうと思ったら↑が出来ないようではダメですよね。


                    四角五角
[2011年01月05日18時30分]
お名前: ヘイ
私もどちらかというと、そんしさんの考えに近いです。

カーターさんの発言から連想するのは、国語審議会ですね。

国語審議会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E5%AF%A9%E8%AD%B0%E4%BC%9A

これも時代の流れと共に衰退していったようです。

国語審議会に関するブログがありました。
http://ganchoh-tei.blog.so-net.ne.jp/2010-05-30


[2011年01月05日17時35分]
お名前: 広嗣
 「正しい日本語」は乱れに乱れてきた結果だというのが、私の持論です。

 例えば「する」という動詞は、古文の時間に「す」だと習いました。「する」は「す」の連体形でした。古文でも「する」で止めることは可能でしたが、その場合「なむ」や「ぞ」を文のどこかに入れるのが、正しい文章と教えられたと思います。その「なむ」や「ぞ」を入れずに連体形で止める形が、(確か)平安時代中期に流行ったのが口語体の基礎になっています。

 今でこそ「変化」ですが、当時の年配者にとっては「乱れ」と感じて眉をひそめたことでしょう。

 私もカーターさんの感じるような違和感を持っています。しかし、言葉を含めた文化は変わるものと一種の諦観で眺めています。


[2011年01月04日09時40分]
お名前: そんし
わたしはちょっと違う考えを持っています。これは実は子供の頃から思っていたことで、今でもその考えに全くぶれがありません。

つまり言葉は生き物とおなじだという事です。言葉は情報伝達手段のひとつですので、伝える際に、伝える側と受け取る側で言葉の共通認識が必要です。

しかし伝える側の環境、受ける側の環境によっては、それが異なる場合があります。その場合、どうおりあいをつけるかが言葉文化の原点だと思います。

それの繰り返しで、言葉はまるで生き物のように次々と変化していったというのが私の考えです。

または仲間意識というものがあります。仲間だけに通じる言葉で、仲間ではない相手には伝わりにくい言葉を使うことで、仲間意識を強める効果がある、というものです。隠語や専門用語といわれるものがそれです。若者言葉もその仲間に入ります。

しかし人は集団で生きる動物ですので動物的本能で仲間はずれは即生命に関わる事と危機を感じますから、必死で仲間に入ろうと、その仲間言葉を真似て、同じ仲間であることを繕おうとします。または自分に権力があると自分に使える言葉以外を否定して使う事を禁ずることで自分を中心とした集団に取り込もうとします。

若者の仲間意識から生まれた言葉についていけない老人世代は、それを若者の言葉の乱れと表現します。実は若者の仲間意識から生まれた言葉についていけないだけなのだと気づかずに、若者を叱責して自分たちの言葉こそ正しいと主張して、それを無理矢理使わせようとする。それが言葉の乱れを正すと称されるものの実態だというのが私の考えです。

言葉に決まり事をもうけて、それ以外は正しくないとするのは、長い日本の歴史の中でも初めてのことで、そのせいで五十年も言葉が全く変化しないでいる現代は、言葉文化の停滞期であることは明らかです。

江戸時代の言葉を調べたことがありましたが、男言葉を、格好がいいからという事で女が使うようになり、いつのまにか女言葉として定着した結果、男は全く使わなくなり、それに変わる新しい男言葉が生まれると、ふたたびまたそれを女が真似する、といった繰り返しがよくおきています。

そうやって時代の必要性に応じて変化したり文化の推移で変化したりと、自在に柔軟に変化しつつ、研ぎ澄まされて残ったのが現代の言葉ですので、それは為政者が作って庶民に与えるといいった性格のものよりはるからに合理的で正しいと私は思っています。

ちなみに全然とは「全く然り」ですから本来の意味に忠実に使うなら完璧な肯定の場合に使うべきで、教育で否定の意味に使うよう指導したのは為政者による言葉文化押しつけ成功例と考えた方がよいかと思いますね。若い世代はその圧力を感じなくなっているということだと思います。

若者の言葉遣いが気になるのは文化のギャップなのですから当然のことで、迎合する必要もないし、ことさら否定することもありません。

年長者との会話では年長者の言葉に合わせられる若者は、出世が早いでしょうし、若者の言葉を否定はしないが自分は絶対に使わないという年長者は若者からも尊敬される。

文化の違いは相手を受け入れることのできる人が必ず勝利するのが歴史の必然というものでしょう。

そんし

[2011年01月03日23時06分]
お名前: カーター
最近気になる日本語があります。普通は「〜して頂けますか?』と
か「〜してもらえますか?」と言う丁寧だと思っていた命令文が、テ
レビなどで「〜して頂いてよろしいですか?」とか「〜してもらって
いいですか?」とか言う表現がやたらと多いのです。テレビだけの表現かと思っていたのですが、3年前に会社に入った若い人が「しても
らっていいですか」と言う言い方をします。
 して頂けますか?と言う表現は、一応丁寧な表現ですが、命令的な
表現なので、して頂いてよろしいですか?と言うと命令文でなくなり
普通の疑問文となりますが、こちらの意向が伝わるので便利だと言う
ことなのかと思います。英語でもプリーズ***とか言うようりも、
ウッジュー**?とかクッジュー**?と言う疑問文の表現がありま
すが、この表現をまねたのではないかと考えているところです。私のように年配になるとこんな些細な表現でも気になるのですが、やはり
言葉と言うのは時代とともに変わるのでそれはそれでいいのかせざる
を得ません。
 でも「全然大丈夫だよ」と言う表現は未だに違和感があります。こ
れは文法的に完全に間違いなので、外国人は戸惑うに違いありませ
ん。正しい日本語は、「全然**ない」と言う言い方を教本で習って
いるに違いないと思うのです。これはさすがに言語学者にも注目され
「全然そんなことはないよ。大丈夫だよ。」と言う日本語が「全然
大丈夫だよ。」に短縮されたものだと言う解説がありましたが、なる
ほどと思いました。

[2011年01月03日15時11分]
このテーマについての発言をどうぞ。(管理の都合上書き込み時のIP情報を内部保存しております)
氏名 削除コード
E-mail URL