テーマ:桶狭間戦記(漫画)

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お名前: 江戸通
 江川達也の「桶狭間合戦の真実」というのが、発行されております。
「歴史群像」でも紹介されておりましたが。桶狭間合戦の新説を紹介
しています。
 当時、中島取手と漆山間は、現在の微高地で、「一騎打ち」の道とされ、
そのあたりで、合戦が始まり、三回戦、四回戦と行なわれ、今川家の本営が、
ほぼ壊滅したというものです。
 織田家中は、「傾き者」の集まりで、合戦が行われた時点では、前田利家など
は、まるで女装していたかのように書かれてます。高いものか如何かは、別にして、
紙細工など、当時の意匠を感じさせる物からは、信憑性たかそ〜です。
 個人的には、この漫画には、はまってません。
 面白いから手に入りにくければ、さいあげますよ。そんしさんいかがですか?
 巻末の地図には、平子小学校と名鉄自動車整備工場が載ってましたが、
 マックさん詳しいでしょう?
  西の妖怪の棟梁。山本五郎左衛門(さんもとごろうざえもん)の意見も
 聞きたいところですね。木槌でコンコ〜ンとやると、勇気ある少年には、
 答えてくれるそうでしたね?
  江戸通
[2011年06月17日20時52分]
お名前: 江戸通
  年末に、「桶狭間戦記」の最終巻を手に入れ、読んでおりました。
 桶狭間と鳴海城の間、本陣からは、北西に向うあたり、高根山に陣を敷いた
 松井宗信が、本陣の異変に気がつき、信長の行動を捕捉、「包囲殲滅」戦が、
 スタートというクライマックスが、いいですね。
  信長は、桶狭間山の前あたりで、馬を下りて、自ら槍を取り、今川義元の旗本
 とその軍勢の切り崩しに掛かると。
     
  今川義元は、沓掛方面に掛かっているように体制を直すことも出来ず、今川義元
 の敗死という最悪の結果を生みます。また、織田信長に掛かった松井家中の
 約2000人が、殆ど討ち死にという結果になります。

  後、川並衆は、付近の農民を装い、沓掛街道沿いに、芋づるを献上し並べて置いたと
 冗談とも言えぬ発言をしているようです。
  実際、両軍とも食糧は、かなり切迫しており、篭城をせず、食糧を集めなかった信長
 は、賭けに勝ったとも言えるのでしょう。
  通常に戦闘ならば、完全に信長が、囲まれ、自慢の子飼いの家臣も全滅ということ
 だったでしょうね。

 連載は、仙石が主人公のストーリーに戻ったようです。

  江戸通

[2011年01月01日08時07分]
お名前: 江戸通
 包囲殲滅戦 弐
 
 桶狭間の戦後、二日で、沓掛城は、落城していますね。ところが、
鳴海城は、岡部元信が、居座りなかなか落ちない。
 今川義元の首を取り戻し、駿河に帰るまで、おお暴れしたとあります。
 諸将は、急いで帰り、熱田を襲うものまでいたらしい。今川義元の絶命後は、
平静を取り戻し、町衆だけで撃退したらしい。
 となると、恐らく、鳴海城の軍勢の倍の兵力は、集められていなかったと、、、
 織田信長の戦術は、速攻ですね。
  包囲殲滅がされる前に、主力を投じて勝利を得る。各個撃破は、考えてもいなかった。
 沓掛城が、簡単に落とせたとしても、兵力にそれほどの余裕は、ない。
  織田信秀の置いた宿老を便り、尾張に動員を掛ければ、恐らく、生産力でいうと、
 1万2千人は、動員できたでしょうね。敢えて、その方法はとらなかった。
  林通勝、池田信輝、柴田勝家の三人が、丹下砦、善昭寺砦のどちらかを出るとき、
 道は狭く、泥田が続くので、敵「鳴海城?」からも丸見えで如何か、止めてくれと
 頼んだというのは、戦いの後で大変大きな意味を持っていたようです。
  今川義元の死後、残った今川勢は、「乱取り」を大いに行い、取り締まる術も
 無かったらしい。「勝」に賭けて結果でしょうね、本編にもありますが、これは、
 「三河物語」の記述が大半らしい、もう、今川勢と織田勢の区別なくまぎれていたと。
 結果論なのか?
  
江戸通
[2010年12月22日22時58分]
お名前: マック
綾Oはるかの最新動画をみっけ
驚愕、失神するぞ

http://www.youtube.com/watch?v=nLtGOsrfuqw&feature=related

し、しまった、書き込む場所まちがえた

[2010年12月15日06時17分]
お名前: 江戸通
 いかん。忘れて ました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1033835455
 あれから、猛勉強をして仕入れました。

http://twitter.com/tsukiren/statuses/15312679982
 名古屋は、サカエという繁華街があるそうですが、新幹線の名古屋とは、
遠いのきゃ〜。
 なんのまちなのかな?
 見てみようかな。
 「モッロコ」(もろっこ)のみんなは、覚えていたそうで、松井ジュリナ、
 いきます。 
  っって、もうこけた「K」なんかビーだと。
 よく聴いてみたら、マラッカのセントポールでもライヴとか、ちょっとね、
 性転換とか考えていたのかと言う邪推はいけませんね。
  アジアンふうなのかなサカエって?
 スマートろじ的で「よっし」、もっといいものがあろうっかと。

 SKE48というからには、なんかセントポールの壁の風よけにはなりそうだっ!
 「でらすげゃ。かっけいー。」
 という評価でした。

 江戸通
[2010年12月14日19時59分]
お名前: 江戸通
>ここで今川軍は、本隊5000兵のみで対抗。
>桶狭間戦終了で、今川軍の損害3000兵なり。
>今川軍の城主クラス重臣の死亡者の名簿は、
>間違いないもので、3000名近い死者というのも
>本当みたい。

 マックさん、RES有難う〜〜。
 簗田特務機関が登場?
 簗田出羽守は、桶狭間の合戦後、沓掛城参千貫の城主に抜擢、
 毛利、服部両名は恩賞にはありついたもののちょっとだったとか。
  以前は、「信長記」というと、
  @ のぶながは、蛇玉を退治した勇敢な少年だった。
  A 橋にたどり着いた、飾りを橋の欄干に据え、烏帽子とした。
  B 兄弟喧嘩の仲裁が上手かった。
 などの話しを聞いたことがあったのですが、いまは、「信長記」と言えば、
 太田牛一のものが、一番信頼され、他は???ですね。
  なんでも、「簗田特務機関」とかがあって、謀略や、妨害工作をしていたとか。
 嘘がおおいですな。「関宿」じゃあるまいし、、、
  その日、他の砦の攻略の為の布陣をしていたため、善照寺取手から、中島砦に向う
 信長に「ちょうどよい、布陣をまだ変えてないので必ず、義元本陣を落とせましょう」
 と言ったという記事があるそうです。
  いまでは、本陣5000人といっても、侍は、1000人余りだったので、この様な
 結果というのが、主流のようです。
  「明の倭人伝」のように。アケチと毛利を混同すれば、問題は解決します。
  つまり、アケチのような状態の家臣、柴田勝家らが混同されればいいわけです。
 解りまっすね。
  明の倭人伝です。実際、関宿から名古屋には行きやすくても、時間がかかりすぎますよね。
 やっぱ、「ありえねー」です。
  
  江戸通
  
  

[2010年12月14日18時49分]
お名前: マック
江戸通さんに、お土産

http://www.youtube.com/watch?v=ZNKOYO2qvxs&feature=related

・・・

[2010年12月13日03時52分]
お名前: マック
ウィキペ・・の記述で、満点ですよね。

ウィキペ・・の記述は、よく出来ていて、
付け足すことがないという意味です。

後日、また書きます

[2010年12月02日17時10分]
お名前: マック
誰か呼んだ??
江戸通さんか。
ウィキペ・・の記述で、満点ですよね。

まとめるなら、
桶狭間当時の織田軍は、8000兵使用可能
そのうち半数の4000兵が実働部隊だった。

大高城包囲で、2000兵はすでに現地配置していた。
信長が中島砦にいて、4000兵使えたのだけど
半数の2000兵で桶狭間山に突撃、それで勝利。

ここで今川軍は、本隊5000兵のみで対抗。
桶狭間戦終了で、今川軍の損害3000兵なり。
今川軍の城主クラス重臣の死亡者の名簿は、
間違いないもので、3000名近い死者というのも
本当みたい。

今川軍の指揮系統壊滅

そこで
2000兵VS5000兵で、60%近い
損害を与えた織田軍は、なんでそんなに無双
なの??ということかな。

織田信長は桶狭間戦で負けても、無事、清州城に
戻れるよう安全策もとっているのだよね。
本来、今川軍に有効な一撃を与えて撃退するつもり
だったんだよ。

悲劇は、今川義元は馬に乗れなかった。
馬に乗れたならば、軍を立て直すことも可能でした。



[2010年12月02日17時07分]
お名前: 江戸通
 包囲殲滅戦
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 参考までね。(^_-)
 史実の方は如何か?なんてね。
 本編にも、「三河物語」が登場します。
  朝比奈泰朝と松平家康は、大高城攻撃部隊を援護し、食糧を大高城に入れ、
 その後、取手を陥落させ、事前の軍議で参戦は、翌日か翌々日と言う事が、
 決定されていたので、今川義元が討ち死にしたという報を受け、今川軍の陣を
 見ながら、三河に帰ったとありました。
  作者は、「三河物語」も読み込んでいたようです。
 桶狭間が、面白いのは、兵数の問題に尽きるという人も多いですね。
 一番、あてにならないのが、戦前の参謀本部資料というやつ、色々再現とかしながら、
 「楠」「奇襲」をキーワードに、話しを源義経にもって行きたかったようです。
  他の資料には、中島取手(砦)に集結したとき、オトナのものが、人数が解るから
 それだけは、止めてくれと諌めたとか、しかし、信長は、聞き入れず、前に進んだとか、
 これが、毛利、服部両名が、決死の覚悟で、今川義元を仕留めた原因とか、
 やっぱり、西風が強かったので、東に向って皆倒れたと、そこへ、信長が掛かったと。
 いいんじゃありません?
  三河物語は、唐突ですね、ウィキにあるようですが、松井宗信主従悉く、討ち死に!
 「SKE48」かいな、、、、
   マックさん、助けて。
    
江戸通
  

[2010年12月01日20時10分]
お名前: 江戸通
> このとき織田信長に、「あれは誰だ??」と
>あっぱれと感謝状を頂いたそうで、3回ほど。
>盾を持たない歩兵は、弓射に弱い、防ぐ手段はない
>ものね。
  突然、「歴史への招待」というか、本能寺の変のときに、
 神戸信孝を主将とする四国征討軍に、丹羽長秀の家臣で登場するのですね、また、
 与力として蜂屋頼隆も参陣していました。大阪です。
  この面子は、まさかの桶狭間の面々ですね。神戸信孝は、ちょっと疑問ですが、
 正社員は、丹羽長秀、蜂屋頼隆、太田牛一です。押せ押せで、敵を圧倒というと、
 是に、木下雅楽助、と当時、失業状態だった前田利家ら都合300余人という兵力
 がいましたので、2、3倍の駿河勢を破ったということは、「あり」でしょうね。
  「旗本はこれなり、これへかかれ」という号令で、義元の本陣に掛かったのです。
  が、どう考えても、300対5000か、如何なのか?
 仮に、2000人の兵力を二分して、前後から攻撃しても勝ち目はないのが、実際
 では?
  他に、木下秀吉とか、織田信広とか、案外器量のあるという武将はいたので、断言
 は出来ませんが、長引けば、2万4千とも6千ともいう、今川軍に包囲され全滅が、
 普通ですよね。
  「アリエナエーでが」です。


 江戸通
[2010年11月29日21時37分]
お名前: 江戸通
 今週で連載は終り(尾張)ました。
>メザマシの顏だった、あやパンが退職だそうです。
>教祖の一声が、原因かとも言われていますね。
>まだ、活躍がばれては、いかん!ということで
>退職を選択というと「桶狭間戦記」では?
  この戦いのあと、異例の出世をしたのが、木下藤吉朗、丹羽長秀、柴田勝家、
 ですね。信秀が家督信長に付けたとされる、家老4人は、何時の間にか、消えて
 います。
  有名な、明智光秀は、明智家が討たれ滅亡し、浪人状態ですから。
  なんの事情か解りませんが、柴田家も討たれて滅亡していますね。
  「信長公記」は、短冊や切れ端に書かれた記事を再編集して、大分推敲を
  重ねていることが、歴史家の研究で解ったそうです。
   特に、この桶狭間の記事は、一行の文字数が多く、特別な意味合いがあったの
  では?と歴史家の杉崎さんも指摘しています。
    東京の大丸デパートで、本能寺の変の数年前の古文章が公開されたときに、
  見に行ったのが、歴史研究の始まりだった人も多いとか?
   尾張は弱兵といいますが、高校に授業でもやってましたね、「ありえねー」
  です。今川本陣の数倍の敵を押せ押せで、織田信長が破ったというのは。
   久々に、面白い、歴史ものでした。いまでも、白鷺の大群に襲われたとか、
  は、熱田神社のシンボルである、白鷺を敵にしてしまったか義元というのは、
  案外マジだそです。いやいや、油断して「乱取り」に出かけて、白鷺がきたとか
  という説もあるそうです。

  江戸通

[2010年11月19日08時21分]
お名前: マック
うろ憶えで特に調べていないので、間違っていたら
もうしわけない。

太田牛一は、たしか、美濃国の対斉藤戦で、民家か
お寺の屋根に上って、得意の弓射の連続射撃。

このとき織田信長に、「あれは誰だ??」と
あっぱれと感謝状を頂いたそうで、3回ほど。
盾を持たない歩兵は、弓射に弱い、防ぐ手段はない
ものね。

木下藤吉郎と同じで桶狭間のころは、どうして
いたのだろうかね。

[2010年11月06日02時22分]
お名前: 江戸通
>織田信長は、祖父と親父時代から、
>尾張NOIの大金持ちなんだよね。
マックさん
 「桃巌信秀」ですね。小豆坂の合戦の話しが、この漫画でも出てきますが、
 桶狭間の合戦とは、逆に、大勢の信秀軍が、小勢の今川勢に敗れるというやつ、
  
 作者も指摘していますが、合戦の直前に、裏切り者として山口親子を、今川家では、
 処刑してしまったので、その山口の在所である、桶狭間で負けたと、簡単に「信長公記」
 の太田牛一も言ってるようですね。   
  義元本陣の5千から6千の軍勢が、信長の二千の手勢に押せ押せで敗れたと。
 只、「信長公記」の作者太田牛一は、弓衆なので、必ずしも、信長の側にいたわけでなく、
 出世した後に、信長の「弓張りの三人」に任命され、護衛の仕事もしたということなので、
 弓衆の見た目と実際の戦闘が一致したかというのは、難しいところですね。
  他の家中はどうか解りませんが、戦闘で、側にいて護衛したということでは、必ずしも
 ないようです。
  

 江戸通


[2010年11月02日22時28分]
お名前: マック
織田信長は、祖父と親父時代から、
尾張NOIの大金持ちなんだよね。

貿易港の津島からの収入によるものと
推測されるわけだ。

といいつつ

[2010年10月14日02時19分]
お名前: 江戸通
 自由に動ける人数は、800人?
 織田信長が、信秀から家督を譲られたときに、抱えていた「若い衆」の人数は、
 おおよそ、800人ですね、有名な、斉藤道三との会見では、うち500人には、
 長鑓(おおよそ三間と三間半)の後に、弓衆と鉄砲隊を見せ付け、家督である事を、
 示したことが、文書からも発掘された城下からも見つけられたそうです。
  このときの、鉄砲の使い方は、取替え式で、打ち手に装填された銃を渡し、狭間の
 ような防御物から、撃っていたとありました。この後、宿老であった平手政秀が、自害
 し、尾張国内から動員できない事態もあったようですが、城代が集めた軍勢が加わる
 ということであったらしい。
  勝幡城(字が正しか?)と津島の奉行収入から得られる金では、この八百人という
 人数は雇えたのかという問題はありますが、何故か、常雇の近習が八百人といういうのは、
 たしかなので、他にも収入があったのではと言う事になります。
  ところで、となりの三河では、松平長忠が伊勢宗瑞と結んで、「鉄砲」を導入していた
 とありますので、農業先進国三河と商業発展国尾張では、殆ど同時に「鉄砲」を導入した
 ことは、事実らしく、三河では、大陸渡りの「てっぽう」尾張では、種子島の「鉄砲」
 とか、三河は借金で、尾張では、謝金でか?という話しになるわけです。
  桶狭間の当時、実兄「信広」は三河安祥の城代を勤めたらしいことからも、三河と尾張
 の同盟関係は、鉄砲のようなきがしてきました。
  当時は、とんでもなく高いものでしたから。

江戸通
[2010年10月11日21時37分]
お名前: 江戸通
 参考文献として、「センゴク 合戦読本」を推します。
 センゴクシリーズとしては、「センゴク」「センゴク 天正期」「桶狭間戦記」
と言う事なのです。
 センゴクでは、丹羽長秀=サミュエル.L.ジャクソン
        明智光秀=ヒュー.グラント
        顕如  =ミック.ジャガー
        武田信玄=マーロン.ブランド
        山県昌影=クラーク.ゲーブル
        馬場信春=ポール.ニューマン
   なんと、 今川義元=ジェイ.ケイ がモデルなんですと
  主役の「センゴク」こと仙石権兵衛尉秀久は、西美濃本巣郡中村(可児郡)の生まれ、
  斉藤龍興を避け、後元服したとあります。
   同じ時期に世に出た、才人に可児才蔵がいます。
   笹の才蔵の異名があり、関が原でも、取った首が多すぎて、口に笹ノ葉を口に
  含ませたことから、「笹の才蔵」と呼ばれ、旗指し物も、生笹だったとか?
   槍仕槍仕は多けれど
   笹の才蔵は一之槍
   という歌が紹介されてました。
  戦国最強は、槍というか「長柄」という人がおおいですね。
  織田信長が、決戦で使用したという「ナガヤリ」は、5.6メートル、
  アレキサンダー大王と同じくらいでした。
   稲生の戦いでも活躍した「槍」隊は、700−200騎で、500くらい、
  当然歴史には、登場しません。
   何故かな?
  因みに、今週桶狭間では、山の上の今川義元にも、谷間に集結した織田家主従にも
  雨が注ぎ出したところで終っていました。


 江戸通
[2010年09月15日20時47分]
お名前: 江戸通
>
>桶狭間戦の少し前に、今川水軍が伊勢湾に
>はいり、愛知と三重の県境にある、蟹江城を占領して
>いる。これは戦略的に重要なことだと、つまり海からの
>補給路も確保できたわけだし、なにより水軍で津島や熱田など
>襲撃できるから。
  マックさん、レス(RES?)ありがっとそ。正月みたいにいい気分です。
 大高城も、鳴海城も、いまでは考えれられない程、海に近いですね。
 前年の浮野の合戦でも、斎藤義龍の援軍を気ににして、岩倉城を鹿垣で囲い、
 決戦を浮野に持ち込んだ、慎重さは、信長のよくやる手ですね。
  また、足利義輝に謁見し、上京を果たした信長は、あまり、海上案を当時は、
 好まなかったらしい。美濃攻略が成功するまでは、最短ルートを取ることが多かった
 ようです。尾張は事実上、信長の領国ですから、砦でも築き、兵を置くことが出来な
 ければ、通行はできませんよね。
  
  後巻き、鳴海城今川義元。これにつきますね。
 朝比奈泰朝、松平元康の二名大高城が、海へのにらみと言う事も、含めて在番。これから
 熱田へもという時に、「信長記」には、信長主従300騎が、、大勢の今川勢に襲いかかった
 とあります。
  前衛が争っている時、西風が吹き、楠の大木が今川勢に向って倒れ、毛利が羽交い絞めに、
 し、服部が留めを刺したということです。
  取手は、鹿垣とは随分ちがいますね。

  江戸通
  


[2010年08月31日21時38分]
お名前: マック

そうそう、忘れていた、江戸通さんにお土産があった!
これこれ、これだよ〜〜ん
http://www.youtube.com/watch?v=gJ13zthSBOo&feature=related
[2010年08月29日07時00分]
お名前: マック

> ここで、だれか今川勢を後方(従来の攻撃ルート)から撹乱した
> 勢力がいたのでは、 という観測があるのですが?

ないない、ありません。
今川軍の中に、関東の後北条氏の援軍というか、派遣の武将
もいたしね。

小説の世界では、武田が謀略で、というのも、ない。

それよりも、桶狭間戦の少し前に、今川水軍が伊勢湾に
はいり、愛知と三重の県境にある、蟹江城を占領して
いる。これは戦略的に重要なことだと、つまり海からの
補給路も確保できたわけだし、なにより水軍で津島や熱田など
襲撃できるから。
海からだと庄内川より支流の五条川まで入ることができれば
清洲城まで、もうすぐだ。

マック

[2010年08月29日06時51分]
お名前: 江戸通
 高嶋彩アナ、四十肩で退職?
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/media/100825/med1008250156000-n1.htm
 メザマシの顏だった、あやパンが退職だそうです。
 教祖の一声が、原因かとも言われていますね。
 まだ、活躍がばれては、いかん!ということで
 退職を選択というと「桶狭間戦記」では?

 そういえば、従来、桶狭間を北側から迂回した奇襲ルートで、今川義元の本陣を
 急襲したという説は、どうやらまちがい?
  中島取手から、直進したのでは、という説が有力視されてます。
  ざっと、5000人と言われた、当時の信長の動員力は、小姓や馬廻りといった
 専門家が多く、他の大名と比較するとなると問題が多過ぎですが。
  本隊2000人、砦にざっと1000人、篭城に備えて2000人というと、
 普段の信長の働きですね。
   これだけだと、今川本陣2000人と前衛1000人が、崩れた原因が、不明と
 いうことになります。
  また、取手を落とした、松平元康、朝比奈泰朝が間に合わなかったことからも、戦闘は、
 かなり激しいものであったらしいですね。
  ここで、だれか今川勢を後方(従来の攻撃ルート)から撹乱した勢力がいたのでは?
 という観測があるのですが?
  
 江戸通
[2010年08月25日07時54分]
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