お名前: 江戸通
第二次、上田合戦。
徳川秀忠軍、3万8千が、真田昌幸の降伏開城が遅れたことを怒り、
小諸から、上田城近くの染谷台に布陣。
第一次、上田合戦が天正13年(1585年)から約15年、
慶長5年(1600年)、石田三成からの密書に基づき、真田信幸は、東軍、
真田昌幸、幸村(信繁)は西軍と参戦を決めた。
秀忠の命により、信幸が、付け城戸石城の幸村を攻め、幸村を上田城に撤退させる。
苅田などの挑発を行い、上田城から真田勢をおびき寄せる作戦を行い、真田勢は、出撃するも
上田城へ、敗走。
徳川勢は、上田城を攻撃。
以上 ↓ のリフレイン。
六日。
突如、虚空蔵山に立て篭もっていた、真田軍が、染谷台の徳川本陣を攻撃。
更に、幸村隊が、徳川本陣右翼を攻撃し、徳川軍本体は、小諸に撤退。
歴史街道の記事は、ビジュアルで、面白かったですよ。
真田昌幸、幸村親子は、徳川家からは、毒虫扱いされていたようですね。
のちの世、真田幸貫(さなだゆきつら)は、
かならずも 勝つべき道は、大空の
一つ誠に たがわざらなん
と詠んでます。 (これも歴史街道にあった)
真田家は、武田信玄の時に、鉄砲の使い方も、防ぎ方もだいぶ身に付けていたらしい。
対照的に、北条家では、弓偏重が続いていたことが、解っています。マンガ、「センゴク」
でも、真田隊は、信玄由来の竹たる(??)で、鉄砲を防ぎ、織田家の陣を4枚は破り、
最後は、明智隊、と羽柴隊に仕留められるという大活躍をしたと書かれていますな。
江戸通
[2009年10月26日20時52分]
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お名前: 江戸通
まず、第一次上田合戦ですが、
徳川勢 主将 徳川家康 (7000人)
侍大将 鳥居元忠、大久保忠世(旗指物からの類推)
真田勢 主将 真田昌幸 (3000人)
侍大将 ?&?
本丸大手門に、石、弓、鉄砲等で応戦部隊を配置
本丸搦め手門に、鉄砲を集中。
他、堀沿いに鉄砲等の部隊を散在させ奇襲に備える。
真田昌幸は、本丸御殿で囲碁に熱中し、支持をださず。
徳川勢は、鳥居元忠の部隊が、大手門から攻め込むが、楠正成のような攻撃にあい、
一旦、後退しようとするが、大手門付近が狭かったので、堀沿いに展開したところを、
鉄砲隊が、果敢に移動し鉄砲を射掛け、撃退。
また、体勢を整える為、一旦、退却しようとすると、大手門前方に散開していた
伏兵に攻撃され、敗退。
搦め手にいた、徳川勢は、多くの鉄砲部隊の攻撃から侵入を拒まれ、鳥居部隊の
敗走を知り、戦線を離脱。
と、NHKでやっていた、第二次上田合戦の様子が、ヴィシュアルに解説してありました。
となると、徳川勢は、マンネリが弱点だったのか?
由良家が立て篭もる、金山城攻防戦式で対抗できなかったのか?
面白い話しでしたよ。
江戸通
ああ、そうそう名古屋の歴史街道ではなくて、PHP版ですので(^^ゞ
[2009年10月21日21時46分]
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