テーマ:運慶作の仏像

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お名前: 江戸通
 飛ばし読みで読了。久々でしたので疲れました。悪い癖ですね、飛ばし読み、、、
 樺崎廃寺の現在までの発掘の結果、鎌倉殿と高氏が並んで祭られている事は、
 ご報告しましたが、従来出自がはっきりしないとされてきた、高氏が、高階氏の
 人であったものが、前九年、後三年の役ころから従ったものであり、
 赤御堂殿.足利義兼の頃から、執権という記載のある清源寺高階氏の系図を参考
 文献として掲げているようです。
   そんしさんのHPの「足利家勃興」の下りやはり強かったですね。さすがそんし
  さんです。
  承久の乱後の増大した所領を抑える為の執権を足利家でしていたということに
  なりますね。また、これ以上は、見つかった多宝塔が誰の物かわからない今、
  なんとも言えないです。
   上杉家は、宮将軍下向の際、近習として将軍の近習でもあった足利家の家来筋
  ではあっても、京畿に所領をもち、高家と上杉家というライバル関係は、単純に
  は図れないものがあるようです。
   後三年の役ですが、源義家の活躍を描く「絵巻物」が非常に大きな影響を及ぼし
  後、おそらく南北朝期に内容が多く後で書かれたものと言う気がします。
   模写した後三年の役の絵巻物は、詞書(ことばがき)よりよっぽど詳しく、
  描かれており、今までのところ内容も正確という不思議な書物だと改めて、
  痛感しました。
   また、足利直義ですが、活躍の割に何も残った形跡はないようですが、太平記
  の尊氏毒殺説が、否定されてますね。
   引き合いに出される足利直冬でさえ、特に没落しただけで刑死したものでもない
   らしいだけでなく、長年の激務から、肝臓ガンを発症し、黄痰に近い症状で無く
   なったものとほぼ断定されているようです。
    戦国時代では、52歳前後で相次いで武将が亡くなっていますが、残された
   医師の診断書などから、痛飲による肝臓障害が明らかと言うケースが多いのです。
    百年は、早く生きた男達という感想をまた、抱くようになりました。

江戸通
[2009年06月04日17時47分]
お名前: 江戸通
>樺崎寺が明治初期に樺崎八幡宮になった。
 樺崎寺の発掘情報が出版され始めたようです。
 赤御堂殿と呼ばれた足利義兼の墳墓から鎌倉殿の代々の菩提所として
 八幡宮南側に10基の多宝塔
  義氏、泰氏、頼氏、家時、貞氏、尊氏、義詮(よしあきら)、基氏、氏満、満兼
 北側に9基の多宝塔
  師重、師直、南宗継 他6基が不明。
 とされています。

 また、NYクリスティ^ズの競売の結果、宗教法人「真如苑」が12億7千万円で
 落札したとされ、
  鑁阿寺.樺崎寺縁起から足利義兼が、子の瑠璃王御前、薬寿王御前の菩提をともらう
 為、同寺に下御堂に安置してあったものだったそうです。
  いまのところ、鎌倉殿と高氏、南高氏を並べている点に注目しているようです。
  南北朝期に活躍した足利直義は、鎌倉府を治めていないのでなにも見つかったいない
  そうです。
   廃寺といっても、明治初期に寺だったものを八幡宮としたものなので性格は、
  一般の廃寺とは違うようです。
   
   まだ、自分でも斜め読みしかしていないのですが、ご参考までに
   「足利尊氏と直義」 峰岸純夫著 吉川弘文館 発行 2009年6月1日

  江戸通


[2009年06月02日19時36分]
お名前: そんし
先日、運慶作の仏像がニューヨークで競売にかけられ、三越に依頼した日本の宗教関係者が14億円で落札したというニュースがありましたが、実はあの仏像は、足利尊氏よりだいぶ以前の、足利氏発祥の頃の足利氏の菩提寺だった、足利の樺崎寺から散逸したものであることが、ほぼ確実視されております。

この樺崎寺が明治初期に樺崎八幡宮になったおりに、行方がわからなくなったもので、どのような経緯で競売に出した人の手に渡ったのかは明らかにされておりません。

明治初期の頃は、足利氏ゆかりの品に対する評価は低く、散逸したのはしかたのないことだったのでしょうね。これも明治の皇国史観が遠縁にある出来事のひとつということになるのでしょうか。

[2008年03月30日23時11分]
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