お名前: 水戸アレルギー
イ皆(階ではなく人偏)楽園の梅の季節を間も無く迎える、昨今ですが、
いつもおもうのですが、水戸アレルギーが吹きあれますね。
一度、翻訳された「水戸イデオロギー」という本を、カバーなしで、
電車で読んでみたことがありますが、作者の意図の駄洒落にも、気が付かなく
一応に嫌悪感を表す人が多いのには、ビックリです。
大日本史にも、代表されるイデオロギーと言って過言ではない、
水戸学は、どうなってしまったのでしょう。学生時代、三戸公さんという経営
学の先生の本を、研究対象にしようかな等と思いながら、取り上げようと
した時も、そんなもの感じましたね。
足利尊氏問題も、水戸学の素養の無い人と論議しても議論にすらならない
し、南北朝の取り上げ方も水戸学の影響に他ならないのですが、
大久保利通の子孫で歴史学者の大久保利謙氏は、薩長密約のなかで、
小銃1万丁代理輸入問題として、扱っているようです。
第二次長州征伐時に、新式銃一万丁も名義貸しで薩摩が購入し、長州が
費用を負担し、使用するというないようです。
英国商人、グラバーが、ゲーベル銃3000、ミネゲーベル銃4300を
修めるという契約を行なっているそうです。
長州征伐に参加した藩の軍備は、まちまちで、銃の企画も統一などなかった
事は知っていましたが、これでは、長州戦争の記述とは、逆ですよね。
長州藩兵は、約2000というのが確かで、奇兵隊の墓とされるものは、
約7500にも及んでいます。日本では、最初?といわれる毛利パンフレット
なるものが撒かれ、総動員体制を呼びかけた結果だそうです。
紐解くには、大変な作業ですよ。
江戸通
[2007年01月13日22時42分]
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お名前: カーター
江戸通さん渋沢栄一に関するご説明を頂きありがとうございます。最近、渋沢に関
する本を読み、当時の大蔵省に状況などを理解しました。先週、深谷の「渋沢記念
館」を訪問しました。渋沢の家は豪農で染料の原料である藍玉の商売などで財を成
したようです。渋沢が世に出るきっかけとなったのが深谷の血洗島で塾を営んでい
たいとこの尾高淳忠に尊皇攘夷論を学び、高崎城乗っ取り計画は挫折しましたが、
京都へ向かい懇意の平岡円四郎の勧めで一橋慶喜の家臣になったことでした。
渋沢が経済人の中でもユニークなのは、「論語とそろばん」を基本理念とし道徳経
済合一説を唱え、経世済民、つまり人を救うための経済を主張し、単なる利益の追
求ではなく、経済社会の発展のための第一銀行創立などによる金融業を開始したこ
とにあります。
また、浮浪者を集めることで始めた東京市養育院を設立したり、慈善活動にも尽く
しました。渋沢栄一記念館には渋沢翁がアメリカの人形と日本の人形を両手にかか
えてほほえんでいる大きな写真がかけてあります。昭和に入りアメリカによる日本
人移民排斥など日米関係が悪化して行きましたが、当時の状況を打開しようとして
渋沢と親交のあったニューヨークのギューリック博士から日米友好のために青い目
の人形12739体が届きました。日本からは返礼として58体の日本人形がアメ
リカへ送られました。
多くの経済人が私企業を設立し、三井、住友、三菱などの財閥を形成し子孫に残し
て行ったの対して、渋沢はその実力がありながら財閥を形成しなかったと言う点が
ユニークであり、経済は人を救うためのものであり私するものではないと言う考え
があったためでしょう。
[2007年01月13日14時33分]
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お名前: 江戸通
当時の静岡藩の知事大久保一翁から勘定組頭に任命されたのは、
事実ですが、明治元年11月に、水戸藩知事に就任を要請され
帰国した徳川昭武に同行し、水戸に赴任しようとしていた時期でした。
留学を途中で中断し帰国した為、用意した資金から大量の小銃を
購入し水戸藩知事へ土産として渡しています。
静岡へは、慶喜へ挨拶のために訪れ、残った資金などを返還しています。
しかし、大久保と合わず、大喧嘩となり、結果、出仕せずでした。
後、大久保は、あのまま水戸へ出仕すれば、重用され暗殺は、必至の
ことなので、慶喜公の思し召しで静岡出仕の案をだしたと語っています。
澁澤栄一は、深谷の出身で、農家以外にも、藍も手懸けていたものが、
天朝組に荷担し、横浜での対外公館焼き討ち、高崎城占拠を画策したが、
慶喜公の計らいで一橋家の陪臣として出仕していらい、慶喜公の
家来という意識が常にあったのではと言われています。
また。内乱状態だった水戸にも詳しかったようです。新政府樹立の
一翼を担ったのは、事実ですが、「巡査を出すにも、人材を見出せず」
という状態は、明治20年頃まで続いたようです。
江戸通
[2007年01月07日09時29分]
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お名前: カーター
戸定歴史館をご紹介頂き、黒金ヒロシギャラリーを興味深く読ませて
頂きました。徳川慶喜の弟の昭武の話ですが、昭武のフランス留学に
は渋沢栄一が同行しています。渋沢は帰国後に徳川慶喜とともに徳川
家の静岡藩の財政改革を行った手腕を買われて明治政府の大蔵官僚と
なりました。その後民間に下り、銀行業などを開始し日本経済の発展
に努力しました。
[2006年12月29日13時17分]
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お名前: 江戸通
周辺の整備も進み、旧水戸藩別邸の戸定邸が、
今年、国指定重要文化財に指定されました。
昨年は、県の指定重要文化財となりました。
千葉県では、佐倉の堀田家所縁の武家屋敷と
二箇所が指定されました。
戦時中、一部家屋が取り壊されて、白井の赤松家
に、材木として保管されていたそうです。
http://www.city.matsudo.chiba.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC010000&WIT_oid=icityv2::CommonGenre::1306&m=1&d=
昭和32年の夏ごろまでは、実際に邸宅として利用されて
いたそうですが、昭和33年ごろに、市側への移管が、
決定され、今日に至ります。
戦国時代には、おそらく小金の高木氏の砦として使われて
いたものを、水戸徳川家が、別邸として再構築し、徳川昭武が
松戸徳川家を起す頃に、立て替えられて、この明治時代の
建築が今回の指定対象となったものです。明治17年創建とあり
ますから、昭武さんが、賢処侍従を毛利家と勤めていたころでは
ないかと思われます。尚、明治40年以降、徳川慶喜公の名誉回復
ともに、賢所侍従は、徳川慶喜公が勤めたことになっているはずです。
江戸時代は、松戸は殆どが幕府領で、小領主や代官支配でしたが
小金やこの松戸の館があることで、水戸徳川家が、所領とした
と考えるひとが多いようですね。
徳川光圀や徳川斉昭は、水戸にいるときは、謹慎で、松戸を通り
水戸と行き来するのが、状態であったようです。
戦時中、松戸徳川さんは、海軍の研究施設に勤務していた為、
機密保護の為、応接施設(使者の間、従者の間)であった別棟を
取り壊し、フランス式だった庭園の一部を閉鎖させたそうです。
当時としては、りっぱな防諜活動の一環ですね。
い号潜水艦の耐圧試験や晴嵐航空機の開発にも一部関与して
いたらしいのですが、実際の戦闘には参加しなかった秘密兵器
というか基礎研究が専門だったようです。
江戸通
[2006年12月24日12時14分]
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