お名前: 素里奈
『広辞苑』『金光明経』の項に見る解説では、大乗経典の一。唐の義浄訳『金光明最勝王経』(一0巻)のほか、北涼の曇無讖(とんむしん)訳(四巻)のほか、隋の宝貴等の翻訳(八巻)などがある。・・・と為っており、『高麗大蔵経』第九序に見る、「金光明経」との関連は見出すことは出来ない。
ともあれ、手元の辞書とにらめっこしながら、『高麗大蔵経・第九合部金光明経・隋沙門釈実貴合 *北涼三蔵曇無讖訳の(*訳者の名前は先述『広辞苑』の解説と共通する「参照者注」)さわりの現代語訳を試みる。
如是我聞一時仏在王舎大城耆闍 崛山是時如来遊於无量甚深法性
諸仏行処過諸菩薩所行清浄是金 光明諸経之王若有聞者則能思惟
かくのごとくわれは聞いた。 釈迦さまにおかれては、王舎城の耆闍崛山におられた時に
限り無く尤も深い法の性品であるところの多くの御仏の行かれた場所に同じく遊ばれたのであるが、菩薩よりもすぐれ、行いが清らかであった。 この金光明経は、あらゆる経の中の王であるので、この経を聞いた者はこのように考えることが出来る。
无上微妙甚深之義如是経典常為 四方四仏世尊之所護持
東方阿閦 南方宝相 西无量壽 北微妙声
我今当説懺悔等法所生功徳為无
有上能壊諸苦尽不善業
この経はきわまりがなく、微妙であり、多くの深い意味がおさまっていると。
このような経は如何なる場合でも四方の四仏さまにおいて守られているから。
東方の阿閦仏 南方の宝相仏 西方の無量壽仏 北方の微妙声仏であらせられる。
我いま当然に懺悔する法を説くとすれば、此処に生まれでる功徳こそはこれにすぐるものないほどに荘厳である。
現今同宗の僧が唱える経とは言い回しは異なると思うが、意味は共通すると思うものである。(以下残念ながら時間とスペースの都合もあり割愛)。
[2007年04月11日12時18分]
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