1200 信長殺し、光秀ではない 19

犯人

 京都地区のカリオン司祭は、
「6月20日(日本暦六月二日)、明智軍は、銃器の火縄に点火して引金に挟む事を
命ぜられ、槍も鞘またはキャップ代用の藁を解かれ、臨戦体制で進軍を命ぜられた。
そこで兵士は、これは織田信長の命令によって信長の義弟(これは間違い)にあたる
三河の王徳川家康、及び、その部下を一掃するものと考えた」と、この当時、その報
告書を出している。
 やはり上洛してきた謎の一万三千は、明智の寄騎衆か、または丹波亀山衆に間違い
ないようである。
 寄騎衆といえば、高山右近をはじめ、みな信者か、さもなくば細川のように(信徒
同様に思ってくれ)とバードレ(師父)達に宣言するような者達ばかりである。もし
丹波亀山とすれば、これまた内藤ジョアンの旧家来達ばかりで、カリオンのいる京都
のドチリナベルダテイラ(天主聖公会堂)を、かつては、疎開させるために、足しげ
く出入りしていた連中である。どちらも、みな信者だから、教会へ顔を出していた事
は間違いない。
 なにしろ本能寺から一町とない距離である。しかも、当時としては、京都では唯一
の三階建。この時代としては高層建築物である。
 本能寺の森のさいかち林にも、木登りをしていた者もいたろうが、首脳部は、この
教会堂の三階に張り出されたバルコニーに登っていたことは間違いない。事によった
らカリオン達から、南蛮眼鏡と当時呼ばれていた望遠鏡を借りて、それで本能寺を見
おろしていたかも知れない。
 だから彼らを、カリオン自身は直接に見てもいるし、たどたどしい言葉で双方で話
もしている。つまり、
「三河の徳川家康が、身の廻りに百余名しか引きつれずに上洛してきているから、こ
の際、これを一掃するのだ」と、いった話は、カリオンの想像ではない。直接に、こ
の朝、ここで上洛してきた一万三千の首脳部から耳にしている話である。
 日本側の史料では、信長と家康は相提携して、極めて仲が良かった事になっている。
家康が、信長に狙われた話など従来どこにも出ていない。
 だが、百余名の家康を狙うのなら、信長は手軽に上洛してきたのも判るし、家康だ
って晩年になって老獪になったのではなく、勿論、若い時から、その片鱗はあったろ
うから、信長が抹消したがったとしても無理はない。
 それに裏書きできる事実が、後から出てくる。

 この二年後、家康は織田信雄を助け、秀吉と愛知県の小牧長久手で戦って和平した。
だが、いくら求められても上洛はしていない。「羹の熱汁に懲りて、冷たい膾さえも
吹いて食べる」という諺があるが、どうも「前の車の輪がとれて転がるのを、後ろの
車は眺めて用心する」という譬えもある。どうも、この天正十年六月に何かがあった
のではあるまいか。この時‥‥よほど懲りた形跡がある。
 だからこそ、長久手合戦の二年目に、秀吉の妹(朝日姫)が、せっかく長年連れ添
った副田甚兵衛と別れて嫁入りしたのにも、家康は腰をあげず、やむなく十月に、秀
吉の母が表向きは娘の見舞いとして、実質的な人質となって岡崎城へ行き、そこで初
めて交換に上洛するのである。
 これだけ用心するのには、前例があっての事だろう。さて、それとは別に、その不
在中、本田作左衛門は、秀吉の母や妹の住む御殿の周囲に枯柴や薪を積み、いつでも
焼き殺せる仕度をしていた。
 このため本田作左は、後に秀吉の激怒をかい、家康は彼を流罪処分にしてしまうの
だが、作左の目からみて、家康は、長久手合戦の事より、その前に遡って、
「何か秀吉に殺されても仕方のない事」があったのではあるまいか。もちろん六月二
日の朝は、家康は堺にいた事になっている。だが、である。
 なにしろ、異邦人のカリオンの耳にまで、「信長が出陣前に一掃しに来た相手は、
三河の王である」と入っているくらいなら、当人の家康の耳へは、もう早くから届い
ている筈である。知っていないわけはあるまい。
 家康にすれば難しい立場であったろう。噂に脅えて早目に引き揚げては、信長を頭
から信用していない事になってしまう。そうすれば、もし今は噂であっても、それが、
やがて本当にもなりかねない。すると、これは命取りである。
 といって噂を笑っていて、それが事実であったら、僅か百余の家来しか伴っていな
い立場では如何せん、もはや万死に一生しかない。

 この場合の究極の安全策は唯一つである。
「先んずれば人を制し、遅るれば人に制せられる」という格言の実行である。もちろ
ん自力では、なんともならない。苦肉の策ではあるが他家の者を援用するのである。
まあ当今の言葉で言えば、代理というか下請けでもあろう。
 これで家康に白羽の矢を立てられたのが、明智光秀の家老の斎藤内蔵介という見方
もできる。確定史料はないが、光秀の支城の坂本城の城代が、光秀の娘婿の明智秀満
であるなら、(勝竜寺城代は溝尾庄兵衛)本城丹波亀山の本物の城代は、この斉藤内
蔵介しかない筈である。
 彼が亀山城代ならば、六月一日の夜、まだ光秀が降雨のため、下山していなくても、
一万三千を集めて引率して出陣できる立場にあったと思える。
 そして、この事件において、彼が他に先駆けして働いた事は、誰の目にもついたら
しく、<言経卿記>の六月十七日の条にも、
「日向守の内、斎藤内蔵介は、今度の謀叛の随一なり」と折り紙つきで明記されてい
る。
 そして、その日に内蔵介は秀吉のために探し出されて、京都の町中を引き廻しの上
で、六条河原で断罪にされた。
 だがである。
 この内蔵介の娘の阿福が「春日局」という名前になって、江戸城の事実上の主権者
となって、やがて現れてくるのである。
 俗説では、秀忠に、家光が生まれた時、然るべき乳母をといって一般公募をしたと
ころ、京で彼女が応募をして採用になり、江戸へ行って、乳母役になったという。
 だが「謀叛随一の斎藤内蔵介の娘」と判っていて採用するのも変だし、京と江戸で
は面接もできない筈である。つまり公募というのは嘘であって、初めから春日局は、
斎藤内蔵介の娘であるからこそ、採用が決まっていたのである。
 ここに隠された問題がある。
 そして、普通の乳母ならば、乳の需要がなくなったら御役後免で戻されてしまうと
ころ、彼女に限っては、六十五歳で没するまで、徳川家の一切を仕切ってきた。俗説
では、家光の竹千代時代に、彼女が駿府へ行って家康に交渉して、国松を立てようと
する二代将軍の秀忠と、その室を押さえ、ついに家光を跡目相続させるのに成功した
からだという。
 だが家康は、どうして自分の倅やの嫁よりも、彼女の言う事の方を聞いたのであろ
うか。やはり斎藤内蔵介の娘だったからであろう。
 つまり家康が、それまで無事にいられたのも、ひとえに斎藤内蔵介が蹶起して信長
を討ってくれた為であり、六月四日に岡崎へ戻ると、本城の浜松へは帰らず、すぐ出
陣の準備をして十四日には尾張の鳴海まで兵を進め、そこで二十一日まで、もたつい
ていたのも、肝心な内蔵介に死なれてしまった為に、計画に齟齬をきたした為ではな
かろうか。
「自分は徳川家を救い、徳川家の為に死んだ斎藤内蔵介の娘である」という自負心が
なければ、春日局のように、あんなに生涯、独断専横の振舞いができるものではない
し、又、徳川家光をはじめ大老、老中とても、単に、ただの乳母だったら、あんなに
好き勝手をさせておくわけもなかったろう。
 権力の蔭には、何かが潜んで隠れているものである。

 斎藤内蔵介が、光秀を謀叛の名義人にしてしまった「ユダ」の由縁は、まだ他にも
ある。
 寛政六年甲寅十月書き出し写しの<蜷川家古文書>によると、「斎藤内蔵介の母は、
蜷川(になかわ)道斎の妹。蜷川家というは、京の角倉(すみくら)一族にて、その
蜷川道標に、内蔵介の妹の栄春も嫁ぐ。これ寛文の頃の蜷川喜左衛門自筆の書付けな
り」とある。
 細川藤孝が、長女伊也(いや)を吉田兼見の倅の兼春(かねはる)に再嫁させてい
るが、その兼春の妹が縁づいているのが角倉了以(すみのくらりゅうい)の弟で蜷川
寛斎である。みな内蔵介と一族である。
 後に徳川家康は、斎藤内蔵介の娘の阿福を、春日局にした上で、この角倉に対して
も「角倉船」とよばれる海外貿易の特権を許し、今のベトナムからフィリピンまでの
通商を一手に許可した。やはり斎藤内蔵介への報恩と受け取れぬ事もない。
 さて、斎藤内蔵介の妹で、栄春の姉にあたる者がいる。これが四国土佐の長曽我部
元親へ嫁いでいた。つまり斎藤と長曽我部は、義理の兄弟になっていた。
 ところが、その「長曽我部征伐の命令」が、この時点に於いて、信長から出されて
いた。
 信長の三男の織田三七信孝を主将にして、丹羽長秀、織田信澄が副将となって、四
国へ渡海すべく、五月十一日から大坂、住吉に兵力を集め、二十一日から大坂城にあ
って出動準備をなし、六月二日に出帆する事になっていた。
 三年前に建造された七隻の織田艦隊の他に、その後に新造された大船も、住吉浦に
威風堂々と碇をあげんばかりに並んでいた。
 ところへ突如として持ち上がった本能寺の変で、今や出帆せんとしていた艦隊は混
乱をきわめ、船から身を海中へ躍らせて脱走する者も相つぎ、出港は見合せとなった。
信孝たちは、ひとまず大坂城へ引き上げた。
「四国征伐をくい止めるため、長曽我部の義兄にあたる斎藤内蔵介が、その主君の明
智光秀をつついて謀叛をさせたのらしい」という噂が、六月五日になって、大坂へ聴
こえてきた。
 そこで信孝は、丹羽長秀と相談して、
「もし光秀の謀叛とあらば、その娘婿にあたる織田信澄は、なにしろ昔、信長に背い
た弟の武蔵守信行の忘れ形見ゆえ、危ないから早めに始末しよう」という事になった。
すぐさま両方から手兵を出して、同じ大坂城内の二の丸の千貫櫓にいた織田信澄を攻
め殺してしまった。
 そして十一日に秀吉が尼ヶ崎へ着陣し、十二日に大坂の富田(とんだ)まで先手が
来ると、信孝と長秀は残兵をまとめて十三日に合流し、山崎合戦へ臨む事になったの
である。
 つまり当時としては、家康の事は表面には出ず、斎藤内蔵介が、義兄を助ける為に、
資本を角倉財閥から借り出し、四国渡海を妨害すべく、やはり縁辺に当たる細川家の
協力の許に、共同出陣の恰好で、乾坤一擲の博奕をしてしまった。
 だから遅れて上洛して来た光秀は面喰って狼狽したが、公卿達は信長を倒してくれ
て有難いと、畏れ多いあたりからも賞詞が出るし、なにしろ内蔵介は自分の家老だか
ら、とうとう謀叛の名義人に担がれてしまったというのが、まことの実相らしい。
 もちろん、この時、内蔵介が先頭になって、何故謀叛をしたのか、江戸期の各書と
も徳川家に対して気兼ねがあって、はっきり書けないから、
<川角太閤記>では、もと内蔵介は稲葉一鉄の家来で、それが光秀の家臣になってい
たから、一鉄の方で内蔵介の返還を求めている。戻してやれと信長に言われたが、内
蔵介が厭だと言うから光秀が庇って、それを拒んだ。これが理由で、信長に光秀は疎
まれだした。(果ては三月三日に叩かれまでした)そこで内蔵介は、
「もともと、これは、自分ゆえに起きた事だから」と、獅子奮迅の働きをしたのだと
書いてある。
<続武者物語>では「斎藤内蔵介というは良い侍である。ああいう者を召し抱えるの
は、何も自分の為でない。みんな信長様にご奉公の誠を尽くす為だ」と言った為に、
光秀は信長に頭を敷居にこすりつけられ、折檻され、額が割れて三日月型の傷ができ
たという。
 つまり、どちらも斎藤内蔵介が原因で、本能寺の変は起きたのだから、内蔵介とい
うのは、それだけ「価値のある男」だったと宣伝するもので、書かれたのは当然、こ
れが春日局以降のものである事は確実である。


春日局

 後年、関ヶ原の合戦の開始に先だって、清洲に集結していた山内一豊、黒田長政、
藤堂高虎らが、七の字の旗指物で知られた村越七十郎直吉を徳川家康から派遣され、
共に木曽川を越えて岐阜城を攻め落とした事があった。
 その時、美濃への先導役を務めたのが、家康側に加担していた美濃妻木の城主の妻
木雅楽助である。これは明智光秀の妻の弟に当たる貞徳の倅である。貞徳も信長在世
中は光秀の推挙で岐阜城主織田信忠に仕え、伝兵衛といっていた。本能寺の変の後、
彼は隠居しその倅に跡目を譲った。
「雅楽助は、妻木頼忠の名で、天正十年に家督相続すると、秀吉から所領安堵の判物
を貰った」と、これは<寛政譜>に記録されている。
 これをみると、秀吉にしろ、家康にしろ、「信長殺しに光秀が関係ない」ことは、
百も承知だったようである。
 でなければ、美濃の田舎の五、六千石の小領主に過ぎない光秀の義弟や、甥にあた
る者を、あっさり無事に跡目を継がせたりしてない筈である。
 だから後年になって、家康の黒幕を務めた「天海僧正」というのは、実は生きのび
て家康に匿われていた明智光秀の後身であるというような憶測が、世間に流布される
のである。
 つまり江戸初期においては、今日とはこと違い、「信長殺しは明智光秀ではない」
 というのが、定説として堂々と通っていたようである。
 では、誰の仕業かというと、神君家康公が、堺から、斎藤内臓介をつついて挙兵さ
せ、ご自分も伊賀の山中を抜けて岡崎へ戻り、そこから内蔵介救援の三万の兵を率い
て尾張まで出兵したところ、時すでに遅く光秀が敗死し、連絡のとれぬ侭に、内蔵介
は捕らえられてしまった。しかし内臓介は、徳川のトの字も洩らさず自分の胸一つに
畳んで死んでいったから、徳川家としては、それを徳として、彼の娘の阿福をとりた
て「生涯気侭次第」といった扱いで、春日局として権威を張らせ、大奥だけでなく
「寛永通宝」の鋳銭から、政務一切が、彼女の権限に任されていたのだという見方も、
ここに生じてくる。
 これは<寛政十午年二月の鳴海代々由緒書>の中の六代目鳴海兵庫賢信の代におい
て、天海僧正に見いだされて、彼が春日局に推挙された時、
「銭についての故実」を下問され、直接では恐れ入るからと、天海の名で、報告書を
出した兵庫が、その報告書の中の末尾に、明白に書き残している。
「銭とは、万物を買い調え候ところの代物にて、国中を、よく走り廻るものゆえ、
『御足(おあし)』と申し、従って足にはく『たび』も何寸とは云わず、その寸法を
何文と申すも、かくの故にて候」
 と書きだしたるところ、春日局は、この上申書に大いに感悦し、ご機嫌になられて、
老中筆頭の土井大炊頭を呼び出し、新銭の文字、並びに吹座の鋳造所の設営を下命あ
そばされたと、それには詳しく附記されている。
 つまり家光のために「おまんの方」を世話するような、やり手婆みたいな事は片手
間で、それよりも男の老中共を指図し現今の首相のような役割をしていたのが、春日
局その人なのである。

 貞享三年九月十四日の奥付のある小田原城主の稲葉美濃守正則の<春日局譜略>に
よると、
「春日局中年の頃、金竜の懐に入る夢をみしかば、慶長九年台徳公夫人崇源院が江戸
にて出産されるや、民部卿局の奉上によって乳人になる。元和元年、その竹千代君十
二歳のとき、自殺をはかられる。春日局は直ちに駿府へ赴き、侍女英勝院を以て東照
大権現家康公に密告す。よって竹千代君三代将軍家光となる(中略)寛永十八年八月
家光の嗣子生れ翌九月二日に、春日局が抱きまいらせ、大老以下に拝謁を仰せつけら
る。なお江戸代官町に宅地を賜りし春日局は、京都より一族の蜷川喜左衛門を呼び工
事をさせ、この邸にて、寛永二十年九月、病の床に倒れるや、家光公は三度、家綱公
は二度、その代官町へ見舞にゆかれ、尾張、紀伊、水戸の御三家はもとより、諸老中
は、日夜ここに詰めかけ、京の御所よりも勅使下向慰問あり、十四日ついに六十五歳
をもって歿す」という有様であった。
 まだ朱子学の渡来する前で、女権が栄えていた頃とはいえ、これではあまりにも奇
怪すぎる。そして春日局は五十四歳の時、他の大名は次々と取り潰したり減封してい
るのに、豊前小倉十万石であった細川家の当時、隠居の忠興が「亡父斎藤内臓介と刎
頚の交りがあった知音(ちいん)である」と称し、別に何の手柄もないのに、強引に、
肥後十二郡、豊後三郡の合計五十四万に加増移封させ、その倅の細川忠利を、肥後熊
本城主にしてしまった。
 これをみると「信長殺し」に、細川が直接加担していた事は、やはり疑いようもな
い。
 しかし、春日局が、単なる乳母だったか、どうだったかということは、これは別に
問題がある。これは当時の官名の一つであるが、別に「乳母」が名乗るべき官ではな
かったからである。これは、この信長殺しには直接関係がないから、<正説・徳川夫
人>という本で解明するつもりである。

 さて、現代の歴史家の説くものでは「戦国時代の女性は哀れであった」の一本槍な
のであるが、はたして本当は、どうだったのであろうか。
<内閣蔵本>の中に、徳川四天王の一人の<本多平八郎忠勝聞書>というのが入って
いる。「これは寛政五丑年に忠勝の子孫の本多忠顕が、御書院に於いて披見して、祐
筆に写し取らせたもの」という註がついている。町の草稿書きがリライトしたもので
ないから、信用できる本物と思う。この中から、原文の侭で引用すると、「遠州中泉
御殿に被為入御意録」という中に、
「武士の女房は上臈(じょうろう)めきたるより、少し顔付あらあらしきか相応なる
ものなり。古へ武道を専らにせし世は、女の容色の第一とする大切の眉毛を剃落し、
顔あらあら敷く見ゆる仕方、女も武を専らにせしなり。銘々、戦国の時は、女共の合
戦における働きは、今時の男子の働きより勝れしなり」とある。
 今の歴史家の説くようなものとは、全然違っている。
 男女同権どころか、女のほうが戦さ働きでは勝っていたと書いてある。
 彼は「徳川に過ぎたるものが二つあり、本多平八に、からうしの兜」とまで謳われ
た豪傑である。その剛勇武者の平八郎が「強い」と折紙をつけるのだから、現代の女
性のように口ばかりでなく、もっと強かったのであろう。
 さて、前述したような「戦国時代の女性は、みな哀れで悲しかった」などという、
お涙頂戴式の歴史家の説くものに惑わされていては、本当の事が判らなくなるが、
「当時の女性は現代の女性よりも強かった」という同時代人の平八郎の体験談を認め
るなら、ここで想起されてくる一人の女性がいる。
<美濃旧記>には、その人の名は「帰蝶」とある。だが、彼女が育てた中将信忠の幼
名が「奇妙丸」(明智光秀の長子十五郎の弟の方がやはり「白奇丸」からして、私は
「奇蝶」)と、その名を推定する。
 天文十八年(1549)十五歳で、一歳年上の織田三郎信長の許へ彼女は嫁いでき
た。
 美濃から来たから、当時のことゆえ、「美濃御前(みのごぜ)」と呼ばれたが、
「み」の字は敬語に通じるから、夫の信長は上を略して、ただ「濃御前」とか「のう
の方」と呼んでいたものらしい。
 信長が尾張の当主になれたのも、美濃国主の娘の奇蝶を妻に迎えていた為である事
は、あまり知られていないが、<信長公記>第一巻の「村木の取出攻められしの事」
には、
「正月十八日、那古屋城留守居に、斎藤道三より、安東伊賀守大将にて美濃より出陣。
二十日に那古屋近在に布陣。信長出でて、安東伊賀に厚く礼を仰せられ」などとと出
てくる。
 こういう状態であるから、里方の権力を笠にして、彼女も「女天下」だったらしい。


安土城

 さて、天正十年頃は、どうかと思うと、<信長記>に、
「安土城の留守居役を仰せつかっていた蒲生賢秀が、六月二日の夜、とても、この分
では守りきれるものではないと考え、自分の居城の日野へ使いを出して、牛馬や人足
を呼び、翌三日に、信長の上臈衆やお子さま達を、避難させた有様」が出ている。
 この中に、信長の長女で岡崎三郎信康に嫁ぎ、戻って来た後は独身で過ごしていた
五徳姫が、混じっていたのは<徳川実記>にも出ている。
 だが、奇蝶は入っていない。日野別所へは疎開していない。ぷっつり消息を断って
しまっている。
 安土城は、六月五日に明智光秀が入城し、七日に、ここで勅使吉田兼見を迎えた。
八日に、ここを出発するにあたり、光秀は長女の婿である明智秀満に坂本衆三千を預
け、安土城を守らせた。しかし十三日の山崎合戦の敗報が届いたから、翌十四日、秀
満は、その三千の兵を率いて坂本城へ引揚げた。
 講談でいう明智左馬之介湖水渡りの場面であるが、まさか広大な琵琶湖を、三千の
将兵を率いて泳ぎ渡れるものではない。実際は湖畔に道をとって帰ったのである。
 そして翌十五日。織田信長の二番目の倅にあたる、昔の茶筅丸が成人した織田信雄
が、日野の蒲生の倅で、後に氏郷となった忠三郎賦秀(のりひで)と共に迫った。
 さて七層建てで金銀に朱を以て飾られた天下一の名城。安土文化の殿堂である安土
城は、この日に焼け落ちた。
<甫庵太閤記>と<秀吉事記>は、明智秀満が退去の際に放火したものだといい、現
在、安土町の小学校や、町役場は、この説をとっている。つまり「悪い奴は、光秀だ」
といっている。<川角太閤記>と<豊鑑>には、何故か、この大事件は一行も記され
ていない。
<兼見卿記>には「安土のお城は十五日に焼けおわりぬ」とだけある。
 しかし、この十五日というのは、坂本城へ戻っていた明智秀満が、堀久太郎秀政に
包囲され、その異父兄で先手大将として攻めてきた堀直政に、国行の刀、吉光の脇差
などの古美術品を目録に添えて贈り、、光秀の妻女や自分の妻子を刺してから、煙硝
に火をつけ、城もろともに灰になった日である。
 だから、明智秀満が火をつけたのは安土城でなく、自分の坂本城の方である。自殺
の為である。
 なにしろ日本側史料は、光秀に関しては虚偽か黙殺かで、みな逃げをうち、まこと
に始末が悪い。
 しかし天正十一年正月付の<ルイス・フロイス書簡>によって調べてみると、
「織田信長の建てた安土の巨大な城は、美術博物館のようにすばらしいものである。
六月二日に、父の信長、そして兄の信忠が死んでいるから、順番からゆけば、今や相
続人は次男の織田信雄である。それなのに彼は、六月十五日に、自分の物となる筈の
安土城を、そこに敵兵が一人もいないのに攻めた。そして放火した。焼いてしまった
のである。彼は気が変になってしまったのか。そうでなければ、これは生まれつきの
愚者という他はない。ローマ市街を焼払った暴君ネロには、まだ火災を愉しむという
目的があった。それなのに信雄は、安土城に自分で火をつけながら、顔を覆って、こ
れを見まいとしていたという。だから目的もない。理由も判らない。全く痴人のなせ
る愚挙という他には、私は、その言葉さえ知らないものであります」
 と、いと明白に「放火犯人は、織田信雄」である事が指摘されている。

 まったくのところが、これでは参ってしまう。日本側に残されている史料だけでは、
皆目何が何やら判らない。ひとつ間違えると、ぬけぬけと、あべこべの事が、さも尤
もらしく書かれてある。勿論、私も日本人だから、安土の町の人々のように、日本の
史料を信じ、明智秀満を放火犯人とはしたい。だが、そうすると、従来の日本史料の
ように、信長殺しまで光秀にされてしまう。異邦人の書簡の方が常識的には正しいと
いうのも情けない話である。
 なにしろ坂本城で一族もろとも最期を共にする時でさえ、「天下の宝を灰にすべき
ではない」と、光秀秘蔵の郷の義弘の脇差だけは、冥土で渡すからと身につけて自爆
したものの、あとの美術品は一切すべて城外へ出し、死んでいったような律儀者の秀
満が、前日の十四日に安土を立退くときに「行きがけの駄賃」と放火して行ったとは、
とても、それは考えられない話である。
 また秀満なら放火したにしても、まさか焼け落ちるまで止って、それを検分してい
る暇はない。急いで引揚げねばならぬから、その侭で立ち去ったとみるべきである。
そうすれば、当時は天下一の城下町といわれた安土だから、まんざら人間が誰もいな
かったという事はない。秀満らの退去の姿が見えなくなったら、人情としては、土地
の者が駆け寄って消火してしまっている筈である。
 それなのに、安土城が完全に焼け落ちてしまったというのは、織田信雄が二万の軍
勢で城を囲み、誰にも消火をさせず、じっと焼け落ちるのを検分していたからに他な
らない。
 だから「安土放火犯人」については、日本側の史料は、みな嘘で固めてあって、フ
ロイス書簡の方に、どうしても真実性がある。

 さて「天下の財宝」と「安土文化の美術品」を一物残らず焼失させてしまった、こ
の文化への叛逆人は、なんぼなんでも世間の指弾を受け「相当の処罰を受けたろう」
と、今日の私などは想う。ところが、実際は、そうではない。あべこべなのである。
 安土城が焼け落ちてしまって集まるところがないから、その十二日に尾張の清洲城
に、織田家の重臣の柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の四人が集った。これ
が、いわゆる天正十年六月二十七日の清洲会議である。
 問題の信雄も、六月十三日に秀吉軍に加わって山崎合戦で明智軍を破った信孝も、
別室で、重臣会議の結果を待っていた。
 信長の跡目、つまり織田家の相続は、秀吉が強引に主張して、二条御所で討死した
長子信忠の遺弧の三法師を押しきった。
 しかしである。信長の遺領の配分となると、三七信孝と三介信雄とでは、誰がみて
も手柄が違う。信孝は曲りなりにも親の仇討ちをしたという名聞(みょうもん)があ
るのに、信雄は、伊勢にいて、山崎合戦には加わらず、土山に本陣を設けていただけ
で、十五日に、明智秀満が兵を率いて空っぽにした後の安土へ向い、そこで安土城を
焼いてしまったきりである。
 それに、この二人は「信雄を兄として次男」「信孝を三男とみて弟」の扱いをする
が、同年生れである。といって双生児ではない。生母が共に違うだけである。つまり
互角である。だから誰しも、手柄のある信孝の方に、遺領の配分は多いものと目され
ていた。(四歳違いの説もある)
 跡目の信忠の生きていた頃は、その同母の信雄が、ぶがよかったが、信雄の母は地
侍生駒将監の後家娘で死んでいるし、信孝の母は神戸城主の小島民部の実母であった。
 信孝の方が有力だった。ところが重役会議の結果は、「三介信雄様の御手柄につき
尾張一ヵ国を進呈し、ここに伊勢、尾張二国のご太守のこと」
「三七信孝様は、山崎合戦にての御働きにより、美濃一国をもって、そのご太守のこ
と」
 と、二倍の格差が、重臣達によって、つけられてしまった。
 秀吉と合流して、山崎円明寺川合戦で光秀の軍勢を破った手柄より、何故、安土城
を焼き落とした方が、値打ちがあるのか。
 フロイスは、愚人の所業と嘆き悲しむのに、何故、重臣達は、それを高く評価した
のか。
 それに「安土城が焼け落ちるまで見張っていた事」自体が、どうして、そんなに重
大な価値があるのか。何も、これに関する資料は残っていない。
 ただ判る事は、この重臣会議に集った者で、秀吉以外は、その後、三年と生き長ら
えられた者は、いないということだけである。
 こうなると「ケネディ殺し」とそっくりである。

「柴田勝家」は、翌十一年四月二十四日に、秀吉に攻め落とされ自決している。
 「池田恒興」は、翌々十二年四月九日、秀吉により岡崎攻めを言いつけられ、その
子の元助と共に、岐阜と大垣城主になったばかりで死んでいる。勿論<太閤記>では、
進んで突入、敢えなく討死となっている。しかし鉄砲で何者かに狙撃され災難で死ん
でいる。敵の徳川方でも「拾い首」の扱いになっている。
「丹羽長秀」も、翌々々天正十三年四月十六日。秀吉から、越前一国の他に加賀の能
美、江沼の二郡を合せ、百二十三万石の大名にしてもらえて、喜んだのも束の間、病
死している。「毒を飼われた」謀殺と言われている。旧臣長束正家の仕業で、彼はこ
の手柄で秀吉に取立てられたという。
 さらに、それが証拠としては、跡目の丹羽長重は<当代記>や<寛政譜>によれば、
加賀松任城四万石に減封されている。百二十万石から、僅かに三十分の一以下扱いと
いうのは、あまりにも計画的でありすぎる。
 織田信孝も、天正十一年四月二十九日。
 その生母や娘を秀吉に磔付にされたあと、尾張の野間で自尽を命ぜられ、死んでい
る。
 誰も彼も、天正十一年から十三年までの間の、日こそ違え、当時は、みな四月に死
なされている。四月とは、なんの月であろうか。殺人の月にでも当っているのだろう
か。
 ただ一人、織田信雄だけが、安土城を焼いた手柄なのか、秀吉に殺されずに残る。
 しかし小田原落城後、秀吉は、信雄の領地を没収して追放処分にした。しかし<桃
山分限帳>によれば、また呼びだして「棄て扶持一万七千石のお噺し衆」にしている。
晩年になると、秀吉も、少しは優しくなったらしい。
 だが、最重要文化財である安土城を焼き払ってしまった事が、秀吉にとって、そん
なに気兼ねをせねばならぬ事だったのか。本来なら秀吉の性質上、とっくに消されて
しまってもよい、この男だけが、秀吉の死後まで生き残る。
「関ヶ原合戦にて西軍に加担したから失領」と、
<慶長見聞録>にはある。だが、しかし、なぜか「徳川家康も彼に、改めて領地を贈
っていること」が、
<東武実録>には出ている。やはり安土城を焼き払った事への感謝であろうか。
 といって、この時代、「ペストが流行してきて、安土城に、その菌をもった鼠がい
たから、焼き払ったのは、衛生上有益であった」というのでもないらしい。
 つまり、其処に誰かがいて、その者が、もし生きていたら、秀吉にしろ、家康にし
ろ、みんなが迷惑する心配があったせいらしい。