1199 信長殺し、光秀ではない 18

             犯人はあなた、なのか

買物

「澳葡貼出通告(マカオニハリダシツウコクス)、禁懸蒋旗蒋徽(ショウカイセキノ
ハタヤキショウヲカカゲルナ)」
 壁新聞である。薄青色の石塀に畳一枚ぐらいの大きさで貼ってある。
「美蒋特務仍牙擦々」とか「紙上虚文並不等於現実」などという文字が、飛び出すよ
うに大きく書いてある。見当をつけて拾い読みしてみると、
「ボン・ディーア」とコンニチハがかかった。
 振り返るとシンコである。眼鏡をとって化粧などしているから、初めは、ちょっと
迷ってしまい、誰かと思った。別に、ついてこいと彼女に言われたわけではないが、
向こうが声をかけてから歩きだしたから、つい後をついて壁新聞の側を離れた。
 なんだか群がっている中国系の連中に、後指でもさされ何か言われているような感
じだった。

 ボーイに食事の時に聞いた話では、孫逸仙が若い頃に、ここで医院を開いていた邸
跡で、今では「孫中山博士記念館」といわれている建物の鉄扉と、ブロンズ銅像の背
景になっている青天白日の大きな鉄の紋章が、昨日すっかり市民の手で撤去されたそ
うである。
 なんでも孫文先生は良いのだが、紋が偽国旗だからいけないそうだ。言われてみれ
ば、中共系百貨店のちょうど斜め反対通りになっている国府系の、参事処に翻ってい
た旗も、昨日からは、むしりとられたのか出ていない。もし閉鎖されてしまったら、
ここから台湾へ行く旅行者達は、英国領の香港まで出て、そこで査証を受けるしかな
いだろうと、旅行者の立場だから、すぐそんな事ばかり考えてしまう。
 彼女はと、振り返ると、いつの間にか、金属店の飾窓に立ち、頭を押しつけるよう
覗きこんでいた。
 もうじき、このマカオともお別れだから、何か贈ってやってもいいと、そんな考え
もあった。だから、後ろへ引き返した。この辺の店は地金屋も兼ねているから、正面
には鉄格子をはめた帳場があって、「足金何円」といった日々の相場表が白墨で出て
いる。足金というのは二十四金、つまり純金の意味だそうである。
 札入を出して、私が支払うという仕草をみせたら、彼女は遠慮したのか、陳列ケー
スの中から、細い透かし彫の入ったのを選んだ。だが、さて買う段になると、「エー
・カーロ(高いわよ)」と、店の広東人には遠慮気兼ねもなく、値引きのかけあいを
した。
 金というものは公定価格があるから、相場が決まっていて掛引はないものと私は思
っていたが、さて決着した値段は、二割を越える割引価格だった。
 まるで丸薬でも入れるような、真紅のセルロイドの丸いケースに、指輪が納まって
渡されると、店を出るとき私のポケットへ彼女は入れた。
 手提げを持っていないから、自分が手に持って歩くのは厄介だからと、それで面倒
くさがって持たせるのかと思っていたら、彼女は私の腕に縋りつき、暫らく歩いてか
ら、変な事を言った。
 早口で、しかも、ふいに言われたりすると、なんだか、さっぱり外国語というのは
聞き取れないものである。
 こちらが聞く気で構え、耳をすまして相手の口許を見つめ、自分も、それをオウム
がえしに、すぐ口の中でもう一回発音し直さない事には、私なんかは、ちょっと意味
がとれないのである。だから、変な事らしいと感じたのも、彼女が顔を赧らめたから
である。
 何を言ったのかと、つい興味にかられ、
「メ・ディーガ(なんだって‥‥)」と尋ねてしまった。
 すると、「ゾルテーイロ(単身者)なんでしょ」と、今度は女教師らしく、身許調
べする口調で言った。
 滞在期間が切れて私が間もなく引上げるのは、彼女も知っているから、いまの指輪
のお返しに、何か土産でもくれるつもりだろうと思った。好意は有難いが、私は持っ
てきた古史料だけでアルミのトランクに二つもある。だから断わるつもりで、「スイ
ン(そのとおり)」と答えた。そして、余計な心配はしてくれるなと、続けるには、
どう言ってよいか難しかったから、首を振って、おおいに言外に説明をした。
 すると、彼女は言った。
「ヴァーモス(行きましょう)」と。
 だから、私は「オーンデ(どこへ)」ときいた。
 すると女教師は「シーガメ・ヴーニヤ・ポール・アキー(私についていらっしゃっ
たらいいの)」と先に歩きだした。
 郵便局の方へ向かっていくから、手紙でも出すのかと、ついていったら、角を曲が
った。
「‥‥ヴァーモス・ア・イグレージヤ(教会へ行きましょう)」
 彼女は微笑みかけた。私はぞっとした。もう少し前なら、このマカオの教会へ応分
の浄財を捧げてもよい心地があったが、つい一昨日のこと、カジノですっかり負けこ
んでしまって、心細くて余裕なんかなかった。
 だから、財布をポケットから取り出し、ゆっくり相手にわかるように、
「シント・ナウン・ア・ポデール・オブセキアール(悪いけど、とてもつきあいかね
る)」と言うつもりだったが、最後を間違えてセキハンと発音してしまった。だから、
意味が通じなかったのか、彼女は怪訝な顔をした。言い直そうにも、やや上がってし
まって、財布を上から叩いてみせた。
 すると彼女は首を振った。そして私に寄り添ってくると、さっきポケットへねじ込
んだ赤いセルロイドケースを取り戻すように抜き取った。
 金がないとわかったから、危なくって預けてはおけないという気持ちなのかと、私
はそんな風に思った。
 だが、一度買ってやったものを、まさか持ち逃げもしまいものをと、私は苦笑いを
した。
 それなのに心配そうに、彼女は、中にあるかどうか確かめるように蓋を開けた。そ
して、ほっとしたように、摘み上げると私に見せた。
 あって当り前ではないかと、私が鼻白んだ顔をしてみせると、その指輪を私によこ
した。
 金がないのなら、無理しなくてもよいから、これを先刻の店へ持っていって、返品
してこいと言うのかと思った。
 気持ちは嬉しいが、そこまでしなくても差し支えないからと、私は首を振ってみせ
た。
 それなのに、彼女は悲しそうな顔をした。
「ファゼール、なんとか」と言った。
 後のほうは小さく呟いたから判らないが、ファゼールというのは、ポルトガル語で
は何かしたいとか、して欲しいといった言葉である。そこで、「ケー・クール(何が
したいか)」と聞き返してやった。すると、彼女は私に指輪を持たせると、それを自
分の手にはめる恰好をさせ、そして低くゆっくりと、「カザールセ・コン(結婚した
い)」と囁いた。言葉より身振りで判った。
 なんだ。そうだったのかと、私はやっと納得した。なにしろ文字だと、ゆっくり睨
んでいられるが、話というのは、すうっと消え去っていく。だから、うまく掴めもで
きず、わかった顔をして、うなずいても、あまり自信はもてない。しかし、指輪をは
める仕草からして、どうにか意味はのみこめた。介添人にでもなってくれと言ってい
るのかとやっとのみこめた。そこで「ナウン(うん)」と承諾した。
 すると、ほっとしたのか、彼女は多弁になった。
 マカオから脱出する為の結婚だとも、言い出した。十二月の暴動から、目にみえて
中国人が強くなってきて、ポルトガル人の彼女なんか、うっかり学校では、生徒も叱
れないというのである。
 父兄の中国人が、前とちがって文句をすぐ言いに来る。とても手を焼くとこぼした。
そして状況が一変してしまって、物を買いに行っても、商店の態度が前とは違ってき
た。とても住みにくいというのだ。
 なにしろ、本国へ戻りたいにも、親代々ここで過ごしてきた彼女には、向こうに親
類や身寄りがいない。だから何処かへ行きたい。出るためには、ビザを取るためにも
結婚の必要があるというのだ。
 そうしなければ、もうマカオにいては窒息しそうなくらいに、すべてが息苦しいの
だと彼女は言う。話をきいて本当とは思った。
 なにしろ私が通っている図書館だって、中国人の工員が不就労働管理をしていると
かで、割れた窓の下に、硝子を入れた木枠の箱は置いてあるが、まだはめられていな
い。温かい所でバナナが実っているような土地柄だから、よいようなものの、一月だ
というのに吹きっ曝しの侭である。まぁ彼女は女性だから別扱いかもしれないが、ポ
ルトガル人の男は、煙草売りさえも、不買同盟をやっているとこぼし、マカオなら香
港ドルの一ドル、つまり日本円で七十円のラッキーストライクを、香港から一ドル五
十セントで買わせている。
 一月前までは、支配者として四百年の歴史を保っていたポルトガル人が、今では、
すっかりいじけてしまって、ひっそり閑として、あまり表も出歩いていない。だから
彼女が息苦しくて、こんな狭い土地は厭だ。何処へでも行きたいというのは、判らな
いでもない。
 しゃべっているうちに、彼女は時計を見て、「アルーノ・タールデ(午後の生徒達
‥‥)」と狼狽してみせた。
 だが、それでもまだ「こんな具合だと、吾々ポルトウゲースは、そのうちに、この
マカオから一掃されてしまう」と口にした。
「ナウン・ディーガ・タル(そんな事、言うもんじゃない)」
 と、私は慰めてやったが、彼女は首を振って、「アバンドナール(一掃)されてし
まうわよ」と険しい顔をしてみせた。しかし、やはり昼からの課業が気になるのであ
ろう。生徒を放りっぱなしにしておくわけにもいかないとみえて、
「オウトウ・ヴエセ(じゃあ、後で‥‥)」と、作ったように笑って、急ぎ足で、灰
色の石畳の道を昇っていった。


降嫁

「一掃する」
 という言葉を、口の中で日本語になおして繰返すと、どうしても、すぐ思いたって
くるのは、天正十年の五月二十九日に、はたして何を一掃しに、信長は上洛してきて、
本能寺に入ったのかという事になる。蒸し返すわけではないが、信長は、その四年前
の天正六年の四月に、在任してまだ足かけ六ヵ月目にすぎない「右府」を、さっさと
弊履のごとく投げ棄ててしまった。愕いた禁中では、時の関白の藤原晴良が、直ちに
に自分が退官して、その位を信長にすすめた。「右府」の上の官位としては「内相」
を、その昨秋に放り出した信長には、もはや「関白」しかなかったからである。しか
し、信長にはその「関白」さえも魅力がなかった。これを拒んだ。そして年末になっ
て、信長は九条兼孝をもって「関白」にさせた。「右府」の方も、ずうっと空位には
させておけないから、せめて今しばらくは「右府」を続けてほしいとも懇願されたが、
信長は翌春、自分の許へよく出入りしている二条昭実(あけみ)を以て、これを身代
わりの「右府」にしてしまった。
 実力者の天下人の信長が、何の官位も受けずにいるという事は、禁中としては、堪
え難い脅威であり、圧迫であったのであろう。なんとかして、御所の官位の中へ入れ
させ、安全保証を求めたかったのであろう。
 なにしろ信長は、次々と馬揃えと称しては、観兵式を挙行して武威を見せつけデモ
ンストレーションをやる。時には弓、鉄砲で武装した連中を率いて、御所の中を乗馬
のまま駆け廻って、今にもクーデターをしそうにみせる。大宮びとや女官共が、真っ
蒼になって右往左往して逃げ廻ると、それを面白がって、にやにやと鞍の上から冷た
く笑って眺めている。
 そこで禁中としては、すっかり、ねをあげてしまい、昔、平相国入道清盛しかなっ
た事のない「太政大臣」の官位を、また復活させて、これを信長に捧げ、就任を求め
ようとした。「人臣を極む」という臣下としては最高位である。だから、これならば、
信長とても受けてくれよう。そして御所の一員として自分らの安全を引き合って保障
してくれようと、公卿共は考えたのである。
 しかし、これさえも思惑が外されてしまった。信長は天正十年二月、武田征伐に向
かうために上洛すると、自分に提供されていた「太政大臣」の椅子を、惜しげもなく、
信長派といわれて、いつもご機嫌伺いに来ている近衛前久(さきひさ)を以て当てる
ようにと命令を出した。
 そして、さっさと信濃へ向かい、武田四郎勝頼を討ち、この五月は凱旋してきたば
かりである。それでも信長は、安土へなど一応は立ち戻っていたが、長子の信忠のご
ときは、軍装も解かず、京を見張るよう妙覚寺に待機していた。
 禁中としては、もはや何の対処の途もない有様だったろう。だからこそ、信長上洛
と伝わるや、上御所の尊い身分にかしずく女性は周章てふためいて、お里方へ避難さ
れ、大雨の中を六月一日には、文武百官の公卿がまるで野良犬のように式台前で、持
ってきた進物をつき返され玄関払いをされながらも、必死になって面会強要をしたの
だろう。
 彼らは信長の野望をおそれ、できればなんとかしてくいとめようという努力を、こ
れまでしたきたが、なんの効果もなかったから、この日は自分達の身のふり方を心配
して行ったのかもしれない。しかし信長は、城中に祀ってあった神像を、その一月前
から公開していた。ポルトガル人は、アポロというギリシャ神話の彫刻を流用したも
のだというが、いま愛知県の清洲公園にある銅像よりは遥かに立派であっただろう。
さて天主教派の説く、
「この世に蘇えりたもう神」つまり地上に復活した、現世神として自己主張をうちだ
した信長に、地上の王位を狙う気などは、実際にはなかったろう。
 そこで本能寺へ参集した公卿衆は、自分達の安全を計るために、まさか信長を担ぎ
だすわけにもいかないから、その長子の信忠を、主上の猶子(ゆうし)にでもして奉
戴しようと、その申し込みに行ったのではあるまいか。
 というのは、信長に、御所の勢力を一掃するような不逞な精神があるものなら、弱
体化しきっていた当時の禁中の実力では、いくらでも、前に実行はできた筈である。
だが信長は無視こそしたが、その様な暴挙は敢えて、それまで試みていない。おそら
く源頼朝が鎌倉幕府を開いたように、安土幕府を作るぐらいの下心はあったろうが、
自分が別の皇統を立てるような、そんな考えはなかったらしい。もし、それが漏れて
いたら、時の主上としても、後醍醐帝のように、毛利氏や北条氏に「打倒信長」の宣
旨を出されていただろう。又、そういう動きがあれば、信長が一掃すべく意気込んで
来た上洛の意味もあるが、そうした事実はないのである。
 ただ、禁中としては、今までの経験上、官位を、てんで欲しがらず、勝手に自分が
「神」であると言い出した野放図もない信長を、
「どう解釈したらよいか」「扱ってよいか」前例がないだけに、当てはめる方式がな
く、疲労困憊しきっていたのではあるまいか。なにしろ凡人共には、天才は、得体の
知れぬものである。
 これまでは、なんとか、理解できる存在にしようとした。言いかえれば、信長を手
なずける為に、内相にし、右府にし、その後は関白、太政大臣とあてがっては、失敗
し続けていた。もう、こうなっては、御所中心主義の公卿達にしてみれば、
「近寄って来ないものは敵になるかも知れぬ」といった恐怖観念しかなかった。なん
とか自家薬篭中のものにしてしまわねば怖しいと心配したのだろう。そこで主上にも、
とくと内奏してお許しを賜り、ときの皇女を、信長の倅の信忠にご降嫁させ、
「親類付き合い」という、安心できる線を考え出したのではあるまいか。と想われる。
 信忠には、側妾は何人かいたし、三法師という幼児もいた。だがまだ正式に誰某の
娘をと、嫁取りして決まっているわけではない。だから誠仁親王の妹姫にあたる方の
中から、ご降嫁の案を出したものと、当時の状態からも考えられる。(未婚の皇女は
三人あらせられる)
 そこで六月一日の夕方。
 公卿共がようやく引き揚げてから、すぐに二条の妙覚寺へ信長から使いが出され、
信忠は本能寺へ呼ばれている。
 そして御所については詳しい、京所司代役にあたる村井道春軒も一緒に呼ばれて、
いろいろと信長に聞かれもした。だから、公卿のもってきた話が、嫡子信忠に関係が
あると判る。
 ということは、<言経卿記>には、この日の公卿四十名と信長との団体交渉におい
て、「大慶々々」と権中納言山科言経は、その日記にはつけているが、信長の方とし
ては、それに確答を与えていないものと、考えざるをえないからである。
 だが、なにしろ、その翌朝、信長は本能寺で、信忠や村井春道軒は二条城で、共に
髪毛一本残さず、ふっとんでしまっている。
 死んでしまえば、もう用なしである。
 何も心配することも、気遣いも要らない。
 だから、この日に、公卿共が何を提案しに行ったのかは、すっかり秘密にされてい
る。何も書き残されたものも、伝わってはいない。

 ただ、その四年後。
 これを種に恐喝を働いた男がいる。
 時の皇太子であらせられる誠仁親王に対し奉って、この嚇かしはなされた。
「‥‥親王様は、織田信忠が生きていては、将来ご自分が即位なさるとき、邪魔じゃ
と思われたのでござりましょうな」と、その男は言った。
 そして、じわじわ絡みつき「そんで、あなたさまは、信忠と、その親父さまの信長
を六月二日に京で討たれ‥‥勿論、ご自分は素知らぬ顔をなさって、かねて、ご昵懇
の忠義者の光秀を、殺し屋にお仕立てなされたが‥‥」
 と、いやがらせをした後で、「わしゃ、信長さまに飼うてもらって出世させてもろ
うた男で、天下様には、ひとかたならぬ御恩がある。わしゃ忠義もんだし、それに曲
ったことは好かん。よし相手が、どない豪い方でも、御身分があられたとて、悪い事
をなされた方は見過ごしはでけん。わしゃ、信長様の敵を、おめおめ許しゃあしませ
んぞな。不倶戴天の仇ですがな」
 と、厭みを散々に並べた後で「むかし下の御所、つまり二条御所に奉公しとった雑
掌で、親王様の使いとして、明智光秀の許へ何度も行っとったもんがのう、恐れなが
らちゅうて、あなたさまが光秀に下知なされた時のお書付けを、すぐ火に入れて焼く
ように仰せつかっていながら、忘れくさっとってな、こちらへと届けにまいっとりま
すがのう」とか、
 又は「‥‥いろんな手証を揃えて、あなた様こそ信長殺しの発頭人じゃいうて、も
との清洲からの奉公衆どもが、なんとかしておくれんかねと、わしの許へ願い出てき
て難儀しとるで、もう過ぎ去った事だし、それにあなた様は、えれえ様の身分だで‥
‥いっそ洗いざらい、ぶちまけてしもうて、余が信長父子を成敗させたが、それが何
が悪いちゅうて‥‥ひとつ御書面でも作られたら如何じゃろ」
 などと、手を変え、品を変え尾張弁で、あの手、この手で脅し続けたものらしい。
 この結果が<多聞院日記>に出てくる。
「誠仁親王は、はしかで急死されたとの発表だが、三十五歳の親王様が、子供のよう
に、はしかで死なれるというのは変だと思っていたら、まことは切腹されたとかいっ
て、自決されたのだそうである」という、あの記載になって残されている。
 もちろん、その後に「もう、これで、次の帝位には、秀吉がつくように決ったも同
然だ」と出てくるから、親王を恐喝して自殺させたのは、秀吉その人だという事もは
っきりする。そして、誠仁親王は脅かされて自決をしているから、やはり秀吉が指弾
したように、信長殺しの黒幕は親王。そして忠義者の光秀は、言われるままに働いた
が、結果は、あぶ蜂とらずの有様で殺され、まんまと脇から出てきた秀吉に一切をさ
らわれてしまったのだから、
「誠仁親王はドン・キホーテで、光秀は、サンチョ・パンザだった」という仮定も成
り立ってくる。また、「親王側の里村紹巴がおかしいから」どうしても、そうなると、
誠仁親王が怪しい。そこで光秀がという論理にもなる。


自殺

 しかしである。私のように過去に何回となく自殺を繰返しててきた者の体験からす
ると、恐れ多いが、誠仁親王は、絶対に信長殺しに無関係であられる。
 よく何か事件があって、その当事者が自殺をすると、「死人に口なし」という安易
なきめ手からして、まるで責任をとっての自決。
 つまり「死んで、お詫びをしました」というような解釈を、勝手に都合よくされて
しまう事が多い。
「だけど、そんな事は滅多にない」と私は言いたい。
 他から、「死をもって償わされる」事はあっても、自分から、死をもって償うよう
な事が、はたしてあるのだろうか。私には信じられない。
 自然死というのは、一個の物体が腐朽していったり、腐蝕、腐敗して消滅してしま
う、単なる現象にすぎない。つまり雨樋がボロボロに錆びて孔があき、どさりと落ち
てしまうのも、人間の死も、それ程の大差はないようである。
 また、事故死ときたら、これは偶発的な産物である。全然予期せずにいて、間違い
で死んでしまうものなのだ。いわば、ミルク瓶を手から滑り落させてガチャンと、や
ってしまうようなものである。戦死も、やはり事故死に入るだろう。ナパーム弾にし
ろ、機関銃弾にしろ、向こうが勝手に飛来してきて、ドカンと当たってしまうからで
ある。そりゃあ「生還をきしません」などと言ったり、「死んで御国のために奉公し
てきます」と、勇壮ぶった事は口にして出征をしても、それは覚悟というか「所信」
といったような、その時に醸し出された感情にすぎない。そうでなかったら、出征し
た男子は全員玉砕してしまって、一人残らず未帰還になってしまう筈である。しかし
統計的にみれば、戦死の割合たるや、局地別には全滅の地域はあっても、全体的には、
動員された数に対してはいくら多くても、平均して一割七分は上まわった例はないの
である。つまり「勇躍、死地に赴いた」としても、どうしても必然的に事故死にあい
そうな最前線に出されない限りは、そうむやみと、みな死んでしまうものではない。
 戦記ものなどでは極端に死屍累々たる場景も出てくるが、あれは部分的なものであ
って、一般の戦死というのは、まあ「災難」に該当するような死が殆どである。
 だが、自殺は違う。
 これは間違って、あっと死んでしまうのでもなければ、腐敗菌にとりつかれて、カ
ビがはえてゆくような、そんな死に方でもないのだ。
 つまり自殺とは、「死」という形式による、一つの「抗議」であるし、また「抗戦」
そのものなのだ。
 たとえば、明智秀満が、講談本だと、狩野永徳えがく墨絵の雲竜の陣羽織をなびか
せつつ、坂本城へ戻ると、味方として加勢に来ていた連中を落としてやる。という事
は、自分だって逃げる意志があれば、いくらでも間にあうのに、それをしない。一緒
に死ねる同行の者だけを残して、共に坂本城を爆発させて自殺行為をはかる。やはり
壮絶な戦いの一種である。
 明智光秀が敗死したから、もう駄目だと、前途を悲観して、諦めをつけて死んだと
いうのではない。また、妻の父の光秀に従って、自分も信長を殺し、世間を騒がせた
から、そのお詫びを、死の形式でとったわけのものでもない。あれは、秀吉に対する
反抗精神、つまり最後の決戦なのだ。口惜しいから、その存念を貫くため、死で挑戦
するのである。というのは、もし生きながらえていたら、「信長殺しは光秀であった」
という確認でもさせられるのは目に見えていたから、「そんな馬鹿(ほお)げた事が
できるか」というので、腹を切り、煙硝に火をつけ自殺するのである。つまり自分自
身の意志に反したくないという決断が、絶対に妥協を許さない孤高の精神が、その人
間自体の「自殺」という最後の抗戦になるのである。
 この翌年、賎ヶ岳合戦で破れた柴田勝家は、北の庄へ戻ると、やはり一族郎党を集
め、落ちたい者は落し、自分は腹を立て割りに切って、於市御前はじめ一党の者と共
に自殺する。これだって、何も合戦に勝利を失ったから、自暴自棄になって死ぬので
はない。
「秀吉という男への批難、抗議を、腹を割ってでも、俺は最後まで撤回しないぞ」と
いう心意気を見せるのである。私だって、やるだろう。
 於市御前だって、勝家が好きになって死なば諸共なんて甘ったるいムードではなく
「口惜しさ」の存念を、秀吉に向けて、死を以て挑んでいるのである。

 近頃では「人間の生命は、山よりも重い。尊いものだ(極端なのは、地球より重い、
という。目方をどうして計るのだろうか)」という風潮が盛んである。またキリスト
教が今日まで自殺を禁じているのも周知の事である。つまり「自殺とは悪業である」
という思想が相当にひろがっている。
 そして、これを、(そうされては保険金を払って損をする)生命保険協会ばかりで
なく、一般も支持している。
 これは恐らく、自分は「自殺などしない」と思っている人が多いからであろう。
 だがキリスト教で自殺を禁じたり、仏教で同じ様に弾圧しているのは、それが植民
地布教用のものだったからに他ならないのだ。機械文明が発達するまでは、原地人や
輸入奴隷による労働しか、為政者や、それを取りまくブルジョアジーには、富の蓄積
の手段がなかった。だから搾取しなければならない人的資源が、抗議をするため自決
をされては、その労働力の稼動に、甚大な影響があったからだ。
 アメリカの場合だって、せっかく一人でいくらと金を払い、アフリカから買付けを
してきた黒人に、勝手に自殺されてしまっては、元も子もない。そこで、
「‥‥主に召される日まで」つまり老朽化して廃品になるまでは「働け、働け」と、
ブルジョワジーをスポンサーにして、その寄附金によって運営されている教会の牧師
は説教し、彼等を教化したのである。
 だから、自殺という最後の手段まで、教義という名のもとに奪われた彼等黒人奴隷
は、そのレジズタンスの名残りとして、今の「黒人霊歌」を残したり、そのやるせな
い生きねばならぬ事への呪いとして、感覚を麻痺させるジャズを産み出したのである。
必要は発明の母というが、これらは副産物。つまり自殺の代用品として、ひろめられ
てきたものでしかない。
 仏教の場合だって、坊主どもは檀那のために、使用人達が自殺したら「地獄へ行く
ぞ」と脅かしたものだ。
 さて‥‥人間の行為の一つとして、泣くという状態がある。普通は観念的に、
「悲しいから、泣く」とされている。
 泪もろいというか涙腺のしまりが悪くて、テレビをみていても泪をポロポロ流す人
もいる。私も、その一人である。だが、それは、あくまでも誘発的なものであって、
いわゆる貰い泣きの範疇に入る。これは、決して自発的な泣きには入らない。それで
は、本人自体が「ウオッ、ワアッ」とやるのは、一体どんな時かというと、これは
「悲しいから」というような事ではない。
 それは殆どの場合、
「口惜しくてならず、泣く」のである。肉体の衝動的な抗議に、それは他ならない。
 そして、自殺も、これと同じである。やはり「泣き」の一つの極限状態なのである。
 誠仁親王が、自分で命を始末されたのは、何も悲しかったり、秀吉のいうように、
悪い事をしたからという、そんな自責の念にかられたからの結果ではない。絶対に違
っていると言える。

「帝位を奪わんが為に、無茶な言いがかりをつけてくる恐喝者秀吉」が「世間的には、
金銀を撒き、きわめて人気をとって、太閤様と敬慕されている」その不条理に対し、
親王さまは、「口惜しくてならず、無念である」と歯がみをなさったあげく、哭きに
泣かれ、そして、「信長殺しは、まったく関知せぬところである」と主張をなさるた
め、死の抗議を以て、秀吉に挑戦されたのである。
 なにしろ、この時代の国家権力者は秀吉そのものである。親王様といえど、秀吉に
対しては、それは弱者の立場でしかなかった。
 つまり、権力に対して、弱い者が抗議する途としては、今も昔も、自殺しか、他に
手段がないのである。
 ベトナムだって、仏教徒の弾圧に対しては、何人もの僧や尼が、ガソリンをかぶっ
て焼身自殺をしている。しかしあれをもって、贖罪の自決とみる者はあるまい。とは
いえ、あの状態は、抗議デモの先頭にたってやっているからこそ、自殺もまた、燃え
るプラカードとして認められたのであって、もし僧院や尼院の奥庭で、一人で火をつ
けて、ひっそり自殺したものなら「前途を悲観して」ぐらいにしか、扱わなかったか
もしれない。
 終戦時に、阿南陸軍相たちが自決した。「敗戦の責任をとって国民に謝罪した」事
にされている。だが、当人達はは、そんな事で自殺なんかできるものではない。「本
土決戦」を叫び、その用意万端を整えているのに、勝手に終戦にされてしまった。癪
にさわるから、死の抗議をしたまでである。もちろん、自分の死後の家族の事も考え、
それに都合のよいようにと、また自分の死に共感を引くような、「価値ある死」とい
う精神のもとに「良く誤解されるような遺書」は表向き書かれて、残したかもしれな
い。
 だが自殺というものは、腹をたて、口惜しさに堪りかねて決行しなければ、完全に
遂行できるものではない。あの時点で、宮城前広場で、集団自殺があった。
「敗戦した国民の咎めを、死をもってお詫び申し上げた」ものとされている。嘘であ
る。あれも、やはり死の抗議に他ならない。「憤りの死」なのである。
 つまりは「死んでお詫び」などというのは、ありていはフィクションの世界である。
「三勝」が、他人の亭主の「半七」をさらって、永遠に独占してしまおうとする時に、
その残された妻の「お園」への、気やすめの言いごとに過ぎない。つまりは浄瑠璃の
世界である。
 世の中には、夫を殺してから自殺する妻も少なくない。といって彼女らは、六法全
書を開き、刑法何条かの殺人罪の項目をみて、悪いことをしたと気がつき、死んでお
詫びをしますというのではない。「何故、殺さねばならなかったか」という必然性な
ど、どうせ話したって、他人は判ってくれないだろうという肚立たしさ、つまり口惜
しさが判っているからこそ、自殺するだけである。やはり「怒りの死」である。
 近頃は、入学試験の準備中や、その結果において自殺するのも多い。新聞記事では
「ノイローゼぎみ」だとか「失敗を悲観して」となっているが、あれだって、決して、
そんな観念的なものではない。
 あれはあれで、試験制度への抗議である。そうでなければ、思うように勉学できな
かった周囲の環境への、精一杯の口惜しさの爆発である。

 誠仁親王が自殺をしている点、並びに父君におわす、時の帝がやはり立腹されて割
腹なさろうとし、絶食し、断食自殺をなさろうとあそばされた事実からみて、「信長
殺し」の元兇は、皇室関係ではなく、これは恐れ多くも、みな秀吉のでっち上げと判
る。
 つまり、公卿衆は、人間的に発想の次元が違う信長の真意を推測しかね、六月一日
に雨の中をデモ行為したが、これは勘違いに基づくもので、五月二十九日に、織田信
長が「一掃」しに出てきたものは、まったく方面違いのものであるという事が、親王
の自殺、おそれ多いが、時の主上の自殺未遂によって明白にされる。
 では、真相はなんであろうか。という事になる。