1198 信長殺し、光秀ではない 17

母の名は

 <総見記>は別名を<織田軍記>ともいうが、これに、こういう話がある。
「明智光秀は天正七年五月に丹波へ進攻し、八田、波多、八折の諸城を落した。だが
八上城の波多野一族だけは、あくまでも反抗して手を焼いてしまった。当時、西丹波
から攻め込んだ秀吉は、僅か二十日間で平定して既に播磨へ凱旋していたから、東を
攻略できぬ光秀は焦った。そこで、五月二十八日に、己れの老母を人質として八上城
へ送り、波多野兄弟を、光秀は、自分の本目(もとめ)の陣へ招いた。ところが信長
から召し連れるようにと沙汰があったから、安土へ伴ったところ、信長は、波多野兄
弟を、慈恩寺の門前で張付けにして虐殺した。この報復として八上城の者は、人質に
きていた光秀の母を殺した。そこで世間の者『何も手柄を立てたい為に、自分の母親
を棄て殺しにすることはあるまい』と、光秀のことを『親殺し』と呼んだ。そこで、
こうなったのは、みな信長のせいであると、この時から光秀は逆意を抱くに到った」
 というのが、その粗筋である。
<柏崎物語>にも、これと同巧異曲の話がのっている。
(‥‥つまり、どちらかが書き写したのであろう)
 なにしろ、「信長殺し」を「母の仇討」にすると、いかにも恰好がつくらしい。だ
から、光秀びいきの者によって、この話はよく引用され、まことの実話みたいにされ
る。

 この史料の裏付けとしては、ただ、
<太田信長公記>巻十二の、
「丹波国の波多野兄弟の張り付けの事」に、「さる程に惟任日向守が押しつめ取りま
き、三里四方に堀をつくり塀をたてて攻めたてたゆえ、波多野の城中は食がなくなり、
切羽詰まって転げ出てくる者も、みな切り殺したから(生き残りの城兵は、なんとか
して助かろうとして)波多野の城主兄弟三人の者<調略>を以て召し捕り(これを光
秀の許へと届け、自分達の命乞いをした)」
 とあるのを、どう筆が滑ってしまったのか、「調略」という言葉を間違えてしまっ
たらしい。と高柳光寿先生は、(波多野の家来が切羽つまって、我が身かわいさに、
その主人兄弟を瞞して捕えた)というのが本筋なのに、主格を取りちがえてしまった。
光秀が調略をした事にしたのだと、解明している、さすがに立派である。
 それなのに他は、「それなら母でも人質に出したことにしよう。波多野が殺されて
いるから、その報復手段として人質の母も殺されよう。そうなれば、光秀が無念に想
って母の仇討ちに本能寺へ押しかけた事になってわかりやすいだろう」と、こしらえ
てしまったようである。

 さて、これは、この問題とは無関係かもしれないが、「光秀の母」は誰であろうか
という事も、考えてみる必要がある。といって、なにしろ光秀の父の方も皆目わから
ない。
もちろん系図は色々ある。父の名は、<続群書類従>の<土岐系図>では、堅物助
(けんもつのすけ)光国<明智宮城家>の<相伝系図書>は、玄蕃頭(げんばのかみ)
光綱<鈴木叢書>の<明智系図>では、玄蕃頭光隆<系図纂要>の<明智一族>では、
安芸守光綱。
 各書によって、みな相違している。だが、こんなに沢山の父がいるということは、
結局は、一人もいなかったにひとしい。もし光秀の生母が、性業でも営んでいたのな
ら、一晩に何人もの男を順ぐりに送り迎えしたから、多分この中の一人か、又は複合
体かもしれないといえるが、そうではないらしいから、これは名を明らかにできない
父という事になる。もちろん、母の方も不明である。
 だが、双方がいなくては、まぁ産まれてくる筈はない。だから、初めはいたこと自
体に間違いあるまい。
 ただ判ることは、いやしくも「明智姓」を名のらせ、明智城内で育てられたからに
は、侍女や下女の子ではなく、これは明智一族の女の一人が、この世へ産み落とした
子らしいということである。
 この当時の東美濃可児(かに)郡明智城主は、
「明智駿河守光継」という者である。彼には、娘が三人いた。どうも、この中の一人
が生母ではあるまいかと想われる。
 さて、これからは私の推定であって、もちろん正確な引用は何も残っていない、し
かし、「光秀」がもし五十五歳で死んだものならば、その生まれた年は享禄元年[1
528]となる。すると、この時点では光継の娘は一人死に、一人は他へ嫁いで明智
城にいたのは三女しかいない。そして、当時の結婚適齢期は現代と違ってきわめて早
い。ふつうは十四、五歳で嫁いでいる。ところが、その享禄元年に、三女は既に十六
歳になっていた。この時代なら、既に嫁入りして赤児の一人や二人はいてもおかしく
はない年頃である。
 それなのにこの三女は何処へも嫁に行かない。天文二年二月一日になって、ようや
く二十一歳という、当時では婚期を逸した齢になってしまってから、彼女は、しかた
なしに稲葉山の井の口城へ行く。
 斉藤道三の後添えである「小見の方」という名であったと<諸旧記>にはある。
 が、普通は当時の慣習で、
「明智御前(ごぜ)」と呼ばれていたのだろう。
 もちろん、進んで嫁入りをしたのではない。当時の美濃の国主の土岐頼芸が、まだ
長井新九郎秀竜と名乗っていた道三に、彼女を無理矢理強制的に押しつけたのである。
ということは、そうした命令をされなければ、二十一にもなって平均嫁入り年齢を、
すでに六、七年たっていたのに、小見の方には、他へ嫁ぐ気がなかったという事にな
る。つまり明智城に何かがあったか。当時の言葉で言えば「嫁に行けない躰」になっ
ていて「行かず後家」で生涯を終える覚悟だったらしい。
 この発想は、蜂須賀家所蔵の光秀の短歌、
「咲つづく花の梢を眺むれば、さながらの雪の山かぜぞ吹(く)」によるものである。
 この短冊は伝えられる処によると、同じ物が、まだ二、三残っているそうである。
 と言う事は、光秀が気に入っていて、所望されるたびに、この歌ばかりをあちらこ
ちらへ書き残してたことになる。が、大して感心する程の叙景歌でもない。しかし当
人にしてみれば、余程、印象が深かった情景に相違ない。
 そうなると、人間が一番感受性に富む時代といえば、これは、やはり幼年期であろ
う。すると光秀少年の五、六歳くらいからの年代において、印象づけられるような出
来事で、しかも山の雪風が、まだ吹いている花の季節といえば、これは天文二年の二
月。現今の新暦ならば3月の小見の方の嫁入りしかない。
 だが、六歳の幼児にとって、小見の方が他所へ行ってしまうのが、何故そこまで傷
心の出来事で、大人になってからも、その追憶の歌ばかり書いていたのだろうか。

 さて、小見の方は嫁して三年目に一女を生んだ。<武将感状記>にいう「濃姫」。
のち信長に嫁いだ、奇蝶姫である。そして、天文二十年三月に、三十九歳で小見の方
は死んでしまい、二十三歳の光秀は瓢然と当てもない流浪の旅に出てしまうのである。
もちろん、<明智軍記>では、その五年後の「弘冶二年に斉藤竜興が明智城を攻めた
から、城主明智宗宿が、わが子弥平次光春の前途を頼み、光秀を落城の寸前に逃がし
てやる」事になっているが、弥平次は秀満のことで、実父の三宅氏は別にいたのだし、
斎藤竜興の名も父親の義竜と間違えている、この俗書は、ついていけない。
 まだ、これよりは<細川家記>の中で、
「光秀は、自分は信長の室家(しっか)(奥方)に縁があって、しきりに招かれてい
るが、大禄を与えようとの誘いに、かえって躊躇している」
 といった一節のほうが本当らしい。なにしろ美濃を併呑した信長は、占領政策とし
て、東美濃の可児の豪族の血を引く奇蝶を岐阜へと伴った。占領地には訴訟が多い。
双方から多額の銀や銭が、奇蝶の許へ届けられたのであろう。そう判ってくると、牢
人していた光秀が、この時分から、俄かに金持になってしまって、家来を沢山召し抱
えたり、大邸宅を京にもうけ、信長を泊めて、対等の交際を始めはしたのかという謎
も、これで、いくらか、解けてくるというものである。

頼山陽の詩に、
「本能寺ノ溝ノ深サ幾尺ナルゾ。吾レ大事ニツクハ今夕ニアリ。チマキヲ手ニアリ皮
ヲ併セテハム」というのがある。<日本外史>
 天正十年五月二十七日に亀山から愛宕山へ登って、その夜はそこに参篭し二度も三
度も神籤(くじ)を引き、翌二十八日、山頂西ノ坊において、連歌師里村紹巴らと百
首つくる会を開き、その席で光秀はまず、
「時は今、あめが下しる五月かな」
 と第一句をつくり、クーデターの決意を示したというのが、動かぬ証拠として、
「光秀謀叛計画説」の裏書になる話で、
太田牛一<信長公記>の巻十五にも出ているから<原文>を参考に前に出しておいた。
 つまり美濃は土岐管領(ひじきの旧名が正しい)の治めていた国だから、明智も、
土岐の支流であろう。だから、その(とき)が今こそ(天下(あめのした))を握る五
月であると、これは「メーデー歌」の草分けだと、その謀叛の確固たる物証にされて
いる。
 もちろん、これには、まことしやかな挿話さえもついている。
 光秀の死亡後、秀吉が、その証拠物件の懐紙を持参させたところ、里村紹巴は、
「御覧のとおり、初めは(天が下なる)とありましたものを、後で(天が下しる)と、
『し』に直してありましたので、私とても気がつきませんでした」と、自分は無関係
であると弁解し、事なきを得たと伝わっている。
 しかし、不思議な事に、その里村紹巴は、その二日後、つまり六月二日に二城御所
にいた。まるで攻撃軍が来るのを予知していたように、彼は早朝からいたのである。
そして荷輿をもって誠仁(ことひと)親王を東口から避難させ、自分も同行している。
これは、
<言経卿記>にも記載されている。偶然の一致だろうか。
 なんだか、巡り合わせができすぎてる。それに、この連歌興業の日は、二十八日と
二十九日の二説がある。
<林鐘談>などは二十八日から始めて、この夜一巡を終わり、明朝また続けたと、二
十九日説で、このとき名物だからと笹ちまきを出されたのを、光秀は放心状態で、が
ぶりとやってしまい、おおいに赤面したというのが、転じて、頼山陽の「われ大事に
つくは今夕にあり」となるのである。
 だが、この年は五月二十九日の翌日が六月一日になるのだから、なんぼなんでも最
終日に「五月かな」と強調するのは訝しい。
 どうしても月を歌に入れたかったら、「6月かな」にしないと意味が通じない。
 それにもうひとつ、虚心坦懐に、
<言経卿記>の五月二十九日の天候をみると、この日は土砂降りである。五月雨とい
うのがあるが、この頃は陰暦だから、初夏の本降りである。「車軸を流すような」と
か「天地が入れ替わったような」と表現される大雨である。
 すると、のっけの発句に、「時は今、まだ五月だというのに、天が下に逆になった
ような、えらい雨降りよなあ」と、詠んだところで、これは自然なスケッチではなか
ろうか。
 変にこじつけをするより、この方ががシリアスである。
 それに光秀が、もし土岐氏を自称したいならば、この当時、前の美濃国主の土岐頼
芸が流浪し、美濃三人衆の稲葉一鉄が面倒をみているのだから、それを光秀が引取っ
てもよいはずである。
 ところが光秀は、差入れ一つしていない。
 すこしも土岐氏といった古い家名に気をひかれていないのは、彼が土岐を名乗った
形跡が絶無なのでも判る。だから、これも訝しい。それに「どき」とよむのは棒読み
で、足利時代は「ひじき」といっている。次に「おみくじ」を何度も引いたから怪し
いという説だって、何も現行のように一回につき十円ずつ払うわけではない。おみく
じの木筒を持ってこられたら、ガラガラと一回では愛想もないから、自分の他に、妻
子の分も、ついでに引いたかも知れない。

 笹ちまきを笹ごと喰ったのが謀叛心のあった証拠だというが、現在のように大きく
見せようと何枚も笹を巻くようは事は、当時はしていない。ただ一枚の青笹を巻くき
りである。そして、これは延宝年間の、
<本朝和漢薬集成>に
「眼疾、または腎虚に、笹の葉を用う。刻みて餅につくか、これを巻いて服す」とあ
る。
 腎虚つまり精力減退の方は、光秀の身体のそこは判らないが、
<曲直瀬道三の治療日誌>の、
「天正四年六月二十三日」に、
「眼労、惟任日向守」という記載があるし、
<多聞院日記>の「天正九年八月二十一日」には、
「去る七、八日に、惟任の妻の妹死す。惟任昨年来、眼疾治療のため当地に灸に通う」
 とも出ている。だから愛宕山でも、眼疾に効くという熊笹を搗いてこねたか、また
は食べやすいように細く裂いたものを巻き付けて、光秀には出したのであろう。だっ
たら当時いうところの「薬喰い」で笹の葉の一枚ぐらいむしゃむしゃやったとしても
当然の振舞いではなかろうか。


殉忠

 つまり、「光秀が信長を討った」とか「謀叛を企てた」という確定史料は、残念か
もしれないが一つもない。
 だから、なんとか理由づけようとして、怨恨説や謀叛発心説が、何十となく作られ
てきている。新井白石でさえも、その、
<白石紳書>の中で、
「井戸若狭守良弘という室町奉公衆の者が、山城の槙島城主だった頃、つまり本能寺
の変の十年前に、光秀が『われに願望あり、もし手をかしてくれて、それが成就した
節には、大国はやれぬが、小さな所なら国主にしてやろう』と、ひそかに言われた事
がある。良弘は、その時は冗談かと思って、聞き流していたが、後になって『成程、
そうであったのか』と膝を叩いた」という話を載せている。
 だが、山崎合戦で、旧室町幕府の奉公衆は、みな討死しているのに、この良弘は、
それに加わらずに生き残った、いわば裏切り者である。保身の為に何か言ったとして
も、これは信用できない。もし、この線でたぐっていけば、足利十五代義昭のために、
信長を討った事になるのだが、その証拠は見つからないのである。単なる話にすぎな
い。
<甲陽軍艦>にも、
「天正十年二月に、光秀から武田勝頼あてに、逆心するから協力してほしい旨を言っ
てきたが、長坂釣干斎(ちょうかんさい)が怪しいというので取り合わなかったら、
武田は武田で滅び、光秀も光秀で滅んでしまった。惜しい事をしたものである」と出
ている。
 真偽どころか、いいかげんな作り話だが、もっとひどいのは、なんといっても、
<細川家記>であろう。
「光秀は武田勝頼に通謀していた。そこで、天正十年五月に、徳川家康に伴われて、
勝頼の伯父にあたる穴山梅雪が安土へ来ると聞き及んで、梅雪の口から信長に告げら
れるのを気遣い(心配して)謀叛をしたのだ」と書かれてある。
 だが、しかし、五月十五日、十六日は、一日中。十七日も出兵の命令を受けた昼頃
までは、家康や梅雪の接待を、ちゃんとやり遂げているのである。
 一番よく内情を知っている筈の光秀の組下の細川が、ぬけぬけとこうした記載をす
るというのは、それだけの理由なり、不都合があった証拠でもあろう。なお、<老人
雑話>では、今日の花背峠の先の周山に、光秀が砦を持っていたのは、己れを「周の
武王」にみたて、信長を悪逆非道な「殷の紂王」になぞらえ、かねて謀叛心をもって
いたというが、これも江戸後期の本らしい。なにしろ周山の砦というのは桑田郡で細
川のものなのである。
<別本川角太閤記>では、
「六月二日付の小早川隆景宛の密書」というのもある。
 急度(きっと)、飛檄(ひげき)をもつて、言上せしめ候。こんど、羽柴筑前守秀
吉こと、備中国において乱妨(らんぼう)をくわだつる条、将軍御旗をいだされ、三
家御対陣のよし、まことに御忠義のいたり、ながく末世につたふべく候。しからば、
光秀こと、近年、信長にたいし、いきどほりをいだき、遺恨もだしがだく候。今月二
日、本能寺において、信長父子を誅し、素懐を達し候。かつは、将軍御本意をとげら
るるの条、生前の大慶、これに過ぐべからず候。このむね、よろしく御披露にあづか
るべきものなり。誠惶誠恐。

    六月二日         惟任日向守

小早川左衛門佐殿

 この文中の(光秀こと近年、信長に対し憤りを抱き遺恨もだしがたく)というのを
引用して、当人の名で、こういう書面があるからには、やはり遺恨による事は間違い
ないと、主張している学者もいるが、さてどうであろうか。
 六月二日に書いたという日付が、どうも信じられない。なにしろ、信長の死体が見
つからなくて三日四日と生存説があった時点で「誅して」というのは臭い。
 だが歴史家は「彼の立場で、まさか、いろいろ言えもしなければ、また初めて手紙
を送る相手に本当の事も書けまい。これくらいのところが常識的であろう」という。
だが、それをもって証拠呼ばわりするのも、どうかと思う。なにしろ、はっきり言え
ば、やはり贋物のつくりものである。
 ただ、この文中の将軍というのは、当時、備後の鞆(とも)にいた足利義昭のこと
で、こうした文面のような受取り方を、今の時代の人はするのかもしれない。
 しかし六月二日の午後四時に瀬田の大橋に現れた光秀は、午後五時頃に坂本へ向か
っているから、戻ったのは午後八時頃であろう。それから近接の大名へ檄をとばすの
なら判るが、遠い中国へまで書く筈があろうか。

 私は、かつて「埋火(いけび)」という題名で、義昭が天正元年七月一日に、山城
の槙島に三千七百で立篭もり抗戦したが、時に利あらず、
<二条宴来日記>にあるように、山城の枇杷荘へ移り二十日には三好義継の河内若江
城へ入り、十一月五日に堺へ出て、そこから十一月九日に海路紀伊へ向って、由良の
興国寺に、ひとまず落ちつくに先立ち、旧室町奉公衆を一人残らず光秀に託して、炭
火を灰にいけるようにして時機を待たせたという話を、書いた事がある。
 つまり、室町幕府側の兵力を減らされないように、信長の給与で温存させ、この埋
火が六月二日に爆発したという着想のものである。
 しかし、実際には義昭は事前には何の情報も得ていなかったらしいのである。
<土井覚兼日記>の天正十二年二月十四日の日記をみると、
「昨年末(十一年末)義昭将軍は、その春日局(征夷大将軍家の側室の官名)をもっ
て上洛させた」
とあるし、またこの間の事情を、
<毛利家文書三>によると、その春日局に対して、
「毛利家の将軍に対する処遇芳しからずと、春日局が各所にて演説し、迷惑この上な
し」
 と、小早川隆景が歎いたともある。
 どうも、これを見ると、もし光秀が義昭の為に蹶起したにしては、その後一年半も、
のんびり鞆にいた義昭将軍の態度が腑に落ちないし、春日局を代理に出したのも、秀
吉やその他からカンパを集めるのが目的だったようである。なにしろ、この翌年の八
月十一日にも、
<小早川家文書>によると、
「かねて話のあった四国の伊予の料所を、即時出してくれ」と、義昭は無心ばかりし
ている。
 だが三年たった天正十六年正月に、聚楽第行幸に参加するため義昭が京都へ帰って
きたら、宮中では(信長を倒した功労に酬ゆるべく)坊主頭になって「畠山」と号し
ていた彼に、「準后」の最高位を贈った。
 これは、太皇太后、皇太后、皇后の三宮に次ぐ、家臣としては最高位のものである。
 つまり、日本始まって以来、この位まで貰えた者は、かつては南朝の柱石の北畠親
房。後では足利義昭のみである。
 という事は、宮中では北畠に匹敵する勤王精神を、この義昭に認めたからである。
織田信長が五月二十九日に、何を一掃しに上洛したか、これで朧気ながら判るような
気も一面ではする。
 そして皇室御用の里村紹巴が、他へ災いのかからぬよう、神出鬼没に活躍したのも
判る。
 公卿衆が宮中を空っぽにして六月一日、雨の中をデモしてきて、玄関払いされても、
強引に上りこんで泣きついた事態も、これで呑み込めてくる。
 なにしろ秀吉というのは、信長のしたとおりにした男であるが、天正十四年家康と
和平して天下を握り出すと、その七月二十四日付の、
<多聞院日記>に、奈良興福寺の僧の多聞院英俊は、他見を憚りながら、
「二十四日に、本能寺の変の時に二城御所に居られた誠仁親王様が崩御された。疱瘡
とかハシカと公表されたが、そんなものに罹る御齢ではない三十五歳である。腹を切
らされて自殺だそうだ。もし自害がはっきりしてくれば、これは秀吉が次の天皇と決
ったも同然ではないか」と書き、そして、遡った
<七月七日の条>には、
「みかど(正親町帝)も切腹されようとなさった。すると今(死なれて)は都合が悪
い。そんな面当てをなさいますなら、此方にも覚悟があります。お前さまの女房衆も
みんな並べ、張付けにかけて殺しまするぞ。と秀吉に脅迫をされた。みかどは無念に
思召され、食をとらず餓死までなさろうと遊ばされ」とも書いてあるのは前に簡単に
引用したが、<人物・日本の歴史・読売新聞版>は、この裏話を紹介してから、秀吉
への譲位の噂は、しきりと取り沙汰されたが、吉野山や川上地蔵が焼け、天変地異が
続いたので、さすがに秀吉も思いとどまり、十一月七日、誠仁親王の遺孤の和仁親王
を、後陽成帝として御位につかせ給うた。とある。
 だから宮中では、明智光秀を使嗾したのは足利義昭とばかり思っていたから、「準
后」の高位は、その恩に報いたのである、という解釈も成り立ってくる。
 だが、この間の真相を知っている秀吉は、義昭を買いかぶる事なく、たった捨て扶
持の「一万石」しか、前将軍にはやらなかったというのである。

「信長殺しの真犯人は」
 直接に手を下した殺し屋は別とすれば、秀吉に問いつめられるか、証拠をつきつけ
られて、万策尽きて自害された誠仁親王が、まこと恐れ多いが濃厚な容疑者になって
おられる。
 光秀と親王が睦まじくなられたのは、天正七年に、御所御料山国荘を回復した時か
ららしい。ここの料米を宇都左近太夫に押領され、禁裏御蔵(おくら)の立入(たち
いり)宗継が、畏れ多いが至上の飯米にもことかくと訴え出て、光秀が討伐し、内侍
所から誠仁親王。下は女中にまで、その占領米を配分し、狂喜させた事が、
<お湯殿上日記>に詳しく出ている。
 光秀は、足利義昭が出奔した後、空城になっている二条城を修理し、ここを二城御
所つまり下の御所として誠仁親王に住まっていただいたぐらいで、この時代には、
「当世まれにみる勤王の士」として光秀はかわれていた。
 優渥なる女房奉書の勅語も戴いていたし、正親町帝より、馬、鎧、香袋まで賜って
いる。史上、こういう前例は他にはない。
 後醍醐帝の楠木正成に対するより、正親町帝の光秀への信任のほうが遥かに篤かっ
たようである。
 だから六月二日上洛してきた光秀が惨事に愕いて、善後策をいかに立てようかと腐
心していた時、てっきり昔の足利尊氏にもあたる信長を倒した者は、光秀であるだろ
うと、宮中では取り沙汰されたのではなかろうか。
 そこで内示ではあろうが、当時空位であった征夷大将軍の話が出たのではあるまい
か。
 この餌に誘惑されてしまって、信長殺しを光秀がかぶってしまった形跡は充分にあ
る。
 十月七日に安土城で、光秀は勅使の吉田兼見を迎えている。「なんの沙汰」があっ
たのかは、みな廃棄されたり破かれて何も伝わってはいない。だが、光秀にとって、
それが望外な喜ばしいものだった証拠には、翌日、すぐお礼に禁中へ参内している。
そして、銀五百枚を、すぐさまお礼にと献納している。
 この事実から推していくと、勅使吉田兼見によって伝達されたものは、
「征夷大将軍の宣下」に他ならなくなる。
 こうゆうことがあったからこそ、その兼見は、天正十年の日記を、六月下旬に、す
っかり書き改めて、二重帳簿にしなければならなかったのである。
 さて、光秀に正式に「征夷大将軍」の命が下って、その六日目に、あっけなく死ん
でしまったから、この宣下は出されなかった事になっているが、こういう例は前にも
ある。
 木曽義仲が平家を破って上洛した時、後白河法皇によって、寿永三年正月、征夷大
将軍の宣下はあったが、二十日に源の範頼、義経の軍勢が、勢多と宇治から突入して
きて、義仲が粟津で敗死してしまったから、その侭うやむやになってしまった前例で
ある。
 おそらく六月二日の午前九時過ぎに上洛してきた光秀は、事の重大さに仰天し、と
りあえず天機奉伺に上の御所へと参内したと思われる。すると、そこで、信長の生死
は、はっきりしていなかったが、官位につけ御所の味方にしようと思召され、「換っ
て、すぐ武門の棟梁たるべし」
 といった、お言葉を賜ってしまったのであろう。そうでなければ、高飛車に、「一
掃」に脅えていた御所から、
「信長を討ち宸襟を休め奉りたるは奇特の事なり」といった女房奉書でもいただいて
しまったのだろう。
 これは六月二日か、さもなくば三日に上洛した日あたりに、仰せを蒙ったものと推
定される。こうなると明智光秀は当惑したであろうが、御所には長年にわたって出入
りしているし、もはや、
「綸言(りんげん)汗のごとし」である。
 一日本人として光秀は、「おおみことのり」を畏み承るしかなかったのであろう。
「嗚呼忠臣明智光秀」は、身に覚えのない信長殺しを、おおみことのりとして、甘受
して受けてたつしか、この場合、「臣光秀」としての立場はなかったと推察される。
 恐れ多くも一天万乗の君からの至上命令とあれば、それが何であったとしても、こ
れは受けて立たねばならなかったろう。私だって、その場になれば、ハアッと、おう
けしてしまう筈である。
 もちろん当時は、上御所へ移っていられた誠仁親王も、余がつつがなく次の帝の位
につけるのも、これからの光秀の働きによる。よしなに励むがよいと仰せ出されたで
あろう。
(おそらく親王が激励にかかれた書簡の二、三が、後で証拠として秀吉に握られてし
まった事も想像がつく)だが、その時点においては、宮中の百官、女官こぞって、こ
れからは米の心配もなくなろうと、みな光秀に期待と信頼の瞳をむけたことであろう。
 人間は五十になっても六十になっても、良い児になろう、賞められたいという願望
はあるものである。光秀だって同じだったろう。
 主上より優渥なお言葉を賜り、宮中の衆望を担えば「信長殺し」の悪名もなんのそ
の、この時点から、臣光秀は大義に殉じて、謀叛人になってしまったのであろう。つ
まり「信長殺し」に名前を貸し、自分がその名義人になってしまったのである。
 もちろん、宮中に於ても、光秀に対し、「征夷大将軍」の宣下をと、その時すぐに
も話はあったろう。
 だが、かつて光秀の仕えた足利義昭が、備後の鞆に、十五代将軍として現存してい
るから、それは望めない事と光秀は想っていた。
 だから七日に、吉田兼見が勅使として下向し、その伝達式があると、光秀は喜んで、
兼見にまで、銀五十枚を謝礼に贈っている。
 もちろん禁中としては、備後の義昭に対して、事前か、又は事後に承諾はとったも
のであろう。それだからこそ、義昭はむくれて、一年有余たって、その愛妾を上洛さ
せ、弁口のたつ、その春日局に色々と当時の事を批難させたのだろう。それを慰撫す
るために、義昭に「準后」の位を破格にも贈ったのが、本当の真相なのであろう。
 だが、何もせずに備後にいた足利義昭が、準后になれるものなら、せっかく宣下さ
れた征夷大将軍さえも、今となっては貰わなかった事にされ、一謀叛人としてしか扱
われていない光秀に、せめて位階でも贈られてもよいような気がする。しかし、考え
てみれば、戦前までの日本人は、至上の御為とあれば、身を鴻毛の軽きに比し、喜ん
で死地につくのは当然の事であったから、臣光秀にしろ、大君のおんために醜(しこ)
の御楯(みたて)として散華したのであろう。
 ただ、光秀が大忠臣であったこと。並びに征夷大将軍に、たとえ一週間でも就任し
ていた事がわかっていないから、全ての解釈が食い違ってくる。たとえば山崎合戦で、
伊勢貞興、諏訪飛騨守、御牧三左衛門といった旧室町御所奉公衆の主だった面々が、
一人残らず敢闘し討死している事が<蓮成院記録><言経卿記><多聞院日記>に出
ているが、これとても、光秀が、征夷大将軍になっていたからこそ、その馬前におい
て勇戦奮闘し、ついに戦死を遂げたのである。だから、
 ----この際、岸信介氏や東竜太郎氏なみに、明智光秀氏にも正一位を贈って戴きた
いものである。彼は、なにしろ勤皇家として史上最高の価値のある男である。
 もう、好ましからぬ誤解がとけて、その尽忠精神は、改めて認められるべきであろ
う。
「戦国期の解明は戦後から」というが、実際は昭和三十年すぎで、まだ十余年だが、
私は、その倍も、これに取組んでいる。「嗚呼忠臣光秀」である事を保証する。