1197 信長殺し、光秀ではない 16

               ああ忠臣、明智光秀


勝負

「KENO」と大きく出て、脇に「金路彩票」と但し書きがしてある。
「CASINO DE MACAU」にも、まるでふりがなのように「澳門旅遊娯楽
有限公司」と漢字がついている。立ち止まって読んでいると、いきなり、
「ヘーイ。一等は十五万ドルよ」
 と緑色の四角い紙を渡される。1から80までの数字が上四段下四段に十単位に印
刷されている。適当な数字を選んで「数字買投」という枠の中へ書き込んで投票する
と、鉄格子の、銀行の窓口のような構内で、吹き上げビンゴのガラス鉢の中の、プラ
スチックの数字のボールが、ぐるぐる廻って、どれかが一個、真ん中の枠に吸い込ま
れれる。 すると、それが当たり番号になって、「KENO」と叫んで、その数字に
出し投げしてあれば、十五万ドルくれるのだそうだ。つまり、一枚が十ドルだから、
百枚買って千ドル。番号は80までしかないのだから、1から80まで一枚ずつ買え
ばよい。すると八百ドルの投資で、どれかが当ることになる。これなら儲かる。だか
ら一枚ずつに金を張りたいというと「プシン(だめ)」と、青い制服の男に断られた。
何故かときいたら、
「お客は、あなた一人ねえ。商売ならないねえ」と、間のびした日本語で説明された。
 なんでも普通なら、このホールに身動きできないくらい客が詰めかけて、二万枚ず
つ売り上げ、それで、ひと勝負になるのだという。
 一等の十五万ドルは一人きりだから、同じ番号が何百人いても、一人になるまでは
同点決勝をさせる。だから、二万枚売れば二十万ドルで、一ゲームごとに、胴元は五
万ドル入る勘定だそうである。それなのに、わたし一人が客で、八百ドル出してもら
って、一枚ずつ買われては、十五万ドルは出せっこない。どうしても一人でやるなら、
二万枚買ってくれなくては困るのだと言われる。
 まぁ、聞けば無理もない話だが、何故二十万ドルを出して一人で同点決勝をしてま
で、十五万ドルの当たりをとらなくてはならぬか、こちらには、あまり良いはなしで
はない。
「どうして、こんなに閑なのか‥‥誰もいない」
 ときくと、例の暴動騒ぎから、客足がばったり落ちてしまって、どこのカジノも空
っぽだそうである。そこで、ずしりと重たい緞帳のような濃紺のビロードのカーテン
をあけかけると、ボーイがとんできて、すぐ案内してくれる。
 だが、やはり奥も閑散としていた。
「ガチャンコ」と呼ばれるアメリカ製の当て物のマシンが三倍、五倍、十倍と、その
比率の掲示を出して、まるで区分されたように百ぐらい二列に並んでいた。最高は五
百倍と千倍だった。香港ドルの大きなのを入れて五、六回はじいてみたが、まだ出る
回数まできていないのか、てんで絵が合いそうもなかった。試しにやってみろと、ボ
ーイにも一ドル銀貨を渡してみたら、彼はニヤッとして、機械の穴へ入れるかわりに、
自分の腰ポケットへ、サンキュウと入れてしまった。
 ここのホテルのボーイでさえやらぬものを、こっちがやっても仕方がないと、次の
緋のカーテンをあけさせて隣室へ入ると、入った途端にルーレット台があった。まる
で遠心率の応用みたいな勢いで、白いピンポン玉が、ぐるぐる廻っていた。アメリカ
人らしい七、八人が、熱心にカードに数字を記入しては、ちびちび分散しては賭けて
いた。
 1、13、36、24、3、15、34、22、5、17といった配列は、ラスヴ
ェガスでもどこでも、統一されたルーレット用の組み合わせだそうだが、別に奇数偶
数が揃ったり、重なっているわけでもない。
 しかし、この順たるや、思うような目には入らぬ順序らしい。
 次のコーナーは、もっと簡単に「大小」とよぶ、数字の丁半で、双方にさえ賭けて
おけば、儲からなくても損はないと人気があった。だから、ここが一番人数が多かっ
た。それでも、どうにか腰掛けが埋まる程度だった。
 なにも暴動があったり、町の書店で毛沢東語録がとぶように売れているからといっ
て、カジノの賭博には関係がないようだが、やはり旅行者を客にしているから、訪れ
るのがばったり減って、足が遠のき影響しているらしい。ちらほら目につくのも、団
体客のアメリカの老人観光客達ばかりで、ちびちび夫婦で相談しあって賭けていた。
 次のコーナーへいくと、もう、ここは一人も客がいなかった。薄紫色の制服を着た
女が、一人でうつむいてトランプを切っていた。
 だから、トランプ占いでもしているのかと、足を止めたら、顔を上げた女の瞳が、
他のコーナーの女の従業員と違い、空のような色をしていた。じっと見すえると、す
こし、雀斑(そばかす)はあるが、きりっとして綺麗な顔立ちをしていた。
 だから、つい側へ寄って危なっかしい発音で、
「ケーレ・エンシナールメ・ア・ジヨガーロ(その遊び方、教えてくれる?)」
 と声をかけてしまった。すると向こうも、此方を暫く瞶めていたが、首をのばして、
「コン・ムイント・ゴースト(喜んで、教えてよ)」
 と、カードをきる手真似をしてみせ、ゆっくりわかるように言った。ということは、
こちらが使ったポルトガル語が聞き取りにくくて、それで自分の方は、判らせるよう
に間延びするくらいな発音をしているのだったろうが、そこまで考えるより、見た目
の綺麗な女と、どうにか話が通じたという満足の方が、こちらには強かったらしい。
まるで、お茶でも誘われたみたいに前の椅子にかけてしまった。
 「ヴイーンチ・イ・ウン(二十一)」と刻みながら娘は赤い唇で言った。
 トランプなんで何処へいったって、やり方は決まっている。二十一のやり方ぐらい
は、私だって知っている。一ゲーム十ドルというのに、見栄っ張りの私は百ドル紙幣
を出してみせ、おつりをという言葉の発音が想いだせないままに、台へ、そのままに
置いた。
 だから、続けて十回やったらしい。なにしろ一回ずつの区切りが判らなかった。
 それに、こういう勝負率というのは、嘘でも五回に一回や十度に一度は勝ちが廻っ
てくるものなのである。だから、そのうちには、こちらも、つきが廻ってくる筈なん
だと思って待っていたら、向こうの娘が次に口にしたのは、「メ・デー」だった。そ
こで、もう5月一日は、とっくに過ぎているから、きっと閑散としたこのカジノの従
業員が、この際に待遇改善要求のために組合活動を始めるから、これでトランプ遊び
は止めにしてくれないかと、言われているのかと、うんとうなずいたら、「メ・デー」
とまたやられ、今度は手を差し出された。
 そこで、ようやく日本語メーデーと違って、ポルトガル語のメ・デーは「寄越せ、
払え」だったんだと財布をあけ香港ドルの百ドル紙幣を抜き出すと、それも白い女の
指にすうっと抜かれるように引き抜かれていった。
(二十一合せのカードかと考えていたら、これは二十一回競技だったのか)と、よう
やくの事で気がついた。すると、後一回きりの勝負なんだと、少し慌ててきた。
 なにしろ普段、金なんかどうだっていいんだ。入る時には入るし、入らない時には
入らないんだと、いつも自分で思っている。ということは、しょっちゅう吝であくせ
くしているから、それを自分でも訓戒しているわけだろう。
 だから、なんとかして最後の一回ぐらいは勝たせてもらって、せめて損を半分ぐら
いに取り戻したいと、
「テーニコ・ケ・リエ・ベテイール・ウーマフアブオール(ひとつ、聞いてもらいた
いんだ‥‥)」
「ファーサメ・エツセ・ウーマ・ヴエース(一回だけでいいから、言うことをきいて
ほしいんだ)」
 続けては言いにくいから、二つに分けた。どうも配っているカードが、向こうの方
にだけ圧倒的に有利らしいから、最後の花をもたせて、この一回だけは逆にまいてほ
しいんだと、手真似で掌を丸めて、その内側に指をこすってしごいてみせた。ところ
が、
「ナウン・テイーガタル(駄目、そんなこと)」赧くなってそっけなく言われた。
 だから、こちらも、それなら、もう一回きりで打ち切って帰ると、今度は見栄をは
らずに、張り合わせのチョコレートみたいな分厚い一ドル銀貨を卓上へ置いた。そし
てルーレットなら、まだ偶然という事もあろうが、こんな相手と向き合っての勝負に、
二十一回目に、つきが廻ってくることもあるまい。また続けて、次の二十一回戦で巻
き上げられては、帰りの航空切符も買えなくなると、
「アテローゴ(あばよ)」と、配られた札も見ずに、腰を浮かせた。勿論、内心では、
相手の娘が、こちらの伏せたままのカードを、さあっとめくって、まあ凄いとかなん
とか言ってくれて、勝たせてくれるかもしれんといった期待はあったのだが、どうも、
そうはいかなかった。
 娘は、こちらのカードへ手は伸ばしたが、仰向けにしようともせず、そのままかき
寄せてまた切ってしまった。そして、ただ一言、「‥‥スイント・ムント(すみませ
んでした)」と言った。
 そう言われてしまって、こっちが侘しくなってしまって、さらわれていく一ドル銀
貨を眼で追っていると、さも、その気持ちを覗くみたいに、
「‥‥エーラー・ステイマ(泣けてきちゃう)」と娘も続けてくれた。
 そんなに私が帰ってしまうのは、この娘にとって悲しむべき事なのかと、それを、
せめてもの心の慰めにした。
 そして、立ち上がって、出口のカーテンの所まで行って振り返ると、やはり、娘は
突きだすように顎を前にして、じっと見送っていた。
 だから、あの娘は、まんざら、そんな悪い娘でもないんだと、満足してみた。しか
し、カーテンの外へ出てしまうと、他に客がいるのなら、カードを切るのにか、カー
ドを切るのに忙しくて、見送りなどできるはずもない。あれは、私が席を立っては、
一人も客がなくなってしまうから、それで手持ちぶさたで眼を向けていたのだろうと、
そんな気がした。そういえば、あの悲しそうな眼の色だって、別れが辛いというより、
一度も勝たせずに切り上げさせたから、しまった、もう二度とはくるまい。うっかり
してしまったというような、後悔の色ではなかったかと考える。
 なにしろ、向き合って座ったからといって、互いの気持ちなんかは、自分の都合で
で良く解釈するか、又は悪いようにしか、判断をしようもないものである。そうすれ
ば、あの時、つまり天正十年の六月二日から十三日までの間の光秀も、自分で誤解し、
他からも誤解され、ただ狼狽しきった侭で、日を過ごしてしまったのではなかろうか
と、図書館へ向いながら考えてしまう。
 だいたい、今日では、
「明智が者と見受けられ候。と言上すれば、是非に及ばず。と御上意なされ」とある
<信長公記>の部分から推察されて「怨恨説」がひろまっている。
 つまり、信長は光秀に殺されても仕方のないような酷い事をしていたから、明智と
聞いただけで、脛に傷をもっているから、もう駄目だ。是非に及ばず、と早速に覚悟
をつけてしまったのだろうと、解釈されている。
 そして、光秀に与えた残酷な仕打ち。どんなことで怨まれたかを立証づけようと、
おかしい俗説が、いろいろ尤もらしくある。
 カードで負けた金の事なんか、考えたくもないから、気を紛らわそうと遺恨説を一
つずつ思い出してみた。


好色

<落穂雑話>にのっている光秀怨恨説は、寛永期のものというが、それより二百年ぐ
らい後の文化・文政期のものらしい。
 と解釈するのは、なにしろ内容が、まるっきり歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」だから
である。
 光秀が塩谷判官で、気の毒に信長が敵役の高の師直に配役がふりあててある。
 話はこうである。
 ある日、城中で信長が「佳い女ごは、居らぬものか」と、春情をもよおして尋ねた
ところ、
「居りまする。絶世の美女がいまする」
 と、柴田勝家が早速に返答をした。
「その様な美女ならば、何故、そのほうが貰わぬ。まだ独身のくせに何をぬかすか」
 と仰せられたところ、勝家が鬼のような顔に、口惜し泪をはらはらこぼしながら、
「まこと、遺憾に存じまする」と、男泣きに哭きだしてしまった。哀れに想って信長
が、
「してまた、何故に」と下問すると、
「あいにく、もはや、光秀めが先取り仕りました」と、無念そうに訴えた。すると他
の家臣達も、それに口を揃えて、
「恐れながら、当家家中において、その美麗なること、惟任光秀の妻にまさる美形は
居りますまい」と、一同で誉めそやした。
 あまり言われると、信長も、つい好奇心に駆られたのか、そこで、
「そのような、たぐい稀なる美女ならば、なんとかして一目なりとも見たいものであ
る」
 と、洩らされた。承った家臣の者は、殿に褒美など戴こうと、あれこれ思案をした
あげく、
「明後日の朔日の祝いには、女房衆も必ず安土城へ御出仕あって、しかるべし」
 と、一軒ずつにふれてまわった。だから光秀の妻も、御上意とあれば止むを得まい
と仕度して、さて一日に出かけたところ、お垣根の長廊下を渡ってくると、いきなり
庭先の樹蔭から、さあっととびつき、羽交い締めに押さえつけに来た男がいた。まさ
に乱暴狼藉である。
 突嵯の事に愕いて、初めは声も立てられなかったが、いざ物蔭へ曳きずりこまれて
危うくなると、そこは武将の妻のことゆえ、波うつ動悸を確かと押さえ、心丈夫にも
ち直し、
「夫のある身ぞ。慮外すな」とばかり、この時、手にしていた扇子で、丁々発止とば
かり、その不届き者を、懲らしめに叩きのめした。
 しかし髪も衣裳も乱れて、信長の前へは出られそうもないから、「にわかに、加減
悪くなりましたゆえ」と、そのまま届を出して退出してきたところ、城中で夫の光秀
がそれを耳にして心配して帰宅し、
「如何せしぞ。いずこが塩梅わるいか」
 と、当時、京で天下一と謳われた名医まで頼むような大騒動。これには、光秀の妻
も、もはや包み隠して、己が身の操でも疑われては大変と覚悟をして、
「実は、かく、しかじかの次第」と、泪ながらに口惜しく思って事情を話した。
 すると光秀も、あまりの事に仰天しながら、
「して、その者の人相は」とせきこんだ。
 妻女が「かくかく、しかじかであった」と、それに答えたところ、今度は光秀が、
はらはらと落涙して、
「さてさて、気の強い女ごというは困りもの。何故そのような乱暴を、なしたるか」
と俄かに態度が変わり、天を仰いで歎息をした。
「異なことを仰せられまする。夫のある身が、他人に肌身を許してよいものか」と、
妻女が詰めよったところ、光秀は声をひそめて、
「‥‥本日、上様の頭は瘤だらけであった」と、うちあけた。さすがに、それを聴い
ては妻女も、
「あれが信長様とは知らなんだ。如何しましょうかや」と狼狽したが、もはや後の祭
り。
 まさか光秀とて、今から妻女を伴って侘びにもゆけず当惑しきって、
「後の祟りがなければよいが」と心配していたところ、やはり、喰物と色気の怨みは
恐ろしいもので、今度は光秀が諸人の面前で、扇子で頭を叩かれ、額を割られて血ま
で流すような始末になった。仕返しをされたのである。そして、次々と、我慢ならぬ
苛め方ばかりされるので、「もはや堪忍袋の緒が切れた」と、ついに六月二日、本能
寺へ押し寄せた」と言うのである。
 もちろん、この話を裏付ける史料などはない。
<兼見卿記>の天正四年十月十四日の条に、「惟日女房衆(光秀の妻)病にて平癒の
祈祷を依頼さる」とあり、その十日後の日記に「元気になりし旨にて、光秀の臣の非
在軒(ひざいけん)が銀一枚を謝礼として持参す」又、11月に入って、二日の条に
「見舞のため京二条の光秀邸を訪う」とあるのが、似通っているきりである。光秀夫
妻は住込み奉公でもない。
<明智軍記>というのは俗書で信用し難いが、それにも、本能寺の変における光秀の
年齢を五十五。その妻女を四十八としている。もし、それから逆算してゆくと、この
天正四年は、光秀の妻は四十二歳である。芝居の顔世御前に見立てるのは、とうがた
ち、少し無理ではあるまいか。
 なお、柴田勝家は、佐久間盛政らを従えて九月から加賀へ下り、越前の一向門徒と
戦っていてアリバイがある。

 光秀が信長に打擲されたのが原因で、謀叛したという説は、直接型というか(やら
れたからやり返す式で判りやすい)つまり説得力があるというので、多くの本にのっ
ている。
 有名なのは、<川角太閤記>(原文は前掲)に掲げられているのが最も代表的で、
信長が光秀に、三月三日の節句の当日に、「其方の家臣の斉藤内蔵助は、もともと稲
葉一鉄の家来で‥‥一鉄から返すように言ってきて居るによって、戻すがよい」と下
命されたのに対して、素直に「はい」とお受けすればよいものを、とやかく口返答を
したから、「おのれ、不埒者め」と信長が立腹して、髷を掴んで突飛ばし、脇差しに
まで手をかけようとしたが、光秀が逃げてしまって、それで済みはしたものの、
「万座の中で赤恥をかかされ、暴行を受けた」と、光秀はこの時から謀叛を決心した
と、六月二日の夜明け前に、重だった重臣達に打ち明けたという前に述べた話である。

 これの亜流として、
<続武者物語>になると、
「信長はおおいに立腹し、光秀の首筋を敷居にすりつけ、木槌のように何度も叩きつ
けた。ために、光秀の額から血が流れとんだ。しかし、それでも光秀は、三十万石の
大禄を戴いているのは、良き家臣を召抱えて上様に奉公する為であって、叱られる筋
合いはないと言い張ったから、『おのれ、強情者め。言わせておけば御託を並べおる』
と信長は激怒し、『もし脇差を帯びていたら一刀両断にするところだが、汝には幸い
なことに、余は丸腰である。よって一命を助けてとらすが、次は、真っ二つにしてく
れよう』と言った。そこで光秀は折檻された悔しもさることながら、次は殺すと信長
に言われたから、先んずれば人を制し、遅るれば人に制せられるは、世の習いゆえ、
先に本能寺を襲ったのだ」
 というのである。当時の光秀の所領の石高を、<川角太閤記>は三十五万石だが、
これは三十万石。どちらも違う。四、五十万石である。そして、額から血がたれて、
光秀が「やあッ」と見得をきって怨めしそうにする場面が、さもシリアスなのでと、
芝居などにはこれが用いられている。
 そして<川角>の「三月三日のお節句」というのは訝しいから、<続武者物語>で
は事件発生をば、
「庚申待ちの夜の酒宴」という設定にしている。これは、<義残後覚>という古書も
同じである。
 但し、この方は、もっとリアリティーになっていて、生理現象によってわかりやす
くしている。つまり、
「あまり度々、光秀が席をはずして厠にゆくのに、信長は興をそがれて胆をたて、い
きなり槍をとって廊下へ出てゆき、戻ってくる光秀を掴まえると、『これ、きんかん
頭、よく聞けよ。なんで、わりゃア、ちょこまか部屋をあける。さぁ、その罰に、首
を刺し通してくれようぞ』と、平伏している光秀の頭に、いきなり穂先を突きつけた。
 まあ、その場は座興ということになって光秀は許されて邸へ戻ったが、ひりひりす
るから懐紙を襟首に当てがってみると、まるで赤い花片のように血が滲んでいる。さ
ては、本当に刺されたのかと逆上して、さてこそ平生より、この光秀を邪魔に思われ、
亡きものにせんと欲してござる信長様の御本心。やれ情けなや怨めしや。かくなる上
は『君、君たらずんば、臣も、臣たらず』とかと、謀叛の決心をした」
 というのが概略である。やはり血を見てから興奮したように、その反応をわかりや
すくしている。つまり、よほどのみ込みが悪くて、こうでも書かないと納得しない相
手のために、幼児用にでも。これは書き下しをしたものらしい。
 だが、単に「庚申待ちの夜」というだけでは、時と処の設定が漠然としているから
と、これを天正十年五月、信長が武田勝頼を攻め滅ぼし、安土へ凱旋した晩と限定し
たのが、
<柏崎物語>である。
 内容は同じで、光秀の生理現象に起因させているが、小用となっている。こうなる
と腹下しより始末が悪く、そんなにひっきりなしに尿意を催すというのは、事によっ
たらトリッペルらしい。だが、これより三十年後に、マカオから鉄砲の火薬硝石と共
に、中南米のジフリスが輸入されだして、はじめて「唐瘡(かさ)」と呼ばれていた
が、「唐淋」の方もやはり、入ってきたのだろうか。
<祖父物語>
になると、安土まで凱旋させずに、場所を、信州諏訪の法華寺の本堂という説明であ
る。そして、まだ、そうした病気の輸入は、時期尚早と認めたのであろう。病菌など
をあまり活躍させるかわりに、光秀の舌先の方を働かせている。
「光秀は信長の前に伺候して『かようなめでたい事はござりませぬ。この光秀も。ず
ぅっと骨折りましたかいがありまして、この甲斐から信濃にかけ、充満しているは、
織田の旗と兵にござりまするなぁ』と、ぬけぬけと言うものだから、信長公も胆をす
えかねられ(この甲州攻めは滝川、河尻、それに蘭丸の兄の森勝蔵や、団平八どもの
手柄である)と眼を光らせ、『とんでもない、呆げた言い条ではある。丹波攻めの係
りの其の方が、いつ、この甲州へ兵を入れたと申すのか。他人の手柄に嘴を入れよう
とは横着千万な』と、烈火の如く憤られ、光秀の頭を、本堂の欄干に、何度もぶっつ
けられ折檻された。そこで、やがて眉間が割れて、たらたらと血がしたたり、それを
自分で見た光秀が『よくも男の面体に、傷をおつけなされた』と、逆恨みして、翌月
二日、諏訪の仇を本能寺でとった」というのである。
 ところが、史実としては、
「三月十八日、信長は高遠の城に御陣をかけられ、十九日に諏訪法華寺に御居陣」
となっていて、「四月二日、雨が降り時雨に候えども、信長公は諏訪より大ヶ原に御
陣を移され、三日には武田勝頼の甲府の新府の城の焼跡を見物され、ついで恵林寺に
て、快川長老以下百五十余人を焼き殺し、十日には笛吹川を渡って富士見物」となっ
ている。
 つまり、二ヶ月も時日が相違しているし、、それに、この頃は「向え傷の氏康」又
は「氏康顔」とう言葉が広まっていたくらいな時代である。この十年前の元亀二年十
月に、五十六歳で死んではいるが、相州小田原城主の北条氏康は、上杉謙信を破り、
武田信玄をも追い払った当代の豪傑で、顔に三ヵ所の向う傷があったところから、そ
の異名があった。
 つまり、元亀天正の頃は、顔に傷があるのが「武者顔」と呼ばれて名誉にされてい
て、前に書いたように信長の近衆の堀久太郎も、眉間の傷で有名だったくらいである。
「男に額に傷をつけるとは、ひどい仕打ちのなされ方」という発想は、やはり江戸期
の文化文政時の頃に、辻講釈で始まった<肥後の駒下駄>という講談で、下郎が眉間
を下駄で割られて発奮するという話から借用したものではなかろうか。
 そうでもなければ、光秀が額を怪我して復讐を誓うと言う趣向は、少なくとも十八
世紀迄は、刀を帯びる階級には想像もつかぬ発想であったようである。何しろ今とは
違って、相手を恐怖させるようなのが、男の顔としては、もてはやされていた世の中
である。
<武辺閑叢>というのにも、
「女には用いず、男子のみ『男前』などと言うは、男前傷の略されしものにて、かぶ
き者などは、ことさらに己が面体に傷を自分でつけ、意気がりて立てぶるなり」とい
うのがある。その頃のかぶき者というのは、今日の歌舞伎役者の事ではなく、愚連隊
のような旗本奴のことであろう。
 ただし、写本で挿入の半紙には正徳壬辰、つまり1712年に書き写したとある。
その五十年あたり前のものではなかろうか。「旗本白柄組」の後、色々あったようで
ある。


馳走

 光秀謀叛説として、一般的なものは、
<兼見卿記>の天正十年五月十四日の、
「徳川、安土に逗留の間、惟任光秀在荘ゆえ、信長より仰せつけられて、この間の用
意馳走以外なり」(原文)という記載を誤訳したものが多い。
 つまり「在荘」というのは自宅休暇。当時としては軍指令から解放された賜暇の事
なのだが、一般に何荘というと、雀荘もそうだが、旅館名に多いのと間違えてしまい、
「在荘」を「光秀荘」としてしまったものに、まずなんといっても
<川角太閤記>がある。
 そして「馳走以外なり」というのを、これまた間違えて「馳走が意外なり」として
いる。
 つまり、この結果が、
「信長は、徳川家康の宿を光秀邸と定めた。ところが下検分に行ったところ、夏の事
なので鮮魚の傷みが早く、既に異臭が匂っていた。そこで信長は『かかる馳走にて、
もてなすは意外なり』と、家康を泊める家を堀久太郎邸に変更」となったというので
ある。
 そして、その後、例によって尤もらしく、
「その時節の古き衆の口は、右の通りと、受け給わりそうろ。しかし<信長記>とい
う本には、家康卿の御泊は、大宝坊という寺であったとあるから、まぁ二通りの説が
あると御心得下さいませ。さて日向守光秀は、この為、面目を失ってしまい、せっか
く接待用に整えた木具(きぐ)の椀や、魚をのせる板台、その他、用意して取り寄せ
てあった魚類の篭を、中に鮮魚を入れたままで、全部、お壕へ投げ込んでしまわれた
が、なにしろ信長公が臭いと仰せられた品々ゆえ、その悪臭は、安土中へ吹き散らさ
れ、臭さひどくてみな気色が悪くなったと、相い聞こえ申して居りまする」となって
いる。この中で気にしている、
<太田信長公記>の原文は、その巻十五の、<家康公、穴山梅雪ご上洛のこと>の最
後の三章で、これは、
「五月十五日、家康公は(近江の)番場の(丹羽五郎左の仮普請した)館を御立ちな
され、安土に至りて御参着。御宿は大宝坊が然るべきとの(信長公の)上意にて(決
定し)その(接待役の)御振舞いのことは、惟任日向守に仰せつけられ(信長公は)
京都、堺にて珍物を調え、おびただしき結構にて、十五日より十七日まで、三日のお
んことなり」である。
<甫庵信長記>にしろ<総見記・別名織田軍記>も、これを底本にしている。
 そして、現代の明智光秀の研究家としては最高の故高柳光寿氏も、その著<明智光
秀>においては、「此間用意馳走以外也」の解釈を、「光秀は信長から、その馳走を
命ぜられ、これが為に心を尽くし奔走したことは大変であった」と説明して居られる。

 だが、私は同意できない。「歴史」というものは「どう解釈するか」という「和訳」
の様なものだが、「文法」のかわりに、その時代の「適確な把握」が要るものと思う。
 おそらく、こうした帰納的な演繹は、やはり「元禄忠臣蔵」の影響ではなかろうか
と私は考えている。なにしろ十七世紀から十八世紀に移った頃の世代は、接待役は、
一種の課役であった。大名の財力削減の為に、自腹を切らせて取持ちさせるのが慣例
となっていた。だが、信長の時代には、そんな事はなかった。
 それと、同じ安土にあって、信長の方が手を出さずに、光秀の方で馳走を作らせる
という事は、今の言葉で言うなら、信長のコック長より、光秀のコック長の方が腕前
が上だということになる。
 そして、光秀が近畿管区司令官として信長に仕えていたのと同様に、安土には「大
膳寮の行器(ほかい)所」があって、そこには、料理方の司令官が、やはり勤めてい
たのである。宮中にだって四条流の包丁頭が居たように、安土城にだって、料理方の
板前の侍が何千石かの扶持を貰っていたのである。こうした仕事は名人芸というか、
互いに腕を競い合うもので難しいものである。どうして明智方の包丁頭が、安土城の
板前頭を無視して自分の方でやれるかどうか。こと料理では下請けさせられる筈もな
い。それに直臣と陪臣の差もある。
 材料の買出しにしたところで、安土城の料理奉行の方が、接待用には馴れている筈
である。ということは、多量の買出しには役得がある。それを安土城の買出し係りが
指をくわえて明智方にさせる筈はない。
 膳椀にしたところで、家康主従百数十人に、まさか不揃いの品は出せまい。こうし
た備品が、明智の出先の安土邸や、堀久太郎の屋敷に揃えてあったとは想像もできな
い。なにしろ当時は「仕出し屋」から出前をとったりは絶対にしていないのである。
 例証として、
 安土曲輪内の万見仙千代邸で、信長は、正月のお開き会や、津軽から拝謁に出て来
た南部の国主を取り持ちさせた事がある。天正六年の頃だが、まさか十六歳の小姓に
過ぎない仙千代が、自分で、お抱え板前を傭っていたとは考えられない。この時は座
敷だけ仙千代邸で、あとは一切安土城から荷台に材料をのせ、行器所の料理奉行が出
張してきて、包丁をふるったのであろう。<天正美少年記>
 だから、「此間の用意馳走は以外なり」と、「の」と「は」を入れて解読すべきが
当たっているのではないだろうか。つまり意外(unexpected)と訳してしまうから、
魚が腐っていて臭かったの、その汁器や魚介を腹立ち紛れに壕へ放り込んだのという
事になって、光秀謀叛説の原因にされてしまうが、
「光秀が暇を取っていて、手すきであったから、接待係を仰せつけられた。だから、
この間の用意とか馳走の仕度は、以外、つまり別であった」と読むのが正しくはない
だろうか。
 一般の家庭でも、来客のあった場合は、おおむね夫が接待役で、妻が台所で手料理
を作り、分業するものだし、料亭でも、取り持ちの仲居などは、上女中などとよんで、
板前の側で膳を整える下女中とは区別をしている。
 まさか光秀自身が襷をかけ包丁で魚をさいたりする筈もなかろう。
 そして、ついでに気がつくことは、光秀を信長殺しの犯人だと決めこんでいる史料
は、いくら歴史学者が元和期から江戸初期の著作だと主張しても、それはとんでもな
い錯覚で、それらは何世紀も後の元禄忠臣蔵の芝居が世に広まった後の贋作に相違な
いということである。なにしろ、こうした「供応役の紛争から意趣を含んで、復讐に
走る」という、このプロセスは、やはり浅野内匠頭を前例として、松の廊下から始ま
る討入りまでの芝居を借用したものに他ならないと思われるからである。
 次に、K博士の主張する元和七年あたりなら、本能寺の変から四十年しかたってい
ないから、安土城の実物を覚えている者も多かったろうと考えられる。すると、その
壕に椀が浮かんだり爼板が漂って安土城が臭くなる、という話が、訝しいとも気づく
筈である。
 本能寺の変の半月後に、安土城は焼け落ちてしまい、信長の寵を受けた神戸の板御
前や、その孫にあたる信孝の娘を、秀吉が、ここの慈恩寺の刑場で張付けにした頃は、
一部は再建されたらしいが、江戸期からは何も残っていない。それで、<川角太閤記
>の筆者は、(普通の城のように、周囲の四方に壕があったもの)と、安土城を間違
えているが、この城は弁天崖の出鼻に築かれていて、三方は琵琶湖の水面にのぞんで
いた。そして、瀬田から入る大手道だけが、陸続きであって、そこは、
<フロイス報告書>によれば、
「京都から安土城の入口まで十四里の間に、彼信長は、畳五、六枚幅の新道を、平坦、
清潔に作らせた。夏季には木陰で休憩できるよう、両側に並木が植えられ、その三十
本ごとに竹箒が一本ずつ掛けられた。朝夕の道路掃除が励行される為である。並木の
下には清らかな砂と小石で、細長い箱庭の様な景観を呈していた。大手口の橋の下の
清流は、いつも湖に向かって奔流し、清浄であった」と出ている。
 つまり、壕に該当するものは正面の一ヵ所だけだが、それも右手の山々の谷川の渓
流を引いてきた激しい急流で、これは琵琶湖への放水路である。勿論、残りの三方は
大海の様な湖である。
 普通の城のように四方が壕ならば、皿小鉢を放り込めば、どんぶらこと漂っている
だろうし、臭ければ匂うも知れないが、安土城に限って、投げ込むより早く、さぁっ
と湖水のほうへ流されて行ってしまうのである。
 念のために、マカオへ旅立つ前に調べに行ったら、弁天崖の方は、目下埋立工事で
干拓され、大手道の激流は今はないが、朝鮮人進貢街道からかけ相当の勾配である。
昔は相当の奔流であったろう。
 つまり<川角太閤記>の筆者は、安土の城跡を見に行かずに、普通の概念でデフォ
ルメを書き、それをもって光秀の謀叛説に仕立て上げているのである。

 やはり、「これでは訝しすぎて変である」と気づいた者も、中にはいるらしい。供
応方をやめて中国へ出陣する事自体に、そこで謀叛の決心を結びつけようとしたのが、
<逆意伝>という本に現れる新説となった。
 これは、信長から光秀が呼びつけられ、「このたび五十万石に増封してやる」と言
われ、あまりの恩情に感激して「有難き幸せ」と平伏したところ、「その五十万石は、
出雲と石見の二ヵ国である」と言われた。
 ともに毛利氏の領土で、まだ敵地である。
 だから光秀が顔を上げて思わず不審そうな表情を見せると、「今から出陣して、斬
り従えるがよかろう。これまでの丹波、近江領は、すぐさま返地を致せ」と冷たく命
令された。
 あまりの事に茫然自失して戻ってくると、家臣達も愕いて「つね日頃、酷い仕打ち
を平気でなされる信長公とは知ってはいましたが、まだ占領もできぬ敵地二ヵ国を戴
いたとて、これまで住っています丹波や近江の志賀郡を召し上げられましては、出陣
しようにもできませぬし、妻子をおいて行く土地もありませぬ」
「まさか、女房に子を背負わせ、鍋釜持たせて、戦場へは伴って行けますまい」
 ということになった。そこで、このため、
「生活権の擁護」のために、「家族の安全保証」のため、今で言う「管理スト」を断
行する事になった。そして団体交渉をしようと、一万三千の男が、家庭を守るために、
悪徳社長信長のいる本能寺へ詰問しに押しかけ、そこで仮執行の処分手続きをするた
め、やむなく「資本家」の信長や、専務の信忠を葬り去ったという、大正デモクラシ
ーの華やかな頃の「謀叛の真相」というお話である。
 なにしろ、これは「妻子を守るため」という一般受けのするテーゼが入っているし、
勤労大衆の「生活権」の問題という、きわめて判りやすい要素で割り切っているから、
その後の大正、昭和の「光秀謀叛説」は、みな、これを踏襲している。そして、これ
が、光秀が蹶起せざるを得なかった「必然的な事由」とさえ、今では、まことしやか
に言われている。
 そして、これを裏付ける史料として、世評に負けた歴史学者も出てきて、これを<
多聞院日記>にある、
「五月十五日に織田信孝は丹波の国にて『兵糧、馬、飼葉、武具を揃え、集まりし者
には重賞を与えん』と布礼したり」
 という日記から、「この日付を以て、丹波における光秀の軍事権が剥奪された説」
というのを、うちだして、これに話を合わせている人もいるが、この時から半月後に
「曲がりなりにも明智の軍勢らしいものが一万三千」ここを出陣しているからには、
剥奪という事はあるまい。
 なにしろ、この五月十五日という日付は、信長によって光秀が「在荘」という恩賜
休暇を貰った日である。
 これさえ考え合わせれば判る事である。光秀が久しぶりで休みを取ったということ
は、その部下達も当分は、出陣しないということである。
 だから遊ばせておくのは勿体ないから、「四国攻めに出陣したい者は集まれ」と信
孝が布告をしたに、これは過ぎない。名前が彼の名になっているのも、光秀は軍用か
ら賜暇をとっていたからに、他ならないのである。