1196 信長殺し、光秀ではない 15

ゲンヤ

<マカオビブリオテーカ(政庁図書館)蔵書><ゼズス教会ラヴイウ・アクワブイワ
ウ師へ奉る、神の僕セルケエロ>の書簡。A・B二通
A
ミヤコのフシイ(伏見)から司教は、キウイシュウ(九州)へ帰ってきた。彼は言っ
た。「これまで手紙でよく互いに知り合っていたエッチュウ・ナガオコ(長岡越中と
は細川忠興の生前の名のり)と逢った。彼は言った。
「ゼズス派の事はまかせて下さい」そして、
「私は洗礼は受けていないが、前から神に尽くしている。どうか、神の僕として扱っ
て下さい。」と、彼は沢山の寄進を神に捧げた。

B
「アジユダンテ(副管区教会長)がハキタ(博多)へ旅行した。すると、そこから歩
いて一日ぐらいのブゼン(豊前)の王のエッチュウ・ナガオコ(忠興)は、「是非」
と招待した。オギラ(小倉)の城へ呼ばれた。エッチュウは、司祭達に魚や肉のパー
ティをすすめ、その間、自分はガルソウン(給使)をした。
 次の日、パンと水だけのヴェルダデーイロ(慎ましやか)な我々の食事に彼を招い
た。王である彼も、一緒に水を飲みパンを飲み込んだ。そして彼は言った。
「Mr ajuda(メ・アジューダ)」(吾が為に祈れか、我を救えか)彼は神の御前に膝
まずき自分も祈った。司祭は神の祝福のあらん事を教えた。
「Me mostre(メ・モストレ)」(我に示せか、我に与えか)
 彼は、やっと安堵らしく元気になった。そして戸外へ向かって大きな声で、
「Vem ca(ヴエン・カー)」(こっちへ来い。集まれ)
と言った。おそるおそる多くの家来が入ってきた。皆膝まずいて神に祈った。
 司祭達は、エッチュウや、その家来たちの真剣な様子を見て、集団で入信するもの
とみてとった。洗礼させるための用意をした。
 だが、彼らは何を遠慮しあうのか、信者にはならなかった。失望した司祭達に沢山
のプレゼントが贈られた。それで気をよくして「神のお恵みあらんことを」と、エッ
チュウと別れた。彼らは遠くまで送ってくれた。荷物をつける馬も貸してくれた。」
 年号は1600年。日本の慶長十一年にあたる。
 小野木縫殿助を殺して家康に賞められた豊前小倉十一万石の城主の時代である。
 この頃の切支丹大名は良質の煙硝欲しさに宣教師を大切にしたのに、彼は神を畏れ
てというより、さかんに神に甘えている。何故なのか。ここのところに、変な疑惑が
もてる。それと昔からマカオの司祭とは連絡があったらしい。

<1614年ガブリエル・デ・マットス年間報告書>=片岡弥吉氏訳文により掲出。
「ゲンヤは、エッチュウ殿の部下としては偉大な武将であり、オグラの信徒の大きな
柱となっていたデイエゴ・加賀山の婿である」と、それにはまず説明されている。
 徳川家康が信教禁止を命令したからエッチュウ殿がエドからオグラへ戻ってくると
伝わると、ゲンヤは言った。
「私は聖いお教えを棄てるよりは、もはや死を選ばねばなりますまい。だが、それに
は、ザンゲをする事と、聖体の秘蹟を受ける必要がある。だから一人の司祭を、神の
お使いとしてお向け賜らん事を希い奉る」
 切なる願いによって管区長は、ポルトガル人の司祭を派遣した。彼は厳しい監視の
目をくぐって潜入し、ゲンヤだけでなく、その妻や一族すべての者のエニマ(魂)を
救った。
 やがてエッチュウ殿の重臣が、ゲンヤに、棄教するようにと彼を説得に、その邸へ
訪問した。
 だがゲンヤは、それに答えた。
「我らの救いの途はデウス(天帝)に頼るしかない」
 強情なゲンヤに重臣は何日もかかって説いた。そして最後には「死を賜ろう」と言
った。
 それでもゲンヤは教えを捨てなかった。
 のちエッチュウ殿はオグラへ戻られた。
 そして、ゲンヤがあくまでも教えを捨てないのに対し、秘かに言われた。
「彼は、わが身内の一人なり。汝ら特に許しつかわせ」と。

 だが、<細川藩類族調帳>を調べても、
「ゲンヤなる人物が細川忠興の身内」であったような事実はない。彼の妻は「みや」
とよび、デイエゴ・加賀山隼人正興良(おきよし)の娘である。
 この隼人正は、源八郎と名乗っていた頃、高山右近に仕えて、天主教徒になり、丹
後宮津に行き、細川に仕え、天正十年に、何かの手柄によって六千石に昇進している。
そして、ポルトガルの宣教師も、なぜか特に彼をイルマン(助祭)に昇進させている。
 そして、その手柄が、加賀山の娘婿のゲンヤまで、忠興をして「身内」と呼ばせて
いるようである。
 だから、他の信徒は殺されたのに、彼だけは特に助命されて、
<元和九年豊前侍帳>に、「二十三人小笠」とあるのが、匿れたゲンヤであろうと、
<小笠原玄也一件>で前文の訳者の片岡弥吉が研究史料を出している。というのは、
この元和六年に、忠興は隠居して、三男の忠利が豊前小倉城主となり、ついで寛永九
年、肥後と豊後で一躍五十四万石の大大名になって移封するが、秘かに、助命された
ゲンヤも伴われて転地しているそうだからである。はたして、この男は、何をしでか
しているのだろう。

 だが、本能寺の変の後に、この細川家ぐらいに、とびきりな立身をしたのが、実は
他にもある。
 しかもれっきとした明智光秀の旧臣である。そして、丹波亀山という、光秀の本城
の城代をしていたという。しかしである。
 もし本物の城代ならば、なにしろ亀山は、明智日向守の本城であるから、彼のごと
き軽輩が任命されるわけはない。
 なにしろ、当時の光秀の持ち城は三ヶ所で、
 山城の勝竜寺城‥‥城代は溝尾庄兵衛
 近江の坂本城‥‥城代は明智秀満
 である。だから、本家本元の、
「丹波の亀山」は三宅藤兵衛か、新参でも斎藤内蔵助あたりが当然である。それなの
に、<浅野家文書>によると、
「山崎合戦の時、敗報いたるや、すすんで秀吉方の堀尾吉晴へ渡し、それを縁に太閤
殿下に仕う」
 と出ている。まこと不思議な話である。
 もとより光秀の、前からの家来ではない。彼は丹波の土地者である。これは、
<細川家記>の天正六年の亀山攻めの一節に、「幽斎は使いを丹波亀山に馳せさせ、
相篭れる内藤、島村、安村らに事理をわけ、降参するように言い入れしも諒承なさず
して」
 とあるから、三つの党派のいずれかに所属する武者。他方では、まだ使われていた
「郎党」の部類に入るくらいの身分の者だろう。
 つまり、せいぜい二十貫どりぐらいの、錆びた槍を担ぎ、剥げた銅丸をつけた程度
の者だったと考えられる。
 ところがその男、秀吉に召抱えられた途端に二、三年すると京町奉行に出世。八年
後の小田原征伐に出陣すると、奥州から出てきた伊達政宗の介添え役をしたり、秀吉
の義弟浅野弾正の倅と一緒に、奥州へ下向し、彼だけは一躍、葛西大崎領十二郡、し
めて三十万石の大々名になってしまった。えらい出世である。
 ちょっと異例すぎる程である。別に、娘や妹を、秀吉に差しだしたのではない。男
の実力である。つまり丹波亀山を、そっくり秀吉に差しだしたという手柄である。言
い換えれば、天正十年六月二日午後以降、その一万三千の兵力を光秀につけずに、孤
立させた功労によるものだ、というわけだが、異常に思える。
 なんといっても、一雑兵が、三十万石になるとは破天荒である。槍先の功名で戦場
へ出て獅子奮迅して戦ったような武勇譚も、彼にはない。稼ぎ出したと言うより、貰
った手当外扶持である。秀吉からの贈物であった。
 つまり考えてみると、彼に三十万石くれるという事は、彼のおかげで、秀吉が三百
万石か六百万石儲けたという事になるのだが、なんだろうか。なんの史料も伝わって
いない。
 だから怪しむべき存在として疑われてもいいのに、今日まで誰一人として彼を問題
にしていない。
 というのも、この男は雑兵上がりで、ろくに家臣もいないのに、いきなり三十万石
にされ、一郡一城とみても、十二からの城を持たされてしまった。そこでやむなく、
旧葛西氏の本城の登米(とよま)城に自分が入り、旧大崎氏の本城の古川城に倅を入
れ、岩手沢城以下十個の城へは、城代として入れる者がなく、並の徒歩(かち)武者
を入れた。だからして、昨日までの足軽が、にわかに奉行などに出世した。
 偉くなる事はよいが、何も自分で努力したわけでもないから、思い上がって無茶を
したらしい。なにしろ伊達史料の当時の、
<成実記>によると、
「掠奪、乱暴、目に余るものあり」とある。
 天正十八年十月、一斉に暴動が起きた。
 ところが、これは、所領を秀吉に奪われた伊達政宗の煽動で惹起こされた暴動だと
いうように、今までは見られていた。だから歴史学の上では、これは郷土史関係の
「奥州史料」として扱われてきた。
 そこで、この男の異常な出世も、これまではあまり書かれてもいない。
 しかし、丹波亀山衆一万三千の中で、
 小野木縫殿助が三万一千石
 細川幽斎が豊前小倉十二万石
 と比較すると、この男の三十万石は最高である。
 つまり殊勲第一位という事である。
 ただ亀山城を守っていて、「ハイ」と堀尾茂助に差出したくらいにしては、些かも
って怪しすぎる。やはり、それ相応な事は、してきたのであろう。
 なにしろ前にかいた<川角太閤記>というのは、「この堀尾茂助の孫の堀尾忠晴が、
寛永十年九月二十日に死去した後、嫡子の届出がしてなかったという理由」で、遠州
浜松十二万石を取り潰され、家名断絶した後。なんとかして「御家再興」して、また
生活権を確保しようとした遺臣か、その孫あたりの連中が、「いかなる手段をとって
も祖先の堀尾茂助吉晴の名を世にあげて、再認識をしてもらおう」という意図のもと
に、川角という昔の人間の名で書かれたものが種本らしくて、<川角太閤記>の随所
には、堀尾茂助が大活躍するように、こしらえてある。だが、その本にさえ、この奇
怪な、また考えようによっては、堀尾茂助最大の見せ場である「亀山城受取りの場」
などは出てはいないのである。まこと想像もつかぬ次元に、これは、おかれているこ
とのようである。
 もちろん秀吉という人物は計算する男だから、「この程度の男に三十万石も持たせ
たら、どうなるかは百も承知」の上でやったのかも知れない。つまり喜ばせて有頂天
にさせ、葬ってしまう巧妙なやり方である。
 この二年前にも、富山城を死守して、厳冬の日本アルプスのささら越えを往復し、
浜松まで行くような野放図もない事をしでかした佐々成政を、助命はしたものの、後
難を恐れ、熊本の城主に取り立てて喜ばせ、肥後に一揆が勃発すると、その責任を追
求し秀吉は、思う壷とばかり摂津尼ヶ崎で詰め腹を切らせている。どうも、このやり
口の繰り返しを狙って、彼を三十万石にしたのではあるまいか。

 さて、この男も教徒である。ゼズス派の天主教の信者としては、極めて有名で、そ
の名も、
<切支丹大名記>に載っている。
 父を、木村弥一右衛門吉清といい、倅を、木村清久という。洗礼名は、ジョアンを
共に名乗る。
 彼の旧主の丹波亀山の前領主内藤如庵の洗礼名もジョアンといい、彼は足利義昭の
ために二条城にたて篭もるのに先立ち、神の御為に
「四条新町の誓願寺通り室町」通称四条坊門の「姥柳」にあった「ドミリナベル・ダ
デイラ(聖教会堂)」の家屋の被害を心配して、丹波へ疎開させようとしたという事
を、
<1573・5・27のルイス・フロイス書簡>は報告している。
 なお、内藤如庵は、山城の松尾神社の宮大工を用いて、丹波に教会堂を建てようと
して、その家来どもを入信させ、イルマン・ロレンツが招かれて、丹波へ行き、その
洗礼と聖体授与をなし、しばしば説教をしに行っているとも報告されている。だから、
木村弥一右衛門父子も、そのロレンツによってミサを受けた天主教徒に間違いない。
 そして本能寺から一町と離れていない三階建の京四条の教会堂は、分解移転までし
かけたくらいだから、木村は前に何度も行っている。
 だから、二日の朝も、暗くても望楼に、すらすら登れたろうし、教会堂の司教や助
教も、顔見知りの木村父子なら、なんでも秘密の相談もできたであろう。だが、この
父子の事は昭和四十二年六月十日発行の「別冊小説現代」に詳しく書いてしまったか
ら、重複を避ける。


犯人

 直接に手を下して、青い目の人間から、チリー新硝石による最新型の強烈爆弾を受
け取り、これを午前七時から七時半の間に本能寺へ放り込んで、一瞬に吹っ飛ばして
しまった者は、丹波の福知山党の小野木、船津桑田の細川、亀山内藤党の木村の三者
の内のいずれかであろう。
 この三つ巴に謎は潜む。といって過言ではあるまい。

 さて、「我こそ天と地の神。そして、絶対の神」
と宣言して、本能寺の変の一ヶ月前に、ついに一般公開させてしまった神像を、日本
側では白目石というが、向こうでは大理石によるゴシック彫刻のアポロを、信長が
「俺に似ている」と、そのまま用いたものとしている。
 そして、群集が連日、その神像を参拝に殺到するのをみて、表面は、ニコニコして
いたろうが、宣教師達は、慄然としたであろう。「天にまします、我らの神よ。唯一
の神を冒涜し、自分を神と名乗るジャボ(悪魔)を、この世から消し賜らんことを‥
‥アーメン」と祈ったであろう。なにしろ信長が「唯一の神」の看板を掲げてしまっ
ては、もはやキリストの教えもひろめる事はできなくなる。
 彼らにとっては死活問題に追い込まれていたのだ。
 ところが賢明な彼らは、これに関して何も記録は残していない。現存するのは、当
時の日本布教長カブラルの日本人観だけである。

A 私は日本人ほど傲慢、貪欲、不安定、そして偽善的な国民は未だ見た事はない
B 彼らが共同的に従順な生活ができるのは、他に何等の手段がない場合に限られる
C 彼らは生活が少しでも安定すれば、まるで王者のように思い上がる横着者なのだ
D 彼らは胆の中を他人に見せないよう、隠す事が、賢い処世術と考えている
E 彼らは幼児より、その様に教育され、偽善的な微笑のマスクをいつも掛けている
F 彼らは、お人好しを装う胆黒い奴と、マスクとおりの間抜けな連中で構成され
  ている
G 彼らはラテン語も習わず堂々と説法ができる。そして高慢にポルトガル人を見
  下す
H 彼らは、もしヨーロッパ人並に研学させたら、ポルトガル人より上になろう
I 彼らは互いにそれを知っているから、仏門でも、和尚は奥義を弟子になかなか
  授けない
J 彼ら弟子は、学びとった日から、もう師を尊び敬わず、勝手に独立してしまう
  (‥‥信長を見よ。熱心に我々に神の話をさせた。だが、みな聞いてしまうと、
  入信してくれるかと思った我々の期待に反し、彼は、判ったといったきりで、
  今度は自分が気ままに独立しようと考えているらしいとも想える。ジャポネ・
  デウス(日本天帝)に過ぎない彼が、全知全能なる我らの神にとって代わろうと
  している。)
K 彼らは悪徳に耽りやすく、小心であり、好色の素質が男女共に極めて強いよう
  だ。
L 彼らのうちで修道会へ入ってくるのは通常の世間で生計が立たぬか、下級階級
  である。
M 彼らの中の普通に暮らせる者は宗教心を持つより、悪徳に走りやすい心を抱い
  ている

 「日本人は勤勉にして高尚、我らの接した異民族としては最優秀の民族であろう」
 といった<フロイスの日本人観>は、よく紹介されているが、このカブラル布教長
の言葉は、あまり都合がよくないとみえて公表されていないが、四百年たっても日本
人というのは、今も昔も同じ様なものらしい。当時、眼鏡が珍しかったから、「四つ
目の伴天連(バードレ)といわれた、この男はよく見るものは見ている。
 このカブラルは、東インド管区長から日本巡視を命ぜられ、1568年八月マカオ
へ来たが、季節風に間に合わず、出帆して日本へ向かったものの、またマカオへ逆戻
りして、この貴族出身のポルトガル人は、マカオに一年間待機していた。そして翌年、
日本へ渡来すると、当時京都にあったフロイス以外の全司祭を一堂に集め、訓戒して
から上洛し、フロイスを供にして、すぐ信長に逢った。
「イザナギ、イザナミの男女二神が日本人の先祖だという説について」と、信長から
質問されると、アダムとイヴを以て答え、「女なんか、男の肋骨一本で出来たセグー
ンド(第二次的)なものだ」と言って、女に辟易していた信長を喜ばせたらしい。
 そして仏教護持の足利政権と、織田信長が対立すると、司祭らは信長に協力せよと
の司令を、このカブラル布教長は命令している。
 天正四年になると、
「京都は、偶像の崇拝において、日本列島の内の唯一の都である。なにしろ仏教の発
祥地であり、それを護持する宮廷の所在地である。その仏僧や彼らのパトロンのジャ
ボ(悪魔)共が我々を狙って、憎悪の炎を燃やしている。この地に、今や吾々が神の
教会を建てるという事は、これは回教徒のモロ族がローマかリスボンへ来て、我ら天
主教の御堂の横へ、回教寺院を建てるようなものかも知れない。」
 と宣言しながら、気張って新しい教会堂再建を報告している。
 これまで京では、他家の物置を借りたり、六角町の玉倉の小舎を使ったり、四条烏
丸では、家主に追い立てられてきた天主教徒が、天正三年に立案した再建を、ついに
四年から始めて、天正六年、問題の京都公会堂を落成させる。
<バリニヤニ摘要録>によると、
「きわめて美しく、階下は教会堂。二階と三階の部屋は住居となし、見晴らしはよい。
何しろ土地が狭少なので三階建にしたからだ」
 とある。もちろん、このバルコニーは、天正十年六月二日に、ここを指揮塔にして、
爆薬を擲げこませる目的などでは、まだなかったらしい。
「隣家の婦人が、三階の上から伴天連に眺められては淋浴もできぬ旨、村井貞勝さま
邸へ駆け込み訴えをなす。貞勝いう。汝らが地所を提供せぬゆえ三階建てになったの
である。が、上から見おろせぬよう露台(バルコニー)などを設け目隠しにさせるよ
う取り計らわん」と、出典は不明であるが、<松田穀一の南蛮史料の発見>に出てい
る。
 つまり、こうして本能寺から90mの近距離に、三階建バルコニー付きという、京
都では、二条城よりも高い、当時としては最高層の建物ができた。江戸期になると
「南蛮寺」というが、当時は「サンタマリア寺」と呼ばれていた。


大友記

 さて<フロイス書簡>の中から拾いだしてみると、こういう話もある。
 信長の許には、コルドヴァ産の革製品や、牛皮のコート、スペインの真紅のマント、
アンドラのビロードの羽根付帽子、ラッコ皮の敷物などが一杯詰まっていたから、バ
ードレ達はどんな進物を持っていったら、はたして信長が気に入って、布教の許可を
くれるかと思案し、結局三本の銀の棒を用意し、和田惟政に相談に行ったところ、ま
さか三本ではと、和田が自分の物を加えて十本にして持参したところ、
「彼ら外国人から金品を取ることはない。そんな事をしては信長の名が、インドや国
外によく聞こえる筈がない。望みの侭の制礼を無料で作ってやれ。予は許可の朱印を
ついてやる」と言ったという。
 そして、この時の制礼というのは、
<1569年4月24日>の日付で許可されたと記録がある。つまり日本年号なら、
秀吉が火薬発注伝票を残している姉川合戦の前年の、永禄十二年四月八日に当たる。
すると、この頃から、火薬の硝石を確保するため、信長は海外征服の意図があったら
しい。そうでなければ、無縁の異国に、自分の名が吝と響こうと、欲張りと喧伝され
ようと差支えないはずである。
 つまり、見栄を張るという事は、その気があった証拠ではあるまいか。
 さて、フロイスは、ロレンツを伴って朱印状(司祭の国内居住権、信教布教の自由、
教会堂が兵舎に徴用免除)を貰いに行くと、信長は、自分で食膳を運んでくれた。そ
して絹衣と白い麻地を贈ってくれた。法外なもてなしだと、みな愕いた。だから宿へ
戻ると、主人が飛び出して来て迎え、足を注ぐにも水でなく、湯を持ってくる程だっ
た、とフロイスは書き残している。

 1576年7月7日にマカオを出帆したアレッシャンドロ・ヴァリニヤーノは、十
八日かかって、日本の天正七年七月二日に、島原半島の口の津へ着いた。彼は東イン
ド管区の総長派遣巡察師として来朝したのである。
 彼は日本布教長カブラルが、ヨーロッパ人司祭と、日本人修道師とを極端に分け隔
てして両者が互いに反目し合っているのに愕き、
「不和と嫌悪が、時と共に、どのような事態に発展していくか、おそるべきものがあ
る」
 と、すぐさま、その、
<1580年インド天主教総管区長宛ヴァリニヤーノ報告書>に明細に書いている。
 つまりラテン語もポルトガル語も教えられず、「ドチリナ・キリシタン」の一章を
丸暗記で仕込まれているきりの日本人イルマン(修道士)は、思索する事も、聖書に
よって、神の途を解明する事もできず、ただ信徒たちと一緒になって、何らかの行動
によってのみ新体制を、この日本に起こそうとしているし、また日本人の使徒達も、
ポルトガル人とは言葉が通じないから、自然と日本人修道士を囲んで、何かの形態を
とって、それを暴発させる事こそ、神の啓示であり、新しい世作りであると、そう思
いこんでいるのだという心配である。
 このためヴァリニヤーノは日本へ印刷機を輸入し、ロドリゲスーツなどにより、ポ
ルトガル語と日本語の文法などを印刷し、
「我々は多数の書物を印刷した。これによって日本語をみなマスターできるようにな
り、卓越した者でなくても一年足らずで日本人の懺悔を聞いたり、日本人修道士と意
見を交わせることができるようになった」
 と報告するようになるのだが、惜しむらくは、その時点は1595年、つまり本能
寺の変があってから十三年後の話である。

 さてヴァリニヤーノは、司祭が個々の報告書を送るのを止めさせるため、まず15
79年12月1日付で、フランシスコ・コーカリオンに「日本年報」を編集させ、そ
の後は、ルイス・フロイスをもって「日本会報」の編集長、キャップに任命した。
 というのは、ただ行動しかもたぬ日本人イルマンが、教える事がないから、「創造
は破壊から」というような教え方を信徒にしていたからである。当時の九州史料の、
<大友記>によっても、
「いるまんの教えにて、国中の仏を、みな薪にせよと仰せつけられければ、信徒の者
共は、みな山々在々を走り廻っては、仏像などを日々に、馬の背に五駄、十駄と集め
てきたりて、これを打ち叩き、みな薪木となす」
 といった有様で、険悪化しきった革命前夜の様相を見せていたから、何とか穏やか
に、暴発は避けて布教したいと、日本在住の長いフロイスを以て、その元締めのよう
な仕事を任せたものらしい。
 もちろん、これは天主教内部の勢力争いのようなもので、表面的には破綻は生じて
いなかった。天正九年三月十七日に、ヴァリニヤーノが堺へ行って、マカオからの火
薬その他の輸入品を調べ、二日後に、フロイスやロレンツ司祭を従えて上洛した時も、
信長の大名が付き従い、荷物をつけた馬匹三十五頭、担ぎ人足四十名、これに師父の
護衛の武者八十騎、徒歩武者数百という大名行列だった。
 高山右近の城下である高槻で、復活祭の祝いをした時には、二万余の信者が一堂に
会して、言語が判らないながらもヴァリニヤーノの説教を聞いていた。
 この一週間、ヴァリニヤーノは、その奴隷の黒ん坊を、信長の好奇心を満足させる
ために寄贈した。そして安土にセミナリヨ(神学校)を開校した。
 つまり粗暴な扇動主義者である無教養な一般の日本人修道士達では、何を暴発した
り、騒動を勃発させるか判らないので、その用心の為に、有識階級の子弟を集めて、
これを教育し、神職者の入れ換えを計画したものらしい。
 だが、ヴァリニヤーノも、安土で妙な感想を本国へ送っている。
「信長が、我らに示す動きとして、一つは寛大な美徳もある。つまり傲慢にして強情
なくせに、某司祭を此処へ此処へとは指令をしない。吾々は自由に配置できる」
 という言葉である。これをみると、ヴァリニヤーノ自身も、信長を目標にして、何
かを画策していたのかもしれない。このとき随行していたロレンツ・メシアは、ヴァ
リニヤーノとは別に、
「この信長というゼンチョ(異教徒)は、きわめて尊大ぶっていて、自分を神となし
ている。まこと天地いずれでも何物も肩を並べるものはないように、慢心しきってい
る。だから彼にしろ、その長子の信忠にしろ、横暴に構えていて、直接に口をきいた
り、話しかけるのを許さない。ヨーロッパでは信じられない程の、彼は残忍さを持ち、
そして偉大なる暴君である」
 と、はっきり敵意を示している。
<1582年(天正十年)日本会報>には、
「前年十一月三日、信長は予告なしに神学校へ、ずかずかと入ってきた。彼は『不整
頓と不潔』を極端に嫌う男であるから、清潔な構内には満足をしたらしい。備え付け
のクラポ(空気オルガン)とヴィオラの二重楽奏をして、もし何を企んでいようとも、
その心を柔げるべく、吾らは演奏した。何しろ信長の、『慢心と残酷なる所業』はデ
ウスの教えには遠いものであって、このゼンチョ(異教徒)に対し、吾々は絶えず油
断できないものを感じている」
 と、天主教徒は、信長を絶対国家権力者とは認めているが、少しも安心はしていな
かった。
 十年前の足利政権のまだあった頃は、それに付随する仏教勢力を叩くために、宣教
師は信長に協力し、相互扶助の関係にあった。
 信長も仏教勢力を討つため、足利義昭を追い払うため、一司祭に自分から膳まで運
んで大切にした。しかし今や、すべては信長の天下なのである。かつてはマカオから
の硝石に頼らなくては、その鉄砲隊の威力はなかったが、今や七隻の艦隊を持つ信長
は、いつでもマカオを占領できる立場になっていたのである。
 中南米を征服したイスパニア艦隊は、当時は太平洋へ来て、呂宋のマニラに集結し
ていた。だが織田艦隊の偉容を聞くと、それに対して海戦を好まぬ彼らは、鉾を転じ、
アナタハン、サイパン、テニアン、アグリガンと、カナカ土民系の島々を狙って赤道
地帯へ南下してしまい、パラオ群島に投錨していた。
 だから、もし信長の気が変わったら、この独裁者は、一握りのポルトガル人を太平
洋に放り込み、海底の藻屑にしてしまう事もできた。そして双方に、互いに危機をは
らんでいた。フロイスは、信長の好物の金米糖(コンペイトウ)を取り寄せ、舶来の
菓子をしばしば贈る事によって、酒を呑まない信長の機嫌をとっていた。
 カブラル日本布教長は、身の危険を案じ、日本脱出をしてしまった、だから天正九
年暮れの長崎会議には、カブラルの後任者のガスパールが代わりに出席していた。
 翌天正十年の正月。ヴァリニヤーノは、マカオ向けのポルトガル船が長崎を出航す
る直前になって、神学校の生徒の中から三人の貴公子と一人のすげ替えを、途中の病
没も考え連れ去る計画をたてた。これは前述したが、
「伊藤マンショ、千々岩(ちぢいわ)ミゲル、中浦ジュリアン」それに身分の低い原
マルチーニである。従来の説では、これを「天正少年遣欧使節」とよび、これらの使
節は、九州の切支丹大名の大友宗麟や、大村純忠、有馬晴信らが、各自一名づつ、そ
の子息を変名の許に差し出した事になっている。
 だが、<ペトローラモン書簡>によると、この大友家にいたイエズス派の司教は、
それは嘘だと言う。
「大友家では、伊藤マンショを使節には選んでいない。仮にそういう事があるなら、
司祭の自分に相談した筈である。そして伊藤マンショを宗麟は従弟であって、将来養
子にして跡目にする者だと紹介してるそうだが、それは嘘である。マンショの父の伊
藤祐青は、宗麟の姪の子の従兄弟か、遊び友達である。もし血縁があったとしても、
それはワインよりも薄く、まぁ水ぐらいなものであろう」と、はっきり喝破している。
 そして、大友純忠が、イエズス会総長に宛てた披露の書簡は、現在返還されて京大
にあるが、ローマに残っている大友宗麟のものと、同一内容で同一筆跡だそうである。
つまり、大村、大友、有馬の名をかたって、誰か同一人が同文三通を作ったにすぎな
い。ということは、三大名が派遣したのいうのではなく、ヴァリニヤーノが、行きが
けの駄賃に、誘拐して行った事を証明する。
 目的は簡単である。
(不当に差別されている日本人修道士、及び、その教唆による日本の武士が、行動精
神に燃えて、信長の王朝を倒した時、それにとって換わるべき日本人を、時の教皇グ
レゴリオ十三世に選んでもらい、その祝福を受けさせ、新しくカトリックの王として
戻し、自分らの布教に便ならしむるため)のものでは、なかろうかと考えられる。と
いうのは、その少年使節が、教皇や、イベリヤ半島の王に贈っている「安土屏風」や
其他の進物が、表向きは大友、大村、有馬の三大名からとなっているが、その実、み
なヴァリニヤーノ自身が、信長や、諸大名から贈られた品ばかりなのをみても、うな
ずけるものがある。
 だが、中公新書の<南蛮史料の発見>の一六六頁に、
「少年使節の一行は、次の冬までマカオで九ヶ月滞在し、彼らの宿泊した司祭館は一
九世紀の大火で跡形もなく、なくなってしまい、今では教会の入口の前壁だけが現存
している」とあるが、これは間違っている。
 私は今、そのマカオへ来ているから訂正するのだが、これはセント・ポール教会の
遺跡の事らしく、まるで一枚の戸のように、長い石段の上に正面だけが残っている。
 昔、建物のあった内部には、石畳と石の彫刻だけが、青空の下に、そのままになっ
ている。
 指摘されるように1835年の大火で、すっかり焼け落ちてしまっている事に間違
いはないが、このセント・ポールというのは、「誘拐されてきた少年使節が、ここに
滞在していた時より二十年後の1602年」に、日本から追放されてきた天主教徒の
群れが、これを営々として造築したものである。つまり、いくら少年達が「幻の使節」
であったとはいえ、まだ建てられていないセント・ポール教会へは泊れる筈はなかっ
たろうと、私は思うのである。非常に佳い研究資料の本なのに、この点だけは、まこ
とに惜しいと言わざるを得ない。