1195 信長殺し、光秀ではない 14

 おそらく彼らはヨーロッパで退蔵され、古くなってダンピングされた火薬を、堺へ
もってきて、包装の外箱や樽がまちまちなのを取り繕うために、マカオで製造してい
るとか、採掘していると説明して、新品を装ったのだろうと想える。というのは、印
度へ新しい木樽にはめる鉄のたがなどを発注したのに対しての、1568年5月付の
返信も、マカオ図書館には残っているからである。
 さて、信長はマカオから輸出されて堺で受取る火薬が、横流れして、当時の敵国で
ある仏教徒側の石山本願寺や毛利一族へ渡らぬように取締るために、松井友閑を、宮
内卿法印の位につけ、「堺の政所」つまり輸出管理監督所長に任命していた。ところ
が、それでも抜荷といって、途中で火薬樽が相手方へ廻ってしまうこともあったよう
である。
 そこで、かくなる上は堺を、押さえていても、海上で備前備後の唐人(からうど)
船(ジャンク)によって毛利方へ密貿されるなら、いっそマカオを占領して、天下の
火薬を独占してしまえば、もはや敵する者もなかろうという考えからか、信長は有力
な大海軍を作る事にした。
 外洋にも乗り出せる大型艦を、九鬼嘉隆に六艘、丹羽長秀に一艘作らせた。この船
舶の大きさは、ポルトガル船に匹敵し、船大工に中国人が使われていたのはけしから
ん旨の記載が残っているぐらいである。というのは、この信長艦隊は天正六年七月か
ら堺の沖合いに碇泊していたから、マカオからの連中の目にも入って、恐怖を与えて
いたらしい。
 観艦式のため信長が堺へ行ったのは、廻港されてから二ヶ月目の九月であった。
<今井宗久茶湯日記>及び<宗及自会記>に、このとき信長が、今井宗久や津田宗及
並びに天王寺屋道叱、紅屋宗陽の私宅を個別に訪問して歩き、堺衆に対して敬意を表
したように出ているし、堺の連中も名物の茶器などでもてなしたようになっているが、
その信長の堂々たる行列ぶりは、<山上宗二記>にいうところの、
「一物モ持タズ。胸ノ覚悟一、作分一、手柄一、コノ三ヶ条ノ調ヒタルヲ『侘ビ数奇』
トイフ」という(わびの茶)の精神とは、まったく遠いものである。
 そもそも(わびの茶)の心構えというのは、応仁の乱によって、明国と提携してい
た足利政権の力が弱まり、不当に圧迫されていた神徒の面々が山から降りてきて(後
世は下克上というが)どうにか一城の主か、一店の主になれたものの「初心を忘れず」
つまり、山間に閉じこめられていた頃に何の一物もなく、ただ有るのは自分らの胸の
覚悟の度胸と、何かを作りやってのけようとする努力、そして、それを手柄にまでも
っていける根気。今でいう運、鈍、根の三つを、じっと反省し噛みしめ合う、仏教で
いえば座禅会のような質素なものだから、信長のような派手好きを、
「詫びの茶を好む数寄者であったから、頭に竹の茶筅を模倣した髷を立てていたり、
その子を、茶筅丸とよんだ」と評するのは、やはり違うようである。あくまでも目的
は、天下布武のためのマカオ火薬の確保とみるべきであろう。これは当今の人間が、
接待用にゴルフを始めたり、麻雀のつきあいをしだすのと、あまり変りはないようで
ある。そして派手に振舞ったのは、王者の貫禄の誇示だったのだろうか。
 さて信長は、堺の観艦式の後、万見仙千代という、今でこそ知られていないが、当
時は慶長頃まで「さがの桜は花うつくしけれど、仙千代さまには、うらめでござる」
などと騒がれて唄われていた天下一の美少年の取り合いをして、摂津の荒木村重との
戦いにあけくれ、ついで三木城の別所一族に背かれ、せっかく艦隊を建造したものの、
マカオ遠征などできずに死んでしまったのだが、明智光秀が、後世、その犯人として、
ある程度までは納得されたのも、当時の堺衆の筆頭ともいうべき津田宗及との交際が
激しかったからである。
 なにしろ今でこそ「茶湯」というと、風流としか解さないが、その当時の茶事を司
っていた連中は堺衆。これみな火薬輸入の貿易商である。

 そして当時は黒色火薬の時代で、「焔硝」ともよばれいていたが、その混合成分の
一割の木炭の粉や、(天正元年三月十三日の<兼見卿記>に鉄砲用の灰木十束進上の
記載がある)、一割五分の硫黄は国内で出来もし間に合ったが、成分の四分の三を占
める硝石ばかりは、これは、みなマカオからだった。
 <津田宗久文書>の天正二年五月の項に、当時岐阜城主だった信長に招かれて宗久
等が行ったところ、非常にもてなしを受け、宗久等堺の商人が当時マカオからの火薬
輸入を一手にしていたのに目をつけた信長は、彼らの初めた「わびの茶」を自分もや
っていると茶席を設けてくれた、とある。
 といって勿論、本場は南米のチリーで、現在のメキシコを、ノビイスパニアとして
占領し、そのアズテク帝国を滅ぼし、ペルーのインカ帝国も、征服したスペイン人は、
信長が十二歳の天分十四年に、まずポトシー鉱山をペルーで開発し、ついでサカテカ
ス、ガナファート鉱山を、住民を奴隷にして露天掘させて積み出していた。つまり、
その一部か、又は従来の古くなった硝石が、印度のゴアと、やはりイスパニアに占領
されていた今のフィリッピンの呂宋から、払下げ用として、マカオに運ばれていたも
のらしい。 さて<宗及他会記>によると、堺衆で火薬輸入商の宗及は、明智光秀の
坂本城へ、しばしば招かれて往来し、自分も明智の家老の斎藤内蔵助利三などを招待
している。
 天正九年四月には、光秀と一緒に、その本城である丹波亀山へ行き、逗留。ついで
に案内されて、天の橋立を見物し、細川幽斎、里村紹巴を招き、光秀と4人で連歌を
したという記載もある。九月に、また光秀と行動を共にして、丹波の周山へ、月見に
出かけたというのも出ている。極めて懇意にしていたようである。もちろん、天正十
年に入っても、光秀と、津田宗及の交際会合は、ひっきりなしに続いている。つまり、

 信長‥‥今井宗久
 光秀‥‥津田宗及
 という結びつきで、宗久も宗及も、武野紹鴎門下の当時の茶湯の出頭人であり、商
売の方では、焔硝輸入業者で、競争相手の立場にあった。
 もちろん、秀吉の世になってから脚光を浴びる「千の利休」は、この当時は、まだ
「宗易」と呼ばれ、宗及や宗久の下の身分だった。
 応仁の乱までは弓矢だけで勝敗が決まったものが、鉄砲伝来によって、様相が一変
してしまい、ここに戦国時代が始まり、鉄砲と輸入焔硝を掌握する者こそ、天下人に
なれるという時代だったから、信長と光秀の関係は、安土城では主従であっても、堺
に於いては、その宗久と宗及の比較では、輸入実績は五分々々位のところだったらし
い。だから「明智光秀が天下に志をたてて、信長を葬り去ったのではないか」という
意見も、実はこれから生まれたようである。
 だが、しかし何といっても、光秀が信長殺しにされてしまったのは、ただ、単にそ
んな明快な事由からでもなかったらしい。もっと複雑きわまる当時の事由が、これに
は交錯しきって絡まっているようである。


胡魔

 現存している史料で、変ったものがある。
「明智風呂」のある花園から、大本教で名高い綾部をぬけ福知山線の終点で下車して、
駅前通りを、まっすぐに行くと、金網ばりの鳥の家や猿の小屋のある広場へ出る。こ
こが「ごりょうさん」とよばれている福知山市の御霊社である。
 祭神は宇賀御霊大神。並んで、
 配祀、日向守光秀の神霊。となっている。
 ここが、日本で唯一の明智光秀の神社である。
 ここに宝永二年。つまり赤穂浪士の大石良雄らが切腹した二年後の日付で、
<明智日向守光秀祠堂記>というのがあって、宮司森本孫兵衛が保管している。
 茨城土浦から寛文九年に、この地へ移封された朽木種昌の跡目植治(ためじ)(三
万石)が、ここへ光秀をなぜ祀ったかという趣意書である。
「天正十年六月二日に洛陽にて運を開くや、当邑一千余戸を無税扱いになされた。だ
から、当地方は、本能寺の変後百二十四年間にわたって繁栄してきた。それなのに今
般、特典廃止の知らせが出たから、なんとか菅原道真公が雷となって、ゴロゴロやら
たように、ひとつ冥土から出てきてお救け下さらぬかと、今回ここに、お祀り申しあ
げる次第である。」
 という内容のものである。
 さて、福知山史談会の調べでは、この地は、「秀吉の室ねねの伯父杉原七郎左家次
三万石。(伯父ではなく義兄)
 次に、小野木縫殿助が三万一千石。あとは有馬玄蕃頭豊氏六万石、岡部内膳正長盛
五万石。稲葉淡路守紀通四万五千石、松平主殿頭忠房四万五千七百石。そして朽木氏」
と、約百二十年間に七代も当主が変っている。
 そして、七代にわたって福知山の城下町の一角の千余戸が無税だったという事は、
これは、ところの領主の管轄区域ではなかった「特別地帯」という事になる。
 光秀は、その天正十年六月九日に、禁中へ銀五百枚、五山や大徳寺に各百枚。六月
七日に勅使として下向した<兼見卿記>の主人公に、銀五十枚。そして京都の住民に
「地子銭免除」はした。(これは、明治六年の地租税改正から、土地の私有を認め、
その代り今の固定資産税のようなものをとりだしたが、それ以前は、土地は公有地と
してその貸地料を税金にとられていた。つまり、それの免除ということである)
 だが、なんで丹波の福知山までを、ノー・タックスにする必要があったのか、考え
られもしない。ところが、この土地の<福知山音頭>の第一章も、「明智光秀が開い
たところヨイヨイ」で始っている。だから御霊神社にも、「天正七年、並びに八年に、
丹波攻略の指図をした光秀の命令書の二通」と、「明智軍法十八ヶ条」といわれる注
意書一通が宝物として残っている。
 だが、福知山と光秀とは何の関係があるかというと、どうも伝承と事実は違ってい
る。だいたい、ここはもともと丹波党の塩見一族の根拠地で、それを横山大膳が奪い、
土をかきあげ、砦をこしらえて守っていたのを、天正七年八月に信長の命令で丹波攻
略に侵入した光秀の娘婿、明智秀満が占領。
 砦を崩して築城し、天正九年九月に福知山城を落成させ、これを信長の命令で、杉
原七郎左にわたし、秀満は城を明け渡した後、実父を、横山の館に住まわせていたに
すぎない。
<兼見卿記>に「秀満の実父は天正十年六月四日すぎ丹波福知山横山にて捕縛、七月
二日粟田口にて張付けにせらるる」とあり、<言経卿記>「老父六十三なりという」
と出ている
 しかし、明智光秀とのつながりの史料は何もない。無縁な土地なのである。それな
のに、
「光秀の特別措置だから納税免除」というのは、どう考えてもおかしな事例である。
 もし想像で、これを追求することが許されるならば、福知山一千余戸が、ところの領
主と無関係に百二十四年年も保護されてきたというのは、裏返せばつまり、
(隔離をされていた事)になる。
 これらの土地者こそ、忽然として天正十年六月二日の暗いうちに上洛して、午前九
時頃までに、本能寺と二条御所を囲み、片をつけて、光秀が近江坂本衆三千を率いて
上洛したとき、すうっと消えてしまったところの「幻の軍隊」ではなかろうかと疑問
が湧く。
 つまり、天正十年六月二日に、「洛陽で運を開いた」のは、光秀ではなく、その光
秀に見せかけるのに成功した、この「幻の軍隊」の指揮者か、または、これを操った
蔭の人物であろうと考えられる。
 ここで「幻」という言葉を使ったのは、山崎闇斎門下の加藤水草翁という、尾州藩
の儒者が、延宝甲寅(1674)に出した
<西国巡渉記>の一節に、
「丹波の山家(やまが)より、亀岡へ向かうに、胡魔(ごま)という険所あり、昔、
あまたの武者、幻を見あやまりて谷底に落ち、死者千余をだすという稀代な切所あり。
越後などで海面に浮かぶ水幻と同じものなるか、道ありと見誤りて、獣も落下すると
いう。当今の『ごまかす』『ごまかし』の語も、ここより出づと、土地の故老の説な
り」という個所からである。
 そして今では亀岡と改名されている丹波亀山の近くに、この胡麻の地名は残ってい
る。
 だから六月二日の午後、洛中から引揚げて来た丹波衆の先頭部隊であった福知山連
隊の千余名は、誤って、その蜃気楼の道に踏み込み、谷底へ落ちてしまった。そして、
みな無残な死をとげたのではなかろうか。なにしろ、ここの兵が勇敢な事は「私のス
ーちゃん勇ましい。福知山ナントカ連隊の兵隊さぁん」という歌さえ、軍国主義の華
やかだった大正時代には、大流行したくらいである。
 つまり凱旋の途中、不幸にして事故死を遂げた千余の者の冥福を祈る為、「遺家族
扶助法」が発令され、その妻子に限って、免税の優遇措置がとられ、まさか「信長殺
しにより」とも言えぬから「明智光秀の恩情により」とごま化されたのではあるまい
か。
 光秀が実際に、そんな免除をしたものなら、直ちにそんな優遇は廃止されてしまっ
たであろうと想われる例証として、
<京柴野大徳寺文書>に、
「大徳寺へ光秀が寄進せし銀百枚、直ちに返すよう申しつけるものなり、天正十年六
月十九日。三七信孝 謹言」
 という命令書が現存している。つまり光秀が死んで六日目には、一休宗純で名高い
お寺へ寄進されたものさえ、信長の三男の信孝の名で回収されている。まして、名も
なく貧しい福知山の人民への優遇など、百二十年も放っておくわけがない。だから、
これは余程の理由があったとみるのが至当のようである。
 それと、もう一つ。現行の歴史では、
「丹波福知山三万石」は、山崎合戦で光秀が敗退した後、秀吉が占領し、「己れの家
老にして妻ねねの親類である杉原氏の領地にした」という事になっている。
 定説である。
 ところが、福知山御霊神社宝物殿に蔵されてある櫃の中にある虫喰いだらけの、
<椙原系図>によると、とんでもない話だが、ここは本能寺の変の二年前から、
「天正八年拝領する福知山城、杉原七郎左ヱ門家次」となっている。
 この七郎左家次は、織田信秀の頃から仕えた御槍奉行の杉原十郎兵衛尉家利の跡目
である。
 天正七年八月に、ここを占領した明智秀満が築城に天正九年九月まで懸かったかど
うかはわからないが、信長から七郎左が朱印状でもらっているのは、天正八年である。
 丹波というと、みな明智の所領と勘違いするから誤解を招くが、福知山城は、少な
くとも天正十年初から、杉原七郎左という秀吉の親類のものだった。
 だが、こういう例は多い。丹後の細川領の中でも、二割りから三割は明智領である
し、その細川だって、あべこべに丹波の中の桑田、船津の二郡は細川領である。所領
が統一されだしたのは慶長期以降の事である。
 なお、杉原七郎左は、天正十二年九月九日に福知山城内で死亡。五十四歳。福知山
奥野村の医王山長安禅寺に墓がある。

 さて、こういう具合にわけてゆくと、
「丹波亀山衆一万三千」というのは
 (福知山の杉原衆千余名)と、それに加えて、
 (桑田、船津の細川領三千位)が、まず混入されていた事が明白になる。そして、
<ルイス・フロイス天正元年報告書>によれば、「足利義昭の二条城には、丹波亀山
の内藤党の射撃手千人を含む五千人の兵士が、たて篭もり、三つの堀と、おびただし
い旗を立てた稜堡(りょうほ)によって、難攻不落の有様をみせ、包囲する信長を口
惜しがらせた」と記載されている徒党。
 つまり、この十年後ではあっても、丹波亀山衆の主力をなしていたのは、やはり、
かつて信長と敵対しあったところの勇敢なる、
(内藤党の残党約五千名)ということになろう。
 これで合計九千余名になる勘定で、残りの四千が、この亀山周辺の山家(やまが)
その他の丹波衆ということになる。だから、いくら亀山は光秀の本城だからといって、
彼が掌握していた兵とは言いきれぬし、これでは自由行動を起こし、あっという間に
何処かへ行き、何をしでかしたところで、光秀にしてみれば、信長という絶対権力の
後楯のない限りは、くい止めようもない。だから、頼れるのは、子飼いの坂本衆三千
だけというのも、また無理からない。
 ところが<川角太閤記>にしろ<甫庵太閤記>にしろ、みな慶長よりずっと後世の
贋作か、またはリライトされてしまった捏造本にすぎないから、丹波勢一万三千とい
えば、みな光秀の直属と勘違いしてしまって、ああいうような間違いをしてしまうの
でる。
 高柳光寿氏の<戦国戦記>の164頁にも、「丹波福知山天寧寺所蔵の天正九年十
月六日付の諸色免許状に、明智秀満の名がある。だから、福知山は、天正九年頃は秀
満が城主であった」とある。そして、後は誌されていない。
 つまり、天正十年の領主が、秀吉の妻ねねの親類である杉原家次である事は否定し
てはいない。
 といって、「本能寺の変は、秀吉が、杉原家次を使嗾して、信長の不意を突かせ、
使った武者を途中の胡魔峠で全員虐殺させ、証拠隠滅を計ったものである」「なにし
ろ、当時は杉原は秀吉の寄騎ではあったが、まだ家老ではなく、信長にすれば一代者
の新参奉公の秀吉より、親子代々奉公の杉原の方が信用があったのを、巧く利用した
のだろう」
 などといったような、早計な事を、まだ、ここで言っているのではない。
 次に、最も信頼できる高柳光寿先生の、<本能寺の変・山崎合戦>の68頁を引用
させていただく。
「家康は六月四日に岡崎へ帰ると、居城浜松には赴かないで、翌五日には部下一同に
出陣の用意を命じ、十四日には自分で兵を率い、尾張の鳴海まで出陣し、十六日には
先鋒の酒井忠次は、今の愛知県の津島に到った。ところが十九日になって、秀吉から
光秀の滅亡を報じ、帰陣するように言ってきたから、一日おいた二十一日に、家康は
軍を帰した」
 と、当時の家康の行動の説明がある。
 名古屋の鳴海、津島あたりから、山崎までは、今なら車で二時間の距離である。し
かも家康は伊賀者、甲賀者の集団をもっている当代一の武将である。それが、
「十二、十三日の山崎合戦を、十九日になって、秀吉から教わるまで知らなかった」
という。しかも通知を受けても「念のために二十一日まで留まっていて、ようやく引
き揚げた」のであるという。
 ところが、その秀吉たるや、
「六月二日の信長殺し」を、備中高松で毛利方の逆包囲を受けていながら、翌三日に
は、もう耳にして、その三日の夜には、
「備中高松城主の清水宗治を切腹させ、備中、美作、伯耆の三ヶ国を割譲させる」と
いう講和を成立させ、翌四日の午前に、宗治に腹を切らせ、兵をまとめて六日の夕方
に高松を出発し、七日には本城の姫路へ着き、九日には兵庫に出陣し、十二日日から
山崎合戦である。
 比較してみると、「どちらかがあやしい」実に変である。
 秀吉の方が正しければ、家康は狸親爺をきめこみトボケていたか、また「明智と羽
柴の両軍が疲れ切ったところを一度に屠ろう」と待ちかまえていて、失敗したかの、
どちらかとも考えられる。
 しかし家康が、山崎合戦の確認に九日かけたのが本当なら、秀吉の方は「神速果敢」
などというものではない。
 あまりにも、それは予定の行動でありすぎる。
 無条件降伏であっても、こうも速くできるものではない。おそらく何日も前から談
判して、練りに練って煮つめたものの仕上げでなければ、こんな短時間に、最後交渉
が、さっさと決まるものではない。
 ところが六月二日前は、講和どころか、信長自身が出陣してきての一大決戦の筈で
あった。まるっきり、ここで話が違う。
 これでは、星占いでもして、六月二日に信長を昇天させてしまう神の啓示をきいて
いたか、又は、自分自身の努力によって骨をおり、そして、その結果を待っていたと
しかいいようもない。
 そういう疑惑をはさむと、目につくのは、杉原家次の扱い方である。
<秀吉事記>によると、水面に浮かんだ高松城から、清水宗治が切腹するために小舟
に乗って現れてくると、家次が検使として、
「天晴れ、武士の誉れでござると」と、やはり小舟を漕ぎ寄せ、酒肴を贈ってねぎら
い、よいところを見せるのである。そして、秀吉は、「高松城の受取り役の正使」こ
れにも、また家次を起用している。
 他に人がいないわけでもないのに、杉原家次ばかりを、いかにも人目につくように
動かしすぎている。これは、
「杉原は、こちらへ来ている。丹波にはいないんだ」というアリバイ作りのように見
えて仕様がない。
 それでは、杉原家次が備中へ行った後の福知山衆を率いた者は誰かという事になる。
 もちろん、こんな例証になるものが残っているわけはないから、これは推測だが、
家次が病没した後、本来なら、その跡目の伯耆守長房に継がせるべきなのに、秀吉は
年若な杉原長房を但馬豊岡三万石へ移してしまい、後釜に小野木縫殿助というのをも
ってくる。
 なにも福知山は要塞の地でもないから、当時二十三歳の長房でも良いと思うが、秀
吉の目には不安に見えたのであろうか。しかも念のために、ねねの妹の嫁いで産んだ
浅野弾正の娘をこれに押しつけている。何かの秘密漏洩を気づかって、徹底的な近親
婚を強いるのである。
 このため、重長が産まれ、後三木城三万石へ、また移封し、これに竹中半兵衛の孫
娘をあてがうが、これで、ついに杉原の血脈は絶えてしまうのである。


縫殿助

 さて、小野木縫殿助というのは、清次郎とよばれた頃から、秀吉の子飼いで、天正
元年九月に、
<浅野家文書>によれば「二百五十石にて、近江長浜時代の秀吉に奉公した」とある。
「馬のり五百貫」といわれた時代だから、その半分で、乗馬できない徒歩武者である。
 この男が、いくら子飼いの者とはいえ、突然として三万石の福知山城主になるので
ある。もちろん、
<一柳文書>などによると、
「天正十二年小牧合戦にあたり、伊勢神戸城その他を守りし功により」とあるが、そ
の前年には伊勢合戦はあったが、天正十二年には、戦のあったのは、小野木のいた伊
勢神戸ではなく、尾張長久手の方である。何処からも攻められたというのでもなけれ
ば、何も小野木が唯一人で守ったというのでもない。ただ守備兵の一人として廻され、
勤務していたというのに、これはすぎない。功労などない。
 ところが、それが一躍、三万石の殿様になってしまう。
<歴名士代記>という当時の記録によると、堂々と秀吉によって、「天正十三年七月
十三日付にて従五位下に任官し、縫殿助に叙せられる」となる。
 なんの手柄か、全然判らない。といって、杉原家次が目につくように備中へ残って、
高松城の預かり城番として残留している蔭にまわって「小野木は丹波福知山衆を引率
し、京へ乗り込んで本能寺を襲撃したろう」などとも、これは証拠なしには一概に言
えない。

 だが、細川藤孝、忠興にとっては、小野木は、(何かを知られている、消してしま
いたい存在)だった事は事実である。
<豊臣大名分限帖>によると、小野木は、「三万一千石より四万石に昇進」という幸
せな身分だったが、秀吉に死なれると運命が逆転してしまう。
 つまり、この小野木縫殿助は、関ヶ原合戦に先立って、大坂城下鰻谷(うなぎや)
町橋口詰所の警備だったが、七月十八日丹後方面司令官に任命された。かつては二百
五十貫取りに過ぎなかった身分が、別所豊後守、山崎左馬助、谷出羽守以下一万五千
を率いての出陣だったから、さぞかし気持が良かったであろう。だが、良い事の後に
は、決まって悪い事が廻って来る。
 さて、七月二十一日に東軍の徳川方へ味方した細川忠興の留守城の田辺城を包囲し
た。
<丹後旧事記>によると、
「三刀谷(みとや)監物孝和という者あり。もと毛利方の臣なるも浪人して京の吉田
山にあり。吉田山の吉田兵衛督兼治(ひょうえのすけかねはる)によって、その一族
郎党百三十人と共に丹後へ駆けつく。細川幽斎、喜び、これを迎える。しかし合計城
内は武者五十人。雑兵を合わせて五百人にすぎず」
 といった陣容が細川方である。五百対一万五千なら、すぐにも勝敗がつきそうなも
のだが、小野木と細川は前に何かの因縁があったのか、どうも、まじめに合戦をして
いない。
 最大の激戦は七月二十五日であるが、
「敵は東西より一度に、ほら貝をたて鬨の声をあげ攻め寄せてきたから、天草櫓の松
山権兵衛が小林勘右と共に、小野木方の武者に鉄砲を撃ちかけ、黒甲黒皮おどしに鳥
毛の棒を指物にした大将株と、それに従う旗持ち六、七人を傷つけたところ、残敵み
な堪えかね、一斉に敗軍つかまつり」と、七人ぐらいが傷をすると、それでもう総退
却だし、「大手口に一団となって敵が来襲し、攻め声をかけて打ちかかるのを、鉄砲
にて旗指物武者を狙って倒したところ、後の敵勢は鼻じろみとなって縮み上り、道に
立止り溝に匿れるか木の切り株に取り付きかがみ、次々と、その隠れた者の背後へ取
り付いてしまって動こうともしなかった」
 と<宮村出雲守篭城覚書>にある。なにしろ寄手に戦意がなさすぎる。
 だから、こういう具合の合戦では、きりがない。
 そこで、
<桂宮御記録>によると、
「三条西大納言と中院中納言が、寄手の総司令官の大坂城へ行って、和解の勅令を伝
え」田辺城へは烏丸中将光広と丹波亀山城主の前田通勝が行って「停戦」させている。
そして、
<洞院時慶卿記>には、
「九月三日、日野大納言、中院中納言、勅使として丹後へ下向」とある。
 つまり九月十二日から、田辺城は、仲介人の前田通勝が預って城番になり、細川幽
斎は前田の居城の丹波亀山の本丸へ、五百人の家来と共に移った。
 小野木縫殿助も、恰好がついてよかったと、攻撃軍を解散させて福知山へ戻ってい
ると、突如として、関ヶ原合戦から戻り道の細川忠興に攻めこまれた。和平を愛し人
命を尊重し、ろくに田辺城を攻撃しなかった小野木が、あべこべに激烈な城攻めを受
けた。
「話が違う。こんな莫迦げたことはない。丹波亀山へ行って、親爺殿の細川幽斎と対
決したい」
 ということになって、縫殿助は城を出て、亀山へ行った。だが、城へは入れられず
に、
「面会場所として、寿仙庵という寺」
 へ案内された。ここで詰め腹を切らされたか、瞞し討ちにされたか判らないが、胴
体と首が、その細い部分において切断をされた。十月十八日の事である。
<寛政譜><田辺戦記>にかかると、翌年十一月には、
「神君家康公におかれては、その武威をご賞揚なされ、褒美として細川忠興公に、九
州豊前一ヶ国を賜る。旧に三倍する程の破格な恩賞なり。尚、幽斎候にも、隠居分と
して六千石を下しおかれる」
 という大手柄に、これはなるのである。
 細川家としては、福知山の小野木を処分したい必然性はあったろうが、徳川家康も、
こうなるとなんだか怪しくなる。なにしろ関ヶ原合戦は九月十五日で終わっている。
田辺攻略は、強制和解が成立している。なにも小野木が乗取りしたわけでない。小野
木は引揚げている。それなのに一ヵ月後、私怨をはらすように忠興は、おとなしてい
る小野木を攻め、瞞し討ちのように首をはねる。これは穏やかな話ではない。平和時
だから、殺人である。
 どうも家康の使嗾でやったとしか考えられない。だから、忠興の倅の代には肥後熊
本五十四万石にまでなる。信長時代の三万石の身分からみると、実に十八倍。出世す
るのには、なにか隠されたわけがあるらしい。
<梵舜日記>では、吉田神社の末社の三社神社は幽斎を祀るといい、旧三高の吉田山
から吉田小学校の裏までを「隠居町」というのも、細川幽斎が豊後国東郡富来城に住
まず、洛北で世を去った名残りだというが、同じ丹波亀山一万三千の中核部隊であっ
たとしたら、小野木縫殿助に比べて随分、運勢が違うものである。勿論、それには相
応の物的証拠の腐心もされている。

<細川家文書>として残されているものに、<沼田権之助光友来書>というのがある。
「御父子共に元結を切払れし由、余儀なきことにて候(なにが余儀のないのか。信長
に以前に助命された報恩でもあれば別だが、そんな事はない。信長の遺臣の中で、髷
を切ったのは彼ら父子だけだという限定事実を考えると、どうも髪を切って詫びねば
ならぬような事を、細川父子はしているらしい)(それだから光秀としても)一旦は
我等も腹を立てたが(ここが難しい。『我等』と複数にしてあるところをみると、細
川父子以外の者の殆ど全部、つまりこういう用語法は『吾等ばかりでなく、一般の者
も』という場合に使われる事が多いからである)思案の程かようにあるべきと考え
(どういう気で、あんな、大それた事をしでかしたのかとも考えはした)しかれども、
この上は大身を出されて(原文は被出候。つまり従来の解釈では、権之助に手紙を持
たせた光秀のほうが、細川に対して大身にしてあげる大禄を差し出しましょうと言っ
たように解読するが、どうやら歴史家がちがうらしい。これでは、細川に出せられ候
よと言っているのである)まあ、じっこんにと、のぞみおりそろ」

 ただし、この後の第二節は訝しい。後から贋作するときに書き直したらしい。てん
で第一節とつながらない。どちらも原文そのままだが「国の事、内々摂津と存じ当り
候あいだ、御のぼりを相待ち候つる。但若之儀思召寄候わば、是以て同前より差合き
と可申付候事」
 従来の解釈では、「摂津一国を進上しよう。但馬若狭を望まれるなら、これをもっ
て、摂津より差引きに充当してよい」という光秀の言い分とされている。つまり、こ
れらの国を餌にして誘ったというのであるが、普通の常識では、相手の欲しがる物を
もって誘うのが普通だから、これは変てこである。
 というのは、細川幽斎が、最も欲しいのは摂津ではなくて山城の筈である。それに
摂津は、高槻に高山重支、茨木に中川瀬兵衛といったように、この時点では、まだ光
秀の寄騎衆の領地である。(これを取り上げて他へ割譲できるかどうかは、これは考
えるまでもない)
 さて、山城国乙訓郡の男山に向かい、桂川に沿った勝竜寺城は、この時は信長から
貰って光秀のものであったが、幽斎の祖父の元有が築城したものである。そして以前
の永禄十一年九月には、一旦は幽斎のものになっている。もし光秀が誘う餌にするの
ならば、当時は自分の持城で、幽斎誕生の勝竜寺城のある山城をもってこそするのが、
これは当然な事であろう。
 (但若)を「但し若」と判断するならば、これは幽斎の妹聟の武田大膳大夫義統の
かつての領地である。
 幽斎も若い頃は義昭を奉じて滞在していたから、若狭の国ならば欲しがるかとも納
得できるが、しかし、<若州観述録>では、天正八年つまり二年前から、幽斎の甥に
あたる孫八郎元明の領国である。どうして光秀が誘い餌にするのに、幽斎の妹の倅の
土地をもって誘惑するだろうか。
 もし従来の解釈のように但若を二国とみれば但馬の国たるや細川には、何の関り合
いもない土地である。夜店のバナナの叩き売りだって、やたらむたらに何でもつけて
客寄せするものではない。だから、この一節は、常識では考えられない。つまり、光
秀は幽斎を誘ってはいない。
 あべこべに堪忍料として、(丹波国内に光秀領が多いから、その丹後をよこせ)と
光秀が言うような所が、この最初の第一信だったのではあるまいか。
 なにしろ後年になって細川は、肥後五十四万石などという謎の出世をするものだか
ら、当時の細川の身代も過大に誤られやすいが、
<細川家記>でさえ、
「天正三年、信長は幽斎の度々の戦功を賞し、ここに丹波国内、船津、桑田の二郡を
もって、その封となさしむ」
「天正五年十月。光秀は兵五千を率い丹波大江山に陣す。幽斎はその倅忠興以下三百
五十を率いて、それに従い、田能越に到る」
 とあるくらいの身分の格差。つまり明智家と細川家では十三倍から十四倍の距りが
あったのである。
 どうして「一国くれてやる」の「二国やる」のといったような、そんな大層な招き
方を細川にする必要などは、当時としてはなかった筈である。
 さて、ひっかかるのは、その第三節である。
 肝心な個所ゆえ、ここは先に原文だけを引用する。
「我等不慮之儀存じ立て候は、忠興など取立て申す可しとての儀に候。更に別条なく
候。五十日、百日之内には、近国之儀相い固め候うべく候間、其已後は十五郎(光秀
の長子)与一郎(幽斎の長子の忠興)殿などへ引渡し申候て、何事も存じ間じく候。
委細は両人に申す可き候こと」
 これに「以上、六月九日  光秀判」
 となっているが、前もってことわるが、光秀は、こんな訳の判らぬ悪文を書く男で
はない。さっぱり意味不明な個所もある。
 なにしろ、現代だって牛の絵が印刷してあっても、中身はウマ罐だったり、ハムと
いっても魚肉のものもある。「光秀」と名があっても、信じられはしない。
 なにしろ、江戸期は系図屋といって(今でも承知で盗品売買する故買商を、ケイズ
ヤと言っているのは前に書いたが‥‥)、銭さえ出せば、天皇家や足利将軍家にさえ
も祖先が連結しているように、系図を作製してくれる商売があったくらいである。細
川五十四万石の資本力があれば、古書や古文書くらい、何でも専門家にやらせればで
きてしまう。との想像も成り立つ。
 次に忠興は、光秀の三女の玉(ガラシャ夫人)の夫には違いないが、光秀はその他
にも、明智秀満、津田七兵衛(織田信澄)という娘婿がある。どうして嫁に娘をやっ
た父親の立場で、その内の一軒にだけよくするという事ができるだろうか。
 だから細川忠興を取り立てるために、光秀がわざわざ信長を討つはずもない。それ
に、ここには「我等不慮の儀をした」とは書いてない。「存じ立て候こと」つまり
「考えて、それを意思表示として発表したのは」というくらいの意味であろう。
 これならば、第二節さえとばしてしまえば、第一と第三は連結できないでもない。
「一旦我らも憤慨して腹を立て候ども、(まぁ、やってしまった事は仕方なかろう)
と考え(近畿管区司令官として最高地位にある自分が)この不慮の出来事にかんして、
<存じ立て>(ステートメント)など発表したのだが、(かくなる上は是非もないの
で)なんとか三ヶ月以内には近くの国内だけでも固め、あとはうちの倅や、そちらの
忠興殿(なぜ十三分の一の身分の幽斎の倅の娘婿に、殿と敬語をつけたかというと、
この筆者が光秀ではなく、忠興の家臣だったかららしい)へ廻して、よいようにやら
せたら、如何であろうか」といった具合になってくる。