1194 信長殺し、光秀ではない 13

 なにしろ、この六月二日というのは目が眩みそうな暑熱厳しい日で、みな、それで
なくても、蒸し暑い京の町で、うだるように悶え喘いだにしても、まだ夜明け前の午
前四時では、太陽も出ていない。
 前日の大雨で、本能寺のさいかちの森も、まだぐっしょり濡れた侭だったろうし、
本能寺の周囲の濠も、溢れるように水が湛えられていた。
 だから、本能寺の便殿も客殿も、本堂も、厩小屋の屋根も、まだ、雫をたらし、し
っとりと湿った侭だったろう。
 ところが<信長公記>では、
「既に御殿に火をかけ、焼け来たり候」
としか、出ていないが、<天正記>では、
「御殿に、お手ずから火をかけ」となる。
 当時の事なので、ガソリンをまいたり灯油をかけて放火したのでもなかろう。
 それなのに雨で濡れていた本能寺の各種の建物が、カチカチ叩く火打ち石で、すぐ
燃えつき、たちまち堀割を越して、さいかちの濡れた生木の林を燃やし、本能寺の森
を火焔に包み、四条の民家にまで飛び火して羅焼という、そんな強度な大火に、どう
してなるだろう。これも不自然すぎはしないだろうか。
 こうなると、これまでの俗説のように、
「信長が、もはや最期と思召され、本能寺に火をつけ、お腹を召された」という話は、
全くのデフォルメになってしまう。
 しいて自害とみたいなら、また、<当代記>にある「終(つ)いに、御死骸見え給
わず」という答えに合わせるためには、硫酸の水槽へとびこんで、身体を融かしてし
まうか、その屍体の始末方法はないはずである。
 しかし、この時代に硫酸は、まだ日本にはない。
 すると、信長は、「弓も引かず、槍も突かず、火もつけず、腹も切らず」という事
になる。
 だが、秀吉に対して、その家臣の大村由己が、どういうふうに書いて満足させたか
という参考に、彼の<天正記>の内から<惟任謀叛説>の「本能寺」と「二条御所」
を原文の侭で採録してみる。そのデフォルメぶりを参考にと思うのは、この程度のも
のが、「信長殺しは光秀」の証言であるという情けない真相の解明でもある。


天正記

「本能寺の変」
 惟任公儀を奉じて、二万余騎の人数を揃へ、備中に下らずして、密に謀反をたくむ。
併しながら、当座の存念に非ず。年来の逆意、識察する所なり。さて、五月廿八日、
愛宕山に登り、一座連歌を催す。光秀、発句に云はく、「時は今あめが下しる五月か
な」
 今、これを思惟すれば、則ち、誠に謀反の先兆なり。何人か兼ねてこれを悟らんや。
 然るに、天正十年六月朔日夜半より、かの二万余騎の人数をひきい、丹波の国亀山
を打ち立ち、四条西の洞院本能寺相府の御所に押寄す。将軍、此の事夢にも知り召さ
れず、宵には信忠を近づけ、例より親しく語らい、吾が壮年の昔、唯今残る所なき果
報を喜び、兼ねて万代長久の栄輝をたくみ、村井入道・近習・小姓以下に至るまで、
御憐愍(ごれんびん)の詞を加へ、深更に及ぶ間、信忠は暇乞ひありて、妙覚寺屋形
に帰り入り、将軍は深閨に入りて、佳妃・好嬪を召し集め、鴛鴦(えんおう)の衾
(ふすま)、連理の枕、夜半の私語、誠に世間の夢の限りに非ずや。
 惟任は途中にひかえ、明智弥平次光遠、同勝兵衛、同治右衛門、同孫十郎、斉藤内
蔵助利三をかしらとなし、其の外の諸卒四方に人数を分けて、御所の廻りを取り卷く。
夜の昧爽(あけぐれ)時分に、合壁を引き壊(やぶ)り門木戸を切り破り、一度に颯
と乱れ入る。将軍の御運尽きるところ、頃(このごろ)天下静謚の条、御用心無し。
国々の諸侍、或は西国の出張と云ひ、或は東国の警固として残し置く、又、織田三七
信忠は、四国に至りて渡海あるべき調儀のため、惟住(これずみ)五郎左衛門尉長秀、
蜂屋伯耆守頼隆相添へ、泉堺の津に至りて在陣。其の外の諸侍、西国御動座御供の用
意のため、在国せしめ、無人の御在京なり。偶々(たまたま)御供の人々も、洛中所
々に打ち散り、思ひ思ひの遊興をなす。御番所に慚く小姓習百人に過ぎざるものなり。
将軍、夜討ちの由を聞し召され、森蘭丸を召して、これを問へば、則ち、惟任が謀反
の由を申し上げる。怨みを以て恩に報ずるの謂はれ、ためしなきに非ず。生ある者は
必ず滅す、是れ亦、定まれる道なり。今更に何驚くべけんや。弓をおつ取り、広縁を
差して打ち出で、向かふ兵五、六人、これを射伏せ後、十文字の鎌倉を持ち、数輩の
敵を懸け倒し、門外におよびて追ひ散らし、数箇所の御疵を蒙り、茲を差して引き入
り玉ふ。
 森蘭丸を始め、高橋虎松・大塚又一郎・菅谷角蔵・蒲田余五郎・落合小八郎等、御
傍を離れざる面々なり。これに依つて、一番に取り合くちせ、同じ如くに名乗り出で、
一足も去らず、枕をならべて打死す。続いて進人々は、中尾源太郎め狩野又九郎・湯
浅甚助・馬乗勝介・針阿弥、此の外、兵七、八十人、思ひ思ひの働きをなし、一旦防
戦すと雖も、多勢に攻め立てられ、悉くこれを討ち果たす。将軍此頃、春の花か秋の
月かと、翫び給ふ紅紫粉黛(こうしふんたい)悉く、皆さし殺し、御殿に手自ら火を
懸け、御腹を召されおはんぬ。

「二条御所の陥落」
村井入道春長軒、御門外に家あり。御所の震動を聞きて、初め喧嘩かと心得、物の具
も取敢へず走り出でて、相鎮めんと欲して、これを見れば、惟任が人数二万余騎囲み
をなす。かけ入るべき術計を尽くすと雖も、叶はず、これに依つて、信忠の御陣所の
妙覚寺に馳せ参じて、此の旨を言上す。
 信忠は、是非、本能寺に懸け入り、諸共に腹切るべき由、僉議ありと雖も、敵軍重
々堅固の囲ひ、天を翔る翼に非ざれば、通路をなし難し、寔(まこと)にこれ咫尺
(しせき)千里の歎き、なほ余りあり。
 然るに、妙覚寺は浅間敷(あさましき)陣取りなり。近辺において何方(いずかた)
か腹る切るべきの館、これあるべしと、御尋ねありしに、春長軒承つて、忝くも、親
王の御座、二条の御所然るべき由言上仕り、二条の御所へ案内申す。
 忝くも、春宮(とうぐう)は、輦(てぐるま)に召し、内裡(だいり)に移し奉り、
信忠僅かに五百ばかり、二条の御所に入る。将軍の御馬廻、惟任が残党に隔てられ、
二条の御所に馳せ加わる者一千余騎。御前にこれある人々、御舎弟御坊織田又十郎長
則・村井春長父子三人・団平八景春・菅屋九右衛門父子・福住平左衛門・猪子兵助・
下右(おろし)彦右衛門・野々村三十郎幸久・走沢七郎右衛門・斉藤新五・津田九郎
次郎元秀・佐々川兵庫・毛利新介・塙伝三郎・桑原吉蔵・水野九蔵・桜木伝七・伊丹
新三・小山田弥太郎・小胯与吉・春日源八、此の外、歴々の諸侍、思ひ切つて、惟任
が寄せ来たれるを待ち懸けたり。
 惟任は、将軍御腹を召し、御殿に火焔の上るを見て、安堵の思ひをなし、信忠の御
陣所を尋ぬれば、二条の御所に楯篭(たてこも)らるる由、これを聞きて、武士(も
ののふ)の息を続(つ)がせず、二条の御所に押寄す。御所には、勿論、覚悟の前、
大手の門戸を開き置き、弓・鉄砲前に立て、内にひかえる軍兵は思ひ思ひの得道具を
持ち、前後を鎮め居たりけり。魁の兵、面もふらず、懸かりたり。前に立てる弓・鉄
砲、差し取り引き取り射退け、たじろぐところについて出で、追払ひ推し込み、数剋
防ぎ戦ふ。敵は六具をしめ固め、荒手を入れ替え入れ替え、攻め来たる。味方は素膚
に帷一重(かたびらひとえ)、心は剛(たけ)く勇むと雖も、長太刀・大打物、刃を
揃へて攻め入れば、此には五十人、彼には百余、残り少なに打ちなされ、御殿間近く
詰め寄せたり。信忠御兄弟、御腹巻を召され、御傍にこれある面々百人許り具足を着
け、信忠一番に切つて出で、面(おもて)に進む兵十七、八人これを切り伏す。御傍
の人人、われ劣らじと、火花を散らし相戦ひ、四方に颯と追ひ散らす。其の時、明智
孫十郎・松生三右衛門・可成(かなり)清次、其の外、究竟の兵数百人、名乗り、取
つて返し、切つて懸かる。信忠御覧じて、真中に切つて入り、此頃稽古仕給ふ兵法の
古流、当流秘伝の術、英傑の一太刀(ひとつたち)の奥義を尽くし、切つて廻り、薙
ぎ伏す。孫十郎清次・三右衛門、首丁々と打ち落とす。御近衆の面々、力の限り切り
合い、内に攻め入る敵の人数、悉くこれを討ち果たす。最後の合戦、残る所なく、将
軍の御伴を申すべしと、御殿の四方に火を懸け、真中に取り篭め、腹を十文字に切り
給へば、其の外の精兵、敷皮をならべ、腹を切り、「一度に焔となりぬ」将軍御歳四
十九、信忠御歳二十六、悼むべく、惜しむべし。上下万民に至るまで、皆、愁涙を滴
らしけり。

 ----云わずもがなの事であるが、「兵法の古流、当流秘伝の術」「一太刀の奥義」
というのは、幕末天保十四年に<新選武術流祖録>という硬派本が出てから、弘化・
嘉永の木版刷の「剣客伝」にきまって出てくる「当時の流行語」である。‥‥ここに
転載した原文も、天正十年の作とは伝わるが、これまた、やはり幕末の二百七十年後
のリライトもののようである。


               殺し屋はこれだ

レース

「ナウン・デイーガ・タル(そんな事、何の意味があるの)」
 眼鏡の奥から彼女は言った。そして覗きこむように、じっと見詰めた。別に、わざ
と突きかかってきているわけでもないらしい。
「‥‥コンフイアール(信じたらいいんじゃない)」
 つけたして忠告した。「ナウン・エー・イツンー(でなけりゃあ)」と声を落とし
て、
「アバンドーナル(放っておくのよ)」と言った。
 つまり、彼女にかかると、生きている今の世代でさえわけが判らないのに、そんな
何百年も前の事なんか、どうだってよいだろうと言うのである。アラビアのスフィン
クスの歴史でも解明するのなら、何処かに埋没されている古代エジプトの黄金でも見
つけられるかもしれない。だが、そんな、誰が誰に殺されたなんて事は、推理ものの
ミステリーブックでも読めば、それで充分だと言うのである。
「プリメーラ(第一‥‥)」
と彼女は言った。何処の国でも、歴史は学校で教えている。だから生徒として習った
者は、それを、まるで(三角形の二辺を加えたものは、他のいかなる一辺よりも長い)
といった数学の定理と同じ考え、すっかり信用している。それなのに、その歴史を頭
ごなしに、否定したり、まるっきり違う裏返しをするという事は、どうであろうか。
 読者の頭に混乱を招くというより、それは彼等の受けた学校教育の冒涜である。つ
まり、それ迄勉んで学んできたり習ってきた事が、まるっきり違うと否定されては、
何の為に教育を受けてきたかわからなくなる。それでは、教養を無視された事になっ
て、大衆は落胆するにきまっている。
「エーラ・ステイマ(そんな事、悲劇じゃない)」
「ボーデ・アクレデイーター・プロフェソーラ(なにしろ教師の言うとおり、信じて
いれば、それでいいのよ)」と、彼女は、自分も女教師だから、さかんに学校第一主
義を説き、異端な説を唱えるのは呪われてあれと反対をした。だが、あまり言われる
と、うんざりさせられた。そりゃ確かに信長が誰かに殺されたからといって、それは
無関係な事かもしれない。本能寺の真相を追求したからといって、何処かに埋蔵され
ている宝物が見つかるわけのものでもない。クロスワードやクイズは、謎解きをやれ
ば賞金が貰えるあてもあるが、これは何ひとつ得るところなんかない話である。
「コンスミール(無駄な事)」と彼女がいうが、そうかもしれない。何のために、こ
のマカオへ来て、厄介な昔のポルトガル語の古文献を漁っているのか、考えによって
は、まるっきり無駄な、それは徒労かもしれない。が、それをしなくて、他に私は何
をすべきなのだろう。
 アベニダ通りから、アルミラナ通りへ、ドックの前を歩いていた。仏桑華(ぶつそ
うげ)の赤い花が、まるで家ごとといったように、白いペンキ板の植込みの中に、垣
根越しに咲き揃っていた。
「ウ・ケー・テン・ウオセ(‥‥どうしたんだろう)」
 なにかしら人通りが多い。車も多い。騒々しすぎる。
 だからきいてみた。
「エー・サーハド(土曜日よ‥‥)」
 と彼女は眼を伏せた。ここは土曜日と日曜にはドッグ・レースがある。近在から、
それで人が蝟集(いしゅう)してくるのだろう。私はついでに、見物してこようと思
った。
 だが、彼女は、あまり嬉しそうでもなかった。教会附属の女学校で教師をしている
女は、犬を走らせて、それに人間が金を賭けるのは罪悪とでも思っているのだろう。
だから知らん顔をして、とっとと先に歩いていった。

Canidromoの文字は「レース場」とよめたが、その上にのせたようについて
いる「Campo desportivo」には面食らわされた。どうやらドッグ・
レースは土・日の二日間に決まっているから、あとの五日は、ここが運動場になって、
人間のレース用になっているらしかった。
 犬券売り場は、二弗、五弗、二十弗、五十弗、百弗の順に並んでいた。だが、それ
を見たからといって、どうということもなかろうと、五弗を二枚別々に買ってみた。
券の紙質は裏がザラつき仙花紙みたいだった。
 スタート・ラインには、グレイハンドが六頭、鎖で引っ張られてきた。同じ様な斑
犬に見えるが、馴染みの連中には、すぐ人目で区別がつくらしく、「ナポレオン」と
か「シーザー」とか、まるで英雄列伝のような名が呼びかけられていた。声援にこた
えて犬共も、スター並に、ワンワン吠えるが、尻尾でも振るのかと思ったが、なにし
ろ犬はそこまで商売気がなかった。
 やがて電気モーターのついた兎らしい物が運搬されてきた。
「イスター・ブロント(用意はいいですか)」
 マイクで、甘い女の声のアナウンスが場内に流れた。犬に言っているのかと思った
ら、どうも人間に呼びかけているらしい。何度もアナウンスされた。もっと沢山銭を
出して、犬券を買い増しをしろという催促らしかった。
 だから売り場の方ばかり見ていたら、知らぬ間にスタートをしていた。もちろん擬
兎の方がである。10メートルぐらいの間隔で、グレイトハウントも放たれた。耳朶
をふってワンワンさすがに吠えだした。黙って走ったら、その方が速そうなものなの
に、やはり気合をかけなくては、調子がとれないのだろうか。二枚の馬券を連勝複式
で勝ってはあるが、どの番号が、どの犬やら判らぬままに、六頭の走るのを一つにし
て眺めていると、なにも犬の知能指数が低いから、電気兎を獲物と間違えて追いかけ
ているのではないのが、よく判ってくる。たとえ追いついて捕えたところで、そんな
のは喰えない事は、犬どもは、よく知っているらしい。
 だが、飼い主の命令で出場してるんだから、まぁ何でもいいから、走らねばならな
いと、そんな、ひたむきな表情をしている。そうかと思えば、照れ臭がって、ハアハ
アわざと舌を出して駆けているのもある。そのうちに、ここのレース場は、週に五日
は、人間も、このグランドを走っているんだと各自に思い出すのだろう。そして、そ
れに対して犬共は競争意識を持つらしい。
 といってなにも、それは早く走ることによって、その速度の勝敗という、そんな、
まわりくどい思考力にまでは、走っている最中で慌ただしいから、考え及びつかない
ようである。右端の犬が、自分を抜いて前に駆け抜けかけた犬の白い尻尾に、いきな
りガブッと喰いついた。やられた方はキャーンと悲鳴は上げなかったが、衆人監視の
中で受けた屈辱は我慢ならぬと、ふり返りざまに、お返しにまた喰いついた。もう駆
けるなどという、まだるっこい競争より、顎の力で勝負をつけようというのである。
「ワア」「ワア」と声が竜巻のようにとび出した。もちろん、人間の声である。きっ
と、どちらかの犬券を買っている連中が、止めさせようとして、しきりに制止の声を
かけているのだろう。
 だが、争っている二頭は、その声援にこたえて、互いに向きあって、トーナメント
を始めるつもりか、四つ肢をふんばって睨みあっていた。すると、どちらかの犬の友
人らしいのが、やるのかといった顔で、レースの途中から引返してきた。応援をする
気らしい。が、なにしろ、それが、今までハナをきって先頭を走っていた本命の犬だ
ったから堪らない。
 犬券を買っていないような縁なき衆生どもは、クスクスと失笑の渦をまき起こした
が、それを押しかぶせるように「オウ」と怒号が激しく場内を圧しだした。かけてい
た残り三頭のうちのどれが一着になったか判らないが、もう勝敗はついていたらしい。
睨み合っていた二頭も、野次馬に戻ってきた犬も、人間に叱られて、しょんぼり引っ
張ってゆかれた。といって、優勝した犬も、どれだか判らないが、掲示板を仰ぐでも
なく、三頭とも、やはり、うなだれて曳かれていった。騒いでいるのは、ただ観覧席
の人間だけである。
「デエインヤーメ・ヴエル(見せてみて‥‥)」と彼女は、私の買った犬券を指から
抜き取った。賭博嫌いらしいが、もし儲かっていたら、それは神様からの恩寵だとい
うのであろうか。少し眼を生き生きさせた。だが、すぐ失望した。破りかけたが、そ
のまま返してよこした。どうやら私の買った犬券は、あの直接勝負をつけようとした
気の早い連中のものだったらしい。
「シント・ナウン(お気の毒でしたね)」
 と眼鏡の奥で言った。だが、そんな顔はしてなかった。だから咄嗟には何を言われ
たのか判らなかった。外へ出ようと言われたのかと思って、先に立ってでてしまった。
「ベザール(がっかりね)」
 と、外へ出て中国寺院の連峰廟の前で、彼女はくり返した。ガラス瓶の中の棗(な
つめ)の実を買っていた少女が、あわてて、その屋台の裏へ隠れるようにして、ペコ
リと頭を下げた。広東系の白い顔をしていた。どうも受持の生徒らしかった。彼女は、
つかつかと、その側へ行くと、早口に何か喋舌ってきた。道端で買喰いをしてはいけ
ないと言ってきたのか、日本人の男と歩いているが、あれは旅行者で、先生はただ道
案内しているだけなんですと、弁解してきたのか、判らなかった。足早に戻ってくる
と、まるで、その続きのように、「ケー・ツリステーザ(つまりませんね)」と、こ
ちらへもお説教をした。十弗買った犬券の相手が喧嘩して、損をしたのがつまらない
のか。かび臭い図書館に閉じこもって、四世紀前の古典を追いかけている事自体がつ
まらないのか。何を言われているのか意味はのみこめなかった。
 だが、そんな事をいえば、あのドッグ・レースの犬だって、みんな、しょうことな
しに走っていたし、それに、どれも詰まらん顔をしていたと想いだした。そういえば、
この女だって二十五にもなるのに、ちっとも面白くないじゃないかと考えた。だから、
そう言ってやろうと思ったが、口まで出なかった。どういう言いまわしで言ったらよ
いか。ちょっと難しすぎ、厄介だったからである。暫くして、
「アテー・ビブリオテーカ(図書館へ行く)」と、ぽきりと発音した。
 つまり。貴女と一緒に散歩していても詰まらん、という意志表示のつもりだった。
 うまく通じたらしい。彼女は碧い瞳をレンズガラスの裏側から突き出し、唇も捲り
ぎみにして、
「ケ・エー・ノブナガ(またノブナガですの)」と言った。
「ナウン(そのとおり)」と、返事をすると、これから自分の教会へ伴ってゆき、犬
券で損させるかわりに、神様へ献金でもさせる気でいたのか、彼女は両手を少しひろ
げて、失望をみせた。
 だが、信長が三十六歳の永禄十二年から、その四十九で死ぬまでの十三年間、彼に
近寄って話をしたり、よく観察したポルトガル人のフロイス、カブラル、メシキータ、
ベレイラ、アルメイダの五人はもとより、イタリア人のヴァリニヤーノ、オルガンチ
ノ、ステファノーニ、フォルラネツラの四人。そしてイスパニア人のカリオン(彼は
ポルトガル人ともいう)やカスペテン達もみな、このマカオから日本列島へ行き、そ
して、ここへ戻ってきて、神学校で教鞭をとったり、または、このマカオからインド
へ戻り故国へ帰って、信長についての報告書を、みな、それぞれ書き残しているので
ある。
 孫文のように、住まっていた邸宅は残っていなくとも、ここは信長にとっては因縁
の土地なのだ。


茶湯

 信長の頭の髷を「茶筅髷(ちゃせんまげ)」という。
「茶筅」とは、茶をたてる時にシェークする竹製の撹拌器である。まず、これが想い
浮かぶ。
 雄鶏がトサカを頭にのっけるように、彼はなぜ、そんな擬似撹拌器を頭上に勃起さ
せていたのであろうか。しかも彼はそれを流行させた。現代でいえば、シンタロウ苅
りだ。
 なにしろ信長は無駄な事はしない男である。するには、するなりのわけがあったろ
う。だから戦国大名の大半は、これにならった。
 といって、これは慶長期以降に流行した、もとどりを細くする本田髷のような、お
しゃれムードのものではないらしい。前にも少しふれたが、その茶筅髷を頭に立てる
事によって、彼はどんな受益をしたかを解明したい。
 これで、天下布武、つまり中央統一政権の樹立ができた。と簡単に前に書いてしま
ったから、あれでは不可能かもしれないから、なぜ、彼は頭の髷だけでなく、その第
二子、後の織田信雄をも「お茶筅」と呼び、一般には「茶筅丸」と呼ばせたかを詳し
く書いてみたい。
 現代の解釈では、信長が茶の湯に凝って、その現れであるという。つまり(マニヤ
だったせいだ)と説明されているが、信長とは、そんな単純細胞な頭脳の持主であっ
たろうか。これは疑問である。
 まず
「茶」というものについて考えてみたい。
 もちろん、伝来は大陸である。初めは「薬味」として寺院の奥深くで嗜好されてい
たのが、南北朝の頃から盛んになって、「喫茶」というカテゴリーから離れ、「闘茶」
として、ギャンブルの一種になった。

 つまり「栂尾(とがのお)のお茶何割、宇治何割」
 などと言って、呑んでみて、そのミックスしたパーセンテージを当てる賭けである。
 当今、私達が銭こそ賭けないが、
「モカ30パーセント。酸味が少しあるからジャマイカ40パーセント。あとコロン
ビア」といった具合にコーヒーを飲みあてるのと、これは同じような具合である。
<花園天皇宸(しん)記>の元弘二年(1332)六月五日の条にも、「後伏見上皇
の御所にて公卿共の『飲茶勝負』あり。賭物を出す。茶の同異を当て、これを知るな
り」とあるし、<祇園執行日記>にも、同じ様な記載がある上に<建武式目>の第二
条では、
「茶寄合と号し、莫大な賭けに及ぶは、くせごとにつき停止」と禁止令まで出ている。
相当に流行したらしい。
 もちろん、この当時の勝負は簡単で、
「本非(ほんぴ)の沙汰(さた)」と<喫茶往来>に出ているのは、ただ「栂尾産」
を本として、「他の産地のもの」は非として、この丁半に賭けたものらしい。もちろ
ん舶来と国産茶の当て合いもある。これは<太平記>第三十三巻に、
「衆を集めて茶の会をする時には、腰掛けに豹や虎の皮をかけ、唐国風に並んで、床
の間には仏画や、仏像を飾って、盛大なものである」とも書き残されている。
 つまり茶も、茶道具も、接待の仕方も、みな大陸風の風俗その侭だったらしい。
 そして、これを盛大に流行させ、
「淋汗(りんかん)の茶湯(さとう)」
 と名づけ、蒸し風呂の中で女を抱き、茶を舐めながら銀を賭けていたのが、南朝方
の武将であった。時には負け越して、その債務を支払うためか、またはエスケープす
る目的か、敵方の北朝へ降った者もある。
 呑む、打つ、買うといった三原則を兼ねた道楽は、そのまま足利政権にも受け継が
れ、隆昌の途を辿った。
 だが足利末期は、明国の銭を貰って日明貨幣流通の同一経済機構に立っていたから、
明国よりの使節も多く、接待麻雀の代りに、この「闘茶」は、ますます社交性を増し
てきた。
 今日伝えられる「ばさら茶」つまり「書見台子(しょけんだいす)の茶」というの
は、
 紫檀または黒檀の唐机をはさんで椅子を置き、茶道具も象牙の茶杓子、唐金の茶立
て。
 もちろん茶碗も高麗茶碗であり、明宋のものであった。そして卓子に、銀を山のご
とく盛り上げ、さながら今日の賭け麻雀のように、その勝負の輸贏(ゆえい)を争っ
た。
「上のなすところ、これ下も見習う」
 のはいつの時代でも同じ事である。
 お寺の境内や、その参道に面した所に「賭け茶店」とよばれる、今日のパチンコ屋
のごときものが発生しだした。みなバクチは好きらしい。
 庶民は、いくばくかの銭を掴んで、この茶店へ行き、顔をしかめながら、丁半なら
ぬ茶当てに、うつつを抜かしたものである。
 後年も、そのまま「かけ茶店」と、寺有地にある茶店は呼ばれたから、まるで(腰
をかける茶店)のごとくにも間違えられ、戦国時代においても、そうした店では、茶
を出し、餅などを食わせるものと誤解されているが、それは江戸期に入ってからの話。
 当時は神聖なる鉄火場だったようである。
 芝居などの舞台で(緋毛氈を床机にかけ、赤い小旗を出している茶店)と(緋色に
墨字で茶と書いた旗を出し、赤布は見せぬ茶店)のニ種類がある。
 赤い方はFor ladyで、青い方はFor menとも勘違いされるが、あれはそうではないら
しい。
 赤い方は「唐茶」つまりRed teaなのである。今日「からちゃですみません」といっ
てお茶を出されるのは、なにも空茶で、お茶うけのお菓子がつかなくてすまん、とい
うのではない。大陸伝来の茶は、今でも支那茶と呼ばれている赤い色の茶である。こ
れはお番茶ですみませんね、という事らしい。
 この赤茶の店のギャンブルは(支那茶だから蓋つきゆえ)味をみてミックスを当て
させるようなことより、もっと手軽に茶柱の有無で、つまり蓋をとった瞬間に、早い
とこ勝負をつけさせたもののようで、青い旗を出した店は、呑み分けをさせ、それで
運否天賦を競わせたものと区別されている。
 こうした闘茶の「お茶賭博」は随分その頃は流行したものらしく、今でも「いつ茶
やるべし」が変化して、「いっちょうやるべし」と、賭け用語になっている。

 この闘茶の賭けは、もともと大陸伝来で、仏信心のほうから始めたものだから、神
信心の連中は、「ばさら茶」に対し、真っ向から反対な「わびの茶」というものを、
対抗上思いついて始めたらしい。輸入品反対、国産品愛用の茶湯で、賭事は厳禁だっ
た。つまり、これは、象牙や唐金の茶道具の代りに竹を削り、これを裂いて用い、椀
も舶来のものは避け、国内産の楽長次郎の流れをひく織部かまどや、美濃かとう衆が
流亡した尾張瀬戸の焼き物を用いた。
 競輪・競馬の被害に対して我慢のならなくなった連中が、「ギャンブル反対」を叫
ぶように、彼等は、闘茶でなくて、シンプルに茶を啜る事に、茶道というものを確立
しようとした。これは<南方録>に
「宗易(千利休)ノ物語ニヨルト、村田珠光ノ弟子二名ガ、堺ノ皮屋ノ武野紹鴎ニ、
コノ(ワビノ茶)ヲ教エ、マタ能阿弥ノ小姓ノ右京ガ後ニ空海トナノッテ堺ニ住ミ、
コレガ北向町ノ道陳ニ(ワビノ茶ヲ)ヲ伝授シタ。ソレヲ与四郎ト呼バレテイタ十七
歳ノ自分ハ、堺ニイタカラ習ッタノデアル。トイッテイタ」
 と出ているように、本場は堺である。
 そして、当時の堺というのは、マカオからポルトガル船の入港する土地であった。
 九州地区は別にすると、本土では、ここしか開港場はなかったのである。そして、
紹鴎一門の紹佐は油問屋、宗佐は染料問屋のあかねや。宗納は両替の銭屋となってい
るが、みなポルトガル船が入れば、その貨物を買取り、貿易商も兼ねていた。
 また、この「堺商人」というのは、
<続応仁広記>を見ても判ることだが、
「永禄十一年十月、織田信長は将軍家再興の名目にて、摂津、和泉に『矢銭』を申し
つく。堺の割当は二万貫文なり。これに対して、堺の代表三十六人衆は拒絶し、能登
屋、べに屋の両名を大将とし、諸浪人輩や若党を集めて軍勢を催し出陣す」
 と、いった有様であった。では、何故、堺の商人は威勢が強かったかというと、鉄
砲は天文十二年に種ヶ島へ伝来、国産品も出廻っていたが、それに使用する火薬硝石
は、これは、みなマカオから、この堺の商人に手に入っていたから、のせいらしい。
 そして、その堺の貿易商は、みな「わびの茶」のグループである。紹鴎門下の宗久
は、信長から、摂津住吉で千二百貫の領地を貰って、旗本になり、何をして奉公した
かというと、我孫子の丘に、鉄砲工場を建て、マカオから輸入の最新型を手本に新式
銃を量産していた。
 彼ら堺商人がポルトガル輸入の火薬の一手販売をしたという史料には、<陸前岩淵
文書>が残っている。これは、元亀元年の姉川合戦に先立って、当時、横山城代をし
ていた羽柴籐吉郎秀吉から、
「火急に、とり急ぎ申しいれそろ。
 鉄砲薬いかにもよく候ものを三十斤、
 (当時の火薬は不良品が多かったらしい)
 えんしょうを、おなじく三十斤、
 すぐさま、はこばせくだされたく、
 天王寺そうきゅうさま」
 という宗久あての注文伝票の現物が現在伝わっているくらいである。宗久は千二百
貫どりの方では「今井宗久」であるが、マカオ輸入火薬シンジゲートの方では「天王
寺屋宗久」であったのである。
 つまり、戦争には鉄砲がいる、鉄砲火薬はマカオより堺である。堺衆は「わびの茶」
である。「わび茶」のシンボルは竹製の茶筅である、だから信長は、マカオ火薬を一
手に掌握するためには、堺衆と仲良くしなければならない。だから今日の接待ゴルフ
のように、「わびの茶」をやり、そして親善の意を表して、そのシンボルを髷に考案
して、「茶筅髷」と呼び、それでもたらずか、次男の信雄を茶筅丸と呼び、これを、
堺衆を接待する時の茶席によんで、その歓心をかったのであるらしい。

 つまり信長は、当時、このマカオがポルトガルの単なる根拠地、つまり足場にすぎ
ないとは気付かず、ここに火薬、当時、煙硝と呼ばれていた硝石の山でもあって、そ
こから採掘して堺へ運んで来るものと、宣教師や死の商人に吹き込まれていた。
 なにしろ、そのポルトガルやスペインのあるイベリヤ半島というのは、昔はゴート
族、次にサラセンのトルコ人の統治が続いていた。
 だから平清盛の頃に、リスボンを首都にするポルトガル王国ができたり、応仁の乱
の終った日本の文明十一年に建国されたイスパニア王国にしろ、国民の大半は有色人
種のトルコ系との混血児で色が黒かった。
 つまり、ヨーロッパ大陸では、皮膚の色で軽視され、それで、同じ有色人種の東洋
へ進出してきたのが、この連中である。いまマカオでみかけるポルトガル人も、みな
ダッタンみたいに赤黒い顔である。肌の色としては広東人よりも色素が多い。だから
信長の頃のポルトガル人も、さぞかし、もっと色黒だったかもしれない。
 そこで、ポルトガル人共は、自分らよりも色が白い信長にコンプレックスを感じて、
まさか、マカオから運んでいる火薬が、じつはヨーロッパ各国の軍団からの払い下げ
品だとも言いかねたし、また不要払下の格安品だから、湿気をおびた不良品が混入し
ているのだとも、説明できなかったのだろう。