1193 信長殺し、光秀ではない 12

剽窃

 次に、また詳細に繰返して、
「信長は都で宿泊する慣わしであり、坊主をみな追出し手入れをよくした本能寺とい
う寺の周囲を、三万人が完全に包囲したが、街では、まったく意想外な出来事なので、
何か騒動でも起きたのかと考え、その報らせを伝えた。
 なにしろ、わが南蛮寺の教会は、信長の所から、ほんの僅かしか離れていないから、
キリシタン達はやって来て、ミサのため着替えていた私、つまりカリオンに向かい、
寺で何か起こり、重大事件と想われるから、ミサを待つようにといった。すると間も
なく銃声が聞こえ、火の手が上がって、次に喧嘩ではなく、明智が信長に叛いて彼を
囲んだのだという知らせが来た。明智の兵は寺の木戸の中から入った。そこでは、こ
のような謀叛を夢にも考えず、誰も抵抗する者がなかったので、彼らは更に内部に入
り、信長が手と顔を洗いおわって、手拭で拭いている背へ矢を放った。しかし、信長
は、この矢を抜いて薙刀とよぶ柄の長い鎌のような形の武器を持って、しばらく戦っ
たが、腕に弾創を受け、その室に入り、戸を閉じた‥‥
 ある人は彼は『切腹した』と言い、他の人たちは『客殿に火を放って死んだ』と言
う。
 だが、吾らが知り得た事は、諸君(バードレ諸君)が、その名を聞いただけでも戦
慄(註:恐ろしくてとか、乱暴だからというのではない。ジャボ(悪魔)とノブナガと
は、同義語だった点において)した人が、髪一本残さず霧散消滅した事である‥‥」
 こういう具合である。写してみると、<信長公記>の「本能寺にて、お腹召され候
こと」と、殆ど内容がそっくり同じである。
 だからこそ、このカリオン報告書は真実と見なされているし、また一方では<信長
公記>が、このために信用される。つまり、さも車の両輪の如く、持ちつもたれつで
助けあい、ここに<真実>を形成し、さも<本当>らしく扱われている。
 だがである。学校教師は、同一内容の答案用紙を見つけたときは、これをカンニン
グと認定するそうである。
 つまり、この<カリオン報告書>なるものは、<信長公記>が写本として流布され
はじめてから、その一部を日本人信者に入手させ、これをマカオへ送り、ポルトガル
語訳にして、それに基いて潤色されたものではなかろうか、と思いたくなる。なにし
ろ、相似しているということは、紛本が同一だからとみるしかない。そこで内容があ
まりにも今日伝わる<信長公記>に似ていすぎるのである。

 さて、カリオン書簡は「急報に接して、すぐ銃声がして火の手がみえて驚いた」と
いい、それを詳述するような形で、「実は近くのキリシタン信者が重大事件らしいか
ら、今朝のミサは待てと言いに来て、そして銃声がし、火の手が見えたから、これは
喧嘩でなく(信長公記と、まるっきりそっくりである)明智の謀叛だ」と判ったとい
う。
 しかし実際の話として、こんな不自然な事があるだろうか。

 当時の切支丹信者というのは、午前四時頃から、ミサを受けるために教会へ集まっ
てくるものだろうか。なにしろ初めは、
「重大事件らしい」と予報したものが、後になって「あれは喧嘩ではない」などと言
いに来るのは不自然すぎると考える。
 それに、このとき本能寺内部にいて、外へ脱出できた者は一人もいないのに、いく
ら、すぐ近くの三階建のバルコニーにカリオンがいたからといって、信長が顔を洗っ
て手拭で拭いていたから、背中を矢で射ったと、まるで実況中継みたいな書き方は、
信用のできぬところである。
「講釈師、見てきたような嘘をつき」という言葉あるが、これでは「宣教師見てきた
ような‥‥」と言わざるを得ない。

 なにしろ彼らは信長や諸大名に面接はしているが、日常起居は共にしていない。
 だから、こういう叙景描写をするが、信長の頃から幕末まで、武家の殿様や奥方は、
宣教師の考えるように、自分で洗顔したり、用便の前後の始末はしないものである。
小姓や腰元が耳盥(みみだらい)に水を汲んできて、一人が洗い、一人が拭き、一人
が、いつでも殿様が手をかけられるように、刀の柄を差し出している。排泄の時は、
左右から裾をめくって持ち上げ、背後の者が拭く仕度をして待っていたものである。
 と言って、これは人使いが烈しいとか、横着というのではない。自分の手を用いて、
それに掛かりきっていて、もし敵に襲われたら大変だから、決して自分の手はふさが
なかったのである。用心のための自衛行動である。

<カリオン報告書>をみると、まるで信長が洗面所へ立って行って、そこで一人で顔
を洗い、外部へ背を向けたところを射られたというが、こんな西欧型の洗面の仕方は、
野戦の時でも、武士たる者はしてはいない。
<相州兵乱記>でも「御寝なされしが、瞑られずと起きらる。侍臣ただちに、飼馬桶
の新しきに水をくみ、幕内に運び四人がかりに手水(ちょうず)をあそばされ候」と
あるし、
<越国春秋>にも「きんじの者が左右より顔を拭き奉れば、早よとせかされ、長尾を
ここへ呼ぶようと政景を召さる。政景、幕外より色代(あいさつ)し」と、野営の上
杉謙信が、洗面しながら姉婿を呼ぶ場面がある。
 つまり野外でさえも、張りめぐらした幕から外へは、洗面といえど一歩も出ないの
が、これがしきたりである。だから本能寺のような建物の中なら、寝所へ洗面道具は
運ばせ小姓どもが、座敷内にて、御湯敷(おゆしき)とよばれた白胡麻油の油紙を広
げて洗顔をさせていたわけである。ついでにいうが、その為に信長は、小姓を三十人
も連れて行ったのである。なにも一人で、のこのこと外部に背をさらすような恰好で
カリオンに見物されに洗顔に行くのなら、小姓などは一人も不要である。
 再言するが信長は、学校の体育教師ではないから、青少年鍛練のために小姓共を引
率して行ったのではない。
 自分の身のまわりを世話させる必要から、彼ら三十人を随行させたのである。

 この間違いから、<信長公記>で「お弓をとり二つ三つ引きたもう」とあるところ
を、弓と矢と間違えて誤訳した。
「矢を引きたもう」つまり「射る」という固有形容詞が判らなかったから文字どおり
にAtrairというポルトガル語にし、それを「引く」「引きよせる」「引っ張る」と誤
訳。矢を引っ張るとは、信長に刺さったからと訳した。致命傷ではないから背中にし
ようと考えた。「それには、洗面中という事にしよう」と、<信長公記>をポルトガ
ル訳して自作とした。筆者は、つまりポルトガル人の翻訳者は知恵をしぼって、付け
足しを書き加えてしまったのであろう。
 しかしである。<信長公記>の原文では、「すでに御殿に火をかけ、焼けきたり候、
御姿を、お見せあるまじきと思召され候か、殿中奥深く入り給い、内より御納戸口を
ひきたて、無情にお腹召され」となっているのは、時代も後世だし、翻訳に困ったで
あろう。
 初めに本能寺は寺(templo)だと書いておきながら、「客殿」の意味である御殿は判
らなかったらしく、これを宮殿(palacio)と訳し、「信長は宮殿の奥深く入ってドアを
閉めた。或者は切腹したというし、別の者は火を放って死んだという」と、もう初め
に「火の手の上るのを見た」と書いているから、引っ込みがつかず逃げをうっている
が、さて嘘というものは最後までは、つけるものではないから、ここの<信長公記>
の翻訳だけで止めておけば良いものを、とうとう終わりのほうへもってきて、
「吾々が知り得たところでは、信長は髪毛一本残さずに、その遺骸をふっとばしてし
まった」と、本当の事を書いてしまっている。「殺人者が、殺人者であると認定され
るのは、その殺害した相手の屍体の置き場所や状態を、彼だけが知悉しているという
点にある」
 とS・S・ヴァンダインも言っているが、この通りのことが、ここでも当てはまる。
そして、何故<信長公記>が出廻った後の時代になってから、さも、もっともらしく
改まってから、それを土台とする創作するというか、脚色の年報追記が、何ゆえにマ
カオで作成される必要があったのか、ということになる。
 この報告書の表面の人物である司祭カリオンは、その後は名前が何処にも現われて
こない。だが、天正十年の時点で、本能寺から一町以内の天主教公会堂の主であり、
神による全命令権を握っていた都管区長オルガチーノは、信長殺しの時は、アリバイ
があって、京都からペガサス(天馬)に乗ったか、鹿児島の南端の沖の島へ行ってい
たそうだが、何故か秀吉の非公式の庇護を受け、彼のみは天主教弾圧後も追放される
ことなくして、長崎で暮らし、慶長十四年まで生きていた。
 だから、フロイス名による「この不可思議な、天正十年版という第二通信」が、慶
長時の作成であったとしても、オルガンチーノの申請で製造されたものなら、これは
怪しむにたらないかもしれない。中公新書の<南蛮史料の発見>の信長殺しの描写は
嘘だとも言える。
 なにしろ、天正九年三月八日(陽暦)、最高巡察使のヴァリニアーノが、フロイス
やロレンソーメンスを従えて豊後の日出(ひじ)港を出発し本州へ入ってきた時、京
都管区長オルガンチーノは、これを迎え、二十九日に信長の許へ拝謁に伺候するとき
は、巡察使の伴をし、四月十三日の安土城拝観の時も、そのお供をしている。
 そして、ヴァリニアーノが天正十年二月二十日に日本を離れるに際し、伊藤マンシ
ョ、千々岩(ちゞいわ)ミゲル、中浦ジュアンの三名。他にスペアというのか、身分
の低い原ハマチーニと、やはり洗礼名を持つ少年を、ふいに人選して連れ出す時も、
フロイスと共に、その謀議に加わっている。
 さて、
 フロイスが<日本史>を執筆したのは天正十五年から文禄二年の間とされている。
そして、
<信長公記>は、文禄五年が慶長元年にあたるから、その後のものとされている。
 しかし、その巻十三の<無辺成敗のこと>などという一章は、そっくり以前に書か
れた筈のフロイスの<日本史>にそのままで入っている。
 なお<信長公記>巻十二の<法華、浄土宗宗論の事>の一章のごときは、京都管区
長オルガンチーノによって、既に天正七年に九州のフロイスの許へ詳細が送られ、村
上博士訳の「エーヴォラ版」では同一であると、松田毅一氏の対照表まである。こう
いう具合に、フロイスのものと、太田牛一の筆といわれるものが重複している点から
して‥‥
 1582年つまり天正十年<日本ゼズス会年報通信>の信長殺しの場面が<信長公
記>と同一であったとしても、間違いが共通していても不思議ではないかもしれない。
 とはいうものの、何故そこまで作為をしなければならないのか、という疑問は残る。
 なにしろ、ヴァリニアーノ----オルガンチーノ----フロイスと、三人とも立派なの
が揃いすぎている。そして、彼等は信長に対しては極めて友好的でありすぎ、死後さ
えも、そうである、と文字では残っている。
 しかし実際において、信長たるやゼンチョ(異教徒)どころか、自分が天帝だと自
称するジャボ(悪魔)である。天にまします唯一の神しか信じない彼等にとって、信
長は外道以外の何者でもない。
 また、信長も、火薬の硝石を入手しなくては困るから、外面では友好的に彼らを偶
していた。だから互いに笑顔を見せ合っている。
 だが、双方の内心は互いに見抜き合っている。そして天正十年五月、信長は堂々と、
自分が天上天下、唯一の神であることを誇示する殿堂を建て、参拝者の人山を築いた。
 だからこそ、その結果が、翌月二日、髪毛一本残すことなく吹っ飛んでしまった。
 これはどういう事になるのだろうか。
 ----だが、そこを突きつめる前に、また、これまでの犯人とされている光秀に戻ら
ねばならない。


筒井記

 光秀関係のもので従来もっとも信頼されているのは、前掲の<川角太閤記>である
が「俗悪書」と決めつけられた中に、かえって信頼性のあるものが、あるようにも思
う。
 もちろん私も初めの十年間ぐらいは、世間の一般の人のように「餅屋は餅屋」とい
った考えで、歴史家のいう「俗悪書」は探してみるまでもないと、気にもしていなか
ったが、段々と集めて調べる資料にことかいてしまって、こと光秀に関するものなら、
講談本から、そうした俗悪といわれるものまで、手に入る限りは、みな読みあさりだ
した。
 すると、その中に<筒井家記>もあった。この本には、別に<増補筒井家記>と二
種類があるが、私が、これは、この種のものの中では真実性があるまいかと、気にな
ったのは、その前者の方である。
 というのは、勿論、光秀を謀叛人にしている点では、他書と大同小異であるが、ど
うも内容が、あまりリライトされていなくて、天正十年の当時に、比較的、もっとも
近い時点に書かれたもののように想えてきた。
 つまり「ああである」「こうである」と尤もらしい筆で、押しつけがましい説得力
のくどさがなくて、他書に比べると、少し間が抜けたような部分も多いので、こちら
の判断を押し込んで読んでゆくと、非常に思い当たる箇所も少なからず見つけられた。
 まず、この歴史家の相手にしない<俗悪書>は、「信長公より出兵の命令が出た事
を聞き、秀満、治右衛門、伝吾、庄兵衛、及び妻木主計頭、四天王但馬守、並河掃部
助ら十三人が寄り集まって『信長の無道と、将来の利害』を以て説き、主人の光秀に
謀叛をすすめた。」
と、これを説明している。
 (秀満、妻木、並河というのは、講談で作られた人名ではなく、実在の人間なので
ある)
「そこで、光秀も熟考の後、坂本城に入って、これを利三以下の主な人々にはかり、
また叛逆の慫慂(しょうよう)を十三人から、しきりに受けて、ついに決心した。そ
して、兵を亀山に集める事に定めて、二十七日に坂本を発して、丹波亀山へと赴いた」
となっている。珍しく、これは光秀を受け身として扱っている。そして、「信長から
光秀に出兵の命令が出たのは、五月十七日であるから」決心説としては<川角太閤記
>や<甫庵信長記>より、この方が、とびきり早期説をとっている。
 そして今日でさえ、光秀が犯人だとはいいながらも、「違やぁしないかな」という
引っかかりがあるように、四世紀前にも、この疑問は相当拡まっていたのであろう。
 だから、
「光秀は、その気がなかったのに、寄ってたかって十三人の者が彼をそそのかしたの
だ」
 という、いかにも、真相らしいような説である。だが、この筆者は当時洗礼を受け
ていた人間と、想われる節もある。
 何故かというと、光秀を受難の聖者に見立てている筆致だからである。つまり十三
人の家臣というのは、十三人の使徒をなぞらえているような匂いがする。この中に、
一人のユダが混じっていた。その男の為に、光秀は煮え湯を呑まされたのだ。つまり、
「その秘密を、ここには書けないが、本当は知っているんだ」
 といわんばかりのような箇所さえも見える。
 そして、この<筒井家記>が「俗悪書と決めつけられている理由」たるや、これは
<川角太閤記>や<信長公記>が、みな筆を揃え、「中国(備中)へ向かうのなら三
草山を越えていくべきなのに、東向きに馬首を転じ、老の山(大江山)へ上り、そこ
から京へ向かった」
 と、これが光秀の叛乱行動の第一歩で、「この方向転換こそ、計画的逆心の現れで
ある」と、ただそれを、唯一の確証として決めつけ、光秀が備中攻めを仰せつかって
いるのだから、「西へ向かって進撃すべきなのに、京都へ向かったのは怪しい」けし
からんと、同じように書いているのに反して、この<筒井家記>のみは、悠々と違う
事を記載しているからである。
 つまり、
「備中赴援に、明智組下として出向するよう、安土より命令を受け、居城大和の郡山
城を出発し、京へ向け上洛しようとしたところ、途中にて、本能寺の変を聞き、信長
公は、ひとまず安土へ戻られたゆえ、京へ行かずにすむと、六月二日、そのまま郡山
へ引き上げ、翌三日には、筒井の砦のある大安寺、辰市、東九条、法花寺へ、引き上
げた兵を戻して、そちらを守らせた」
 と出ている。つまり「筒井軍も一応は京へ向かった」と、これは各書と全然、相違
するからである。
 だから「俗悪」の烙印を押されているらしい。

 しかしである。この<筒井家記>をみると、
「京都から、出陣の用意ができたら本能寺へ来い」と信長の命令があったというのは、
光秀の詐称ではなく、事実ではなかったかと思われる。
 筒井順慶の軍勢に上洛するように信長からの指令が出ているものなら、その寄騎親
であり、司令官である光秀にも、必ずや通達は出ている筈である。
 そうなれば嘘ではない。
 本来ならば、光秀が命令受領してから、各管下への筒井や細川、高山の各部隊へ連
絡すべきだったが、それでは間に合わないとみて、信長から各部隊宛に同文指令が出
たのではあるまいか。
 というのは、これは六月一日のくいちがいである。
 信長は、その前日の五月二十九日に、いと手軽く考えて(あるもの)を一掃する目
的で上洛した。ところが現実に於て、六月一日になると折柄の雨天をついて、招かざ
る太政大臣や関白らに押しかけられた。思いもよらぬデモ騒ぎである。しかも、忙し
いのに、五時間も六時間もねばられてしまった。手をやいてしまった。
「大慶々々」と山科言経達は帰って行って、自分の家で前祝いの祝杯を上げた。
 しかし信長は、忙しい最中に、なにも公卿達を喜ばせる為に上洛したのではない。
あまり集まった公卿共がうるさいから、なんらかの形で譲歩したにすぎない。そこで
早速、次の手段を何か考えたのであろう。それは今も昔も同じである。デモに対して
は、実力行使の機動隊である。
 それを召集するために「用意ができ次第上洛せよ」と、明智を寄騎親とする出動準
備中の各部隊に対し、緊急通達がされたのではあるまいか。名目は「検閲」であった
としても、信長が何を一掃しに上洛したかくらいは、近畿管区の武将は、前もって知
っていたのだろう。だから臨戦体制で洛中へ入って行ったのだろう。
 もし、そうでなくて他の各書の説明するように、方向転換して大江山から京へ向か
ったとなると、どうしても解釈できない事が出てくる。
 桂川から大江山を越えて京都までの、船津、桑田の二郡は、京都防衛の要塞地とし
て、丹後宮津の細川藤孝(当時は長岡姓)が、かねて預っていた。
 川岸から山にかけて、見張りの細川番所が並んでいた。その間を、どうして一万三
千もの軍勢が隠密裡に抜けて上洛できるか。見つけ次第に早打ちか、蜂火で通報され
ている筈である。だから、これは公然たる進軍でなくてはならない。
 するとである。「信長公記」にある「信長公宿所取巻きの衆」というのは、命令で
上洛した連中が、早く着き過ぎて信長の起きるのを待ち、その本能寺の周囲で待機し
ていただけかも判らない。


細川記

「徐州、徐州と、軍馬は進む」といった具合に、六月二日、夜明け前に「京都へ、京
都へと、わが陣馬は進んでいた」という<筒井家記>によれば、他の細川、高山、池
田、中川の部隊も進んでいた事になる。
 そして、これは常識であるが、方面軍指令官である明智光秀閣下が入京するよりも、
各師団長の集結の方が遅れるという事は、まず考えられはしない。
<筒井家記>は、さすがに如何にも光秀より遅れて、六月二日の早朝に出陣したよう
に、わざと書いているが、寄騎の師団長共は、みな六月一日夜半に、部下を率いて出
動しているにまちがいない。こうでなくては話が合わない。
 さて、現在まで伝わっている<家譜>は、どこのでも糊塗偽瞞だらけのものが多い
が、中でも立派なものは<細川家記>である。つまり、この時点で、信長の動員令が
下って、方面軍指令官の光秀を初め、寄騎衆の各師団が京へ集結に向かっているとい
うのに、この細川家の宮津師団だけは、
「六月三日になりて、本能寺の変を、その居城の丹後宮津城にてきく。細川藤孝及び
御長子の忠興のご父子は、早速に、もとどりを切り払われ、信長公に弔意を表し奉り。
このとき藤孝の大殿は、世をはかなみ直ちに隠居。一切をあげて忠興公に委ねられる」
とある。
 こんなバカな事が、果たしてあるだろうか。
 せめて、<筒井家記>のように、京へ向かうための途中で「包囲されている」と本
能寺の変を聞き、「急いで駆けつければ間に合う」とは迷ったが、「信長公を助けに
行くべきではない」と思ったから止めた。そして罪滅ぼしに髪を切った、というのな
ら、まだ少し話にもなるが、これでは、てんで変てこではあるまいか。
「抗命拒否」つまり宮津師団だけは、のっけから信長の至上命令に背いて、出動をし
なかった、という事になってしまう。
 だから、常識の線にたてば、この<細川家記>の記載は、まったくのフィクション
で、細川父子も京に六月二日早朝は入っていたか、又は近づいていたかであろう。こ
れは作為されたアリバイである。なんといっても、
「天正十年六月二日の暗いうち」までは、織田信長は、絶対的な国家主権者である。
 何十年も奉公してきた者でも、その逆鱗に触れたら、前年の林道勝、佐久間父子、
安東伊賀守らのように追放されている。
 それを承知の上で、敢えてこの命令に従わず、六月三日に到るも、のうのうと宮津
の城内に父子共に、まだ居座っていたという細川父子の横着な態度を示す、この、
<細川家記>を、従来の歴史家のように全面的に信頼するとすれば、これは、とりも
なおさず、
(細川父子が予言者ヨハネでない限り)あらかじめ、つまり前もって「六月二日朝の
クーデターを予知していた」と、しか考えられない。でなければ、当日の実行部隊で
ある。
 前にも書いたように、老の坂のある大江山は、丹波ではあるが、飛び地として、こ
の当時は丹後の細川領で、京への関所だから、細川番所が並んでいたからである。こ
の領内から出兵すれば、細川父子は二日の午前中に目的をすませ、三日には悠々と、
宮津へ戻っていられた筈である。
 ところが<細川家記>では、原文をひけば、
「これより先に幽斎は、家老の米田求政を京へ遣わして、信長父子の上洛、且つ佐久
間甚九郎の勘気赦免を喜び聞こえんとせられしを、求政が、今出川相国寺門前に着せ
し時、本能寺の変を聞きしかば、愛宕下坊幸朝と相議り、早田道鬼斎というものを急
ぎ丹後にさし下す。このとき忠興は、中国出陣の筈にて、先手はすでに押し出したり
しに、道鬼斎は泥足にて広間に走り上り、文箱をさし出して、本能寺の変を告げまい
らす」という事になっている。
 佐久間甚九郎というのは、天正八年、大坂本願寺攻めを怠っていたと勘当状をつき
つけられ、高野山へ放逐された佐久間信盛父子の子の方である。しかし、これは織田
の家では先代から奉公の家系の譜代衆。それを、ここ十年くらい前から足利義昭を捨
てて信長に奉公した新参者の細川幽斎などが、仲へ入って勘気を願うとか、取持をし
たというのも訝しい。だいいち、赦免になったのは、この時ではない。それは本能寺
の変後であって<寛政記>によれば、織田信雄に仕え、小牧長久手合戦では秀吉方の
尾張蟹江城を攻めている。細川幽斎が喜んでくれるように、彼の骨折りで勘気が許さ
れたものならば、まさか二年後に、細川に背き、反秀吉方の陣営にたつ事は、まずあ
るまいと想われる。
 さて次に、「信長父子の上洛」というが、なにも父子揃って上洛してきたのではな
い。信長は、本能寺の変の二日前の五月二十九日の上洛だが、信忠はちがう。
<信長記>の五月十四日の条によれば、「丹羽長秀が仮殿をたてた江州番場に、家康
と穴山梅雪が一泊して安土へ向かった後、信州諏訪から凱旋してきた信忠も通りかか
って、立ち寄って休憩、長秀が一献献上した」とある。
 つまり、<細川家>に「これより先」と書かれているのは、信忠が上洛した頃をさ
すのであろうか。すると、五月十六、十七日か二十日ぐらいの事になるが、その頃か
ら丹後を出発して、六月二日の事件当日の最中に、彼米田だけが一人で京へ着き、し
かも相国寺前の私宅へ着いたというのは、どうした事をいうのだろうか。この当時、
丹後宮津から京までは途中で物見遊山しても、二日しかかからない事は、<西国紀行
>にもあるし、また当然なことである。だから米田という家老が主命をおび、真面目
に歩いて来たものならば一日か、一日半の道程である。それが半月掛りの計算である。
 そして普通なら、細川の京屋敷へ直行すべきなのに<細川家記>には肝心な、殿様
の屋敷はなくて、米田個人の私邸。しかも今出川の相国寺前というのは、この後、大
坂方の残党の長曽我部盛親が寺小屋を開いていた様な、京における下町である。そう
いう場所に米田の京邸があったとは、まるで妾宅でも連想しそうな粋な書き方である。
 だが、殿様に京屋敷がなく、家老だけが別邸を持っているなんて事は考えられもし
ない。全く奇妙である。
 さて、次に、ここで大切なのは、
「愛宕下坊幸朝」という人名である。つまり、愛宕権現の下坊の神官で「幸朝」とい
う男が、ここに出てくるのである。この愛宕権現というのは、細川幽斎の上の娘の伊
也を再嫁させた、京の金融を司っていた吉田神道の兼治の出店にもあたる神社なので
ある。
 後世になると、愛宕山頂の勝軍地蔵を拝みに、出陣前の諸将は登山したように伝わ
っているが、実際は戦費の借出しに行ったのである。そして、金策がつくまで連歌を
したり、茶湯をたてて待っていたのは、(今日でも、預金者は入口の腰掛けで待たせ
ても、貸出の客には、何処の銀行でも応接間へ通して、そこで茶を振舞うのと)同じ
である。
 そして、
「五月二十八日に愛宕へ登山した光秀が、二十九日に(その日は土砂降りの雨なのに)
西坊から下山したに相違ない」。六月二日の午前九時過ぎまで光秀の姿は京で見た者
はいないが、その前日の六月一日まで愛宕にいたような事は、絶対にない」
 と、後になって証言するのが、この下坊の幸朝である。
 といって、この男は、予め信長が六月二日朝殺される事を知っていて、愛宕山から
下って、洛中の米田と連絡をとっていたのか。それとも米田が、愛宕山まで駆け登っ
て相談に行ったのか、ここは判らない。
 ただ、<大日本神祇史>並びに<山城名勝志>によると、
「愛宕神社は<延喜式>に丹波国桑田郡阿多古神社とある、是なり、丹波、山城両国
の境にあり、当今は山城国葛野(かどの)郡に属す。東西南北に四坊ありて栄ゆ」と
あって、西坊とか東坊というのはあったが、<細川家記>に出てくるような、下坊や
上坊はない。たぶん米田との打合わせしやすいように、山頂では訝しいから、この時
点だけ、まるで麓にでもありそうなと想えそうな、下坊なるものを、文字の上だけで
作って、辻褄を合わせたのだろう。また、
「中国出陣の筈にて、先に、先発隊は押し出し出陣していたが」と、まことに苦しそ
うに説明しているが、いやしくも信長の命令なのに、「筈にて」というのも訝しい。
また先発の部隊が既に出ているのに、後続部隊は、まだ宮津城にてオイチニとやって
いて、幽斎や忠興は、暢気に城中にいる程の大部隊を、当時の細川家は持っていたの
だろうか。どうも信じられない。

 それに奇怪すぎるのは、信長の死体が本能寺に見当らなくて、生存説も高く、四日、
五日ずうっと洛中が騒いでいる時に、丹後の宮津城から動かなかったという細川幽斎
と倅の忠興が、自信をもって、死を確信し、
「死んだ信長様への供養」と称して、父子揃って、バッサリ髷を切ってしまった事で
ある。こんな不可解な事があるだろうか。
 忠興の妻が、細川ガラシャ夫人で、光秀の娘なので、この本能寺の変の後は、丹後
領内にある明智領の味土野(あどの)へ引きこもっていたが、彼女がゼズス派の信者
だった事も考えるべきだろう。もちろん<細川家記>や<日本ゼズス会年報>は彼女
の入信を、この五年後にしているが、それは四人の子の受礼で、彼女はもっと早く入
信していたとみられる。

 さて次に変な事は、髷は切っても、また生え伸びてくるが、「まるで何かの咎を責
められる」のを用心するように、細川幽斎が責任回避して、さっさと、変り身の早さ
に、隠居してしまい、「わしゃ何も知らん」で押し通そうとする態度である。
 細川家の<細川家記>というものは、確かに貴重な史料である。だが何も<真実>
を伝える為にあるのではあるまい。細川一門にとって都合の良い事を、証拠として書
かせて伝えているにすぎないのではあるまいか。
 何しろ細川は、後に<当代記><寛政譜>では、秀吉から加増され、「丹後宮津で、
光秀の遺領の飛び地も貰って十一万石」だが、その死後、家康から、「豊後の内、速
見、国束の二郡で六万石を贈られ」ついで豊前小倉城主。忠利の代になると、秀吉で
さえ小西行長と加藤清正に半分ずつしかやらなかった「肥後一国をそっくり拝領して
五十四万石になる」と<寛政譜>にある。
 春日局が介在しているとも伝わっているが、一体なんの弱みがあって、徳川家は、
他の大名は次々と取り潰しながら、細川にだけ、こんな破格な事をする義理があった
のだろうか。この忠利は忠興の三男だが、彼が何故、跡目を継いだかというと、
 長男細川忠隆、山城北野に隠れて変死
 次男細川興秋、山城東林院にて自殺
 というわけで、三男に順番が廻ったのである。どうして次々と長男や次男が、殿様
になるのを避けて、その寿命を縮めてしまったか、何も伝わってはいない。
 だが、「何か暗いものは感じとれる」そして、それが、天正十年六月二日に、無関
係だったとも言い切れない。
 もちろん、細川藤孝という人は「幽斎」という名で知られた当時の有名な歌人であ
る。
 明治三十年十一月に、正二位の贈記を受け、渡辺義象が細川家御用を承って、同年
<細川幽斎>を出版している。だから文化人だし、歌詠みだから、道徳的な人だった
ろうと、私は信用している。しかし、よく考えてみると、あの時代は、強盗だった石
川五右衛門でさえも「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」などと、歌
を詠んでいる。

 さて、<当代記>の原文で、先に示したように、寄手が二城城へ近寄りながら、あ
まり戦意を示していなかった点でも窺えるが、二城城にいた信忠の軍勢は寄手と同志
討ちを、結果的にしたのではあるまいか。
 つまり、城の内部と外部の双方へ、まったくの第三者から、不意に攻撃というか、
爆弾でも仕掛けられたら、そういう結果を生じたかも知れない。なにしろ、混乱と昂
奮が渦を巻き、それに六月一日は大雨だったが、この日、六月二日は晴れていて暑い。
 当時の洋暦では六月二十一日になるが、現在の太陽暦では七月一日にあたっている。
眩しいくらいの夏の陽ざしに照りつけられている双方の軍勢が、幻の様な敵‥‥つま
り僅かな小数の、目につかぬ相手から、着火された爆薬を擲げこまれたら、これは、
双方とも、それとは気付かずに、はじめて寄手と城内の信忠勢との間に血戦が、ふっ
て湧いたように開始されたかもしれない。
 それでなければ、十年前の、この二条城攻撃の時に、信長が全勢力を以てしても落
とす事ができずに、<東寺>の<光明過去帖>に残っているように、上京の二条から
北を、すっかり焼野原にしてしまって、攻めやすいようにまでして、改めて二条城の
四方に、見おろせるくらいの高い望楼の砦を構築。そこから、当時の輸入されていた
火薬を使って攻撃。
 だが、どうしても落城させる事ができずに、とうとう正親町帝に願い出て、勅使下
向を仰ぎ、やっと開城させた程のところが、どうして、僅か、たった一日。それも数
時間でかたがついてしまったのか。
 二城城の周囲は本能寺と違って、4m幅の深い濠、跳ね橋を上げたら中へは一人も
入れない。つまり普通の状態なら、何日でも篭城できる状態である。それに、信忠は、
なにも血戦するために、そこへ入ったのではない。
 安全を期するために、ここへ逃げ込んだのである。それが一時間か二時間で全滅。
 まったく話が合わない。そこで<当代記>や<信長公記><川角太閤記>では筆を
揃えて「二城御所に隣接した近衛関白邸の大屋根によじ登った兵士が、そこから二条
御所の中を狙い撃ちして、全滅させた」と記述している。
 もちろん一緒に筆をとって同時に書かれたのではないから、この中のどれかが書い
たものを、他の筆者は、そっくり失敬しただけだろう。だが、近衛関白邸が右隣だっ
たら左側に移ってしまえば、狙撃は免れる筈である。何故、信忠以下五百の精鋭は、
わざわざ撃たれるために近衛邸の側よりに集まってゆき、そこで全滅したのだろうか。
 こんなおかしな話しがあるだろうか。こんなに短時間のあっけない全滅というのは、
閉じこもった信忠勢に放りこまれた新型の爆弾としか、考えられはしないであろう。
 だが、これは一応この侭にして、また本能寺へ戻ろう。