1192 信長殺し、光秀ではない 11

言経記

 なにしろ、ここで一番の問題になってくるのは、当時としては、はたして信長が、
本能寺に泊まっていたのか、どうか判らなかった事ではなかろうか。
<当代記>や<信長公記><太閤記>に記載されているように、信長が「何者の謀叛」
とすっくとばかり起き上がっているものなら、これは別にどいうこともなく、また前
章で「天野源右衛門の講談」として引き合いにだしたような場面。
 つまり、明智方の武者が、本能寺へ「ワアッ」とばかり乱入して、その中の一人で
ある勇敢な彼が、まっさきに奥殿深くかけこんで、今しも弓弦がきれて、大身の槍を
ひきよせている信長も、目ざとく見つけ、
「‥‥畏れ多くも織田信長公とお見うけ申したり」と、すばやく側へかけより、
「猪口才なり、下郎め」
 と、歯牙にもかけぬ相手に対し、恐れることなく、「安田作兵衛、見参、見参」
 と大身の槍にて、段階(きざはし)の下から突きかかれば、「あいや、暫らく」と、
前髪だちの森蘭丸が胡蝶のごとくに駆け寄り、さっと両手をガバッとひろげ、
「上様にては、あれへ」と傷ついた信長公を庇い奉り、
「おのれ不忠不義なる明智の家来め。畏れ多くも右府様に、お槍を参らすとは不届き
至極。いざや、この蘭丸の天誅の刃を受けてみよ」と信長公のお槍を頂き抜き立てれ
ば、天下の豪傑安田作兵衛も、たたらを踏み、
「信長さま、お背中見せられるは不本意なり。いざや、この作兵衛に、御首級授けた
まえ」
 と尚も信長公のおあとを慕わんとするのを、そうはさせじと蘭丸が、
「おのれっ、慮外っ」
 と突き出したる二度目の槍先。段階を登りかけて大股をひらいていた作兵衛の、腿
肉深くグサリと突き通す。
「やや、無念」と虚空を掴んで転げ落ちながらも、作兵衛は、必死の声をふりしぼり、
「返らしまえ、戻らせられ」と血を吐くような声で呼びかける。

 といった具合なら、まことに明確そのものに、信長の存在は掴めたであろう。だが、
事実は、そんな安田作兵衛などという人物は架空の武者であるし、現実とは縁遠いも
のらしい。これは講談なのである。
 もし寄手の誰かが、信長と戦っていたものなら、はっきり本能寺にいた事実の確証
となるから、それならば、オール白骨か、真っ黒焦げでしか見つからなかったにしろ、
何も周章狼狽して、京都中を片っ端から軒なみ虱潰しに公開操作をすることもない筈
である。
 つまり、これは午前七時半の出火時まで、寄手の二万六千の眼球は、みな節穴同然
で、だれも信長を視ていないという事になる。
 ということは<信長公記>の記載のように、
「鉄砲をうちかけワアッと五ヶ所より乱れ入るなり」ならば、誰か一人ぐらいは確認
もしていようし、また信長自身も、
「はたして、まことは何者どもぞ」と、そこは人情をみせ姿を出しているはずだろう。
だいいち、姿を出さないことには、どうしたって、
「弓を二つ三つ引き給う」事もできなければ、「御槍にて御戦いなされ、御肘に槍疵
をこうむられる」ような具象はとても起きない筈である。誰にも見られない室内で弓
を引いたり、槍をふるって自分で肘に傷をつけたというような事は、まさか、考えら
れもしない。
 ここに<信長公記>の記載と事実との食い違いがあるのであろう。
 なにしろ、現実の問題としては、寄手というか、本能寺外部の人間は、誰も信長を
見ていないらしいのである。
 もしも誰かが、その存在を確認していたものなら、周囲には、びっしり一万三千と
いう人数が蟻のはいでる隙間もないくらいに完全に取巻いていたのだから、もし屍体
が発見できなくても「信長の死」というものは、確認できた筈であろう。それなのに、
<言経卿記>
「六月三日、己丑、晴陰
一、洛中騒動不斜
一、禁中へ徘徊了、今夜番ニ弥二郎進了
  (御所へ警戒のため夜番の者を供出)
六月四日 庚寅
一、禁中徘徊了
一、洛中騒動不斜
  約五行分削除空白(続けて)
六月五日より十二日まで削除中断
六月十三日
一、惟任日向守於テ山崎ニテ合戦。即時敗北。伊勢守(伊勢貞興)已来三十余人打死
了。織田三七殿(信孝)羽柴筑前守已下従南方上了、合戦也。二条屋敷(下御所)放
火了。首共本能寺ニ被曝了。

 何故、もう一度、二条御所に対し、山崎合戦後に放火し、誰を殺して首をさらした
のか、ここに問題がある。
 従来の史家の説明や東大史料編纂所の解明では「光秀又はその家臣が放火し、その
首をとって曝した」ことにされているが、山崎合戦で破れ、そして追われた明智勢が、
本拠地へ脱走するのが常識なのに、どうして堂々と勝利者みたいに入洛し、なんの必
要があって十一日前に戦火にみまわれ、あらかた灰塵に帰した二条御所へ、改めて又
も放火する必要があるのだろうか。
 もちろん、二条御所に放火したというのは、そこに特定な人間がいたという立証の
ない限り、これは六月二日事件の証拠隠滅を企てたものと思われる。となると、これ
は明智側から放火したのか、秀吉側か、はたまた、どさくさ紛れに誠仁親王の雑掌が
潜入して、残っていた火薬に火をつけ、これが火災になったのか。疑問があるが、そ
このところは判然とされていない。
 附記するならば、この前日の午後から小競合いで始まって、十三日夕刻に勝敗のつ
いた「山崎円明寺川合戦」についても、講談では「天王山を秀吉が奪ったから勝った」
とか「筒井順慶が洞ヶ峠で、どちらへつこうかと日和見をした」などという話で、ま
こと尤もらしく語られ、それが真実のように誤伝されているが、良質の史料としては、
秀吉から織田信孝への意見状の形式で、その家老の岡本良勝と斎藤玄蕃允宛のものの
<浅野家文書収録十月十八日附>中に「私は、こんな具合に山崎で戦ったのだ」とい
う自画自賛のものしかない。それを根本史料にして、現代では講釈が下火だから、昔
の講釈師に代って古手の歴史家が、張り扇ならぬ張り(金)ペンで、さも事実らしく、
もっともらしく「こういう本にある」「あの本には、ああ在る」と、ひどいのは講談
の種本まで史料扱いで書いているにすぎない。
 だが、その唯一の確定史料とされている秀吉の書状も、信孝に見せる為に書かれて
いるだけに、考えればまこと奇怪である。
 というのは、信孝は秀吉と共に山崎合戦へ臨んで十三日は共に戦っている事になっ
ているから、何も後になって、こと改めて詳しく、
「あの合戦は、こうだった」と書き送るというのは奇妙すぎる。これも後年の贋作の
一部ではなかろうか。
 そして、この山崎合戦の真相を当時書いたものもあったろうが、みな焼却処分され
てしまって、全然伝わっていない点に、「光秀を信長殺し」に仕立てるための工作が
及んでいたことは見逃せない。
 旧陸軍参謀本部編纂の誤謬だらけの<山崎合戦>などは、「天下分け目の合戦」と
しておおげさに、戦ったように講談化しているが、「伊勢貞興や諏訪飛騨守ら室町奉
公衆三十余人討死」という事実は、これは騎馬将校で、兵士の損害を十倍とみても三
百三十人の死亡率だから、敗軍の明智側の損耗率を二割とみて、七千人ぐらいの軍勢
ではなかったろうか。講談では凄まじい数をいうが、実際には、それ程の戦死者を出
していないのが、この当時の合戦の実相なのである。
 <小栗栖村長兵衛>という講談では、この十三日に、光秀が竹槍に刺って死んでし
まった事にされているが、<言経卿記>では全然違う。
六月十四日 削除 空白
六月十五日
一、惟任日向守、醍醐辺ニ牢篭、則チ郷人一揆トメ打之、首本能寺ヘ上了。
六月十六日 削除 空白
六月十七日
一、日向守斎藤内蔵助(内蔵介利三)、今度謀叛随一也。堅田ニ牢篭、則尋出、京洛
中車ニテ被渡、於六条川原ニテ被誅了。

 この<言経卿記>は、六月十八日からは、「甲辰、天晴、晩雨」などと、その日の
干支や天候も入れてあるが、六月四日から十七日までは慌ただしく、それも記入され
ず、この十四日間で、残存しているのは僅か四日分。あとの十日分は、みな削除され
て伝わっていない。それだけに真実性が感ぜじられるけれど、もちろん、破いたのが、
山科言経なのか、誰かは判らない。が、この中に、あらゆる秘密があったのだろうし、
今日、光秀が犯人に仕立てられている謎も、この削除部分にあったのだろう。
 しかし、何者かの都合で、つまり、そうした事実の記載がある事で一身や一家に累
厄が及ぶ事を危惧して、それが破棄され、空白になってしまっているからには、何と
かして、今はこれを埋める努力をする外はないだろう。


ダワイ

 さて、なんといっても不可能なことは、六月三日以降、つまり、その翌日以後も引
き続く、「洛中騒動不斜」の連続である。
 従来の歴史家の解明では「信長の遺臣狩りをして、捕えては六条河原で斬殺した。
その騒動が、ずっと続いて、洛中は上を下への騒動だった」というのだが、洛中どこ
ろか、六月二日までは誰彼なしの、みな信長の遺臣の筈である。
 叛乱軍側の叛徒探しならわかるが、一人残らず信長の旧臣であって、その連中を明
智側では、味方に抱き込もうとしているのに、どうして、全部を敵に廻してしまうよ
うな「遺臣狩り」などするわけがあろうか。
 これは、はっきりいって「信長探し」であろう。なにしろ、まるっきり残されてい
るものがないから、「事によったら本能寺に泊まっておられずに、どこか他所で外泊
されていたのではあるまいか」と、手分けして明智側で洛中を探し廻っていたのだろ
う。
 ということは、「信長の死を確認できずに、狼狽していた明智光秀」の方は、なに
も犯人ではなく、「遠隔の土地にいたとしても、信長の死を、はっきり知っていた連
中」および、同日、遠くへ落ちのびてしまった者の方が、これは怪しいということに
なるのではなかろうか。
 なにしろ、当時の真実はすっかり隠されてしまっているから、不思議な事だらけで
あるが、もし信長が本能寺にいて、各書の説くように抗戦していたというなら、これ
も不可解な一つである。
 今となっては常識でもって計るしか他に説きほぐす途はないのだが、なんぼなんで
も最低六十から最高百十人くらいの小人数で、しかも小姓や厩衆とよぶ馬の口とり仲
間に、手伝いの女どもを指揮して、四時間近くも、信長勢が持ち堪えたというのは変
である。つまり弓一つ槍一つの武備で抵抗できたということは、私をして言わしめる
ならば、
「午前四時から包囲はされはしたが、ただそれだけであった」という事になる。なに
しろ、寄手が攻めかかってこないのに、本能寺内部の者が、これと戦う筈はない。
 戦わなければ、なんの被害もない。
 だから、四時間でも五時間でも、そのままで信長達は頑張っていられたのである。
 これは、「一度くずして使いだすと、一万円札だって瞬くまに消費されるが、頑と
して一円も消費しなければ、その一万円札は永劫不滅である」と説いた昔の谷孫六の
<岡辰押切帳>と同じような理屈ではあるまいか。
 なにしろ泣き叫ぶか、喚くきりの女子供や仲間を従え、一万三千の弓鉄砲をもつ武
者どもを相手にして、信長が頑張れたのは、これしかなかったろう。話としてはつま
らなくなるが、いくら相手が多くても、戦わなければ信長一人でも悠々と保っていけ
る筈である。

 昨年の秋。モスクワからレニングラードへ行っていた。その時、街を中央から分け
て流れているヘルバ河の畔で、私は赤軍の兵士の一団と遭遇した。なにしろ軍帽のよ
うな赤い地色を周りにつけた警官でさえ、初めてみたときはドキッとした私である。
急いでコルスキンの方へ曲がりかけると、そちらからも一個小隊が来た。
 ちょうど挟みうちのような恰好になって、私は逃げられないまま、黒い砲艦の並ぶ
川岸に後退りの恰好になってしまった。だから私の背筋の骨の髄からは、いやあなお
くびが、ひっきりなしに出て、とてもその時、言い様もない不安に襲われた。
 それなのに、早く行きすぎてくれと、どす黒い川面にむかって、私が肩をまるめ、
背をむけているのに、赤軍の兵士達もそこで小休止をした。そして、珍しそうにヘル
バ河の流れへ集まってきた。私のすぐ傍らへも、タタール人らしい浅黒い顔をした兵
士が七、八人、まるで肩を並べるように近寄ってきた。まったく、ぞうっとさせられ
た。
 そうだ、この羊の臭みだ。私はめまいしそうに過ぎ去った日を想った。あの日、満
州の奉天の浪花通りの自宅でダワイされた私は、クラフチェンコ赤軍司令官の命令と
いうことで、モスクワへ送られた。行ってからは、今の旧モスクワの青い宿舎へ入れ
られた。通信社の仕事など手伝わされ、半年後ようやく吸い口が半分にもなっている
ロシア煙草を十カトンぐらい渡され、スパシーボと当時の瀋陽飛行場まで送ってもら
えたが、それでも行きはひどかった。シベリヤ鉄道の中でさえ、こんな羊くさい兵士
にあけくれ囲まれて、「ヤ・ハチユー(これをよこせ)」「ヤ・ジエラーユ(あれを
よこせ)」と拳銃をつきつけられて次々と身の廻りの時計から万年筆、上衣までも奪
われ、拒みでもすると首を締めつけられた事もあった。いくら私が、向こうの要請で
モスクワへ行くのだからと説明しても、彼等は口を尖らせ、「ヤポンスキーは、ヴラ
ーグだ」つまり敵国人だと、いつも睨みつけていた。厭な記憶である。私は今でも熊
みたいな兵士に追いかけられている夢を、子供みたいに時々みる。
 それなのに、私を苛めたワエーンヌイ(軍人)は一人きりだったのに、ここには少
なくも何百という頭数が揃っている。とてもじゃないが、何ともなるものではない。
諦観と共に卑屈さも頭を出したのだ。どうもあの時代に覚えこんでしまった媚びらし
い。
「クーリチエ・リ・ヴイ(ひとつ吸いませんか)」と、私は使い忘れのロシア語で、
ピースの箱をつきだした。
 だが、その時、集合の合図がなった。だからタタール兵は、やあと白い歯をみせて
駆けていった。私は気にして、おずおずと彼等をみているが、向こうは誰一人振り返
りもせず、歩調を揃えてコムホートの方へ行進していった。それを見送りながら、戦
争をしているときは、たとえ一対一でも武器の強い方には抗すべくもないが、戦さえ
してなければ、たとえ相手は何百人でも、どうということもないじゃないかと沁々思
った。そこで放心したように見送りながら、平和ってよいものだと心から想えてきた
たものだ。

 信長の場合だって、同じであろう。
まさか包囲されていて、平和という事はあるまいが、もし戦っていたのなら相手が百
人、此方が百人と、同数であったとしても、装備が違って信長方は劣っているから、
まあ果敢な抵抗をしたところで、せいぜい保ったのは二十分ではなかろうか。
 それが、ぜんぜん刃を交えていなかったからこそ、三時間半も四時間も保ち得たの
ではあるまいか。
 なにしろ、相撲だって、なんだって、いくら大勝負とはいえ、始めてしまえば案外
あっけないくらい勝敗はついてしまうものである。しかしである。睨み合いだけして
取組みさえしなければ、永遠にというのも極端だが、勝ち負けなど決まらないもので
ある。言い方をかえるならば、変な例だが、男と女は結婚して一緒になるからこそ、
互いに憎しみ合い喧嘩にもなるが、他人の侭でいたら、そんな争闘に捲き込まれるこ
とのないのと、同じとも言えよう。
 どうして本能寺の方は、あくまで弓を射らず、槍もふるわず、全然戦っていなかっ
たかというのは、時間からも割り出していける。<当代記>によれば、二条へ信忠と
一緒についていった連中というのは、坂井越中、団平八、野々村三十郎、赤座七郎左、
猪子平八、菅屋九父子といった、自分から槍をふるって奉公し、ようやく生き残って
何万石かの大名になった、いわば立志伝中の武者である。
 当時の言葉でいえば「武辺者」と呼ばれた豪傑である。この一騎当千の連中が約五
百人で篭城したのが「武家御城」と呼ばれた洛中唯一の要塞の二城城。この方が、午
前七時から午前八時の間に攻撃され、午前九時には落城しているのに、壕もなく溝で
囲まれ、塀とてない本能寺の信長が、鉄砲一挺の供えもないままで午前四時から午前
七時又は七時半まで堪えられたということは‥‥
 対比さえしてみたら、その訝しさは、すぐにも判るものである。
 つまり、不自然の一語しか、ないようである。さて、フロイス記述に係る<日本史
>には、信長殺しは洩れてはいるが、そのフロイスが、九州の口の津港にあって、五
畿道各地のパードレ(師父)によって報告されてくるものを整理して、彼や、その同
僚が転写をし、<日本会報>として、マカオへ送っていたものの中にこれは入ってい
る。
 しかし、これとても、正規の年一回の<日本ゼズス会1582年(天正十年)年報
>ではなくて、何故なのか。そこは不明だが、<日本ゼズス会年報の追信>として別
稿として扱かわれている。つまり、天正十年の年報を纏めてしまって、マカオへ発送
した後になって、信長の、この事件が持上がったから、第二報として送ったという形
式である。
 もちろん当時、彼等の用いていた太陽暦と、日本の太陰暦は違う。といっても、問
題の六月二日は、当時のヨーロッパ暦でも六月二十一日にすぎない。
 どうして一年ごとに一回ずつ出されていた年報が、この年に限って、半年前で締切
になり、第二報を追加版となっているのは、不思議である。
 しかし実際は五月の記事も入っていて、変である。そして、この追加版の末尾を引
用し、それに註をつければ‥‥


会報

「当都(註:何処か不明、九州の口津港か)において、日本の至宝がなくなったとい
い、日本人自身の手で葬り去ったのだと話して喜んでいる者さえ少なくない(註:こ
こが重点である。喜ぶ者とは誰か。それこそポルトガル人を主にしたパードレ達をさ
すからである)。この世においてのみならず、天においても勝るものはないと考えら
れていた人物が(註:師父達にすれば、天にまします神が唯一である。それなのに信
長は、それを冒涜して、自分こそ全智全能の神であると宣言していた。紀元前におい
ては、バビロンの神に対立した国王はいたが、この十六世紀の時点において、『イエ
ス・キリストより自分の方こそ天帝である』と言い出したのは、古今東西、信長一人
きりである。つまり織田信長たるや、天主教徒からみれば、それは呪わしいジャボ(悪
魔)以外の何物でもない。ここが本当のところである。いくら汝の敵を愛せよといって
も、遥か故国を後にして日本列島へ来ている神々の使徒と自負する者達にとって、神
をないがしろにする地上の暴君を愛したり許せる筈はあるまい。俗界で言えばこれは
商売敵であるからだ)。かくの如く信長は、不幸にして哀れな死を遂げ、彼に劣らず
傲慢であった明智も、また同じく不幸な終焉を遂げた。だが前述した通り、信長が稀
なる才能を有し、賢明に天下を治めた事は、確かな事実であり、哀れ彼は、その傲慢
さの為に身を滅ぼしたのである(註:この、日本人が読んでも抵抗を感じさせない書
きぶりは、なんと言ったらよいのだろうか。信長の死を喜んだ事を明瞭に冒頭に匂わ
せながら、続いては、さも同情的に、また尤もらしく書いている筆致は、いかに解釈
するべきなのだろうか。再言すれば、信長は、マカオよりの火薬が入手したさに、初
めの内こそ天主教のシンパであった。しかし、この時点においては、彼は既に偶像崇
拝者。といっても、単なる仏体や神体を拝むのではなく、自分こそ天帝であると、師
父達の説くイエス・キリストを凌駕する至上の神に、自分はなっていたのである。ゼ
ンチョ(異教徒)などというものではなく、不倶戴天のジャボ(悪魔)なのである。それ
なのに、これが、師父たる者の悪魔に対する者に対する言葉であろうか。この作為、
不自然さは何を隠しこんでいるのであろうか)。
 毎日、新しい事が起こっているが、あまり長くなるので次の季節風期に譲る。(註
:テレビの番組欄ではあるまいし、そんなに毎日変わってはたまらない。しかしこれ
は、六月の出来事を通信の恰好にした事を、さも自然に見せかけるように、信長の死
ぐらいな新しい事は、次々と毎日起こって珍しくもないと、ごまかしているのである)
われら一同、尊師の聖なる犠牲において推薦さられ、また祝福を受けんこと願い奉る。
       1582年 11月5日 ルイス・フロイス

 以上であるが、最後に署名があるのが不審である。
<ゼズス会日本年報>というのは、これは<フロイス書簡>ではない。別個の公式文
書である。
 彼も、その編集員の一人だが、他の会報には署名などしていない。それなのに天正
十年の、この通信会報だけは、どうしたわけか、わざわざ個人名をつけている。偶然
の間違いとも思えない。なぜかなれば、これは信用をつけようための粉飾行為らしく
さえ疑えるからである。
 もちろん、原文があって、フロイスの自著と照合すれば、真否は一目瞭然である。
しかし幸か不幸か、原文はマカオで焼失という事になっている。
 だから日本の南蛮学者は、フロイスという馴染みのある名前入りと、読んでみて、
信長に対する扱いが、きわめて同情的であるのに(本当なら疑惑を抱くべきなのに)
すっかり満足しているのか、反撥や抵抗をうけない点で正確なものと認定し、これを
好史料として扱っている。
 ところが、中心になっている本文たるや、これは日本の<信長公記>に輪をかけた
ものである。しかし<中公新書南蛮史料の発見>などでは、
「切支丹らが、私にこう話した‥‥というように一人称で記したことが、怪我の功名
というか、この唯一の報告書を、絶対的に権威あらしめる結果となった」というが、
はたしてどうであろうか。私には、拵えすぎが目につきすぎ、ただ信頼できるのは
「信長が、髪の毛一本残さず、灰塵のように、吹き飛び消滅した」という情景描写の
一章節だけだと思う。
 ないしろ、当時の京都管区長はオルガンチーノであるにかかわらず、何故なのか彼
は、沖の島へ遁れてしまう。そこで、「やむなく代理に自分が報告します」といった
形式で、一司祭にすぎなくて責任者でもないポルトガル人のカリオンが<私>という
一人称で、この報告書は書き綴られている。
 どうも腑に落ちない。オルガンチーノは、その後、秀吉の宣教師追放令が出た時も、
なぜか彼だけは特に黙認の恰好で、そのまま日本に滞在し、慶長十四年に長崎の天主
教会堂で昇天しているが、この天正十年の時点。沖ノ島といえば、京より遥か遠い九
州の涯なのに、どうして、そんな遠い所へ、交通機関もない当時、徒歩で京から下関
まで歩いて逃げ、そこから九州へ海を渡って逃亡したのか理解に苦しむ。
 なにも、京から脱出するんなら、すぐ近くの高槻や伊丹、茨木に、和田とか高山、
中川といった切支丹大名が、びっしりと目白押しに並んでいたから、オルガチーノ一
人ぐらいなら、何処の城でもすぐ匿ってくれ、手厚く大切にされた筈である。
 それなのに、そこを通り越して、九州の涯まで逃亡したという事を、フロイスが書
いているということは、ここに二つの答えを提示しているのであるまいか。
 一つは、「オルガンチーノが、秀吉に何か依頼されて六月二日に、何か重大な事を
してしまった。そして、もし、それが発覚したら、自分一身の危険だけでなく、ゼズ
ス派の教会や信徒みんなに迷惑を及ぼす。だから日本式にいうならば、長い草鞋を履
いて逃げ延びた」
 二つは「この、フロイスの名入りの、1582年、ゼズス会日本年報の追加版は全
くの偽物である‥‥という事は、ある種の秘密の漏洩を防ぐために、日本から当時送
られて来た師父達の報告はみな消却してしまって、日本へ行ったこともない人間の手
によって、これは贋作された。だから日本の地理に詳しくない人間が、沖の島という
のを琵琶湖に浮かぶ竹生島ぐらいのつもりで書いてしまい、距離感を失念していたの
が、その例証である」
 さて、この追加版には、こういう記事がある。
「安土に總見寺という社を建て、信長は自分から神と仰がれるようにと望み、神体を
祭壇に飾り、五月の彼の誕生日には参拝する群衆で、ごったかえした。」
 という、私共が読んでも、たいして奇異は感じないが、天帝を唯一と仰ぐ天主教徒
の師父達にとっては、まことに天地いれざる悪魔の所業を、まっ先に書いて信長を弾
劾している。つまり原因結果論の、これは原因というところなのだろうか。
 さて、当日の事である。
「六月二十一日(日本では二日)、まだ夜も明けぬ頃、ミサを行うため祭服に着替え
ていた私、つまりカリオンは急報に接した。(註:誰から、そして何処からは、書か
れていない)「そして銃声が聞え、火の手が上がるのが見えたのである。新町通りに
接した南蛮寺から、西洞院通りの現場までは目と鼻だった(註:雉も鳴かずば、撃た
れもすまい。というが、こういう不条理を書き残しておくから、私の疑惑を招いたの
である。六月二十一日の天候の夜明け前と言えば、午前四時である。いくら早朝のミ
サといっても、服を着替えるのには、まだまだ早すぎる。これは急報を知らせにくる
使者の来るのが判っていたからこそ、手探りで灯をつけ着替えしていた。次に、「暫
くして」なら、まあ譲歩もできるが、「そして」とある。すぐである。銃声がして火
の手が上がったというと、これでは午前四時半には、本能寺は炎上したということに
なる。それでは、この包囲軍が二条城に現れるまでの、以後三時間半というもの、こ
の謎の上洛軍の首将達は、この南蛮寺へきて、カリオンにミサしてもらい、神の祝福
でも受けていたというのであろうか。それも距離が遠くて、はっきり判らないという
なら別だが、新町通りの裏通りが西洞院通りである。つまり南蛮寺の裏口から本能寺
正面までは一町どころか、その半分もないことを、カリオン自身も、これを認めてい
る。だから余計に訝しい。謎以外のなにものでもない)