1191 信長殺し、光秀ではない 10

デフォルメ

 この他に、小瀬甫庵の<太閤記>がある。
 やはり、見せ場として本能寺は書かれているが、これはまるっきり講談で、引用の
しようもない。次に田中吉政の臣の川角三郎右衛門が元和年間に綴めたと伝わってい
る<川角太閤記>がある。これは大村由己の艶笑ものや、甫庵太閤記よりは、まあ、
ましであろうと(史料)扱いを今ではされている。
 というのは、尤もらしい記述をしているからである。
<第一巻の明智勢、本能寺に乱入のこと>
は、四章で構成されている。
 一は、光秀が桂川へつくと、軍勢の者共に火縄を切り点火し、草履を履き換え、戦
闘準備をせよと命令を出したということ。
 二は、(まだ本能寺へも向かっていないのに)光秀が本日から上様になられると、
家来どもが喜び勇んだということ。
 三は、主格が、いつの間にか光秀から斎藤内蔵介に転換されてしまい、彼が下知す
るには、「町へ入ったら、いつものごとく、町木戸の潜り戸は開いているだろうから、
その戸を押して開けて中へ入れ。入ったら後からの者の事を考えて、閉めずに戸は開
けておいてやれ。次に目標は本能寺の森のさいかちの樹か竹薮と決めておけば、まぁ
暗くても、月明かりでも道を踏み違える事もなかろう」と声高にいうのが聞えた。
 四は、この後は<信長公記>に詳しく出ているから、向こうを読め。ただ違ってい
るのは、二の家来が喜んだ話と、三の斎藤内蔵介の命令であるが、これには二人も証
人があって、直接に聞いた。だから正しい、と書いてある。
 まことに尤もらしい点に於いては、これは完全無欠である。但し、うっかり読むと
である。
 これは元和元年に、大坂夏の陣が終り、どうも泰平ムードの時代のものかと思った
が、とんでもないもっと後年の贋作らしい。
 一の章に、原文では(馬のくつ切り捨て、かち立ちの者共、新しき草履足半(あし
なか)をはくべきなり、火縄一尺五寸にきり、その口々に火を渡し、五つずつ火先を
逆に捧げよ、との触なり。さて桂川をのりこし候こと)とある。だが、<相州兵乱記
>に「急坂を駆け降りなむと、馬の藁沓の結びを縮め」とある。つまり結んだ端がピ
ンと立っていては、馬が勾配にかかったとき、前脚の切れ端が後脚を刺してはいけな
いからというのである。だが、これからは桂川へ入るのである。たいていの藁は水に
浸かると柔らかくなる。ピンと刺さる筈はない。あべこべに、水にふやけるから後で
締め直さなければならない。そのとき、前もって端を切っていたら、どうして後から
締め直しをするのだろう。
 おそらく、これは<摂戦実録>にもある「大坂夏の陣で、木村長門守が、決戦の心
構えで、二度と兜をはずすまいと、その結び目を短く切って出陣した」という高名な
話からヒントを得て、兜の緒と馬沓の紐をうっかり書き間違えたのであろう。
 次に、川を渡ってから新しい草履に履きかえろと言うのならわかるが、今から水に
浸るのに、履きかえろではこれは二重手間ではないか。(足半(あしなか))というの
は、半分の草履という誤説もあるが、雪沓みたいに藁で編んだ半長靴である。川を渡
るのだから、これを履けというのだろうが、六月一日は雨である。桂川の水位は増し
ている。まさか、そんなものを履いたところで、浅瀬にしたって膝まであったろう。
だったら、わざわざ六月に雪沓を履く事はない。それに第一、そんな物を持ってきて
いる筈もない。
 次に、火縄を点火して逆にしろというのは、携行ランプの代用のことらしいが、普
通は、川を渡るときは、濡らさぬように桐油紙で包むか「雨火縄」とよぶ革袋に入れ、
頭のてっぺんへ結いつけて渡河したものである。この<川角太閤記>みたいに、当時
所定の五本全部に火をつけ、しかも、ぶら提げて川を徒歩で渡ったら、びしょ濡れで
廃品になってしまう。
 これは、どうも、桂川に橋があったと間違えているらしいが、ここへ架設されたの
は、ずっと後年の事である。
 当時ここは細川藤孝領で、細川番所の渡船があったきりである。だから、細川家で
手伝ってくれても、せいぜい二、三艘の小舟で、一万三千が渡っていては、夜が明け
てしまう。やはり徒歩で水中を渉って渡河したのだろう。
 それから、<兵器物具考>によると、
「火縄一尺五寸は、風なく一刻なり」とある。
 つまり一尺五寸という寸法は、点火させてから風の吹かないときでも二時間しか保
たないと決まっていたのだ。
 桂川を渡る前に、火を五本ともつけてしまうというのは、徒歩では三時間半かかる
本能寺へ急行できるように、川向こうにジープやトラックでも待たせてあったのだろ
うか。そうでなければ、あまりにも変である。なお、当時の軍用草履は、水中へ入っ
て切れないように木綿の心が入っていて、これを武者草履と言い、高級品は皮編みに
なっていた。だから、江戸期の博徒の出入りみたいに、それっと言って新しいのに履
きかえるような事はしなかったものだ。
 よく読むと、これはまこと愚劣きわまる本である。ところが、この程度の低級なも
のに書かれてある事が、後に、明智光秀が本能寺に攻め込んだという例証。つまり動
かしがたい信実として、今では完全に<真実>とされてしまっている。だが、まった
く内容が訝しい、てんで変である。だから、それを糊塗するためにか、苦心してまず、
<信長公記>では「明智日向守逆心のこと」として百八十字。
<天正記>では「本能寺の変」の冒頭に百九十四字で、計画的謀叛であったと、説明
を先に入れている。ところが、どちらも、明智秀満の名を、講談の湖水渡りの有名な
左馬助に間違えていたり、又は「年来の逆意、推察する所なり」といった説明で、な
にがなんだかわからない。
 ところが<川角太閤記>だけは、二千字に及ぶ長さで<明智日向守、謀反を企てる
こと>というのが出ている。これがまた、最初に証人らしき個人名を二人出して、ま
ことに尤もらしく書かれている。そして、これだけ詳述してあるものは、他にないか
ら、
(ケネディ殺しのオズワルド犯人説)の「ウォーレン・レポート」に匹敵するものと
し、これが後世の「光秀犯人説」の決め手になっている。
 そして奇怪な事は、秀吉時代は、大村や太田の光秀犯人説が通り、ついでに大阪落
城後の徳川期においても、やはり、この角川レポートの光秀犯人説が、通用している。
何故なのか謎であるが、別個の二大国家権力に跨って、(その都合よろしきをもって)
光秀を犯人にして罷り通っているのである。そして、一説だけでは心許なく思われる
のか、豊臣期において、大村、太田の二本立であったように、徳川期にあっては、こ
の<川角太閤記>と小瀬甫庵の<信長記>が、さながら車の両輪のように助け合って、
「信長殺しは、光秀である」という定説を、固めてしまうのである。
 そして、三百五十年たつと、<真実>というものに化けてしまって、もはや何とも
ならなくなってしまうのだ。


分析

 まず<川角太閤記レポート>を分析してみる。
「光秀は、西国出陣の命を出し、五月二十九日には、鉄砲の玉薬以下長持などの荷物
約百荷を西国へ向けて発送させ、そして、次の日の六月一日の酉の刻の午後六時に物
頭を集め、『京都の森蘭のところから飛脚があり、出陣の用意ができたならば、信長
が、それを検閲するから、早々軍を率いて京都へ出てこい』
といってきたといい、そして出発を命じ、亀山の東柴野へ打って出た時は、すでに子
の刻であった。だから、そのまま、こうして南へ進み、途中で聟の弥平次秀満を使い
として、斎藤利三ら五人を召し寄せて決意を告げた」と、でている。
 ただし、小瀬甫庵の<信長記>になると、これよりも、もっと話ができていて、
「光秀は、亀山出発前に謀叛のことを、明智秀満、同治郎左、藤田伝五、斎藤利三、
溝尾庄兵衛の五人に心中を打ち明け、五人から起請文をとり人質をとった」とある。
 こうなると、<川角太閤記>は六月二日午前一時頃に光秀が決意した話が、<甫庵
信長記>では六一日以前に起請文を書かせたり、人質をとって亀山城へ集めている。
 すこし繰り返して書くが、丹波亀山が光秀の本城だから、そこへ起請文のような重
要秘密文書や五人の者から受取った人質をおくのは当然なことにちがいないが‥‥現
実の問題として、明智光秀の一行は、六月一日に、この丹波亀山を出たとしても、六
月十三日に死んでしまうまで、この亀山へは一歩も戻ってない。殺されたと俗称され
る小栗栖村も、これは坂本へ向かう道順で、けっして亀山へ向かう途中ではなかった。
作り話までがそうなのは何故だろうか。
 もし人質や起請文といった重要文書のおいてある本拠なら、何故、光秀は亀山へ行
かずじまいだったのだろうか。又は、戻る事ができなかったのか‥‥これが、この本
能寺事件の匿された鍵ではなかろうか、ということにもなりそうである。

 さて川角太閤記はその次の条に、
「日向守殿は腰掛から敷皮の上に居直って、存ずる旨を申し出すなり」と、まるで浄
瑠璃のような語り口で始まって、
「さて、わが身三千石のとき、俄かに二十五万石を貰ったから、家来をあまり持ち合
わせず、他から止むなく引き抜きをしたところ岐阜で三月三日に叱られ、其後は、信
濃の国の上諏訪では、暴力を受けて殴られた。そして今度の家康卿ご上洛のとき、安
土に御宿をいいつかって泊めたところ、ご馳走の次第が、どうも手を抜いて油断して
いるように叱られ、俄かに西国出陣を仰せつけられた。こう再三にわたって苛められ
ていては、終には(所領没収又は切腹追放)という我が身の大事に及ぶべしとも想う。
だが、よく熟考してみると、以上あげた三つの怨みは、或いは目出度いことかもしれ
ん。なにしろ有為転変は世のならい。老後の思い出に、たとえ一夜たりとも天下をと
った上で、その痛快さを味わってみたいものであると、この程、この光秀は思い切っ
てついに謀叛の覚悟をつけた。だから、家来の其方らは気が進まなくば同意しなくと
もよい。そのかわり、それならそれで、今から、この光秀一人で、本能寺へ乱入し、
そこで暴れ廻ってやってから腹を切って‥‥思い出をつくる決心なのである」と、ま
ず一息に光秀が言う。
 これが川角太閤記における、犯行自白の録取書なのである。つまり光秀自身の口か
ら、犯行の動機と、これが怨恨を目的とする犯罪で、決して突発した精神錯乱ではな
く、謀殺であって、この殺人予備罪にも該当する相談は、光秀自身の発案で、言い渡
されたのであるとされる。
 つまり共同謀議や、家臣共がすすめたのではない。光秀が、齢をとってからの「思
い出」のために「せめて一夜なりと」と、まるで女でも買うような口調でアジ演説を
やって、「もし同行を承知しないのなら、単独で出かけて自爆してしまうぞ」とまで
脅かしたから、止むなく家臣共は、見殺しにもできず、ついて行ったにすぎない。だ
から悪い奴は光秀一人である。他の者は巻き添えにされた、言わば被害者である、と
いう話なのである。
 そして、これが、この侭で<真実>になってしまう。「光秀自身が自白したものだ
から間違いあるまい」と額面通りに受け取られて、今日の俗説の基礎になっているの
だ。
 もちろん光秀の怨恨説というのは、この他にも数限りなくあるから、それはそれで
一括して解明するにしても、さっぱり理解に苦しむのがここへ出てくる「我が身三千
石の時に、頼みもしないのに一躍、二十五万石にされた」という段階である。この時
点を、「岐阜城で、三月三日の節句、大名高家の前にて、面目を失いし次第」と原文
にはあるが、
「高家」というのは、慶長十三年十二月に徳川家康が関白二条康道と相談して、持明
院の末孫の大沢基輔と、足利氏の裔の吉良義弥をもって、それにあてたのが嚆矢とさ
れ、後に江戸幕府の職名になったものである。ところが信長が美濃井の口城を奪って、
岐阜城と改め、そこにいたのは永禄七年から天正四年まで二月までである。すると、
ここ江戸期までに三十五年間という最低のギャップが生じる。
 つまり高家などと呼ばれる者が、岐阜城にいた筈はない。まだ、そう呼ばれる者は
作られていなかったからだ。
 次に三月三日の節句というのもおかしい。
 これは桜井秀の<雛祭考>に<時慶卿記>を引用して説明されているように、
「上巳の節句は寛永六年三月三日より始まる」か。
 又は「お湯殿日記」を史料にする有坂与太郎の<雛祭新考>に、「上巳の節句の始
りは、寛永二年三月三日」の、どちらかが正しく、いずれにせよ信長時代にはない節
句で、これは江戸期からの年中行事である。
 それまでは宮中において(周や魏の風俗で三月三日に汚れを川へ流す風習をうけつ
ぎ)この日を「曲水宴」といって酒宴にしたり、漢詩はつくっていたが、大陸の行事
なので、節句とは決して呼んでいない。また武家は絶対に、この遊びはしていない。
つまり、三月三日を節句にしたのは徳川秀忠の五女の東福門院が、後水尾天皇の中宮
になられてから、関東の「おしら神」を祀って白酒をあげ(白木のままで彩色したの
が子消し神)そして白桃を供えだしたのは、信長の死後四十余年経過した後の事であ
る。
 それでも江戸初期は、まだ「三季」とよばれ、「節句」と決められていたのは、
「五月五日の端午」「九月九日の重陽」「十二月二十一日の歳暮」の三日である。
 つまり「三月三日の」が節句になったのは、ずっと後年の江戸中期以降の事なので
あるから、この<川角太閤記>が、「元和七年から九年までの著作」とする校注者の
説はおかしい。三月三日の節句だとか、高家といったような書き方からみれば、これ
も、天和、貞享、元禄の頃に一大流行をした古書贋作ブームによるもの。やはり源内
たちのような偽作者達がせっせと書いて、それを故買(けいず)業者が、わざと灰汁
につけて古色蒼然とした用紙に、筆耕させて仕上げたものだろう。なにしろ天下に浪
人が溢れていて、コピーライターに不自由しなかった時代である。
 だが、右から左へ、その通りに筆写するのは、つい億劫で、リライトした結果が、
<桂川を渡る場景>みたいに馬の藁沓の紐を切ったり、雪沓を夏に履かせたり、当時
は桂川に渡橋があったから、光秀の頃にもあったものと間違えてしまったようである。
 なにしろ、この<川角太閤記>が偽書であると明確に指摘できるのは、その書かれ
たと称される元和七年から寛永二十年までの時代は、明智光秀の家老斎藤内蔵介の娘
阿福が「春日局」として権勢を振るっていたからである。その彼女の父の事を書いた
ものが、写本とはいえ流布できるわけがないと考えられる。
 いくら、このクーデターは光秀個人の発案で、他の者は知らないんだと書いてあっ
たにしても、その<本能寺乱入のこと>の章の第三節に、内蔵介が「門に入るときに
は、自動ドアではないから、手で押し開けよ」と言ったなどと、ばかみたいな記述の
ある<川角太閤記>が、その娘の春日局の逆鱗にふれずに出せたかどうか、考えても
わかることである。
 いくら早くみたところで、これは春日局の死後の、元禄以降。まぁ博徒の喧嘩華や
かな天保時代が正しいと思える。
 だから光秀の頃は、何貫とりと言うのが単位だったのに、江戸の旗本なみに「我が
身三千石の時」と書かれてしまい、それが俄かに八十三倍にベースアップされて「二
十五万石拝領仕り候時」といった荒唐無稽なものになるのであろう。だが本当のとこ
ろは、光秀は最初から、
<細川家記>によれば、信長に仕える前の永禄十一年七月二十五日に、既に溝尾庄兵
衛、三宅藤兵衛ら五百余の家来をもっている。だから江戸期ならば、赤穂浪士で名高
い浅野内匠頭よりも上級の十万石くらいの身分である。


講談

 それなのに、この<川角太閤記>にあるように三千石で、信長に就職し奉公したも
のなら、いくら当時のほうが物価が安かったにしろ、やはり二十人くらいしか養えな
かったのではあるまいか。すると初めにいた五百余の家来の九割五分を、光秀は人員
整理しなければならない勘定になる。
 と思うと、また忙しく<川角太閤記>では、「三千石から一躍俄かに二十五万石拝
領仕り候とき、人手がないから他からスカウトしたところ、信長に叱られ続けた。よ
って、我慢ならぬから謀叛をするのだ」と光秀自身の口から宣言をさせている。八十
倍のペースアップというのは大変なものであるが、この二十五万石は何を基準にして
いるのだろうか。
 <浅野旧侯爵家史料>によると、天正十一年に「江州坂本二十一万石のところ、城
代として二万石を拝す」という浅野長吉時代のものがあり<亀田高綱記>では二万二
千石とある。つまり旧坂本領は二十万石ぐらいらしい。
 そして丹波亀山城主羽柴秀勝(信長の子)天正十二年突然変死したあと、前田法印
が伜の前田利勝に先だち五万石にて亀山城主になっているから、その合計で二十五万
石割出したものと想像するが、それは後年の話である。
 江州坂本の支城でさえ二十万石の余を拝領している明智光秀に、「本城として丹波
亀山旭城」を持たせる時に、支城の四分の一以下ということはない。丹波丹後に跨っ
て、その頃やはり三十万石以上はあった筈である。
 つまり天正十年当時の明智光秀は五十万石以上と思えるのに<川角太閤記>は、後
年の、
<慶長分限料>や<伏見城作事割当表>の石高から割り出して、すっかり間違えてい
る。
 ----これは後から重要なキーポイントになることだが、丹波は誰某、丹後は誰某と、
今日の歴史附図のように国別に領主制が、はっきり決まったのは、あれは慶長五年の
関ヶ原合戦後の事である。信長時代は、そうではない。山崎合戦の後、有名な細川ガ
ラシャ夫人が隠れていた「あど野の庄」も丹後であっても明智領だったくらいである。
 さて<川角太閤記>では、光秀が「人一円も持ち合わせず」つまり、めぼしい家来
が一人もいないのでと言わせているが、光秀と最期まで生死を共にしている三宅藤兵
衛や溝尾庄兵衛にしろ、昔からの家来である。
 ところが、<川角太閤記>には変な家来が現われてくる。まず最初はその溝尾と、
斎藤内蔵介を二つ合わせて、二で割ったような「溝尾内蔵介」という人物である。初
めのうちは別々に書いてあるから、二人の事かとも思うが、そらなら溝尾や斎藤とか、
庄兵衛内蔵介と併記するべきなのに合体させているのは何故だろうか。なにしろ筆頭
の名前からして、江戸後期に流行した講釈の「湖水渡りの明智左馬助」である。実存
は「明智秀満」で、これは荒木村重の嫡男新五郎の許へ嫁にいって戻ってきた光秀の
長女の婿である。
 さて怪人物の溝尾内蔵介が言うのには、「目出たき御事を思召されました。では明
日からは上様と仰せ奉れるでしょう。さて今日は、夜が短いから急いで本能寺を五つ
前に片づけ、それより、二条の御所をお討ちはたしなさったら、ごもっともと思いま
す」
 と賛成している記述が出てくる。だが二条城へ、信忠が妙覚寺から移ったのは、実
にこの六時間後の午前八時である。当時はまだ行っていない。
 千里眼でないかぎり、予測ができるはずはない。だから怪人物であるとしかいいよ
うもない。なにしろ御所に当時いられたのは誠仁親王なのだから、信長を倒したつい
でに、二条御所におられる皇太子も亡きものにし、光秀を明智帝にしようという魂胆
なのであろうか。どっちみち、でたらめもよいところである。
 なにしろ(結果)を先に出しておいて、それに話を結びつけてゆくので、てんでわ
けが判らない。そのくせ、一方ではリアリズムぶって、
「沓掛の在所にて兵糧を使い、馬を休ませてから『味方の者で本能寺へ注進する心い
やしい奴が居るかも知れないから、見つけ次第に斬りすてぇ』と天野源右衛門を尖兵
隊長にして先行させた。天野は東寺辺の瓜畑の百姓を、もし本能寺に知らせに行かれ
てはまずいと追いかけまわして、二、三十人も斬りすてた。別に罪や科はないのだが、
天野は(武者の心得)として、念のために処分したのだと、筆者は、うけ給って(感
心した)」と結んでいる。
 いかにも本当らしい。だが尖兵として早駆けを言いつけられた者が、徒歩で、てく
てく行くとは考えられない。乗馬だろう。すると、(瓜畑の百姓が、彼等より早く本
能寺へ注進するのを気遣った)というからには、きっと百姓も馬に乗って畑仕事をし
ていたのらしい。しかし、そんなばかげた事はなかろう。
 だが、そんな百姓よりも、続いて並んでいた細川番所の方はどうしたのであろうか。
 江戸期に入って細川は九州へ転封され、豊前小倉から寛永九年十月には、肥後十二
郡、豊後三郡に加増移封され、肥後熊本五十四万石になっていたから、この本の筆者
は、天正十年六月二日には、(この一帯が、洛中警護のために当時丹後宮津城主だっ
た細川の飛び地支配になっていて)細川番所というのが並んでいたのを、まるっきり
知らなかったのではあるまいか。罪もない百姓を殺すより、番所の者を始末しなけれ
ば、大変な事になる筈である。
 ところが、そんな事は一行も出てこない。
 だが、出ていないには出ていないわけがある。この天野源右衛門というのが、これ
また明智左馬助同様に、江戸後期の張り扇から叩き出されてきた人物である。後述も
するが、「あいや暫らく、お待ちあれ、右府様とお見上げ申して、御首級(みしるし)
頂戴」と大身の槍をつきだし、信長の肘に傷をつけたところを、「あいや推参なり」
と前髪だちの花も恥らう美少年の森蘭丸に邪魔をされて、怪我をして階段からころげ
落ちる安田作兵衛という髭もじゃの五十男が、この男だそうである。
 講談では、安田作兵衛が九州の立花家へ奉公した時に、世をはばかって、天野源右
衛門と名を変えた事になっているが、<川角太閤記>では、早手廻しに、まだ本能寺
へ行かぬ先から名を改めている。講談を利用しても、結果を先に出している一例であ
る。
 さて昔の江戸時代の辻講釈というのは、連日、読み続けて「さて、あとは明晩のお
楽しみ」と客を引っ張っていかなくてはならなかったから、信長も死に蘭丸も死んで
しまう<本能寺>の続編に、仕組んだのが、傷はさせたが、命は助けておいた安田作
兵衛である。
 これを天野とかえ、立花宗茂の家来にして、次の読物にしてしまった。おかげで現
在なら、まだ高校一年か二年の宗茂が、張り扇のおかげで豪傑になり、やがて朝鮮の
役になると、「朝鮮碧蹄館、天野源右衛門と十時(じっとき)伝右衛門との一番槍の
争い」という講釈になる。
 正確にいうと、本能寺の変後十七年たっているから、五十歳の彼だって六十七歳の
わけだが、そこはアンチ・リアリズムで勇ましい。
 だから講釈で相当にあたったらしく、「天野源右衛門覚書」という当時の赤本も幕
末に出たくらいである。
 その<覚書?>なるものによると、源右衛門を主にする立花宗茂の二千か三千の兵
が、「明軍三十万人を斬り殺した」と面白おかしく書いてある。一人が平均百人を斬
った事になるが、テレビや映画のジュラルミンの刀ではあるまいし、そんなバッタバ
ッタとやれたものであろうか。

 なにしろ天保期ぐらいの戦争を知らない連中が、ただ客受けする為に書いたものだ
から、もし当人が、本当に昔は実在していたにしろ、全然関知しないところであろう。
 さて、こういう具合に、江戸後期の辻講釈の演題の人物が活躍するのが、<川角太
閤記>という本で、これが現在、より良すぎる誤解のもとに、「明智光秀の謀叛」を
立証する肝心な証拠史料とされているのである。
 もちろん、といって、この<川角太閤記>の筆者が、勝手に「光秀を信長殺し」に
仕立て上げてしまったというのではない。なにしろこれは三世紀後の幕末の本である。

 事件直後から、その方が、まず山崎合戦で光秀を倒した秀吉には都合がよかったろ
うし、他の勢力家にも、そうした空気がみなぎっていたから、俗に云う「死ぬ者貧乏」
で、みな彼のせいにされてしまった形跡はある。
 徳川家の史料とされる<当代記>にしろ<原本信長記>の類でも、みな「明智日向
守逆心」とか「謀叛」で片付けられてしまっている。
 その他でも、次々と筆者が変わって転写されているうちに、世評と同化して、そう
なってしまったのか、どうかわからないが、中には、光秀が桂川でなく、もう出発に
あたって、亀山城で、その独立宣言をしたというように、
<老人雑話>や<蓮成院(れんじょういん)記録>といったものには堂々と書かれて
ある。
 ただし、まるっきり同じ事では曲がないから、
「斎藤利三は、時期尚早と反対したが、秀満が、四頭だての快速馬車だって、一旦口
にしてしまった事には追いつけやしないから、口外したからには、やるべしと主張し
た。そこで光秀も所信を発表した」とか、
「光秀は二十九日に亀山へ登ると、初め秀満に打ち明けたが反対され、利三らの重臣
にきいてみたが、これにも反対された。そこで光秀は躊躇したが、六月一日になって、
さらに秀満に語ったところ『私以外の者達にも、既に仰せられたとあっては、いつか
は洩れて信長公のお耳に入るかもしれませぬ。もはやこうなっては事をあげるしかあ
りますまい』と、強硬になって旗上げさせてしまった」
と(賽は投げられた)というか、(ルビコン河は渡った)式の話を作っている。
 しかし、こうした群書に対して、<川角太閤記>は、まっこうからそれを否定して
いる。だからその反撥によって信頼もされている。その部分を引用すると、
「いま前田肥前守利長殿の許で武者奉行している山崎長門守や、福島正則に仕えた事
のある林亀之助は共に、旧明智の遺臣で、この二人の話はよく聞いています。何しろ
山崎合戦にも加わった者達の云う事ですから、間違いなどあろう筈がありません。二
人が口を揃えて言いますには、光秀は決して重臣の五人衆などには何も話さなかった
そうです」
 初めに<信長記>の五人に起請を書かせ、人質をとったという話を引用してから、
それを、この手法で否定している。つまり、(亀山城を出発する前に光秀が、重臣に
胸中を洩らしたような事実は、旧光秀の家臣の山崎長門守や林亀之助に聞き出したが
ない。そんな事実誤認の他書と、この川角太閤記を同一に見られては困る)と強調し
ている。逆手をとっての説明でもある。
 という事は裏返せば、このルポルタージュは、当時この六月二日の暁の出撃に実地
に参加した山崎や林から直接に取材したもので、間違いない。という言外の証明であ
ろう。だが、勿論これは虚構である。
 かの二・二六事件にまきこまれた近衛連隊の兵士が、そのまま満州へ派遣され、あ
らかた消されてしまったように、本能寺襲撃部隊も、みな「明智残党狩り」の名目で
処分されている。山崎合戦後、坂本城をまかされた丹羽長秀の家来長束正家は、城代
として、その遺臣狩りの大虐殺に功をたてた。そのため長秀の許から独立し、近江水
口の五万石にまで出世している。
 丹波亀山衆の方も、秀吉の養子であった於次丸が城主となってから、前田法印父子
が、やはり明智の残党狩りをやり、羽柴於次丸の怪死後、法印が先に、次いで伜前田
利勝が御褒美に城主になっている。
 そして前田も長束と同じ手柄だからというのか、共に同高の五万石ずつになってい
る。こうした事情であるから、山崎や林は、かつては明智の家来だったかもしれない
が、天正十年六月においては、後で述べる木村一味の与党だったか、又はユダと目さ
れる重臣についていたか。それとも前に退身していて、この桂川越えに従軍などして
いるわけはないのである。そうでもなければ、二人とも無事なわけはない。山崎が命
を長らえて前田へ仕えたり、林が関白秀次や福島正則に奉公できたのは、もし、実在
した者なら、それなりのわけがあったのだ。
 なにしろ、山崎合戦の後、
「故信長様を討ち奉りし悪逆無道の輩は、たとえ一人なりとも許す事あるまじく」
 と秀吉が天下にふれして、徹底的に余類を草の根をわけて探索させているのに、の
うのうと、秀吉とは親しい前田や、秀吉の甥の許へ、本能寺を攻めた残党が、大きな
顔をして仕官していたとは、とても考えられもしない。
 さて、この<川角太閤記>という本は「光秀が、家臣達と相談したという他書の合
議説」を否定して、彼が一人だけで考えて、この謀叛をしたという特異性において、
これは貴重に考えられ、
「こういう天下の一大事をやたら口外するものではないから、これが本当かもしれん」
と信用されもしたし、また、そういう人は、この本が元和年間に出たものと疑いもし
ないから、非常に高く評価されている。「偽書」であるなどと言い出したのは、私が
初めてであろう。
 とはいうものの、他の本とて、皆同様に、「信長殺しは、明智光秀」という点にお
いては、みな揃っている。いくら探してみても、「そうでない」というのは一つもな
い。
 だから瀬山陽の<日本外史>の中でも、「濠の深さは、どれだけあるか。それッ、
敵は本能寺にあり」と作詞されてしまい、これが幕末になると、まるで日本版の「ラ
・マルセーエーズ」の如くに流行し、浮浪の徒の口にひろまり「革命歌」として口ず
さまれた時代から、「敵本主義」という言葉も生れだした。そして、光秀自身も信長
を倒して、たとえ三日にしろ「革命政権」を樹立した大立者として、俄かにクローズ
アップされてしまった。
 もう、ここまで既成概念が出来上がったものに挑戦しようもない程である。丹念に
調べ上げ、関係書を漁ってみたところ、この三百八十余年間において、「信長殺しの
明智光秀」または「何故、光秀は信長に叛いたのか」という本は、野間文芸賞を受け
た中山義秀の<咲庵>まで入れると、四百に近いという。
 もしこれを、全て光秀の伝記とみるならば、この数量はナポレオンに匹敵する程で
ある。
 故亀井勝一郎先生も、その亡くなられる前に、<本能寺事件の黒幕>をお書きにな
られた。だが、それも、光秀が信長を殺した犯人という基盤に於いて、それを使嗾さ
せたものが、信長によって焼き討ちされた延暦寺や高野山の与党の陰謀ではないかと
いった発想によるものであって、根本的に、はたして光秀がどうであったかまでは筆
は進んでいなかった。
 なにしろ光秀関係の刊行物が、全部揃えられるわけでもないし、みな通読できもし
ないが、大別すると、江戸期のものは、頭から罪人あつかいで、これが大正期の自然
主義時代以降は変化して、光秀の心理を扱った、やや同情的な傾向のものが多いよう
である。しかし、何と云おうとも、
「<真実>とは虚しいものなのか」と考えざるをえない。
 参考までに、後の必要もあるから<川角太閤記>の「光秀、連歌を催すこと」以下
の原文を、そのままで引用する。今日の常識をもって、よく判読すれば、校注してい
る歴史家が説くような、元和年間に書かれたような信頼性のあるものでない。これは
あくまでも江戸後期の木製バレン刷りの読本印刷ブームの頃に、当時の大衆作家によ
ってデフォルメされ、さも尤もらしく書かれただけのものである。
 つまり歴史家が尊重するような文献ではなく、当時の黄表紙ものに比べて硬派出版
物だったに過ぎぬことも判って頂けると思う。