1190 信長殺し、光秀ではない  9

避難

<言経卿記>の六月一日の条では、「大慶々々」の次の行には、
「一、七宮御方御腹中気ノ由、薬進了」とある。
 胃痛というのは、精神障害による中枢神経の作用によるものが多いというのは、現
代医学解明されている。つまり、本能寺へ押しかけた結果、彼は「大慶々々」と戻っ
てきたが「七御宮方は心配されて病になられたと使いが来たから、薬を調剤してさし
あげた。」というのである。そして、次の行になると、
「一、家中衆、礼ニ来、令飲盃了」となる。
 なんの前祝いかわからない。だがしかし、家中集まって祝盃をあげている。
 ところが呑んでるうちに気になってきて、
「一、冷泉ヘ立寄了」となる。
冷泉為満は親類である。庭ごしに行ったのだろう。そして二人で今日の本能寺での話
をした。
 やはり後めたいところがあったのだろう。話しているうちに、今日は一日だから、
禁中へ酒肴を届ける例だと想いだした。冷泉が、
「麿もまだだから、一緒に届けよう」と言ってくれた。
「では頼む」と戻ってきてから、冷泉為満の妹にあたる自分の妻に、立替えの銭を持
たせて、礼に遣ろうとしたところ、
「あたいも、ついてゆく」と倅も、はしゃいで一緒にいったという情景が、次の、
「一、禁中ヘ一荷両種、如例月進上了。
 一、北向、阿茶丸オ里ヘ礼ニ被行了」
となるのである。本来ならば、禁中への献上などは、まっ先にやるべきであるのに、
どうも浮々して夕方まで忘れていたものらしい。
 さて、その次の行は、
「一、========」
と、抹消されている。都合が悪くて削ったものらしい。
 この日記は、前日五月二十九日も、約十行は削除され空白になっているし、六月四
日の条も、
「四日、
 一、禁中徘徊了。
 一、洛中騒動、斜メナラズ」
で、後四行分が抹消空白。
 そして、五日、六日、七日、八日、九日、十日、十一日、十二日の八日分は、むし
り取られて、残されてはいない。
 だから「信長の遺体が見当たらなくて、六月二日から四日まで大騒ぎして、京中を
探し廻った」と、従来は、この日記の四日の条までの判明した分だけで言われている
が、実際は、もっと後まで、信長の遺体が確認できなくて、洛中は大騒ぎをしていた
のだろう。
 もちろん、空白の部分と、破棄された八日分の中に(信長が何を一掃しに上洛した
のか)と言う事や(誰が信長を襲撃させたか)
という、謎の問題は含まれていたであろう。
 さて、この六月二日の経緯に関しては、他に、<兼見卿記>がある。この人は吉田
山にあった吉田神社の神職で、光秀が安土城にいた六月七日には、勅使として下向し
て「ある種の沙汰」までした人物であるから、この日記のほうをも参考にしたいが、
彼個人の都合と、社会情勢の変化により、二重帳簿ならぬ二重日記になっている。だ
からデフォルメを承知では引用もできない。そうなると、現在の国内資料としては、
この<言経卿記>の方が上質、というか、これぐらいしか他には信用できないものの
ようである。

 しかし、信長が、何を一掃しに来たのかという肝心な事となると、この日記は、言
経自身が何も知らされていなかったらしく、表面に出ているのは、六月一日の「七宮
御方の御病気」とのことと、その前日の、
「一、御局御出られ、やがて御帰りになる」
の二ヶ所しか、鍵になる手掛かりはない。
「おんつぼね様」というのは、時の主上の御寵愛遊ばされていた女性の事である。そ
の御方様が、信長が上洛するや出て行かれて、やがて、お帰りになられたという記載
である。だが、下々のように夫婦喧嘩などされて家出をされたが、やがて思い直され
て戻られたというのではない。
 御所を出られて、一応は何処かにおられたが、やがて、お里方へお帰りになったと
いう「椿事」である。重大事件なのである。
 でなければ、冷泉家から妻を迎え、その間に生れた阿茶丸という子をいつも連れて
歩く家庭的な、マイホームパパのはしりのような山科言経が、現今の女性週刊誌のよ
うな興味本意な記事を、ことさらに自分の日記に書き込むわけはない。
 すると、その御方様というのは「絶世の美人で、唐の揚貴妃のような女性で、玄宗
皇帝にもあたる主上をして、誤らせる事多きを憂え」、信長は、当時の毛利輝元とい
う安禄山の叛乱に際し、彼女を一掃するために上洛したのだろうか。
 なるほど、相手が女御一人とあれば、鎧も武器を不必要だろうし、御伴も不要だっ
たろう。
 しかし信長というのは、はたして、そんなに皇室中心主義の男だったのだろうか。
「桶狭間合戦」を奇襲戦法の典型のように、明治の軍部が、故意か無智かしらないが、
とりあげて以来、とってつけたように、
「勤王の家柄、織田信長」という文句が生れてきた。なにしろ善玉は全部、勤王家で
なければ都合の悪かった時代だから、
「信長の父の織田信秀は、勤王の志が厚く、御所へ献金して、従五位下の官位を頂き、
備後守に任ぜられたほどである」と、なった。
(金を出して勲位や勲章を買ってはいけない、という天野賞勲局総裁の疑獄事件)が
大正時代におきた。そして献金して官位についた連中が逮捕されたが、織田信秀の方
は天文十二年の四百年も前の事だから、時効にかかっていた。別に、なんの問題にも
ならなかった。かえって、その買官行為が、そのまま勤王の事績とされ、<徳富蘇峰
の近世日本国民史第一巻>にも、「織田信秀勤王心のこと」というのを別項目で、
(献金したから、位が貰えた)と掲げている。
 そして、それをもって「父は子の縮図」と題し、「信長、彼も確かに勤王心を有し
た者の一人であった」と、まことに苦しい具合にこじつけられているほどである。
 だが、もし信長の目的が、勤王の志から出た、その御局様の一掃であるならば、彼
女は逃げてしまわれたゆえ、それでは信長が入洛した途端に、その所期の眼目は達成
されてしまったことになる。
 ならば、なぜ、翌六月一日に、公卿達は雨中のデモ行進を本能寺へしたのだろうか。
 お局様を、もとの鞘へ納めてさしあげようという、「愛の運動」だったのだろうか。
それにしても、前の大臣衆達が、丸一日も本能寺へ詰めかけて、まるで帝国議会でも
開催しているような騒ぎを、信長がもし勤王家ならば、叱りつけずに、あべこべに
「大慶々々」と喜ばせて戻してやるというのは、少し訝しすぎはしないだろうか。
 どうも、御局様が御所を出られたのは「緊急避難」のような感じがしてならないが、
どんなものであろうか。
 秀吉というのは模倣の天才で、なんでも信長の真似をしたといわれている。信長が
外征用の織田艦隊を作ったのにあやかり、自分はその軍鑑を利用して、マカオならぬ
朝鮮征伐を敢行したという。

 その秀吉は、<読売新聞社刊・人物・日本歴史第七巻>の「信長と秀吉」編におい
て、「時の正親町帝に対し奉り、畏れ多くも譲位を求め、宸襟を悩ましめ給うた、主
上が食を絶たれると、その中宮や女御を見せしめに磔刑にすると申し上げ、不届にも
恐喝申し上げたが、その後天変地異と火事が続いたので、秀吉は自分が生害させたよ
うにも伝えられる誠仁親王の祟りかもしれぬと心配し、その遺孤をもって、後陽成帝
になし奉った」という個所がある。
 もちろん信長には、(後年、秀吉が真似をしたような)そういう具体例があったか
どうか、そんな不敬きわまる伝承は何もない。
 何故かというと、公卿どもが押しかけてきた翌朝、彼は髪の毛一本残さずに、何処
かへ消えてなくなってしまったからである。



                真実は雲なのか

暗殺

「ヴァーモア・ア・トマール・カフェ(コーヒーでも、飲みにいらっしゃいませんか)
」と私が声をかけると、その女は、
「ボイズ・ナムン(よろしくってよ)」と、角型の眼鏡をはずして、眉の間を小指で
トントンと軽く突きながら、読んでいた本を伏せた。みると、
<THE DEATH A PRESIDENT>
 大きな文字が浮き出したウィリアム・マンチェスターの評判のものだった。
 だから、ビブリオテーカ(市政図書館)の木の階段を出て、警察総局の前にあるリ
ベラホテルへ、お茶を飲みに入った時、話をそこにもってゆき、
「死んだケネディをどう思いますか?」
ときいてみた。すると、少しはずかしそうに白い頬をそめながら、身振りは大きく、
「ケー・ツリステーゼ(なんて悲しい事だったんでしょう)」と、まるで空間で遺体
でも捧げるように両手をひろげ、掌を上に開いた。細くて白い指だと思った。だが、
彼女は、それから声を落として、ケネディが女性に人気がでてから、各国の娘が妻子
のある男を好きになるのが平気になってしまった。だから、早く殺されてしまって、
奥さんのジャクリーンには悪いが、道徳的には良かったかもしれない。と、そんなつ
けたしをした。そして、てれたようににこっと微笑んだ。だから、
「ナウン・ディー・ガ・タル(そんな事を言うもんじゃない)」
 つられて私も頬を綻ばせた。ガラス戸の外のユーカリの樹が、卓へまで大きく亜麻
色の影を落としていた。その淡い色彩の中で、女は思ったより若く見えた。図書館の
中で屈みこむように本を読んでいた時は、顔が長く伸びていて、まるで表情を失った
中年の女のようだったのに、こうして眼鏡をとり、歯をのぞかせる顔には、まだ少女
のようなあどけなさが笑顔と共に時々浮び上がってきた。
「セント・ローザ・テ・リマにいます」
と彼女は、自分の事を話した。ブライヤ・グランデ湾の岬にあるセント(聖)・クラ
ラ修道院の事かと思って、
「‥‥クレーリゴ(童貞尼様)ですか」ときいてみると、
「スイン・エスコーラ(いいえ、学校です)、プロフェソーラ(女教師です)」と、
もう一度赤くなった。金色の産毛を濃くしたような睫をしばたいた。
 そして、アルーナ(女生徒)たちがケネディの事を聞きたがってしようがないから、
どうしてダラスで殺されたのか、それを図書館まで来て調べていたところだ、とそん
な事を口にした。
「ヴォセ・コニエーヤ(判りましたか?)」ときいてみると、
「ミステーリオ(奇怪至極です)」と彼女は首を振った。そして抱えてきた大判のノ
ートをひろげた。色々な名前が書いてあった。そして又、次々と、それらは抹消され
ていた。
 まず、オズワルドの名があった。逮捕後二日目にダラス警察で射殺。死亡した場所
は、大統領が絶命したバークランド病院。そして、その病院では、狙撃したジャック
・ルビーも死亡している。そしてルビーのナイトクラブに関係のあったヘンリー・キ
ラムがフロリダのペンサコラで何者かによって殺害。
 そして「オズワルドが犯人ではない」と証言した運転手のウィリアム・ホエイター
は奇怪な交通事故死をとげ、目撃者のウォーレン・レイノルズは重傷を受けて瀕死の
容態。同じくドミンゴ・ペナピデスは、その瓜二つの弟のエディを、ダラスの酒場で
射殺されている。そして、同じく「オズワルドはケネディ殺しではない」と言ったば
かりに、別件逮捕でダラス警察に追われたジェームズは(逃げようと誤って落ちた事
になって)、コンクリートの車道で重傷。警察といえば、リングビーチ署で、事件直
後に取材にあたったプレス・テレグラム紙の事件記者ビル・ハンターが、堂々と一警
官の「誤射」によって即死。一緒に取材にあたっていたダラス・タイムスのジム・ケ
ースも、その五ヶ月後、自宅で虐殺、犯人は不明。
 殺された二人の事件記者と行動を共にしていた弁護士のトム・ワハードも1965
年5月にダラスで謎の頓死。
 その六ヶ月後には、
「ルビーとウォーレン最高判事のやりとり」をスクープした女流記者ドロシーが自宅
で急死。
「睡眠薬の誤用」と発表されたが、解剖の結果では、その痕跡もなかったという。
「ケネディを狙撃したのは、オズワルドのいた教科書倉庫より、反対の陸橋側だった」
と証言したパワーズ鉄道員は、レールの上で首と手足をバラバラにされて発見。ダラ
ス警察は「事故死」と、その死因発表。
 次々と算えると、十八人の生き証人が、殺されたり、死にかけで口がきけなくなっ
ている勘定である。
「‥‥ドウヴイダール(疑惑)」と、彼女は口をはさむが、私の方は、この消された
リストの書き写しを見せられては、それどころではなかった。「目撃者は殺せ」と証
人が次々と殺害されているばかりでなく、「真実」を解明しようとした新聞記者や弁
護士までが、次々と溝鼠みたいに叩き殺されている。これでは、場所柄が遠いアメリ
カ西南部のダラスという地方都市だという距離感も忘れる。きわめて、ぐっと身近に
感じすぎるものがある。
「オズワルドはケネディ殺しではない」と口走ったばかりに、次々と消されるのは、
「光秀は信長殺しではない」と、このマカオまで調べにきている私にとって、どうも
他人ごととは思えないからである。「明日は我が身」と、そんな気さえしてくる。
 だから、かけてきたアメリカン・インターナショナル・アンダーライタース発行の
海外死亡保険証書をひろげて、もう一度仔細にみたくなった。
 ところがである。
それなのに彼女は型の薄い桃色の唇を開き、さもケネディ殺しにうっとりしているよ
うな眼差しをして、
「テーニョ・ウ・マイヨール・プラセール・エン・コニョセール(お近づきになれて
嬉しいわ、とても‥‥」
と言ったあと、「シンコ」と言った。
 だから、うっかりして「新子さん」という名かと勘違いしたが、よく考えたらポル
トガル語では25、つまり彼女の年齢らしかった。だが、こちらはそれどころではな
い。自分の泊まっているホテルではないから、サインはきかないから勘定を払って外
へ出ると、とても図書館へ、また戻る気にもなれず、紅と黄の薔薇が咲いている中庭
から、バイヤ・デ・プラグランドの海の方へ一人で歩いていった。宿へ戻るためであ
る。

 民主主義とかデモクラシーといったものを看板にしているアメリカだって、白昼公
然とオープンカーでパレード中の自分等の選んだケネディ大統領を、ドドーンと暗殺
している。
 ダラスの街で、何万という群集の目が光っているところでの公開殺人である。
 犯人としてオズワルドが逮捕された。
 そして、その後、警察官立合いのもとに行った場景で、彼も早いとこ、さっさと射
殺された。
 それなのに、今になると雑誌や本で、
「オズワルドは真犯人ではない」と言われている。といっても、他に真犯人が「It's
 me」
 それは私である、とでも名乗り出ない限りは、
「歴史は答えを求める」という言葉があるから、何世紀か後には、やはりオズワルド
が犯人として扱われるだろう。
 なにしろアメリカは一世紀前にもリンカーン大統領を、やはり暗殺で失っている。
その時、大統領は観劇中だったから、舞台から射殺された想定のもとに、出演俳優の
一人である道化役者が、やはり素早くズドンと一発、
「真犯人」として射殺されている。
 だが、すぐ、これは南北戦争に負けた南軍の残党の報復であるとか、次期大統領を
狙った者の行為であると噂され、未だに迷宮入りの侭である。そして、歴史はそれっ
きりである。
 だから、ケネディ殺しの真犯人も、とうとう判らずしまいで、結局は終わってしま
うだろうから、やがてはオズワルドが定説になろう。
 なにしろ、普通の一個人の死でさえも、都合よく下手人が自害して出てこない限り
は、殆ど半数まで不明の侭で終わってしまう。それでは困るからと、まぁ適当な者を
しかるべき犯人に仕立てると、これが獄中から、本当は違うんだと「無実」をば叫ん
で厄介な事になる。これが殺人事件のおおかたのケースのようである。
 まして、その被害者が「国家主権者」ともなれば、利害関係が錯綜している。永遠
に、その真犯人は殺人教唆者の名が洩れるのを惧れて、闇から闇へと葬られるのが実
状である。
 オズワルドの射殺後に「ケネディ暗殺について何かしら目撃をした」と申し出たダ
ラスの市民が、次々と交通事故や原因不明な怪死を遂げ、みんな消されていくのも、
その秘密洩れを防ぐためだろう。そして、犯人が検挙されないのも、テレビで見せら
れるFBIやCIAの活動は、アメリカの国家権力に反抗するギャングや、好ましか
らぬ人間への取締まりであって、その国家権力の犠牲になって消しとばされる市民な
どは、どうでもよいと、見向きもしないせいなのだろう。
 なにしろ、「道徳再武装計画」とかいう芝居を各国にもって廻っている国でさえ、
こうなんであるから、それをお手本にしている国が、きわめて不道徳であったとして
も、それは非難をされることはなかろう。とはいえ、二十世紀の今日でさえ、なかな
か犯人が判らないものとされる国家主権者の暗殺が、どうして十六世紀の日本では、
きわめて明瞭に明智光秀とされてしまっているのだろう。
 オズワルドが光秀だと仮定すると、ジョンソンが秀吉なのであろうか。そういえば、
アメリカのデモ隊は、プラカードに堂々と「暗殺者」とかいて持ち廻っている。今の
ところ、誰が家康なのかは、州警察か、連邦賢察しか判っていないだろうが、ああい
うところを聞いても、嘘は言っても決して本当の事は教えはしないであろう。

 なにしろ口では容易に話しもするが、真実とは難しいものである。よく、本に載っ
ていたから、みんながそう云うから「それは真実なんだ」という。これもつまり類従
制の多数決である。
 だが、<真実>とは、そんなものであろうか。
選挙や評議会の投票みたいな形式で選ばれるしか、この世に実存しないというのであ
ろうか。他人に教えられ押しつけられるものでしか、私達は<真実>を掴めないもの
なのか。
 まるで一人ずつが持っていては、霧のようにはかないもので、多数の人間にわたっ
て凝固し、やっと雲になって、空間に漂える存在なのであろうか。そして<真実>は
一つきりだというが、それが雲なら、一つということはない。
 入道雲でないかぎり、綿雲や鰯雲は、いくつも散らばって漂っているものだ。そし
て光の色を浴びれば、それは夕焼け空ではモチーブ色の茜がかった朱色にさえみえる
ものなのである。
 すると、「真実」にあたる「雲」とは「白いものだ」と思っていた観念が崩れてし
まい、真実とは「一つではなく、いくつも分かれて漂ったり」「白いはずだが、青く
も桃色にも見えもする」という事になるだろうか。
 雨天は休んでも、晴れている日には蒼穹にアドバルーンみたいに浮かぶのが<真実
>というものだったら、誰もがもっと安心して生きとし生きてゆける筈なのだ。私だ
って上を向いて歩きさえすれば、それが(真実一路)につながるコースなら、(路傍
の石ころ)みたいに(真実、鈴ふり旅をゆき)躓いて転げるたびに、自分で、何度も
自己喪失を企てたりはしてこなかったはずである。それだからこそ、どう考えたって、
「真実は雲ではない」と私は思うのだ。
 十人の眼がそうだと視て、十人の手が、あれだ、あれだと指を指したところで、そ
れが何だというのだろう。多数制で採決されるものが真実なら、もはや個人の真実な
どというものは認められもしない。また、通用もしなくなる。虚しすぎる。
 だが、真実というものは国家が握ったり、多数の人間が、その都合によって守りと
おすものではない。それは一人ずつの個人が、自分自身の中に持ったり、また私のよ
うに、それを、なんとか見つけようと探し求めようとして、それだけで生きている者
だって、きっといるはずなんだ。一と一を足せば二となるというのは定理だが、真実
というものは、黒板にチョークでかけるものではない。それは自分の心に描くものな
のだ。
 だから、私以外の人間がみんな、光秀を、信長殺しとみたところで、私は自分の<
真実>を追ってゆけばよいのだろう。自分の感じる<愛>に、真実を求めようとする
のだって、本能寺に自分だけの理念を投影するのだって、観念的には同じ事かもしれ
ない。
 だが、<真実>というものが、そんな雲みたいに浮かんでいる一つの具象でないこ
とさえ確かめられたら、それこそ、こんな不快な想いをして生きてきた事への慰めに
はなるだろうし、ささやかな満足にもなろう。と、そんな事ばかり思いふけって、
「真実」「真実」とぶつぶつ呟きながら、ホテルの赤い曼珠沙華の植込みまで戻って
来ると、
「コーモ・ヴァイ・セニョール(おかえりなさい)」と、マカオの森蘭丸が、にこに
こして迎えてくれる。なんだか、あっけらかんとした気分にされる。
「オブリガード(やぁ、すまん)」とは返事をしてやった、此方はそれどころではな
い。保険証書は確認しなければならないし、オズワルドを犯人と決めつけたテキサス
州最高裁判所判事の<ウオーレンレポート(報告)>にも匹敵すべき、明智光秀の断
罪報告書を、まずあたらねばならない。


贋作

<信長公記>を書いたという大田牛一は、その後、秀吉に仕えた。そして彼は、
<太閤様軍記のうち>というのを残している。現存しているのは<太閤軍記>二巻の
内の抜粋したもので、鳥の子半紙百五十四枚の一冊である。その中に、
<織田信長の最期>という短い一章がある。
これには、もはや、
「明智が(手の)者と見受けられ」などという表現は使われず、そのものずばりに、
頭初から名を使っている。原文は、
「一、明智日向守光秀、小身たるを、信長公一万の人持ちにさせられ候ところ、いく
ばくもなくして御高恩を忘れ、欲にふけり、天下に望みをなし、信長御父子御一族の
お歴々がいらか(瓦の如く肩を)並べて居られた京本能寺において、六月二日に、情
けなく討ち奉りをはむぬ(原文どおり)」
 これが全文である。伝わっているものは、用紙が、当時では高価だった鳥の子半紙
を使い、でっちょ綴りに仕上げてあるといわれる。そうなれば、これは草稿や原稿で
はない。「売り本」の体裁である。現行のように印刷して何万と刷って広告して、不
特定多数の読者に売りさばくのとはわけがちがう。一冊きりだから、もし相手に気に
入らない個所があったら、せっかく書上げても、銭にならんのである。
 だから、相手次第で内容も、違ってくるのはやむを得ない。とはいうものの、これ
がはたして大田牛一のものかどうかは、その奥書に、
「この一巻、大田和泉守、愚案をかえりみず、これを綴る。頽齢すでにしずまって、
渋眼をのごい、禿筆をそむるものなり」
と、あまりにも尤もらしい事が書いてあるだけに、眉唾ものと考えさせられる。そん
なに無理して書いたものなら、
「XX年X月」とか「大田牛一X十X歳」とでも入れるべきである。
 それに「大田和泉守」と堂々と入っているが、これまた変である。安土桃山期では、
何々守とよぶのは、敬称つまり、他人が呼ぶ「他称」である。山科言継の事を「言継
卿」と呼ぶようなもので、本人は自記に、そんな「自称」はしていない。もし、公文
書上の署名ならば、「大田和泉守牛一」が正しい。でなければ、本名の「資房」か
「又助」である。(宮本武蔵の「「五輪の書」の奥付に「武蔵守」と入っているから、
怪しまれて、贋物と思われているのと同じ事である)

 六月一日に本能寺で茶会をさせてしまった歴史家が、この<太閤史料集>の校注も
してるが、それに、
「これは<信長公記>と同じく、慶長十五年(1610)の著述と推測できなくない
が」と前書きしているが、まことに失礼だが、大田牛一はその前年に死んでいる。
<戦国人名辞典>においても、彼の生涯は(1528〜1609)と明記されている。
 つまり、これは死人の書いたものということらしい。
 道理で信長に仕える前から「溝尾庄兵衛以下何百という家士を持ち、京の二条には、
信長一行を何日も泊められる大邸宅のあった光秀」を、講談本なみに小身と書いてい
る。
 そして、<信長公記>の本能寺では「素肌に湯かたびらの小姓達」と書いたのを失
念してしまい、まるで「鎧武者でも並んでいたように、角ばった屋根瓦」で表現をし
ている。もしそうでなくて、お歴々と言いたいのなら、二条御所の方と書き違えてい
る。
 短文だから、あまり矛盾がみえないにしても、いくら死後の執筆とはいえ、ひどす
ぎる。これも大方、源内グループの偽造売本の類ではあるまいか。と思いたくなる。

 大村由己。この人はペンネームを「梅庵法印」とよぶ。作家である。だが当時は、
そうした職業はなかったから豊臣秀吉の祐筆となって固定給をもらっていた。つまり
「御用作家」である。<老人雑話>に、文録三年の吉野山の花見に秀吉が行った時、
に随行していったと出ている人物である。今日、中小企業の個人会社が、その御用作
家に「社長奮闘記」を書かせて配布するように、彼もまた<秀吉事記>を書いた。
 こういう伝記本というのは、何も他人の読者の為に書くのでなく、また自分の文学
でもない。ただひたすらに御用命を賜った社長のために、その喜びそうな事を創作し
てでも、これをおおいに書かねばならぬ事は、今も昔も変わりはないらしい。
さて、この作家のものに、
<天正記>十二巻。但し現存八巻がある。
<続・群書類従>第五百八十九に「惟任退治記」として、その内の一冊がある。水戸
弘道館の蔵本にも、この一冊は納まっているというから、数がある点において、これ
も海賊版らしいことは、云うまでもない。
なにしろ奥書に、その著作年月日が、
水戸弘道館本は天正十年十月十五日
続群書類従本は天正十年十月XX日
と出ているが、その十月十五日というのは、<言経卿記><兼見卿記>によれば、
「京の大徳寺にて、故信長公の葬儀。位牌は故信長公八男の長丸君、秀吉、次に太刀
をもって従い、葬列美麗をつくす」とある当日である。
 まさか秀吉主宰の葬式に、家来であるところの、この作家は欠席をするわけにもい
かず、原稿用紙と筆をもって、大徳寺で、きっと走り書きでもしたのであろう。だか
ら故人信長の葬式というのに、ずいぶんとおかしな箇所が多い。次章のおわりに原文
をつけるが、例えば、信長の生前についても、<第一章の安土の城>の終わりなどに
は、
「夕には、翠帳紅閨に入りて、三千人の寵愛を専らにす。夜々の遊宴、日々の徳行、
楽しさ猶ほ余りあり」と堂々と書いてある。
 なぜこう書いたのか、秀吉の女狂いを弁護して、(この信長の乱行に比較すれば、
百分の一にもあたらぬ)と言いたかったのか。だが、もし、そうだとすると、秀吉の
女狂いは、この十年後が絶頂だから、奥付の月日に合わない。だから、これは多分
(信長は一人一晩ずつ訪れても十年もかかる程の若い女を、一人占めしていた悪い奴
だ)と、世の男共の妬情を煽り、反信長熱を煽るためのものではなかろうか。この計
算でいくと、二十歳の娘でも、運悪く最終コースにまわった者は、三十歳になってし
まうはずだが、そこまでは、これには書いていない。だが、
<第五章の本能寺の変>になると、
「信長将軍、光秀の押寄すを、夢にも知り召されず、深閨に入りて、桂妃、好嬪を召
し集め、鴛鴦(えんおう)の衾(ふすま)、連理の枕、夜半の私語、誠に世間の夢の
限りに非ずや」
と、まず情景描写からして、これである。
 といって大村由己は、何も我々に読ませるために書いたのではない。彼にとっての
読者は秀吉一人である。つまり、こういう具合のものを書いて聞かせなくては、秀吉
という男は機嫌がよくなかったということになる。
 しかし、男が女狂いをするのは仕事に行き詰まったときか、目的を失いかけたとき
と、これは今も昔も変わりはないはずである。しかも信長は、この時(何かを一掃す
る雄図を抱いて)上京してきているのである。まさか、京女の肉体を一掃するために
来たのではあるまい。
 馬で安土から来た信長の一行に、女が混じっている筈もない。いたのは本能寺門前
村井邸から参上している手伝いの女たちにすぎない。
 そして、この六月一日は、<言経卿記>にあるように、招きもしない公卿ども四十
人がデモを掛けてきて五、六時間も愁訴嘆願され、夜になって雨がふり止んでからは、
妙覚寺の長男の信忠を呼んで、夜半まで密議をしている信長である。常識から考えて
も、それから女をつかまえて、喋々喃々など喋っていられるわけはない。時に信長は
四十九歳。男の生理は今も昔も変わらないと言いたいが、バターもチーズも、九竜虫
も当時はなかったのである。おかしいものではないだろうか。
(それに私の<天正美少年記>や<男郎花武者>を読めば判るが、信長という男はも
ともとホモなのである)
 それに、<歴史小説>というものは、一ヶ所でも事実相違の点があれば、それだけ
で唾棄されてしまうものだから、大村由己なんていうのは、あまり感心できないよう
に思う。なにしろ、(本能寺の周囲には、塀も壁もないのに)、「夜の昧爽(まいそ
う)時分に、合壁を引き壊り一度に、さっと乱れ入る(中略)たまたま御供の人々も、
洛中所々に打ち散り、思い思いの遊興をなす。御番所にようやく小姓百人」とある。
これは変だけれども、原文そのままなのである。
 もし、大村由己が天正十年の十月に、事実これを書いたものなら、僅か四ヶ月前の
ものなのである。本能寺に塀があったか、なかったか、人にきいてもわかるはずであ
る。それに夏の夜の暗いうちに一度に、さっと乱れ入って、それから四時間の後まで、
どうして出火せずに、城でもない、たかがお寺の本能寺の客殿が、そのままで保たれ
ていたか。書いていて自分でおかしくなかったろうか。
 なにしろ、主に書かれているのは艶笑記事で、上様(信長)が女を集めて遊んでい
るのをみて、お供の小姓までもが、それにつられて、女買いに出かけ、思い思いに外
泊してしまったというのである。
 そして、だから残っていたのは小姓の未成年者百人しかいなかった。だから負けた
のだと、ここで辻褄を合わせているが、初めから伴ってきたのは小姓だけで三十人と、
この点は他の史料に明白に出ている。
 それなのに最後になって、また、
「将軍この頃、春の花か、秋の月かと弄び給う紅紫粉黛、ことごとく皆、刺し殺し、
御殿に手ずから火をかけ、御腹を召されおはんぬ。」とかいて筆をおいている。
 つまり信長は、やきもちやきのいやらしい男で、それまで散々に肉体を弄んできた
女たちが、他の男達と交わるのを嫌われて、ことごとく皆刺し殺して処分してから、
自分で放火して腹を切った。つまり「女の数が多くて、名残りを惜しんでは殺してい
たから、出火するまでに、踏み込まれてから四時間もかかったのだ」と説明をつけて
いる。
 すると寄手は、みな覗き趣味で、せっかくワアッと一度に侵入しながら、明り障子
にでも唾で孔をあけ、四時間も見物をしていたのであろうか。それとも大村の書く信
長の家来どもと同様に、寄手の兵も、みな堪りかねて攻撃をやめ、洛中の所々へ散り、
おもいおもいに遊興をしに行って、改めて戻ってくるまでに四時間かかったというの
であろうか。
 さて、ここのところを<信長公記>には、
「これまで、御そばに女ども、つきそいて居り申し候を、女は苦しからず、急ぎ、ま
かり出よと仰せられ、追い出させられ」
 とある。本能寺の生存者は皆無で、どちらも直接に取材したものではなく、双方と
もに、想像で書いたフィクションには相違ないが、<天正記>のほうは、出鱈目がひ
どいし、きわめて悪意が露骨である。
 しかし、これは御用作家の彼が「こういう具合に信長の最期を書いて、朗読しなけ
れば、主人の秀吉が承知しなかった」という点に、これはおおいに問題があるようだ。
 もし今日に伝わるように秀吉が信長思いで、それが実際のものだったら、まさか御
用作家の大村由己だってこんなものは書くまい。仮りに、もしそうだったら、手討ち
にされて殺されていただろう。