1189 信長殺し、光秀ではない  8

目的

 次に訝しいのは、本能寺における信長自身である。といって、これは実像の信長が
変だというのではない。あくまでも<信長公記>にあらわれている信長の行動である。
 その巻の十五の<信長公御上洛のこと>原文によると、
「御小姓衆二、三十人召しつれられ、五月二十九日ご上洛。直ちに中国へ御発向なさ
るべきの間、御陣用意仕り候て、御いっそう次第、羆りたつべきの旨、御触れにて、
今度は、お伴これなし。さる程に、不慮の題目しゅったい候て、‥‥」
となっている。
 ここで引っ掛かるのは、
「御いっそう」という語句である。さっと読んでしまうと、中国地方へ出陣するのだ
から、至急いっそう次第に出立するというので、意味がその侭のみこめるようでもあ
るし、判らなくもある。但し原文は「一左右(いっそう)」となっている。というこ
とは、この時代も、まだ漢字の使用法は発音を当てはめて用いているのであって、今
日のように熟語の定型はないのだから、なんともいいようもないが、「一つのものを
右から左へやる」のが「いっそう」ならば「一掃」という文字でも良いのではないか
と思える。まあ、こう当てるが常識というものであろう。
 すると信長は、中国へ出陣するに先立って、
「何かを一掃する目的」で上洛した事になる。
 そしてその何かは、京都にあった。
 しかも、その何かは、信長が出陣に当って後顧の憂いのないように、自分で整理し
て行かねばならぬ程の大問題であるが、小姓三十騎を伴って行くだけでも、事足りて
しまうような相手で、その示威のためであろうか、今度は「お伴これなし」それで、
「舐めてかかったから」あべこべに「不慮の題目」が出来(しゅったい)してしまっ
たというのである。
 これを検討していくと、信長殺しの謎の中の一部分は判ってくる。
 つまり六月二日に洛中の大名屋敷の留守武者二千が動かなかったのは、これはスト
ライキではない。命令によるものらしい。しかも、その命令たるや、皮肉な話だが、
信長からの発令らしい。
 おそらく「何かを一掃するために」上洛してきたのだから、
「洛中に騒動これありとても、構えて一兵も出すまじきこと」といったような指令が、
本能寺門前にあった司所代役の村井長門守から、各大名屋敷へ通報されていたのでは
あるまいか。当時の事だから、もとより詳しくは教えてなかったのだろう。
 だから四条の本能寺で大騒動が起きて、各大名屋敷は色めいて周章狼狽したが、前
もって、天下びとの信長から「絶対に出勤すべからず」と命令されていたから、もし
違反したら大変であると、まさか当人の信長が包囲されているなどとは夢にも思わず、
みな自分の屋敷だけを厳重に守っていたのではなかろうか。と、これなら納得できる。
すると、その一掃すべきものは、これは、大物という事になる。

 さて<角川新書の織田信長>を持ち出しては悪いが、その中に、左記のような記述
がある。こと事件前日の事なので、徹底的に解明をしなければならない。
「<仙茶集>というのに<御茶湯道具目録>と題する覚え書が入っている」と、まず
書かれている。
 それは『日付は午(うま)の六月一日』『宛名は宗叱(そうしつ)まいる』『差出
人は長庵判』とあり、三十八点の名物茶器の名が列記されている。つまり、この覚え
書は、天正十年六月一日、本能寺の変の前日に、博多の島井宗叱に披露して見せる信
長秘蔵の名器三十八種の目録をかきあげ、宗叱に与えたものである。また長諳(ちょ
うあん)の追記として『この他にも沢山あるが一々書き立てるのは止めた。また、三
日月の葉茶壷、松島の葉茶壷、岸の絵、万里江山の絵図、盧堂の墨蹟などは、大道具
で、持運びが不自由なので、安土の城に残してきたから、また次の機会に改めて拝見
させる』とことわりが出ている。だから、この目録にかいた三十八種を安土から本能
寺に運搬してきて、本能寺の書院で茶会を催すために、信長は上洛してきたのである」
 と説明されている。そして、
「信長は単なる武将ではなく、茶の湯好きの趣味家で風雅の道に志が深く武略にたけ
た強豪である反面に、かなりの数寄者でもあって、西国出陣の途中、わざわざ秘蔵の
名物茶器を披露する茶会をやる為に、本能寺へよって、災難にあったのだ」
と、これを尤もらしく説明しているが、はたして、この人の説は、どんなものであろ
うか。奇怪そのものである。
 これによると、まるで楠長庵が、信長の代理人のように、
「これとこれとを見せてやる。この他のものは沢山あるから書くのは止めた。大きな
物は持ってこられないから安土の城へきたら、そこで見せてやる」と大言壮語をして
いるが、それ程のポストの人間だったのだろうか。
 吉川弘文館の<戦国人名辞典>においても、彼は、
「文禄元年、朝鮮の役にて、肥前名護屋城にて、宿直番士の記帳にあたっていた」と
出ている程度の人間である。つまり「誰某は宿直、誰某は、あけで帰った」という人
間のタイムレコーダ係である。しかも、これが本能寺の変から十年後の長庵という人
物の現実の姿である。
 しかも初めは大場長左衛門といっていたのを、楠木正儀(まさのり)の子、正平の
八代の孫だと自称して「楠正虎」とまで名のった人物である。
 だから<戦国人名辞典>では、彼に関しては「信用できない」という言葉を繰り返
して二ヶ所も出している。
 もちろん「楠」に改名したのは、信長の在世時代ではない。その頃は長左衛門とい
って、祐筆の下の書記ぐらいの身分らしい。というのは、その後、安土城が炎上して
実物が何も残っていないから、いいかげんな事を書いているが、「三日月の葉茶壷や
松島の葉茶壷が大道具で、持ち運び不自由で安土へ残してきた」というが、この二つ
は普通の茶壷の大きさである。運び瓶の茶の大壷と、掌にも乗る茶壷との区別さえ、
この男は知っていないのである。
 それと、もう一つ訝しなことは、まるで彼が信長の側近として本能寺へ同行して来
ているような書き方を、この筆者はしているが、六月一日に本能寺で茶会を催してい
るというのに、彼と島井宗叱は双方とも唖で口がきけず、当日二人は筆談を交したの
だろうか。
 さもなければ、手紙なら、いざしらず、向き合った長諳が、眼の前の宗叱をつかま
え、
「うま六月一日、宗叱へまいる。これこれと三十八点。この他に沢山あるが、いちい
ち書くのはやめた。また、あれとあれとは大道具で持ち運びできなかったから、後で
見に来い」
と、口で言ったというなら話の辻褄も合うが、なぜ紙に書いて、それに判を押して、
手交しなければならないのか、いくら頭をひねっても、愚かな私には、納得できもし
ない。
 常識で考えても、向き合った二人が筆談して、判まで押しわたし合うという、そん
な変てこな状態は想像もされない。
 もし筆者が書いているような。そんな「覚え書」があるものなら、それは楠長庵が
書いたことに、三百八十五年後に誰かがしてしまった想像の創造であろう。
 なにしろ、当日、その宗叱が主客だというのなら、「耳がつんぼだったかもしれな
いから、向き合って筆談をしたか」とも、ごま化しはきくが、「六月一日の信長の名
物びらきの茶会は、本能寺の書院で催され、正客は近衛前久であって、地下人に相当
する宗叱と宗湛は、相伴を命ぜられたのであろう」と、筆者は説明している。すると、
主客は放りっぱなしにして、たった二人だけで紙に書いたり判を押したりして、やり
とりしていたのか全然ピンとこない。
 そして、おまけにこの筆者は、しつこくも、その島井宗叱が初夏のころ、同じ博多
衆の神谷宗湛を同道し、六月に信長が茶の供応をするというので本能寺に参上したと
ころ、明智光秀の乱が起こった為に、早々と本能寺をひきとった。そのとき「弘法大
師の真筆千字文の掛軸」を持ち帰ったという。又、神谷宗湛の方でも、宗叱と同伴上
洛し、本能寺で信長に謁見したが、そのとき、明智の乱が起こったので、本能寺書院
の床の間にかけてあった「遠浦帰帆の図の一軸」を持ち戻った。というが<山科言経
卿記>では「近衛前久ら四十人の公卿が本能寺へ集ったが、それは『数刻御雑談、茶
子、茶有之』という原文になっている。つまり、茶会など開いてはいない。御述する
が、もっと大切な密談なのである。
 それなのに筆者は、宗叱と宗湛の二人だけを、旅館のように本能寺へ勝手に泊めて
しまい、夜明け方明智の乱にあったという。だったら、この二人や楠長庵は、全員玉
砕だからヘリコプターでも使って脱出したのだろうか。
 しかも、生来、手癖が悪いのか、二人で共犯で床の間の軸や掛物をかっぱらったと
いうことを書き加えている。
 ふつう、他家の他人の物を黙って持ち出してきたということは、あまり賞められた
事ではないから、事実そうであっても、こんなに堂々とは書かないものである。とこ
ろが、この場合は、明白に「窃盗行為」の事実を示している。ということは、歴史屋
である一面、書画骨董の鑑定をば営んでいる筆者が、前述二品の書画に折紙をつけて、
その市場価値を高めて謝礼を得る者に頼まれ、出所を権威づけようとして、信長の遺
愛品として証明したさに、彼自身の都合で、六月一日を尤もらしく茶会にしてしまっ
たり、架空のフィクションをさも本当らしく舞文曲筆しているのではあるまいか。い
くら宗湛や宗叱が泥棒にされたり、楠長庵を勝手に躍らせても、四世紀前の人間では、
何処からも文句がこないからであろう。
 なにしろ、この筆者は歴史学者には惜しいくらい、小説家以上に創作能力があまり
にも豊かにありすぎる。
 さて、この茶会が六月一日という彼の発想は、私の想像では「忠臣蔵」からの借り
ものではなかろうか。
「頃は元禄十五年、十二月十四日の赤穂浪士の討入」が、「吉良邸の茶会のあと」だ
ったという連想から、「茶会 疲れてみな寝ている 夜明け前に討入り」というプロ
セスを借りて、あわれ織田信長を吉良上野介と同じようにしてしまったのではなかろ
うか。
 明智日向守光秀が大石内蔵助役という「まぁ有りそうな事だ」「そうかもしれない」
と錯覚を与えようとする、尤もらしい手口であるが、やはり気が咎めるとみえ、
「‥‥信長は、これだけ多くの名器を安土から京都まで運ばせ彼自身も、それを監視
しながら天正十年五月晦日、本能寺に到着したのであった。つまり嫡男信忠の率いる
二千人の軍勢とは別に、また馬廻りの武士達とも離れ、彼が単独行動したには、この
ような名物茶会を催すという事情があったからだ」
と、しきりに弁解しているが、そうなると、「信長が御一掃なさる目的」にて出京さ
れたのは、生活に困って、名物の秘蔵の茶器を一掃して、
「織田家御売立て、於本能寺」と、オークション・セールをしにきたことになってし
まう。
 美術倶楽部とかお寺というのは、よく道具類の売立ての競市に使われるから、その
連想を伴って考え付いたのであろうか。
 歴史家の中でも唯物史観にたつ若い人は、よく勉強しているが、この筆者のような、
尤もらしく書く人は困る。私の父と同年輩なので、あまりいいたくはないが、
「織田信長が安土から出洛してきた五月二十九日」
 この日、京にいた徳川家康は穴山梅雪と共に堺へ行き、同日は津田宗及の昼茶席。
 その夜は松井友閑邸へ泊り、翌日は堺衆の茶席が催されている。ということは、彼
の説を採るならば、同時に二ヶ所で盛大な茶会が催されたことになる。
 ところが、千の利休が秀吉の御抱え茶頭になったのは、翌年天正十一年五月からで
あり、当時の信長の茶頭は、やはり堺衆で、皮革商武野紹鴎門下津田宗達の伜の宗及
である。それなのに、信長の茶頭役が、本職の信長の方の名物披露を放りっぱなしに
して、堺の方で当日は家康接待の茶席を催している。こんな事が有り得るのであろう
か。
 そして、この天正十年六月の頃は、まだ北向道陳の、流れを汲む利休の時代ではな
く、武野派の油屋紹佐、茜屋(あかねや)宗佐、銭屋宗訥に、今井宗久の全盛期であ
る。だから宮内卿法印の官名を持つ堺の政所の友閑邸へ、六月一日、彼等は集まって
いたのである。

 筆者の説によると、まるで徳川家康が信長に対抗して、同日に茶会を催していた事
になるが、そんなことをしに、わざわざ信長へ献上の三千両を担いで出てきたのでは
ない。しかも案内役というか随行に、安土から信長の近習の長谷川秀一がついてきて
いる、信長が本能寺で名物披露の茶会をやるのに、何故同じ日に堺で同じ様なことを
やらせるか、とても常識では考えられもしない。一流の茶匠の数は限定されていて、
しかも当時は圧倒的に堺在住が多い。
 それなのに堺で同時開催というのは、これは明瞭に信長への対抗であり妨害である。
もちろん、松井友閑も信長の家来である。どうして邪魔になるような事をするだろう
か。この歴史学者は、今日の神風タレントの掛け持ちでも考えたかもしれないが、そ
の頃の交通機関では、京と堺間の、同じ昼間でもトンボ返りは無理である。


デモ

 誤謬に対して、同情的な解釈を加えるならば、この日、六月一日、日中大雨なのに、
信長のいた本能寺へ夥しい来客があったからであろう。
 つまり、人が来ればお茶を出したであろうから、それで茶会といった連想をしたの
かもしれない。しかし、この日、集まってきた連中は茶飲み話に来たのであろうか。
 信頼すべき史料として、改めて、時の権大納言の<言経卿記>の六月一日の条から、
その来客メンバーを列記してみる(客は近衛一人ではない)。

関白   藤原内基
太政大臣   近衛前久
左大臣    藤原内基(兼)
右大臣   近衛信基
内大臣    近衛信基(兼)
前関白    九条兼孝
前内大臣   二条昭実

 つまり、宮廷における関白以下、前職まで、一人残らず揃っている。次に、五摂家
を筆頭に、

鷹司信房、聖護院道澄、今出川晴季、徳大寺公維、飛鳥井雅教、庭田重保、四辻公遠、
甘露寺経元、西園寺実益、三条西公国、久我季通、高倉永相、水無瀬兼成、持明院基
孝、予(言経)、庭田黄門、勧修寺晴豊、正親町季秀、中山親綱、烏丸光宣、広橋兼
勝、東坊城盛長、五辻為仲、竹内長治、花山院家雅、万里小路充房、冷泉為満、西洞
院時通、四条隆昌、中山慶親、土御門久脩、六条有親、飛鳥井雅継、中御門宣光、唐
橋在通。

 堂上公卿のオールメンバーである。筆者の言経も、この中に加わっている。間違い
ないところであろう。つまり、上の御所とよばれた内裏から、この本能寺へ来ていな
いのは、愕り多いが、主上とあとは中宮、女御の婦人方だけであり、下の御所と称さ
れていた二条御所からみえていないのも、皇太子殿下の誠仁親王、及び皇弟殿下や、
御皇族の方だけにすぎない。
<言経卿記>では、この人名を羅列したあとへ、もっていって、前述したように、
「数刻御雑談、茶子、茶これあり、大慶々々」と結ばれている。
(茶菓子が出て、茶が出たから、これは信長名物の茶器の披露の茶会であったのだろ
う。それで大慶至極と書かれているのだ)と推測するような粗雑な思考では困るが、
一刻とは現在の2時間、つまり数刻といえば、これは五時間から六時間である。しか
も当日は夕方まで雨である。平安朝のような宮廷勢力の強かった時代なら、彼等は自
家用の牛車にでも乗ってきたであろうが、この天正十年では、せいぜい関白や太政大
臣クラスが輿に乗ってきたくらいで、あとは、まだ雨傘なんか発明されていなかった
から、簑をきて集まってきたものと思われる。
 だから茶会ぐらいの事なら、これは、「雨天順延」になるか、又は信長の方で、そ
れほど見せたいものならば、宮中まで持参して一般公開をしている筈だ。というのは、
なんでも信長の真似をした秀吉でさえ、この三年後の天正十四年の正月には自慢の折
畳み式黄金茶室を見せたいばっかりに、禁中へ運んで、これで茶会を催している。だ
から、この六月一日の本能寺は、接待用に茶は出しているが、茶会とか五十人あまり
の大ティー・パーティーではないことは、はっきり言えると思う。
 その例証として、<言経卿記>の六月一日の頭初に、
「一、前右府ヘ礼ニ羆向了(まかりむかわれ)、見参也。進物者被返了(進物は返さ
れる)、参会衆者ハ‥‥」
というのが、メンバーの列記の前についている。これを岩波書店の<大日本古記録>
では(東大史料編纂所)が、
「延臣ヲ信長ノ館ニ列参シテ、ソノ上洛ヲ賀ス。進物ハ受ケズ」
と欄外に注釈をほどこしているが、これはどういう意味による解釈であろうか。すら
っと読めば気がつかないが、ゆっくり読んでは、私ごとき頭の悪い者にはてんで、こ
の注釈ではわけも判らないのである。
 つまり前日の<廿九日、丙戌>の項に、
一、前右府(信長)、御上洛了(おわる)。
一、御局(おんつぼね)御出了、軈而御帰了(やがておか  えりになる)。
一、毘沙門堂ヨリ、入夜愛州薬所望(夜になってから
  薬所望)、遣了(やる)。
一、(約十行分空白)」

 とあるからには、もし「信長の上洛祝賀」ならば、彼によって四月前から太政大臣
にしてもらっていた近衛前久達の信長派だけでも、前日の二十九日に、つまり出京し
てきた日のうちに、本能寺へ挨拶に行くべきである。
 それなのに同日は行ってない。五月は二十九日が月末だから、晦日で忙しくて行く
事ができなかったと、いうのでもあろうか。
 でなければ、みな協議しあって、御所の中で回覧板でも廻して、翌六月一日に、何
処かで集合して、宮中の全員が一堂に集まり、そこから雨の中をてくてくと、本能寺
へ行ったのであろうか。
 まあ、三百八十五年前の人間のやる事だから、今と違って、のんびりしていたろう
から、それもよしとしても、見逃しては大変なのが、
「‥‥進物者被返了」という六月一日の、一行の記録である。
 せっかく雨に濡れて持って行った進物である。勿論たいした物ではなかったろうが
「気は心」ともいうし、受け取ってやるのが礼儀だし、人情というものだろう。それ
を、みな突き返したということは、何を意味するのだろうか。これでは「賀」にはな
らなかろう。
 もしも、これが茶会だったら、たとえ半紙一枚を色代にもってきても、これは有難
く受け取るのが作法というものである。だから、茶会なんてものではない。といって、
東大史料編纂所みたいに「列参シテ信長ノ上洛ヲ賀シニ」来たものなら、その進物を
断るのは、賀しにきたのを拒絶した事になってしまって、「その説明」は、到底ここ
では成り立たない。成立は不可能である。
「お公卿さんは貧乏だから、気の毒がって信長が『好意だけで結構です』と受け取ら
ずに歓談して帰したのだ」とある歴史家の珍説もある。あまりに愚劣すぎて、これは
書名をあげる気もしない。

「前右府」と信長の名称が一般に使われているが、彼は天正四年末に内大臣になり、
翌年十一月に藤原一門の二条昭実にそれを譲り、右大臣になった。しかし、またその
翌年の天正六年四月限りで、これも僅か五ヶ月で辞任している。
 といって、クビになったのではない。信長の方で辞めてしまったのだ。だから、何
とか思い直してほしいと、主上も思し召されて、天正六年は、その四月から十二月ま
で右府をポストは空けたまま待っておられた。
 だから信長の方で、また二条昭実を天正七年の正月には右府につけて逃げてしまっ
た。よく小説では信長の事を「右府」とか「前右府」というが、正味、ほんの半年も
彼はやっていない。
 つまり、天正十年六月の信長は、既に四年半前から宮廷の官位を自分から擲げ、民
間人になっていたのである。だから、雨の中を、ぞろぞろやってきた連中は、正規に
いえば、皆身分や官位の高い、目上の者達ということになる。それなのに、その進物
を拒絶するというのは、こんな非礼な沙汰はない。これではまるで喧嘩である。
 もし、公卿衆が貧しくて気の毒だというのなら、それまでの信長の慣習どおおりに、
たとえ末広(扇子)の一本でも快く納めてやって、返り際に、応分以上の銀一枚でも
くれてやるべきだと思う。
 これ迄でも信長は何かを恰好だけもらい、お返しとしてそうしていた。彼が気前よ
く金銀を撒いていたからこそ、信長派という堂上公卿の集団があった。前年の観兵式
(<信長公記>に記載されている八月一日安土挙行は、時日場所相違)の馬揃えの当
日も、前関白近衛前久が、信長の家来の格で馬場に並び、天覧の主上をして、いたく
慨嘆させられたものである。それなのに、そうした取巻き連中の公卿までが、この日
は玄関払いの扱いである。
 今でこそ持参した進物を帰り際に、「つまらないものですが」と差出しもするが、
天正期から幕末までは、まず玄関で、持参の進物をおいて、それから挨拶したもので
ある。だから当時は挨拶の事を「色代」といい、それをまず置く入り口の玄関の板台
を「式台」という。なにも踏み石の代わりに縁台の様なものを置いたのではない。あ
れは手土産品の提示台だったのである。
 だから、進物を断られるという事は「本能寺の客殿へ通してやらない」という拒絶
である。
 つまり、関白一条内基以下、彼等は御所を空っぽにして四条の本能寺へと大雨の中
をくりこんで行っても、この有様ではどうみても「招かれざる客」でしかない。
 といって、彼等の方でも、もちろん「面会謝絶」は承知だったのだろう。だからこ
そ、五摂家をはじめ堂上公卿が一家一名みな打ち揃って出向いているのが、メンバー
表で、はっきりしている。つまり彼等は三百八十年後の権威ある東大史料編纂所の意
向に反して、「祝賀行列」をしに行ったのではない。
 あれは公卿を総動員して、デモに行ったのである。もちろん、表向きは信長の機動
隊に棍棒で頭を殴られては痛いから、「嘆願」の形式だったのだろう。プラカードが
発明される以前だし、手ぶらだったろうが、集団示威運動には違いない。それがなに
よりの証拠には、
「玄関の式台で、進物を突き返された連中が、結局は上へ上がり込んで、数刻、つま
り五、六時間も団体交渉」をしている。もちろんシュプレヒコールはしたらしい。
 そして、もし招いた客とか、普通の来訪者ならば、いくら人数が多くても、それだ
けの長時間ならば、今でもそうだろうが、飯ぐらいは出す筈である。なにも出前の店
屋物を注文しなくても、本能寺の台所で「お寺のおとき」ぐらいは、すぐにも仕度は
できたと思う。そして、この時代は「お振舞い」と称し、相手が呑めても呑めなくて
も、酒食を供応するのが来客への慣しであった。
 それなのに「お菓子とお茶」だけというのは、冷遇というより「酒食」など出せる
ような、そんな話し合いではなかったのだ、としか想像できない。
 言経卿が「大慶々々」と結んでいるのは、びしょ濡れになって、みんなで本能寺へ
行ったところ、「‥‥公卿は、みな甘党だから、酒など出されずにすんで、お茶のみ
だったから、胃潰瘍の吾々にとっては、大慶、大慶、ベエリ・グッドだった」などと
言っているのではなかろう。
 これは「逢ってくれまいとデモをかけ、みんなで押しかけたところ、さすがの信長
も往生して、上へ通してくれ、どうにか話ができて良かった」と、解釈すべきだろう。

 では、何のデモをかけたか、ということになる。雨中を大挙して押しかける位だか
ら、彼等の生活に掛かっている問題と考えられる。
 信長は、中国へ出陣して安土や京を留守するに先立って、「何か」を一掃する目的
で上洛してきたのだから、その目的に対しての、これはデモとしか考えられない。
 それと、妙な事は<言経卿記>のメンバー表である。彼は自分の事を「予」という
表現で、その十九番目、つまり中央に目立たないように挿入している。初めは「権中
納言」という彼の官位からして、中納言の順番の下へもってきて、これは宮中席次の
配列かとも考えた。
 ところが調べてみると、大納言や正中納言の名が、その後になっている。だから、
これは、それでは本能寺への到着順かとも想った。しかし、これは日記である。別に
公文書ではない。
 普通こういうメンバー配列の時に、自分もその一員に加わっている場合、
「私を初めとして、誰某たち」と並べるか、
「誰某達と一緒に、自分も参加した」と書くのが決まりきった定型のようである。そ
れなのに言経は、わざと四十人列記した名前の、丁度まん中へ自分を入れている。ど
うも人数を勘定してから、書き込んでいる。しかも目立たないように「予」の一字で
ある。
 そこで考えるのだが、日記というのは、何も他人の為に書くものではない。山科言
経だって、三百八十五年後の岩波書店の為に、これを書き下ろしたというわけではな
い。東大史料編纂所だって、勝手な注釈を上へつけて、印税をとったからといって、
山科言経の供養祭をしてやった事もきいていない。つまり、これは、言経の都合にお
いて、片っ端から名前を書いているのだ。ということは、「AもBもCも行った。だ
から私も本能寺について行ったに過ぎない」という自己弁護である。子供が「悪い事
をしたのは自分だけではない。甲も乙も丙もしている」と告げ口するのと同じ事であ
るらしい。
 そうなると、公卿達のデモというのは、最初は、勢い込んで雨中を蹶起して勇まし
く赴いたものの、五、六時間の団体交渉のうちに、信長に圧力をかけられて軟化して
しまい、所期の目的を果たす事なく、あべこべの結果になり、権中納言という官位の
手前では、悪い結果に終わったのではなかろうか。だから彼は、その後ろめたさに、
共犯者の名前を、ずらりと書き並べて、自分を丁度そのまん中に陥没させた日記をつ
けたのではないかと思う。
 しかし信長の方にしてみると、早く追い帰したいから「一掃すべき目的」に対して
は譲歩をしなかったが、うるさい公卿達にしては、その生活の保証をしてやった他に、
権中納言の山科言経には「一級上の中納言」といったようなことを洩らし、喜ばせた
可能性もある。
 だから言経は、自分のために「大慶々々」と書き、信長の約束が反故になるのを惧
れ、(書付の朱印状や沙汰書は貰っていないが、これだけの公卿衆が同席して耳にし
ている)
と、証人のつもりで、ずらりと名前を書いたとも又、勘ぐりもできる。そうでもなけ
れば、自分の為に書いた日記にしては、丹念に他人の名前が克明に並べすぎてあるか
らである。