1188 信長殺し、光秀ではない  7

利用

(あの森蘭丸が華やかな脚光を浴びた本能寺の絵画や、パノラマは、一体いつ頃から
弘まったのだろうか)と、それがまず気になった。
 図書館へ出かけて行っても、こんな混乱した頭では、仕事になるまいと、そちらか
ら調べにかかった。
 だが、あいにく、私も絵本までは、資料としてマカオへ持ってきていない。それで
も、仕方がないので重い思いで、両手に提げてきたアルミトランクを拡げ、なにかな
いかと漁ってみた。

 パノラマの方は、当時、本郷の団子坂にあった菊人形。その頃は「活人形(いきに
んぎょう)」の文字を使っているが、その中で、「忠臣蔵の討入」とこの「本能寺」
が呼物になっていたと、これは、<明治新聞全集>に入っていた。
 さて絵であるが、これは絵本よりも早く錦絵が出ていた。
 錦絵というのは江戸時代のものと思っていたら、これも明治二十九年本所から極彩
四色刷の三枚続きで刊行されていた。どうも蘭丸や本能寺は、明治に入っての産物ら
しい。
 では、なぜ、こんな頃になってからブームになり、その後、大正、昭和となって今
も続いているのかと思ったら、終戦時までは軍部推薦のものだ、ということが判って
きた。
 なにしろ、明治軍部は京城戦争のあと、思い切ってというか、おそるおそる日清戦
争を始めた。ところが思ったよりも案ずるより産むが易しで買ってしまった。だが後
がいけなかった。三国干渉を受けた。ロシアと衝突する立場に立たされた。そこで予
想を、当時はまだ電子計算機はなかったから、算盤でやった。勿論しなくても判って
いたろうが、国力の差があまりにも大きすぎた。小国が大国に勝つ方法が真剣に研究
された。寡をもって大にあたる戦術を編み出すために、陸軍参謀本部は躍起になった。
資料とすべき参考文献を漁った。そこで、ようやく見つけ、陸軍大学が採用したのが、
明治十四年刊「史籍集覧」第十九である。
 つまり、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」というが、織田信長の(桶狭間奇襲
作戦)が採り上げられた。
 勿論これは、解明する意志さえあれば「あんな非常識な出鱈目はない」と、すぐに
も解きほぐしてゆけたろうが、そんな不都合な事はしなかった。他には毛利元就の厳
島合戦ぐらいで、これといって別に何もなかったせいらしい。
 そして、大正、昭和と軍の指導方針は、これを踏襲した。
 そして、軍部の都合において、「人間、僅か五十年、化転のうちに比ぶれば、あに
定めなき人の世や」という「小敦盛」の謡曲も有名になったが、つまりは、
「死のうは一定。それ進め」とばかり、私たち国民はガダルガナルやインパールの桶
狭間へ追い立てられていった。もちろん奇勝する予定だった。だが信長みたいに義元
の首級がとれなかった。なにしろルーズベルトもチャーチルも、本陣を、そこまで進
めてこなかったせいだ。
「戦局苛烈」という言葉が使われ出した。
「玉砕精神」が国民精神総動員になった。
 青年が、ナパーム弾や火焔放射器のホースで、みんな真黒に焼かれて死んで行った。
 補充がつかなくなった。「産めよ増やせよ、地に満てよ」と、エホバの言葉まで蘇
って出てきた。人間の増産を励行させるため、セックスを遊休設備として腰にブラブ
ラさせておかないようにし、国策として「結婚奨励」が強行された。顔の美醜は問わ
ず、第二の健全な少国民が産出できる母体こそ「愛国の花嫁」とされた。だから、ず
んぐりした豚のような女がモンペをはいて、みな勇んで鼻をブウブウならしながら、
戦時特別婚礼用配給五合の酒に酔いしれて挙式したものだ。
 だが、マカオの葡萄酒だって、まあ呑めるものは、少なくとも二十年もの、三十年
ものである。だから人間も、インスタントに今日作らせても、それはまだ赤ん坊で、
明日立って歩けて間に合うというものではない。しようがないから軍部はそれまでの
つなぎに、青い果実のような少年を使いだした。しかし、それには模範的なサンプル
を必要とした。
 Loyalty つまり「忠義」という、モラルの為に、その生命を提供させる雛型である。
そうだった。当時は、これを「尽忠報国」というキャッチ・フレーズにしていた。
「少年航空兵」「少年戦車兵」ベタベタとポスターが、教務室の入り口に貼られてい
た。朝から晩までスフのゲートルを巻いて、痺れたような、むくんだ脚を組み合せな
がら、少年達は講堂で、よく森蘭丸の話をきかされたものだ。それでなければ、飯盛
山で死んだという白虎隊のエピソードだった。そして、志願して、護国の英雄になれ
と、必ず終りに結びをつけられたものだ。「若い血汐の予科練」のレコードをもって、
海軍からも、募集官が講師を伴って講演に廻っていた。「歌声喫茶」の元祖みたいに、
声を揃えて「俺とお前は同期の桜」なんて唱わされると、酩酊したようなエクスタシ
ーに酔わされて、一人で志願すればよいのに、仲間を誘ってしまったものだ。あれは
軍歌とか流行歌というより、今でいうコマーシャル・ソングだった。画壇報国会か翼
賛会の日本画家の掛絵も、持って廻られて講演の背景画として掲示された。白虎隊は、
山の上から小手をかざして若松城の焔を眺める二三人の立ち姿に、既に屠腹してうつ
ぶさった者。今や互いに刺し違えようとする組み合わせに決まっていた。だから、悲
壮感はあるが、敢闘精神には遠かった。軍部だって葬儀屋ではない。なにも死ぬこと
ばかりを歓迎したのではなかった。散華させる前に、働かせるだけ、こき使わねば損
だと考えたのだろう。そこで、当時の少年兵募集用の専門ピクチャーは、何といって
も、イラストは蘭丸だった。
 まるで宝塚の男装の麗人みたいな小姓が、白い足袋を覗かせて戦っている絵は、少
年期の誰もが抱いているSapphismを官能的に痺れさしたし、同性愛とはゆかないまで
も、それは少年にヒロイックな幻想を与えたのだろう。
 だから、その情念が、いつとはなしに固定観念となってしまった。美しい森蘭丸の
姿が瞼に焼き付いてしまったかわりに、本能寺の双方の激戦という場景も、真実とし
て脳裡に刻みこまれてしまったものらしい。いくら私が、本能寺では絶対に戦闘はし
ていないと言ったところで、それは美少年蘭丸のイメージの前では、虚しく空廻りを
してしまうに違いないだろう。とさえ想えてくる。
 つまり、そうして錦絵や、絵本や、少年兵募集用の掛図の中の本能寺が、真実と思
い込まされている限りは、森蘭丸は島原で死んだ天草四郎時貞と並んで、日本美少年
史の花形であり、攻めてきたのは、どうしても仇役で、悪逆無道な明智光秀、という
事にされてしまう。
「死せし児は眉目(みめ)よかりき」ともいうが、蘭丸というのは、そんなに美しい
少年だったのであろうか。私などが調べたところでは、この時代の美童としては、
「傾国」とか「傾城」を文字どおりに具象したのは「万見仙千代」の方である。「仙
千代さまには及びもないが、わしが惚れとる若衆のきみに、花のひと枝ささげたや」
と慶長時代まで哀切な唄が残っていた彼こそあげたいが、何しろ、これまで、誰一人
として、仙千代を美少年として伝えた者もない。また、書かかれたものもない。さて、
絵の中の蘭丸は大体十五、六歳なのだが、本当は、いくつぐらいで、どんなふうだっ
たのだろう。と私は気になってきた。
 なにしろ偶像化されてしまっている蘭丸を、まず裸に剥いてしまわないことには、
本能寺の虚偽は破れもしない。というのは、絵巻の中では、信長よりも、何といって
も彼の方が立て役者にされているからである。
 絵によっては、小姓組の敢闘だけが画面に横溢して、信長のごときは右隅の濛々た
る白煙の中から顔だけをみせ、完全なバイ・プレイヤーになり下がっている。

 さて、この時点、森蘭丸の身分はどのくらいかというと、これは<信長公記>によ
れば、「天正十年三月二十九日、御知行割りを、仰せ出され、次第」とあって、「甲
斐国を河尻与兵衛へ下さる。駿河国を家康卿へ」という箇条書きの末文に、
「岩村を団平八へ、今度粉骨につきて、下さる。金山、よなだ島を森乱へ下さる。是
れは勝蔵も忝(かたじけな)き次第なり」とある。
  岩村とは、美濃国岩村城で、それまで河尻与兵衛の城で、これは八切武者シリーズ
の「ああ夫婦武者」の主人公の団平八が貰ったのである。
 さて森蘭丸という名は、美少年として扱われる時だけの専用の愛情ネームとしての
創作の当て字らしく、史書では「森乱丸長貞」である。
 天正十年の武田攻めの総司令官として、織田信長の嫡男信忠が進発した時、その先
遣隊として団平八と共に戦陣を勤めた乱丸の兄の森勝蔵が、その手柄によって、武田
勝頼の旧領の中から、信濃の高井、水内、更科、埴科の四郡を貰い、「森武蔵守長可
(ながよし)」として、川中島の海津城主として赴任のあと、それまでの居城であっ
た「美濃金山五万石」と、「琵琶湖弁天浦よなだ島の一島」を拝領し、少なくとも五
万五千石から六万石ぐらいの殿様だったのが、森乱丸のまことの実像である。兄は当
時「鬼武蔵」と呼ばれ、容貌魁偉と云われている。彼は、その弟なのである。「何々
丸」というと「牛若丸」の、やはり絵本的教養から、すぐ稚児や小姓を連想するが
「大蛇丸(おろちまる)」といった四十男の泥棒だって実在していた。
 さて、美濃の金山城というのは、故高柳光寿氏の<本能寺の変 山崎の戦>などでは
「兼山城」の名称で現れてくるから、ちょっと気付かないが、ここは、
「刀工関の孫六」で名高い関から入って、源氏野、八幡に到るまでの地域で、鋳掛屋
部落といったの地名も、今日現存しているように、ここは当時、東海地方唯一の金山
で、鉄も産出していたのである。
 つまり、金山城というのは、これは普通の城ではなく、<毛利家記>に出てくると
ころの、
「石見銀山は、銀、金、鉄をも、あまた産し、本城常光が当家に帰参せしより、山吹
城にて採掘一切を司り、その奉行職を励む」
 といった山吹城にも当る、鋼鉄監督所なのだ。
 だから単なる領地を貰っての城主ではない。
 そもそも、信長が、尾張から出て、
「天下布武」の基を開けたのは、美濃を占領し、ここの金山を掌握して、その採掘に
よって初めて実力をつけられたからである。だから森乱丸の兄の勝蔵にしたところが、
団平八と競争しあって、平八は、僅か美濃岩村三万石にとり立てられたのに対し、そ
の七倍の二十万石に補せられたのも、もともと、この金山奉行の実績を買われたから
に他ならない。
 それならば、その後釜の金山奉行という鉱山監督局長の重責を、十五、六の白面の
少年に、いくら勝蔵の弟だからといって引き継ぎさせる筈がない。と、私は考えたく
なる。
 そして、もし伝承されるように森乱丸が、当時それ位の年恰好のものであるなら、
弟の力丸や坊丸は何歳だというのだろうか。上の乱丸が十五、六なら弟共は、それよ
り年弱の筈である。後年赤穂浪士が本所松坂町の吉良邸へ討入りしたとき、十三歳の
茶坊主が、手当たり次第に物を擲げて抵抗し、もて余した浪士に斬殺されたという事
件があったから、この本能寺においても、同じ様に考えられがちだが、吉良邸の茶坊
主は、そこに住み込んでいたのだし、力丸や坊丸は安土から馬に乗って、早駆けして
来ているのだ、という違いが現実にある。
 といって、まさか「はいしい、はいしい、歩めよ、子馬」と、力丸や坊丸は、小さ
いのに乗ってきたのではあるまい。といって十や十二、三の子供が、普通の馬に乗っ
たのでは下まで脚が届くまい。といって、竹馬とも考えられないから、では誰かに背
負われ、おんぶでも、してきたのだろうか。
 しかし、<信長公記>や<森家実録>によれば「坊丸は長隆」「力丸は長氏」と、
既に元服を済ませているらしく名乗りをつけている。
 すると下の弟の力丸あたりでも十四、五歳という勘定になる。さて、この二年後の
天正十二年の小牧長久手合戦で、どうも故意に秀吉に棄て殺しにされたのではないか
と思うが、森武蔵守長可が戦死し、末弟の生き残りの千丸が跡目を継ぐ。森忠政であ
る。
 これは六男にあたっていて、生れた時は西暦1571年と記録に残っている。長男
の長可の方は、これは1558年生れである。だから次男の乱丸以下は、この間の出
生ということになる。
 ところがである。彼ら兄弟の父の三左衛門が、近江宇佐山の志賀城で討死したのは
<多聞院日記>では、元亀元年九月二十三日、つまり1570年の事となっている。
 すると、これは数学上の問題であるが、1570年から1558年を控除した12
という数字を六人兄弟の6で割れば、2となる。
 これは最後が六男だから、十二年間における森三左の生産能力の平均値である。勿
論オール男というわけもないから、この間に何人かの女子も、やはり産れているだろ
う。すると年子も入っていることになる。そこで兄弟の間隔は1年又は2年となる。
兄の勝蔵長可が、本能寺の変の当時二十八歳だから、
「森乱丸は二十七歳か二十六歳」となる。
 これなら五、六万石の鉱山奉行でも訝しくない。


虚像

 乱丸はなぜ、<信長公記>が三百年ぶりに陽の目をみて、かび臭い秘密写本から活
字本になり、やがて明治の錦絵になり、人々に親しまれるようになった時、いきなり
十歳も若返ったか。と私は不思議な気がした。だが、これは明治から大正へというジ
ェネレーションが、
「オレの稚児さん、さわらば触れ、腰の朱鞘は伊達じゃない」などという稚児趣味の
はやったホモの時代で、陰惨な「西南の役」でさえも「馬上ゆたかに美少年」と唄わ
れた「時代」のせいらしい。そして「武士道鼓吹」の時代になると、白虎隊と共に、
青少年の「理想の典型」に、前髪だちの少年像のままで普及されてしまったのだろう。
 もちろん信長の側近の小姓でも、当時の言葉で「自愛のもの」と呼ばれる者も居る
にはいた。<当代記>巻第二の谷河藤五郎のような者である。だが森兄弟は、森三左
の遺児である。なにも器量で召し抱えられゲイで身を助けていたのではない。
 そもそも小姓組、近習組というのは、信長が、諸国の軍団へ派遣する為に養成して
いた、織田幼年学校の生徒である。年長の者は、士官学校から陸軍大学までの個人授
業を受けていたのである。
 というのも、電信電話のなかった時代だから、一々早馬をとばせて指揮を仰ぎに来
ておられては、信長としては勝機を逸する恐れがある。そこで、(その場に於いて、
自分と同じような判断を下せるもの)をと、これを養成したのであって、つまりは幹
部候補生である。
 この翌年の天正十一年の賎ヶ谷合戦で、信長の真似をして、荒し子小姓を飼育して
いた秀吉が、浮足立った敵が鎧も取って、身軽になって潰走しかけるや、「それッ」
と小姓共を訓練用に追いかけさせておき、世間には「織田信秀の小豆坂七本槍」を借
用し、九人なのに「賎ヶ谷七本槍」と宣伝した例もある。
 芝居や映画で、殿様の佩刀を捧げているのは、あれは、本当の小姓の姿ではない。
「蘭丸美少年説」の影響を受けたせいである。そこで「可愛子ちゃん」を探しても、
なかなかいないから、化粧した少女を代用に出演させたりしているだけである。
 なにしろ、森乱丸が、明治大正期の「お稚児さんムード」で人気者にされてしまっ
たから、信長の近習筆頭であった堀久太郎秀政も、彼が当時、信長のお気に入りだっ
たというだけで、さぞかし美少年の小姓上りだろうと、今では推定されてしまってい
る。
 ところが、戦国時代の延長である天正十年頃は、美醜の観点が泰平期の徳川時代と
は違う。なにしろ実用本意で通っていた頃である。
「猛々(たけだけ)しき好き顔にて」と、<武者物語>にもあるように、この時代の
好男子とは、
「戦場へ出たら、敵がドキッと肝をつぶす様な、威嚇的効果のある顔こそ」よしとさ
れていたのである。だから堀久太郎の事も、「お化きゅう武者」として詳細に書いて
おいたが、当時は、「三つ目小僧」の異名があって、天正五年に大和信貴城に立て篭
って、松永久秀、久通父子が、信長に背いたとき、久太郎が先陣をつとめて、まっ先
に城門へ駆け向かったところ、松永勢の兵達は、
「年こそ違え、今日と同じ日に吾等は奈良の大仏を焼き払った。だから降魔の利剣を
ふるって、こんな牛頭天王のような化け物が、攻め寄せたのであろう」
と、久太郎の異相に、びっくり仰天。
 みな城を捨て退散してしまったから、やむなく松永久秀父子は割腹の余儀なきにい
たったという話が伝わっている。
<多聞院日記>にも、こういう話がある。
「信長の小姓あがりの近習で矢部善七郎というのが来たから、おっかないから銭を出
した。それで済んだものと思っていたら、また明智光秀が来るという。なにしろ八月
二十二日に、矢部善七郎が奈良の法隆寺へ来たというので奈良中は大騒ぎをしたもの
だが、自分は八月二十四日に銭百疋を贈って、よくしてくれるように頼んだばかりな
のに、また違った者が来るとは、なんたる恐ろしい事であろうか。まるでエンマ大王
が来たようなものだと、奈良の者は戦々兢々としている」
 と奈良興福寺内多聞院の住持の英俊が、その日記に書いているくらいだから、小姓
出身の善七郎も決して、見てくれの好い顔はしてなかったようだ。つまり森乱丸にし
ろ、当時の小姓は、決して美少年ではなく、それより豪傑型であったようだ。
 <当代記>によると「柴田勝家が敵に奪われた旗を、その小姓の水野次郎右衛門が
奪い返し、勝家に手傷をおわせた相手を、難なく倒してしまった」と、元亀二年五月
十日の条にある。
 私どもは「鬼柴田」と呼んで「柴田は強い」という概念があるが、実際は、彼より
も遥かに勇猛な小姓が側にいたのだ。つまり乱丸兄弟だって容色より、腕力で奉公し
ていたのであろう。今日でいうボディーガードである。

 さて、
「湯浅甚介、小倉松寿の両人は、町の宿にてこの由を承りて、敵の中へ交じり入り、
本能寺へ駆け込みにて討死」
 と<信長公記>の小姓名の羅列の最後に、こういう記載がある。だが、いかに解釈
すべきなのか。「一万三千に包囲されている所へ、どうして二名が潜って入っていけ
たか。これはデフォルメであって、小姓組の悲壮さや健気さを強調するための造り事
である」
 と、決めつけてしまえば、これは簡単である。だが、「もし事実かもしれぬ」と認
めれば、こんなおかしな話があってよいものだろうか。
 当時、安土には各邸地を賜って、諸大名の安土屋敷があった。しかし京にも各大名
の留守屋敷はあったのである。
 明智光秀の二条屋敷も、元亀元年の姉川合戦の後、信長主従のおもだった者を宿泊
させているくらい宏壮なものであったと、
<毛利家文書>には、七月四日の条にある。
 つまり、秀吉時代の伏見城程には、各大名屋敷はぎっしり並んではいなかったろう
が、それでも細川屋敷、筒井屋敷を初め、すくなくても五十や六十はあった筈である。
 家がある。という事は、そこに人間がいたということを意味する。留守(るうず)
と呼ばれた者が、どの屋敷にも最低四、五十人はいた筈である。
 万一の際には、そこの屋敷に立て篭もって防戦し、あくまでも留って守るにたるだ
けの武者が、何処も待機していた。
 京の一条から九条までに散在していた大名屋敷を最低四十とみて、平均五十名の留
守武者がいたとすれば、ここに二千名の精鋭部隊ができ上がる勘定ではなかろうか。
 そして、この時点。天正十年六月二日午前七時半に、本能寺が炎上する迄は、まち
がいなく「織田信長は天下人」つまり国家主権者だったのである。そして、各大名屋
敷の計二千の留守武者は、信長の家来の又家来、つまり陪臣ではあるが、やはり命令
系統には入っていたはずである。何故彼らは出動しなかったか?という疑問がどうし
てもわいてくる。
 いくら当時の小姓は勇猛であったとしても、僅か二名の者が包囲中の本能寺へ入っ
ていけたということは、なにも寄手が斬りこんで、それで辛うじて境内へ駆け込めた
というのではない。もし戦って侵入しようとしたものなら、本能寺の外で討死とみる
べきだろう。
 そうではなくて、木戸口から中へ入れたのは、
「信長様の小姓です」「そうですか。どうぞ」と、中へ入れてもらったとしか考えら
れない。
 そうなると包囲陣の態度も、従来の説明では通らなくなるが、なにより不審なのは、
本能寺へ駆け込もうとすれば楽に通行できたのに、この時、一人も行かなかった大名
屋敷の連中である。

 哀れにも悲しく、前髪だちの少年が、小刀をふるって、群がる鎧武者の荒くれの長
い槍に立ち向かって戦っている有様を描いた本能寺の絵は、炎と煙に包まれて美しい。
 だが、現実は、絵では十四、五歳の美少年の蘭丸が、筋骨逞しい二十六、七の青年
であったり、他の者も小姓を長年してきて、信長の身の廻りを世話するのには熟練し
ているからと、元服を済ませてもまだ小姓にされている元気な青年達とみても、なぜ、
京都にある各大名屋敷が、彼等を見殺しに拱手傍観していたかは、これも謎の一つで
あろう。
 後年、どうとも、ここは恰好つけにくいから、各大名とも、家来の京屋敷はあった
が、自分らの邸宅はなかったようにと各家の「家伝」ではなっているが、<多聞院日
記>や<御湯殿上日記>には、各大名京屋敷は出ているし、徳川政権の江戸中心の時
でさえ、幕末まで各大名は京屋敷を有していた。だから、天正十年の時点においても、
各諸国大名は邸を置いていた筈である。又そうでなければ、前年二月に開催した馬揃
えを、同じく京で再度、信長が、やや小規模だが、引き続き催している事情が納得で
きない。
 当時は貸ビルもマンションも、勿論ホテル設備もない頃である。どうしても自分の
支度をしたり家来を泊める足場用に、各大名は自分の邸を購入するか築営するかしか
しか途はない。。そして作ったからには、己れの「取出し」と当時は砦のように邸を
言っていたから、もし襲われては人のもの嗤いの種になると、何処でも護衛部隊の留
守武者を、ここに常駐させていたのである。
 だから問題は、厳然と京にいた筈の二千以上の織田信長の息のかかった兵が、どう
して信長救出に駆けつけなかったか。こればかりは、さっぱり理解できないのである。
どう考えても、まさか「知らなかった」ということはなかろう。
 本能寺に信長の一行が泊まっていたのは、在京の武者は皆よく知っていた筈であろ
う。
 主人の大名が不在であっても、信長から何か通達があれば、それをもって主人の許
へ火急の連絡をするのも、留守武者の仕事だからである。
 おそらく信長在京とあれば、みな用心して馬には水を与え、いつでも間に合うよう
準備はしていた筈である。もちろん弓鉄砲の備えをあったろう。
 それなのに、彼らは、全織田系労組ストを起して一人も動かなかった。
「小姓でさえも潜入できるくらい」という状態ならば、彼等が押しかければ、本能寺
に楽に入れたろう。もし拒まれても、囲みを破って侵入しない迄も、背後から突き崩
して突破口も開けたであろう。
 このとき、二条の妙覚寺には、信長の嫡男で、かつて秋田城介の官位から三位中将
に昇っていた二十六歳の織田信忠がいた。これには直属の寄騎である城持ち大名が約
六十三人衆。
 旗本と後年は呼ばれる子飼いの武者や、小姓。そして、それらに従う陪臣が少なく
とも、初めの内は千はいた。
 だから、各大名屋敷の留守武者さえ行動をおこせば、信忠の手勢と共に、謎の上洛
軍を一応はくいとめられるし、又そうすれば半日の距離である安土には、このとき、
<当代記>や<信長記>にあるごとく、
 本丸留守番は、津田十郎、加藤兵庫頭、野々村又右、遠山新九郎、世木弥左、市橋
源八、櫛田忠兵衛。
 ニ丸御番衆は、蒲生賢秀、木村治郎左、雲林院出羽守、鳴海助右、祖父江五郎右、
佐久間与六郎、箕浦次郎右、福田三河守、千福遠江守。
 といった陣容で、中国攻めの仕度をして、すぐにも出陣できる信長自身の旗本衆数
万が揃っていたのだ。だから、これらが駆けつければ、本能寺は、事なきを得た筈な
のである。
 それなのに彼らは動かないで信長を見殺しにしてしまった。それも一糸乱れず何処
からも打って出ず、まるで無人の如く、ひっそり閑として、見送ってしまったのであ
る。
 この時代は、まだ後年のように「忠義」というものは流行していなかった。大名は
領地を、武者は銭を貰う恩賞しか、考えていなかった時代ではある。それにしても、
これは、あまりにも極端すぎる。前もって、信長が死ぬ予報でも、出ていたのであろ
うか。
 そうでなければ恩賞目当てに、みんなで本能寺へ駆けつけ、信長公に尽くして銭の
一握りずつでも貰おうとした筈だろう。なにしろ儲かる機会だったのである。
.