1187 信長殺し、光秀ではない  6

旗印

 とは言うものの、なにしろ、
「本能寺を襲った者は、それは明智光秀」
 という定説が一般化してしまっているから、語句の上の注釈で、私がとやかく言っ
たとしても、詭弁を弄しているようにとられるかもしれない。また、その危険性も充
分にあろう。
 だから、私は話を反転させて、今日まで<真実>として伝わっているように、
「明智と見受けた」という、一つの仮定のもとに、立ってみることにする。

 さて、当時の習慣では、主人が存在する事を示すためには「馬印」を立てる。そし
て相手方に対して、その責任の有無をはっきりさせる筈であり、これが定法である。
そこで<明暦版の「御馬印武艦」>によると、
「あけち、ひうかのかみ」は「白紙たて一枚に切目を入れた旗もの」とある。
 これが<總見公武艦>にいうところの、
「白紙のしでしない」である。
 これは神棚にあげる神酒の壷にさす、鳥の羽の片側のような物、つまり白紙の左耳
を袋状にして竿に通し、右側に切れ目をずうっと入れ、風にはためくようにしたもの
で、風圧を受けるから貼合わせなしの一枚ものである。当時の寸法として計れるのは
<美濃紙縁起・日本紙業史>によれば、
 手漉きの枠が30センチから70センチ幅が最高だったというから、美濃全紙を用
いたにせよ、およその形体は想像できる。勿論、このサイズは、眼の前に拡げた大き
さであるから、本能寺のような周囲が1.2キロ平方であれば、信長のいた客殿を中
央とみても、これに築土外の堀割1メートル80を加え、やはり600メートルの距
離ともなるから、これは、「遠見物体に対する被写距離計数の算出法」という旧日本
陸軍の「砲術操典」の測定法に従って計算すると、縦1メートルの物でも600メー
トルの間隔で割り出すと3センチ弱にしか視えないとある。
 ところが、である。
 これは視界が良好な、晴天の太陽光線による肉眼識別のものであって、
(「ようやく夜も明け方にまかりなり」で、京都へ入ったところ、「すでに信長公御
座所本能寺を囲み居る」)といったような、午前三時から四時と推定される刻限にお
いて、はたして肉眼で、その3センチ弱が、視えるだろうか。

<高橋賢一の「旗指物」>によると、
「水色に桔梗の紋をつけたる九本旗。四手しなえの馬印。つまり旗の方は『水色桔梗』
といって、紋自体が青い水色をもち、むろん旗の地色も水色だった。これは『明智系
図』といって、光秀の子で仏門へ入った玄琳が、父の五十回忌に編したものに出てい
るので間違いない」とある。純白の馬印さえ見えない時刻に、水色の桔梗の旗が見え
る筈も、これまた考えられない。
 さて、うっかり全文を引用してしまったから、ついでに解明しなければならないが、
光秀の男児は二名しかいない。
 それなのに、この『明智系図』というのは<鈴木叢書>に所収のもので、寛永八年
六月十三日に、妙心寺の塔頭にいた玄琳という坊主が、喜多村弥兵衛宛に差出したも
のとあるが、これでは実子だけでも男子六人、女子五人。
 子福者になっている。そして作者は己を光秀の伜にしてしまい、姉の一人などは、
講談で大久保彦左と渡り合う隣家の川勝丹波の奥方にしているし、弟の一人を(筒井
伊賀守定次養子、のち左馬助と改め、坂本城にて自害)としている。が、俗に明智左
馬助というのは、狩野永徳の陣羽織をきて「湖水渡り」で有名な講談の主人公である。
実在の明智秀満の方ならば、これは明智姓でも光秀の娘婿で、その実父の三宅氏は、
「天正十年六月十四日に丹波横山で捕えられ、七月二日に粟田口で張付柱にかけられ
て殺された」と<兼見卿記>に記載があり、<言経卿記>には、「その年齢が六十三
歳」とまで明確にされている。
 つまり高橋賢一は「間違いない」と言い切るが、「明智系図」や「明智軍記」とい
ったものは、なんの真実性もない「為にするためのもの」であって、資料にはならな
いものである。こういうのを資料扱いされては困る。

 なお、この寛永期というのは、明智光秀の家老斎藤内蔵介の娘の阿福が春日の局と
なって権勢をふるい、その寛永六年十月十日に後水尾天皇に強訴をして、翌月八日、
堪りかねた帝が、徳川秀忠の娘の東福門院の産んだ七歳(又は二歳)の女一官に帝位
を譲られたりして、物情騒然としていた。そして、これから二十八年後の明暦二年。
つまり由比正雪の謀叛騒ぎがあって五年目に、玄琳の俗世の時の伜というのが、やは
り妙心寺にて得度し、密宗和尚というのになる。さて、この人は、自分は光秀の孫だ
と、
「明智系図」の代りに「明智風呂」というのを、妙心寺の本堂参拝道の脇に建てた。
三十坪ほどの豪勢な桧造りの蒸風呂である。これに参詣人の善男善女を入れて、おお
いに明智光秀のPRを、その当時はしたようである。
 現今のトルオ風呂、サウナ風呂のようなものであるが、今は閉め切った侭である。
京都駅から車で二十分程のところの花園に現存している。
 さて、こういう時日は、玄琳にしろ密宗にしろ、事実上はなんらの血縁がないにも
かかわらず、
「謀叛人と定説のあった光秀の子や孫だ」と自分から宣伝するのは訝しいから、もは
や、この時点では、
「光秀無関係説」が一度は、一般に流布され、事によったら慰藉料でも出るような噂
があったのではあるまいかと思われる。これは後でも説明する。
 さて、である。動物と違って夜目のきく筈もない森蘭丸の目玉に、どうして、まだ
暗く、夜の幕もあけていないのに、そんな保護色めいた水色桔梗の旗や、ペラペラし
た紙ばたきみたいな馬印が、識別できたというのであろうか。
 まがりなりにも「明智の手の者」とか「明智が者」と見受けたというからには、一
体彼は何を視たというのだろう。現在ならば、こうした視野のきかない時には、超赤
外線望遠レンズというのが、国庫援助で、コダックで開発されているそうだが、当時
のドイツは、免罪符騒ぎである。カール五世陛下はレンズ事業などは知ったことでは
なかったろう、と想像される。だから、そんな便利な望遠鏡はまだ発明されず日本へ
も輸出していなかったろう。
 それに、この本能寺包囲という限定状態は、どう考えても合戦ではない。だから源
平合戦や当今の選挙運動のトラックみたいに、まさか、「明智党公認の○○が、ご挨
拶に参りました」とは、声もかけなかったろうし、連呼もしなかったろう。
 そうなると、目からは視えず、耳からは聴こえずである。あとは臭覚の鼻であるが、
本能寺に信長は軍用犬をつれてきている形跡はない。シェパード種は嗅覚がすぐれて
いる点で警察犬にも採用されているが、当時は、今のように犬屋がなかったから輸入
されてもいない。もし本能寺自体に飼犬がいたとしても、これは日本犬であろう。そ
うなると、お人好しの忠実さしか取柄のない純日本犬のことだから、人間のお伴をし
て焼け死んだぐらいが落ちで、とても外部の偵察などはしてない。
 また信長は、鷹によって鳥をとるスポーツが好きだったから、鷹匠の名前は<信長
記>の、この時の一行には見えないが、一人ぐらいはついてきていたかもしれない。
だが、鷹や雉が空をとんで「ご注進」とやるのは、あれは「桃太郎」の譚である。
 するとである。眼で視えずに耳に入らず、臭いも嗅げない状態で、まさか手さぐり
に撫ぜもしない寄手の実体を、どうして森乱丸は判別したというのだろうか。つまり、
これは識別したというのではなく、当時の常識によって、もし答えたものなら勘だろ
う。
 なにしろ‥‥
 当時、関東派遣軍は滝川方面軍は上州厩橋。
 北陸方面軍の柴田勝家は富山魚津で攻戦中。
 中国方面軍の羽柴隊は備中高松で功囲中。
 四国派遣軍の丹羽隊は住吉浦から出発。
 指を追って数えていけば、どうしたって兵力を集結して、まだ進発していないのは
中国応援軍の明智隊しか残っていないということになる。
 だから引き算をして、そこで差引きして残ったのを、
「明智が手の者と見受けられ候」と答えた。
という「原本信長記」の一章ができ上るのである。
 そして、この言葉の用法は、今でも
「〜さんと見受けますが、違いますか」
といった具合に、必ず後にダブドがつき、?の疑問符をつけて、これは使用される。
 だから、<信長公記>の方でも、
「明智が者を見受けられ候も、しかと分別仕つれず」というニュアンスを残している。
 つまり「如何でございましょう」という疑問なのだから、これに対して信長自身も、
「そうか。そうであったのか」
などと肯定もしていなければ、
「まさか」と否定も、していない。
 ここの一節が(信長殺しは光秀か)どうかという分岐点になる微妙なところである。
 しかし、講談や、それに類似した娯楽読物では、「花は紅、柳は緑」といった発想
で、(信長殺害犯人は光秀)という純な決めつけ方で、判りやすくというか、読者に
反撥を持たせないように媚びてしまって、ここを脚色し、「おのれ、光秀め、よくも
大恩ある、この信長に対して」と、はったと戸外を睨みつけ「おのれ、無念残念、口
惜しや‥‥」と作っている。だが現実は、そうはゆかない。
 いくら二十年考えたって、そんな事には、なりはしない。いくら首をひねっても、
とても変なのである。

 今の時点では「光秀が信長を殺した」というのが、一般大衆に植えつけられてしま
った定説であり、常識であるが、この<信長公記>が筆写された寛永期というのは、
「明智系図」の説明でも触れたが、「光秀は信長殺しではない、寃罪であった」とい
うのが、その時代では常識であり、定説になりかけていたのだ。でなければ、何も玄
琳なんて坊主が、わざわざ大金をかけて、総桧造りの銭湯ぐらいの広さのある蒸風呂
を、山門の入口に建てて、参拝人に入浴させ、これを「明智風呂」と命名し、「何を
隠そう、私こそは」と、天一坊になって、儲けを企む筈はない。また、「明智系図」
だって、まさか素人の坊主の玄琳には作れっこないから(現代でも、泥棒のとってき
た品物を売り買いする商人を「故買屋」つまり「けいずや」というが、その専門であ
る系図屋の、源内のような専門技師に頼んで、相当の銀を払って何通も贋作してもら
って、これを諸方にばらまいたのか、理由を考えればわかる。

 そもそも坊主というものは、古来「坊主まる儲け」といわれるくらい、取るものは
とって懐へ入れても、出す物は紙一枚でも惜しむとされている。それなのに玄琳や、
その伜の密宗が、現在の観点からみれば、おかしいみたいに、「私こそは、謀叛人で
主殺しの、光秀の忘れ形見であります」と、わざわざ、そうでもないのに名乗りを上
げ、貰い溜めた銀を惜し気もなくばらまいたというのは、この寛永七、八年に、京で
は「光秀に贈位の沙汰が出て、その遺族には特別の沙汰」という評判が相当にあった
ものとみられる。
 今でも「ブラジルで死んだ一世の遺産」など新聞記事が出ると、「我こそ、その縁
者である」と無関係な者まで名乗り出るのと、これは同じケースのようだ。
 つまり、寛永期という17世紀は、
「光秀は信長殺しではなく、故人の供養料として、遺族には慰藉料として、莫大な恩
賞か、位階の褒美がいただける‥‥」
といったような風評のあった時代だったらしい。
 だから、「信長公記」を、売本にするため、せっせと筆写する人間も迷ってしまっ
て、是とも非とも書けぬままに、ここは徹底的にボカしてしまって逃げをうったのら
しい。
 でなければ、
「明智が(手の)者と見受けられ候」に対し、「是非に及ばず。と信長が上意候」と
いうのでは、ぜんぜん文章が繋らないのである。
 なぜ、(是非に及ばず)なのかも判らない。ふつう私共が、この文句を使うのは、
いよいよ万策尽きはてて、なんともならない最後の時のこれは終局語である。
 それなのに、この場合は、あべこべに冒頭に用いられている。
 だから、後年になると「明智と名を聞いた途端に、是非に及ばずと、すぐ観念して
しまうからには、信長には思いあたるものがあったのだろう」と、揣摩臆測されて、
後述するように、光秀怨恨説が四十近くも作られてしまう。
 しかし、本当のところは、「是非に及ばず」と信長が言った事にしてあるのは、筆
写者自身が、原作と世評の板挟みになってしまい、途方にくれて、自分自身が(是非
に及ばず)と、こう書いたものと、私は考えている。また。それしか想えようもない。


              森蘭丸は美少年か

青い実

「入ってもいいでしょうか」
 ノックもしたが、声も一緒にかけてきた。
 ここのルーム・ボーイである。朝の食事をワゴンで運んできたのらしい。仏桑華の
紅い花を一つ、いつも糊のきいた白い制服の胸に挟んでいるガルソウン(給仕)であ
る。おそらく、これが、この年頃の男の子にとって、他に優位を誇るたった一つのお
洒落らしく、欠かした事はない。勿論ホテルの裏庭には、この仏桑華がバラ畑みたい
に一年中咲き誇っているのだが、そんな事は私も口にはしていない。
「クーロン(九竜)、カムライン(錦田)、パパイヤ」
 誉めてもらいたいように、黄色い果物を、まず私に突き出すようにして見せた。そ
う言えば、最初に飲んだ朝の果汁もパパイヤだった。この辺りといっても、東ラマ海
峡の先の事だが、パパイヤは、Deep Bayに面したカムラインにしかない。傷
みやすい果物だし、熟しきってからもぐのだから、香港でも売ってはいない。
 だから、私にリザーブされた彼は、相当に辛苦して、この南国の果物を見つけてき
たのだろう。USドル三ドルをチップにやった。こっちの貨幣換算では二十ドルに近
い。彼は嬉しそうに白い糸切り歯を見せた。
 マカオのプリゾウレ(刑務所)は、ポリーレア(警官)と同じ食い物で内部の施設
もよいから、入りたがる中国人の難民が多くて困るそうだが、私が日々通勤している
ビブリオテーカ(図書館)は、裸の蛍光燈が二本ずつ天井へ走っているきりで、ろく
に閲覧者もないひんやりした建物である。それに暴動の時に割られた硝子がまだ入ら
ず、ボール紙ばりである。そこで羊皮紙に書いたものや、まるで図案みたいな華文字
の羅列に、すっかりへこたれている。
 昔好きだったパパイヤでも食べない事には、私はとても元気も出なかった。黒いま
んまるな艶のある種をスプーンで掬いとりながら、私は自分がこの給仕と同じ年頃の
日を想いだした。ヨコハマの山下桟橋から日本郵船の船でサイパンへ行き、ポナペか
ら赤道を越え、モンキーバナナと呼ぶ指くらいの細いのや、このパパイヤを何日も食
べて暮していた時分の事である。何度目かの自殺に躓いて、それで自分の整理がつか
ず、まるで躰を放り出すように、そんな、身投げするようなつもりで私は海を渡って
行った。 それなのに、リーフ(礁海)の海はまるで虹のように美しかった。食べず
に放っておかれる魚達も、手にしてみるだけなら黄と黒のだんだらや、透明に赤い線
を走らせていて、うすっぺらな肢体から骨格を透かせていた。とても綺麗だったと、
そんな事を久しぶりに考えだしていた。「ウップ」と呼ばれていた青い椰子の実の中
の、まるで精液にも似た香のする果汁の味も、舌こけの何処かに、雫が残っているよ
うな、そんな気がしてきた。だから、まるでゼラチンに丸く包まれたような、ぶよぶ
よ歯にあたるパパイヤの種に透明な外殻を、吸うようにして舐めるように舌の先で押
してみた。
 すると私は、イヴォンヌの柔らかな唇を、憶い出すともなく感じだしていた。あの
頃、私達は語り合っても、簡単な言葉しか通じないもどかしさに、いつも小鳥のよう
に嘴だけをこすりつけあっていた。といって、唇と唇を触れ、歯と歯をこするような
口づけではなかった。イヴォンヌが細く尖った舌の先に、このパパイヤのまんまるい
種を乗せて出すのを、私も舌を出してそっと受け取り、また此方から出すのを、彼女
が落さないようにして吸い取るのである。
 自分達では、可愛い紅雀にでもなったつもりでやっていたのだろう。だが振返って
想いだしてみると、長い舌をだらりと出して、腹這いになっての睦み合いなど、喘ぐ
夏の日の犬の戯れだったかもしれない。だが、タコ椰子の葉蔭で緑色に顔を翳らせな
がら、私は、それを愛だと想った。そして、二人の唇をゆききして、温かくなった円
形のパパイヤの種を、これが真実なんだ。と、それを真珠の粒のようにさえ思いつめ
もした。
 蒼い空に、白い雲が鎖のように繋がって漂っていた日、十六歳のイヴォンヌは、嫁
にいくのだと、灰色のペンキ塗りの船に乗せられて行ってしまった。が、汀の水中に
根を張ったマングローブ樹の濃緑の葉蔭で、イヴォンヌはサンパンに移る前に駆け寄
ってきて、侘んでいる私に、最後の愛をくれた。ずうっと口の中に入れていたのか、
そのパパイヤの種は、巴丹杏にも似たイヴォンヌの口臭がした。そして、いつもは舌
の先しか触れ合わせていなかったのに、その時は急いでいたし周章ててもいた。だか
ら私達の唇は重なりあった。いや、私の口の中へ彼女の唇が尖ったようにつきささっ
ていた。柔らかい。まるで絹のようだと、そんなことも感じた。サンパンは直線に皓
い水脈(みお)を、まるでロープのように曳いていった。灰色の船に近寄ってサンパ
ンが止まると、その純白のロープも波間にのまれて泡沫のように消えた。やがてサン
パンは、また翌日帰ってきた。だが、イヴォンヌは、もう戻ってこなかった。灰色の
船は陽を受けて紫色に、虹のような海を斜めに消え去って行った。私の舌にイヴォン
ヌが置いていった愛の形見は、融けてしまったのか、のみこんでしまったのか。いく
ら搾るように下顎を尖らせてみても、もう何処にもなかった。私はたしかに哭いてい
た。
 そして、その時から、私は愛を喪ってしまったらしい。
六歳の日に、光秀の舞台をみて、自分を喪ってしまった私が、赤道の彼方で、また愛
を見失ってしまったのだ。私はその後、二年ほどして日本へ戻ってきてからも、パパ
イヤの枯葉色をした果肉の中に、私の真実が、そっと、まるまって秘められてあるよ
うな、そんな気がしてならなかった。だから、千疋屋などで見かけると、矢も楯もた
まらずに求めてきた。だが熟しきったのを樹からもいだ実と、青い実を、むろで赤く
成熟させたのとは、果肉の味も、まるっきり違っていた。それに種を包んでいる円い、
ぷよぷよした透明体の感触が違っていた。青い侭でもがれて船で運ばれてきたパパイ
ヤは外殻だけは色づいて黄ばんでいても、それは病葉(わくらば)のように斑点も残
っていたし、種は、まだ成熟しきっていないまま、まるで剔出された魚の眼球のよう
に冷たく、そして硬かった。
 だから私は、そんなパパイヤの種に唇をふれるたび、愛だけでなく、真実までが、
イヴォンヌの柔らかな唇と一緒に、虹のように紅く青く白く光っていたリーフ(環礁)
の海から、うす紫色の船に乗せられ、遠くへ去って行ってしまった。と、そんな気が
した。諦めもしていた。
 そこで、やるせない侭に、真実を、パパイヤの実ではなく、過去という具象の中で、
せめてなんなりとも掴みだしたいと、このマカオまで来ているのである。それなのに、
まさか、ここで樹からもぎたての実にありつけるとは、話にはきいて、給仕に頼んで
はおいたが、とてもあてにもしてなかった。
 だから、パパイヤの果汁を、ジュースでもってこられた時も、それと気付かなかっ
たぐらいである。

 いや、それは嘘かもしれない。パパイヤが欲しくて言いつけたことは真実だが、こ
うして、この透明な種を瞶(みつ)め、そして舌の上へ乗せるまで、唇と歯で押しつ
ぶした瞬間までは、私は、イヴォンヌの事など憶い出してはいない。
 今になって、やっと、あの日の白い綿雲がつながった蒼空や、透明の七色の浅い礁
海を瞼へ蘇らせたのだ。だから、こんなに今になって、イヴォンヌの事を考えている
のに、亜麻色の髪の毛は記憶に残っていたが、どうしても他のところは、何も浮かん
ではこない。まるで正月の「福合せ」のおかめの顔の台紙みたいに、目も鼻も、唇の
形さえも、何もついていない。のっぺらぼうな追憶だ。かつて、「愛」だと想い詰め、
今でも「女を愛するのは、あの時で終わってしまったんだ」と自分で決めているのに、
何もかも憶い出せないというのは、そんなに、愛とは虚しいものなのだろうか。そし
て「真実」とも考えた舌と舌との触れ合いも、こんな儚いものなのだろうか。
 いくらイヴォンヌを偲ぼうとしても、幻影さえも浮かび出てこないもどかしさに、
その焦燥に、私はあせってしまった。匙をおいたまま目を瞑るしかなかった。
 すると、
「‥‥ナウン メリヨール(おいしくないですか?)」
 心配そうに声をかけられた。眼を開けて振返ると、スペアに持ってきたらしい茶褐
色に近い成実したパパイヤを、給仕は捧げるようにして私にみせようとしていた。U
Sドルのチップを受け取ったばかりなので、思いつめた顔をしていた。眼が、きっと
すわっていた。
(こりゃぁ、蘭丸だ)と、イヴォンヌの貌を、なんとかして呼び起こそうと瞼をつり
あげていた私は、ライト・グリンのタコ椰子の葉蔭の彼女のかわりに、絵本で見たこ
とのある小姓姿の森蘭丸を。白晢な給仕の真剣な表情に視てしまった。あの日のイヴ
ォンヌをのんでいった蒼い海原が、朱い炎に変化した。白い綿雲も、濛々と板戸の隙
から噴き出してくる白煙になっていた。
「そうなんだ。今の私にはもうイヴォンヌどころではない。唯あるのは本能寺だけな
んだ」とは想う。だがである。なにしろ、ここの図書館での日々は、なまやさしいも
のではない。日本語と、スペイン語の辞書は、南米渡航者もあるから刊行されている
が、ポルトガル語の字引なんてものはありゃあしない。
 だから判らない字句にあたると、それをスペイン語に直して、また日本語にすると
いう二段構えなので、心は焦っても仕事は思うように進まない。ちょっと誰かに聞け
ば、すぐ判りそうに想うことでも、なにしろ政庁内の図書館なので、上野や日比谷の
図書館みたいな事はない。時たま跫音がして振返っても、みな、すうっと通り抜ける
ように立ち去ってしまって、声をかける暇もない。それに、どれもこれも華文字に作
ってあるから、まるでサンスクリット語か、梵字でも眺めているような情けない心地
にさせられる。
 堪え性のない私は、当初の日は二時間でくたくたになった。眼鏡の鼻のところが痛
くなって眼の裏側が刺すように辛くなった。ずきずき疼き通しだった。

 マカオには、ホテルが九つある。だが、エストリル・ホテルあたりのように、階下
がカジノになって賭博場になっているところは、客も多いらしいが、私の泊っている
ホテルなどは、こぢんまりとして客も少ない。
 だから私は泊った次の日から、朝食だけは部屋に運ばせているのだが、さすがに今
朝は、スープは啜ったが、オートミルもムニエル・フィッシュも、ベーコン・エッグ
さえ手をつける気になれない。それなのに給仕は、ゴーダとクラフトのチーズの塊り
をもってきて、ひん曲がったような恰好をした薄刃の包丁で切って、喰わせようとす
る。
「ナウン・ケーロ・マイス・サーダ(いらないんだ、何にもいらん)」
 ナフキンをまるめてテーブルにつき出しても、絵本の蘭丸を連想させる給仕は、額
に前髪を垂らしながら
「ヴオ・セジヤ・アルモーソウ(本当に、朝食はもうよろしんですか)」
と念を押した。だから私は、パパイヤの皿だけを、
「アインダ・ナウン(これはまだだ)」と指さし、「ポール・アリイ(あっちへ)」
とサイド・テーブルの方へ運ばせた。
 給仕が皿を下げて出てゆくと、私は一人になった。そこで「アラジンの魔法のラン
プ」のように、半分に切ったパパイヤを飾ったまま、なんとかして、イヴォンヌを憶
い出してみようと、又そんな気になってしまって、意地をはるみたいに、頬杖をつき
ながら瞑想した。
 誰もいないのだから構やあしないと「イヴォンヌ」と名も呼んでみた。繰返して、
二度も三度も声を立てた。だが徒労だった。いくら呼んだところで、パパイヤから紫
色の煙が出て魔法使いが出てくるわけもなかったし、まして、イヴォンヌの幻が浮き
出る筈もなかった。ただ瞼にちらついてくるのは、相変わらず絵本の中の森蘭丸の白
い顔ばかりだった。
 さすがに私も自分で腹を立てた。愛を誓った女の貌のイメージを邪魔する蘭丸の実
像は、はたして、あの絵本にあるようなのが真実なのか。と、つい、むしゃくしゃし
て愚かしくも、そんな事を考えだした。癪にさわってと、言ってしまえば、それまで
だが、何かに突き掛かってゆかなければ、なんとも落着けない自分の感情を持て余し
たのだ。