1186 信長殺し、光秀ではない  5

奇怪

 攻め寄せてきたといわれる一万三千の丹波衆の軍勢もわけがわからないが、攻めら
れたと称せられる信長の方も、常識では、てんで理解に苦しむものである。
 これまでの小説、映画、テレビのどれをみても、白綸子か白絹の寝間着を着たまま
で、かなわぬまでも必死に敢闘精神を発揮し、やがて傷つき、力尽き、
「さらば、これまでである」と、信長は一室に入って、心静かに切腹するような具合
になっている。
 また、読む側も見る側も、これに対して何らの疑点を抱くこともなく。いと素直に、
そのままで受け取ってしまい、
「信長というのは強い男だった。だから、おめおめ座して敵の手に殺されるような事
はあるまい。かなわぬまでも弓を引き、槍をとって戦い、そして潔よい最後を遂げた
であろう」としか想わないようである。後で原文は引用するが、これは<信長公記>
の巻末の(その十五)に、
「信長公、本能寺にて御腹召され候こと」というタイトルで載っているものの、これ
皆焼き直しである。
 筆者の大田牛一というのは、尾張の人間で、信長の祐筆で、今でいえば、秘書課勤
務のような人間だった。そして、まさか彼が臆面もなく、あつかましくも書いたもの
とも想えないが、その第十三の巻頭に、
「本記事に、一点の虚飾なきを誓い、除く箇所もなく、また書き添える部分もない」
と、はっきり「不除有」「不添無」といった、ことわり書きさえつけられている。と、
大正十一年刊の<尾張の勤王>には明示されている。
(人間の社会では、尤もらしい事をいうやつは、あらかた嘘つきで腹黒い人間だし、
尤もらしい話こそ、それは、みな、デフォルメされた眉唾ものでしかない)
と、私なんかは、これまでの人間関係で蒙った被害体験からして、「巧言令色それ仁
すくなきかな」とは思う。だが、普通の人は疑うよりは信じる方がきわめて楽だし、
それに手軽だから、ついこれを、さも信頼できるもののような受取り方をしている。
ひどい人になると「大田牛一も信長の家臣の端くれだから、本能寺へ伴して行ってい
て、その最期まで身辺近くにあって、立ちあって書いた、これは記録ルポである」と、
その著書に説明しているのもある。びっくりさせられてしまう。
 そして現在のようなマイホーム時代になると、この本能寺の場面に、美濃御前まで
が現れてくる。テレビなどでは、お濃の方をつかまえて信長が「コイ、コイ」という。
だから、花札賭博でもやるのかと興味をもって視ていたら、どうやら、それは、呼び
名を知らずに間違えたらしく、本能寺では夫婦共働きの敢闘ぶりをみせ、死んでしま
う浪花節調になっていた。後述する話だが、その当時にあっては、最初に「信長殺し」
の真犯人として扱われていたのは、他ならぬ、この美濃御前こと奇蝶であったのであ
る。
 さて、これも後で詳しく説明するが、当時本能寺で包囲されていた信長の一行で、
生きて脱出した者は一人もいない。なにしろ、まる三日間にわたって百にも及ばぬ黒
焦げ焼死体を、血眼になって検屍しても、信長の遺体が判らず、大騒動したと<言経
卿記>や<兼見卿記>にもあるくらいだから、瞬間的に全部がふっ飛ぶか、すごい高
熱で白骨化されているのである。
 黒焦げや生焼け程度なら、仔細に検分すれば、鑑別もまだつく。腹を切ったり、小
姓が介錯をしているならば、どの遺体が信長かは、誰が見てもこれなら直ぐにも判っ
た筈である。
 それに、もし、それが普通の出火なら、周囲を囲んでいた一万三千が、すぐ消火に
築土をかけのぼって入り込んでいたであろう。なにしろ全部焼けてしまっては、まる
っきり元も子もないからである。それに、当時の事だから、消防自動車や消火栓はな
かったろうが、一町四方の本能寺の周囲は、2メートル幅の濠があって、連日の降雨
で溢れていて、防火用水には、こと欠かなかったはずである。
 それなのに火力が強く濠を越して四方の民家に類焼させている。といって、この場
合どう考えてみたところで、一万三千の寄手が、砦や城攻めではあるまいし、お寺に
すぎない本能寺を持て余して、包囲後三時間半もたってから火攻めにして片付ける筈
もない。今でいう「不審火」。どうしたって、これは寄手からすれば意外な火の筈で
ある。だったら寄手は驚いて飛び込んで、水をかけたり、筵で叩き消しにかかってい
るとみるのが、それこそ常識というものであろう。
<吉川太閤記>では、茶碗屋の阿福が、無事に茶碗を抱えて脱出してくるが、あれは
話を面白くするためのフィクションである。また、大田牛一が、このときルポライタ
ーとして同行していることなどもあり得ない。だいたい、有名人に報道部員やカメラ
マンが随行するのは、これは新聞や週刊誌ができてからのことで、三百八十五年前に
は瓦版といった木版の印刷物も、まだまだありはしなかったのである。

 もともと大田牛一は織田の臣である。
だから、信長に伴していた小姓達や、その馬の口取りの仲間の名ぐらいは知っていた
だろう。そこで、その連中の名を組み合わせて、(かくもあろう、こうもあろう)と
イマジネーションで書いたものが、「本能寺の情景画」であろう。後年、「講釈師、
見てきたような嘘をつき」という川柳が江戸中期に現れるが、大田牛一は、つまり、
その元祖のようなものだったらしい。
 そして、受取る側も、信長というイメージから、アッと云う間に吹っ飛んでしまっ
たのでは面白くもない。また猛火に呑みこまれ、腹を切る暇もなく、あっけない最期
をとげても、これまた、もの足らない。それではとても承知できなかったのであろう。
 だから、いわゆる死花を咲かせて、
「白綸子の寝間着の侭でも、ヒュウ、ヒュウと弓をひかせて、矢継ぎ早やに何人かの
敵を仕止めさせ、」そして、おまけとして「槍までふるって次々と敵を突きまくらせ」
それから肘を負傷してしまったから、「やむなく切腹」というように、納得しやすい
ように順々と話を追っていって、「人事を尽く天命を待つ」といった段取りにしたの
ではないだろうか。
 もちろん、それが事実であっても、なくても、‥‥その方が真実らしく、受入れや
すいから、迎合するために、そう書かれたものであろうし、また今日まで、如何にも
そうらしいと思われるから、誰も疑義を挟まず、その侭、<真実>に化転(げてん)
して伝わってきているような気がする。なにしろ「そうである」ことより、「そうだ
ったらしい」ほうが、どうも<真実>というものにされてしまう可能性が、現実的に
は、極めて多いようである。
 ついでに、大田牛一の素性も解明すると、これなども現在の<富山房の国史辞典>
などでは、はっきりと、
「尾張春日井郡安食村に生まれ、通称又助。近江の代官を勤め、のち秀吉に仕え、天
正十七年伏見の検地奉行。その功により、和泉守に任官。のち秀吉の側室松丸殿つき
となり、慶長十五年八月。八十四歳まで生存と<猪熊物語>の奥書にあり。<信長記
>の他、著書多し」ということになっている。
 ところが、木曽川を越えた岐阜には「印食上人」でも知られている「印食」という
のはあるが、国史辞典に明記されている「安食」などという地名は、愛知県春日井郡
はもとより、当時の尾張美濃の古書をみてもありはしない。つまり、これは「尾張万
歳」の発祥地とされているところの、「尾張春日井郡味鋺(あじま)村」の間違いで
ある。
 これは<山崎美成筆・民間時令>に、
「<無住道跡考>に曰く。正応五年(1292)頃より、万歳楽と号し、正月の初め
に、寿(ことほ)ぎの謡をうなり、家家にて唱わしむ」
 と出ているような、関西の唱門師と同じ様な集団結成である。1738年の元文三
年に、尾張藩の郡代役所へ提出されている、<尾張万歳由緒書上げ書>にも、
「あじま村のものは、往古より陰陽師を代々相いつとめ、村内に頭分となる家名十六
人も、今これあり」とある村なのである。
 つまり大田牛一というのは、尾張万歳を神前に供える陰陽師の出身者である。とい
うことは、信長の時代は、仏を信じる者と神信心の者が、かっきり二つに分かれてい
て、両者の間は、全く仇敵同志だったから、牛一のように神徒に属する者は、主取り
をするのでも限定されていたという事である。
 そして、こうした地域は、別所とか、東海では院内(いんだい)といった名で呼ば
れていた。
 もちろん、織田信長の出身も、<荘園志料>という古文献によれば、その中に集録
されている<妙法院文書>によれば、
「越前国の八田別所」という文字が康永三年七月の記録として入っていて、その附記
に、「八田別所は、越前丹生郡の織田庄の内。この地より、尾州織田家は発祥せり」
とある。
 この年号は南朝のもので、北朝の興国三年つまり1242年にあたっている。
 なぜ南朝年号がついているかというと、これは妙法院という仏教徒側の記録であっ
て、八田別所の神徒である異教徒を、加賀平泉寺の僧侶で、良寛禅師というのが、こ
れを「はち開き」と称えられる改宗をさせ、仏徒に転向させたという功名帖。つまり
彼等の勝利の記録であるからに違いない。
 おそらく信長の先祖の織田の庄の神徒は、良寛坊主が国家権力を背景に、改宗を迫
ってきた時点において、越前から尾張へ集団で逃亡してきたらしいと想われる。とい
うのは、
<群書類従>に収録されている大江匡房のものにも、
「東国美濃参河遠江の神を祀る者は、徒党を組み豪貴をなす」と出ているくらいであ
る。だから美濃と参河に挟まれた尾張だって、大いに徒党をつくって、豪貴な生活を
していた筈と想像ができる。
 だから、今でも信長の出た名古屋市には、八田、八坂の地名が、そのまま各地に残
っているし、かの有名な<安国寺文書>にも、今名古屋駅のある中村の出身者の木下
藤吉郎を、毛利家に対して、「さりとて藤吉郎は、八の者にて候」といった具合に扱
っている。そして名古屋市自身が、その八の字を○に入れて、郷土の生んだ英雄秀吉
を偲んで市章にして、現在も用いている。昔の旗印である。
 さて、信長の父の織田信秀のいた愛知県の名鉄線の勝幡(しょうはた)の城跡には、
今は何も残っていないが、千葉県の香取郡小見川へ、
「織田の幡」をもって分離したと伝承される織幡(おりはた)地方には、現在も遺物
は残っている。
(斎藤道三に追われた土岐頼芸も、織田信秀を頼って美濃奪還に攻め込んで敗れた後、
千葉の親類の許へ行き、そこの城内で眼を患って治療していた記録があるが、美濃や
尾張と千葉は、戦国期には相当に行き来が、密接にあったらしい。
 さて、織幡は、古書によると「別所千軒」という異名があるくらい昔は賑やかな土
地だったということで、その別所の白山権現の社殿には、高さ三十糎あまりの白山神
の神像が今でも祀られている。つまり「八の幡」を祀る八幡神社と、加賀の白山信仰
の白山神社が、当時はこれら神徒側の者の信仰の二大神柱であったようである。


彦左

 大田牛一の<信長公記>を「あれはあやしい」と筆誅を加えた者もいないではない。
 信長の死後四十年たった元和八年四月十一日に、原文のままで紹介すれば、
「さてまた<信長記>を見るに、偽り多し。三つに一つは事実だか、あとの二つは似
たような事はあったが、まあ出鱈目か。根も葉もない嘘っぱちである」と、その著の
<三河物語>で論破しているのは、大久保彦左衛門忠教(ただのり)で、ほぼ信長と
は同時代の彼は、「誤りだらけだ」とその具体例まであげているが、さて「信長殺し
は、誰だった」とまでは書いていない。だから、この点においても彦左衛門の主人の
徳川家康が疑惑に包まれてもくる事になる。
 しかしである。<信長記>という本は、織田信長の晴れ舞台である「桶狭間合戦」
の記事さえ、あろう事か永禄三年なのに、天文二十一年と、七年も間違える程度であ
るし、この信長の対今川義元合戦の有様も、現在では調べもせず、鵜呑みで、そのま
ま踏襲され信じられているが、当時の彦左にすれば、まこと噴飯ものの「桶狭間合戦」
であったろう。
 だから、<三河物語>を手掛かりにして、どこの三分の一が正確で、あとは出鱈目
なのかと、解明する人がいてもよい筈なのだが、なにしろ彦左衛門は、後に「一心太
助」という講談に引張りだされ、副主人公にされているから、ともすれば歴史と講談
を混同する傾向上、タライに乗って登城するような人間の書いたものはと、てんで顧
られていない。
 それに変な話だが、「天下の御意見番、大久保彦左衛門」という講談は、徳川家の
御政道讃美のPRとして、江戸期から辻講釈に出ていたのに、肝心な<信長記>の方
は、ずっと年代が遅れて、明治四十四年になって初めて<史籍集覧>の第十九集に収
録されて、一般には公開されたのである。つまり江戸期においては発禁扱いの<お止
め本>の流通禁止のものだったから、その<史籍集覧>の解説にも、
「これ町田久成秘蔵に係る寛永期の珍写本にして、世にも稀らし」と書かれている。、
<信長記>は、この町田氏が秘かに隠匿していた一揃の他には、内閣文庫の寛延三年
に筆写されたという<原本信長記>と、やはり旧前田侯爵家で秘密に蔵われていた一
部きりの古写本の三点しか、現在には伝わっていない。
 もちろん、この他に(總見寺本)で俗に「織田軍記」と言われるのや、類似した軍
談めいたものも有るにはある。
 しかし、明治四十四年刊の、<史籍雑纂>第三巻に納められている亨保年間に発表
された建部賢明の、
<大系図評判遮中抄>によると、
「寛文より元禄にかけて、近江の百姓の倅にて源内なる者あり、偽って『近江右衛門
義綱』と詐称し、米塩の資を得るため系図偽作を業となす。また、この者は戦国期に
材をとりて、古書にみせての贋作書も多くかき、いま世人これを知らずに真実として
扱いているもの、<中古国家治乱記><異本難波戦記><浅井三代記><武家盛衰記
><三河後風土記>曰く<XX軍記>など、その後、枚挙にいとまなし。<北越軍談
>のごときも、源内の偽書を引用し、それを論証とするは、これ愚なり。そもそも、
この源内というは、青蓮院の尊純親王に稚児奉公中、銀製仏具を窃取し放逐されし後
も、その盗癖生涯やまずして云々」とある。
 青蓮院とは昨年重要文化財を執事の役僧が、無断で盗み売りしたが無罪になったと
いうので、有名になった京都の寺である。
 さて、この「贋本つくり」の天才ともいうべき源内は、元禄戌辰、つまり1688
年まで生きていて、書きまくったと伝わる。すると<町田本信長記>として伝わる一
部が、寛永期といえば、それは彼が贋作生活を始めた二十六歳頃までの年号にあたる
し、町田侯爵家本の写本も元禄期のものである。
<原本信長記>のごときも、それより後期の写本である。これぞ、まさしく源内の筆
写でないとは、誰が言い切れるだろう。(なにしろ、こうした本は印刷されたのでは
なく、一冊ずつ手書きされて造本されたものである)
 もしも大田牛一自身のものならば、なんぼなんでも、大久保彦左に指摘されるよう
に、三つに一つしか事実に符合せず、誤りだらけというのはひどすぎるから、彦左が
晩年に入手して読んだものは、事によったら源内がリライトした海賊版でなかったか、
という疑念さえも生じてくる。もちろん源内も商売として盛大にやっているからには、
源内グループというライターを多く抱えていて、彼等に書き写しを次々とやらせてい
たのであろう。
 そうなると、今日伝わっている<信長記>は、どれも三種とも、これは贋造物とい
う事になってきて、真実性はもてなくなってくる。
 といっても、今日、信長を解明したり、その死因を追求するとなると、残念ながら、
これしか日本には、他に手掛かりはないのである。
 だから、根本史料と目されているこの<信長公記>の肝心な部分を、ややくどいが、
どうしても原文そのままで、ここで引き写しにして、まず、それに基いて解明するし
か、「信長殺し」の緒口は解いてゆきようもないのであろう。短いものだから全文を、
そのままで転記することにする。


「信長公、本能寺にて御腹を召され候こと」

六月朔日、夜にいり、老の山(大江山)へ登り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国
への道なり。左へ下れば京へ出ずる道なり。
 ここを左へ下り、桂川をうちこえ、ようやく夜も明け方に、まかりなり候。
 すでに信長公御座所の本能寺を取り巻きの勢衆、五方より乱れ入るなり。
 信長も、御小姓も、
「当座の喧嘩を、下々の者共が、しでかし候や」と、思召され候のところ、一向に、
そうではなく、彼らは、ときの声をはりあげ、御殿へ鉄砲を打ち入れ候。
「これは謀反か。如何なる者の企てか」
 と御諚があったところ、森乱丸が申すようには、
「『明智が者』と見え申し候」
 と言上したところ、
「‥‥是非に及ばず」との上意に候。
 隙もなく直ちに御殿へ乗り入れ、面御堂(めんごどう)の御番衆も御殿へ一手にな
られ候て、御馬屋より、矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正林、村田吉五が切って出て、
討死。
 この外、厩仲間衆の藤九郎、藤八、岩新六、彦一、弥六、熊、小駒若、虎若、その
倅の小虎若を初めとし二十四人が、そろって御馬屋にて討死。
御殿の内にて討死をされた衆。
森乱丸、森力丸、森坊丸、の三兄弟。
小河愛平、高橋虎松、金森義入。
魚住藤七、武田喜太郎、大塚又一郎
菅屋角蔵、狩野又九郎、蒲田余五郎
今川孫二郎、落合小八郎、伊藤彦作
久々利亀、種田亀、針阿弥、飯河宮松
山口弥太郎、祖父江孫、柏原鍋兄弟
平尾久助、大塚孫三、湯浅甚介、小倉松寿
らの御小姓掛かり合い、懸り合い討死候なり。
 この内、湯浅、小倉の両人は、町の宿にてこの由を承りて、敵の中に交じり入り、
本能寺へ駈け込みて討死のもの。
 お台所口にては、
 高橋虎松が暫く支え合せ、比類なき働きなり。
 信長、初めには、御弓をとりあい、二、三つ遊ばし候えば、いずれも時刻到来候て、
御弓の絃が切れ、その後、御槍にてお戦いなされ、御肘に槍疵をこうむられて引き退
がられると、
「女は苦しからず、急ぎ、まかり出よ」
と、これまで御傍にいた女共の附き添っていた者共に仰せられ、追い出され、
「御姿を、敵にお見せあるまじき」
と、思召し候にてか。もはや、すでに火をかけて、次第に焼けて来たり候ゆえ、
 信長はそのまま殿中の奥深くへ入らせたまい、内側より、御納戸口をたてて閉め、
 それにて無情にも、御腹を召され。

 これだけが問題になる原文の全貌である。最後の「御腹を召され‥‥」などという
結び方など迫真の表現で、疑う余地もないような如実的描写で締めくくられている。
 だから、これが織田信長の最後を伝えるところの、唯一無二の史料として扱われ、
徳川方の史料であるところの<当代記>六月二日の条も、殆ど、これと同一内容のも
のが納めて入っている。ただ<原本信長記>の方だけは、「明智が者と、見受けられ」
が「明智が手の者」となっている。これも同一視されやすいが、いざ解明にあたると、
これはこれで相当な差異が、当時の用兵上にはある。勿論これは対比してあとで解明
する。
 さて、種々疑わしい点は多いにしろ、
<信長殺しは光秀ではない>という事を引き出すのには、何といっても、解明するに
は、国内ではこれしか伝承されている資料はないのである。
 もちろん、歴史家が説くような「大田和泉守牛一」の著述であるとか、よって「紛
うことなき真実」といった意見には、二十余年これ一筋に打ち込んできた私は、とっ
てもついてゆけないし賛成もしかねる。
 私などが思うには、当初は大田牛一の書いたものであったにしろ、それが源内グル
ープの筆耕屋の手にかかって一冊一冊が手写しされているうち、時代の影響でリライ
トされ続け変化したものとみる。たとえば<兵法雄鑑><甲陽軍鑑>の手書き写本に
しろ、これらはおそらく勉学のための写本と考えられるが、そうしたものでさえ、写
している間に誤ってくるとみえ、同一のものは全然二つとない。
 まして売本の筆耕ときたら、どこまで忠実に書き写したか疑問である。といって<
信長公記>も江戸期の筆写だからと、それと同一視するのではないが、なにしろリコ
ピーのなかった頃の事である。だから、これが不完全な写本であるという点において
は、異見をはさむ人もでないだろうと思う。
 それと、もう一つ。源内の贋造本として、江戸中期に既に書名を並べられてるもの
と、この<信長公記>の文章や用字法が相似している疑問である。「時代時代でそう
いうものは同一であっても不思議ではない」と説く人もあるが、そんな事を言ったら
昭和期の文学などは、みな同一文体でなくてはならない。だが、それでは「文学全集」
など出しようもない。「文体は、その人間そのものだ」と考えている私などには承服
できない。とはいえ、定説化してしまっている<信長公記>という<真実>を冠せら
れた古文献に挑むのは、それは、やや冒涜かもしれない。だがである。
 (アポストロ(使徒))パウロは叫んだそうである。
「オムニヤブロバーデエト、クオツドボスムエスト、デネデー(あらゆるものを探し
出し、その信じうるものをこそ、見つけよ)」と。
 これは<使徒行伝>のテサロニカ第五章のたしか第二十節か二十一節の言葉である。
 よし、背徳であるにしても、私の試みを、必ずや、主は赦し賜うであろう。と想う
ことにする。

 さて、である。この<信長公記>の引用した一章。
 まず最初に、第一行から七行目までを、繰り返して読んでみると、ここに何んとも
判読しにくいところがある。この為に原文は改行していないのを、わざと三つにわけ
たのであるが、これを順を追うてA、B、Cにしてみると、こういう内容らしい。
(Aの行)は、六月一日の夜という時日の設定と、大江山の老の坂からのコースの説
明である。今日のガイド・ブックと同じらしい。
(Bの行)は、原文をパターンすると、
「ここを左へ下り、桂川をうちこえ、ようやく夜も明け方に、まかりなり候」とあっ
て、この桂川をわたるコースはわかるが、夜も明け方という午前四時に<夜>自体が
まかりなったのか、誰かが歩いてきて、まかりなったのか、ここのところがわからな
い。主格が欠けているためである。といって、夜明けがまかりなって、朝に近づいた
というきりではわからないから、それを誰か判らないが、まずXと擬人化して仮定す
れば、(A+B)は、
「X氏らは六月一日の夜になってから、老いの山へ登って、摂津へのコースをとらず、
左へおりる京都コースをとった。桂川を渡ったら、夜も明け方近くなってきた」とい
うのだ。
 ところが、
 (Cの行)になると、AやBの平板な記述とは、全く相違して、俄然、
「すでに」という過去形を頭にのせて、
「信長公御座所の本能寺を取り巻きの衆」が、
その本能寺へ五ヶ所から「乱れ入るなり」という行動の描写に、支配されているので
ある。
 しかも、
「乱れ入ったり」なら主観であるが、
「乱れ入るなり」では客観である。
 こうなると(A+B)までにおいては、主格であったX氏らは(C)の行に入ると、
単なる傍観者でしか、ならなくなる。
「‥‥桂川を越えて京へ入ったら(そこには兵が充満していて)既に(もはや)本能
寺は包囲されていた」
 ということになり、そして、その後が、「その本能寺を取り巻いていた衆が、X氏
らが到着した時には、既に五方より『ワアッとばかり』乱入していたあとだった」
 これがCである。つまり(AとB)には、X氏らが主格であったものが、(C)に
なると、(既に取巻いていて本能寺へ乱入した衆)とよぶY集団が主格として、ここ
に登場してくる。つまり両者は全く別個のようである。
 だから六月一日の夜半に行動を起し、本能寺へ向かった集団が、この描写によれば、
(主となっているX)と、(実行部隊のY)との二つに分かれている。そしてXとY
との関連があったのか、なかったのかという点になると、
「取り巻きの者」なら、Xの指揮下とも解釈できるが、「取巻きの衆」では、まるっ
きり同格で、これは指揮下の勢力ではない。
 これは例えば、「‥‥おい、皆の衆」という三橋美智也の唄にもあるように、衆と
いうのは、その家来や、使用人をさすものではない。ほぼ同格の他人である。
 だから、ここまでを繰返して読むと、
「桂川を渡って入洛したXと、本能寺を既に襲っていたYとは、まるっきり無関係な
存在であったこと」が、この冒頭に、既に匂わせて書かれているのである。とも読む
ことができる。
 つまり、何処の箇所にも「桂川を渡った部隊が、そこから本能寺へ乱れ入った」と
は出ていないし、XがYらに逢って、
「早く到着して、よくぞやった。御苦労様である」などとは言っていないからである。
 だから本能寺襲撃の謎。信長殺しの加害者が誰かということは、つまり、このXと
Yの解明に掛っているのではなかろうか、とさえ想えてしまう。

 それなのに、この肝心な事を<信長公記>では、信長をして「Who are it」
(誰なのか)と言わせているだけなのだ。
 彼自身の口からは、何も背定も確認もさせていない。それに対して、また森蘭丸も、
これも漠然と、<原本信長記>の方では「(明智が手の者)と見受けられる」
としか記述されていないのである。
 この「‥‥の手の者」というのは、後年の江戸期になっても「何々御差配の手の者」
といえば、その指揮下にあるという意味だけであって、直属ではないことになってい
る。だから、奉行役所人ではない民間の岡っぴきなどは、正式の給与形態をもって奉
公している訳ではないので、これを「お手先き」といったものである。つまり、その
同心の下僕や小者とは違って、家事の手伝いや庭掃除などはしない。ただ役目の上で
の繋りだけだ、と断っているのである。
 だから、
(明智が者)といえば、これは明智日向守光秀を寄騎親として、その指揮下に入って
いた寄騎衆のことであって、これは、その直属を指すとは限らないようである。
 つまり、信長の軍団編成制にあっては、これは安土城の最高統帥部から「明智が手
につけ」と命ぜられていた、丹後宮津の細川藤孝や大和郡山の筒井順慶、摂津の高山
重友、中川瀬兵衛らである。
 地域ブロックの単位編成だった信長の兵制は、その天正九年二月二十八日や翌十年
の京都での馬揃えの観兵式でもわかるように、これは判然としていたものである。
 いわば、これは近世の「方面指令軍」の制度である。だから、蘭丸が、
「明智が‥‥」と個人名を言わずに、現今のように、
「あッ、関東軍」とか「近畿管区司令軍」と報告していたら、すっかり感じは変って
くる。
 しかし、そうなれば、<信長公記>の後に続く、
(「‥‥是非に及ばず」との上意に候)という、まことに簡単な場景描写では納まら
なくなる。
 なにしろ普通の場合でも
「何々と見え申します」といえば、
「そうか、間違いないか」ぐらいな事はいうものである。まして蘭丸の報告では、
「明智が者」または「明智が手の者」と言っているだけである。けっして<信長公記
>でも、
「‥‥明智光秀の謀叛」などと、そのものずばりなことは言っていないのである。
 また信長自身も聞き返してもいない。
 明智の家来にしろ、その寄騎の者にしろ、そこに指揮系統を明白にするために光秀
自身の出馬か、代理を現わす馬印が出ないことには、これは明智光秀の行為とは認め
られないからである。
 現行法によっても、たとえば交通事故を起した車体に、その所属会社の代表又はそ
れに代る者が乗っていない限りは、事故責任は、その車の運転手だけに止まり、損害
補償の枠が、その所属会社まで拡大され摘要されるに到ったのは、きわめて最近の判
例である。
 だから、385年前においては、家来や寄騎が企てた事に対し、その主人や寄親は、
都合のよい時には、さも自分が指図をしたように顔を出しても、都合の悪いときは
「一向に相存ぜず」と、頬かむりをして通したものであるし、また、それで通ってい
た。
 元亀元年に木下籐吉郎が横山城の城代をしていた頃、その寄騎に江州蒲の穂の城主
堀二郎及び、その倅の樋口之介というのがいた。
 彼等の守っていた箇所へ浅井勢が攻め込んできた時、藤吉郎は横山城を逆封鎖され
ていたから、百騎ばかりの精兵だけを率いて応援に駆けつけた。ところが当時、寄親
の木下籐吉郎は江州長浜五万貫なのに、土地にいついたまま信長方についた堀家の方
は、藤吉郎の倍の十万貫の身代だったから、つい見下げていて、
「‥‥五万貫武者の藤吉は、たった一束の兵をつれ、寄親じゃからと、大きな顔をし
くさって、やってきおった」
 と耳に聞こえるように、わざと雑言をした。
 それでなくとも、やっと江州長浜城主に成り上がったとはいえ、コンプレックスの
塊のような籐吉郎にとって、これは聞き捨てならぬ一言だったから、すぐさま種々の
でっち上げをして、これを自分直接にはきり出せぬから他の者の口を使い、さも尤も
らしく
「近江蒲の穂の堀二郎父子は、浅井久政と通じ、お味方に仇をなす裏切り者」と信長
に直訴をさせた。
 この場合、寄騎の堀二郎が敵と内通していることが発見したのなら、その直属の寄
親の木下藤吉郎も、「監督不行届」のかどによって謹責処分されて、しかるべきなの
に、結果は反対である。

「寄騎の悪行には、さぞ手をやき、迷惑したであろう」
と没収した蒲の穂の十万貫を、そっくり信長は、慰籍料として籐吉郎に与えている。
 だから木下藤吉郎たる者、私憤を晴らした上に、所得倍増どころか三倍になってし
まったという話が<当代記>や<信長公記>に出ている。
 つまり「木下の手の者の堀二郎」が内通しても、責任者たる木下藤吉郎には何の咎
もなく、かえって加増までされている時代なのだから、
「明智が手の者」とか「明智が者」と聞いただけで、「明智の手の者の誰か。家来の
何者か」とも確認もせず、さっさと諦めてしまうのは訝しい。ここに無理があり、謎
がある。