1184 信長殺し、光秀ではない  3

二君

 永禄十一年十月十八日、織田信長に擁せられて上洛した足利義昭は、十五代足利将
軍の宣下を受けた。だが室町御所以来の奉公衆の細川藤賢、上野信恵、一色藤長、細
川藤孝、三淵藤英、上野秀政、和田惟政といった連中が頑張っていたから、
<公卿補任記>などをみると、信長を斯波管領家の跡目に推す内書には
「なほ藤孝、惟政に申す可きなり」と「申次(もうしつぎ)」と呼ばれた最高位の、
官房長官名には、光秀などは、まだ入ってない
 骨折って織田家に橋渡しをしたとはいえ、金の力でのし上がってきた光秀は、歴々
の譜代の奉公衆に比べれば、まだ、まったくの新参なのである。
 翌年正月五日に、三好三人衆や美濃の残党に、義昭が本圀寺で囲まれた時、光秀も
防戦したことが、
<御湯殿上日記>に出てくるくらいの身分なのである。
 ところが三年後の元亀二年七月五日になると、
<曇華院文書(どげいんもんじょ)>に、はっきりと、
「同院の領地である山城国の大住の荘に関する信長よりの、室町御所への抗議書の名
宛人は、上野秀政、明智光秀」となって現われてくる。
 つまり、この頃になって光秀は、その財力にものを言わせて、足利義昭の申次衆と
して、上野と同格にまで昇進しているのである。
 翌年九月二十四日には、足利幕府奉行衆の一員として、明智光秀は兵千を率いて、
今の大坂の高槻城へ入ったと、その出陣ぶりが<言継卿記>には出ている。なお、
<年代記抄節>の同年四月の条には、これもはっきりと、
「河内出兵の織田方へ加勢のために出陣した公方(くぼう)衆の一人」として、光秀
の名前が見えている。
 ところがである。
<毛利家文書>に入っている元亀元年五月四日付の一色藤長から波多野秀治宛書状に
は、
「朝倉征伐に出陣した信長は、秀吉、光秀を金ヶ崎に残して引き揚げてきた」と出て
いる。
 そして、同年九月の志賀山の宇佐城が落ちたとき、光秀は、柴田勝家と共に、京の
二条城防衛に二十一日夜、摂津から帰洛している。もちろん、この時は、十五代将軍
家の足利義昭も信長に合力して出陣している。
 高柳光寿氏の<明智光秀>では、この時点では「光秀は義昭と信長の双方から扶持
を貰って、二君に仕えていたもの」と推定されている。江戸中期以降、「貞婦は二夫
にまみえず、忠臣は二君に仕えず」という言葉が大陸から持ち込まれ、そういう観念
からゆくと判らないが、私はこれを問屋の店員が百貨店の売り場に勤務しているよう
な出向社員と考えたい。なにしろ足利将軍家の仕えていれば直臣(じき)であって、
信長とも同輩の立場でいられる。それが信長の臣となってしまっては陪臣(また)に
落ちてしまう。この差異は、江戸期に入っても、河内山宗俊のせりふではないが、
「こうみえたって、お直参(じき)だぜ」といって雲州松江侯の家老を堂々と、玄関
先で脅かせるぐらいの箔があったのである。
 さて、信長は、近畿地方をば手馴ずけるために、今の大阪西成区にあたる当時の摂
津中島城主へ、於市御前の妹にあたる於犬(おいぬ)を嫁がせていた。
 この男は、初めは喜んで信長の一字を貰って「細川信良」といっていたが、やはり
将軍の直臣がよいとみえ、いつか足利義昭側になり、右京太夫の官位を貰うと、昭の
字を頂いて「細川昭元」と改名してしまった。
 これでは頼りにならないと、信長が目をつけ秘かに身代りにスカウトしようと、手
心を加えていたのが、光秀ではなかったかろうか。と私は考えたい。
 公然と、光秀が信長の為に奉公しだしたのは、こののち天正元年二月に足利義昭が
信長に宣戦布告し、西近江守護代の三井寺の光浄院暹慶(せんけい)に兵を上げさせ
た時である。
<原本信長記>によれば、二月二十四日に石山の砦を攻め、二十六日には陥落させ、
二十九日には今堅田を、明智光秀、柴田勝家、丹羽長秀、蜂屋頼隆の四軍に攻撃させ
たところ、光秀の攻め口から破って、ついに光浄院を降伏させたとある。
 この光浄院が、のちの山岡玉林房景之(かげゆき)であり、その長子の山岡景隆が、
天正十年六月二日の午後四時に、瀬田の城主として、光秀が安土へ渡れぬようにと瀬
田の大橋を焼き払ってしまう男なのである。
 簡単に考えると、「天正元年の仇を十年後に討った」ということになるが、背後関
係を調べると、そんな、なまやさしいものではない。これは後の話だが、いったい光
秀という男はどんな人間だったのだろうか。現代でも、頭が良いということと、賢い
というのは違うが、どうも彼も、頭脳の回転は早かったが世俗的には、あまり利口だ
ったとは考えられない。<多聞院日記>の天正二年の記載に、
「大和多聞城へ入った光秀が、同じ奈良の大乗院尋憲に命じて、寺宝になっていた法
性五郎の長太刀の差出しを命じた。見せてほしいという指図だが、取り上げられるも
のと覚悟して出したところ、後になって礼をいって返してよこした。意外さに、戻さ
れた側はびっくり仰天した」とある。
 つまり、国家権力を振舞わせる立場にある者としては、愚直な振舞いであると呆れ
てしまったというのである。
 正直というのは他人に利用価値のあるモラルである。
 だから光秀は、死後ずうっと、利用されっぱなしの侭である。「正直者は損をする」
という江戸期の言葉は、光秀から起きたような気がしてならないこともある。なにし
ろ、その為、どこを探しても<信長殺しは光秀ではない>に役立つようなものは見つ
かりはしないのだ。ただ、そんな時、ふと想い出てきては、おおいに元気づけをして
くれるのは、昔聞いた事のあるモラエスが洩らしたという言葉である。だから本国か
ら、その全集を取り寄せてもらった。
 英文の方も揃えてみた。だが日本の全集だと書簡や日記の類まで再録されているが、
あちらでは、そこまで丹念には集めていない。たまたまポルトガル駐日大使館に、文
学の好きな若い参事官がきていたから、本国へ、色々照会してもらった。私も四国へ
一月ほど行って調べるだけは調べに回ってみた。解明にかかって十年目ぐらいだから、
昭和三十年頃の事であろう。

 それから四年ほどして、戦時中、東洋堂で刊行されていた<キリシタン研究>の三
集が、米軍爆撃で消滅していたのを、吉川弘文館から、改めて再刊される事になった。
 その中の<岡田章雄・布教機関の分布について>という研究論文をみると、<天正
十六年(1588)フロイス報告書>と<バリニヤニ目録>並びに<天正九年ガスパ
ル・クエリヨ書簡>を引例して、その128頁に、
「安土のセミナリヨ神学校建築に使って残った木材を、オルガンチノが京へ運び四条
の坊門の姥柳(うばやなぎ)町つまり現在の蛸薬師通り室町西入るの地点に、三階建
の礼拝堂と住居を作った。そして、この建物は四条西洞院にあった本能寺とは、一町
とは離れていなかったから、1582年つまり天正十年六月二日の暴動の時は、もう
少しで類焼の厄にあうところであった」と、当時の、
「ドチリナベル・ダデイラ(真の教えの会堂)」とよばれていた礼拝堂の事を説明し
ている個所が見つかった。
 この建物は、<狩野元秀の洛中洛外名所図扇面画>にも残っている。だから真実あ
ったものと断定できる。疑いを挟む余地はない。なお、
<天正十一年バリヤニ摘要録>によれば、
「ここにはポルトガルパードレ(司祭)一名、イルマン(使僧)一名が常駐している
他に、神学校寄宿のコレジョ(屯所)として日本人神学生十一、二名も宿泊していた」
とも明記されている。

 つまり、本能寺の変があった時に、信長が死んだ現場から一町以内の地点に、三階
建ての礼拝堂があって、そこにポルトガル人二名と十余名の日本人神学生が寝泊りし
ていたという事実である。
 しかも、危うく類焼しかけた程だったから、いくら六月二日の夜明けから午前八時
近くまでの椿事とはいえ、彼らは朝寝坊などはしていなかったろうということ。しか
も、この時代に、城は別にして三階建ては珍しいから、彼らは高見の見物というか、
見晴らしのきく所から、つぶさに実状を観察しているに違いないという結論も、これ
から引き出せない事はない。
 ということは、とりもなおさず、本能寺事件に対しては、はっきりした目撃者がい
たという<真実>になってくる。
 そして十余名の日本人神学生と一人の使僧の方は、その後の足取りはつかめないが、
ポルトガル人の司祭の方はマカオへ戻っている。これはその翌年の、
<1583年における日本プロビンシヤ及び、その統括する事項>の<アレッサンド
ロ・バリヤニ報告書>にも出ているし、それから九年後の、
<1592年11月現在・イエズス教会の日本管区における教堂、駐在所の目録。並
にそこに居住するパードレ(師父)、イルマン(使僧)の異動名簿>においても、こ
れは裏書きをされている。
 こうなると、「信長殺しは誰なのか」を実地に見聞した目撃者が「マカオへ行った」
というT・Hのモラエス説は、全集本に載っていなくても、そうまんざら頭ごなしに
否定もできはしない。
 なにしろ当時のマカオというのは、今のようにカジノで知られたギャンブルの名所
ではなく、そこは神の名による都市。つまり東洋一の神学校をもっていたからである。
<1606年度耶蘇会(天主教派)年報>にも、「プラチェンカ出身のザカリヤス・
ワリニヤノ司祭は、日本からマカオへ戻って神学校を教え、そして1600年1月2
日に昇天されるまで、彼はよき神のオブレーロス(司牧者)であった」
 とあるように、天文十二年(1543)八月二十五日。種子島へポルトガル船が寄
って、鉄砲を伝来させた信長の十一歳の頃から、マカオは、東洋における神の福音の
都市であると共に、その十三年後からは、火薬という新兵器を輸出する死の商人の港
とも変貌していた。


プロ

 日本語の資料によると、この当時は、白人はみな、南蛮人、彼らの持ってきた神の
教えは、当今の字なら「吉利支丹」その頃の当て字ならば「貴理師端」と概念的に一
括されている。
 だが、どうもそんな単純なものではなかったらしい。
 というのも鉄砲伝来の二十三年前の1517年、ローマ法皇レオ十世が、サン・ピ
エトロ寺院の建築費用捻出のため、免罪符を売り出した。今でいえば宝くじである。
しかし、くじの場合はたとえ一等が一千万円であっても当たりは一枚きりで、殆どは
求めた人々の百円札が紙屑にされてしまう。また、これが、くじの非情さだが、博愛
なる神の代理人である法皇猊下に、そんな残酷な冷たい仕打ちができよう筈もない。
よって一枚残らず、これことごとく神の思し召しをもって、皆当りにされた。
 もともと Indulgentia 免罪という思想は原始キリスト教会にもあった。善行さえつ
めば贖罪されて、天国へゆけるという保証だった。だからレオ十世猊下においては、
命から二番目とも言われる金を出して、教会の建築基金に出すような善行を施す者は、
もうそれだけの功徳で天国に入れるものとみな認められたのである。今の日本だって、
社会事業に寄附金を出せば、紫綬褒章なんて勲章をくれる。昔は五円以上だすと「赤
十字なんとかの家」という木の標札をくれて、戦時中なんかは、町内にたいして恰好
がいいからと、どこでも献金して、そのお礼を入り口に掲げておいたものだ。昨今だ
って、白衣に青い袴をつけた人が「家内安全」といったお守りを「思召しです‥‥」
と、セールスに来る事だってある。成田山なんかになると、あすこは、こちらから車
でいって「交通安全」のお札を、大きいのはいくら、小さいのはいくらと、言い値通
りで皆頂いてくる。誰も値切りはしないところをみると、あれだって、神様に認めて
もらえそうな善行をしている人間ばかりが行くとは限らないから、やはり免罪符の購
入に他ならないのである。
 それに金なんてものは、なんでも購えるからこそ、それで、その流通価値があるに
すぎない。もし私がレオ十世であったとしても「愛は金では買えない」などと、尤も
らしいような口調は使わず、もっぱら「金で仕合せが求められるなら、いいじゃない
ですか。天国行きの座席指定券はいかがです」と、まさかダフ屋みたいには言わない
が、せめて交通公社の宣伝部ぐらいのPR方法は採ったであろう。本当の事をいえば、
私なんか、他人に売るより、もし頂けるものなら、何とかして今からでも自分が是非
とも一枚欲しいくらいである。
 ところが、いつの時代にも、いやあな奴はいるものである。私も大学講師を何年も
やってきたから言うのだが、頭の悪いくせに自己優位を誇示したがって、愚にもつか
ぬ事を、さも尤もらしく言ったり書いたりして、それで銭儲けをしたり人気とりをし
ようとする Professor という種族がいる。レオ十世の時代にもいた。Wittenberg大学
にいたMartin Lutherという男だ。なにも命は一つしかないのだから、それに合わせて
の切符なんだから免罪符だって一枚でいい。だから、欲しければ一枚買えばよし。い
やなら買わなければいい。ただそれだけの事なのに、その男たるやヴィッテンベルグ
大僧院の門扉に95項目からなる抗議ポスターをはりつけた。まあケチ精神の現れで
あり、彼の売名行為であろう。
 おかげでゲルマニヤ地区の免罪符大売捌元のテッツェルは、その営業を妨害された。
 世に、これを「ルーテルの宗教改革」という。なぜかというと評論家の彼をサクソ
ニアのフリードリッヒ公が早速、御用作家として匿い、時の国家主権者のカール五世
が、トルコ戦争後、また国内の新教徒を弾圧しだしたのに、対抗馬として利用したか
らである。つまり、織田信長が生まれる五年前の享禄二年のシュバイエル国会におい
て、フリードリッヒ公をはじめ、打倒カール五世の陰謀派は、ここにProtestatio(抗
議書)を提出した。今で云えば「国王不信任案」の上程で、その退位要求である。
 この時点から、新教徒はプロテスタントと呼ばれ、草案起草のルーテルみたいな男
の職業はプロフェッサー。商売人はプロフェッショナル。身体で商売して身売りする
女はプロスティスト(彼女等が営業的に使用しだしたゴム製品も、当初は彼の名をと
ってルーテルのサックと呼ばれる)そして、ルーテルみたいに、ポスターなんか貼る
ことはプロパカンダ。それを見て騒ぐ大衆の事をプロレタリアート。
 そして、ルーテルみたいに申込みをすることが、皮肉に意味を置き換えられ、今で
言うプロポーズ。彼のように文句をつけてダメ出しをしたがる人間を後世、プロデュ
ーサー。彼みたいな爆発したらドカンと被害を受けるガスを、プロパンガス。なお危
険を防ぐための野球の捕手の胸あてなどをプロテクター。また彼のような一か八かの
商売をするのをプロモーター。今では興行師や香具師の事をいっている。
 数え上げたら際限ないくらいに、プロのつく言語が旧教のカトリック国で、憎悪と
恨みをこめて作られ相当数が今や日本語化して私達も使用しているようだ。
 さて信長が十四歳の天文十四年には、シュマルカルデン同盟のプロ派の諸侯がカー
ル五世に宣戦布告した。勿論プロが弱いわけはない。相手のカール五世は敗けた。だ
から信長二十二歳で、美濃から嫁に来ている奇蝶御前に内緒で、生駒将監の後家に、
後の三位中将信忠になる奇妙丸を生ませてしまった弘治元年。
 アウグスブルク宗教会議でカール五世は、ルーテル側の布教プロパカンダを認めざ
るを得なくなった。もちろん、その間の(信長の義父の斎藤道三が二十九で、まだ油
屋渡世をしていた)大永二年には、「騎士戦争」や「ミュンツァー暴動」もあった。
 その二年後、毛利元就が多治比猿掛三百貫の身分から、一躍安芸吉田城主になった
時点には、原始キリスト教の共産制を理想とする、中世紀コミュニストの大規模な農
民戦争も勃発していた。

 こういう情勢では、神聖なるローマ法皇のカトリーコ(旧教)の方は、俗界で言え
ば営業不振。従って新しい販路拡張に迫られた。そうなればセールスマンによる新規
開拓のパイオニア精神しかない。ヨーロッパでは英国のヘンリー八世までが、カザリ
ン妃を離婚して侍女のアン・ボレインと一緒になるため、カトリックを捨てて、侍僧
のクランマーをカンタベリーの大僧正にして、新教に走り、「愛は何物よりも強し」
なんて勅語を出していたし、一般的にも「離婚できないカトリックなんて、亭主の乗
り換えができないじゃないの」と、きわめて進歩的な婦人達にも不人気であった。だ
から、やむなく神のセールスマンであるカトリックの修道使達は、南米、何阿、東洋
と、当時の低開発国へ向かって、トランクをぶら捧げ、思い思いに散らばって行った。
 だから、織田信長が十五歳で那古屋城で結婚式をあげた天文十八年、まさかウェデ
ィング・ケーキなど、お祝いに持ってきたとも思えぬが、フランシスコ・ザビエルが
鹿児島へやって来た。そして山口、豊後、京都と布教して廻って、やがてマカオへ引
きあげ、そこで神の途を教えつつ天文二十一年に昇天。死んでいる。
 その五年後、マカオがポルトガル領になると、そこから日本へ、もちろん火薬商売
もしに来たが、売れ残りの免罪符をさばくつもりか、ポルトガルのカトリックのゼズ
ス会の宗教セールスマンがどんどん入ってきた。
 さて、私は村上直次郎氏の多年の労作に文句を言うわけではないが、彼が<長崎叢
書・日本耶蘇会年報>とか、<異国叢書・耶蘇会日本通信史料>といったタイトルで、
南蛮史料を刊行するものだから(耶蘇教=切支丹=キリスト教)といった誤謬を与え、
そのため日本における中学校高校に教科書に採用される<世界史>が一冊残らず、皆
同じように間違いをしてしまっているが、<Ignatius Joyola>が海外布教のために1
534年に創立した(Company of Jesus, Jesuits>は、これを「耶蘇会」と訳すのは
誤りらしい。「耶蘇会」という日本語をあててよいものは、1530年のルーテル派
のヒランヒトンの書いた<アウグスブルグの信仰告白による懺悔録>を参照すれば、
よく判る事だが、これはプロテスタントの新教の方である。明らかにこれは困った誤
訳である。
 つまりフランシスコ・ザビエルによって、日本列島へもたらされ、マカオをば宗教
基地として、
<天正十一年(本能寺の変の翌年)アレッサンドロ・バリニヤンよりの、ポルトガル
本国のエボラ大司教報告書>にも記載されているところの、「この日本列島において、
神の御名は讃うべきかな。わが聖堂は既に二百に近く、祈祷所程度のカザやコレジョ
は、その数に加えず、されど、これとて二十余ヶ所に、その建物あり」
という宗教分野は、これは「耶蘇教」ではなく「天主教」のカトリックの方である。
 つまり、「日本耶蘇教会」というのは、根本的な間違いで「日本天主教会」でなく
ては、すべてが混乱してしまうのである。即ち「耶蘇教」と区別されて呼ばれるべき
プロテスタントの新教が東洋へ入ってきて、その布教活動をしだしたのは、これは三
百年あとの十九世紀の清朝末期で、日本へ伝わったのは明治からである。
 そこで村上直次郎博士および、その門下生の記したものを引用するにあたっては、
私は、この根本的な誤訳を避けるために<天主教>という文字に改めて用いる。

 さて、本能寺の変の起きる四年前。
 マカオにとって、それは重大な事が起きた。
 領主にして君主であるポルトガル国王セバスティヤン一世が、事もあろうに南アフ
リカへ攻め込んで、モロッコ人の騎馬隊に殺され、ついに敗戦してしまったのである。
 だから、その2年後の天正八年の1580年8月12日に、当時マカオから日本へ
赴任して一年目のアレッサンドロ・ワリニヤノ神父は、九州の口の津から、
「カスチリア人(西班牙)のフランシスコ派(原始会則派会派)の修道者が、フィリ
ピン(当時は西領)からマカオへ来ています。吾々ポルトガル人の勢力圏内を荒らし
ているのは、これは、きわめて不快をおぼえます」
といった意味の書簡も本国へ送っている。マカオに当時の原文がある。これは、のち
に彼がゴアから送った、
「聖にして偉大なるローマ法皇アレッサンドロ六世猊下は、新しく発見された世界の
分配を、神の僕である宣教師になされましたが、西印度と東印度を境にして、スペイ
ンとポルトガルは境界線を引いている筈です。それなのにポルトガルのセバスチャン
一世陛下が戦死されてから、わが王国は隣国スペインのフェリッペ国王の統治になり
ました。もはや自分達の王様や政府を持たぬ哀れな亡国の民であるポルトガル人は、
こうなっては、もはや優越と名誉を少なからず奪われてしまったのでございます。」
という一文と対照してみると、よく納得できる。
 そもそも初代フィリピン総督のミゲル・ローベス・デ・レガスビというのは、本能
寺の変の勃発した天正十年から、遡って十五年前に、アグスチン派の修道者を伴って
来た。そして天正五年になると、フランシスコ派の修道者が、スペインから大西洋を
渡ってメキシコへ行き、そこから貿易風を利用。フィリピンのマニラへ集まってきた。
 そして本能寺の変の一年前の1581年には、初代ドミニコ会のドミンゴ・デ・サ
ラサールが、
「ポルトガル人の天主教派を一掃して、日本占領のため」強力な修道士をあまた率い
て、本国からやって来ていたのだ。これは、その、
<1581年・ガスパールコエリ年譜>にもあるように、
「日本列島は東洋一の有望地で、すでに信徒は十五万人を越え、天主堂が二百もある
のに、ポルトガル人がマカオから来ているのは僅かで、日本人の助司祭のパードレ・
イルマンを加えても八十余人で、とても手がまわりかねている」
という実状に目をつけて、手薄を狙って乗っ取りに来たものらしいと想像される。


疑惑

 なにしろ私が、このマカオへ来たのは、
「もしかしたら(信長殺し)は、このスペインのドミニコ教会の初代司教のサラサー
ルの手の者か、日本を奪われまいと焦慮したポルトガルのマカオ司祭の内の、いずれ
かの謀略ではあるまいか」
といった疑念を、スチュワーデス殺しと目されるカトリックの宣教師が、日本から脱
出して、さっさと本国へ逃亡してしまった、あの時点から偶発的に想いついたという
事も確かである。
 というのは、<ワリニヤノ書簡>にも、
「マカオの司祭は三千エスクードに価する一修道院の許可を、渡来したカスチリヤ人
のフランシスコ修道士達に与えました。しかし彼等は、マカオより中国本土の方を、
メキシコやフィリピンのように、自分達の手で征服したがっています」
というのが明白に書かれてあるからである。
 いくら神の光栄が偉大であっても、その国自体を占領するとしないとでは、布教活
動がまるで違うはずである。それに当時、ポルトガル国王セバスチャン一世が死ねば、
まるまると、その国が統治できたスペインである。その三年後に、また野心を起し、
当時の日本の主権者の信長を倒せば、否応なく日本列島に君臨できると考えたとして
も、これは少しもおかしくない。
 なおワリニヤノは、スペインのカスチリヤ人の中国本土征服の野心しか、書き残し
ていないが、あの広大な中国より、どう考えたって、こじんまりとした日本列島の方
が、占領する足場としては手頃ではあるまいか。
 そして「安土か京にいる織田信長一人さえ亡きものにすれば、この国は手軽く奪え
るもの」
 とでも考えたのでなかろうか、と想える。
 また、このワリニヤノ書簡を裏返しに判読すれば、「先んずれば人を制す」のたと
えで、
「スペイン人に奪取されるくらいなら、まずポルトガル人がやろう」とも受けとれる
し、当時、印度を東西に分けて、その勢力を二分していたポルトガルとしては、ロー
マ法皇に対し、
「スペインが中国本土を狙うのなら、我々は対抗上、まず日本列島をいただかねばな
りません」と献言していたのかもしれない。

 と、疑惑が持てるのは、ウイジ・タードル(印度派密使)の資格をもって、天正七
年七月にマカオから日本へ来朝したアレッサンドロ・ワリニヤノは、翌天正八年十月
に、豊後府内の教会堂において、天主教の神父達を集め、スド・コンスルタ(九州協
議会)を開き、続いて安土の天主堂でスエ・コンスルタ(中央協議会)。そして天正
九年十二月には、長崎のトドス・サントス会堂で密議がもたれた。そして、これを最
後にして正式の会合は姿を消し、翌天正十年の六月二日に、京都四条の三階建の天主
堂から一町もない至近距離の本能寺で、いきなり突如として信長殺しは起きたのであ
る。
 もし、当時の十字軍遠征用に考案されていた折畳み分解式のイサベラ砲を、この天
主堂の三階へ運び上げていて、一階建の眼下の本能寺の客殿へ撃ち込むか、もし、そ
れでは人目を引くものならば、その火薬を本能寺の境内へ持ち込んで導火させてしま
えば、ドカンと一発。それで、容易にかたのつく事である。
 詳しい状況は後述するが、本能寺は午前4時に包囲されたのに、突然、火を発した
のが午前7時過ぎという、時間的ギャップと、前日までの大雨で湿度が高かったのに、
火勢が強くて、まだびしょ濡れの筈の本能寺の森の生木まで燃えつくし、民家にまで
類焼した。
 そして、信長の焼死体が行方不明になってしまったぐらいのの強度の高熱状況から
みても、木材や建具の燃焼温度では、火力の熱度が不審である。つまり、今日の消防
法規でいうA火災ではなく、これは化学出火のB火災の疑いがある。
 当時の化学発火物といえば、文字どおり「火薬」であるが、小銃などによって発射
された程度のものでは、これは炸薬だから、たいした事はない。性能の強い火薬によ
る本能寺焼討ちとなれば、コムンバンド(火裂弾)しかない。
 もちろん、これは皆目、日本側の史料にはない。だが考えられることである。
 さて、当時のワリニヤノ協議会草稿というのは、<Cousulita>の名目で、ローマの
バチカン法王庁に<Japsin1-34・40-69>の註がついてスペイン語とポルトガル語で現
存している。
 しかし、まさか神の書庫に納められているものに、今となっては殺人計画書など附
記されている筈もあるまいと考えられる。(‥‥念の為に七月末に私はローマへ見に
行く)

 さて、ここに、もう一つ訝しな事実がある。
 ワリニヤノは天正九年十二月の長崎会議の後、翌年二月二十日。つまり本能寺事件
の起きる百日前に、九州の大友、大村、有馬の三候の子息を伴って、秘かに日本脱出
をしている。
 これは、信長を倒したあとの、日本列島のロボット君主に、この三人の中の一人を、
ローマ法皇グレゴリオ十三世に選ばせるためではなかろうか。昔から「三つに一つ」
とか、「三位一体」というように、カトリックでは、ものを選ぶときに同じ様なもの
を三個並べてその一つを神の啓示にもとづいて採決する古教義が伝わっているからで
ある。
 ところがである。マカオへ彼が渡った時、
「ポルトガル王統断絶によって、従来は委任統治形式であったスペイン国王フィリッ
ペ二世が、新たにポルトガル国王フィリッペ一世を名乗って、ここに改めて、二つの
王を正式に継承した」
 つまり二国が完全に合併した、という知らせが届いたのである。
 だから、ポルトガルの勢力を一挙にもり返そうとしたワリニヤノの計画は挫折した。
しかし、当時は無線も航空便もない。そして、季節風をつかまえないと船も進めない
から、日本列島へ指令を出して計画変更を訓令する暇がなかったのではあるまいか。
 かくて同年六月二日。本能寺の変。
 そして、ワリニヤノはローマへ行く筈だったのに、急に、日本の異変によって禁足
され、印度管区長に任命され、途中で雄図空しく足止めされてしまった。だから九州
三候の子息達は、日本語の通じる彼と別れて、バードレのロドリーゲスに伴われてヨ
ーロッパへ行き、手土産の屏風などをプレゼントして歩いた。何をしに出かけたか、
いまだに訪欧の目的はわからない。疑問とされている。

 さて、さらに奇怪な現象が、ここに発生する。
本能寺にて信長が殺害されたという日本列島の政変が本国へ伝わった後、直ちに新し
いポルトガル王になったフェリッペ一世は、印度副王のドン・ドアルテ・デ・メチー
ゼスに対し、(スペインとポルトガルは今や合併し、一つの国になっているにもかか
わらず)スペイン領のフィリピンと、旧ポルトガル領のマカオの交通を、まったく、
だしぬけに、断固として、固く禁止させてしまった。
 しかも、その上、印度副王は、突如として、マカオのカピタン・モール宛に対し、
<マカオ・ビブリオテーカ(政庁図書館)所蔵>
「陛下の御名により、特に許されしパードレ以外の者は、いかなる聖職者は修道者も、
これが日本に渡航することは、固く禁止する。支那人の司教といえども、マカオに今
いる宣教師は一人といえども、これを日本へ行かせてはならない。もし彼らの中で、
既に日本へ赴いた者あると耳にしたら、陛下の御名によって余が命令するところであ
るから、いかなる方法をもってしても、直ちに追いかけ引っ捕らえて、これをマカオ
に送還せよ。本命令は、何等の疑念故障を、これにはさまずして完全に履行する事を
命じ、その命令通りするよう通告する。なお本書はフェリッペ一世陛下の御名に於い
て認可され、陛下の御玉章を捺印されたものと、全く同一効力を有するものである」
 と発令をしている。もちろん表向きの理由は、色々な宗派の宣教師が日本へ入り込
んでは混乱するからだというのである。
 しかし、この当時フィリピンのマニラへは、ドミニコ派のサラサールが初代司教と
して、スペインの国策として、本国から集団で来ていた。
 もちろん、日本列島に勢力を植えつける為である。あまたの戦闘的なフライレ(托
鉢修道士)も率いていた。
 だから、それゆえ当初は、マカオのゼズス教派のポルトガル人は邪魔をした。しか
し国王の戦死によってスペイン統治下におかれていたから、本能寺の変の後では、も
う反対の余力もなかった筈である。
 だったらサラサールの率いる宣教修道士の一行は堂々とマカオへ渡り、そこから日
本へ行くべきである。それなのにサラサールを保護する立場のスペインの王様が、あ
べこべにこれを断固として禁止してしまったのである。
 ----何を危惧したのであろうか。
 続いてマカオ在住者の禁足。日本へ行った者は、逮捕してでも連れ戻せという緊急
命令。
 こんな不審な話があるだろうか。二百二十の大小の教会にポルトガル人の師父が数
名で、あとは改宗した日本人の俄か助司祭。それも合計して八十名。これでは、あと
の百四十の教会は信者が集まっても、それを司ってアーメンを言う者もいない。
 つまり二千人の信徒に一人の宣教師では、手が足らないのはわかりきった話なのに、
たくさん日本へ渡航しては混乱するから、一人も遣るなという。この弾圧は、全く奇
怪であると言わざるを得ない。
 しかも、こうした宗教上の問題ならば、(ローマ法皇のグレゴリオ十三世から、ゴ
アのレアルコンセ・ホデラストインジャアス(王立印度参事会)を経て、マカオのセ
ズス教会の大司祭へ通達されるのが、当時としては順序というものである。
 それなのに、この命令系統は無視され全く違う。
「カピタン」というと、江戸期に入って長崎の出島へきていたオランダ商船の船長を
考えがちだが、信長の頃の「カピタン」とは、何十門かの青銅砲を積んだ軍艦の艦長
で、「マカオのカピタン」といえば、今日のマカオ・アドミラール(海軍総督)に当
たるものである。
(国王から印度福王。そして海軍総督)という伝達は、これは宗教問題というより、
どうみても明白な軍事命令としか受け取れぬ。
 まるでマカオに一大異変でも発生したかのように、(フィリピンからは渡航を厳禁
し、マカオ在住者は一人も日本へやるな)という、この武力通達は、何に起因してい
るのだろうか。
 私は、これを(本能寺の変)は、スペイン人であるフェリッペ国王は、前もって聞
いていない寝耳に水の事なので「東洋の利権を失っては」と驚愕した、と考える。
 そこで陛下は善後策をとるため、新法皇に連絡して帰国中のワリニヤノを途中の印
度に足止めさせた。
 ついで、その部下として日本にあって、四条坊門にある天主堂から本能寺を爆発さ
せたのを見て、その場からマカオへ逃げ戻ってきたポルトガル人と日本人のパードレ
やイルマンを、他と接触させては厄介であると、監禁させた。そして、その秘密の洩
れるのを警戒し、マニラに待機中のスペイン神父らの渡航を禁じた。勿論マカオは非
常警戒で、もはや天主教の大司祭などには委せてはおけぬから、モール海軍総督の兵
力によって、戒厳令をしいて、ポルトガル人の謀叛事件を極力隠蔽しようとした‥‥
といった具合にも解釈できるのである。

 これに関してポルトガル系の資料はないが、マカオ及び日本への渡航を禁止された
フィリピンのドミニコ派の宣教師が、同じスペイン人であるフェリッペ陛下へ送った
陳情書は、今も残っている。天正十八年、つまり、これは本能寺の変から八年目のも
のである。
<1590年6月23日附・フィリピンのマニラに於て、フランシスコ教派監督フラ
イ・ペトロ・バフチスタより、陛下に奉る上訴文>という書簡である。
「当地からマカオへ渡る途が絶えてしまってから、もはや本国から来る宣教師もいな
くなりました。ですから既に受洗させた信者も放りっぱなしの有様で、これでは新し
い芽として育て、その徳行を増すための教理の伝道にもことかきます。なんとか本国
の修道士達が当地へ来てくれるよう、つまりマカオや日本へ入れるように理解を加え
られ、どうか渡航禁止の軍令を解除していただきたく、ここに神の御名により、切に
懇願するものであるます」(Porez,Cartas-y RelacioneeT収録)

 この当時、スペイン船はマカオへ行って、中国の生糸や絹布。そして日本から運ん
できた金銀や銅の地金を求め、メキシコやインドへ運んで巨利を占めていた。渡航禁
止というのは宣教師だけではなく、船舶自体の渡航を遮断したものであるから、スペ
イン兼ポルトガル国王として、フェリッペ陛下の損害は、きわめて莫大なものだった
ろうと想像される。
 それなのに天正十八年の時点でさえ、まだ禁止は解かれていない。つまり陛下は、
極東貿易の巨利を、すっかり放棄されているのである。スペインの国策が本能寺の変
を境にして、こんな変更を余儀なくされたのは、何故であろうか。これでは、マカオ
へ戻って行ったのは単なる目撃者ではなくて、殺害者自身ではなかろうか。そんな疑
問さえも、はっきり言って抱かざるをえない。だから海を越え、こうして私も、また
マカオへ来たのである。
 ----だが、いきなりこうした発想を書いては、読まれる人は戸惑われるかもしれな
い。そこで、これまでの経緯、つまり私が、ずうっと丹念に探し集めて調べた信長殺
しに、ここからは筆をバターンさせ、また戻さねばなるまい。