1183 信長殺し、光秀ではない  2

想念

 定説を一挙に変えてしまうという事は、暴動のように集団の行為でしめすのなら、
多少の犠牲はあっても不可能ではないかもしれない。だが、これが歴史的な事実とな
ると、これは難しいものである。
 1582年の6月事件。世にいう「本能寺の変」は、これは、「明智光秀が信長を
討った」という定説になっている。そして、その後、三百八十五年にわたって、何の
異説もない。
 そもそも、このマカオがポルトガル領になった弘治三年とは、当時、清洲城にいた
織田三郎信長が、その異母弟にあたる(土田下総久安の娘が生んだ二十二歳の)織田
武蔵守信行を倒し、ついに織田一族の棟梁の位置を確保した年にあたる。そして、そ
の二十五年後には京の四条仙洞院にあった本能寺に宿泊中に、クーデターにあって、
敢えなく生涯を閉じた。これは一つの事実である。だが、その下手人。当時の言葉で
いえば「解死(げし)人」は誰なのか。もちろん、はっきりした「定説」は光秀であ
る。だが、私がひねくれているのか。どうしてもそうとは想えもしなかった。
 だいたいこの発想は、横浜の花咲町で生まれてから四谷の大木戸へうつった私が、
当時大国座という芝居小屋へ初めてつれてゆかれた、確か六歳の時に始まる。
 それは義太夫のチョボにのって、
「夕顔棚の彼方より、現れ出でし明智光秀」
 デンデンと太棹が入って、そこでカンカンカンと柝(き)が入って、蓑をつけた彼
が現れ、笠をとって、赤塗りの顔をグッと見得をきる。いわゆる見世場なのである。
観客は手を叩いた。だが六歳の私はボロボロ泣いた。「怕(こわ)いのかえ」と伴っ
てくれた祖母は言った。私は首をふった。そして、その侭泣きじゃくった覚えがある。
どんな感情かというと、幼稚な単純な同情。棄てられた猫をみて憐れを催すような、
そんな衝動的なものだったかも知れない。唯、その前後をよく想い出してみると、当
時の新聞紙は総ふり仮名だったから、四、五歳ぐらいから、パズルを解くように漢字
を眺め読んでいた。だから六歳の年頃でも「こどものくに」といった幼稚園むきの絵
本ではなく、もう「日本少年」や「少年倶楽部」をみていた。当時の附録は今とは違
って、とてもシンプルで「組たてパノラマ」が多かった。
 一枚の厚紙に人間や松の樹や御殿が刷りこんであって、点線でそれを切り取り、
「ノリ」と明示された白紙のところで折り曲げ、台紙にはりつけ、サンプル通りのパ
ノラマ舞台をこしらえるのである。
 これは、この時代に流行した菊人形の名場面と。まったく軸を同じにしていた。
「忠臣蔵の清水一角の斬り合い」「曽我兄弟の裾野の敵討」といったようにジャンル
が決まっていた。もちろん「本能寺の森蘭丸」もレギュラーだった。中心は蘭丸と安
田作兵衛の戦闘であるが、上手には白衣を着た白い顔の信長。下手には赤い顔をした
敵役の光秀が左右にたって、この運命の決戦のパノラマは構成されていた。たしか、
あの頃は、少年雑誌の附録としては毎年どれかにはつけられていた。そして幼い私な
どは、白塗、赤塗などという言葉は、まだ知らないから、ただ「良い方」「悪い方」
つまり善玉、悪玉といった単純な鑑別をしていた。
 そして、おかしな話だが、子供の精神において、それが、この世の真実というもの
だと固く信じて込んで疑わなかったのだ。
 それなのに大国座へつれてゆかれたら、悪玉の筈の赤塗の光秀が、ボール紙の附録
と違って生きて動いている。
 そのうえ、悪人の筈の彼が、とても悲しそうだったから、びっくりして哭いてしま
ったのだろう。
 という事は、幼いながらも自己に植えつけらていた信念の崩落に愕き、光秀に同情
するというより、自分自身がすっかり狼狽し、どうとも表現をしてよいか判らず、た
だワアワア泣いたのではあるまいか、と考える。なにしろ私という人間は、今でも途
方にくれると、昔ほどには泪も枯れて出ないが、それでもウウと哭く。だから当時も、
三つ子の魂というくらいだし、それに人間それ自体の形成は、いくら歳月がたったと
て、そう変わるものではない。だから、きっと、そのような事ではなかったか。とも
想うのである。
 つまり判りやすい言葉で言うならば、私という人間は、六歳にして、すでに自信喪
失をしてしまったということらしい。だから、そのコンプレックスが、ヒステリック
な泣き声を上げさせたのであろうし、明智光秀という昔いた一人の人間の具象に、世
間の通念とは、まったく裏肚な同情をもってしまったのだろう。
 そして、その時点から、可愛気のない疑りっぽい暗い子供になってしまい、成人し
てからも、私には他人には好かれない、そんな陰湿な性格が、翳りを濃くしたようで
ある。

 その頃、私は「作家群」という同人雑誌のグループに、最年少者として入っていた。
まだ学生だった。昔は、今のようにアルバイトの口はなかった。だから、日本の四国
で死んだモラエスを飯の種にして、その翻訳にあたっていたT・Hという先生の助手
をしていた。その先生が、いつか酔払って、
「お前は光秀の真似をして謀叛をしようとするアナーキストのグループに、近頃は入
っとるそうじゃがいかんぞ。だいたいモラエスも『信長殺しは光秀ではない。ちゃん
とした目撃者がいる』と書いとる。なんでもそれはポルトガル人のバートレ(坊主)
で、マカオで死んだそうだが、ちゃんと記録まである、といっとるぞ」
 と怒鳴りつけられた事がある。これは「作家群」の同人の一人で、ローレンスもの
の翻訳をしていた酒豪が、呑み仲間で評論家の某という人が、新宿の喫茶店の女の子
とできて、早稲田で当時下宿屋をしていた奥さんの許へ帰れず困っているところを、
イガクリ頭で一見まじめそうな私を子役にして、当時のアナーキストのグループのO
のところにいるようにアリバイ工作させた。
 つまり私はアナーキストの方の使いとして、彼の生活費をうまく、奥さんの許へ貰
いにいく役目をしょわされていたのである。
 だから軽率な私は、先生の口にした信長殺しの話を、もっと確かめておけばよかっ
たのに、それより自己弁護に周章てふためき、長火鉢の前に座っている奥さんが、い
かに怖ろしく、なかなか金を出してくれないとか。しかもその彼ときたら「早稲田文
学」に原稿を載せてやるという口約束のもとに、電車賃もくれず、時によると私の小
遣いまで貸せと持っていってしまうなどと、そんなつまらないことばかりを同情をひ
こうと、多弁になって喋舌ったものである。

 そんな愚昧な私だから、その後、生きてゆくことに何度も失望した。繰返して、い
くたびとなく死んだ。だが自分では、そのたびに、それで清算したつもりなのに、死
は、いつも私につれなかったようである。早いときは数分間で見放されてしまった。
最高記録だって、アルセニックを呷ったときの一週間である。私は今でも、月に一度
は死を想う。なにも生命保険の年々の掛け金が莫大すぎて勿体ないと、吝で考えるば
かりでもない。窒息しそうに、やり切れないからである。だが、そのたびに内股に左
右から交錯して刺されっぱなしの食塩注射の太い針の鈍痛や、胃洗浄の黒いゴム管を
すぐ連想してしまう。
 あれは、いやなものである。思い出しただけでも、こみあげる嘔吐に辟易させられ
る。酸っぱい胃液が口の中にひろがってきて、きまって激しい痛みが身体の中心を揺
さぶってくる。といって連想の暴風といったような感覚的ものではない。なにしろ私
の胃壁はかつて服用した種々の毒物によって、すっかり爛れきってしまっているから
だ。
 こんな激痛に襲われるなら、毒になるもんなんか呑まなきゃよかったと想う時もあ
るが、なにしろ、その時は、まさか、あとで生きるとは思いもしなかったのだから、
これは悔やんでも仕方もない。
 だが苦しみだすと、のたうち廻って反転する凄じさなので困ってしまう。鎮痛剤に
は、死を想うしか、逃避はない。「もう直きに死なしてあげるからね」と自分の肉体
にいいきかせてやるしか慰撫策もない。そして、そんな時は決まって幼い日に見た、
夕顔棚の彼方より現れ出たる明智光秀が、赤い顔でまぶたに蘇ってくる。長いつきあ
いである。お互いに口こそききあっていないが、友情みたいなものは感じあえる。だ
から、私は、うんうん唸りながら、苦しがって腹這いになりながら、「こんなに辛い
想いをして、ひどいめにあうのも、みんなあんたのせいなんだ」と怨みごとを言って
やる。いやなことは自分のせいにするより、人のせいにする方が、これは痛み止めの
精神安定剤になるからである。
 といって別に言いがかりをつけているのでもない。私が初めて自己喪失を願って、
それを試みた六歳の日から、彼は瞼にいた。繰返して自己を見失い、観念的に死を想
い、自己嫌悪を、そのパターンの中にエスカレーションしてゆく段階において、彼は
白い手袋や制服はつけていないが、蓑をつけてエスカレーター娘のように立っていた。
つまり私のい想点においては、光秀というイマジネーションは<死>をいつも意味し
ていたようである。そして‥‥
 私はそれに対して<真実>というものを追いかけ廻して反撥しようとしていたらし
い。
 だが、結果としては、なんともならない虚しさに、自己嫌悪を持ち続けているのか
も知れぬ。だから、もちろん生きていることが素晴らしいなどと、そんな、だいそれ
た己惚れはしたこともない。だが、何度も死んでは、追い返されるように、また蘇っ
てくるたびに、蝿には蝿の真実があり、蚤にだって蚤自体の真実があるのなら、人間
がより集まって作っているこの人の世にも、真実はあるのではあるまいかと、そんな
期待を持ったこともある。また、そんな事でも考えなければ、とても生き直しなんて
できるもんじゃない。
 なにしろ、死に損って、ぼんやりながら眼がさめ、意識がついてくる状態というの
は、酔払って、うたた寝しているのを起こされた時と、自分の気分では相似している
が、なにしろ普通の朝の目覚めとは違う。爽快なんてものではありゃしない。
 死が、まだ澱りをのこして、身体中をけだるくさせているから、覚醒したからとい
って、パッと起き出せやしない。たいてい黒いゴム管の紐つきである。それも口中か
ら押込まれた胃洗浄の管や、食塩注射のゴム管ばかりならよいが、いつか肛門に挿入
されているのには、まるで有尾人に生れ変わったのかと瞬間、さすがびっくりしたこ
とがある。何故かと訊きたかったが、そこへ看護婦が無理矢理にはめこんだ時の状況
が、まるで冒涜されでもしたように、羞恥と屈辱をおぼえたから聞かず仕舞いだった。
しかし、おかげで、どうも、その時から脱肛の気味がある。まあ、何しろ生き返って
くるということは、それ自体だけでも厭なものである。
 いつも気がつくと、解剖台に寝かされたみたいに下着はみんな剥ぎとられている事
が多い。うっかり眼でも明けようものなら、たいてい大きな口を開けた若い看護婦が、
素っ頓狂な声で何か叫んでいる。
 すると手当をしていたインターンみたいな若い医師や、他の看護婦共がワアーッと
は言わないだろうが、さも凱歌をあげるみたいに、口をパクパクさせ目を輝やかせる。
もちろん聴覚は戻ってくるのが遅いから聞えはしないが、しょっちゅう病院なんてと
ころは、ベッドで人を殺してばかりいるから、こういう反対現象は嬉しいのだろう。

「よかったですね」とこっちが聞えるようになると、毎度言われる。最近は馴れてし
まったから、自己満足の独り言だと知らんぷりをしているが、初めて聞かされた愛知
一中[現在の愛知県立旭丘高校]の三年生の時は「何がです」と逆ねじをくわせたも
のである。せっかく人が死のうとしているのを、本人の意志を蹂躪し、精神喪失の状
態を奇貨として弄んでおいて、なんたる言草であろうかと、憤然として十五の時は喧
嘩したものである。
 次に迷惑するのは、たいてい意識がつくと、その日の午後か、翌日の午前中に、旧
制の中卒ぐらいの所轄所の私服が来ることである。生れた時には、どうして、どんな
具合にできたのかとは聞きにこないくせに、こういう時だけは、何故死のうとしたの
かと、事情聴収に来る。あわよくば、どこかで女でも殺しての後追い心中ではあるま
いか。とか、又は会社の金でも横領しての申訳ではないかと、期待をもってやってく
るから相当にしつこい。あまりにくどくてうるさいから、横浜の病院で喧嘩をしたら、
いくら自分の身体とはいえ、あんたも人間なんだから、つまり、これは殺人未遂だと、
すっかり脅かされた事がある。
 だから、「死にもまさる辱め」という表現があるが、死に損なう辱めも相当のもの
である。誰一人として、「残念でしたね、次の機会にはぜひ頑張りましょう」なんて、
慰めてくれる心優しい人間なんかはいない。みんな、こちらとは裏腹に「よろしゅう
ございましたね」と言う。つまり目をさました時から、周囲の人間とは全く反対な自
分自身を、そこには如実に見せつけられ孤立する。
 そして、なんともならない違和感を、圧迫されるよう、ひしひしと押し付けられて
しまう。そして、どこの病院でも同じ事だが、まず意識を回復するが早いか、帯紐類
は取り上げられる。布団のシーツやカバーも剥がされてしまう。
 せっかく蘇生させたのに、また首でも吊られたら、入院費がとれなくなるからと、
事務局の方の指図らしい。いつだったか誤って前と同じ病院へ担ぎこまれてしまった
事がある。そしたら歓迎してくれて、常連だからと看護婦が同じベットで退院するま
で寝てくれた。だから、そこを出る時に同衾してくれた彼女に、「好きだったのか」
と囁やいてみたら「用心のため見張っていたのよ」と大声でやられた。自身喪失した。
また、その病院へうっかり運ばれないようにと、次回のために、私は地域外へと転居
した。

 求めよ、さらば与えられん。といった言葉が残っているが、どうも、あれは昔の事
らしい。
 私だってTasteやDevotionで死を追いかけているのでもなければ、何もかも信じられ
なくなって、どうしようもなく、そうした感受性を持つ自分を消滅させたいと、つい
ガス会社をメートルを上げて儲けさせたり、睡眠薬をかためて売ってくれる薬屋に、
その売上げ増加の協力をしたにすぎない。だが、それなのに、唯一の真実とも思われ
る死それ自体に対しても、あまり繰返してすげなく扱われ、返品ばかりされ通すと、
これまた信ぜられなくなって、ただ、そこに醸し出されるものは、絶望の靄でしかな
くなる。虚しさなんて、そんな漠然とした空間みたいなものではなく、亜硫酸ガスが
充満したような、泪がポロポロ出る息苦しさに喘いでしまう。ひどいものである。
 だが、死ねない限りは、生きていなくてはならない。生きているのには、何かが要
る。何かをやらねばならぬ。それは、やはり堂々巡りになるが<真実>といったもの
の追求になってしまう。他に、それしかない。
 考えてみれば、これを追い索めまわし、そして、あげくのはてが失望しては自己嫌
悪ばかりを性懲りもなくくり返し、誰かに見つけられては病院へ担ぎこまれてきたの
だ。だから、いつまでもゼミナールのくり返しをしていても、きりがないし、もう世
俗の大人みたいに達観するというか、超越してしまうべきだろうとは、自分でも想う。
だが、そうしても私には、それに取って換われるものが何もない。そりゃ人間の一生
というものは、どう考えたってばかばかしいくらい、大した事はない。
 はたで何と言おうと、当人の立場になってみれば、いかに無駄なもので、徒労の生
涯であるかということも、自惚れや自己満足を引けば、答えは出てくる。おそらく自
分だけでなく、誰しも自己追求してみれば同じ事だろうとは考える。といって、毎日
いらいらするからと睡眠薬ばかりは嚥んではいられもしない。
 だからTruthというものが索めても、なかなか与えてもらえないものならば、せめて
ディスカントしてSincerityつまり<真実>というものを見つけたいと、私は想うよう
になった。なりゆきである。
 死ねないし、生きていねばならぬし、そのためには何かをせねばと、段々自分自身
に切羽詰まってきたのだろう。
 そこで私が必死になって縋ったのが<信長殺しは、光秀>という、あまねく知れわ
たった一つの真実への挑戦だった。やってみようと考えた。
 もちろん、これは賭けかもしれない。しかし三百八十五年もの間に、定説とされ固
まってしまっている具象に、そこに<真実>をみつけ、<光秀は信長殺し>でないと
例証を引き出す事ができたとすると、それは賭けとしても無謀すぎる張り目だとばか
りは言えまい。
 なにしろ、もしもである。これ一筋に打ち込んで、その結果<信長殺しは光秀では
ない。他のxかyらしい>と解明できたら、四世紀間に、私が唯一人であるという自
己満足と、何度も死に損ないながらまだ生き続けてきた自分というものの、これは<
生きてきた証し>になるのではなかろうかと、そんな具合に考えるようになった。
 ところが思いついたからといって、すぐにどうなるものでもなかった。
 初めは一年か二年で、なんとか突破口がひらけそうな気がした。自信過剰だった。
とても、そんな、なまやさしいものではなかった。それは私は世間的には愚直で、あ
れもこれもとできる方でもない。だから<信長殺し>の真因を追いかけ廻すために、
他のものを書くのをやめた。唯ひたむきに私なりの<真実>を追った。ところが五年、
十年、十五年とたってしまった。ようやく曲りなりにも、<信長殺しは光秀ではない
>と解明できたときには、それを発表したいにも、二十年間筆を断っていた私は忘れ
られていた。仕方なく今の新しい筆名を一昨年作った。この、私としては半生をかけ
て追い込んできた<信長殺し>の鍵をとく、最後のしめくくりに、またマカオまで来
ている。
 振返ってみると、<信長公記>を自分で原稿用紙に転写して解読にかかってからの
二十二年間の歳月は長かった。当時の武将、武者約三千を繁雑を免れるために、単語
用のカードに記入分けした結果が、出身地と姓との結びに関連しているのが明白にな
ってきて、<八切姓の法則>となり、あまり知られていないが、当時は著名だった人
々の物語が<八切武者シリーズ>になり、戦国期も源平期も、外来系の仏徒と、原住
系のみなもとの神徒との宗教闘争だったと解明できたのが<八切裏がえ史>である。
 だが、それらのものは、みな、この副産物にすぎない。 これが上梓される日、す
べては、もう終わってもよい。なにしろ、私は疲れ切った。すべてに見放され、すべ
てを放り出して、ばかの一つの覚えでこれに一生を賭けてしまった。もし、この後、
何年かまだ私が生きていたら、それは惰性で仕事の続きに溺れているのか、それとも、
また死に損なって生き恥をさらしているだけだろう。


虚実

 光秀の実体は知られていない。講談では、「明智十兵衛は浪々の生活をしていたか
ら、ある日客を招いたが、そのもてなしに、はたと困った。ところが手拭いを姐さん
冠りした妻女が、いそいそと酒や肴をみつくろって出してくれて、それで客に対し十
兵衛は恥をかかずにすんだ。が、さて、客の帰ったあとで、『今日の食事にも事欠く
吾が家の暮らしに、よくも銭の調達ができたものよな』と十兵衛が不審がれば、妻女
は、無言のまま畏って、かぶっていた手拭いをぱらりと取った。それを見た途端、十
兵衛は思わず『ウウン』と唸り、『そちゃ、己が黒髪を、女ごの命と知っていて切っ
たのか。それを売って銭に換え、この十兵衛のため、客のもてなしをしてくれたのか
‥‥』と泪ぐめば、
『いとしきお前さまが為ならば、髪の毛など切り売りするも、いとやすきこと‥‥夫
婦の仲じゃありませぬかいな』と妻女は首をふり、にっこり笑ってみせた。
『済まぬ。きっと立身して、そなたを仕合せにしてみよう。なあ、それまで待ちや』
と十兵衛は、己の妻の手をとって感謝する」という、仕組みになっている。つまり人
間の感情の中の底辺ともいうべき人情話で、ホロリとするものを意識的にかきたてよ
うとする俗受けを狙った趣向で、そして、「かく貧窮の中にて浪々していました十兵
衛をば、織田信長が召し出され、とりあえず五百貫にて奉公させましたところ、妻女
がよくできました方ですから、貧しいながらも、こざっぱりとした身仕度で登城させ
ますし、朋輩衆が家へきても、これも快く接待する。だから、段々出世して、ついに
は近江坂本二十万石から、丹波亀山五十万石にまで立身しましたなれど、時に天魔に
魅入られましたか。その大恩ある信長公を討ち奉り、これが世に言う『明智の三日天
下』たちまち日ならずして、太閤様に攻め滅ぼされ、自分は、小栗栖村の百姓長兵衛
に首をとられてしまう羽目になるという、因果応報。天は正しきを助け悪は必ず滅び
るという物語」となるのである。
 ----この講談が、今日の光秀に対する常識になっている。もちろん、虚像である。
実際には、信長と光秀が初めに正式に逢っているのは永禄十一年七月二十七日である
が、<細川家記>によって、すこし詳しく引用すれば、
「明智光秀は、その臣の溝尾庄兵衛、三宅藤兵衛ら二十余騎をもって七月十六日に、
朝倉の一乗谷から出てきた足利義昭に供奉させ、穴間の谷から若子橋を越え仏ヶ原の
ところでは、明智光秀は自分から五百余の私兵を率いて待ち、ここから美濃の立政寺
へ二十五日に赴き、二十七日に信長と対面」とある。
 いくら妻女がロングロング・ヘアーであったとしても、又、女の髪の毛は象をも繋
ぐといったところでアラジンの魔法のランプであるまいし、六百名に近い家来が、毛
髪の切り売りぐらいで、賄えるものではないと想う。
 一人平均五万円給与とみても、六百名では現在なら、人件費として三千万円の計上
である。年間三億六千万の棒給を出すためには、企業収益は年間三十億は必要である。
そうなると、当今なら五百億ぐらいの売上げのある会社でないと、このバランス・シ
ートは保てない。まぁ話半分とみて、光秀の率いている私兵の半分が、寄せ集めの臨
時雇いか、野次馬的な者とみて、これを除外したとしても、江戸期においては十万石。
(一万石で百人出兵の定法だった豊臣時代でも、これは五万石以上の実力であり、格
式である)しかも当時、牢人の光秀には所領というべきものはない。
 つまり土地からの「作毛」である収穫物の米麦で、これは賄っていたのではない。
 そこで、この記述によると、光秀は貨幣で給与を払っていた事になる。だから牢人
とはいえ、えらい金満家だったということになる。しかしである。<細川家記>では、
なお、この時代たるや、「明智光秀は大砲の妙術を心得え、朝倉家にて、五百貫の禄
を得ていたが、細川藤孝が越前に滞在していたとき、足利将軍家の衰徴をなげき、深
く交り互いに談合した。その後、義昭から直接に、光秀に対して、織田へ頼れるよう
にと依頼した。ところが、鞍谷某に密告されて、光秀は牢人させられた」
という時点が、これに当たる。つまり、「一貫一石」という換算でゆけば、五百石ど
りから、光秀は扶持離れした状態である。それでは全然計算が合わない。まったく矛
盾しきっている。それに当時の五百貫取りというのは、鎧冑をつけ馬にのり、左右に
護衛の為の脇武者をはべらせて出撃する一人前の将校の最下位のことである。家来が
二人と六百人とでは違いが甚しいと思う。
 それに(山内一豊の講談)で、間違って伝えられているが、この時代は、女房が臍
くりで金を払ったからといって、馬に乗れたり、勝手に旗指物などつけられるもので
はない。身分によって、初めて馬乗りになれたり、許可があって旗指物は背に立てら
れたのである。これは戦前、九段の軍装店へ行けば、銭さえ出せば将校の肩章でも軍
帽でも売っていたが、それを買ってつけたからといって、自分勝手に兵士が将校に昇
進できなかったのと全く同じ事で、これでは光秀の話も辻つまが合わない。
 さらに<細川家記>では、あくまでも、
「永禄十一年十月九日。光秀は岐阜城へ赴き信長に逢う。信長喜んで、これに朝倉家
同様に、五百貫の扶持を与えて召抱う」とある。しかし、これに対して、(それでは
光秀の当時の勢力からみて、なんぼなんでも、五百貫では安かろう)というのでもあ
ろうか。悪書とよばれている、<明智軍記>というのは、禄高を修正して、約十倍に
して、
「猪子兵助の推挙により、美濃安八郡で、四千二百貫の闕所の地を与えられた」とす
る。
 だが、この本は、当時の講談本以外の何物でもないから、あまり信用できない。
 もっとひどいのに、この他、古書では、<校合(こうごう)雑記>というのがある。
これでは、「光秀は、もと細川藤孝の徒歩(かち)武者で、のち細川家より出て信長
公に仕え、その当座も徒歩武者の身分であったが、やがて信長の気に入られ、知行を
増やされ、疲れ馬一疋にも乗れる身分と出世し、信長が近江を手に入れると、坂本城
を築いて、これを光秀に預けた」
 となっている。ところが坂本城というのは信長が築いたものではない。
 これは森蘭丸の父の三左が篭城して討死した近江宇佐山の志賀城の北東四キロの戸
津ヶ浜に、光秀が自力で建築したものである。
 志賀城を信長から貰って一時居住した事は、
<元亀二年記>という史料に出ているそうだが、その翌年の正月には、つまり、
<兼見卿記>の元亀三年正月六日の条に、
「明十於坂本、而普請也」と出ている。
<年代記抄節>によると、「前年十二月より起工」とも出ている。そして、
<兼見卿記>の元亀三年十二月二十四日に、「坂本城の天主作事工事以外は、あらか
た落成し、その結構壮美なるには眼を愕かす」
と出ている。もし信長が建ててやるのなら、戦時目的であるから、きっと実用一点ば
りの筈である。しかも悠長に一年余もかけるわけはない。これは志賀城の古い石畳も
利用しただろうが、明智光秀が自腹をきって身銭で建てたものである。こんな判り切
った事でさえ、三百八十五年後になると、すっかり間違えられてしまい、
「信長から坂本城を貰った」と言われている。
 まあ時日の隔りが遠いから、これはやむを得ないが、その当時の<校合雑記>が誤
記しているのは、あきらかに作為である。(明智を細川家の下風にあったもの)とし
て世に宣伝したい為の、これは意識的にばらまかれた(ある種の目的)を明確に、露
骨に提示した、当時の、今いうところの「怪文書」に他ならないと考えられもする。

 さて、このすでに二年前の時点において、
<言継卿記>によると、
 元亀元年二月三十日(太陰暦)の条に、
「信長、岐阜城より上洛し、明智光秀邸を宿所となして泊り、三月一日に禁裏へ伺候」
とある。
 姉川合戦の後でも、七月四日に上洛し、七日まで、信長は近臣数百名と共に、当時
はホテルはなかったから、ゆっくりと明智邸に滞在している。
 五百貫どりや四千九百貫取りの身分で、まさか、何百人も収容できる大邸宅を、い
くら当時はギルト制で大工の手間代が安かったにしろ建てられるものではない。それ
に、泊めるのに、貸し布団屋は当時なかったろうと想像される。つまり光秀は豪勢だ
ったのである。そして、「信用とは、金である」と今でも言うが、当時とて、それは
同じだったのだろう。
 光秀が初めから金持ちで、京では大邸宅を構え、私兵も相当に抱えていて、信用が
できたからこそ、信長は彼と交際し、やがて自分の幕下へ引き込んだのではあるまい
か。
 それが立証できるのは、<原本信長記>によれば、秀吉が、五万貫の江州長浜城主
に登用されるより、既に一年有半前に、
 別説である<吉田文書>によれば、もう明白に二年前に、
「(滋賀郡の内にて扶持を与う地侍の進藤らは、光秀の寄騎たるべきこと)と、佐久
間信盛への信長さまの朱印状の中に記載これあり」と、それらの資料にはある。
 つまり滋賀郡一帯は既に光秀領となっている。明智光秀は、秀吉よりも先に、もう
一国一城の主だったのである。

 つまり講談本や俗説では、貧窮しきっていたか。又は、せいぜい五百貫ぐらいの乗
馬将校の最低、旧陸軍なら、せいぜい中尉どまりであったといわれ、それゆえ出世し
たいばかりに努力をしたはよいが、ついに慾を出しすぎ信長殺しをしたのだと、その
謀叛説を説明する。
 しかし事実は、全く違うようである。
 彼は信長に逢う前から、極めて裕福だったからこそ、永禄十三年つまり元亀元年正
月二十三日に、織田信長と十五代将軍の足利義昭の間に取換された文書、この内容は、
きわめて重要なもので、
「一、諸国へ将軍家として内書を出す時は、信長に仰せ聞かされ相談してくれたら、
信長も、それに添状をつけて出すから、むやみに勝手に内書の乱発はしないでほしい。
一、公儀である足利義昭に対し忠義を尽くした輩に、褒美や恩賞を与えるのに、しか
るべき土地がなければ、言ってさえ下さったら信長の領分から、差上げも致しまする。
一、天下の政治を信長に一任されたからには、誰彼の区別はせず、また一々将軍家の
意向を聞かなくとも、信長が、これを成敗する。つまり思い通りにやらせて頂たいも
のである。
一、天下を安穏にするためには、禁中の諸公卿の動きに対して油断され、これに乗じ
られたり煽動されるような事があってはならないと、御留意下されたい」
というものであるが、その書面に光秀の地位は明白にされている。
 この五ヶ条の通達にあたって、足利義昭の墨印が頭書にあって、末文に「天下布武」
の信長の朱印があるが、双方の代理人として、
 織田信長方は、日乗となっていて、足利義昭側代理人は光秀。しかも実物は、
<成簣堂文庫>にあるが、信長の朱印の上部において、
「明智十兵衛光秀尉、殿」と、敬語がついている。
 つまり形式的であったとしても、この時点においては、光秀は信長から公文書にお
いては、敬称をつけて扱われる上位、または対等の地位にあったことの例証である。
 なにしろ(地位)とは、力であり、そして金である。

 しかし美濃の明智城を出てから流浪した光秀が、一時にせよ朝倉義景に仕えていた
事は、
<故高柳光寿著・明智光秀>の十四頁にも、「光秀が朝倉に仕えたと思える良質の史
料は、五十嵐氏所蔵の『古案』のいう古文書集の中にある」と出ている。だが名の通
った家来としては、他の史料には、現れていないという。
 そんな、名もなく貧しき一武者にすぎなかった明智光秀が、なぜ一躍、そんな大金
持になってしまったのか、この不可思議さえ解明できない侭に、他の史家は見ぬふり
をして逃げてしまい、高柳氏のみが摘出して引例しているが、その謎は解けていない。
しかし、これが後の「信長殺し」の決め手にもされる理由で問題である。一つの鍵で
ある。
 さて牢人した途端に何百と召し抱えた家来の中の溝尾庄兵衛や三宅藤兵衛は、小栗
栖村で光秀が倒れるまで、陰日向なくつき従っている。世にも得がたき人材で、これ
は決して虚妄の幻の軍隊などではなかった信実である。