1182 信長殺し、光秀ではない  1

        「信長殺し、光秀ではない」八切止夫 著

        昭和42(1967)年 講談社刊 定価390円
                    日本シェル出版刊行版もあり

※日本シェル出版から出ていたものは、八切氏本人からきいた話では、紙型
 が失われているので、講談社版をカメラ撮りし「影陰版」のように出版し
 たものと記憶してます。したがって文字がつぶれたりかすれたりして読み
 づらいものでした。当ファイルは、日本シェル出版で八切氏から直接いた
 だいてきた鮮明な印刷の「講談社版」をタイプしたものです。
※作品中のルビは直後に()で括って示しました。
※[]内は影丸による補注です。
                    登録日 1996年3月18日
                  登録者 影丸(PQA43495)

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          目次

てきは、本能寺
 誤解 マカオ 想念 虚実 ニ君 プロ 疑惑
光秀にはアリバイがある
 何処 火薬 巨艦 奇怪 彦左 旗印
森蘭丸は美少年か
 青い実 利用 虚像 目的 デモ 避難
真実は雲なのか
 暗殺 贋作 デフォルメ 分析 講談 原文
信長は腹を切らない
 合戦 当代記 言経記 ダワイ 会報 剽窃 筒井記 細川記 天正記
殺し屋はこれだ
 レース 茶湯 胡魔 縫殿助 ゲンヤ 犯人 大友記
ああ忠臣・明智光秀
 勝負 好色 馳走 母の名は 殉忠
犯人はあなた、なのか
 買物 降嫁 自殺 犯人 春日局 安土城 火屋 女性


              敵は、本能寺

誤解

 天正十年六月二日。おれは、まだぐっすり瞑って居るところを、
「ご謀叛にござりまする」と起された。
「この本能寺へ‥‥して、何奴が押しかけて来たぞ」
はい、白紙の四手(しで)しないの馬じるし。紋は桔梗‥‥明智惟任(これとう)日
向守光秀と見うけます」
 小姓薄田余五郎が、うわずった声で告げた。
「そうか。表御堂(みどう)の番衆をあつめろ」
 はね起きざま、おれは言いつけた。表御殿の広縁へとび出したが、空は桃色で、ま
だ薄暗かった。
「調度もて」
と、おれは四足の塗篭(ぬりごめ)剛弓を取りよせ、塀がないから四方より迫って来
る敵に、矢つぎ早やに防ぎ矢をくれた。だが、小姓近習に厩仲間まで加えても、百に
もたりぬ小勢。
 やがて、敵影が築地を踏み越え、眼の前まで出てきた。
 弓弦が、上の大鳥打あたりで、ぶつんと剪(き)れ放った。
 もはや、これまでと見てとったか、森蘭丸が、かけよってくると、
「お腹、召しませ」と切れた弓を頂きながら言った。だが、それに対して、
「道具もて」知らぬ振りをして、おれは怒鳴った。
 月剣と呼ぶ宝蔵院献上十文字槍を受取ると、段階から飛降りざまに、黒革胴の面頬
武者を、思い切り根深く突き立て、抉り抜くと、返す穂先で、馬革胴の寸法(ずんぼ
う)武者の胴を、ぐさりと刺し貫いた。すべて、昔の侭だが、誰もおれの事を「乱妨
武者」とは呼ばず、
「天下さま、お覚悟っ」と、突き立ててくる。
 日帰りの野駆けのつもりで出てきたので、誰も具足櫃など背負って来ぬから、みな
素肌で、寝着ひとつで戦っている。小姓共、大塚又一郎、落合小八郎、小川愛平。け
なげにも、おれを庇おうと、血みどろになって戦ってくれたが、なにしろ敵勢ども、
おれ一人を目印に突き掛かってくる故、七、八人は倒したが、おれも肘の肉を削られ
て、槍が持てなくなってしまった。
「お大事に、なされませっ」と小姓の菅屋角蔵がとんできて、己れの袖を破って肘、
をまいてくれたが、やはり痛くて腕は動かない。
(室町の薬師寺の方はどうかな)と、ずっと気になっていた。そこの妙覚寺には、成
人した嫡子の奇妙丸、今の城介信忠が居るからだ。
「早よ、かくなる上は、お腹を召しませ。われら、おん供、仕る」
 蘇芳を浴びたように真っ赤な顔をした小八郎が、おれを上縁までおしあげて言った。
「うるさい」
 口早に俺は叱りつけた。しかし、登って、板戸をあけると、黒煙が紅い火の粉を、
絣(かすり)模様にしている。噴きだす熱気がむんむん、逆巻いていて熱くて、むせ
そうでもある。
(死のう。死んでこまそ)と覚悟した時は、いつも死ねず仕舞いで、こんなに伜の事
が気になって、すこしも死にたくない時に、何故おれは腹を切らねばならん。死にと
うはない‥‥いやだ。と、俺は唇をかんだ。
 そして、ごうごう音させて、渦をまく炎を、ぐっと睨みつけて居るうちに、
(その熱い火炎の芯を、辛抱して駆け抜けたら、その先に道がひらけて、妙覚寺の伜
のもとへ行けそうな)
 そんな気がした。
 そう感ずると、矢も楯も耐らなくなった。
 昔、小豆坂で敵陣へ、まっしぐらに駆け込んだように、「奇妙」「奇妙」と吾子の
幼な名を呼びながら、迸る深紅の火炎のまっ只中へ、おれは融け込むように走って行
った。

 ----これは私の書いた本能寺の描写である。
 一人称で信長を扱い、その長子の信忠を、幼い日の奇妙丸という実像でなくしては、
捉えにくい、男親の儚い愛情の虚しさと、
「人、いくたびか死を想う」つまり人間は誰でも生きている間に何度も「死のう、死
にたい」と想うものだが、案外、死にたい時には死ねもできず、今は死にたくないと
いった場合に、不本意に死んでゆくものなんだという、皮肉さをモチーフにした作品
の最後の一章であったが、どう考えてみても、本能寺にこんな情報があったとは想え
もしないから、これは、その作品(昭和四十年四月号の小説現代所載の「乱妨武者」)
を単行本に収めるにあたって割愛した部分である。
 と書くと、まるで廃物利用でもしたようにも想えもするが、従来の「信長観」とい
うものは、こういうものであり、これが世俗における常識でもある。つまり、
「織田信長という人の最期は、かくもあったのであろう」
「こんな風に壮烈きわまりない敢闘をしてから、潔よく、人事をつくしてのち、従容
として死についたろう」
 と、読む方も、そういう期待をもっているから、書く方も、抵抗を避けるように、
それにおもねって、かいてきたものである。
 つまり、どの作家の書くものでも、みな似たりよったりなので、殆ど大同小異であ
る。
 ただ変り種としては、この中へ、茶碗屋の阿福が出てきたり、忍者が出てくるくら
いのデフォルメでしかない。
 しかし、「こういう莫迦げたことはない」「こんな本能寺の場面はあり得ないこと
だ」
 といった例証として、ありふれた概念的な信長の最期の場面の見本として、初めに
掲げるのに、まさか他人の書いたものを持ってくるわけにもゆかないので、自分のも
のをのせたのである。
 こうした描写のもととなる下敷、つまり種本という資料は、<当代記><天正記>
<太閤記><信長公記>と揃っている。そしておかしな話だが、まるで言い合わせた
ように、
「本能寺における信長の最期」は、みな筆を揃えたように同一なのである。
 だから現代の、もの書きの書くものも、これまた、みな同じようになってしまう。

 さて、江戸時代に「番町で目あき、盲にみちをきき」で知られた塙保己一(はなわ
ほきいち)という先生がいて、正続の「群書類従」という、それまで散逸していた写
本、版本の類を集めて編纂したとき、「類従制」とよばれる方式をとった。
 今日で云えば「多数制採用」というのか。同じ時代、同じ具象を扱ったもので、同
じような事が書いてあるものは、比べてみて、それが同一か相似していたときは、双
方が例証となって、これは良質とされ、他と内容が相違しているものは、これは「信
用すべき対照物がないから」と悪書にされた。
 仏教の「十目のみるところ、十指のさすところ、それ正しきかな」という、昔の民
主主義採決法である。一つの方法には違いないが、それが今日まで、古文献、古史料
の鑑別法には、この類に従う方式が、今も生きて使われている。従って、
「六月二日、明智光秀に包囲され、弓をひき槍で闘って、のち火をつけて死ぬ信長像」
がみな、類は類をよんで内容が同一なところから、先にあげた古書は、「第一級の史
料」と目されている。そして、それと相違するような物は、古来、一冊たりといえど
陽の目はみていない。
「信長殺しは、光秀ではない」などというものは、1582年6月の事件のときから
今日まで、三百八十五年間に一度も出ていない。
 つまり、この本は、一世紀に一冊どころか、四世紀にわたって、初めて、この世に
現れたものである。
 出来ることなら、読んだ後で、すぐビニールの袋へでも入れ、罐に入れ、地中へで
も埋めて頂きたい。これだけ調べあげるのに、今の時代でも二十年の余かかったから、
後世の人が、やるとなると、もっと大変なことだろうから、せめて、その労を省くた
めにと、これはお願いする次第である。

 それから、これは珍しい形式であるが、これも小説である。といって、ロマン、フ
ィクションというように一概に考えられても困るから、引用文献と長いものは原文を
挿入し、引用書名は<型で囲った史料扱いのものと、「型の似て非なるものに分類し
たが、前述の、信長公記以下のものは、私は史料として認められないと想うが、世間
の評価に妥協して<型で、これを用いた。
 そして、これは「信長殺しは誰なのか」という究明のレポートではなく、
「信長殺しは光秀ではない‥‥という想念に憑かれてしまって、世俗的には一生をだ
いなしにしてしまった愚直な男の物語」として、これを読んで下さることを初めに約
束していただく。つまり、ノンフィクション・ノベルなのである。

 まず初めに「信長公記や、その他の各書の内容が、こと信長殺しに関しては、同一
であるから、本当らしい」という誤解について、言いたいのは、「なにも学校の試験
のように、同一の時刻に一緒に書かれたものではない」
 つまり、「あの中の一冊が種本で、あとは、みな、それを下敷きにして作成された
もの」これが試験の答案なら、「みなカンニングして写しとったものにすぎない」と
いうことである。
 各書別にその不条理はついてゆけるつもりだが、なにも十人が空を指差して「青い」
と言ったとて、それだから「空は青色」とは決まらない。なにしろ「虹の見える空」
だってあるのだということをいいたい。
<天正記>というのは、信長の次の国家主権者の秀吉政権の御用作家が書いたもの。
<当代記>は、筆者が、松平忠明などともいわれているが、次の徳川政権の資料。
<信長公記>と<太閤記>はリライトされ焼き直しをされ、なんともいいようもない
ものだが、今日では誤解され過大評価をされている。----といって、何も、誤解して
いる歴史家をここで責めようとしているのではない。
 なにしろ人間というものは、誤解されたり誤解してこそ、その社会構造も成り立つ。
 もし、誤解ということがなければ、人間関係というものは持てなくなってしまう。
なにしろ自分を「頭脳明晰」と世間から良く誤解させようと思えばこそ、小さい時か
らよく勉学して一流校へ入ろうと努力するのだろうし、女性が化粧や服装に細心に気
をくばるのだって「良く誤解されたい」の一心で、真剣にするのだろうし、あらゆる
人間の努力精進というものは、「いかにして、うまく誤解され得るか」という命題に
かかっているようである。
 なにしろ人間社会では、実際の能力や、それ自体より、「どれ位まで巧みに勘違い
されるか」という事に、すべてが掛っているかのようにさえ見うけられる。そしてみ
んなが(良いように誤解しあっている)その間はよい。それは、時には<愛>といっ
たものの発生にも繋がってゆくだろう。そうして、そうした場合には、誤解といった
言葉が<理解>といった呼び方にも美化されて装われもする。
 しかし、なんといっても<誤解>というものは、本質的には、それは誤解でしかあ
り得ない。なにも誰も彼もが、みんな都合よく誤解されてしまって、その(好ましい
快適な誤解)の中に安座して、ふんわりと雲の上に浮かんで居られるというものでは
ないようである。なんといっても大多数の人間は、みんな自分にとっては(好ましか
らざる誤解)ばかりを受けているのではなかろうか。そして、その汚辱と劣等感の中
に、ともすると挫けてしまいそうな自分を奮い立たせ、なんとかして(良き誤解)を
周囲からしてもらいたさに、そのように思わせようとして精進もしようとする。これ
を、ふつうは、努力ともいう。
 そして、そうすることが「生きる」という事なんだと、自分で悲壮感にかられて陶
酔したり、感傷的になったりもする。
 だが、生きている者はいい。しかし、もう死んでいるものは、どうするんだろう。
「良き誤解」とは、全く反対に「より悪すぎる誤解」を死後も烙印のように押されっ
ぱなしの男さえいる。
「何事も年月が押し流していって解決する」
という言葉もあるが、彼のように、星霜ここに三百八十五年も誤解されっぱなしなの
も気の毒である。
 京都の福知山市へゆくと、日本で唯一つの彼を祀った神社がある。
「御霊社」という。宮司の森本孫兵衛が、気の毒がって毎日慰めてやっているそうだ
が、その宮司だって、やはり、より悪く誤解している知識しか持ち合わせていないだ
ろうから、いくら柏手をポンポンうってもらっても、彼は、池の鯉みたいに浮かび上
がれはしないだろう。

「誤解」というものは、良きにつけ悪しきにつけ、それは生きている人間のものであ
って、死んだ人間には、それこそよけいだろうと私は想う。
そこで‥‥
「1582年6月2日の午前四時から八時までの間に、織田信長という男は死んだ。
しかし、あんな死に方はしていない。これは荒唐無稽なデフォルメにすぎぬ」という
こと。
 そして‥‥
「明智光秀を信長殺しに仕立て上げているが、彼は信長が<死>という状態に追い込
まれた同日の午前七時半までは本能寺へ近寄ってもいない。初めて光秀が京都へ姿を
見せたのは、二条城の信忠も焼死した九時すぎである。つまり現代の言葉でいうなら
ば、明智光秀にはアリバイが成立している」という事実。
 それなのに‥‥
「誰も彼もが光秀を、信長殺し、と決め込んでしまって、一人として怪しむ者がない
のは、何故だろうか。もちろん、三百八十五年前は『信長殺しは光秀』としておいた
方が、当時の国家権力者には都合はよかったろうが、なんぼなんでも、もう本当の事
が判って、彼の誤解はそろそろとけてもよいのではなかろうか」と考える。

 さて、何故これが今日まで、解明できなかったかというと、日本国内の史料では、
とてもその参考になるものが見つけ得なかったからである。
 そして吾々が怠惰であり、一つの具象を飽くまで追求してゆくという真摯さに欠け
ていたせいではあるまいか。つまり、これは三百八十五年間にわたって誰も遂行でき
なかったことを、私が初めてしたというのではない。ただ労多くして酬われる事のな
い、そうした徒労は、私のような愚かな者でなくては他にしなかったというにすぎな
い。
 それと、もう一つ。これは世界史から孤立していた日本史の断層にも起因している。
「戦国期」というものを、英雄とか豪傑といった人間関係においてのみ把握する従来
の帰納法は、あれは「三国史」の模倣でしかない。もちろん今日の我々の常識では‥
‥
 大東亜戦争の終末を、(広島や長崎へ投下されたアトムのためだとは想う)だが、
それをトルーマンや、投下した飛行士の名では考えもしない。それと同様に、戦国時
代を回顧すると、天文十二年に日本に伝来した鉄砲が、まず念頭に浮かぶ。だが、日
本国内では、その弾薬の煙硝は生産されない。当時の「死の商人」は、マカオから季
節風にのって、夥しい硝石を売り込み、彼等の手によって、日本の戦国時代は演出さ
れていたといっても、それは過言ではあるまい。
 すべての謎は、海の彼方のマカオに、こそある。


マカオ

 香港の海は青い。南支那海の水面は透き通るような翡翠の色を視せている。
 だが、東(イースト)ラマ海峡をわたって、ポルトガル領のマカオに近づくと、ま
るで水脈(みお)が、くっきりと、イギリス領との境界を示すように変化してくる。
波のうねりは同じ勾配でも、起伏の涛(なみ)は、なだらかに続いていても、水の色
がレッド・テーみたいに染ってくる。
 そして、陸へ近づくにつれてココア色になって、まるでチョコレートの海になる。
 突堤に小屋掛けした出入国管理処の役人の顔も(MACAO HYDROFOIL
 CO:LTD)の看板をだした船会社の事務員の皮膚も、赤黒い艶がまず目をひく。
 黄色人種とはいうが、レモンのようにすべしべした広東人に比べると、葡萄牙人は
浅黒い色素を、まるでドーランでも塗ったように、てかてか輝かせている。そして、
広東人と違って、細い口髭や刈りこんだ顎髯をたくわえている。植民地の威厳の表徴
なんだろう。
「ファーサ・ファボール・デ・エントラール(やあ、よく来てくださいました)」
 教わってきた電話番号の4433と5353の、どちらにかけようかと考えながら、
パスポートの査閲をすませ、入江の陸地へ足を踏み出した途端、印度人ほど黒くはな
いが、渋紙色の顔をした長身の男がやってきた。
 指さす胸には、(CABLE:MACTOVRS)のバッジをしていた。ここの交
通公社(ツーリスト)の出迎えだった。
 昔は軍港で、サンチャゴ砦とかバラ砦とかいうのだそうだが、とっつきの丘陵は、
楊樹が緑色に茂り、海桃の紅い花が、まるでバラのように咲いているのが目についた。
車にのってから、フロントのガラス越しに、重なり合うように三つ続いた丘を指さし、
そのまん中のベンハの丘に、「クレーリゴ(司祭)はおられます」と、彼は指さした。
 そこで「エンコントラール(面会は?)」ときくと、剛毛の目だつまるで植物的な、
根茎をやたらにつけた山芋みたいな指で十字をきりつつ、「一日前に申込むのです」
と告げた。そして黙り込んだ此方を、何か気にさわったかといったように、心配そう
に、大きく首を曲げて覗きこみながら、「この通りはグラン・プリ・レースの道。十
一月十五日には、各国の人が集まります。先月の大会には日本の車、いくつもきまし
た。三位と四位とりました」と、その自動車会社の名前をあげた。彼は、機嫌をとっ
ているつもりで、よいニュースとして教えてくれたらしいが、こちらはテレビで(我
が車のナントカはドコドコのグラン・プリで、またも優勝し、一位、二位を独占)な
んてのばかりコマーシャルされているものだから、三位や四位をとったなどと聞かさ
れても、なんとも返事のしようもなかった。言われて判ったのは、これまでマカオの
グラン・プリなんてのは、てんで耳にしたこともなかったのは、ここでのレースでは
日本の、メーカーは勝ったためしがないから、それで喧伝されていないんだなという
ことだった。
「アベニーダ・アルメイダ・リベイロ」と、彼は困ったような笑顔をつくって、ゆっ
くり発音してみせた。なんの意味かと考えていると、
「This is Makao's main street」
と、リーダーでも読むような口調で左右を指さした。三十階建て、四十階建まである
香港に比べると、せいぜい二階建てしかない。この目抜き通りは、まるで嘘みたいな
静かさで、これが市街を二分している大通りとは、とても信じられない程だった。
「ラルゴ・ド・セナード」と広場へ入ると、車をとめて、また発音した。市政庁のま
ん前である。白い立像が立っていた。近寄ってみると、
「十六世紀に初めて、このマカオへ上陸した最初のヨーロッパ人」と刻まれ、その名
は、Jorge Alvares となっていた。
 何国人だったろうかと、フットボールの球より大きな顔を仰いでみると、右腕が肩
からなかった。さては海賊で、片腕のジョージとか言われた男だったのかと、ひとり
合点していると、
「バルーリコ(暴動です)」と、彼は小声で言った。そして、「もう終わりました。
心配ありません」とつけたした。
 そう言われて左右を見廻すと、目ぬきの場所なのに、商店が硝子を割られたまま板
をはりつけ、廃屋のように並んでいた。まだ補償の金額が決まらないから、中国人の
店主は沢山取ろうと、わざとああしているのだと、彼はヨーロッパ風に掌で掬う恰好
をして、肩をすくませて苦笑してみせた。つまりツーリストの彼としては、視せたく
ない所を、うっかり見物させてしまったという表情だった。
 それを、わざと無視して、さも興味をもったように訊ねてみると、なんでもマカオ
に附属しているポルトガル領のタイパ島に、中国人が学校を建てるというのを、新た
に本国から赴任してきたばかりのノブレ・デ・カリパリヨという総督が、その必要な
しと許可をしなかったところ、それに憤慨した島民が大挙陳情しに、ここのマカオ政
庁へ押しかけてきた。ここの中国人も一緒になって騒いだから、千人あまりの群集に
なったという。そこで面喰った新任総督は、四年交替で本国から進駐している兵隊を、
聖フランシスコ兵営から呼んだ。日本の機動隊と違って棍棒をもっていない兵隊は、
押し寄せる群集に発砲した。
「死者七人。重傷七十人。あとから二十人が死んだが、みんなセント・ドミンゴ教会
の先のラファエル病院で、残りの者は手厚く看護されています。勿論、ただです」
 言いわけをするように彼は言った。そして我々はアメリカ人みたいにベトナムのよ
うな乱妨はしない。暴徒に襲撃されたから、それはやむを得ない自衛行為であったと、
ぶつぶつと聞き取れないような早口で言った。
「アーケン(何故)」と「ケーエー(どうしたんだ)」の二つの単語を繰返して、執
拗に喋舌りたがらない彼の口を割らしてしまったものの、渋面を作っている彼を眺め
ると、なんだか後味の悪い想いにさせられてしまった。なにしろ、
「ヌンカ・ウビークル・バルーリコ(こんな暴動は初めてです)」
 彼は、くりかえしてそればかりを言った。
 つまり、ポルトガル人の立場として言訳をしているのかと、初めは聴いていたが、
彼の取り越し苦労は、どうも、そうではないらしい。せっかく観光に来た旅行者が、
この暴動のあとをみて気が変わり、せっかくリザーブしたホテルもキャンセルして、
治安が悪いのを心配して早々に引揚げてしまうのではないかという心配をしているら
しかった。だから、
(ツーリストからせっかく案内にきたのに、変なところを見られてしまい、この日本
人に逃げられでもしてはといった表情)が、ありありと彼の黝(くろ)ずんだ顔に懊
悩の翳をやどしていた。
 だから、何んとかいって彼を慰めねばと、
「ナウン・ファーズマール(まぁ、たいした事はないね)」
と、ゆっくり首をふって滞在の意志表示を簡単にしてみせた。すると案の定、
「よかった」という意味であろうか、「エーエノールメ」を盛んに連発してみせた。
 車へまた乗せられた。だからホテルへ案内されるものとばかり思った。そこで昔ア
マラール総督の暗殺された記念碑だとか、柵で囲まれた円い石の場所が、その息を引
取った地点だといった説明も、うわの空で聞き流していると、小さな石作りの門が見
えてきた。右側にポリスボックスがあった。
 変なホテルだが、門前に交番があるとは、こりゃあ用心がいい。きっと彼が、まだ
心配をして、わざわざこういう治安上安全なのを選んでくれたのかと思った。そこで、
「ボイズ・ナウン(こりゃあ、いいね)」と降りかけると、彼は周章て、こちらの肩
にかけてあるカメラをはずして首をふった。だから此方も、訳が判らず妙な表情を見
せたらしい。彼も困ったように片目を瞑って「セルカ(国境)」と、続けて二度も発
音した。なんだ、それで撮影禁止地帯になっているからカメラは車内へ置いて出るの
かとようやく納得した。だが、うなずいて見せたものの、国境関門だというのに、小
さなコルトのケースを提げたきりの警官では訝しかった。初めは香港の啓徳空港で見
かけた英国領の巡査が、両肩から白い袖をとってつけたようにくっつけているのが、
もの珍しく印象に残っていたから、それで黒一色の制服は兵士かとも考えたが、まさ
か銃を持たぬ軍人もあるまいと思い直し、
「センティネーラ(歩哨は)」と訊いてみた。エゼルシト(軍隊)という言葉が咄嗟
に出てこなかったからである。
 彼は首を振った。関門のところに菩提樹の大きなのが、まるで両手を一杯に拡げる
ように枝を伸ばし若葉を茂らせていた。彼は、その木陰に入ってから前方を指差し、
向うに中共軍の兵士が銃口を、こちらへ向けていると気兼ねするように注意した。楊
樹の茂みを透かして眺めると、百メートルおきに電話ボックスのような紅塗りの屯所
が、ずらりと並んでいた。よく見詰めると、まるで人形みたいに二名ずつぐらい身動
きもせず、兵士が此方に鉛筆ほどの銃を向けていた。
 十二月三日の暴動のあった日、中国人がポルトガル兵に撃たれて死傷者が出たと伝
わると、昔は川にかけられた橋だったという真空地帯の通路を、中共軍の兵士が、同
胞を救えと殺到してきたそうである。その時はここにポルトガル兵の立哨もいたし、
一個小隊のメトラリヤドラ(機関銃隊)もいた。だが、それが、まずかったのだと彼
は言った。なにしろ中国人は八億いる。全世界の人類のうち、四人に一人は彼等なん
だ、とそんな言い訳を木陰から付け加えた。
 つまり多勢に無勢でポルトガル兵は、この国境が防ぎ切れず、殺されたか捕虜にさ
れたのだろう。なにしろ中共軍はプライア・グランデ湾にそったパニヤン並木を埋め
尽くすぐらい一杯やってきて、ラルゴ・ド・セナード広場で傷ついた中国人の同胞を
助け、マカオ政庁の上に飜っているポルトガル国旗を、
「デエイテオ・バーイショ(下へ引きずりおろせ)」とまで要求したそうである。そ
の結果、中共軍が引きあげた十二月四日から国境の立哨は換ってポリーシア(警官)
がしていると、彼は言うのだった。
 なにしろ、まだ二十日とたっていない。だから無理もないが、彼は関門の真ん中に
突っ立って向こうを透かし見しているのを「ケー・ジャポネース(さすがに日本人で
すな)」などと、お世辞を言いながら、自分は、まるでポルトガル人ゆえ狙撃でもさ
れるというのか、菩提樹の幹を楯にしたまま動こうとはしなかった。
 国境の関門の左右は、昔は河だったというだけに、ところどころ沼地になっていて、
葦が青々と茂っていた。車に戻ってから、当時の新聞をあとで見せてくれと言ったと
ころ、彼は何も出てはいないと断りを言った。そして車を運転しながら、
「エーラス・テイマ」と何度も、こちらは黙っているのに、ひとりでぶつくさ言って
いた。中国語でいうと(メイファーヅ)、仕方がないといった諦めの文句らしかった。
 車は南西へ向っていた。海岸へ出た。対岸の小島が見えた。名をきくと、ラッパ島
とこたえた。そうか、喇叺の語源はポルトガル語だったのかと考えたりしていると、
「ビューティフル」と、彼は英語でこの辺りのパラカ・ポンタ・ホオルタはマカオで
一番美しい景勝地だと言った。
 しかし、ウスリー河やヤンツーキエン(揚子江)みたいな泥色をしたこの水面の何
処に、そんな美を感じるのかと、返事もせずに黙っていたら、アーチ型のアーケード
の商店街へ出た。中央に噴水があって、バニヤンの並木が十二月の下旬だというのに
まぶしい陽射しを遮っていた。樹々の長く尾を引く影を眺めながら、やっと美しいと
いう意味がのみこめてきた。この配置は、スペインやポルトガルのあるイベリヤ半島
のイミテーションである。だから本国から来ている連中は、ノスタルジアにかられて、
ここの南欧風の風物に旅愁をかきたてられ、望郷の念を催し、つい、美しいなどと言
い出したのであろう。
 だが、商店街に入ると、一軒の店に長い行列が続いていた。何を求めているのかと、
瞳をこらすと、そこの縦のウインドに大きな肖像写真が掲げられ、毛沢東選集という
文字がみえた。書店であった。振返って行列を眺めていると、「中共側の国境に、向
こうのあのくらいの子供が沢山集まってきて、一日に何度も大声をあげて吾々を脅迫
するのだ」と、彼は所在なさそうに訴えてきた。そして、こんな唄を合唱するから、
こちらの中国人も真似する。自分も覚えたと、ハミングでメロディーをきかせた。毛
沢東讃歌と、それは東天紅の節廻しだった。
 こんな静かな眠ったような土地に、はっきりと如実に刻みこまれた民族の対立を、
まざまざ見せつけられると、早くホテルへ案内させて、そこで、まずシャワーでも浴
びようなどという、そんな安易な気持ちもとんでしまった。だから、荷物を置いて一
休みしてからまた出かけようと思っていたビブリオテーカ(図書館)へ、このまま場
所を覚えておくだけでもいいから、すぐ行ってみたいと話してみた。すると、「ナウ
ン」とうなずいて、彼は微笑んだ。
 ポルトガル本国のアジュダの図書館やエヴオラ図書館に比べれば劣るかもしれない
が、エジンバラ大学の図書部の手で整頓された三万五千の蔵書が、そこにはある。だ
から彼処へ通うのなら長滞在になるだろうと、彼は彼なりに職業柄すっかり気をよく
したらしい。車のスピードが百まで上がった。だから、さっさとついてしまった。降
りてみて、どうも見た事がある所だと思ったら、片手を叩き壊されたジョージの白い
像が斜めに見えた。なんの事はない。狭い土地なので一周して、また、もとの広場へ
戻ってきたのである。
 だったら何故、おっかなびっくりで中共の国境まで、わざわざ案内していったのか、
訊いてみようかと思ったが、おそらくツーリストの観光コースにでも入っていて、彼
は習慣で行ったのだろうと考えたし、それより早く日本では見られない十六世紀の戦
国史料が見たかったから黙っていた。うっかり何か言って、また他の観光コースへで
も案内されてはと用心したのである。
 典型的なポルトガル邸の構えをした政庁の建物の中へ、彼はつかつか入っていった。
「ビブリオテーカ(図書館)」と言ったのに、こちらの発音が悪くて、聞き違いをさ
れたのかと狼狽した。
 だが、もし違っていたら、その時に言い直してもよかろうと、すこし危ぶみながら
もついてゆくと、石造りから木造の廊下へ入っていった。マホガニーらしい階段を上
りつめた二階に、図書館のアブイゾーズ(標識)が出ていた。その文字を見た途端に、
ほっとして莨(たばこ)が吸いたくなった。だがポケットからピースを出すと、ここ
は禁煙になっているらしく、彼は大きな掌で、それを上から押さえるようにして止め
た。
 板碑が突き当たりにおいてあった。
莨を止められた恰好の悪さに、一人でつかつかと側へ行った。古びた華文字が、かす
れていて読めもしなかった。だがツーリストの案内所の彼は、すぐついてきて、もう
暗記でもしているのか、碑面も視ないで、そらでゆっくり説明した。
「神の名の都市。かくまで忠節な所は他にはあらず。我らが帝王Don Joao四世陛下と、
この地に派遣されし陛下の総督のJoao de Souza Pereiraの名において、比類なき住民
の忠節を嘉みし、ここに、これを証明するものである」
 文句はのみこめたが、人名が一度きいたぐらいではわからなかった。また聞き直す
のも厄介だったから、ノートを出して陛下の御名と総督の姓名を、その侭に写しとっ
た。すると消滅しかけているが1654と、この板碑が刻まれた年号があった。そこ
で日本の歴史年表をひいてみると、承応三年。徳川家光が死んで由井正雪や丸橋忠弥
の叛乱未遂のあった慶安四年から三年目の時点にあたっていた。
 十九日前に暴発した騒動を、こんな事はマカオでは初めてだと言って、盛んに彼が
強調していたのも、あながち嘘ではないらしい。
 なにしろ織田信長が二十四歳だった1557年に、ここを占領してから、徳川家綱
将軍の時代に「他に比べようない忠節さ」と賞められて折紙をつけられているくらい
だから、この1966年の12月3日まで、四世紀にわたって穏やかな所だったのだ
ろう。
「‥‥せっかくの定説が覆されました」案内の彼は、さも残念だったと唇を曲げた。
「定説を、覆す‥‥」と、私も無意識に鸚鵡返しに、その言葉を日本語で繰り返して
いた。