1181 織田信長殺人事件 13(最終)

森乱丸は大男

「やっと夜も明けてまいりました。昨日の大雨の後ゆえ、少し白むのが遅うござりま
した」
 あれから起きた侭だった乱丸が声をかけると、横にはなっていたが、眠っていなか
ったとみえ、
「よしっ」
と信長は起き上がった。そして、
「教会へ集まった者どもにしては、ちとうるさすぎるの」
自分で顔を出して怒鳴りつけるつもりなのか、そそくさと衣桁(えこう)にかけてあ
った絽羽織に手をやろうとした。そこで、
「はあっ」と坊丸がとんでいって羽織をおろすと、信長の肩にかけ前へ廻って紐をゆ
わえた。
 控えの間から濡れ縁に出ると、そこは廊下続きゆえ、もう桃色になってきた六月の
空が仰げた。が、白っぽい陽光があたりを包んできたとはいえ、手を伸ばすとまだ指
の先はぼやけて視える程度だった。しかし、それでも信長は大股でせかせか歩いてい
った。
 なにしろ本能寺の周辺でも、ここと同じくらいに明るくなってきたせいであろう。
まるで餌を拾いに集まってきた雀のように、人声がうるさく、前にも増して響いてい
た。
「けしからぬ輩め」
信長は振り替えると、背後から打ち太刀(かたな)を両手に捧げて持ってきた力丸に、
「よこせっ」と不機嫌に怒鳴った。
「はあっ」と腰を屈めて差し出す太刀を、
「この騒ぎはなんである‥‥頭(かしら)分の者の素っ首これではねてやらす」
柄頭に黄金の曲り枠のはまったところを引っ張った。鞘の金蒔絵の螺鈿細工が、いつ
もならピカッと反射するのだが、まだ陽が差し込んでいないせいなのか、鈍く鉛色に
くすんでみえた。
「これっ、虎松に愛平」
向こう廊下に座って迎える二人の顔がやっと見えてくると、
「村井道勝の許へ使いしてか」
信長はキンキンした声で呼びかけた。
「‥‥もうしわけございませぬ」
年長の高橋虎松の方が両手を前へ放り出すようにして、その場に額をこすりつけた。
「今まで何をしておったか」不機嫌そうに信長は眉をつりあげた。
「はぁ、不浄口もしっかり閉ざされてしまい、なんとしても戸が開けられませぬ。よ
って厩より駒を引き出し、築土を一気に駆け登って外へ出ようとしましたところ‥‥」
と、そこで無念そうにしゃくりあげた。
「よって、何と致したぞ」
足を止めた信長にせかされると、堪りかねて嗚咽(おえつ)しだした虎松に代わって
小川愛平が、
「厩仲間に手伝わせ駒の尻に鞭をくれさせ、一気呵成に築土の山は越えましたなれど
も」
と、そこで言葉に詰まったように黙ってしまった。
 だから信長に代わって乱丸が、
「築土の山をとびこえたはよいが、外の濠へでもはまってしもうたと申すのか?」と
聞き、
「これさ‥‥はっきり申し上げい」
短気な坊丸が二人の背後に廻って、どやしつけるように耳許へ口をつけた。しかし、
「濠はとうに古板や床板をかぶせられていて、水中には落ちませなんだ」と愛平が云
えば、虎松が拳で涙を拭い上げつつ、
「飛び降りた我らの馬は押さえられてしまい、馬は貰っておくが、人間はいらん。そ
ないに云いおって我ら両名は手を取り足を取られて、また築土の上へ放り上げられ、
この境内へ戻され、突き返されてしまったのでござります」
口惜しそうに涙声で説明した。
「‥‥うむ」ただ怪訝そうに信長は顔をしかめた。
「それで、きまりが悪うて、この乱丸の許へもその旨を言いにこなんだのか」
と二人を叱るように云ってから、
「‥‥して寺外の様子は、如何でありしよな」
続けておおいかぶせるよに尋ねた。
「はあ、今と違ってもそっと暗かった時分ゆえ、はっきりとは何もよく見えませなん
だが、なにしろ兵共がぎっしりと詰まっていたやに覚えまする。はい」
と愛兵が、おそるおそる口にした。
「歩幅にして何人ぐらいぞ」
 乱丸は足を左右一杯に開いた歩幅に、およそ何人ぐらいかと聞き返したのである。
「はい、三人から四人。深さは七列」これは即座に高橋虎松が答えた。
「えっ?」乱丸もこれには顔色を変えた。いくら大股にひろげても一人の歩幅はおよ
そ決まっている。そこに三人も四人もいるということは、本能寺の濠の一辺を一町と
なし、それを六十間とみれば一列でも濠わきに四百人近く、これが重なり合って七列
となれば‥‥
一辺が二千八百人、これを三千人とみて四方だから乗すれば一万二千人。これの他に
本陣とか使番といった別の命令系統を全体に対する五分か六分として加えれば、取り
巻いているおよその兵力は割り出せる。そこですぐさま、
「およその周囲の兵力は、一万三千」と乱丸が答えを出せば、すぐ脇から、
「手前の目算では一万と二千六百」虎松が言った。
 信長の小姓組というのは、徹底的に暗算で掛け算引き算をしこまれていた形跡があ
る。もともと初めは、通信機の発達していなかった時代なのでと、何か事が起きてか
ら、「ああせい、こうせい」と使いを出して指図をしても間に合わぬ事が多い。
 また、その時は辛うじて切り抜けられても、次の段階で又何かが起れば、「如何し
ましょうや?」と問い合わせをよこす。すれば、かくかくせいと次の使者を出さねば
ならぬ。
(この煩わしい反復を避ける為に、自分と同じ様な判断を臨機応変に、その場、その
場で下せる者。つまり己の代行をする者を育て上げよう)
と信長の意図したのが、この小姓団である。
 つまり、人間それぞれ個性は違うが、
(幼い時から手許へ置いて、いつも合戦に伴っていって、本陣へおいて見習わせてお
けば、こういう時は上様はかくなされた、ああした時は上様はああなされた、と記憶
にすがっても処置してゆけよう)と考え、幼年学校から士官学校といった具合に順々
と教育してきたものらしい。
 というのは信長の若い頃、妻の奇蝶の里の父斎藤道三というのが日蓮宗妙覚寺で、
やはり「丸」のつく名で入門し、のちに「法蓮坊」と名乗ったこともあるから、それ
への気兼ねで、信長は己の子にも、長子は「奇妙丸」、次男は「茶筅丸」といったよ
うに、皆「丸」のつく名乗りをさせていたが、その子等を軍陣に連れ出し、仕込んで
みたところ、そこは親の子という血脈もあろうが、結構よく代行に間に合うから、つ
いで家臣の遺児や、これはというのは側近に置いて仕込んだのである。
「高級参謀団」のような編制をとっていたもので、参謀教育といっても、突いたり斬
ったりする体育よりも算数の計算の割り出しが主だったらしい。
 なにしろ当時は計算機はなく、勘定をするのに、まず両手の指を折って使い、それ
だけで足らないときは足の指まで加えて算えたものであるが、信長は関孝和などが生
れ、日本の数学が誕生するよりも二世紀も早く、この小姓団に掛け算割り算の暗算教
育までしていたらしい証拠がある。
 奈良の興福寺の塔頭多聞院の和尚英俊は、
「奈良一国の土地割出し検出係に、織田信長からその小姓の矢部善七郎がまわされて
きた。これまでの隠し田などが一切合財、彼の計算にかかっては浮かび出てしまうが、
仏の収入が、こういう具合に搾り取られ減らされてしまうとは、世も末と覚える。し
かし、手をこまねいて傍観しているわけにもゆかないから、銭十疋(百文)をもって
いって、よろしくと勘定のために気持ちを殺して挨拶をしてきた」
と恨めしそうに言った事が、その日記に書き残されている。
 つまり信長の小姓団というのは、「軍目付」と呼ばれる大本営参謀の任務もしてい
たが、また一方では、その皮算用能力を生かして、今日でいえば徴税Gメンのような
任務も課せられていた、これはその裏書きでもあろう。

「一万二千から三千の軍勢が、この本能寺を取巻くとはなんであろうか」
乱丸はじめ小姓の面々も、これには顔色をかえたが、当の信長はもっと焦燥しきって、
「不逞な奴ばらである。何故に勝手気侭に、この本能寺の表門はいうに及ばず、各築
土の木戸口を塞ぎおるのか、至急に調べてこませ」と難しい顔をした。
 もう、朝の陽は芙蓉の花が開いたように明るく、本能寺裏手のさいかちの森に集ま
ってきた野雀は、昨日までの大雨で飢え切っているらしく、揃って、
「チュンチュン」さえずりながら樹の枝から枝へととび、本能寺の便殿と客殿に囲ま
れた植込みにまで、恐れげもなく舞い降りてきては、チイチイと餌をひろって啄ばん
でいた。
 それを脇目にしながら、信長に言いつけられた森乱丸が正面の表大門口まで行って、
固めている厩衆の者や、向こう側の村井道勝邸より泊まり込みで手伝いに来ている女
共に、「開けさせい」と命じたところ、大門はおよしなされた方がよいと、耳門(く
ぐり)の方を開けられた。
 しかし耳門というのは高さ1メートルあるかなしで、身体を屈めねば潜って出入り
できるものではない。なのに、内開きの戸をこちらへ引いたところ、胴鎧の腹の下の
ところが、まるで詰め込まれるように、戸口まで押し合いへし合いしていて、
「御用の向きにて、美濃金山城主森長定様のお出ましぞ。どきませい」
と厩衆が外へ乱丸を出そうとして喚いてくれたが、返事どころか咳払い一つ戻ってこ
ない。かえって、「わっしょ、わっしょ」と開けた耳門から犬の子一匹出すまいとす
るように、押込んで邪魔だてをしているだけである。
「俺が森乱丸長定ぞ。上様御下知にて外へ出ようとするのに、何で邪魔だてを致すぞ
や‥‥組頭なり、物頭なり、一応の話のできる者を廻してよこせ」
とばかり乱丸も、この侭では引き返せぬから、大声を出して呼ばわった。
 しかし、いくら待っても返事もないので、堪りかねて、
「この森長定の命令は、恐れ多くも上様の御言葉なるぞ‥‥それでも外へ出られぬよ
う人垣を作って邪魔だてを致すのか」烈しく叱咤した。
 が、それに対しても、塀の外からは何となく、ただ響いてくるのは、
「わっしょ、わっしょ」と祭りの山車でも担いでいるよに騒がしく、
「やあ、やあ」と矢声と、それに混ぜて聞かせてくるだけだった。そこで、
「誰ぞ道具をもっておらぬか」
居堪らなくなって乱丸は振り返った。
 さて、この時代は「調度」といえば弓の事、「道具」とよべば「槍」の事である。
しかし乱丸ら小姓三十人は「身軽についてきませえ」と信長に命令されて、二十九日
に安土城を出てきた時、鎧具足はいうに及ばず馬の手綱を両手でひっぱる邪魔になる
からと、誰一人槍さえ携行していなかったのである。
 だから、村井邸より手伝いにきている武者から槍を借りて、それで耳門のところか
ら突き崩してでも、乱丸は外へ出ようとしたのである。なにしろ、
「問答無用っ」という言葉があるが、てんで相手が返事さえしないので、乱丸として
は胴鎧しか見せない相手を、突き立てて血路を開くしか脱出の手だてはなかったので
あった。 しかし、そうは思っても、と村井道勝から来ている武者共は、
「滅相もない」自分等の槍を貸しだすかわりに誰もがよってたかって、
「そんな無茶はおよしなされ」
袖をひっぱり肘をつついて諌めた。乱丸を押し返すように引っ張って戻した。しかし、
乱丸は、
「何故じゃ」
と喚き返した。なんとしてでも外へ出ないことには、言いつけられてきた主命がはた
せぬと、乱丸としては血相をかえ、押さえる手を払いのけ、
「邪魔だて致すな」と叱りつけるのだが、
「入口や木戸を外からふさいでおりますが、何も小石一つ放りこんできたわけでなし
‥‥」
とか、又は意見でもするように、
「この本能寺を取巻いておりまする軍馬や軍兵は、先刻われらが大屋根に登って検分
しましたところでは一万の余。一万五千もおりまする。なのに寺内は上様はじめあな
た様御側衆等で三十と一名。あとはお厩衆と、我ら村井より参った家人どもだけで、
手伝いの婢女を加えても合計は百とはいませぬでな」
と年嵩の頭並の男が口にした。
 すると、やはり寄り添う髭もじゃの男までが、
「向こうが何も仕掛けてこんのに、こちらから槍をふるって突きかかるは穏やかでは
ござらぬ‥‥この寺内に我らだけならば苦しゅうござらぬが、なんせ御客殿には上様
も居られること」
と手をかすどころか、あべこべに忠言してきた。
「何の事やら我々、とんと見当はつきませぬが、向こうの邸には我ら主人の村井民部
介道勝もおりまするし、洛中の武家屋敷はこれことごとく、織田信長様の家来でない
者は一人もない筈ゆえ、こちらより、何も無理して外へ出られなさらんでも、おっつ
け御味方衆が集まってきて、外の人垣を追い払って門を叩いて参りましょうほどに」
他の武者どもも、乱丸に早まった事をするなと言わんばかりに口々に喚いた。

 江戸時代でさえ京には各大名の京屋敷というのが、ずらりと百五十はあった。
秀吉の伏見城の頃でも、「伏見京大名屋敷図面」というのが残っていて百はある。
 だから、信長の頃でも京の市街には諸国大名つまり信長の家来の屋敷がやはり四十
くらいはあった。一邸百人から二百人とみても、四千人から八千人ぐらいの留守居は
いたはずである。
 なのに、この時の洛中の信長の家臣の京屋敷については、その絵図面はもとより、
存在をはっきりさせるものも何も伝わっていないのである。
 この事件後に国家権力を持った者が徹底的にそうした図面は集めて焼き払い、まる
で京には信長と小姓しかおらず、他の織田方京屋敷は、さながら皆無の如くに体裁を
作ってしまっている。

 しかし、信長は前年天正九年の「大馬揃え」とよぶ観兵式を、前後二回又は三回、
京で示威運動として開催している。こうなると、信長の家臣の大名としてはホテルも
モーテルもなかった時代だから、どうしても家来団やその乗馬の群れをつなぐ厩付の
大きな家がなくてはならぬ。つまり各自の大きな京屋敷を天正八、九年までには洛中
に普請していたはずである。
 勿論、安土にはそれぞれの留守邸のを置いていたろうが、京にも屋敷を持ち百名か
ら二百の留守武者を置いていた筈である。ところが、<細川家記>にも、
「今出川の祖国寺門前にありしは、家老米田壱岐守の邸にて、細川家の京屋敷はなく、
本能寺の変が起きるや、使番として早田道鬼を丹後の宮津城へ走らせた」
とあるように、おかしな話だが、家老は京に屋敷をもっていても、細川藤孝や忠興の
殿様父子は吝をして京に邸はなかった。そこで家老が丹後まで、
「如何しましょうや?」
と使番をだしているうちに本能寺の変は終わった、と変な話にさえなっている。
 勿論、各大名が京屋敷に留守居の武者を揃えていながら、本能寺の変を傍観して、
信長や乱丸達を見殺しにした裏面には政治的謀略と相当な銀子が動いていたろう。
 また、京の絵図面の中で天正時代のものが今となっては一枚も残っていないという
事実は、六月二日の本能寺の変から十日あまりで死んだ明智光秀のやれることではな
いし、またできることでもない。
「信長殺し、光秀ではない」を、もし興味ある方は一読していただきたいものである。
なにしろ「御霊社」とか「御霊神社」というのは、無実の罪で殺された人の魂を祀る
ものとされているが、明智光秀にも京都府福知山市には大きな御霊社が江戸時代から
あって祀られている。

「一体、こりゃ何じゃ。夜明け前からワイワイ集まってきおって、もうかれこれ一刻
半(三時間)もたつではないか」
信長はすっかり焦燥しきっていた。だから、
「もし害心を抱くものなら、やつらは甲冑に身を固め弓鉄砲まで持つ一万三、四千の
軍勢ゆえ、ワアッとここの境内へ攻め込んでくれば、なんせこちらは槍さえ持ってき
ていない有様ゆえ、息をつく間にも勝負はつきましょうほどに、てんで攻め掛かって
こぬは謀叛ともみえませぬ有様。よって、まぁ、ご安心なされましょう」
乱丸は口にした。しかし、
(何がなんやら判らずに包囲され、いくら待っても京中の大名屋敷からの援軍もまだ
来ぬ無気味さ)
には、乱丸初め小姓団の三十人も、切ながって息を吸うのさえ重苦しい檻の中で、
「こりゃ堪らんのう‥‥まるで生き埋めにされとるようじゃ」
と、あえぎ切っていた。
「こないな馬鹿げた真似しくさったら、癇癪持ちの上様が後で許される筈もなかろう。
囲んでいる輩は、いずれも後で一人残らず縛り首にされるじゃろ」
いまいましがって、地団駄を踏む者もいなかった。
 みんな囲みがとけてからの話より、目先の息苦しさにへこたれて脂汗をだらだら垂
らした。溜め息と吐息を交互にもらしていた。
 もはや真紅の花をつけた金蓮花の叢に、餌を啄ばみに来た雀の群れもみえなくなっ
た。チイチイないていた小鳥のさえずりのかわりに、「ヒイヒイ」と女達の涙声が洩
れてきた。
「こない時に女ごはいかん。村井道勝めが、手伝い女などよこしておくからじゃ」
高橋虎松が忍び泣く女共の声を聞きとがめ、それを制しようと出かけていった。
 が、これがいけなかった。虎松に叱り飛ばされた女達は、それまで堪えていたのが
押さえようがなくなったのか、裸足のままで植込みを斜めに駆け込んでくるなり、信
長のいる客殿に向かって、
「お助けなされませ」
と声を枯らして絶叫しだした。
 びっくりした乱丸達は駆け出していって、
「これ、恐れ多いぞ」とたしなめながら手荒く、
「早々に立ち去るがよい」と、女達の肩をつかんで引き立てようとした。
 だが、半狂乱の女どもは、もう咎めても言うことをきかず、てんでに逆上して、
「上様はお豪いお方じゃろ。なんでもできんことはない天下様なら、この手伝いにき
とる私らを助けてやりなされ」
と、押さえる小姓どもの手に喰いつく者までいて、
「死にとうないで」と絶叫したりした。
「なんとか救うとくりょ」
と喚き散らす女どもには、小姓どももすっかり手を焼いた。
 若い坊丸のごときは、年少の愛平と一緒になって、涙をぼろぼろ眼に溢れさせてい
た。信長も同じ想いだったろう。
「なんとかならぬか‥‥女どもだけでも外へ出してはやれぬか。築土の上までつれて
いき、そこから落としてやっても怪我すまい」
 灯り障子の蔭から、たまりかねたように声がした。しかし、そうは言われても、
「はぁ、さいぜん村井の武者どもが向いの村井邸に連絡すべく、四人あまり築土へ這
い上り、そこから飛び降りましたなれど、蹴鞠が跳ね返されるごとく、次々と足をと
られ、またこちらの境内へ弾き返されて戻りました」
乱丸も答えるしかなかった。
「そうか‥‥」
障子をあけ織田信長が顔を出した。すると女達は捕まえられていた手をふり切って、
その足元へ駆け寄りざま、
「助けたって‥‥」
と縋りつく。他の女も口々に、
「死にとうない」と泣き叫んだ。
「うむ、この信長は何でも出来る男の筈じゃったが、今朝はちいと具合が悪い。この
儂とて、今のところ何が何やらわからんのじゃ」
慰めたつもりだろうが、かえって女共の泣き声を甲高くさせただけだった。
つられて小姓共も、
「うう‥‥」と皆声を堪えかねて男哭きした。
 その瞬間である。
ゴギャアーンと大爆発が起きた。
本能寺は赤い火柱に化した。
寺の建物は、客殿便殿その他堂宇の一切が粉々になって、六月二日の、ようやく青み
を見せた青空へ、まるで噴火するみたいにはじけていった。
 しかし、「フロイス日本史」の「カリオン師父報告書」では、この火薬の出所がイ
エズス会からだという事を隠すためにごまかされてしまっていて、
「侵入してきた兵達は、信長が洗顔をしているところを見つけた。そこで背に矢を放
った」というのであるが、最後の部分で、
「我々が知り得たところでは、三河の王を討つために上洛した信長も、その一行の女
も、みな毛髪一本も残さず灰塵になってしまった」
と爆発による謀殺を示唆している。
 それにしても、まさか起きてから三時間後に、のこのこと手拭いをぶら下げて、信
長ともあろう者が洗面所などに行くわけがなく、のんびり背を向けて縁側でジャブジ
ャブしていたわけもなかろう。
 この事件の三年前にスペイン王フェリッペ二世が開発させたチリ硝石、新黒色火薬
による物凄い爆発が、この一瞬に全てを決したとものだろう事は疑いもない。
つまり、これが信長の最後であり、本能寺の殺人事件の確かなことである。

(了)