1180 織田信長殺人事件 12

「な、何奴の謀叛なるぞ」
白い練絹の寝間着のまま、熟睡している信長はびっくり仰天。すわっとばかり溌ね起
きざま叫んだ。すると、
「あ、明智日向守」と森蘭丸は言った。
「なに、明智めが謀叛とな」信長が、きっとして問い返すと、
「白地の四手しないの馬じるしにて、紋は水色桔梗にござります。見間違いなどござ
りませぬ」
小姓蒲田余五郎も肩で息をし背後を指差した。そこで信長はすっくと立ち上がるなり、
直ちに、
「表御堂にいる者共を、すぐさま集めい」と大音声にいいつけ、
「早よ、調度をもて」とうながした。
「これに」と蘭丸がすぐさま差し出す四足篭(よつかぬりごめ)の大弓を、
「よっしゃ」と抱え込むなり、表御殿の広縁まで駆け出してゆくと、
「やあやあ、不敵なる奴ばらかな‥‥我こそは右大臣信長なり」
と自分から名乗りをあげ、
「片っ端から死人の山をば築いてくれん」
蘭丸のさしだす矢を次々と、
「ヒュウッ」「ヒュウッ」とくりだしては射ちまくり、
「さすが上様、天晴れなるお手の内にて‥‥」
森蘭丸に誉められ、信長もにっこりと、
「久し振りに弓を握ったが、昔とった杵柄とは申すが、よく当るのう。見てみい、も
う四人も倒したぞ」と次の矢を放てば、側の蒲田余五郎も、
「これも大当り‥‥お見事」
信長の手練の腕前に感じ入って、思わず驚嘆の叫びをあげた。
 しかし、天には好事魔多く、せっかく調子が出かけたところで、信長の弓弦に寿命
がきたのか、ぶつりと切れてしまい、もはや矢は射れなくなった。そこで、
「次は、道具をもて」
とよばわると森蘭丸がかしこまって、
「はあっ」小走りに座敷へかけこんで、「月剣」と異名がある信長秘蔵の十文字槍の
鞘を払って持ってきた。
「よし」
といいざま、大和の宝蔵院から献上してきた秋水のごとき名槍を小脇に抱えて、
「さあ来い、きたれ」とばかり、段階(きざはし)から、「えい、やっ」と群がる敵
中へ躍り込み、
「この信長の‥‥槍先をうけてみいや」
当るを幸い突き伏せてしまい、引き抜いては、これで近寄る輩を薙ぎ倒す。
黒山のように寄せてきた敵も、この信長の獅子奮迅の働きに次々と築くは死人の山。
「屍山血河、とは文字通りこの有様か」
さすがに皆たじろいて潮のごとく後退しだすと、
「不甲斐なき味方の奴ばらかな。いでや、この安田作兵衛が、右府公の御首級を頂戴
せんもの」
虎髭を顔一面にさながら針金か釘でもうえつけたような鬼の如くに凄まじい武者が、
「いざ御免候え」
と、りゅうりゅうとした槍をしごき、黒革胴の大鎧のまま、さながら甲虫の如く飛び
はねて突き刺さんとした。
 これには、さすがの信長も、最前よりの力戦奮闘にて疲れきっていたところゆえ、
「‥‥ややっ」と鋭い槍先をさけようとしたが、間一髪。
「うぬ」と誤って、その作兵衛の槍の先にて右腕の肘を縫われてしまい、
「しまった」と危うく月剣とよぶ大身の槍を落しかけたところを、
「恐れながら」
駆け寄りざま蘭丸が、すんでのところで信長の腰の辺りに刺さりそうになったのを、
横合いから、
「おのれ上様に、無礼であろう」
と、月剣の槍の柄で払ってのけるや、段階の上から、
「この慮外ものめが‥‥」飛び降りざまにエイヤアッと突き立てる。
すると狙い誤たず、
「グサリ」とばかり作兵衛の大腿に深々と音を立て刺し通る。
が、安田作兵衛も名代の豪傑。
「なんのこれしきのこと」と、自分で、その槍の穂先を抜き取ってしまうと、
「よくも、この俺に槍をつけおったな」
いきなり自分の槍で蘭丸に突き返してくるが、なにしろ身軽な蘭丸のことゆえ、
「ここまでござれ甘酒進上」とばかり、すばやく段階の欄干にかけ登ってしまう。
そして、「‥‥上様」
と、振り返りざま、信長によびかけ、
「かくなる上は、早ようお腹を召されませ」と絶叫する。
 それまで肘の傷口を蒲田余五郎に布で縛らせつつ、形勢如何とあたりを睨んでいた
信長も、もはやこれまでと覚悟をつけたのでもあろうか、そこでにっこり微笑み、
「では後はよしなに、もう少しの間、防ぎを仕れ」
と云い残すなり静かに居間に入っていきピシリと板戸をしめきると、燭台を倒して火
をつけ、勇将の最期を飾るのにふさわしく、
「かねて覚悟のところ」
と何の未練もなく、正座するなり、小刀を抜き放つなり逆手に握り締め、おもむろに
下腹をおしひろげた。
 が、こうなると周章てたのは安田作兵衛。せっかく自分が信長公に一つの槍をつけ
たのに、居間へ入ってしまわれ、戸の隙間から白い煙がゆらゆらと流れてきては、
「これは大変。せっかくの天下一の手柄が、これではふいになってしまう。なんとか
して信長公の御首級を頂かん」あせって段階をかけ登らんとすると、
「そうはさせじ」
とばかり、またも蘭丸が飛鳥のような早業で、飛んできて前をふさぎ、
「静かに御生害なさらんとするに、邪魔だて致すとは、憎っくき奴かな」
と上へ駆け上りかける作兵衛を、またしても自分の大身の槍をふるって、その十文字
槍を薙ぎ倒そうとするが、なにしろ森蘭丸の方が身が軽い。
「ここと思えば、又あちら。燕のような早業じゃな」と段階の欄干をひょいひょい右
に左に飛んで防戦する蘭丸には手をやいてしまい、ついに鬼の作兵衛も、
「無念、残念、口惜しや」と泣き出してしまった。

 これが菊人形のパノラマや絵本でお馴染みな、森蘭丸の奮闘ぶりの一場面である。
やがて、主君の織田信長公が静かに生害を終えて、その信長が放った火で本能寺が燃
えだしてしまうと、「もはや、これまでなり」幼い弟の力丸、坊丸をよび、
「出でや上様の御供をば仕らん」
と互いに刺し違えて屠腹。ここに本能寺の華と散った。
 諸君。かの森蘭丸は忠君至誠の士。まだ君たちと変わりない紅顔可憐な少年の身で
ありながら、主君信長公を守って悠々たる大義に生き、壮烈な一死をもって死後三百
六十年の今日にいたるまで、その芳名は歴史に燦然と輝いている。君等の中で「昭和
の蘭丸たらん」と志す憂国の士は、後方にしつらえて待って居られる少年航空兵や少
年特別兵の受付の前に行って、はっきり自分の姓名を申告し、応募用紙を頂いて申し
込みなさい。戦局は今や苛烈にして、我々の祖国は現代の森蘭丸を待望することや切
である、と一席ぶつ歴史家先生の演台の背後には、畳に枚ぐらいの大きさの本能寺の
戦争画。
 信長は隅っこの部屋の戸口から顔を出しているだけで、絵の中央は前髪だちの美少
年森蘭丸が、まるで裾がめくれているのを少女のように恥ずかしがりながら、それで
も鬼畜米英の怪物のような安田作兵衛に向かって、必死になって槍を向けていた。
 今想いだしても、あの絵には「耽美」というか、そこにはナルシズムがあった。
大政翼賛会報国美術隊に加わっていた、現在でも有名な画伯の描いたものである。
旧制中学の講堂で、スフのゲートルをまいたイガクリ頭の少年達は、蘭丸の白い脚や
桃色の顔に春絵のようなエクスタシーを感じ、そして最近やっと映画化された少年特
別兵募集のために、狩り出されてきたような歴史家の講演にすっかり感激してしまい、
それぞれ本能寺へと、
「君もゆくなら俺もゆく」
と、太平洋に狩り出されていった。そして彼等の殆どが髪の毛一本入っていない白木
の箱で戻ってきた。だが、この本能寺の話は本当だったのだろうか?

 まず、「蘭丸」の蘭の字であるが「信長公記」でも、「森乱丸」である。
これは<角倉文書>に、
「了以が御朱印船の許しを賜りカンボジヤへゆく。その香をすうと延命長寿なりとい
う奇花の種子をえて、これを駿府(家康)に献上す。神君は珍重されてこれを蒔く。
芳香なり。もって、その効も有らんかと仰せられて、その花に『らんか』と命名さる」
というのがあって、乱丸の死後三十年たってから「蘭花」という文字が現われてくる。
 つまり、乱丸の生前には金襴の「襴」の字はあっても「蘭」という文字は使われて
いない。だから、「蘭丸」として出てくるものは、これは彼を美少年的イメージにお
いて錯覚させようと作為されたものとみられる。なにしろ蘭丸のすぐ兄にあたるのが
「鬼武蔵」といわれた森長可勝蔵(庄蔵)で、天正十年の甲州攻めの先手となって、
信長から「信濃の内、高井郡、水内郡、更科郡、埴科の四郡十四万石」を貰って、川
中島の海津城を居城にしたとき、その容貌魁偉なるに信州人が愕き、
「鬼鹿毛(おにかげ)(馬)に鬼武蔵」と言ったと「信濃風土記誌」には残っている
ほどの容貌である。
 すると、古来「瓜の蔓に茄子はならぬ」というから、兄が鬼みたいな顔をしている
のに、弟が美少年というわけはない。やはり、「鬼少年」でないと話が合わない。
 次に年齢であるが、俗書では十六歳。
<戦国人名辞典>でも、何を根拠にしたのか、本能寺で死んだ時を十八歳にしている
が、兄長可が西暦1588年生れで、本能寺の変の時は二十六歳である。
さて、森兄弟の父の森三左エ門というのは、西暦1570年に近江宇佐山の城を守っ
ていたが、朝倉浅井の連合軍に攻められて四十八歳で戦死している。
逆算してゆくと長子長可が十三歳の時にあたる。
この他に男児は、
二男 森乱丸長定
三男 森坊丸長隆
四男 森力丸長氏
五男 病没
六男 森千丸忠政
で、他に四人の娘がいたというから計十人。
 父四十八歳で長子が十三歳ということは生産開始は三十六歳から戦死するまでの十
二年間となる。
その間に十人が産まれたとなると、出生間隔は1.2年の勘定になる。
 もし乱丸の年齢が兄の長可よりも8歳も10歳も離れていて、十八歳や十五歳なら
ば、父森三左が四十四歳か四十六歳の時の子となる。すると、三男の坊丸以下男女八
人の子供は、父が四十八歳で討死してしまうから、四年または二年間に、毎年二人ま
たは四人の割合で、つまり一卵性双生児か、三つ子や四つ子でなければ生産できない
という計算になる。
 もちろん森三左は男だから自分で産むわけではないから、側室でも沢山並べて次々
に妊娠させたかと思ってみたが、それでは本能寺へ馬にのって出かけた力丸、坊丸と
いうのが幼児という計算にもなる。
 といって竹馬にのっていったものなら、馬の口取り仲間の必要もないし、信長は幼
稚園の園長でもないから、子供を遊ばせてやろうために本能寺へなど伴うわけなどな
い。それに、「長隆、長氏」という名乗りを二人が既に持っていたということは、当
時としては一人前の青年だった事を意味する。すると、これは常識として、この森兄
弟の年齢間隔は前述の平均値の1.2年が正しい。
 つまり森乱丸が十五歳とか十八歳というのは歴史家の嘘であって、長男が二十六な
ら次男乱丸は二十五歳または二十四歳が正しい。これの裏書できる史料としては、
「信長公記」巻五、「御国割りのこと、天正十年三月二十九日」の末尾の方に、はっ
きりと「金山よなだ島、森乱丸へ下さる」と明記されている。
「總見記」では「森乱丸は美濃岩村五万石の城主」とある。
 だが、岩村の城主は団兵八であって、これは間違いであろう。
なにしろ、乱丸の兄の森長可は天正九年までは美濃金山三万五千石の身分で、天正十
年の国割りで信濃四郡十四万石になった。
 が、本能寺の変で信長に死なれた後、上杉勢に攻めたてられて逃げ戻ってきた時、
乱丸が討死していたため、古巣の美濃金山城へ入っている事実がある。
 つまり、「美少年森蘭丸の前髪だちの、牛若丸のような奮戦」
というのは、歴史家がいくらがんばろうとも、まったく事実相違であって、
「年齢二十四、五歳の容貌魁偉な大男で、当時三万五千石か三万八千石の大名だった
男」というのが森乱丸の実像であったとみるのが、どうみても正しかろう。
「小姓」というと芝居や映画で、かわいい小さな女児が紛争するのを瞼に浮かべて、
「乱丸も、ああいう可憐な、よか稚児さんだったのか」と連想するのはホモ的な考え
方で、戦争に協力してこういう嘘で多くの少年兵を獲得して、皆殺しにしてしまった
歴史家というのはひどいものだと私は思っている。今でも死んだ少年兵が可哀想でな
らない。
 しかし、問題は、なぜ信長が「乱丸、力丸、坊丸」と、後世の歴史家が少年や幼年
に間違えるような呼び方で扱ったかという事に、これはかかっているようである。
 そして、日本の歴史学では、まだ未解明のままになっているが、西暦六、七世紀に
仏教をもって大陸から舶来してきた人種と、それまで日本列島にいた原住民との闘争
そのものが日本歴史なのであって、応仁の乱から信長の時代にかけては、これは明瞭
に、「公家対武家」という対立をとっている。
 俗書又は公卿の日記類では、「前右府公」とか「右大臣」といった扱いを信長の肩
書きにしているが、信長は、西暦1577年の十一月に右大臣となったが、翌年の春
にはすぐ辞めている。つまり、半年も在任はしていない。武家のボスとして公家に対
し、それに結びついている高野山や比叡山を焼き討ちして、今の浄土真宗本願寺と戦
っていた彼は、
「公家の官位につくを、潔しとせず」と、天正六年春に右大臣を辞めた後は、「無位
無官」の野人として死ぬまで頑張っていた。
 だから「前右府」などと生前に呼ばれるわけではない。もし、そんな言葉を出した
ら即座に叩っ斬られていただろう。
 さて、これは、このしめくくりとして書くことであるが、西暦1571年に日本へ
来たイエズス派の宣教師の一人が、
「日本にはいくつかの国がある。一つはエズ(蝦夷)といい、言語も容貌も相違する」
と元龜二年、信長が仏教徒のたてこもる比叡山延暦寺を大虐殺したのに驚いて本国へ
出した書簡がある。それをもって、まるでその外人が北海道へ行ってアイヌの見たよ
うに解釈している向きもある。
 しかし、これは京都より東に居住していた日本原住民系。はっきり書けば、信長や
その家臣団の連中と、京から九州へかけて分布し、現在の広島あたりを「日本の中国
地方」とよんでいる人種とは違っていたということだけなのである。
「戦国武者」と呼ばれる非公家の地家の面々は言語、容貌まるで相違して、まるで別
の国のようであると、その宣教師は手紙を出したにすぎない。
 西暦六、七世紀から追われて北海道へ渡り、そこで孤立してしまった一部がアイヌ
に同化したかもしれないが、あくまでレジスタンスを続けた日本原住民の連中は捕え
られて、これを国内二千有余の別所に収容されたという歴史が「続日本紀」や「日本
後紀」にはある。
 織田信長も近江八田別所織田の庄から尾張へ移った部族の末裔である。今日では、
もうはっきりしている。
 さて、別所というと、「大原女いらんけぇ」で名高い京に近い八瀬大原も昔は別所
である。江戸時代、文化四年刊小宮山昌秀の「楓軒偶記」と安永二年版二鐘亭半山の
「見た京物語」には、
「大原女とて物みさぐ矢背大原の里は、別所ゆえ課税なく家ごとに富むといえども、
他村との交わりはなく、ここは女天下の土地にて、家ごとに主婦ありて男衆を呼ぶに、
犬を呼ぶ如く『ちよ、ちよ』という。しかも、これは男の総称にて『太郎』というが
ごとく、かかる別所にては男は皆『竹千代』などと称すなり」とある。
 また、「江都俳諧考」には、「朝顔に釣瓶とられて貰い水、などとの句にて知られ
る加賀の千代女が、その名の下に『女』とことわりを付するは、古来『千代』は男名
にて、三郎、五郎の『郎』にも当たればなり。その人の親の男児を称し。生れる前に
『千代』と名づけしも女児なりしが、そのままにて名を通す。よって当人はそれを恥
じ、己の名の下に『女』をつけ『千代女』といいつると聞きはべるなり」とある。
 つまり「前田犬千代」などという前田利家の名前など、はっきりした原住系を意味
するものだろうし、高野山へ父に逢いに行く「石童丸」というように、下へ「丸」が
つくのは「マロ」と自称する公家仏家の出身という区別が戦国時代には、はっきりつ
いていたものらしい。
 さて、信長も若いときには、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」と、大いに原住民系
のホープとして片っ端から叩き殺したり、焼き殺して仏家の者を征伐してきたものの、
次第に天下統一の機運に乗ってくると、これはどうしても「清濁あわせ呑む」という
か、「四海同朋」というように、公家仏家も同一視して、日本共栄圏を作らねばなら
ぬようになってきた。
 しかし、これまで信長というと、高野山から出ている遊説僧の、「荒野聖」までひ
っ捕えてきて、これを数珠つなぎにして斬殺しているものだから、「千代」の幼名を
つけられる部族出身者達からはもてはやされ支持を受ける反面、「丸」と幼名をつけ
る側の公家の藤原系の人々からは、
「あな怖ろしの信長や」と警戒されていたらしい。そこで信長は、
「わしも心をいれかえた。これからは『丸』や『麿』のつく連中とも丸くうまくやっ
ていくつもり」
といったことを政治目的として大いに宣伝周知させるために、
(丸のつく連中でも側近として可愛がっているのだぞ)とばかり既に元服もすませ、
「森長定」だとか「森長隆」「森長氏」といった一人前の青年をも、その政治的配慮
からして、これを信長はいつまでも「乱丸」とか「坊丸」「力丸」などと故意に呼ん
でいたものとみられる。
 信長という人はそうした細かい計算だけにだけ、きわめて頭の回転のよかった男ゆ
え考えられる事であろう。だから、ついに四世紀後になって、花も恥じらう美少年や
可愛い美童のように扱われてしまい、それだけならようが、少年特別兵募集の際など
は、
「君達中学生諸君も、昭和の森蘭丸になりたまえ」と、学校の講堂でのアジられるサ
ンプルにまでされてしまったのが真相らしい。