1179 織田信長殺人事件 11

娘は春日局

「何やつぞっ」
きっとして内蔵介は馬を止め、背後から供の者の差し出す槍をつかんで、それで身構
えた。
 すると、相手は手を振って傍らの馬肥やしの叢にうずくまり、
「これをっ」
と懐中よりの封書を出した。受け取った内蔵介は裏返して見るなり、
「あちらへ参れ」と欅(けやき)の樹の蔭を指差し、
「わしも行く」鞍から降りるなり、手綱を供侍に持たせると、羊歯の葉の繁った草原
を横切って行った。そして、
「まずは、息災か?‥‥」
と封書の裏にでている妹の事を、その使いの者に尋ねた。
「はい、御病気でござりませぬが、信長様が四国征伐に乗り出され、仰山な兵を差し
向けられるとかの噂に、すっかり胸を痛められ、気落ちなされ、ずうっと寝込まれて
ござりまする」
聞き取りにくい土佐弁だが、そんな意味の事をたどたどしく喋った。
「うむ、さもあろうのう‥‥せっかく長宗我部殿が四国全土を己の槍先一つで突き従
えられたばかりというに、ほっとする間もなく、その四国をば『よう働いて一つにし
おった。今度は余が貰ってこまそ』と、信長様に狙われ兵を出されては、こりゃ元も
子もない事になる‥‥なんせ四国を片付け退治するまでは、『やれ、やれ』と励まし
を言うていなされ、さて切り取ったら、今度は一挙に奪ってしまおうでは、ちいと信
長様も酷すぎる」
 暗然とした内蔵介は、木の葉隠れで翳っている顔をよけい悲痛な色に沈めた。
「そのところにござりまする‥‥それなる御文にもしたためてござりましょうが、な
んとか御力をもって信長様に四国征伐の事思い止まっていただけるよう計らって下さ
りませ」
と使いの者は平身叩頭。青草に額をにじりつけるようにして何度も頭を下げた。
「うむ‥‥」
内蔵介は開けて見なくとも判り切った妹の手紙をひろげた。
 案の定、信長様に四国攻めなどされたら、何のために自分が土佐に嫁に貰われて来
ているのかわからなくなる。それでは斎藤内蔵介の妹をと妻にした長宗我部部元親が
馬鹿な男と、ものわらいにされようといった文面で、
「もし妹の事を少しでも愛しと思い下されば、なにとぞ、なにとぞ、信長様の御征伐
軍勢の儀お止め下されますよう御尽力の程を」
と、当の元親までが最後に自分で書付け加えていた。
 しかし、四国からいくら手紙を幾度よこされたところで、もはやせんなきことだっ
た。
(この斎藤内蔵介は昔の如く勢いのあった羽振りの良い内蔵介ではない‥‥奇蝶様に
いわせれば、美濃の者ゆえ格下げにされ、今は信長様に諌言どころか、直接になぞあ
まり口をきけぬ身分にまでなり下がっているのだ)
と内蔵介は溜め息をするしかない。なのに、
「四国征伐の総大将は織田信孝様、それに丹羽五郎左と津田信澄様。御目付は蜂屋頼
隆殿にて大坂城に入られ、軍船を夥しく住吉浦に並べられ、まるで海の色など隙間か
らでも覗けぬほどにござりました」
と、土佐の浦戸城から使いに来た者は、住吉浦へも廻って調べたらしく、手振りまで
加えて訴えた。
「うむ、左様か」内蔵介は答えた。それしか他に返事もできなかった。といって、
(本当は、もはや内蔵介の手の及ぶところではない)
とも、使いの者に告げられず、
「これなる書状を信長様にお見せして、なんとか翻意して頂くよう、もう一段の努力
をしてみようぞ。元親殿や我が妹にも、よいか、御休心あれと、そないに返事せい」
 内蔵介は嘘をついた。この場合たとえ気やすめにしろ、そういわねばならなかった
のである。
「住吉浦の舟夫どもの口では、出帆は六月二日との由。なにとぞ、それまでに軍勢の
御渡海をくい止めていただきたく」
くり返し、くり返し、そんな意味の事を土佐弁で訴え、使いの者は蓬葉の茂った叢の
方へ一礼してから駆けていった。
(一刻も早く土佐へ戻らねばならぬゆえ、心急ぐのであろう)と見送りつつ、
「六月二日には二万の軍勢が四国へ向けて出帆か」内蔵介は、キッとして口にした。
 しかし、三男の信孝を四国全土の守護職にする計画で、このたびの征伐を決めた信
長が、(内蔵介の立場が困るのなら、是非もない)と、大坂へ集めた軍勢を他へ廻し
てくれることなど、考えてみるまでもなく、無理な相談だった。
(信孝の新鋭の軍勢が上陸すれば、いくら長宗我部部が剛勇でも、ひとたまりもある
まい。すれば妹は立場に窮し自ら縊れるか、又は喉でも突いて死ぬしかなかろう)
内蔵介は胸がじんと痛んできて、じっと妹のいる四国の空を仰ぎ見た。

 さて、明智光秀は四国への出陣の先手を信長に命じられると、すぐさま坂本城へ行
き、そこで家老の明智秀満に用意を言いつけ、二十六日には丹波亀山へ向かった。
 打ち合わせに来た軍監の斎藤内蔵介と打ち合わせはしておいたが、直接の家来では
ないから、用意はいかにと案じて見に来たのである。しかし、思いのほかに整然と仕
度が進められているのを見て安心したのか、明智光秀は一日だけ在城したが、次の日
になると「愛宕山へ行く」と、坂本から伴ってきた近習だけ伴って出かけてしまった。
一泊の予定だった。
 ところが、その二十九日の朝、信長が小姓三十名だけ身の廻りの世話用に率いて、
さっさと上洛したと、安土の明智屋敷の者が光秀が亀山にいるものと思って知らせに
来た。
「ほう、信長様は何をしに京へ行かれたのじゃろ」
内蔵介も聞いて不審そうに首を傾げたが、
(さては奇蝶御前の云うとおりでありしよな)と、そこはすぐに納得して、
(さて、奇蝶様の云われるようであれば、こりゃ美濃の者は信長様に嫌われているゆ
え、次々とみな根絶やしにもされよう)さすがに色々と心配になってきた。
 そこで、内蔵介は中国攻めの出陣の仕度を指図しながら、浮かぬ顔をしていると、
夕方になって、
「殿っ‥‥お人が」と、内蔵介の家来が泡をくって、まるで黄粉まぶしの餅にように、
すっかり砂塵まみれで黄色くなった若者を案内してきた。
「手前本多弥八が伜めにござります」低い声で、その者は名乗りを上げた。
 この男、後に本多正純と名乗り、下野宇都十五万石の大名になるのだが、この時の
使いにたったのが不運というべきか、この後江戸時代になって、
(宇都宮吊り天井事件といったでっち上げ事件を作られてしまい、この本多正純は信
長殺しの謎を世間に口外せず秘密にするためにと出羽の由利に追放監禁され、他人と
口をきくことを生涯許されず、座敷牢の中で七十三歳まで生きていたというが、これ
は後の話である)
「ほう、本多正純が御子息か」内蔵介が聞き直し、
「ひどい埃じゃ。まず頭から悉皆洗われたら」
と家来の者に井戸端へ案内させようとした。
「‥‥恐れながら」と若者は黄色い砂垢ほこりまみれの顔をくっつけるように近づけ
てきて、
「信長様上洛の報に接し、我が殿家康様は直ちに海路の便を求められ、堺へ脱出なさ
れたが、堺では政所の松井友閑めが見張っていて、その邸へ閉じこめられてござる。
すぐさま兵を率いて蹶起して下さりますよう‥‥お願いに参りました」
一気に言ってのけた。そして、
「家康の殿が直々に仰せあるには‥‥本日只今、徳川家にとっては浮沈の瀬戸際。も
し内蔵介殿が助けてくれるにおいては、生涯これを恩にきて、徳川の家は内蔵介殿の
血脈をもって継がせてもよいとの御諚」
と力強く言うなり、襟のあたりへ糸きり歯をあてて縫糸を引っ張り切るなり、
「これを御覧じくださりませ」
と血判の痕が黒く滲んだ薄葉紙をひろげてつきだした。
 見れば今しがた口にしたのと同じ文面にて、家康の直筆らしい事は疑いもなかった。
だから、
「かしこまって候」
とは返事してしまったものの、家康が怖れていた敵というのが信長だったとは‥‥内
蔵介にもあまりにも意外だった。
「俗に親しき者こそ最大の仇敵なりといい及ぶが‥‥なんで家康殿は信長様に狙われ
てござるのか‥‥」
と、あまりの不可解さに聞き返したが、本多正信の伜は、
「そこまで存じよらず」とうつむいたまま首を振った。
 この謎、つまり家康が信長に狙われていた真相は私の「謀殺」に詳しくわかりやす
く、その秘密を明かしてあるが、それに書き残した話として当時のイエズス派資料に
も、
「三河の王(家康)が教会に宿泊したら、せっかくの教会が信長の軍に襲撃されると
心配してたところ、彼は教会を宿泊所にしなかったので、伴天連共はほっとした」
という記述がある。普通なら教会へ家康が泊まってくれたら、将来の布教の上にも便
利が得られ歓迎すべきであり、家康の家来が銀の燭台を盗み出す心配もなかったろう
に、なぜ彼等は徳川家康を迷惑がって避けたかというと、この時、京では、
「‥‥家康は信長に襲われる」という噂が、外国人である宣教師の耳にも届いていた
ためである。
 なにしろ「1582年日本イエズス会年報」にも、京都教会堂カリオン宣教師によ
って、
「6月20日(日本暦六月一日)彼等は信長の命により、三河の王(家康)を殺すべ
く京都へ侵入してきたのである」という一節が書かれているくらいである。

「‥‥お願いでござる‥‥せっかく堺までは落ちのびたなれど、船という船が押さえ
られ脱出がかなわず、今や我ら主従百余名は袋の鼠」
と本多正純は、両目に涙をためて縋りついた。
「と言われても、預かりの金は京においてござれば、ここにはなく、一兵とても銭で
は集められませぬ」内蔵介も首を傾げた。
 そのうちに空が暗くなってきて、大粒の雨がきた。
「夕方でござる‥‥間もなく雨は上りもうそう」
と内蔵介は言ったが、なかなかどうして雨は沛然と本降りになってきた。
 夜中に少し小降りになりかけたが、朝になるとまた篠つく土砂降りとなった。
この頃は太陰暦で五月は二十九日だけ。
吹き降りの雨に明けた翌日は六月一日だった。内蔵介は烈しい雨だれを聞きつつ、
「この雨では一泊の予定で愛宕へ登られた明智光秀殿も、馬の蹄が滑って山頂からは
降りられまいし、本能寺へお泊りの信長様も、この雨に閉じこめられてはのう‥‥」
と唸った。
 まだレインコートも傘もない頃なので、雨に降られると蓑しかないが、そんな物で
しのげるような雨ではなかった。なのに、昼になっても午後になっても土砂降りは続
き、降りに降っていた。
 四人の男の子とその下の女の子が三人。まるで塀に並んだ雀のように、ちゅんちゅ
んさえずっていた。京から丹波へ連れてこられたが、雨に降り込められ、皆退屈しき
っていた。
(こうして集められたは、なんぞ、およばれじゃのう)
だから、きっと珍しい到来物でも配って下さるかとあてにして騒いでいた。
(この前のように白や茶色でギザギザ刺のでたコンペイトオ(金米糖)かもしれぬ。
ありゃ南蛮渡りのものじゃそうだが、口に入れたら甘うて、唾がみんな蜜になってし
もうた‥‥もし一粒ずつ無理なら、たとえ半分ずつでもよろしいに)
と子供達は、また舌の上でとろけてゆく感触を味わったりなどしていた。
みんな面白そうに、にこにこしあい、楽しさに期待をはずませ、肘で突き合ったり肩
を触れたりして行儀ように並ばされていたり、座ったままで押しくらまんじゅうごっ
こなどしている。
 が、そこへ入ってきた父親の斎藤内蔵介利三は、少し青黒く翳った顔と鉛色に沈ん
だ瞳をしていた。だから子供達は飼葉桶の水を頭から浴びせかけれたようにしゅんと
してしまった。
 まだ四歳だった三女の於福はまだ顔色をみるという才覚はなかったが、
(なんや、何も持ってへんなぁ)
父内蔵介の手に何も握られていないのを見ると落胆した。
期待外れに悲しくなってしまい声は出さぬまでも、それでもべそをかき出しかけた。
いつもの父の内蔵介なら、すぐ側へきて「よし、よし」と頭を撫ぜてくれるから、於
福もそのつもりでいたのだが、聞えてくるのは雨だればかりで、父は黙っていた。
 それがよけいに悲しくなってしまい、
「京でいただいた落雁でもええ‥‥何か欲しい」堪りかねて声を出した。
 それでも父は黙り込んで側へもこない。だから於福は癪にさわって、駄々をこねる
みたいに、わぁわぁ喚こうかと思った時である。
七人の子供の前にどさりと腰をおろした父の内蔵介は、一渡り子供等の顔を見渡して
から、
「ここにその方等を集めたのは余の儀でもない。実はのう‥‥」
と言い始めはしたものの、裾の方にいる四歳の於福や六歳の於順には少し難しかろう
と思ったのか、言葉をやわらげ、
「お別れにな、皆を‥‥呼んだのじゃえ」と、わかるように言ってきかせた。
一人ずつの顔をまっすぐ見てはにこにこと眼で微笑みかけてみた。
 しかし催促されるような微笑をされても、(別れじゃな)などと改めて言われた後
では、とても追従笑いなどできるものではない。
七人の子供は、怯えるように眼をみはり、耳をすまして父の次の言葉を待っていた。
「‥‥武士には武士の意地。男にゃ男の意地というものがある。こりゃ銭金では贖え
ぬものじゃ。というて、その根性を立てて我をはれば、ろくでもないめにあるはめに
みえたこと。勿論そない道理のわからぬこの父ではない。しかしのう‥‥」
と、そこで声を止めると、喉をごくりと鳴らした後は感涙にむせぶのか目頭を押さえ、
肩で荒い息をして暫くはものを言えなかった。
 やがて涙に濡れた顔を上げると、
「こないな事を幼いその方らに話してもわかってくれるか否やは思いもよらぬ。が、
親としては云うておかねばなるまい。今は判らなくとも言葉だけは覚えておき、いつ
か元服したら思い出してくりゃ‥‥すりゃ父の存念も幾分とも理解できぬものでもあ
るまいて‥‥」と云ってから、
「まだ頑是なきその方等七人を放り棄て、勝手な真似をするこの父は、人でなしの外
道よと、きっと怨まれもしようが、これも詮方なき話じゃ。のう堪えてくれ、許して
くりゃ」
と終には頭を下げてしまった。
 年長の市助(後に家康に召される斎藤佐渡守)が、少し声を震わせ心配そうに、
「ど、どないなされましたか」と吃って尋ねてきた。
「うむ、今のまんまでもおとなしゅうしておればな‥‥その方ら子供にも迷惑かけん
と、まぁ無事息災には暮してゆける‥‥だがな、よく聞けや。妻子さえ安穏なら、そ
れで男は良いというものではない。男とはな、意地を張り抜いて生きてゆくものじゃ
‥‥眼には眼、歯には歯と、己が受けた仕打ちにはきちんと仇をとってかたをつけて
おかねば、こりゃ死んでも死に切れたものではないぞ」と言い切った。
 四歳の於福には聞いていても何も判りはしなかった。ただ、上の兄達が今にも泣き
出しそうな顔をし、父の内蔵介の方も大人のくせしてべそをかくみたいな表情だから
して、
(こりゃ、たいそうな事らしいが、はて何じゃろうまいか)と小さな胸を痛め、
「なんや知らんが、おそがいのう‥‥」次の姉の於福の膝頭をつつき、低い声でたず
ねた。
 なのに六歳の姉はまるで大人みたいに眉をしかめ、
「しいっ」と叱りつけてきた。だから於福はわけがわからぬままに、ますます怯え切
ってしまい、もう堪えようもなく、とうとう手ばなしで声を張り上げ、「わぁわぁ」
泣き出してしまった。
 これには父の内蔵介も持て余しぎみで、
「これ、いねはおらぬか」と大声を出した。用心して奉公人などは寄せつけぬように
どこか遠くへやってあったらしく、母が部屋へ来たのは何度も呼ばれてからだった。
「早うに仕度をし、ひとまず美濃へ落ちていけや・・なんせ七人も子をつれては連中
が大儀じゃろうが堪えてくれや」
父の内蔵介が母に詫びるように云うと、
「なんの‥‥この身は子供をつれての旅なれど、お前様は一つ間違えば死出の旅‥‥
最前よりお願いしておりますことなれど、子供らとて上の三人は、もういっぱしの伜
共ゆえ、心きいたる者さえつけてやれば‥‥なにも私めがついていかいでも道中の心
配などいりますまいに‥‥なぁ、おまえさま」
母はそんな口のききかたを子供の前でしてから、ひしと内蔵介の膝にとりすがった。
「‥‥かかさまはどこに残られるのかや」
気になるとみえて、次男の伝助(後の家光近習稲葉出雲守)が尋ねると、母は背を向
けたままで、
「侍の家に生れたからには、その方らとてかねての覚悟というものがあろう。うろた
えるでない」と叱った。だから於福は泣きじゃくるのも止めて、
(父上の膝にしがみついて、おろおろ声しとる阿袋様が、子供の兄に狼狽するなとは
おかしやなぁ‥‥)と、首を傾げてしまった。しかし母はそれどころではないように、
「女夫の縁は二世ともいいまする。お供を許しなされませ」とかきくどいていた。だ
が、
「七人も子がいては、それもなるまい‥‥これからも内蔵介に尽くすつもりで、そち
ゃぁ子等の面倒をみてやれよ」
今度は父が母をあやすようにして、震える肩を撫ぜた。
 於福にしてみればいまいましく、
(ええ事してはる‥‥後で阿袋様だけがお菓子をもらいなさるんじゃろまいか)
と同性の母に、強い嫉妬を感じたものである。
 だから後年、於福が春日局になってから、
「よう、父内蔵介の顔を覚えていぬ」と言ったのは、この最後の別れの日に母ばかり
見つめていたせいらしい。

 さて、その夜。新暦なら6月30日にあたる六月一日の午後十時。
「上様御諚なるぞ」と内蔵介は雨の上がるのを待ちかねて、亀山で近在の兵を陣揃え
させた。
家康からの申し出に奇蝶御前の話‥‥
 翌二日になってしまっては、昼には四国征伐に二万の大軍が住吉浦から出帆してし
まう。だが、家康から預かった黄金を京へ置いてきている内蔵介には、傭兵を集めた
いにもすぐには手段もなかった。
 そこで切羽つまって、
(明智日向守は雨が上がったとはいえ、愛宕の山頂から降りてくるのは、まぁ明朝と
いうことになろう)
と勘考して、かねて中国攻めのために仕度させていた一万三千の兵を、夜半の十二時
に亀山城の東にある条野の原に集めた。そして、そのまま雨上がりの道を、
「南へ、南へ」と進ませた。
 やがて酒呑童子の伝説で名高い大江山を越えた辺りまでくると、
「備中へ行く前に京へ寄り道していく。五百両の黄金がおいてあるゆえ、皆にも分け
てとらせよう」と、主だった者には打ち明けて進路を変えた。
 内蔵介にしてみれば初めは本能寺へ行き一万三千の武力を背景に交渉して、なんと
してでも信長に四国征伐をやめさせ、己の妹を助ける事しか、彼の念願にはなかった
のである。まだこの時は信長の死など予想もしていなかったらしい。だから、
「敵は本能寺にあり」
と幕末の頼山陽が徳川体制に忠誠を示し、光秀に主殺しの汚名をきせてしまう事にな
ろうとは考えてもいなかったろう。
 ただ、男として己の存念をはらし、武門の意気地をたて、そして妹のためにも、四
国征伐を何とか食い止め、できれば信長を虜にして坊主にでもしてしまうつもりで、
「間もなく京ぞ、急ぎませぇ」まだ暗い道を一万三千の兵を率いて、しずしず進んで
行った。
 しかし、上洛してから、そうは行かず本能寺を爆発させ、ふっとばしてしまう結果
となった。おそらくそれは秀吉と組んで密かに命令を受けていたのか、あるいは彼が
前から機会を狙っていて、秀吉には協力を求めていたのかもしれぬが、織田家の作事
方として、かねて南蛮人より硝石輸入に携わっていた丹羽長秀の愛だった。
 彼は四国征伐のための火薬をば、輸入エージェントをも兼ねていたイエズス派の宣
教師から購入するについて、協力なチリー新開発硝石をも入手していたらしい。
 そして、長秀はひとまず疑われぬように大坂城へ戻り、チリー硝石の強力火薬は蜂
須賀党や亀山内藤党の木村吉晴らに手渡し、本能寺周辺に待機させていた。
 つまり、徳川方と奇蝶よりの懇願を受け、妹可愛さもあって四国を食い止めんとす
る斎藤内蔵介の一万三千は、包囲したものの、なかなか決断がつかずにもたもたして
いるところへ、密かに潜入してきた丹羽長秀の家来で、今でいえば工作隊にあたる連
中が、秀吉派遣の蜂須賀党や内藤党に督戦される形で、築土塀を這い上がって本能寺
の境内へ強力爆弾を仕掛け、導火線に火をつけたか、事によると木村吉清父子が自ら
爆裂弾を境内へ撃ちこんで信長を殺してしまったかもしれないのである。


               殺人現場の被害者

不意の出来事

 それでは斎藤内蔵介らの丹波勢ばかりでなく、蜂須賀党や内藤党の秀吉方にも狙わ
れ、さながら徳川・羽柴連合軍によって包囲された形の本能寺内部ではどうであった
のか‥‥
 つまり、殺人現場の臨場検証をしてみるといかがかとなる。勿論俗説のような華々
しいものであろう筈はない。もっと意外で侘しいものであったろうと思われる。

「誰ぞある‥‥」という信長の声に、
「はあっ」と、次の間に控えていた森乱丸はかしこまって引き戸を開けるなり、
「まだ夜も明けず暗くて定かではありませぬが、耳に入りまするは陣馬のいななき」
両手をついて、すぐさま言上した。すると、
「して、なにやつだ?」キンキンした声が伝わってきた。
「はあっ、弟の力丸、坊丸らを叩き起こし築土の所へ身を伏せ、様子をみるようにと
やりましたなれど、なんせ鼻をつままれても判らぬほどの暗さ‥‥今のところ、皆目
なんの見通しもつかめませぬが」と、そのまま返事をしたところ、信長は、
「向いの道勝の許へ誰ぞ遣れ」と身体を起こしてしかりつけるように怒鳴った。
「はっ、直ちに」
乱丸は、やはり傍らに控えていた小姓組の高橋虎松に手燭をもたせると、早口で、
「急ぎ、これより村井道勝様の邸へ行ってこう」と下知した。
「‥‥かしこまって」虎松が駆けて行くと、まだ真っ暗な控えの間に四角く座ったま
まの信長に、
「では暫くお待ちなされましょう」と、引戸に手をかけ閉めようとしたところ、
「たわけぇ」美濃言葉で信長は乱丸を叱りつけた。
「今から、又寝られることやある。このままで待つわい」と、いつもの癖で寝起きの
悪さをみせて、ぶつぶつ叱言を言った。そして、
「もう起きるぞ」と両手を弓なりに反らせ、欠伸を一つした。
「まだ夜明けには一刻(2時間)ちかくありましょうに」
乱丸は信長の枕許の違い棚になる砂時計の方へ眼をやって、止めるような口のききか
たをした。
 しかし、こうと言い出したら、はたから何といって諌めたとてきくような信長では
ない。やがて、南蛮渡りの薄い掛け更紗をはね除け、すっくと仁王立ちになった。そ
して、つかつかと乱丸のかしこまっている横を通り抜けて板廊下に出てしまった。
 咄嗟のことなので信長の枕脇の燭台から、予備の手燭に灯を移して持って出る余裕
もなく、乱丸は燭台ごと鷲づかみにすると、袖で風を庇いながら後に従った。
 板廊下の先は地面すれすれの軒廊になっており、そこが客殿と便殿との連絡口なの
だが、まだ夜気がしっとりと辺りに立ちこめていた。
 だから植込みの木々も唯もの黒くしか見えず、風もひんやりしていた。
つまり、天正十年六月二日の朝は、まだ暗闇にすっぽり包みこまれていた。
が、その暗い夜気にのって鎧の触れ合う音と馬の嘶きとが、まるで潮騒にも似た響き
を四方から醸し出すように響いていた。
乱丸がそれに耳をすましていると、
「駄目にござりまる」
息急き切って虎松が駆け戻ってきた。
「四方の木戸口は、びっしりと向こう側から押されて戸が開かず、外へは出られませ
ぬ」とうったえた。
「ならば不浄口から出てみい」信長に代わって乱丸が先に命じた。
 この本能寺は昨年四方の濠を2メートル巾に拡げた時に、さらえた土を塀代わりに
盛り上げて固め、その築土の土間に東西南北の木戸口を作っていたが、寺内の排泄物
などを外へ運びだす小さな不浄門が、巽の方角にある。目立たぬような冠木(かぶき)
門で、普段は仕切ったままになっているが、そこから抜け出して濠の内側の築土の端
を伝っていけば、本能寺門前の京所司代役にあたる村井道勝の邸へ行けよう、と教え
たのである。
「はあっ」と、今度は虎松だけでなく、かしこまっていた小川愛平も後から一緒に駆
け出して行った。
「冷えまする。ここにいても何も見えませぬゆえ、お戻りを‥‥」
乱丸は燭台の灯を消すまいと袖屏風をたてながら言った。しかし信長は、
「わかっとる‥‥」と一言それに応えたのみで、じっと暗闇を見詰めたまま立ちはだ
かり、部屋へ戻るような気配もなかった。
「手燭を持って参りました」
と、武田喜太郎、大塚又一郎の二人が両手に四角い火屋をつけた雪洞(ぼんぼり)を
持って出てきて、信長の足元を廊下の下から照らしだした。
 そこで交代するように乱丸は抱え込んでいた燭台を板の間へおこうとした。
が、袖をはなした途端に、さあっと掠われるように蝋燭の焔は吹いてきた風にもって
ゆかれてしまい、後には脂臭い蝋の臭いだけが残った。
「いったい何でござりましょうな」
喜太郎が下から、よせばいいのに尋ねかけてきた。
又一郎の方も目脂をとるように肘で顔をこすりながら、灯をともしたが、やはり不審
そうな視線を紙燭を庇いつつ向けてきた。しかし、
「戻る。何ぞあったら知らせい」
せかせかした足取りで信長は客殿の居間の方へ向かった。慌てた乱丸は階下へ手を伸
ばして、又一郎の手燭を取り上げ、火の消えた燭台を抱え上げて
「お足許を‥‥」と言って先に立つなり乱丸は前方を照らしながら大きな身体を折っ
て進んだ。
「何じゃい一体、人騒がせな」
怪しからんといったように信長はキンキンした声を出した。
乱丸も返事のしようがなく、
「四国衆の越訴ではありませぬか」当惑したまま最前から考えている事を口にした。
 この六月二日の朝、かねて住吉浦に結集してあった軍船に乗り、大坂城にいる織田
信孝を主将として丹羽五郎左、津田信澄ら二万の大軍が、四国の長宗我部征伐に赴く
事になっていた。
 だから先月あたりから、その噂に驚いた四国よりこちらへ来ている者共が、
(何とか御征伐を思いとどまり下さいませ)
と、手を換え品を換え嘆願に来ていたから、大方その連中ではあるまいかと考えたの
である。
「まさか四国者が軍馬を催し押し寄せてくるとは思えぬ」
信長は叱りつけるように、
「ありゃ、すぐそこの四条坊門のドチリナベル・ダデイラとかよぶ天主教の教会堂へ
集まってきたミサの連中ではあるまいかのう」小首を傾げたまま低く言った。
 これは天主教の京都司祭オルガンチーノが、先年、安土のセミナリヨを建てた時に
用いた寄進材木を残りを持ってきて、坊門姥柳町つまり現在の蛸薬師通り室町西入る
の角に三階建の礼拝堂兼住居を建てたもので、「真実の教えの会堂」というポルトガ
ル語、「ドチリナペル」と呼ばれたこの建物ができると、その上から、(碧眼紅毛人
が眼下の家を見下ろして困る)という訴えがあって、村井道勝がパードレを呼び、
「上に目隠しをつけい」と命じたところ、(バルコニー)とか呼ぶものを三階の上へ
また付け足したので、物見櫓のような恰好になり、遠くから見ると、さいかちの森よ
り高く聳え立ってみえ、まるで京の標識みたいだと評判されている建物である。
 しかも、この教会堂の位置ときたら、四条西洞院通りにある本能寺からは、通りを
一つ隔てているわけだが、本能寺の裏木戸からだと百mと離れていない。
 だから、カトリックの式日にあたるミサの日になると大変である。近在から数千も
の信者がここかしこへ押しかけてきては、教会堂に入れる順番を早くとろうと、夜明
け前から詰めかけてきて騒々しくて困るとは、かねて村井道勝からも言ってきている
し、本能寺の役僧からも、
「何卒、一つ上様の御指図にて」とは頼まれている。だから信長は、
「信者というても火薬欲しさの武者が多く馬に乗り物具をつけて駆け集まるとは穏や
かではない。こりゃ何とか致さずばなるまい」
眠いところを起された腹立だちさも加わって立腹しきった。
「これを汐に、あの教会堂は取り壊すか、もそっと辺鄙な場所へ移してくれん」
そんな具合に癇癪を起こして、足音も烈しく居間へととってかえした。
 さて、信長や彼に従って安土から出てきた小姓三十騎。それに馬の口取り仲間の厩
衆三十一人。それに本能寺門前の村井道勝邸から、「お手伝い」にと差し向けて廻さ
れてきた男女若干が、この信長の眼をさました御前から約三時間半経過した午前七時
半には残らず揃って、
「その名前を口にするだに、(宣教師)諸君は恐怖の中で旋律したであろう人(信長)
が、ついに毛髪一本も残さずに(吹っ飛ばされて)灰塵に帰してしまった」
といったう「フロイス日本史」に明記された結末にこれからなるのが、世に言われる
「本能寺の変」であるが。
 まず、念のために、従来のこれまでの俗説。つまり徳川期あたりから明治・大正、
そして今日までも誤ってまかり通ってきた講談的なものを先に上げてみる。