1178 織田信長殺人事件 10

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内蔵介は男だ

 まんまと阿呆ぶって巧く処世の途を計り、よって家門が明治になっても続き、今も
栄えているのもあるが、
「男ならどんとこい」
とばかり、天下未曾有のクーデターを敢えてやってのけ、そのために娘が春日局とな
れ、その孫の堀田正俊や稲葉正則らは五代将軍綱吉の頃には、大老から老中職を殆ど
一族で占めて大いに栄えたという、陰徳あれば陽報ありといった格言を己が一身で示
したような剛の者もいた。
 五月二十二日の事である。
徳川家康は本多平八郎他五人程の供廻りを連れたのみで、
「今京にいると聞いて尋ねて参ったが、在宅かな」
烏丸中立売の斎藤内蔵介邸を訪ねた。
 ちょうど丹波亀山から明智光秀と共に「在荘」(休暇)をとっていた内蔵介は、
「どなたじゃろ‥‥」と顔を出した途端、
「これは、これは」とばかり愕いた。なのに、
「日向守殿(光秀)には、安土でいたく厄介になった」
家康はずかずかと座敷へ通るなり、気さくに声をかけた。
 斎藤内蔵介は明智光秀の家来ではなく、「丹波目付」として信長につけられている
身分だからして、光秀が家康の饗応役を務めている間内蔵介はも京にいたわけである。
「噂によれば家康様には今回、仰山な進物を天下様(信長)にお届けされたとか‥‥
たいそう評判にございまするな」かしこまった侭で内蔵介は挨拶した。
 これは馬三百頭、鎧三百領の他に、阿陪金山よりの純金三千両を持参したというの
が、
(あの吝な徳川殿としては‥‥よくせきのこと)
もっぱら京でも評判になっていたから、つい内蔵介も口にしたのである。すると、
「仕方がないずらよ」家康は苦笑しながら、脇の家臣の差し出す手拭いで首筋をこす
った。そして、
「なんせ、信長様より表向きは案内役とよぶが、ちゃんと目付についておるでのう‥
‥あまりゆっくりもできん。ここに連れ居る者共は、これは口が裂けても何も喋らん
男ばかりじゃが‥‥」と唇を持ち上げたまま笑った。そこで、
「はぁっ」内蔵介は、取持に出ていた己が家来に目顔で(去れ)と人払いをした。
 なにしろ、どちらも信長公に仕える立場には相違ないが、やはり駿遠三の三ヶ国、
百万石の家康と、丹波で明智光秀付の内蔵介とでは格が違いすぎる。だからどうして
も遠慮というか、言いなりにならざるを得ない。向こうも名を呼びすてて、
「のう内蔵介、預けたいものがあって、本日はかく罷り越したのだ」と言ってから、
「これ弥八」
と、目の鋭い男に顎をしゃくり、
「出しませえ」と命じた。
 内蔵介が、
(この男が家康の懐刀と称せられている有名な本多正信か)と顔をのぞきこんでいる
と、正信は左右の者に命じて手を懐へ入れさせ、背へまわし、てんでに布包を引っ張
り出させた。
 すると、それを横目に顎でしゃくってみせ、
「ここに正金にて五百両ある。預かっておいてくりゃ」と気難しい顔で言うなり、さ
っさともう立ち上がってしまった家康は、もう一度、
「ええずら‥‥」と念を押すように振り返って口にした。
 供の者も皆立ち上がったが、正信だけは呆気にとられている内蔵介に、さも立ち上
がった拍子に痺れを切らした如くよろめき、
「‥‥打ち合わせは、この手前が、いずれ参上つかまつります」
内蔵介の耳許へ囁いた。
 しかし、家康がそそくさと板張りの軒廊をつたって式台口へ出ようとした時、ちょ
こまかと幼女が駆け出してきた。が、家康を仰ぐなり恐がってそこへしゃがみこんで
しまった。
「これは、これは」と見送りに出てきた内蔵介が狼狽して、その娘を抱き上げて、
「これは、手前の女童にて、於福ともうし、当年四歳でござる。御挨拶せいやい」
脅えたような幼女をあやしながら、手を添え頭をひとつ下げさせた。
「これは良いお子じゃ‥‥きっと大きゅうなったら別嬪になろう」
家康は珍しくお世辞を言い、
「よし、よし」ごつごつした手を伸ばし幼女の髪を撫ぜた。
 すると、女人というものは四歳ぐらいであっても他からちやほやされるのは良いも
のらしく、さっきまでべそをかきかけていた於福も、嬉しそうににっこり白い歯をみ
せた。
 この一瞬の結びつきが二十年後になって、
「亡き内蔵介には於福という娘がいた筈じゃ‥‥探せや」という事になった。
 そこで板倉勝重は家康の命を受けて、当時既に稲葉八左衛門の妻女にて、四人の子
持ちだった於福を見つけだし、すぐさまその夫に、
「大御所様の御下知ではある」と五千石の扶持を与えて夫婦の縁を切らせ、これを伏
見城の家康の許へ送り込んだ。
 やがて於福が懐妊すると江戸城に移り春日局となって、家康の死後は代わって大奥
に権力をふるい、
「昔の我が古亭主殿を呼べや」と召し出し、「稲葉佐渡守」として二万石の大名に取
り立てた。
 残してきた四人の子のうちで既に僧になった者には京に一寺を建立してやり、その
住職となし、他の三名は皆大名に取り立て、末子のごときは小田原の大久保家を取り
潰して、その後釜にさえしてしまった。
 だから、初めのうちは、「君と寝ようか五千石とろか」などと蔭口をきかれていた
のも、さすがにピタリと止んだ。
 この「地口(じぐち)」は、江戸中期に鈴木主水という五百石どりの旗本が女と心
中した時、五百石ではピンとこぬからと前の文句を生かして使い、
「君と寝ようか五千石とろか。なんの五千石君と寝よ」と替え歌にされて流行した。
 しかし、そんな後世の事まで、春日局になるのさえわからぬ当時四歳の於福は知っ
てはいない。
 なにしろ「春日局」というのは単なる名称ではなく、室町御所以来連綿として続い
てきた、「将軍家側室にして、小御所より参内し、畏きあたりに拝謁できる女性の官
名」という、当時としては武家の女人最高の地位で、征夷大将軍一代ごとに一人限り
という尊い身分なので、父親の斎藤内蔵介でも、まさかそこまでは想像できず、
「頭を撫ぜていただき、よいことよのう‥‥」などと、にこにこしながら於福を抱え
上げていたのである。

 その夜遅くなってから、本多正信が、「お邪魔をばいたす」と訪れてきた時に、
「これは、あの女童にと下されものにてござりまするぞ」と落雁(らくがん)の包み
を家康から言付かってきたとして、内蔵介に手渡した。
 だが、それだからといって、何も四十二歳の家康が既に早いところ四歳の於福に目
をつけ、将来ものにしようという下心で、歓心をかうため贈物を持たせてきたわけで
はない。
 さて、手渡すものを先に渡してしまうと、正信はしかめつらしい顔になって正座す
るなり内蔵介に、
「我が殿家康公は、御辺を二なき武勇の者と思し召してござれば」
と、まず口にした。
 つまり娘の於福よりも父親の内蔵介の方を買っているのだということである。
「恐れ入り奉りまする」相手が陪臣なのを忘れたように、内蔵介はかしこまった。
 娘の於福に菓子を貰った時より、さすがにもっと嬉しそうな顔をした。本多正信は
続けて、
「本日、殿より直接にお下げ渡しになられた金子にて、取り急ぎすぐさま手配だけは
しておいて頂こう‥‥」と、覆い被せるような指図の仕方をした。
「何でござる?」内蔵介は呆気にとられた。
 というのは内蔵介の母は京では分限の裕福者として手広く酒屋を営んでいる角倉一
族の蜷川道斎の妹なので、諸方から金子を預けられ、これまでも角倉へ廻しては利分
を上げるという仲介を頼まれていた。だからして、吝で名高い家康も、滞在中に持っ
てきていた金を、いくらでも貸金に廻して利鞘を稼ぎ、それで供廻りの経費でも捻出
させよう肚かと内蔵介は思ったからである。
なのに正信ときたら、
「‥‥しっ、声が高い」と、まず咎めてから、
「そなたを西国一の武辺と見込まれ、わざわざ家康の殿が頼みに来られたのを、御辺
はまんだ推量されておられるのか?」
とたしなめるようにじっと見据えてきた。
「さぁ‥‥何を仰せられてか?」内蔵介は妙な顔をして首を傾げ、
「さいぜんの金員は他へ転貸しての利息取りではありませぬのか?」
と尋ね返した。
「てんごう(冗談)は言わぬものぞ」本多正信は怖い顔をして睨みつけた。しかし、
「何が戯れ言でござる‥‥京や大坂の町では金銀はたとえ一日でも遊ばせておかず、
すぐに吉田か角倉へ預けるが慣わし。五百両ともなれば一日の利息だけでも莫大なも
の」と内蔵介も、きっとしてはねかえし、
「そないに厄介なる金なれば預り証も出しておりませぬゆえ、すぐにも取り戻してこ
させ、返しましょうほどに‥‥なんせこの斎藤内蔵介は以前に比べれば出世するどこ
ろか落ち潰れ、まるで明智日向守殿の家老格にも見なされておりますが、これでも天
下様の御直臣にござる。金廻しの仲立ちは致して進ぜますけれども、これまで礼など
受けとってはおり申さぬわ」
と言い切った。
 すると正信はその剣幕に怖れをなしたのか、慌てて手を振り、
「これは、わが身の不調法‥‥とんと埒もないことを申し上げ、失礼をば仕った」
と頭を下げた。しかし、すぐ詫びられたからとて、それで気分がおさまるものではな
い。
「やはり、お返し仕る」内蔵介は首を振った。
正信は狼狽し切ってもぞもぞしていたが、
「たってのお願いでござる‥‥あの黄金にて兵を集め、わが家康の殿を守って下され
や」
 拝まんばかりにして、押しつぶした声を出した。
「何‥‥何と言われた?」内蔵介も、これには仰天して聞き返した。
「いや‥‥これは格別さし迫ってどうのこうのという話ではありませぬ。まぁ用心の
為でござりまるるがのう」
と正信は話を引っ込めかけたが、それでもまだ、
「なんせ、お伴して参った人数が多ければ心配はござらぬが‥‥なんせ百余名」
と正信は声を湿らせた。そこで内蔵介が、
「ならば、もそっと供揃えをお連れなさればよろしかったんおに‥‥」
と云えば、
「天下様のおられる安土城へ、そない仰々しい多勢で来られるものか、どうか、考え
てもみさっせ」滅相もないと窪んだ眼で首を振り、団扇を動かしてみせた。
「‥‥なんせ信長様は疑いっぽいところもあられるでのう‥‥」
内蔵介が相づちをうてば、すぐ、
「それでござる。あらぬ疑いをこうむってはと存じ、人数を僅かにしぼり、さて出か
けては参りましたなれど、たった百名にては、もしもの時には心細く‥‥よって重臣
(おとな)が寄り合って相談しましたところ、今、京にあって武辺第一の斎藤内蔵介
殿しか他はないという事になり、そんで家康の殿はお直々に本日ここへ頼みに来られ
たのじゃえ」
かんで含めるような言い方をした。
「なるほど‥‥」
内蔵介も「武辺第一」と言われた手前、肯きはしたものの、
「して、誰に襲われまするのじゃ?ここは京の真ん中。なんせ安土より僅か十四里し
かないここで、そないな狼藉沙汰などありようもござりますまいに‥‥」
渋団扇で煽ぐように話を打ち消した。すると正信もそれに大きくうなずいて、
「天下様のお眼の光っている京で、そない気遣いないは百も承知なれど、我が殿家康
様は人にあまりよく思われぬお方‥‥それで我らは杞憂とは思え心配でござる」と眼
を光らせた。
「話を聞けば、笑止千万。ならば信長様につけられし案内役の長谷川にでも申しつけ
なされ。すりゃ四条西洞院通り本能寺前に村井道勝の役宅がござれば、村井の手の者
が家康様の身辺をすぐにもお守り仕りましょう。なら金など一文もいりますまいに」
と内蔵介が云えば、
「左様なればお預けの金は一日ぐらいでもよろしく、我が殿が滞在中によろしく利に
廻して下され」
と正信も納得して戻った。
 ところが、次の日になると背のひょろ長い男が、
「内蔵介殿はおられてか‥‥美濃三人衆の氏家様に仕えていた朝沼でござる」
尋ねてきた。
「ほう、珍客じゃ。逢うてとらせる。座敷へ案内しておくがよい」
と取次の家来に言いつけ、
「よう、懐かしや」
と内蔵介が顔を出すと、その男は熊のような剛毛(こわげ)の生えた手を振って喜ん
だ。
 が、その後がいけなかった。
「うぬしは何じゃ‥‥元龜元年の上様の朽木越えの御難の時に、金ヶ崎で踏みとどま
って殿軍した木下藤吉郎は、今や押しも押されもせぬ大将となって、その名も羽柴秀
吉と改め、今では中国攻めの総司(たばね)じゃに、やはり守山口を固めて、藤吉と
は違い獅子奮迅の働きをなし、「鬼内蔵介」とまで謳われた貴公が今は、その時すた
こらさっさと若狭へ逃げた明智光秀の目付格で、丹波亀山城勤めの身分と聞くが、な
んぼなんでも差がありすぎておかしい。なんぞまずい事でもあってかのう‥‥」
と、内蔵介の一番いやがる事を、平気でずけずけ遠慮なく口にした。
「そないな事はないわい。おぬしもあの時は稲葉衆と共に残され、俺が采配で動いて
くれたゆえ、よう知っとろうがのう」ぶりぶりしながら内蔵介は眉をつりあげた。
「だからじゃ‥‥なんぞ、その後になって信長様に叱られるような事でもしくさった
のかと聞いとるんじゃ」
真っ黒な手のはえた手で、とんでくる蝿を追いながら聞いてきた。
「なにもそんな事はありゃせん。信長様は胡麻すりの藤吉ずれは好かれても、俺がよ
うな無骨者は、戦に出される時しか使いみちがないで、ばかになされとるだけぞ」
忌々しそうに内蔵介は口を尖らせて首を振ったが、そのうちに、
「酒でも浴びるほどに飲んで、憂さを晴らそうかい」と手を叩いて家来を呼んだ。
「何の理由もないのに、そない仕打ちとは内蔵介程の男を信長様はなめとられる。口
惜しかろ。よっしゃ、俺も頭にきた。つきあって呑んでやらす」と朝沼も肩をいから
せ唸った。

 良きにつけ悪しきにつけ、これほどまでに誤り伝わっている者も少なく、珍しい。
俗説では前にも述べたが、斎藤内蔵介という侍は、はじめは稲葉一鉄の家来であった
が、それを明智光秀がスカウトして無断で己の家臣にしたというのである。そこで稲
葉一鉄が主君の織田信長に直訴して、けしからんからよろしくと申し出た。
 信長も、もってもであると、光秀を呼びつけると頭ごなしに、
「これ、光秀。その方の許にある斎藤内蔵介というは、もともと稲葉の家来じゃとい
うではないか。戻してやるがよいぞ」と命令した。この時光秀が、
「はあっ」とお受けすれば何でもなかったのだが、内藤内蔵介というのは世にも得難
き侍だったので、光秀も惜しくて堪らず、どうしても戻す気にならず、
「手前が良き家来を求めて使っておりまするは、これはひとえに上様の御為に良き奉
公しようと思うているからでございます。どうか、そこのところをお汲み取り下さい
まして、お見逃しの程を願わしゅう存じます」
と両手をついて頼んだところ、信長は、
「内蔵介というのがいかに有能な者であったにせよ、他家の者を横取りする事はけし
からん、それでは家の中の取締まりができぬではないか。また、その方の申し分をき
いていると、光秀の許では有能で使える侍も、元の主人の稲葉へ戻せば役立たずにな
ると言っているようにも聞えるが、それではあまりにも人もげなる大言壮語。聞き苦
しいではないか。まぁ事を荒立てぬがよい」とまで言った。だから、この時、
「それほどまでに仰せあるならば、止むを得ませぬ‥‥」と光秀が納得すればいいも
のを、
「恐れながら、あれほどの働きをなす侍を手放しとうはござりませぬ。まげてお許し
のほどを」と、あくまで拒み通した。だから信長も烈火の如く腹を立て、
「これほどまでに理を通して云うて聞かせても、そちゃ聞けぬというのか‥‥ここな
不所存者めがっ」
と、ついにかぁっとして、いきなり手にしていた盃を「えいやっ」と投げつけたとこ
ろ、狙いを誤またず光秀の額にあたり、信長の前を下がってきて額に懐紙を押し当て
たところ、「ややっ」光秀は驚き、きっと身構え、
「こないに男の面体に傷をおつけなされしとは‥‥」
と、おもむろに身体を震わせ、
「恨めしや信長様‥‥」
と悲痛に叫び、これが光秀謀叛の遠因となった、とされている。
 この話の出所は「川角太閤記」で、これには堂々と敷皮をのべさせ胡座をかき光秀
が、
「我が身三千石の時俄かに二十五万石に取り立てられたので、家来が一人もなく止む
を得ず他の大名衆の家来(内蔵介)を呼び寄せて召し使っていたところ、三月三日の
節句の日に岐阜城にて他の大名や高家の並ぶ衆人監視の満座の中で叱られ、赤恥をか
いたゆえ、その無念をはらすために、よってこれから謀叛をする。わが敵は備中にあ
らず、敵は本能寺になり」
というように一席ぶってから、本能寺へ進発したというのが種本になっている、

つまりこれの目的というのは、
「斎藤内蔵介というは世にも得難き侍で、彼一人の奪い合いがもとで、明智光秀と織
田信長は仲違いをしてしまった。それほどまでに斎藤内蔵介というのは豪い侍で、価
値のある男だった」
というPR用ともいうべきCMものである。
 何故こんな事をしたのかというと、内蔵介の娘というのが徳川家光の世では絶対権
力を握っていた春日局なので、彼女への機嫌とりというか、その咎を受けぬようにと
書かれたものをば天保期以降に、そっくり種本として使ってしまったからである(歴
史家は「川角太閤記」を元和年間のものと間違えているが、私の「信長殺し光秀でな
い」に、その誤りは詳しく解明してある)。
 そして、この種のものではあくまでも「斎藤内蔵介は稲葉家の旧臣」となっている
ので、今でも間違えられているが、春日局が豪い存在だったからして、「斎藤伊豆守
(内蔵介の父)春日局家系古文書」とか、「寛文年間蜷川喜左衛門自筆書付系図」
「寛政六年甲寅十月、町野幸宣文書」といったものも史料編纂所に現存している。
 つまり稲葉一鉄の娘を妻にしてはいるが、内蔵介は稲葉の家来というわけではなく、
信長の直臣であり、永禄七年に信長が美濃を占領した時からの奉公だからして明智光
秀よりははるかに古参である。
 天正十年六月二日の本能寺の変の頃には内蔵介は不遇で、まるで光秀の家老程度ま
でに思われているが、当時の光秀の家老というのは、先に荒木村重の跡目に嫁がせ戻
ってきた光秀の長女を添えた三宅秀満で、明智姓を名乗らせていた。
 かつての信長の家臣団の中でも斎藤内蔵介が実力者であった事を証拠立てるものは、
その妹の縁づき先をみてもわかる。
「長宗我部元親」といえば四国の土佐の浦戸城からついには四国全土を平らげた豪雄
であるが、彼が信長から迫害されぬようにと機嫌取りと保身政策で嫁に迎えた女とい
うのが誰あろう斎藤内蔵介の妹である。もしも内蔵介が稲葉一鉄や光秀の家来ならば、
信長の陪臣である。四国の長宗我部ともあろう者が、政略結婚で嫁取りするのに、ま
さか陪臣ふぜいの妹など貰うわけはないのである。
 また、その妹との間にできた子供の弥三郎に対し、天正三年十月二十六日付をもっ
て、織田信長は自分の名の一字を与えて「長宗我部信親」と名乗らせているのである。
己の直臣ならいざ知らず、陪臣の妹の産んだ子に、信長がここまでするものではない。
 つまり、天正三年当時の斎藤内蔵介というのは、信長の直臣団の中でも、錚々たる
勢力家であった事がこれでも明白である。しかし、こういう事実は内蔵介を光秀の家
老にしておかないとまずい立場の人々にとっては厄介なので、つまり、信長殺しを光
秀のせいにするために、
「斎藤内蔵介は本能寺を襲い、二条城を攻め、織田信長とその跡目を殺した。しかし、
内蔵介は明智光秀の家臣である。だからして命令して謀叛させた奴、悪いのは光秀で
ある。つまり春日局様の父君である内蔵介という侍は、悪逆無道の光秀を諌めたのだ
が、どうしても聞き入れぬので、そこは男らしく諦めて先駆けして奮闘した。それが
主君をもつ武士というものの在り方である」
といった具合に儒教流行後の「忠義」というモラルに包みこまれ、ごまかされてしま
った。
 だからして、こうした事実を曲げるために長宗我部元親の妻を斎藤道三の娘にして
いる歴史書もあり、それでは信長と元親は義兄弟になるが、道三には娘は奇蝶の他は
いない。
 内蔵介が信長の直臣であって、かつて実力者であったということを証拠立てる史料
は、次々と筆写されて伝わる段階においても、
「これはおかしいではないか」
と抹消されてしまったのか、殆ど今ではみあたらない。
 ただ、「信長公記巻三」の元龜元年(天正三年の五年前)五月六日の条に、
「信長の妹お市の方を嫁にしている浅井長政が、突然朝倉方の味方になった。そこで
背後から挟み討ちに押し寄せてくるという知らせに、信長は驚き朽木峠を越えて逃げ
た。この時明智光秀や丹羽五郎左もひとまず若狭へ先に引き上げてしまった。しかし、
信長の命令で踏みとどまって、滋賀の守山の守備についていた斎藤内蔵介は、己の妻
の伯父にあたる稲葉一鉄らと共に、守山の南口より一揆のたてこもっている所へ攻め
込み、これを追い崩して数多くの叛徒と突き崩し、比類なき武功をあげた」というの
だけが残されている。
 まさか陪臣ふぜいに信長が直接に命令する筈もないから、この一例だけをみても、
「内蔵介は明智光秀の家老ではなく信長の直臣だった」事は、はっきりすると思う。
「内蔵介も美濃の者。この奇蝶とて、東美濃可児郡明智城より亡き道三入道様に嫁ぎ
し小見の方様の姫ゆえ、れっきとした美濃の者‥‥のう、聞いてたもれや」
いきなり言い出してきた。だからして、
(何事であろうか?)と顔を上げると、
「これ、我が頼みぞ‥‥聞いてくりゃ」
じっと潤んだ双眸が向けられていた。
 しかし、いくらそんな表情をされても、「はぁっ」と素直に内蔵介は言いかねた。
(ご自分の都合ばかりで、同じ美濃者)といわっせるが、ならば、なぜにこれまで、
「内蔵介は不遇じゃによって、同郷のよしみで面倒みてとらす」と、少しは夫の信長
様にとりなして下さらなんだと、恨めしさがたまっていたからである。そして、
(いくら女ごとは申せ、奇蝶様にはあまりにも得手勝手すぎはせぬか、とても話など
聞けぬ)
と言い返したいのを、そこは男の事ゆえ内蔵介が、じっと我慢しているのに、
「いくら申しても、この身の願いをきいてくれず、助力をせんというにおいては、こ
の奇蝶はこの場で喉を突こう。同じ美濃者じゃによって、そちが介錯せいやい」と、
紫袋に包んできた懐剣を抜きかける始末。だからして内蔵介としては、
「御短慮をなされまするな」とでも言って止めるしか、他に手段のとりようもなかっ
た。
 しかし、宥めたからといって、素直にうなずくような奇蝶ではない。あべこべに、
「いらざること」と内蔵介を睨みつけ、懐剣を抜き放って逆手に持って喉へ当て、
「この身を自害させたくないのなら、たっての願いぞ‥‥云う事をききや」と云う。
 これが若かった頃なら、言うことをきけなどと言われると、つい勘違いしてしまっ
て色気にも受け取りがちだが、なにしろ奇蝶御前ももう四十八歳、てんで残りの色香
もない。
 男というのは、えてして綺麗な女や若い娘には何かの拍子に仲良くなるやもしれぬ
と思えばこそ、良い顔をしたり親切そうにもするが、年齢の高い女には冷ややかであ
る。まさかそこまでの気持ちは内蔵介にはなかったろうが、なにしろ不意に呼び出さ
れ、「何も聞かずに助勢せい、言うことをきけ」では、いくら同郷の美濃人だからと
言われても、おいそれとは返答などできるものではない。そこで、
「まぁ落ち着きなされ‥‥何に力を貸せと仰せられるのか。わけをお話下されませ」
持て余し気味に、昔から気の強いので通ってきた女人の顔を仰ぎ見た。すると、
「どうあっても、いわねばならぬか?」
と、又しても怖い顔をして眼を光らせるから、
「勿論にございまする」内蔵介もきっとして言い放った。
 ろ安土より、
(明智日向守を余の名代として中国攻めの進発に先行させる。よって内蔵介において
は指図万端これを目付せい)
と、使いの御用番が来たばかりで、丹波亀山城番の斎藤内蔵介としては、これからす
ぐにも江州坂本へ馬をとばし、明智光秀と打ち合わせの上で丹波にて陣揃えせねばな
らぬ忙しい立場であったからである。
 それゆえ、京の奇蝶御前様の別邸のある今出川から、ひそかに迎えの侍女が来たと
きも、
(さだめし備中出陣についての何かの沙汰)と思えばこそ、かくは罷り越したのであ
って、こんなわけもわからぬ駄々をきくつもりで伺候したのではなかった。そこで、
「手前はこれよりすぐに坂本まで行かねばならぬ身でござりますれば‥‥なにとぞ御
用の事は備中より戻ってきてからに願わしゅう」と立ち上がりかけた。
 すると、暫くは躊躇していた奇蝶だが、もはやこれまでだと思い切ってか、
「近う信長の殿は‥‥この京へいつもの如く僅かばかりの供廻りで出てまいる筈」
と、まず口にしてから声を落し、
「討ってほしいのじゃ」
とつけたした。これには内蔵介も愕然として、
「えっ、なんと言われましたぞ?」まるで自分の耳を疑うような声を出した。
「‥‥このたびの信長殿の上洛は、かしこきあたりの尊き姫を賜る話とか、公卿ども
より洩れ承る‥‥この奇蝶という者がありながら、そないな不埒な事を許してはおけ
ぬ。よって信長を成敗してほしいのじゃ」
と震えながら奇蝶は訴えるように言った。
「滅相もない‥‥いくら冗談(てんごう)にせよ、程々になされませ。それは女ごの
嫉妬というもの」
びっくりして内蔵介は狂ったような奇蝶御前をたしなめた。それなのに、
「美濃人のくせに何を申すぞ‥‥我が美濃は父道三入道様が治めていなされた国ぞ。
それを信長めはまんまと占領した後、岐阜と名まで変えてしまい、初めのうちこそ、
いずれ美濃の国は道三の血脈をもって継がせようと申しておきながら、天正四年に安
土城を丹羽五郎左に作らせた後は、それまでの約束を反古にされて、生駒将監の後家
娘の産んだ城介信忠をもって城主はした。よいか‥‥美濃はまんまと信長めに横領さ
れたのじゃ。わかるかや。もし内蔵介に美濃人の血が流れていれば、打倒信長の旗を
あげてしかるべきじゃろ。ふぐり(睾丸)はあるのかや?」
と、一息いれてから、
「これまで信長殿に、この身は美濃者のために良かれと、散々に口が酸っぱくなるほ
どに頼んではみた。しかし、何のかいもなかったぞ‥‥内蔵介が今の秀吉よりも立ち
勝った働きをなしていても、美濃者ゆえに尾張人の秀吉の足許へも寄れぬ身分。道三
様末子にて、わが異母弟にあたる斎藤玄蕃允として、北国攻めには散々な働きをなし、
衆目のみるところ柴田勝家より手柄は大きいに、勝家は守護職として北の庄六十万石
なれど、玄蕃允はあわれや信長の家老に落され、僅か三万石。その昔、この奇蝶が十
五で嫁入りした時についてきてより三十余年。あけくれ戦働きに身を尽くした安藤伊
賀にしても、北方の庄三万二千石は、道三様の頃より一石も加増されておらぬ有様‥
‥それどころか去年、何の理由もないのに、その美濃北方の領地まで没収され『美濃
者のくせに身の程知らず』と冷笑なされ、信長の殿は年寄った伊賀を追放なされた‥
‥この侭では美濃者は被占領国民として次々どんな目にあうやも知れぬは、その方と
て考えておらぬことはあるまいと思うがどうじゃ」
 言われてみれば、その通りである。信長は美濃を占領するのに永禄四年から毎年戦
をしかけては失敗。四年がかりでやっと手に入れた恨みが骨身にまで染み込んでいる
のか、きわめて美濃の者には今でも酷い扱いをする。
(おりゃを立身させてくれんと、あべこべに左遷させなされたも、この内蔵介が美濃
人の為であったのか)と、思い当たればうなずけもした。
「最前、そちは、この奇蝶が見苦しや、嫉妬に狂うて、長年連れ添ってきた信長を討
たんとするはあさましや、と顔を歪めておったが、まぁ考えてみい。この奇蝶が喧嘩
まで売ってくい止めていても、美濃人は次々とこない酷い目におうているのじゃ。な
のにわらわが尊きあたりの御降嫁によって信長の妻の座を追われてみい‥‥こりゃど
うなることになる?」
「仰せまでもなく、既に美濃者は、かつてお力添えした三人衆の安藤伊賀が追放され
ておりますゆえ、我が妻の伯父の稲葉一鉄や今は亡き氏家卜全の伜らもやがては処分
されてしまい、この内蔵介も七人の子を抱えて乞食になり下がるより他はありませぬ
な」
と内蔵介も、我が身の行末を想うと憮然として唇を噛んだ。