1176 織田信長殺人事件  8

 天正十七年には美濃の土岐多良の検地奉行を仰せつかって、二月ほど出張して戻っ
てくるとまたしても父子に千石ずつの加増の沙汰があった。
 次々と加増されていったので、佐伊子もあっという間もなく三千石の奥方になれた。
その昔、夫が百貫どりになってどうにか生計が立つようになった時、欲しがっていた
木綿の反物がようやく贖え、とても嬉しかった覚えがあるだけに、
「‥‥だから、あの頃が今よりよかったえ」それでも佐伊子は愚痴を洩らし続けた。
凧が天へ上るみたいに次々と加増されるのを初めは喜んでいたが、しまいには迷惑し
きっていた。
 なにしろ佐伊子の手本は亡くなった母である。蕪(かぶら)大根一本を求めるにし
ても、向こうの辻の店屋へ行けば少しは安いと教われば汗をたらしながらもそこまで
買いに行き家計の切り盛りにうきみをやつし、やりくりして世帯をたてるのに専心し
た母親しか、佐伊子としては見ていないし、手本として真似するのを知らないのであ
る。そこで、
「家計の切り詰めはできるが、派手には使えぬ、どないしよう、ついていけぬ‥‥」
と悲鳴をあげた佐伊子は贅沢だが、本人にしてみればいい迷惑だった。
 なにしろ亀山城にいた頃なら、着物を作り他家の嬶どもに見せびらかす楽しみもあ
った。
だが、三千石の奥方となり、まさか隣屋敷へ衣装の披露にも出向けはできない。
 といって、相変わらずけちけちしているものだから、銭や銀は溜まる一方で、何の
使い道とてないのである。それなのに難儀している矢先、舅の木村吉晴が若い妾を一
度に五人も持ったという話を伝え聞いた。
(父上も百貫武者から今は五千石。やはり金の使いみちに困られて、あの方に精を出
されるのじゃろ)
と、自分に引き比べて、佐伊子はいやらしいと思うより同情した。
 だが、考えてみると、
「瓜の蔓に茄子はならぬ」ともいうし、血統ということもある。
「もしも、夫が父の真似をし、妾など持ったらどうしよう」
思うだに胸が鼓動し、血沸き肉踊って、しまいには目眩しそうになった。
 そこで、これを防ぐには派手に金をなくすしか途はないと考えた。とても飲み食い
や着るものぐらいでは、余っている金銀の処分法にはならなかったからである。
思案した挙句、
「聚楽第の理休屋敷へ伺候して、茶事を嗜みとうござりまする」と夫に相談した。
「俺は白湯を呑むのさえ薪代を考えて勿体ないと思うとるに、あんな苦い茶なんぞは
‥‥」勿論初めは反対された。だが、半月程すると、夫は考えが変わったのか、
「身分とか格式というものを考えると、上流の者として、やはり茶湯はしたがよかろ」
許可がやっと出た。佐伊子だって苦い青茶が啜りたくて茶湯を志したのではない。狙
いは銀何十匁などといわれる茶道具の類である。だから入門して二日目に、
「ひとつ、茶碗を譲って下されませ」眼をつぶりたい心地で勇気を出してみた。
「これなど如何じゃろ」と見せられたのは、野良犬の餌碗のような薄汚い碗だった。
「いただきまする」と、たかをくくって云うと、
「ほう、これがお判りとは、なかなかのお目効きじゃ‥‥銀百匁じゃが八十匁にしよ
う」値段をきくと血が頭へドクドク登った。なにしろ銀一匁なら米が五俵も買えるか
らだ。
 だが、我慢して(銀が余って夫に女道楽されるよりは、ましではないか)と自分に
言い聞かせた。なにしろ大事の前の小事だからである。
 次々と佐伊子は銀を運んでは古ぼけた茶碗を、せっせと買い求めた。そこで、
「茶とは飲むもので、そなたのように碗ばかり集めるものではなかろうが‥‥せっか
く立身し、余裕もできたものと安心していたに、思わぬ道楽をされ蓄えがないとは‥
‥」
 夫の弥市は妻の道楽にすっかり悲観した。
というのは天正十八年、小田原征伐の陣ぶれが出て、仕度しようと銀櫃を開けたら空
だったからである。父の方も女道楽で銭なしだったから、新たに武者を傭って恰好も
つけられなかった。
やむなく父子合わせて荷駄人夫共五十名あまりな貧弱な行列で、人目を避けながらコ
ソコソと夜陰にまぎれて出立していった。
 見返った佐伊子は安心して、
「あれならば、まさか今度は御加増の沙汰などはあるまい。また増えられては困る」
と唸った。
ところが、それなのにとんでもない事が起きた。
「えっ、そんなばかな‥‥」
小田原から使いに戻ってきた家来に、佐伊子は柳眉を逆立て頭へ血の道を上げて驚い
た。
「いや、驚かれるのはごもっともなれど、正真正銘。奥州の大崎葛西十二郡三十万石
を拝領なされましたのです」という言葉に、
「そんな無茶な‥‥」と佐伊子は睨み据えていた。
「はい、御存じの如く小田原城攻めは長期間になりましたゆえ、千の理休宗匠も向こ
うへ招かれ、陣中に茶亭を設けられました。そこで、『当代、茶湯に志す数奇者も多
いが、木村様の奥方の如く茶器に目が効き、逸品とあらば金銀を湯水のごとく投じて
も購入される名誉な方は、天下広しといえど二人といやしない』と、大いに宣伝をな
されましたので」と家来は告げた。
「‥‥まぁ羞しや」と佐伊子は自分の事なので顔を赤らめると、
「あまり評判高くなったゆえ、こちらの殿様も知らぬ顔もできず、理休様の茶室へ顔
など出されとりました。が、さて六月五日になって、奥州から伊達政宗殿が出てまい
り、これが遅参のために倉へ閉じこめられましたところ、退屈しのぎか理休宗匠に入
門を乞い、その相伴衆にと宗匠から推挙になられたが、こちらの殿様でござりました、
はい」
「‥‥それで」
「伊達政宗殿は命は助けられましたが、勝手に切り取りした土地は没収と決まり、そ
の受け取り奉行に選ばれましたのが関白様妹婿にあたる浅野長吉殿と伊達殿の御推挙
の此方の殿様のお二人。そこで黒川城へ赴かれた関白様が八月九日付をもって、旧大
崎義隆と旧葛西晴信領を合わせ三十万石を日頃の忠勤を賞でられて下されたのでござ
ります‥‥噂では、奥方様に茶器を沢山求めていただいた理休宗匠が、その礼心に関
白様に立身の取り持ちをなされましたとか‥‥」
「‥‥げっ」と、一声。佐伊子は卒倒しかけた。あまりの話に気が遠くなった。
「私が考えも無う茶器などを、どんどん贖うたばっかりに、こない奥州の山の中へ島
流しのような身になられ、なんとも申し訳ござりませぬ‥‥お許しなされませ」
 京から馬の背に揺られて二十三日。長い道のりに愕いた佐伊子は岩手沢の古川城へ
着くなり、両手をついて夫へまず詫ごとをした。
 陽が翳ると絞めつけるような底冷えが居間の中にまで忍び込んでくる気配だった。
「何を申すか‥‥親爺様も言うてござったぞ‥‥我ら父子を三十万石にしてくだされ
たは御慈愛あつき太っ腹の関白殿下じゃが、そう仕向けたは他ならぬ佐伊子の手柄。
いい嫁を貰い当てたは生害の豊作と手放しで誉めてござったわ。そんでな、俺は自慢
をこいてやったぞ‥‥初めから『この女ごこそ俺が嫁にせにゃ損すると目をつけ、い
きなり道端の真ん中で両手を拡げ立ちふさがり、否応なしに捉えましたは、この身の
手柄』とな‥‥あれは天正五年、もう十三年じゃな」
「およしなされませ、指など折って数えられましては、佐伊の齢が‥‥恥ずかしゅう
ございまするに‥‥」と両手で顔を覆ってみせれば、
「なにも女房だけが歳をとるんじゃないわい、俺もそなたと一緒ではないか。なぁ佐
伊。互いに生れた時は別個でも女夫じゃもの。生きとし生きれば共に白髪の生えるま
で‥‥死なば諸共、地獄の涯までも同行二人で堕るのじゃろ。さぁ冷たかろう、こっ
ちゃの火桶の側へ来う」
と夫は佐伊を招き寄せ、冷えた手の甲をまず自分の掌で覆うように温めながら、
「それにしても、この陸奥の奥まで、よう女ごの身で来てくれたな」
と吐息をもらした。
「なんせ、お前に逢いたい一心で、遠いも怖いも、とんと夢中にござりました。話に
よればもうじき背丈程にも雪が積もりますそうなが‥‥こうして出てまいりましたゆ
え二人で寄り添い、温め合って春が来るまで待ちましょうわいな」と囁けば、
「あいかわらず吝な事ばかり申す。そんな温もりに頼らいでも、炭をどんどんおこす
がよい。なんせ親爺様は登米城にござって八城を束ね。俺も、この古川城の他、伊沢、
気仙、磐井の三城を持っとる、今は太守様じゃ。そして、そなたはその奥方ではない
か」
いいところを妻に見せ、なにか誉めて欲しげな口ぶりで、夫は胸を反らせ尖がり鼻を
突き出した。
「いくら炭火をおこし手先をあぶっても、女夫とは寄り添い合わねば心は暖かくなら
ぬもの」
と佐井子は肩をつきあてるように身をもたせかけ、そっと頬を夫の襟に押し当ててみ
た。すると、
「そうじゃ、それが肝心な事よのう。なんせ俺は地獄へゆく武者。そちゃ同行の女房
だものな」と腕を伸ばし馬鞍へ抱え上げるようにも夫は佐井子の躰を膝に持ち上げか
けた。これにはさすがに、
「羞しや。人に見られますがな‥‥」と慌てて拒もうとすれば、
「気兼ねはいらん、この城は俺のものではないか」と夫は言う。それゆえ、
「‥‥そういうお前は私のもの」佐井子も言いながら泪を噴き出させた。
「‥‥嬉しや」と喘ぎながら、また夫の耳たぼに佐井子は胸はずませ吹き込むように
囁いた。
 が、二人だけの幸福は、その日一日限りだった。というのは翌十月十一日。
中新田(なかにいだ)で暴動を起した旧大崎義隆の扶持離れした牢人共は、加美郡
(宮城県)から志田郡の古川城をめがけ、鬨の声をあげて殺到してきた。
 たちまち城は一揆方に包囲され、鉄砲を烈しく撃ちこまれ、太い篠矢をびしびし唸
りをあげながら射込んできた。何とも防ぎようもない。
「‥‥小田原御陣から引き連れてきた我らの家来は、士分は八人で、他は足軽小者に
人夫の五十名。それを十二郡の城に割り振りしてあるゆえ、この古川城とて僅かに三
名。残りは皆現地召し抱えの土地者‥‥今押し寄せて来ておる輩と同じ旧大崎の牢人
共じゃ。よって、いずれ城門を開けて一揆勢を入れ、我ら夫婦を狙い、ここへも間も
なく踏み込もうぞ」と夫は眼を潤ませたが、
「離れねば‥‥たとえ死んでも離れねば、女夫の途は立ちまするが」
不憫がってくれる夫に微笑をみせ鎧具足をつけた佐井子は、まるで腕を組むように弥
市に寄り添い、薙刀を抱えて城門へと二人は進んだ。かなわぬまでも夫婦して戦うつ
もりである。

 米沢城の浅野長吉から早打ちで送られた「奥州の大崎葛西12郡暴動」の知らせは、
10月28日に聚楽第の秀吉の許へ届いた。
「‥‥人を見る目のある関白様も今度ばかりは大縮穴。なんせ五千石や三千石の者を
一足飛びに三十万石に取り立てられては諸事不如意で、暴動になるは、こりゃ目にみ
えたこと」
と、お気に入りの側近の者が口を挟んだ。しかし、横を向いたままで
「それくらいは予想のついたこと‥‥」秀吉は低い声で答えた。
「ならば、何故に?」と側近が尋ねると、秀吉は厭な顔をして、
「あの木村父子は行かしておくと支障がある。よって三十万石くれてやって、それで
死花咲かせて棄て殺したまでよ‥‥」
と微笑んだ。しかし側近はわけが判らず首を傾げたままで、
「また殿下には、いつものようにお戯ればかりを‥‥」
などと言って、ピシリと扇子で自分の額を叩いて追従笑いをした。
 俗に千の利休というが、彼と懇意だった「吉田兼見卿記」を読んでも、「理休」の
名しか伝わっていない。だから利休とは死後につけ換えられた渾名でしかないと私は
みる‥‥のである。


踊る阿呆に見る阿呆

野党蜂須賀小六
「どうも、世の中は間違っとるんじゃあるまいか」
蜂須賀党の首領小六正勝は、次弟の甚右信、末弟の七内正元を見渡しながら、穀粒が
髯につく粟の白酒の土器を持ち上げていた。
 初め美濃の斎藤道三に仕えれば、これが討死。
そこで失業のあげく尾張岩倉の織田伊勢守に奉公すれば、これまた永禄二年(155
9)三月織田信長に攻められて落城。
 やむなく次ぎは犬山城主の織田信清に蜂須賀小六は仕官した。
もともと信清というのは、信長の父信秀の弟の信康の子で、信長とは従弟にあたる。
 だから、まさか今度の犬山城は信長に攻められはしまいと、高をくくっていたら、
「二度あることは三度ある」というが、永禄七年夏。信清の妻の異母兄にもあたるの
に、信長はまたしても攻め寄せてきた。そこで蜂須賀は最期まで踏みとどまって戦っ
たがとうとう落城。
 もともとこの犬山城というのは当時は南よりの木下村にあって、その頃までは、
「木下城」といった。つまり、その昔は木下藤吉郎の嫁になっている寧子の親の木下
助左の祖父が城代をしていた城なので、信長は落とした後で木下党に預けた。そこで
木下助左から
「蜂須賀党も、この際ひとつ仕えぬかや」と誘われはしたが、小六は憤然として、
「昔の木下城の頃なら、いざ知らず、現在のおまえさまはただの清洲城の御武者奉公
にすぎぬではないか‥‥」
 負けたくせに言いたいことを口にして一族をまとめ、さっさと本貫地の蜂須賀へ戻
っていた。
つまり又しても失業中で、少々ぐれていたのである。
 さて、「真書太閤記」というのがある。十二編で三百六十巻のものである。当時の
事んだので版行に先立って縁故のありそうなところを廻って、前もって予約販売の恰
好で前金を貰い歩いた。この時阿波の蜂須賀家の江戸屋敷でも応分の金子を出した。
だから、「真書太閤記」の中では、
「蜂須賀小六正勝というのは、犬山の信清(信康)の子の信安(信清)につかえ、し
ばしば戦功をあげた足利修理太夫高経の末孫にして」といった具合に金を出しただけ
の事にはなっている。
 ところが、この後になって、「絵本太閤記」という、目で楽しませる型の本の出版
が企画された。
 また、見た四国町の蜂須賀家の江戸中屋敷へ、版元が金貰に出かけていった。
ところが蜂須賀家にとってまことに運の悪いことに、この先年から南八丁堀にも中屋
敷ができ、御留守居役が二派に分かれていた。
 しかし、阿波徳島二十万七千九百石で、「従四位侍従、大広間詰」の格式だから、
「些細だが、よく書いてくれ」と十両か二十両をポンと投げ出せば、それでも済むの
に、
「如何に取り扱いましょうや?」と責任逃れに留守居の者が鍛冶屋橋御内の上屋敷の
当時出府中の阿波守に伺いをたてた。
「踊る阿呆に踊らぬ阿呆、どうせ出すなら早うせにゃ損々」
の御国柄ゆえ、殿様から、
「よきにはからえ」と言われたときに、よきに善処して、出すものを早く渡せばよか
ったのに、
「前の時にも応分の金を出したが、御当家先祖の小六正勝様は、ほんの刺身のツマで、
されは日吉丸の本じゃった」といった意見が江戸勤めの重役から出た。
 まだ当時の事ゆえ、「紙の暴力」だの「マスコミの脅威」といことを知らなかった
せいもあろう。しかし、版元にしてみると、せっかく顔をだしたのに、
「まぁ、百部くらいは予約していただけよう」という皮算用が外れてしまった。そこ
で、
「構ったことはねぇ、悪役にしちまえ」ということになってしまって、本は出版され
た。
 そこで、岡崎の矢矧(やはぎ)川の橋の上で、
「やいやい、大人と子供の区別はあっても、同じ人間だっ。よくも足を踏んでおいて
一言のわびもいわぬとは、なんだっ」と日吉丸にすごまれた蜂須賀小六がぎょぎょと
驚き狼狽。
「俺様を誰だと思う‥‥こう見えても賊徒の張本人日本駄右衛門。。。じゃない小六
様だぞ」と睨みつける大人げない場面が、見開き二面の挿絵になり小六は悪党面にさ
れてしまった。
 ところが、この岡田玉山の絵本太閤記が当時のベストセラーになってよく売れた。
だから殿中で、
「‥‥松平阿波さまの御先祖は、強盗団の首領でござったというが、まことでござる
か?」などと絵本の方を歴史そのものと思い込む者が今も昔も多かったからして直接
に聞く者もいる。
「余は不快なるぞ、それなる絵本太閤記なるものを、そっくり買い占めてしまえ」
と、蜂須賀の殿様松平阿波守は激怒した。そこで在府の家臣どもは江戸市中を廻り、
「これこれ、絵本太閤記なる本はないかや」と片っ端から家臣どもは背負って帰る。
「‥‥いくら刷っても、こりゃ売れる。驚異的ベストセラー」というので、版元の方
では次々と刷りまくっては売り出す。洛陽の紙価を高めるというが、これでは鼬(い
たち)ごっこできりがない。
 そこで日本橋亀島の藍玉問屋で蜂須賀家へ出入りの者が仲に入り、「版木一切譲渡
し」ということで話をつけ、「絵本太閤記」というのは絶版にして蜂須賀家で買い取
ることになった。
 が、それでも、よく売れるからと密かに出版されたので、公儀に訴え出たからして、
文化元年には出版禁止となり、岡田玉山は手鎖、版元は罰金にしょせられた。
「一文惜しみの百文失い」という言葉があるが、この騒動で蜂須賀家が費用を使った
のは莫大なもので、このため、幕末になっても藩庫が空っぽで、同じ四国でも土佐の
山内容堂などは活躍したが、蜂須賀侯は阿呆踊りでもやらせて、それで憂をはらすし
かなかった。
 今日、名前だけは有名だが、「絵本太閤記」の当時の現物が稀にしかなく、明治の
再刻本しかないのは、蜂須賀家で買ってきては片っ端から焼き棄ててしまったためで
もある。
 さて、嘉永に入って、英船浦賀、露船下田、ペルリ来朝という時勢になってきて、
この国難に対し、「英雄待望論」が起きた。そこで栗原柳庵が、「真書太閤記」や
「絵本太閤記」を種本にして又書いた。これが、「重修太閤記」という名のもとで又
も脚光を浴びた。今日いわゆる「太閤記」といわれるのはこれである。もはや蜂須賀
家でも、「手が付けられん」と放りっぱなしにした。
 柳庵も、「矢矧川の橋の上」は見せ場だから、やはり蜂須賀小六を野盗の首領には
したが、「殿っ」というように日吉丸に呼ばせ、ここで恰好をつけることにした。
 しかし、一度ひろまってしまった火はなかなか消せない。そこで大正時代に入って
蜂須賀侯爵家が先祖の汚名をそそごうと、当時は歴史学の泰斗渡辺世祐博士に大金を
出して依頼した。
 博士は「天文日記」「美濃明細記」「渭水(いすい)聞見録」「阿波徴古(ちょう
こ)」の他に、天文十六年九月二十五日の、「伊勢御師(おんし)福島四郎右衛尉
(うえのじょう)宛文書(もんじょ)」をもとにして、
「この国の取り合いの儀につき、神前に懇ろにお祈り下され、おはらい大麻に御意を
かけられ謹んで有難く(御護符及び長鮑(のし))を頂かして貰います。去る十七日に
合戦に及び武藤掃部助を始め数名を討ち、その後、関(関孫六で有名)へ敵が押し寄
せてきましたゆえ、すぐ切り崩し、大谷とか蜂須賀などと申す輩も数多く討ちもうし
た」
という斎藤道三が御賽銭につけて報告した織田信長の父の信秀との合戦の文書の中に
「蜂須賀」という名のあるのをとりあげ、「これは小六の伯父で仲の悪かった小太郎
正忠の方であろう。つまり蜂須賀というのは賊徒ではなくれっきとした武者の家であ
る」
と説明し、次に「蜂須賀家」の伝承では、
「わが蜂須賀家の祖というのは、室町御所より任命されていた尾張管領の斯波家の大
和守広昭の次子である小六正昭で、この孫が小六正勝その人である」といった記載も
なし、由緒正しき名門であるかとのごく、故渡辺博士はしている。しかし名門にしろ
野盗にしろ、失業すれば当時は失業保健もなかったし、失業対策もなかったから、蜂
須賀党は困っていた。

「どうせやるなら、でっかい事やろう」
次男の甚右が尖った顔をつきだし、肩をいからせた。だが蜂須賀小六はただ一言、
「阿呆っ」といったきり、伸びた鼻毛をつまんで引っこ抜いた。掌へのせてプウッと
吹いた。
外も風が強く、柏の木から落葉がザワザワ雨のように音をさせ降っていた。
「蜂須賀党と申しても‥‥一族郎党合わせて三十名もいない今、たわけた事を口にす
るな」
渋い顔で小六は甚右を戒めたが、
「頭じゃ‥‥ここは生きとるうちに使うに限るで」言われた方は、自分の頭を叩いて
みせた。
「おぬし、自分で利口と思うとるんか?」びっくりしたように末弟の七内が叫べば、
「あったり前じゃが‥‥」甚右は当然な顔をしてみせた。そこで小六は情けないとい
う表情で、
「うぬは女ごと同じじゃのう」と歎息し、「たいていの世の女ごは、顔や形は川べり
に立って水鏡に映してみても、まぁ良いか悪いかは否応なしに自分でもわかる。が、
頭の中身は、こりゃ唐渡りの銅鏡で照らし返してみても見えるもんじゃない‥‥そこ
で、それを良いことにどの女も自分では皆賢いと思い込んでいるようじゃが‥‥甚右
もふぐりがないのではないか」と笑いとばした。
「‥‥見せようか」と甚右はむくれて本当にめくりかけた。が、
「そないものは見せんでもよい。珍しくもない」広げかけた甚右を叱りつけた。する
と、「ならば、ずばり本題を云おう‥‥」下は閉じたが甚右は口をあんぐりあけた。
「織田信長めは清洲より小牧に移り、余年かかりの美濃攻めに成功し、これまでの斎
藤家の井の口城を岐阜城と改め、本丸を新たに増築中じゃ‥‥よって、そのどさくさ
にまぎれ人夫に化けてもよいから潜り込み、なんとか城をせしめてしまう算段を、俺
はしているのじゃ」
「そうか、城取り・・か」小六も少し乗り気になった。しかし、
「うん、悲しいかな、今の蜂須賀党では無理じゃろ‥‥30や50人では何もできま
いて」
また鼻毛を引っこ抜いてプッとふいた。野分けの風もピューと吹いてきて表の板戸を
鳴らした。
「また寒うなる‥‥伊吹おろしじゃろ」七内は首をすくめて一人で唸った。
そんな木枯らしが日増しにひどくなって、バタバタ板戸が鳴り続くような年の暮近く、
「‥‥蜂須賀党にとって、織田信長というのは宿敵のようなもの。じゃによって我ら
に味方なされ。美濃一国を奪還した暁には、しかるべき地にて望みの侭の知行を下さ
る‥‥と、そない斎藤右兵衛大輔(うひょうえのたゆう)さまは仰せられる」と勧誘
がきた。
 ふいをつかれてというより、美濃三人衆に裏切られて、なすところもなく長島へ落
ち延びた前の美濃国主の斎藤竜興が、長島河内の一向門徒の援助を得て、また攻め込
んできたから、ぜひとも加勢するようにという使者であった。
「美濃人の美濃へ‥‥これは祖国復帰運動でござるぞ」と、その使いの坊主は、
「打倒信長、ナンマイダ」と叫んだ。
 しかし、斎藤竜興というのは、蜂須賀党を可愛がってくれても、経済的には気持ち
も傾くが、感情の上では、どうしても手も出せない。
「‥‥渇して盗泉の水は呑んでも、故斎藤道三入道様の仇敵めに味方できるものか」
と息まく小六に他の弟共も同感を示した。しかし前国主斎藤竜興の美濃へ戻ってきて
からの勢力は、なかなかどうして侮り難く一向宗が後楯になっているものだから、
「尾張人を追い払え」と、つまり今日でいうなら、「ヤンキー・ゴーホーム」のかけ
声が凄かった。
だから岐阜城の増築工事に狩り出された土地の人夫達は板囲い一つ張るにしても、
「なんまいだ。だぼれ、あんまり急ぐな、なんまいだ」と故意に信長のために働くの
を怠業しはじめ、その工事が遅々として進まない、といった噂も聞えてきた。そこで、
「‥‥だからわしが言わん事ではない。うまく人夫に化けて我ら蜂須賀党が入り込ん
でいたら、とうに皆を扇動して城取りもできたはずだ」
 甚右はいまいましがったが、もう手おくれだった。今から始めようものなら、これ
は縁の下の力持ちになって、城は斎藤竜興にとりもどされてしまうのが眼にみえてい
る。
「つまらんのう‥‥」と冬ごもりをし、そこで逼塞しているうちんい永禄8年の春に
なった。

 まるで子供の折り紙でもくっつけたように、垣根のレンギョウが一晩で花をつけて
しまった生温かい朝。郎党の一人が息せき切って、
「‥‥麻績(おうみ)の方角から馬が‥‥」めざとく見つけて教えにとんできた。
「なに、馬が来た‥‥と?」小六も甚右も、出てきた七内も眼の色を変えた。
蜂須賀党の本貫地に馬がくるなどという事は滅多にないものだから、
「吉か兇か」みな食い入るように近づく馬を見つめた。唯事とは思えなかったからで
ある。なのに桶のタガが転がるように、丸い砂塵の渦巻をゆっくり描きながら、その
馬は駆けもせんと、ゆっくり近寄って来た。そして顔が見えるようになると、
「これはお出迎えかたじけない」鞍の上から落ちそうにまで頭を下げた。
「なんじゃい‥‥人騒がせな‥‥うぬは稗吉ではないか」甚右が呼びかけると、
「やや、御次兄様にはあいもかわらずご健勝の体を拝し、恐悦至極」と脚からでなく
頭の方からといった恰好でその男は地面へ降りた。
「‥‥米は無理でも粟や稗にてもあれ、なんとか食せる身に育てかしと、よって稗吉
と親から名付けられたといったその方が、とうとう馬乗りの身分にまで立身したかの
う」
甚右がため息混じりにそれにうなずくと、相手はニコニコしてまた頭を下げた。それ
を、
「この稗吉というのは童(わっぱ)の頃、清洲へ初めて奉公したときに、新しい穴の
あいていない藤蔓織りのお仕着せを拝領して感激。改めて藤吉と名乗ったのが、士分
となってからは重々しく木下藤吉郎と今は改名しおるやつ‥‥」七内が兄の小六に紹
介をした。
「ふん、見知っておるわい。しかし‥‥その織田信長の臣の藤吉郎が、して何の使い
をしに当家へ参ったぞ?」怪しむように蜂須賀小六は口をはさんだ。
「‥‥お願いの儀がござりましてな」藤吉郎は馬の轡を引っ張った侭で一礼した。
そこで馬もつられてペコリと頭を下げた。だから小六は、ますます難しい顔をして、
「ふぅん」
と虎髯を左右にしごき撫ぜた。頭をあげた馬は威嚇されているのかと思い、
「ヒヒイン」と嘶き口を縦に開けた。しかし馬の歯を見て小六の方が狼狽し、
「やや、脅かすのか」ぐっと睨みつけた。驚いて末弟の七内が仲へ入って、馬の手綱
を藤吉郎から受け取ると、屋敷前の樹につなぎ、水を呑ませるよう郎党に指示した。
「まぁ入れ」と、仕方がないから小六は藤吉郎を戸口から招いた。
 だが、自分は薄暗い屋敷内へ藤吉郎を戸口から招いた。
だが自分は薄暗い屋敷内へさっさと入ってしまった。
 ずうっと扶持離れしている生活不如意が醸し出す、妬情というか、すねきった態度
が露骨にその後姿ににじみ出ていた。