1174 織田信長殺人事件  6

 さて、幽斎は安土へ馬をとばせると、信長には己が娘の於伊也を縁づけていた事な
どは内証にしておいて、手柄顔にて、
「我ら独力にて一色義有を、かくの如く首にいたしました」と報告したところ、信長
は感心し、直ちに誉めそやして、
「明智の娘を嫁にとらせよう」これまで主従に近い明智との縁組を、褒美として信長
は命じた。
 後のガラシャ夫人として有名な光秀の三女於玉を、幽斎の長男の与一郎忠興の嫁に
させる取り持ちをしてやろうと言われたのである。
 喜び勇んで戻った幽斎が、
「よくぞ首尾よう計ってくれた」と娘の於伊也に言ったところ、
「もう夫の殺されるのを見るのは嫌でござりまするゆえ、後口はなにとぞ穏やかな所
へ遣っていただきたく」と希望を言われた。
「よし、よし、それでは‥‥」
と幽斎は、吉田神道の兼見卿の許へ彼女を再嫁させた。
 この元長岡藤孝と名乗っていた男は、後に細川幽斎と名を変えねばならぬほどに陰
謀の塊のような男で、これを信用したばかりに信長は殺されるのである。


信長殺しの褒美

「髪結いの亭主」という言葉が昔あった。
 女房が美容師として忙しそうにしていると、いくら夫が働いたところで怠け者に見
えるから、ついそうなるというのだが、明智光秀の娘の「於玉こと細川ガラシャ」の
夫、つまり幽斎の伜の忠興も、妻の方が有名になりすぎて今では哀れ悲しい話だが、
「やきもちやきで口うるさく、だらしのない亭主」の扱いである。
 しかし、細川忠興とはそんな嫉妬深いつまらぬ男だったのか?
誤解の筆頭は、彼がガラシャを熱愛していたという俗説だが、これはガラシャ夫人像
として伝わる美人画が原因であるらしい。これからして、
(彼女は美しいゆえ、夫は妻の浮気を心配したのだ)
という受け取り方をされているのである。
 が、忠臣蔵で有名な吉良上野の伜が上杉家の養子になった後、百万石から三十万石、
それが十五万石と減じたので、「御先祖様よ御守り下さい」と一世紀以上も前に死ん
だ者の肖像を描かせて高野山へ納め、この画が(頭巾をかぶり、不精髭がある画だか
ら)と、謙信は男と決め込むのとこれまた同工異曲である。
「謙信は女人」と私が立証できるのは、馬に乗れぬからと、毎月十日から生理休暇を
とり、四十歳までその期間は休戦していること。そして確定史料の「当代記」にも、
謙信は女性だったかもと思わせる死因が、当時の風評として載っているのとからもわ
かる。
 もし忠興がガラシャを溺愛していたら、その子に跡目を継がせてもよさそうだが、
後を継いだのは彼女の死後に、忠興が他の女に産ませた三男忠利なのである。
 於玉の産んだ長子忠隆は山城北野に草案を結んで生涯を終え、於玉の次の子の興秋
は天主教徒だったが、山城の東林院で自殺。これでは於玉にしろ、その子にしろ少し
も愛されていなかったことになると思う。
 忠興は天主教嫌いゆえ、熱愛の妻子がその意に反して入信したから、その後は冷た
く扱ったという俗説もあるにはある。これが間違いであるのは、日本の資料にはない
が、マカオ政庁図書館にあるセルケエロ書簡に、
「京の伏見から九州へ戻ってくる途中、長年にわたってシンパだったエッチュウ・ナ
ガオコ(長岡越中というのは細川忠興の生前の呼び名)と逢った。彼はイエズス派の
事は私にまかせてください。私は御存じの事情で入信は表向きしていないが、神の下
僕として取り扱ってほしいともてなした。何頭もの馬をば寄進した。その馬の背には
夥しい神への捧げ物があった」というものや、
「博多へ福管区長が小旅行をする供をしたら、歩いて一日の距離のブゼン(豊前)の
王のエッチュウナガオコ(忠興)が、是非にとオギラ(小倉)の城へ招待し、彼は私
達の給仕役を王の身分なのに自らしたりし。そして翌日のミサには彼も加わった。ま
た、『メ・アジューダ』つまり(我が為に祈れかし)と彼はラテン語で神や私共に跪
いたのである」
といったものが現存する。
 この報告は当時マカオにいた東洋大司教ラヴィウ・アクワブイワウ師父へ、セルケ
エロ宣教師が報告書として書き送ったもので、信用できる。
 天主教嫌いだと日本の通俗史では説くが、忠興はラテン語さえ話せたし、神父達に
足を注ぐ盥を運び、自らスープから魚肉の皿までを配って歩き、
「信者同様に扱って欲しい」とか「わが魂のため神の御恵みを」とまではっきり口に
している、この事実がはたして何故に今では反対に日本で伝わっているのだろうか。
 これまでも通俗歴史では慶長五年七月十七日に大坂方の石田三成の兵が細川家を西
軍に加入させるために屋敷を包囲したところ、
「この身が西軍に捕えられては徳川方に御味方せんとする夫忠興の覚悟がにぶろう」
と、ガラシャ夫人は己が美貌に自信ありというか、自惚れの強いことを口にし、留守
居役の小笠原少斉にとどめをささせて、火を屋敷に放って最後をとげたという。
 そこで大衆小説では、
「忠興が嫉妬深いので、少斉は於玉の居間へ入らず、廊下から刺し殺した。それでも
忠興は、夫人の玉の肌が胸のところで開き、槍がそこを突いていた、妻の肌を見たと
はけしからんと戻ってきてから少斉の屍体をけとばした」という。
 しかし火をつけてしまった跡に、夫人と少斉の死骸が何ヶ月もそのままあったとは
変な話だが、かつての日本の歴史教育というのは、
「暗記もの」と呼ばれ、活字になっているものなら何も考えずに棒暗記するように教
えられ、皇紀は二千六百年と信じこまされていたから、常識的におかしな事でも決し
て疑えない習慣があった。
 しかし、このガラシャ夫人の死というのは後の事を考えると、どうみてもこれは徳
川家への忠義の押し売りをするCMでしかないように想える。
 東軍に与した大名の妻子を押えようとしたのは石田三成ではなく増田長益だが、な
にしろこれは自分の方へ味方させようために大阪城へ移したのだから、扱いが極めて
丁重だったことは「慶長見聞録」にもある。まぁ常識的にもそれが正しいだろう。
 なにも槍で突かせて火を放って死ぬ必要など全然なかったろう。それゆえ又この時、
そんな振舞いに及んだのは大坂伏見にあった東軍側妻女二十八名の内で、このガラシ
ャ夫人だけで一人きりである。
 すると、この突発的事件は彼女の被害妄想による精神異常の発作かということにな
る。
「女は不条理の塊」とは現代でもよく言われるから、夫人はヒステリーでもおこした
のだろうか?それならば留守居役の少斉は制止すべきであって一緒に死ぬべきではな
い。だから、
「うぬのような者がついていて、早まって何でこんな事をさせおったのか」
と細川忠興が、屍に鞭打つように少斉の遺体を蹴ったものならば、この話も筋道がつ
く。
 しかし、熊本市に残っているところの「小笠原家記」をみると、
「小笠原備前秀清少斉の跡目備前守長基に、関ヶ原役後、細川忠興は姪の於たねを娶
せ、更にその間にできた長子の長之にも、二十三年後に忠興は弟孝之の娘こまんを養
女として縁付けた」とあるし、また、
「細川家記」にもこれは裏書されていて、
「一色義有に嫁し夫を殺した於伊也の次の次の千という娘が、ガラシャ夫人の死後、
少斉の次男宮内長良に、忠興の殿の命令で嫁した」とある。
これでは今までの通説と実際とはあまりに違いすぎる。なぜだろう?となってくる。
 自分の妻の胸元を開け、そこを覗いて、槍を刺したとやきもちを妬いて宮内少斉の
遺骸を足蹴にしたような浅はかな忠興であるならば、
「おのれの弟の娘二人まで自分の養女とし、少斉の遺児の長男次男に嫁がせ、自分と
義理の父子関係にし、その孫にさえまた養女をやる。こんな三重もの縁組みをなぜ用
心深くしたのだろうか」ということになる。
 つまりこうなるとガラシャ殺しの褒美か、はたまた、「秘密」への口止めなのかと
なる‥‥のではないか。

 寛永九年十月の事である。
春日局は徳川家光の台命とし、それまで豊前小倉十万石の城主だった細川忠興に対し、
「我が父斎藤内蔵介とも入魂(じっこん)の者なれば」として、
「肥後十二郡、豊後三郡に加増移封し、五十四万石」とした。
 忠興はガラシャ夫人の産んだ長男次男は放逐したり自殺させて片付けて、別の女に
産ませた三男忠利をば肥後熊本五十万石の城主にした。
 さて、当時徳川家康は諸大名を取り潰し次々と断絶させていた。浪士は諸国に溢れ、
やがて島原の乱や由比正雪の叛乱が起きる。
 なのにそんな時にあたって、なぜ細川忠興だけが一足飛びに「十万石から五十四万
石」になれたのか?こうした大幅なベースアップは日本歴史では稀である。ガラシャ
夫人が夫の出征を勇気づけるために後顧の憂いなからしめようために壮烈な死を選び、
それに対して春日局が、「同じ女性として感激して」44万石を追善供養に出したも
のだろうか?
 もしそうなら、「死せるガラシャ夫人、夫の細川を熊本城主にす」であって、細川
忠興は前代未聞の儲け頭になる。
 だが、そんなに今も昔も世の中は甘いものだろうか。なにしそ、その頃の熊本とい
うのは、「美国」とよばれ、収穫の多い土地で、太っ腹の秀吉でさえ気に入りの加藤
清正や小西行長に半分ずつしか与えていなかった国である。それを春日局がなぜあっ
さりと忠興に全部くれてやったのか。これまた怪しいことである。
 が、これは(春日局は家光の乳母)とか、(信長殺しは光秀)といったような、江
戸時代と変わらぬ因循姑息な史観を以ってしては、とても解け得ない謎だろう。
 しかし、これを総理府内閣文庫秘蔵の「家康遺文」の末尾にあるところの、
「竹千代(家光)御腹 春日局
 国松(忠長) 御腹 御台所」を第一の鍵として、
「春日局とは個人名ではなく、征夷大将軍の側室にて、小御所への参内の資格のある
女性の官名」という「足利年代記」や「吉川家記」、「土井日記」から調べていけば、
ここに、
「徳川家康が伏見城にいた時、かねての約束に従って信長殺しの斎藤内蔵介の遺児を
捜し出した。そして、その於福という女は既に他へ嫁入り中であったが、これを別れ
させ引きとって彼女に子供を作らせた」ということが判ってくるのである。そして、
その子こそ竹千代であったのである。
 二代将軍秀忠は実子の国松を三代にしたかったのだが、春日局が駿府まで出かけ、
家康を引っ張ってきて、国松は織田の血が流れているからと、
「よいか、跡目は竹千代にせい」
と言わせれば、その鶴の一声で、ここに竹千代が三代将軍家光に決定してしまったの
である。
 さて、二代目の秀忠は、この伜のような若い異母弟に遠慮して、彼が二十歳になる
と自分がまだ元気なのにさっさと将軍職を譲ってしまっている。よほど春日局の子、
つまり斎藤内蔵介の孫というのは徳川家では大変な値打ちであったらしい。
 そこで、春日局は別れた夫や、そこへ置いてきた伜どもを家康の死後には「将軍家
の御はらから御身内」と呼び寄せ、それぞれ大名にした。これは「史籍雑纂」という
国書刊行会のものにも克明に出ている。
 つまり、儲け頭の代表人物たるや、この春日局の前夫であろうか。女房を家康に貸
して、こんなに儲けたのは他にいない。
 ところが後に、元禄時代から儒学が流行りだして、
「男は強く、女は優しくおとなしく」というのがモットーとなってから、ここに三百
年。今でも「女ごときが」という封権的思想が日本にはまだある。
 だからして春日局に、なぜこれでけの権力があったかを調べる前に、
「あれは土井利勝のロボットではなかったか?」という人も歴史学者の中にはいるが、
寛永通宝鋳造を命じられた者が、
「御局様は、その御家老土井甚三郎年勝殿を面前に呼びつけ」と、天下の老中筆頭の
土井が春日局の家老に間違えられる如き「鳴海史料」を知らないからして、そんな説
が出てくるのだろう。
 ところがガラシャ夫人は戦時中は、「軍国の妻」の手本。戦後はキリスト教徒であ
ったという甘い海外ムードで美化されてしまい、
「彼女は美しく気高く、やきもち焼きの忠興を夫にもったために苦労し、大阪城へつ
れてゆかれては、さだめしその美貌なるがゆえに夫の妬情を招こうと心配して、あわ
れ悲しくも貞操を疑われぬようするために死んでいったのである」
と、まるで日本の夫をバカにするための見本のように扱われ、おまけに彼女は、
「信長殺しの光秀の娘だから、本能寺の変の時は忠興が心配し、丹後三戸野へ匿った
くらいだ」とも言われるが、これも嘘であって、丹後だから細川領ということはなく、
三戸野は明智領の飛び地だったのである。
 丹後だけが明智領の如く今では誤られているが、丹波でも船津桑田の二郡は細川領
だったのと同じ事で、国別に各大名の所領がはっきり区分けされるようになったのは
関ヶ原合戦後の整理の時からである。
 さて、後世、男尊女卑の時代になっても、
「細川忠興が阿呆な立場へまわり、ガラシャがヒロインで通っているのを、細川家で
はなぜ訂正しなかったのか?」
の謎すら、ここに生れてくる。しかし、その答えは簡単である。そうする事は細川家
にとってきわめて都合が悪いからであろう。
 つまり、「天正十年六月二日の夜明けに信長のいた本能寺を包囲した軍勢が丹波か
ら入ってきた」のは事実であるし、その丹波から京へ入るには、昔は大江山と呼ばれ
た、この細川家の領地である船津・桑田両郡を通るしかないのである。
 そして、その叛乱部隊が「敵は本能寺にあり」と叫んで通った逢の坂から京までは、
この頃は京の入り口を固めるための「細川番所」がずらりと並んでいたという動かし
がたい事実がある。
 だから、ここを大手をふって通過できた者は細川家自身か、その同盟軍でなければ
ならぬ。つまり、本能寺へ向かったのは明智光秀軍ではなくて、細川幽斎と伜の忠興。
そして信長の直臣で明智光秀の軍監につけられていた丹波亀山にいた斎藤内蔵介等の
一団なのである。
 そして、蔭で糸を引いていたのは家康であり、秀吉だった。
が、その秀吉がやがて死に、そして関ヶ原合戦ともなると、どうしても諸大名に対し
て「信長殺しが家康」と表面で出てきて困るのは東軍の徳川家の側である。だからし
て慶長五年七月十七日に、もし大阪城へ連れてゆかれ明智光秀の三女の事ゆえ、
「信長殺しの真相は、あれはかくかくしかじか‥‥」
とガラシャ夫人が洩らしてしまってはみもふたもない。そこで小笠原小斉が徳川家の
為に彼女を殺し自分も死んだのが真相といえる。
 そして、なにしろ天正十年六月十五日に家康のイの字も云わずに死んでくれたのが
斎藤内蔵介その人なのである。
 そこで家康は報恩のためにその娘をば迎え春日の局にし、細川忠興も姪を三人も少
斉の遺児にやり親類となし、全ての口塞ぎをはかり、それに対して春日局も五十四万
石でこれに報いたのである。
 つまり、忠興は阿呆なやきもちやきどころか、信長殺しの立派な下手人の一人なの
である。勿論、あるいは斎藤道三の息がかかっていてその妄執ばらしを彼がしたのか
も知れない疑いもあるが。


道三の娘奇蝶

 これまで明らかにされていなかった事だが、信長殺人事件には細川ガラシャ夫人こ
と光秀の三女の於玉の他に、道三入道の一人娘である奇蝶が、どうしても重要な意味
合いを持つ存在として見逃せない。つまり、二人の女性がはっきりこの事件には関り
合っているのである。
 昔は婚姻しても夫の籍に入り、その姓で呼ばれるという事はなく、尾張から嫁入っ
てくれば尾張御前と呼ばれていたので、美濃の斎藤道三の一人娘として生れ、信長の
許へ嫁に来た彼女はそれゆえ「美濃御前」と呼ばれていたが、今ではそれが濃の方と
か濃姫と、名前と間違えられている。しかし天正年間にあっては、彼女こそ下手人と
いう説もあったくらいである。
 だが、斎藤道三と織田信長の関係が一般に小説や映画ではこれまで、友好的な正徳
寺出会いの一幕だけにしぼられてしまい、美濃御前の奇蝶姫にしても、信長が桶狭間
へ出かけていく前に、「人間僅か五十年、化転の内に‥‥」と小敦盛を謡って仕舞い
する時に、小鼓を打つぐらいの役割でしか知られていない。
 もっとひどいのになると、本能寺へこの奇蝶が同伴して行って、薙刀を振って力戦
するような本もあるにはある。しかし、当時の記録をよく調べさえすれば、なにしろ
信長殺しとされていたくらいゆえ、そんな馬鹿げた事は書かなかったろうと思う。実
際には良きにつけ悪しきにつけ、気性の激しい女性だったらしいが。
 よく、女にとっての愛の在り方とは、若いときには異姓へ迷いを生じる事もあるが、
実際は「血の流れ」によって結び付いている間柄しか、女性は真の愛を感じたりしな
いものである、とはモーパッサンやメリメも書いているが、日本でも、「夫の代りは
男であればいくらでもいるが、親や兄弟の代りはない」ともいわれている。
 彼女の場合も、夫の信長よりも亡き父斎藤道三や種ちがいの兄である明智光秀や弟
の斎藤玄蕃允の方に愛を感じて、父道三が非業の死を遂げたのが、夫信長のせいと誰
かにふきこまれたり、当時の美濃が、今日的に云うならば被占領地帯だったからと、
「なんとかして父祖の地である美濃を、自分の腹を痛めていない子にばかり後を継が
せようとする信長の圧政下から解放するには尋常の手段ではなんともならぬ」
と、東美濃明智城で生れ育った小見の方を母とする彼女が、氏家直元、稲葉一鉄、安
藤伊賀ら美濃人につっつかれて稲葉の女婿である斎藤内蔵介を実行委員長としてクー
デターを敢行したというのが、天正十年六月当時の見方だったのだから、いかに彼女
が権威をもっていたかもわかろうというものである。
 もしも彼女にもっと協力なバックアップがあったら、北条政子の再来の如く斎藤政
権を打ち立てていたろうが、尾張人の秀吉にしてやられてしまったのは惜しみてもあ
まりある。
 さて、そこで話は彼女が若かった頃に戻ることにする。

「‥‥さて、お跡目は?」と、尾張中が騒ぎになった。
なにしろ織田信秀が流行病にかかって発熱したと思ったら、一晩中苦しみとおして死
んでしまい、遺言もなかったからである。
「一郎様は美濃合戦で討死してござるから二郎様じゃが、あの人は三河安祥の城代を
していて今川方の捕虜になられた負け犬じゃ。すると次は三郎信長様か、二つ年下の
四郎信行様ということになろう」
ということになったが、どちらも信秀の伜殿には相違ないが生母が違う。四郎の母方
は阿久井の豪族で、祖父の土田久安が孫可愛さに、この時とばかり那古屋城や古渡城
の織田方の重臣に銭をばらまくから人気が出てきた。
 ところが、三郎信長の生母はとうに死んでいるし、祖父にあたる平手政秀というの
が倹約家の尾張の中でも代表的な人物だから、一文の銭も出そうとしない。そこで四
郎の里から何かと貰っている連中はよるとさわると、
「三郎殿は大たわけじゃから、あんなのが尾張の跡目をとったらあかすか」と、頗る
人気が悪く問題にもされない。
 しかし、持つべきものは女房なりけりで、三郎の妻の父というのが隣国美濃の斎藤
道三入道であったからして、
「わが夫を何とかして下され」急便をたてると、一人娘の奇蝶が可愛いいからして道
三は、
「よっしゃ、まかせておけ」直ちに安藤伊賀守に二千の兵を率いさせて国境の木曽川
べりに並べ、いつでも武力進駐する構えを見せておいて、俵に入れた銭を持ち込んで、
これで尾張の重臣どもを片っ端から買収にとかかった。
 いくら四郎側があくせくしても、豪族の土田久安ぐらいでは美濃国主の斎藤道三に
かなうわけはない。ついに尾張の武者どもはこぞって三郎信長に、
「お跡とお継ぎなされ」と当主に立ててしまった。
 その時18歳の信長はすっかり感激してしまい、美濃から来ているため美濃御前、
「み」の字を略して濃と呼んでいる一つ違いの嫁女の奇蝶に両手をついて、
「おりゃ一生涯恩にきる。このたびの肝いりありがたく思うぞ」礼を言った。
 すると相手も、
「嫁にござりますもの。お前のために尽くすは当り前でござりましょう」少々恥ずか
しそうに身をくねらせた。
 ところが、二年たった天文二十一年の事。
「美濃と尾張の境目の富田の正徳寺で婿と対面したい」と、正月の年賀の使者が道三
入道の言付けを持ってきた。
 跡取りに力を貸してもらったのに、まだ礼も言ってなかった信長は、これにはすっ
かり狼狽した。
 年始に現れた平手政秀に対して信長は不機嫌に、
「これ、爺や。そちが跡目をとるときにけちして銭惜しみしくさったゆえ、道三入道
に挨拶に来いと呼び出しをうけたぞ」としつこく文句を言った。
 政秀もむくれ切って戻ると、恥をかかされたと、面当てに自害してしまった。
この話が今では(御守り役として諌死)ということになっているが、大名の若殿に御
守り役がつくのは軍役の職が減じてからの江戸時代からの事で、それにもし平手一族
が忠臣だったならば、名古屋市北区西志賀町に「涙塚」という、信長による平手一族
誅伐の墓など残っているわけはない。

「結婚とは男にとっては第二の父を持つことである。俺は斎藤道三という良き父を、
そなたのおかげで持てた‥‥」富田では道三に対面して戻ってきてからというもの、
信長は道三をベタ褒めにしだした。だから妻の奇蝶も喜んでその旨を道三に伝えたり
もした。
 若い信長の為に道三が絶えず援助していたことは「信長公記」の中にも
「道三の命令にて伊賀や物取新五らの千名余の者きたり、今川勢ふせぎに那古屋より
志木まで陣張りをす。よって信長ねぎらい頭を下げ礼をする」などと出てくる。
 今でいう、スープの冷めぬうち距離には遠いが、美濃と尾張は隣国なので、兵をと
云えば兵、銭をといえば銭を道三は送っていた。これで夫婦仲が円満にいかないわけ
はない。
「さぶちゃんや」
「おう濃・・いやイエス」二人が睦まじく暮しているうちに四年目。
 奇蝶の父道三と伜の義竜が衝突‥‥思いもかけぬ事態が持ち上がった。
原因は(義竜は道三の子ではない)といった流言がとんだためだという。
「そないたわけた話はない。誰ぞがいいかげんな事を言いふらしたとみえるが、ほん
に困った事」
二十一歳になった奇蝶は、すっかり胸をいためた。そのうちに尾張へまでも、
「蝮の道三」だとか、「悪党道三」などと、ひどいデマがとんできだした。
「幼い頃は京の妙覚寺へ入り、今でも朝夕は御題目を上げて御勤めしているような、
あない優しい父の事をひどい事を言いまするるもの‥‥」一つ違いの信長も一緒に憤
慨した。
 さて、道三は朝倉や浅井にも応援を求めたが、なにしろ悪名が鳴り響きだしたので、
どこも力を貸さない。しかたなく道三は翌年に尾張へ末子の新五郎をよこして、
「鷹狩りに出た後で謀叛されたゆえ、自分の兵力は義竜の十分の一もない。美濃一国
を譲ってもよいから、なんとか信長に助力をしてほしい」と言ってきた。
 奇蝶は信長に、
「あなた様がまがりなりにも、こうして今日この尾張を継げましたのは、これひとえ
に父道三の尽力でございますよ」すぐさま出陣するようにせがんだ。
 信長は二千あまりの兵をかき集め、弘治二年四月十八日に出陣していった。
ところがである。四月二十日の長柄川の決戦に、せっかく出かけた信長が
「間に合わなかった」と戻ってきた。
「無念ではあったが、とうとう道三入道殿は、おいたわしや首をとられなすった」と
告げた。そして泣き崩れる奇蝶へ、
「きっと、この仇はとってやるぞ」慰めを言った。だが、道三が死んでしまってから
の美濃は、もうこれまでのように兵も銭もよこさなくなった。
 だから若い信長をなめて尾張の者も多く叛いたが、三河の松平党を手先に今川義元
は、鳴海から現在の名古屋駅の裏手あたりの中村まで進出。とても危なくて那古屋城
にはいられなくなった信長は。草深い清洲へいわば疎開。しかし、五条川沿いの今の
関西線の蟹江まで敵は迫ってきた。
 だから父信秀の頃の尾張八郡が今や三郡でさえも危ない事態となったのだが、そこ
につけこんで永禄三年、今川から、
「このたび上洛することとなったが、兵をそのまま京へ連れていく関係上、もし手向
かうにおいては先に片付け、それから進発したい。降参するか、刃向かうか?」と最
後通牒が来た。


桶狭間の秘密

「父道三さえ生きておりましたなら加勢してくれまするが、今となってはそれのかな
わぬところ」奇蝶は悲しんだ。
 しかし百万石の駿河の今川に対して勝ち目はとてもなかった。
「時よ、時節は変わろうとままよ、織田の信長は男じゃないか」あっさり諦めて、向
こうの申し出によって人質を出すことにまでなった。尾張平和のためならばと男らし
く覚悟をつけたのだ。
 ところが、覚悟をつけるのと実行するのとは違うものである。
もたついているうちに今川義元は進発してきて、なかなか信長が出てこないことに立
腹し、丸根・鷲津の砦まで焼いてしまった。放っておけば清洲城まで火をつけられる。
 そこで信長は佐脇藤八以下近習5名のみを従え、せっぱつまって出かけていった。
昼頃になって、今川義元は信長の母方の里の平手の庄へ押し寄せた、と伝わってきた。
平手は今の中日球場の裏側で桶狭間の近くである。
 さて、夕方になって降参しに行った筈の信長が、千余の鉄砲をばぶんどって戻って
きた。これには清洲にいた家来もびっくりしたが、奇蝶も驚いた。
「いわか雨にやれれて鉄砲の火縄が湿って使い物にならないと見てとるや、信長様は
電光石火の変わり身の速さで戦見物に集まってきた野次馬を指揮、恩賞づきで鉄砲を
かっぱらわせ、ついで義元をも倒しなされたのだ」
と伴をしていった小姓頭岩室重休は言ったが、
「では‥‥裏切りではないのかえ」奇蝶としては、この時割り切れぬものを感じた。
が、信長には黙っていた。
 その翌年の永禄4年から信長はぶんどってきた鉄砲を使って美濃を攻めたが、先方
のほうが強く、五年、六年と連戦連敗。だが永禄七年には美濃三人衆を手懐け美濃を
占領してしまった。
占領地の宣撫工作のために前美濃国主の娘である奇蝶は、井の口城を改築した岐阜城
へと移ることとなった。昔のように夫婦仲がしっくりいっている時には、あまり感じ
なかったような事でも、間柄が冷めてくると疑心暗鬼というか、疑いっぽくなってく
る。
 一つの城とはいえ、夫の信長は本丸。奇蝶はニの丸だから、まぁ別居のようなもの
である。そこへもってきて、奇蝶の死んだ母が東美濃明智城の娘だったから、どうし
てもニの丸へは美濃の者が集まってくるようになった。そして安藤伊賀がある時、
「よもやと思われますが、先年斎藤道三様に伜殿が叛かれましたる真相は‥‥信長様
が『親子ではない』と言いふらす者どもを放って騒ぎを起させたとの由。また、『ま
むし』『悪党道三』などとでたらめな噂を撒き散らしたのも、みな信長様の小細工と
か。そないに申す者がおりますがのう‥‥」
言われて奇蝶は眼を白黒させたが、
「まさか」てんで本気にはせず、
「わが夫の事をとやかく蔭口をきくものはもってのほかぞ」と叱りつけた。
 が、安藤伊賀守は言わねばよかった一言の後のたたりが大変で、天正8年に、この
時の告げ口が信長に洩れ、美濃北方城六万石を召し上げの上に追放処分にされてしま
うが、それは後の話。
 さて、天正四年に丹羽長秀に作事させた安土城ができあがったので信長が引っ越す
時、
「我が亡き父道三入道の城だったところゆえ、岐阜城はわらわの異母弟新五郎改め斎
藤玄蕃介にやって下されませ」しきりに奇蝶は頼んだが、信長は自分が生駒将監の後
家に産ませた長子の信忠を岐阜城主にし、玄蕃介は家老にしただけだった。

天正十年五月二十九日、信長が身の回りを見させるため小姓三十騎を従えて本能寺へ
入った。武田征伐から引き上げた信忠の一行も京の妙覚寺にいた。この時かしこきあ
たりから皇女御降嫁の話が密かに広まっていた。
 本当のところは、武田の姫を嫁にしていた信忠だが、武田を攻め滅ぼすために離縁
していたから、その後釜にというのが真相だったのだが、奇蝶はてっきり夫信長への
降嫁で、自分は追われるものと勘繰った。嫉妬に目がくらんでしまった。
 さて、南蛮人の宣教師が火薬を輸入するバーター制に、日本人を奴隷としてマカオ
へ連れ去り、これを印度のゴアやヨーロッパへもっていくことに対し信長が激怒して、
イエズス派京都管長オルガンチーノと当時は頻りににらみ合っていた頃でもある。
美濃三人衆稲葉一鉄の姪を妻とし、以前は信長の直臣として羽振りがよく、その妹を
四国の長宗我部元親に嫁していた斎藤内蔵介が、天正八年の安藤伊賀守の失脚に巻き
添えの形で、当時は明智光秀の戦目付にまわされていたが、それさえも危うくなって
いた。
 ところが延期していたものの、とうとう六月二日の朝には長宗我部征伐の織田信孝
に戦目付の丹羽長秀がついて出航という事態になった。
「これを出してしまっては、妹婿の長曾我部の滅亡である」
内蔵介はあせったが、昔のような権力のない立場なので困っていたところ、当時の美
濃人から女王様の如く尊敬されていた奇蝶から密かに命令が来た。
 また、次いで、
「ある事情から信長様に命を狙われているから、何とか助けてくれ、なんなら徳川の
家は内蔵介の血筋に継がせてもよいから」
と二十九日に信長上洛の知らせを聞くや、すぐさま堺へと船を求めて逃げたが、堺代
官松井友閑に船を押さえられ軟禁状態の家康から、本多忠信が密使として内蔵介を訪
れた。
 信長のために銀の値が安くなるというので、母方の親類の角倉一族も内蔵介に旗上
げをしきりに求めてきた。
「纏めて面倒みよう」
ということになって、そこで六月一日の夜に一万三千の丹波兵を、軍監の立場を利用
して内蔵介は動員させ、これを率いて出発した。
 六月二日午前九時過ぎ愛宕山頂で雨に閉じこめられ下山できずだった明智光秀が、
坂本衆三千を率い上洛したが、その時既に本能寺は2年前のスペインのフェリッペ一
世によって新開発されたチリー硝石の強烈火薬でふっとんでいたし、信忠も爆死して
いた。
 十日たって急いで戻ってきた秀吉が、信孝を名目だけの大将にしてライバルの光秀
を弔い合戦の名目をつけて山崎で破った。
 半月たった六月二十七日、終戦処理をするために清洲で会議が開かれた。
「信孝が明智を討ったから殊勲甲」と秀吉はしたかったが、勝家らは、
「信長様殺しは光秀ではない」と反対し、
「明智秀満の兵が坂本へ引き上げた空っぽの安土城を六月十五日に焼き払って、中に
いた奇蝶を焼き殺した次男信雄様の方が仇討ちの一等」と多数決で決まり、信孝は美
濃一国だが、信雄には伊勢尾張二国の分け前となった。
 しかし、信長のやり口に対し、奇蝶のとった行動に同情する者が当時多かったから、
六月二日より岐阜城主になっていた異母弟の斎藤玄蕃介も助命され、信孝が城主にな
ると、また家老になった、とも伝わっている。
 そして信長殺しが秀吉か家康か、はっきりさせられなかった時代では、奇蝶は「夫
殺しの悪女」とされたままで、今も日本全国どこにも彼女の墓はないはずである。
だが、儒教が広まった元禄以降は、
「信長ほどの男が女に殺された哀れな亭主ではおかしい」と、男の光秀にすりかえら
れてしまった。しかし、御霊社や御霊神社というのは無実の罪をきせられて殺された
者の霊が迷って出るのを防ぐため、それを祀るものだったとは今では明白にされてい
るが、京都福知山で一番大きな神社である御霊神社の祭神が明智光秀で、江戸、元禄
後から今日まで大多くの信者を集めて毎年十月の例祭には何万人もの人が寄ってくる
のは、「信長殺し」にされた嘘っぱちへの同情か、今でも多くいる悪女に悩まされる
善男どもの姿であろうか‥‥