1173 織田信長殺人事件  5

平地の城がよい

 しかし、明智秀満に伴われて生れて初めて安土へ行くと、今までみたこともない青
い目をした紅毛人がうようよいるわ、二階建三階建の家が並んでいるわで、その賑や
かな事は、まるで別世界へ紛れこんできた如き有様。
 だが胸にぐっときたのは、城下はずれの慈恩寺の門前に、材木を十の字にしたもの
が三本並んでいて、それに乾燥した人間が昆虫のように留めつけられていることであ
る。
「ややっ、八上城の波多野の三兄弟ではないか。この変わり果てたる姿はどうじゃ」
びっくり仰天。ぐっときたものが胸の中で凍りついてしまった。
(開城して安土へお礼にくれば、旧領も八上城もそのまま下しおかれるというのを信
じきって出てきた兄弟が三人並んで張付けにされている)その現場を己が眼で見てし
まったのである。
 八上と組んでいただけに、これには佐野も慄然とした。だから、
「俺はお前さんが一人で山の上まで登ってきた‥‥その心意気に惚れ込んで城を明け
渡して、こうして一緒に来た。だが八上城の波多野兄弟が張付にされたまま晒されて
いるのを見て気が変わった。頼む見逃してくれ。俺は逃げる」
すぐさま逃げ交渉をした。
 すると秀満は後年江戸時代の終わりから「狩野永徳の描きましたる陣羽織を風にな
びかせつつ、水深二十メートルもありまする琵琶湖をただ一文字。タッタッタと駆け
抜け走り進みましたる明智左馬ノ介湖水渡りの一席」
と、講釈師の張り扇でポンポン台を叩かれながら、スーパーマンにされるだけの事は
あって、にっこり笑うと、
「逃げるのに相談される事はない。‥‥だが信じる者は救われんと南蛮坊主も云うて
おる。まぁ信じがたきを信じ、忍びがたきを忍んで堪え、ついて来さっせ」
 外観は五層だが、内部へ入れば石垣の内側が二階で計七層。当時とすれば現代の霞
ヶ関のビルのような安土城へと連れていかれた。
 そして五層の信長の表書院へ通されはしたが、佐野としては半信半疑。
だからして信長がそこへ現れると、
「‥‥おそれながら。どうせ殺されるなら痛くないよう、さっさと死んでしまうよう
お取り計らいの程を‥‥」のっけから、殺され方の注文をつけた。
 これには信長も呆気にとられ、
「うぬは死ぬ気で、のこのこついてきたのか?」
と鶴の一声。佐野もこうなると俎上の鯉も同然だから、度胸もすわり、
「いかにも左様」ぐいっと睨み返した。
 すると信長もキンキンした声で、
「望みとあらば、痛くないよう殺してもやろうが‥‥今日来て今日すぐ死ぬこともあ
るまい。五日程は後にせい」憤ったのか、ぷいと立って行ってしまった。
 明智秀満も唇をヘの字に曲げ、
「上様に慈悲を願えば、わしも脇から口添えしておとりなしをして頂くつもりだった
のに、自分から喧嘩を売るような、あないな事を申す奴があるか‥‥まぁ五日の猶予
があるゆえ、これから光秀の殿と善後策は講じるが、それまで短気は起すなよ」
心配してくれて引き下がって行った。
 一人残された佐野が手持ちぶさたで座っていると、そこへ年寄りの侍が来て、
「こちらへ」と三層まで案内して、さて、
「この中から五日間の相手を選びなされ」金泥の襖を左右にさっと開きのぞかせた。
「あっ」これには佐野も驚いた。
五百羅漢というのがあるが、さすが天下一の安土城だけあって、顔型の違うろうたけ
た粒よりの女人がずらりと居並んでいた。
「よりどりみどりでござるぞ」
とせかされ、まるで美人コンテストのように一人ずつ丹念に検分していったあげく、
「いずれがアヤメかカキツバタ‥‥」と口ではうまいことを言ったが、自分の好みの
タイプは男だから決まっている。背がすらりとした顔の細いのを、
「これだ、これだ」と決めてしまった。
 そして女の方は何も知らぬが、佐野にすれば五日間の人生である。だから一室をあ
てがわれると昼も夜もなく体で示して「命ある限り」とばかり、色々な型で愛した。
 五日もたつと太陽も蜜柑色にみえて、ぼーっとしてしまった。だが、約束である。
「殺して下され」と申し込んだ。すると信長は、
「いいのか?」念を押した。
佐野も男である。女の事を考えるとまだ五日きりだから想いが残って心が疼き、身体
も部分的には、しこった。しかし、拳固で頬を拭い、
「あんな女人に未練はないが、なぜか涙が流れはしまする」
負け惜しみを言った。だが、
「男心は男でなけりゃあ、わかるものかよ。まぁ諦めるでない」
信長は寛大に笑ってくれて助命してくれた。そして、「下総守」と任官までさせてく
れた上に、その五日間に惜しみなく愛を奪った女までもつけてくれた。それが今の妻
の幸である。勿論、明智秀満が義父の明智光秀を動かしてくれた為にこうなったのだ
ろうが、佐野もこの時から信長を有難く思い、
「この上様のためならば、犬馬の労はおろか、身命を賭して御奉公してもよい」
忠誠を尽くすよう心に決めた。つまり男同志の方は互いに意志が疎通しあって、まぁ
巧く円満解決というえわけである。
 が、女性の方はうまくいかなかった。なにしろ賑やかな安土から山また山の佐野の
城へ連れてこられては幸としても災難である。
「まるで山賊にでも拐されてきたみたい」と、雨の日も風の日も泣いて暮らすことに
なった。
 たまには安土や京へ布地や飾り物でも見に行きたいのだろうが、山の上の小城では
これは篭の鳥も同然である。だから、
「なんとか手柄をたてて、もそっと平地の城に替えてもろうて下され」とせっつくの
である。
 佐野下総守にしてみれば、これでも親代々の城ゆえ、それに首を振ってみせれば、
「安土の城の時の五日間は、あないに朝となく昼となく励まれたのが、ここへ来てか
らはお人が変わったように一日一度が関の山ではござりませぬか。これというのも高
地ゆえ息が切れるのでありましょう」
などと、しきりにいろんな事で夫に文句をつける。
 いわれてみれば、昔から何処から不意に攻められるかしれぬので、親代々ここで、
守るも攻めるも黒がねのと、険しい山頂に黒い鉄板を張った城を構えていたのだが、
信長様の家来となった今は、やたらと的に襲撃されなどする心配もない。
「よし、そないお前が言うのなら、今度の中国攻めでは上様の御馬前で、しかとめざ
ましい働きをして安土か京に近い土地へ転勤させてもらおうぞ」
誓って出てきたからには手柄を立てねばならない。そこで本能寺に陣取った佐野下総
守は、起きてみつ寝ててみつは気になって、「まだかまだか」と信長を待ちわびてい
たのである。

「ドガーーン」その時突如として凄まじい轟音がした。
白昼なので火の赤色など見える筈もないのに、一瞬真紅火柱がたった。
本能寺の境内の便殿、建物が濛々たる白煙に包まれ、雲に乗ったようにふっとんでみ
えた。そして空が一面に真っ暗になった。
 人間も奴凧みたいに舞い散ってばらばらに跳んだ。
「ヒヒーーン」
佐野下総守の馬も竿立ちになって飛ばされたのか、奔走したのかいなくなったが、爆
風の煽りをうけて佐野自身も持ち上げられ地面に叩きつけられ、しっとり濡れた叢に
蛙みたいに這いつくばった。一瞬ボオッとしていたが、まるで聾になったような耳の
穴を指でつつきつつ、体を持ち上げようとすると、
「こりゃまた何じゃ‥‥なんとした」
頬っぺたを草の根に刷りつけたまま、喚くようにがなり立てた。
周囲に塀もなく濠からさらえた土で築土が盛り上げてあるきりの本能寺だから、今の
大爆発で、その掻き上げの土居が崩れて2メートル幅の濠が埋まり、火を発したのか、
きな臭い硝煙の臭いに混じって黄色い靄のようなものが迸って吹いてきた。
「物見に木の上に上げておきました者共は地面に叩きつけられて即死。その他に手負
いも多うござります。ここにいては火がやがて近づきましょう。ひとまず避難を」
灰神楽をかぶった近習共が、佐野を両脇から抱え込んで下がらせようとした。
「それより、これは何たる事か?」
肘を張ってそれを拒みながら佐野は叫んだ。しかし近習共も、ただおろおろして、
「何がなにやらわかりませぬ‥‥表御門のところでは開門を待っておりました衆が百
人程度はじきとばされて死にましたる由」とか、色々な事を口にしたが、さっぱり要
領を得なかった。
 そこで佐野下総守は、
「‥‥上様の大事ぞ」
とよばわると、近習の肩を借りて立ち上がり、
「先年、丹波八上城は取り潰され、波多野兄弟はお咎めにおうたが、我ら和田城は上
様のお情けにて無事じゃった。今はその時の御報恩の時。ついて参れや」
 火の粉の舞い飛ぶ本能寺の境内へ崩れた築土を跨いでとびこみざま、
「上様、何処におわしまする」
「何処へ行かれましたるぞ、上様」
必死になって声を枯らして呼ばわり、焼けて火となる本能寺の境内を探し求めた。表
門や四方の木戸口に屯していた面々も、周囲の濠から水を汲んできては、手渡しで消
化にあたっていたが、なにしろ火勢がすごい。
濛々たる熱気で息さえもできかねた。
「もはや、御身が危のうござりまする」
濡らした筵を持ってきて佐野を庇いつつ、近習どもはよってたかって、またさいかち
の森へと連れ戻した。が、火の手は森へまで来ていた。昨日までの大雨でぐっしょり
濡れていたのがパチパチ音をさせて杉の木立から火がつき、松林からやにの臭いが漂
ってきた。仕方なく四条坊門の大通りまで引き下がっていると、斎藤内蔵介の伝騎が
とんできて、
「二条城へ行くよう」と、指図をされた。
 何が何やら、さっぱり見当もつきかねたが、信長様軍監として丹波衆の仕置きをす
る彼の命令なので、佐野下総守は改めて陣揃えをさせ、怪我人は戸板に乗せたまま堀
川筋へ出た。だが、何をしに行くのかわからない。
「あそこは誠仁親王様の下の御所じゃ。きっとその御警戒をしに行くんじゃろう」
と進んでいくと、向こうから荷輿を守った一団が来た。
はて何じゃろうと物見をやると、
「親王様と若宮様、それに女御様の御一行が上の御所へお移りあそばしますところの
由」
急ぎ駆け戻ってきて報告した。
「なんじゃい。それではもう御用済みではないか」
佐野は馬から降り、伴ってきた軍勢を左右に跪かせ、恭しく親王様の御行列をお見送
りもうしあげた。が、その後姿が向こうの辻を折れ曲がって、佐野がまた馬に跨ろう
とした時である。
「バガーン」凄まじい爆音がした。二条城の方角である。久しぶりに晴れ渡った天正
十年六月二日の、青く澄み渡った水みたいな空に、真っ黒な入道雲が突上げたように
吹き出していた。黒煙である。
「やや、又しても‥‥」
これには佐野も面食らって唾をのんだ。
そして左右の者に、
「あないものすごい爆音は初めて聞くが、普通の硝煙とは段違いの強烈さ。こりゃ一
体どうした事が起きたのじゃろ」尋ねてみたが、
「はあっ、たまげるような轟音でござりまするな」
と、家来どもも首を傾げるばかり。
 とりあえず二条城へ行ってみると、ここも本能寺と同じで、見るも無残な有様。な
にもかもが吹っ飛んで残るはきな臭い黄色い煙ばかりだった。


城戸十乗坊改名

 知恩院の百万遍の所まで引き上げてきた佐野下総守は、水色桔梗の旗と四つしでな
いの御幣のような馬印を立てて洛中へ入ってくる行列を見かけると、
「おう、明智光秀殿が軍勢じゃ」
ほっとしたように馬を進めていき、
「秀満殿はおられてか?」大声で叫んだ。
「これは誰かと思うたら‥‥してその有様な何とされたぞ?」
 先手の大将として馬を進めてきた明智秀満が、爆風を受け砂まみれの上に煙にまか
れ、煤だらけの佐野を怪しむように声をかけてきた。
「どうもこうもござらぬ‥‥実は」
と本能寺に夜明け前に詰めかけていたら、二刻(4時間)あまり待たされ、その挙句
が物凄い大爆発で寺の建物がことごとく吹っ飛んだ模様をかいつまんで話した。する
と、
「それを我が殿へ言上して下され」
 秀満も愕然としたように佐野を明智光秀の許へ案内してからが、
「やはり最前聞えましたる轟音は変事にござりました」と前置きして、佐野下総守の
口から一部始終を物語らせた。
「‥‥左様であったか。一昨日愛宕山へ登ったところが雨に降り込められ、馬の藁沓
が滑って下山できぬゆえ二晩滞在。昨夜になって雨の晴間をみて丹波亀山へ戻ったと
ころ、斎藤内蔵介が兵どもを率いて進発し、無人の有様。よって江州坂本へ廻って、
秀満にそちらの兵を集めさせて、なにやら心かがりゆえ夜の目も寝んと入洛してきた
のだが」と唇を噛みしめて、
「して上様の御安否は?」尋ね返した。
「それが手前も火中に入ってお探し仕りはしましたが、皆目見当が知れず‥‥」
「そりゃ大変じゃ。上様の安否が気にかかる。これ佐野下総、案内仕れ」
「はあっ」
 又とって返す恰好で、本能寺へ戻った。
が、まだ火の手は盛んに燃え広がっていて、西洞院通りは堀川まで火の海で、強烈な
火薬の臭いがまだぷんぷんしていた。
「火を消せ。なんとしてでも上様の御安否を確かめもうせ」総大将の明智光秀が陣頭
に立って水を汲み消化にあたりだしたから、佐野下総守の自分の手勢に命じて、
「早く火をとめるようにせいやい」と、一緒になって消化にあたった。

 明智光秀が坂本の兵を率いて上洛してきた時には、入れ違いのように斎藤内蔵介の
丹波勢はもう引き上げてしまっていた。つまり佐野下総守だけが明智勢に合流してし
まったから、はぐれた恰好で残留してしまったのである。
 この結果、それから十日たって、山崎円明寺川合戦。
翌日の六月十三日に明智秀満の軍勢が、備中から攻め上ってきた羽柴秀吉に攻め滅ぼ
されると、丹波和田の山城へ引き篭っていた佐野下総守に対し
「至急に出頭しませい」との差紙が来た。
「‥‥どないしようぞ」これには佐野も狼狽した。妻の幸もおろおろして、
「知らぬこととはいいながら、六月二日に本能寺を取り巻いていた一人であれば、信
長様殺しが、よし噂のように南蛮渡りの強火薬であったにせよ、今となっては罪は逃
れられぬところ」
すっかり蒼ざめてしまった。そして、
「ここは難攻不落の要害ゆえ、いっそ篭城をなされまするか」とも言ってはくれた。
 しかし、三百ぐらいの兵力で、秀吉の大軍と戦えるはずもなかった。そこで佐野下
総守は、
「よいよい案ずるでない‥‥大恩ある信長様を粗忽千万にも間近にいながら見殺しに
いたし、吹っ飛ばしてしまい、また義理ある明智秀満殿が江州坂本で爆死したのにも
手も貸せなんだ俺じゃ‥‥秀吉めに殺されたとて因果応報。なまじ逆らってその方や
家臣に累を及ぼすよりは、ここは男らしく自分の命一つで片をつけようかい」覚悟を
決め山を下った。

「影は坊主にやつれていても、聞いてくれるなこの心境。しょせん男のゆく道は‥‥」
うろたえて明かり障子の蔭から身を隠そうとするのを、妻の幸は逃がしはせじと手で
押さえ、
「なんで女が知るものか、にござりまするか」
恨めしげになじった。そして、
「これ下総守殿」とつめよれば、
「わしは当城戸院の十乗坊である」
数珠をつまぐりながら顔を伏せてしまった。そして、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え
だした。
 しかし幸は、それも耳にもかけず、
「お呼び出しを受けて山を降りられてから何処へ行かれたものか梨の礫‥‥よって大
坂よりのお使者がみえて、城も領地も没収され、お前様を見つけて伴ってゆかねば、
この私めもきついお咎めとの由。それであちらこちらを尋ね廻っていましたところ、
この城戸院の御坊というのが、昔はれっきとした武者衆だったかと聞き、もしやと思
って来てみれば、変わり果てたるこの御姿‥‥こりゃまたいかなる仔細にござります
る?」
ワアッとばかりに泣き伏した。これにはさすがに困惑してしまい、
「のう泣くな女房よ」
数珠を持つ手で幸の肩を撫ぜ、そして耳許に口をつけるようにしながら、
「秀吉よりの差紙を受け取り、この身一つだに棄てればそれでよいものと覚悟をつけ、
山を降りはしたものの、さて考えてみれば、この侭で死んでしもうては、秀吉めがふ
れまわるように、『信長殺しは明智光秀』となってしまう気遣いがある。それでは光
秀の殿や明智秀満殿に対しては相済まぬ事ではないか」と囁いた。これを聞いて、
「それで、ひとまず髪を剃り落し、ここに身を潜まれましたのか‥‥」
 幸も初めて合点がいったようにうなずいたとき、いつの間にか暗くなってきた境内
に、バラバラ雫の打つ音がしてきた。
 妻の肩を抱えながら自分の苦衷を訴えた。しかし幸は子供のように首をふり、
「お前様が亡き信長様の怨念ばらしに、誠の下手人を捜し出し、光秀様は濡れ衣じゃ
と世に訴えたい御存念‥‥妻としてわからないでもないが、私の後をつけてた長岡番
所の者が既にこの寺を囲んでおりまするぞ」低い声で教え、
「秀吉の殿というは、私が安土の城にいました節に、よく軽口など叩かれた存じより
の方‥‥一緒についてゆきますゆえ秀吉様に逢いなされたがよい」とせっついた。
「わしは睨まれておるゆえ、行けば必ず殺される。死出の道連れにその方を共にする
のは心苦しや」
 叱るように言ってはみたが、幸は以前と変わり、心優しくなったのか、
「何を仰せられてか。生きるも死ぬも、ねぇお前様‥‥二人は女夫じゃありませぬか
いな」
共に死ぬなら本望だといわんばかりだった。十乗坊もあらためて覚悟をつけ直した。
「ほう‥‥そちが以前の和田城主の佐野下総守で、今は十乗坊と申すのか?」
妻の幸が昔の顔見知りをよいことに、とりなしを頼んだのが功を奏したのか、秀吉は
思いの外に気さくに声をかけてくれた。そして、
「‥‥天正十年の本能寺の変の当日は、わしは遠い備中の高松にいたから、今そちか
ら当日の話を初めて聞いた‥‥だが、わしは明智めを、故信長様の仇と思い込んでい
たからのう」
当惑ぎみに顔をしかめ身体を乗り出すと、
「のう十乗坊。そちの裁量ひとつで、この秀吉を助けてくれぬか。ものは相談じゃが
‥‥」
言われて十乗坊もわけも判らぬまま、
「うへえッ」と頭を下げたところ、
「坊主は人助けするものというが、早速の承引、これはかたじけない。布施として今
召し上げてある和田の城そっくり戻してやろうぞ」
上機嫌にさっさと座を立ってしまった。
 呆気にとられて見送った十乗坊が傍らの妻に、
「こりゃまたいかがした事じゃ?」ときけば、
「秀吉様は信長殺しの仇討ちに既に光秀を討ってござる。なのに今になって違うとあ
っては、秀吉さまが嘘つきとなる‥‥そこで当日、本能寺爆発に居合わせて、また光
秀と取って返して火消しをしたお前様が『信長殺しは光秀じゃった』と秀吉様の生き
証人となれば、命も助け城も戻してやると仰せられたのよ」と耳打ちした。
 聞かされた十乗坊がぎょっとしてしまい、
「おりゃ今は坊主じゃ。嘘と髪毛は結えぬわえ‥‥そんな本能寺や二条城が爆発した
後で京へ来た光秀や秀満殿を犯人にさせられてものかや」
がたがた肩を揺さぶってみせたところ、
「情けなや、こなさんは‥‥」と、幸は夫の膝へ爪をあてて抓りあげ、
「死んだ信長様や明智光秀、秀満に義理立てして、生きている私を後家にする気かや」
 それでも足らずか、肩先へ口まであてて噛みつき、
「己の意地が大事か、妻が大事か?」と、次は耳まで噛りつきそうにした。だから、
(以前と違うて心優しい事を云うゆえ、つい心を許して一緒についてきたが、こりゃ
初めから企みであったらしい)と、ぎょっとしたが、
「妻という字にゃ勝てやせぬ」と十乗坊は仕方なく、
「秀吉殿の家来となって、その方の云うように致そう」と、ここに全てを断念した。
だからこのため、今でも「信長殺しは光秀」と間違えられているのかもしれぬ。

 そして、この男は今でこそ知られていないが、「武家事記」「九州動座記」「当代
記」に、
「天正十五年三月の秀吉九州征伐の時、赤間が関(下関)城は、のち五奉行の増田長
盛。そして対岸九州要害門司城の守りは城戸十乗坊」
つまり、その後は五奉行に匹敵するぐらい、秀吉に重用されていた事も史料に明白で
ある。
 また、高柳光寿氏の「戦国人名辞典」にも、
「城戸十乗坊=佐野下総守といった。本能寺の変後、秀吉に仕え、丹波和田城主」と
ある。
 いつの時代でも(妻の内助の功)というのは人聞きはよいが、それは、夫に意地を
捨てさせ女房が安穏な生活をする為にする、つまりは、家庭第一(マイホーム)主義
をとる事のようである。


               細川幽斎の陰謀

長岡藤孝の頃

 天正五年十月の事である。
当時長岡藤孝を名乗っていた細川幽斎は、その伜の忠興と共に兵三百五十名を率いて
田能越しというところへ出陣した。
 明智光秀が五千の兵を率い丹波大江山に出てきてから、その命令で丹波の船井桑田
二郡から兵を集めて馳せ加わってきたのである。
 この時光秀は丹波亀山に篭った内藤党らを下し、福知山城、綾部城をも降参させ、
「ようやった。丹波の国の中で攻め取った分をくれてつかわす」と、信長から丹波亀
山を貰い、新しく三十万石ほどが増えたから、ここに明智光秀は旧領近江坂本と共に
五十五万石の大身となった。
 しかし部下の細川はそのままだった。そこで幽斎は伜の忠興に、
「身代の大きい奴は、ますます肥る一方じゃ。いまいやしや」と愚痴をこぼした。
「まったく、そのとおりでござる」忠興も面白くない顔をした。だから、
「明智光秀を蹴落として、あやつの所領を分捕れば、まるまるこちらへ転がり込むが、
なんせ、あやつは信長様の御信頼を得ているから、うかつに足を引っ張っては、かえ
ってこちらがひどいめに合う。まぁ時期を待て」と幽斎は止め、
「それよりも我々としては丹波の隣の丹後を狙うべきじゃろう。守護の一色氏という
のは三河吉良一色の庄に住まっていた範氏(のりんじ)という者が足利尊氏と共に東
奔西走して戦い、その功によって若狭と丹後二ヶ国の守護となったが、応仁の乱で若
狭を失い、去る天正二年には一色義通が家臣に叛かれて、当時は岐阜城にいた信長さ
まに救いを求め、ようやく弓木城を守りとおしたが、その義通も当時の気疲れで昨年
病死。今は青二才の義有が当主ぞ‥‥やれる、ぞよ」
と言ってから、にやっとして掌で己の襟すじをポンと叩き、
(首にしてしまえばこちらのもの)といったしぐさをもつけ加えた。
「しかし、一色家というは室町御所御四家とも、四職ともよばれる家柄。そう容易に
思うようにはなりますまい」と、伜は心配そうに口にしたが、
「任せておけ」と細川幽斎は二日ほどたつと安土へ行った。
 そして信長の前へ出ると、畏まって、
「一色義有めは、備後に逃げ隠れております足利義昭めと気脈を通じ、あまつさえ御
当家の敵の石山本願寺と密かに手を握り、どうも謀叛の様子にござりまする」まこと
しやかに密告した。
「なに丹後の一色がか‥‥先年あれの父が泣き込んできたのを助けてやったに、恩を
仇で返す振舞いは許してもおけぬ」
信長は短気だから激怒した。そして、細川幽斎に対し、
「よくぞ知らせてくれた。すぐさま明智光秀へ討伐を命じようぞ」とキンキン声を出
した。が、
「恐れながら、その御役はなにとぞ手前一手にて仰せ付けられましょう」
幽斎は頭をすりつけた。
「うん。云う事はけなげではあるが、相手は腐っても鯛。今でも丹後一国の守護。少
なくも五千や六千の兵は持っていよう。それなのにその方がかき集められるのは、ま
ぁ四、五百じゃろうが‥‥それではどだい無理じゃろ」
あきれたように信長は口にしたものの、
「よし、その意気に感じて加勢の兵はくり出してつかわそう」と信長は請け合った。
「ありがたき幸せ」と、身体を投げ出し幽斎は平伏叩頭した。

「なに細川幽斎めが、独力で丹後攻めをしたいと信長様に願い出た、と申すのか」
さすがに明智光秀は眉をひそめた。昔は足利義昭について矢島から越前の一乗谷へと
流れ込んできた細川幽斎の方が、身分は上だったかもしれないが、今は反対で、所領
も自分に比べれば十分の1で、信長の命令で寄騎としてつけられている部下同様の者
である。それが光秀に相談もなく勝手に信長に願いにゆくなどとは、もってのほかの
行為だったからである。
「まことにけしからん事」
光秀の娘の婿で明智姓を名乗らせている秀満も口をとがらせて、これには憤慨しきっ
た。
 しかし温厚な光秀は、
「過ぎた事を怒ってみても始まらぬ。それより光秀には部下同様の細川じゃ。知らぬ
顔でほうってもおけまい。いくらかの兵を助勢にむけてつかわせ」と言ったところ、
「御言葉なれど、細川父子というは、ありゃ油断のならぬ曲者でござる。たとえ一兵
なりと今度のような折に御情けをかけられる事はありますまい」内藤内蔵介が居間へ
入ってくるなり声高に言った。
 さて、この男の事を居間の歴史は‥‥明智光秀の家老と扱うが、前述の如く「信長
公記」をみても、まだ光秀が本格的に信長の家来にもなっていない姉川合戦の前の元
龜元年五月六日の条に、妹婿浅井長政の反抗を聞いて信長が朽木越えで逃げる時に、
「稲葉伊予と斎藤内蔵介を江州守山の備えにおき、南口より叛徒せまるを追い崩しあ
また切る」
とさえ出ている、れっきとした信長の直臣である。
明智光秀に対して「軍事目付」つまり監督の役目で派遣されていたのである。
 また、四国の長宗我部信親の妻は、この内蔵介の妹である。光秀の家来つまり陪臣
ふぜいの妹を長宗我部ともあろう家が嫁にするはずなどない。
 これは江戸期になって、この内蔵介の末女阿福が、「春日局」になって天下の権を
握る世になってから、
(信長殺しが春日局の実父様の斎藤内蔵介では具合が悪い)という理由で、
(光秀の家来にしておけば、明智光秀の命令でしたことになる)というのであろう。
(信長殺しの光秀)にするための小細工にと改変されたもので、当時の公卿の日記を
みても、「謀叛随一、斎藤内蔵介」という記載はあるが、「明智光秀の家老」などに
なっているのは、幕末の「絵本太閤記」とか、古本に偽装された「川角太閤記」とか
いった辻講釈の種本でしかない。
 さて、この時、軍監の斎藤内蔵介に止められたので、光秀としては内蔵介の言う事
は信長の命令と同じという立場をとって、三百だけの兵を目こぼししてもらって応援
にこれを遣った。
 しかし細川父子はそこまでは何も考えていないから、
「安土より三千の助力を賜ったゆえ、明智光秀よりも二千ぐらいの加勢がくると思っ
たに、たったの三百か」
と、すっかり腹を立てた。しかし大言壮語して出陣してきた手前、
「兵力が足りませぬ」では戻れない。そこで一色義有の本城弓木城を攻めに攻めた。
が、どうしても落城しないのである。
「どうするか‥‥」と狼狽しきった。
「やむを得ぬ。手段は選べぬ」幽斎は唇をかみしめてつぶやいた。

「なに、寄手の細川めが、その娘を人質に入れるから、ひとまず和平してほしいと申
すのか」と、これには一色義有も妙な顔をした。なにしろ、
(攻められている方が人質を出して和平)というのはあるが、それとは逆に、(攻め
ている側から申し込む)というのは前代未聞だったからである。
「なにもそないな事をせんでも、攻めあぐんだものなら、さっさと引き上げたらよか
ろうにのう‥‥おかしな奴だ」
義有は若いだけに幽斎の肚が読めなかった。もしこの時、
(信長に願い出て自分勝手に攻め込んだのに、落城させられませんでしたでは戻れぬ
から)
という内部事情が見破れたなら和平の申し出を断ったであろう。
 しかし、細川幽斎という人は当時は歌詠みとして知られていた。そこでついうっか
り義有も「歌人や画を描く人に悪人はいまい。まぁ信用してみようぞ」と、細川方の
申し出をのんだ。
 すると細川幽斎が若い娘を伴って弓木城へと訪れてきた。
「‥‥これが人質か」
と、その娘に目を注ぐと、向こうも恥ずかしそうにはしたが、じっと義有を見返した。
そして幽斎の耳へ、しきりに何やら囁いてきた。気にして、「何を申しているのか?」
ときくと、
「いや、これは、これは‥‥」幽斎がてれてみせながら、
「長女とは申せ、まだ箱入り娘にて何もわからぬ他愛なきもの、人質として連れて参
られたのに、お屋形様の嫁御寮になるつもりか、しきりに嬉しやと申しおりまする」
不憫そうに口にし、淋しげに幽斎は娘から見られぬようにと眼を押さえた。
「なに、この義有の嫁となると思うて嬉しがっていると申すか」これには義有は若い
だけに、ぐっとくるものがあった。とかく今も昔も男は、女に対しては単純であるか
らして、
(異性から好かれているのか)と、途端に嬉しくなってしまったのである。
そこで、
「今でこそ敵味方で戦をしているが、その方も室町御所の奉公人だったゆえ、我らと
同じ谷川の水」とまず切り出し、そして、
「人質などというはこの娘が哀れじゃ。本人の望みどおりに我が嫁にせん」と言い出
した。
「願ってもない事」幽斎も喜んですぐに祝言の盃事をさせてもらった。
 さて、それからというもの、
「於伊也、おいや」とあけくれ側へ召して、他の守護大名のように侍妾など一人も持
たず、この世で女人は妻だけの如く一色義有はこれを溺愛した。
 どうも書いていて気になるが、細川幽斎には長子忠興以下男子五名、そして長女於
伊也以下、加賀、千、栗、那仁伊(なにい)の計十名の子がいた。はっきりとこの名
前は「細川世系」にも出ている。だから、「女は、おいや」と一色義有が絶えず口に
しても、これが本名であっては仕方もない。
 さて、一色義有の本城は弓木城にあったが、八幡城に一色式部。久美城には一色宮
内。その他、田辺城には矢野、由良城には大島と、一色家は十七代も続いた家柄なの
で、一門一族でかたまっていて、細川のような無法者さえ攻めてこなければ天下太平
だったのであるが‥‥
 しばらくして赤子も生れて、三年の歳月がまたたく間に過ぎてしまった。
「この子を父幽斎に見せとうござりまする」と於伊也が言い出すようになった。
「こちらへ呼べばよかろう」と言ったのだが、それでも、
「あなた様も御一緒に父の許へ行って下さりませえな」於伊也に甘えられると、
「‥‥うん、そう致すとするか‥‥」義有もうなずいたのである。

 どうも男というものは案外に誰でも自分の妻を信じたい「脆さ」を持っているらし
い。
 江戸期の安永元年(1772)京都西町奉行として山村信濃守が赴任したとき、江
戸から伴った御徒目付中井清太夫なる者が、その姪を禁裡御所役人に縁づけ、翌年可
愛い赤子もできた。
 ところが三年目になると、その嫁が子供を残したままで、今でいう蒸発をしてしま
い行方知れずになってしまった。
 周囲も夫婦喧嘩ぐらいのつもりでいると、安永三年八月二十七日、飯室左衛門尉以
下三十余名の御所役人が逮捕され、彼女の夫の西池主鈴は拷問で牢死した。他に死罪
三人、遠島五人、その他皆処罰されるという事件が起きた。はたして本当の罪かどう
かはわからぬが、時々江戸の徳川家が御所に対して行ういやがらせである。
 さて、その西池は、一説では獄中で自殺したともいわれるが、己が捕えられた時、
「これが証拠である」とつきつけられた物が、三年がかりで妻の集めた物なのにびっ
くり仰天。
「何たることであろうか」と眼をまわすと、他の御所役人の罪科も皆行方不明のその
妻の作った証拠で拘引されていたことがわかってきた。
 信じ切っていた妻に計画的にでっち上げをされていたのが判明したというのである。
これでは口惜しさに自殺するのも無理はない。
 さて、一色義有も於伊也に対し、
「よき妻を持てたものである」と、かねて満足していたから、一緒にとせがまれるま
まに細川の城へ赴いたところ、
「ようお越し下された」
細川幽斎から、下へもおかぬもてなしを受けた。
 が、一色義有とて戦国時代の武将のことゆえ、今のマイホームパパの如く子供を膝
に上げてあやしつつも、打ち刀だけはしっかり脇に置いていた。ところが於伊也が義
有の耳許へ、
「父や兄さえ丸腰でいますのに、あなた様だけが用心されるのはおかしかろう」
そっとささやいた。
「それもそうじゃな・・」愛する妻の言うことだからと義有は合点して、於伊也に刀
を手渡し、彼女が袂で刀を抱えて席を立った、その時である。
「さあっ」と板戸を開けるなり、幽斎の家臣どもが飛び込んできて、
「御覚悟っ」と呼ばわって槍をつけてきた。
「‥‥しまった」と義有は慌てて顔色を変えて立ち上がり、
「これっ、於伊也、刀を‥‥」と呼ばわったが、彼女も動転したのか刀を持ったまま
後へ飛び退いた。
 やむなく義有は素手のまま身構え、猫足膳を振って立ち向かったものの、幽斎の家
来どもの槍先で膳ごと肩先を刺し抜かれてしまった。
 それでもひるまず、瓶子や土盃を投げては抵抗しつつ、
「於伊也、おいや」と呼ばわって刀を投げてよこせと絶叫した。
が、茫然とした彼女は刀を投げるどころか、ひしと抱きしめるばかり。
 ようやく於伊也が夫の許へ近寄ったのは四方八方から槍を突きこまれ、一色義有が
眼をむいたまま動かなくなってからであった。