1172 織田信長殺人事件  4

 なにしろ、丁度一年前の桶狭間合戦というのは、元々が今川義元が上洛のための通
行だけの話で、その前日まではのんびりしきっていた。だから重臣達も、まさか折り
からのにわか雨で、
「今川の鉄砲も濡れていては火縄に点火もできまい。ただの棒っきれではないか」
と咄嗟に心変わりし、決意した信長が、ぞろぞろ集まってついてきた野次馬を動員、
逆さ落しに雨宿りの今川義元の本陣を襲って大勝利を得たとは、清洲へ戻ってくるま
で知らなかった者が多かった。つまり先代信秀の頃からの譜代の武者で、桶狭間合戦
に加わったものは殆どいないのである。
「三万五千石の今川義元が無事に尾張領を通過して上洛するを妨げぬ保障」
にと、信長が長子の奇妙丸を人質に入れ、尾張領の安堵状を貰ってくるものとばかり
重臣は思っていた。だから話によっては今川勢の先手となって上洛するのだろうと、
その準備をするために己の所領へ戻っていた重臣がほとんどだった。
 ところが乾坤一擲の博奕というか、信長のだまし討ちが見事に成功してしまったの
だから、不参加の重臣達と信長の間は、それからはどうも溝ができてしまい気まずく
なっている。
 従来の説では今川方から先制攻撃をされて、鷲津、丸根の砦が落され、全員玉砕し
たのを信長は宮の浜(熱田)から望見し、ここで決死の覚悟をつけた信長が善通寺砦
から桶狭間へ奇襲をかけた事になっている。
 ところが、世にも不思議な事に、その九年後の永禄十二年八月二十日に伊勢に出陣
した時、信長が武辺の者を選んで母衣衆二十名を選抜したが、その赤布をはらませて
背へつける赤母衣十人衆の中に「飯尾隠岐守定宗」が入っているのが、確定史料の
「当代記」にみられる。
 鷲津砦が玉砕したものなら、そこを守っていた飯尾近江守の跡目が生き残れるはず
がないし、またその従弟にあたる遠州引馬城主の飯尾連達にしても、今川義元の伜の
氏真に、
「信長を手引きして父義元を殺した大逆謀叛人」とはっきり云われて、駿府へ来てい
るところを狙われて殺されたのは「駿府小路の戦い」というが、飯尾の妻が薙刀に白
粉をはたいて血滑りを防ぎ、十数人を叩き斬った話も、戦時中の「軍国日本女性の精
華」の本には出ていた。
 つまり桶狭間合戦の真相は、人質を伴って降参に行った筈の信長の裏切りなので、
表向きは「先に攻撃され、やむなく」と取り繕っている。
 だから、丸根砦で討死した筈の佐久間大学が、天正八年に信長から追放されて高野
山へ追われた佐久間信盛と同一人であるという説もある。
 というのは信盛というのは老臣とはなっているものの、桶狭間合戦から十年たった
元龜元年の長光寺合戦までどこにも名が出てこない。なのに突如二年後の三方ヶ原合
戦には堂々と信長の名代で徳川の加勢に出される程の旧臣だから、従来の桶狭間合戦
の話はきわめて疑わしい。

「それっ、進めやっ」と信長は単騎で小姓の佐脇藤八ら五人だけを率いて桶狭間へ討
ち込み、それで勝ちをしめてからというもの、戦は自分一人でやるものと考えている
らしく、河洲を渡って、一望千里の軽海ヶ原(各務原)へ、この度もまっしぐらに突
入した。
 林佐渡を初め重臣の連中も、一年前の埋め合わせをしようと、やはり勇んで渡河し
たものの、肝心な総大将の信長が自分から真っ先に馬の尻を叩いて、遥か平原のかな
たへ、パカッ、パカッと突進してしていってしまい、もはや影も形もない。
 だから指揮系統がはっきりせず、思い思いに手勢を率いて進んで行くと、妙な話だ
が、左右の木立や林が動くような気配がする。
 だが、信長に追いつかぬことには、
「お前等は何をしとった‥‥いてもおらんでも同じではないか」すぐ厭なことを頭ご
なしにいわれるのが目にみえているから、
「脇目をせんと、急げや、急げ」ただ前方へと駆け進んでいく。
 すると、現在の名鉄各務ヶ原の六軒駅と、平行した国鉄高山本線に挟まった柿沢の
森で、ざぁざぁと、やにわに雨に降られた。というと一天俄にかき曇ってということ
になるのだが、仰いでみると、木々の梢からまぶしい陽射しが突き刺さってくる。空
も青くのぞいている。
「はぁ‥‥日照り雨じゃろうか」
と鉄砲奉行の木下勘平が、小手をかざして上を仰ぐと、その開いた口許へピシャァと
また、雨がかかってくる。
「‥‥なんじゃ、さっぱり判らんが、鉄砲の火皿や火縄を濡らすではない‥‥革袋を
かけぇ」
と泡をくって声をかけて廻った頃は、
「もはや手おくれで、びっしょりでござりまするが‥‥」
と部下の鉄砲足軽が、びしょ濡れの顔をこすりながら、悲鳴をあげていた。
「‥‥馴れんという事は弱ったもんじゃ。鉄砲を何年と扱うている者なら、火をつけ
る皿にはすぐ蓋をして仕舞い込み、火縄も濡らさんように肌につけるか、胴乱の革袋
へしまいこむものなのに、うぬらは弓衆や長柄衆から廻されてきたばかりの新編成の
者どもで、ちいとも鉄砲がわかっとらん‥‥無智とは困ったもんじゃ」
と、鉄砲奉行の勘平が転を仰いで嘆息すると、またしてもその少し開けた口許へ、ば
しゃっと雨が浴びせかけられる。
「‥‥面妖じゃ。雨というのは細いにしろ太いにしろ竹薮のように降ってくるから
『篠つく雨』とも云うぐらいじゃ。こんな女ごの尿(しし)みたいに、どさっと降っ
てくる雨があるもんか」と、鬱蒼と繁った木立を見上げると、
「あっ、木の梢に桶を抱えた人間が見えまする」と、めざとい者がみつけだした。
「おのれっ、はかられたかっ」
と、はっとした勘平は地団駄踏んで口惜しがったが、濡れた鉄砲ではいくら狙いをつ
けても発射できない。そこで、
「えいくそったれめ、降りてこい」と騒いでいるところへ、天狗面の旗指物をなびか
せた木下雅楽助が、馬を走らせてきて、
「森の中で日照りをよけて休んどる鉄砲隊の者ども。早ように来いとの御諚でござる
ぞ」
とよばわってきた。しかし、ぐっしょり濡れていてはどうしようもない。だから、
「御使番御苦労である」と云ってから、
「これ弟‥‥なんとか殿様にうまくとりなしてくれ‥‥火縄に着火させるのに吹きッ
晒しの草っ原では、すぐ立ち消えてしまうゆえ、やむなくここの森へ入ったところが
運の尽き‥‥まんまと猿のように木々のてっぺんで待ち伏せしていた敵兵に、散々に
上から水をかけられたのだ
勘平は、木の梢から梢へ縄を渡して桶を運びあっている敵兵を忌々しそうに睨み据え、
窮状を訴えた。そこで雅楽助も驚いて、
「まさか、敵の人工降雨にやられたとはいえぬで、川の中で両岸から伏兵に襲われて
苦戦中とでも言上しまするで、兄じゃ、早よ乾かして追うてきなされ。信長様御本陣
は申子の丘じゃ」
と、そこは兄弟の情でうなずきあって、そのまま使番の弟は戻っていったが、その後
がいけなかった。鉄砲の木下隊が、何百という水桶を次々と浴びせられ、濡れ鼠にな
って動けぬと見てとると、動いていた叢や潅木の蔭から、俄に弓鳴りがし、矢が束に
なって飛来してきた。
 せっかく乾かそうと外へ勢揃いしだした木下隊も、こうなると切羽つまって、また
もとの森へ逃げ込むしかなかった。そして又改めてザァザァ臭い水の洗礼まで受けた。
「濡れぬうちこそ露をもいとえ‥‥こうなったらしようがない。流れ矢にあたるより
ましぞ」
と鉄砲隊は、そこだけ雨降りでびしょぬれの柿沢の森に閉じこめられた侭だった。


疑惑の数々

 散々な敗戦であった。
こちらは隠密に行動したつもりだったが、斎藤竜興の方では、かねて清洲に探りの者
を入れていたとみえ、向こうは用意万端整え進攻を待ち構えていたのである。
 せっかく一年もかけて整備させた自慢の鉄砲隊が、まんまと敵の罠に落ちて一発も
撃てずじまいだったから、後に続くを信じて長駆けした信長は、すっかり敵に包囲さ
れてしまい、辛うじて死地を突き抜け戻ってきたものの、小姓組の大半を失ってしま
った。
「ちぇっ、面白うない」と、この永禄四年五月の第一回の美濃攻めの敗戦は、これま
で得意満面だった信長に自信を失わせた。供してきた重臣どもも、
「やはり先代様同様に、我らを頼みになさらぬと、こない事になりまする‥‥これか
らはもそっとよく相談をなされませ」それみたことかといった顔をされてしまう結果
になった。
 そこで、ますます両者は反目が続いた。だから余計にそれが信長の癇に障ったよう
である。
 そこで老臣共への面当てか、信長は、
「これ五郎佐‥‥そちゃ家柄が良いによって、これからそちを家老にしてつかわす」
と、いきなり呼びつけ頭ごなしに命令した。
なんぼなんでも、これには五郎左も仰天し、
「お戯れにござりましょう」と本気にしないと、信長はむきになって、
「まことぞ」と睨みつけ、「励めや」と言った。そして、「そのかわり、うちの鉄砲
に、これからは雨が降っても撃てるように、なんぞ巧く勘考を致せ」とも付け足しに
注文をつけられた。
 しかし、この度の美濃合戦でも、いつもの愚図がたたって、ろくに戦功も立てられ
なかった自分が、思いもかけぬ家老職になれたとは、五郎左には夢でもみている心地
である。すぐさま家へ戻るなり父の十郎左に、
「いよいよ丹波の家にも運が巡って参りました」と、急に取り立てられた話を報告す
ると、
「鉄砲も舶来。火薬も舶来の世の中じゃ。人間の舶来種が家老になるくらいは当り前
じゃ」
と、内心は喜んでいてくれるらしいが、負け惜しみするみたいな口のききかた。
 だが、嫁の花は手放しで嬉しがって、
「おみゃあは、本当に出世する男じゃな」と感嘆これ久しゅうしてくれたが、
「して、お禄はなんぼにして下されたね」
と聞いてきた。当り前の事かもしれぬが、これには弱った。なにしろ五郎左は唐突に
家老になどと言われたので、はじめは冗談(てんごう)ぐらいに思っていたから、加
増してもらえる役扶持の事まできいてこなかった。だから黙っていると、
「肝心な事じゃ」と、お花は家老の嫁として情けない、がっつきようで詰め寄ってき
た。
「待て‥‥俺、藤吉郎の長屋へ行って、寧子殿にきいてくるわ」と、仕方なく五郎左
が立ち上がると、お花はきっとして前にはだかって、
「‥‥自分のお禄がいかがになったのか、他家の嫁様に聞きに行くことやある」
とせめた。
「というて、この度の破格のお取り立ては俺にも見当がつかん‥‥しいてあるとすれ
ば、この前、俺の代りに藤吉郎を薪炭とは申せ、奉行役に推挙したゆえ、その時の義
理の埋めあわせに、寧子殿が口をきいて下されたものと思う‥‥よって聞きに行かす
というとるのだ」
 対抗上、五郎左も重々しく言った。すると、
「‥‥口惜しい」と言いざま、花は爪をたてて五郎左に武者ぶりついてくると、
「二言めには、寧子殿、寧子殿、となんじゃい。お前等二人は乳くりあっとる仲じゃ
ろうが‥‥そない事がわからんでどうする」
と鳴き喚き、両手の爪で五郎左の顔をかきむしってきた。
「痛て、痛てて」
と肘で顔を隠しながら五郎左は、納屋の方を振り返った。そして父の十郎左に助けて
くれと言わんばかりに、
「これでは話が違う‥‥夫婦喧嘩で組み打ちするとき、小柄な方が好ましいと推挙な
されたが、御覧じませ、このように引っ掻きもうす」と叫んだが、十郎左はどっちつ
かずで、
「女夫(めおと)喧嘩は犬も喰うまい」
などと逃げをうった。だから五郎左は、それならばと、
「こないに爪をたてるは犬ではのうて猫じゃ」と、我慢しかねて平手で花を殴った。
だが、
「いやらっさ‥‥お寧子とあやしいんじゃろ」
それでも花はまだ鉾を納めず喚き散らし止めようとはしなかった。
 この事の真偽は判らない。だが信長在世中は家老といっても琵琶湖での大船作りと
か安土城の建築とか、もっぱら作事方が専門で、これといった武功もなく、五万石止
まりしか出世できなかった丹羽長秀だが、信長が殺されると、いきなり秀吉に重用さ
れだした。
 が、いくら昔馴染とはいえ、それに義理を感じて引き立てるにしては妙ちくりんで
ある。
 なにしろ信長在世中は「愚図」で通っていた彼を、いくら馬鹿と鋏は使いようとは
いっても、秀吉としても用いようななかった筈である。奇怪としか言いようがない。
 しかし、史実では山崎合戦では、昔の木下藤吉郎の秀吉に加勢して、若狭と近江の
高島、志賀二郡を貰い、近江大溝三十万石の城主になり、翌年の賎ヶ岳合戦でも秀吉
側に味方した。その手柄に対してというのか、秀吉は越前一国の他に加賀の能美、江
沼の二郡を合わせて百二十三万石の太守にした。つまり花との約束どおりに百万石に
なり、やがてその名も改めて「丹羽越前守」とも名乗るようになっていたのである。
 しかし天正十三年四月十六日にこの五郎左が死ぬと、おかしな話だが、秀吉は五郎
左の伜の丹羽長重が跡目を継ぐ時に、前述のごとくまず近江二郡を削り、次いで加賀
の二郡も減らした。そして五郎左が死んで二年めの天正十五年7月には、あっさり百
二十三万石から加賀松任城のわずか四万石にしてしまった。驚くなかれ三十分の一の
削減である。
 丹羽五郎の伜ゆえ、親譲りで愚図だったのかもしれないが、それにしても、まるで
次々と難癖をつけて減らしていく秀吉のやり口は、どうみても計画的である。
 五郎左の妻である花と同様に、秀吉も当人の生きている間は、それとなく寧子との
彼五郎左との仲を疑っていたものとは前に書いたところである。
 しかし、敏捷な藤吉郎は豊臣二代で終わったが、それに反して愚図の丹羽家は幕末
までゆっくりと、たとえ小藩でも東北地方に続き、「二本松少年隊」で維新の時には
よく知られている。
 家名を幕末まで残し、明治になっては子爵になって、今も家系は続いているが、そ
の「丹羽家記」には山崎、賎ヶ岳の二つの合戦で、先祖の五郎左長秀がいかなるめざ
ましい働きをなし、百万石になったかについては全然触れていない。全ては謎の侭で
ある。
 ただ、表面的に判っていることは、明智光秀の女婿であった明智秀満が、光秀の妻
やその二人の子供もろとも爆死させて天守閣が吹っ飛んだ坂本城へ、秀吉の命令で進
駐した長秀は、山崎、賎ヶ岳の両合戦には家臣の兵団は提供しているが、自分は頑と
して、その坂本城を動いていないという不思議な事実である。
 といって、そこへ敵が押し寄せてきて防戦したというのではない。また、要所だか
らと防備していたのでもまいので、大変奇妙である。
 推理すれば、天正十年六月二日当日、長秀は信長の三男信孝を奉じて四国征伐に赴
く為に大阪城に入っていたが、大坂と京とは目と鼻の距離であるから、彼は秀吉に言
い含められて本能寺爆発の作事者の黒幕役を務めていたのではあるまいかと疑える。
 なにしろ最初の妻の妙は信長の異母兄の二郎信広の娘である。
彼は信長が尾張の跡目を継いだのが面白くなく、斎藤道三を殺して美濃国主となった
斎藤竜興と結んで、今でいえばクーデターを起そうとして失敗している。この為に信
長へ忠誠心を示そうと、丹羽長秀はその妻の妙と離別してしまい、やがて今度は身分
の低いところから第二の妻の花をむかえているが、信広がクーデターを企てた時に、
その娘婿の彼が加盟していなかったという事はあるまい。つまり彼には信長への謀叛
の前科があるのである。
 だから生前の信長は彼を用心し、兵力を持たせる軍事用には天正十年までは、あま
り用いず、作事方といったような方面にしか使わず、船作りや城作りばかりさせてい
たのだろう。
 つまり譜代の臣のようでも、丹羽長秀には信長に含むところが多かったし、怨念を
抱いていたから、彼が又も謀叛に与するだけの動機は十分すぎるくらいあったのであ
る。
 信長の死後、やがて秀吉が天下をとったから、丹羽長秀はそれに利用された程度に
しかみられていないが、事によると「信長殺人事件」の筋立ては彼がしくんだものと
も考えられる。
 本来ならば四国遠征の船団は五月末の予定だったのに、それを偶然にも六月二日ま
で長秀が延期していたのも、きわめて疑わしいことである。それまで軍団に関係のな
い仕事ばかりさせられていた長秀が、珍しく織田信孝の軍監として、その指揮下に一
万余の武装兵団を掌握したとき、恐らく彼は、
「これぞ千載一隅の機会である。この折りを逸しては、自分にはこれまで冷や飯を喰
わされてきた恨みつらみをはらす日は来るまい」と決意したのではあるまいか。
 この推理が可能なのは、なんといっても京の本能寺や二条御所で信長父子が爆死を
とげ混乱状態に陥っていた時、京都から、馬なら数時間の距離の大坂に出陣体制の整
った一万五千の完全武装集団を、丹羽長秀は己の命令下に持っていながら、知らぬ顔
をして一兵たりとも京へ差し向けていないという厳然たる事実である。
 この六月二日の急変は、その日のうちに遥か遠い岡山県の山の中の秀吉の耳へも届
いたくらいのものである。まだ建物が密集していない当時なら京の大爆発は大坂近く
でも直接にドカーンと聞えたかもしれないし、黒煙が空に上るのは肉眼で見られたか
も知れぬ点にある。
 なのに五月十一日より大坂の住吉に兵力を集結させ、四国、阿波へ向かって渡海す
るために五月二十一日にはもう織田信孝と共に大坂の石山寺の城へ入ったと「多聞院
日記」にも出ている長秀が、二十五日に出航を一日延ばしにして六月二日まで延引さ
せていたのもおかしいが、常識的には、
「なんか、京に急変があったらしいぞ」と詳細は判らなくても、古くからの家臣とし
て長秀は同日の昼には、ひとまず現場へ急行すべきなのに、物見さえ京へは派遣して
いないのである。
 もしもの話だが、信長が助かっていたら、後でただではすまない事はわかりきって
いるのに、平然と放置して京へ行かずじまいだったのは、つまり彼には「信長は生き
ていない」とするよほどの確信があったとみるしかない。
 しかし、当時の「山科言経記」によれば、六月五日、六日になっても、
「信長は生きて隠れている」
とのデマがもっともらしく流布されて洛中騒動ひとかたならず、といったのが実情だ
ったのだから、信長の死に対して既に六月二日にそれほどの自信を持っていたという
長秀もあやしいといわねばならないだろう。
が、「秀吉事記」や「太閤記」では、
「大坂坂本城にあった長秀は、本能寺の変のあった三日後になって同城ニの丸の千貫
櫓にあった織田信澄を六月五日(太陽暦七月四日)に攻め殺し、秀吉が十一日に尼崎
に来て招きの使者を出したところ、長秀は十三日に織田信孝と共に参会して、秀吉の
求めにより十五日の山崎円明寺合戦に信長の三男である信孝を名代にすることとなっ
た」
と、さも長秀や信孝も秀吉の軍勢に加わってて戦ったようになっている。
「太閤記」では、
「丹羽軍三千、信孝四千」と、その員数まで出しているが、大阪城にいたのは一万五
千でも、逃げたのも多いから残っていたのは半分かもしれない。しかし、丹羽軍三千
は眉唾ものである。
 七千の兵力が秀吉に組み入れられたとしても、当時の長秀は五万石だったから、彼
自身の兵力は千名もいるわけはない。皆信長の名で駆り集められた者達の敗残兵であ
って、それを秀吉が好餌をもって七千名を己の指揮下に加えてしまっただけの話だろ
う。
 というのは今日、この山崎合戦が旧陸軍参謀本部の<日本戦史>などで伝わってい
るものの、その原本たるや、翌天正十一年になって秀吉から織田信孝宛に送られた合
戦詳細状がそうなのだから、全てが疑わしいのである。
 もしも信孝や長秀が直接参加していたものなら、何もわざわざ詳しく秀吉が自慢た
らしくその戦況報告などを送る事はなかろうと思惟されるゆえである。
 それに、長秀がそれほどまでに信長の三男の信孝と行動を共にするぐらい親しい仲
だったならば、信孝の生母や一人娘を、信長が死んでから一年もたっていないのに、
秀吉が張付けにかけるのを見殺しにはしなかったろう。
 また、信孝自信が殺されるのも庇ってやれただろうに、冷酷にも丹羽長秀が素知ら
ぬ顔でいたのもつじつまがあわない。
 だから長秀もこうなると、本当のところは山崎合戦には自分は直接には加わらず、
十五日に秀吉の先手である堀秀政が坂本城を落すと、すぐにそこへ入城してしまった
ものとみるべきだろう。
 というのは、大坂城ニの丸で長秀が殺した織田信澄というのは、岳父だった織田二
郎信広より一足先に謀叛を実行して信長に殺されてしまった信長の異母兄弟である四
郎信行の忘れ形見で、「多聞院日記」で、英俊和尚が「一段の逸物」と賞揚している
当時二十八歳の大溝の城主で、その妻は明智光秀の二女にあたっていた。
 だから長秀は織田信澄を攻め殺す事によって、「信長殺しは明智光秀」という山崎
合戦の大義名分を前もって作っていたから、なにも実戦に参加しなくても、坂本城を
貰うぐらいの手柄はあったのだろう。
 そして、信長殺しの下手人として、秀吉に恩を大いに売ったからこそ、その論功行
賞で、すぐに百万石にしてもらったのだろうが、その功労は彼長秀だけのものだから、
彼が死んでしまうと、その伜は四万石にダウンされてしまったのが真相らしい。
 犯罪の犯人は、「それによって利益を得た者を洗え」というけれども、五万石から
百万石になった丹羽長秀の他にも、佐野下総守や木村吉清とか細川忠興などの、極め
て怪しすぎるのが多いから、この事件の謎解きはそうした連中を洗ってみねばわから
ないと想う。


              男心に男が惚れて

城主佐野下総守

 ブオッと法螺貝がたった。近習の者が、
「お召しなされませ」と馬を曳いてきた。
 大鎧を身につけた佐野下総守は、近習に腰を持ち上げさせて、よいしょと鞍に跨っ
た。
 そして、まだ不審そうに顔をひしゃげ、
「こない暗うなってからの出陣とは、ちいと解せぬのう」
手綱をひっぱりつつ唸った。
 しかし見送りに出てきた北の方の幸(ゆき)は、
「そない仰せられても、丹波亀山の斎藤内蔵介様よりの早打ちの御使者。斎藤さま御
下知は、これ信長様よりの仰せも同じ事。もし愚図ついて遅れたなれば、なんとされ
ますぞ」
 それでなくても険しい顔を、また眼を吊り上げて叱るように言った。
だからでもあろう、馬は自分が脅かされていると勘違いしたのか、ビクッと首筋を震
わせ、それがまた鞍に並よせして、佐野の股座にもビクッときた。
そこで兜の下から、
「よいわ、わかったわい」と唸った。
 そこで、近習へ重々しく、
「では出陣するといたす」と言ってきかせるよう声をかけた。
「はあっ」
駆け戻っていった近習が合図をしたものらしい。雑兵どもが一斉に、
「やあっ、やあっ、やあっ」
と三度続けて「矢叫び」をあげた。当時の、これが出陣の合図である。
「備中は遠うござりまするによって、よしなき女ごなど、お近づけなされまするな」
これが妻からの門出のはなむけである。
 せめて恰好だけでも、(勇ましゅう行っておじゃれ)と口にしてくれると家来の手
前もよいのだが、妻ともなるとそんな体裁ぶった事より、まず心にかかる事をすぐ口
にしたがる。

 今度の備中攻めというのは、羽柴秀吉が現在の岡山の裏にあたる高松城を攻めてい
たところ、救出しようと毛利勢が出てきて、逆に秀吉が包囲されてしまい、五月十七
日には、
「お援助を‥‥」と安土城へ馬乗りの使者をよこした。そこで織田信長が、
「心配せずに持ちこたえい。今度は自分が後詰めの大将として出かける」
と、その陣配りの立て直しに参謀役にあたる近習の堀久太郎を先発させ、ついで明智
光秀寄騎の丹後田辺城の長岡藤孝(細川幽斎)。大和郡山の筒井順慶。摂津有岡の池
田恒興。同じく茨木の中川清秀らに陣揃えの命令が出た。
 丹波和田(現在は和知)城の佐野下総守にも、既に亀山の斎藤内蔵助から二十日に
は備中表出陣の触れが出ていた。
 だから、仕度はもう始めていたし用意も整っていたが、二十七日からは連日のよう
に雨である。そこでも出陣も延び延びになり五月も過ぎて六月に入った。
 この一日も昼前から沛然と篠つく大雨だった。なのに夕方になって、やっと晴れ間
が見えたかと思ったら、
「すぐさま、陣備えして出てござれ」
まるで足元から鳥が飛び立つような命令である。
これでは佐野も面白かろう筈がない。
 なにしろ織田信長というのは、各方面の司令官が自分の考えどおりに行動をしない
と困るから、秀吉、勝家、一益といった武将にも小姓の時から召し使っていた者を参
謀とか督軍の恰好で、「目付」としてつけていた。これは後年、秀吉もその真似をし
て、征韓征伐の時の蔚(うる)山篭城でも、
「加藤清正、浅野幸長」といった秀吉子飼いが大将だったが、実際の采配をふるって
いたのは、丹羽長秀の旧臣だが、秀吉に可愛がられ直領の代官をしていた大田一吉だ
ったという例もある。
 明智光秀の場合も、五十五万石の大名で近畿方面司令官の大任を受けていたが、実
際の軍事指導権は信長からつけられた美濃三人衆の一人である稲葉一鉄の妹婿の斎藤
内蔵介である。
 この内蔵介という男は通俗歴史では明智光秀の家老のように間違えられているが、
元龜元年に織田信長が妹婿の浅井長政に背後を突かれかけて、泡をくって命からがら
逃げ出しかけた時、
「近江守山口を守って追撃の一揆を打ち払って殿軍を勤め、その功は甚だ名聞なり」
と、信長から後で褒められ、「三郎信長」の名乗りから、「三」の字を許されて「斎
藤内蔵介利三」と名乗った利(き)け者なのである。
 彼は明智光秀が信長の家来になる前から、既に信長の直臣だった男である。だから
丹波亀山は光秀の本城とはなっているが、実際は内蔵介がここで丹波方面の一切を支
配していた。
 そして和田城主の佐野などには内蔵介の命令は信長の命令と同じである。だから、
たとえ雨上がりで馬の藁沓が滑ったり、はまりこむ道にしろ、暗い星空を手探りで進
むのも命令とあればしかたがない。
 亀山城外の粂野に勢揃いすると、ここから丹波と山城の境目。酒天童子腰かけの石
のある大江山の老の坂へと向かった。

 まだ暗いうちに長岡番所の続く丹波口へ出た。
そこで長岡(後に細川)の家来から、
「御苦労でござる」と飲み水などを振舞われ、
「急げや急げ」と急かされて京へ入った。
 四条大路を西洞院通りの本能寺へと向かった。
(信長様が御自身で陣頭にたって、ここから備中表へ向かうのだ)
という話もあったが、
(幼い時より信長様が我が子同様に可愛がられ、一の姫の五徳様の婿とされた三郎信
康様を信長様の命令と偽って殺してしまい、まんまと岡崎城を乗っ取ってしまった旧
悪が露見した徳川家康を討ち取りに来たのだが、五月二十九日に信長様が上洛なさる
と、家康の一行は風をくらって堺へ逃げ込んだから、そちらへ攻め込むのだ)
とも伝わってきた。
 佐野下総守はわけがわからぬまま、本能寺の裏手にあたる、さいかちの森のあたり
で、指図されたとおりに召し連れた三百の兵をひとかたまりにして休ませた。
 しかし昨日の夕方までの大雨で叢もしっとりと湿っているうえに、夜露を含んだ梢
から時々たまった雫が雨のように落ちてくる。とても野天では一休みしたくとも、欠
伸はひっきりなしに出はするが、かといって寝られはしなかった。
 そこで夜明けを待っていると、六月の時候ゆえ日の出も早く、半刻もたたぬうちに
白々と東の空から明るくなってきた。
「ちいとも、なんの指図とてないぞ。誰ぞ樹へ登って様子を見て物見をば仕れ」
油桐紙を敷いてそこで丸まっていた佐野が近習に眠気覚ましのように言いつけた。
「はあっ」
と身軽な者が、松の木や樅の樹にてんでによじ登ってからが、
「仰山にいまする‥‥本能寺を取り巻いて、およそ一万の余」とよばわってきた。
「何をいうとる。本能寺の外ではないわ。ご境内で、もう出陣のお仕度をなさってお
られるか否か、そこのところを拝せよともうすのだ」
叱るように佐野は大声で言い返した。
 なにしろ信長様の御姿が出てこない事には、にっちもさっちも身動きできないから
である。
 しかし、樹上の物見共は、
「まだ御寝(ぎょしん)にござりましょう。御厩の口取り仲間どもが右往左往し、お
小姓衆の姿はちらほら植込みの蔭に見かけられまするが‥‥まだお仕度のようには見
えませぬ」
折り返し樹の上から手をふって知らせてきた。
「そうか‥‥では見張りは交替に勤めよ。もし上様の御姿が見え、表木戸の門が開く
ようになったらすぐに知らせい。短気な上様ゆえ、お出ましの時には、さあっと並ん
でおらねばご機嫌が悪かろうで、のう」
近習の者に佐野はきっとしていいきかせた。なにしろ先月の二十日に中国攻めの陣ぶ
れが廻ったおりに、佐野は妻の幸から、
「上様は御自ら御采配をおふり遊ばす。このたびの御遠征こそ手柄を上げる又とない
折り‥‥目覚ましゅう恰好よき働きをなされて、せめて今の身代の二倍には立身なさ
れませえな」
と、精がつくようにと生卵を二個も呑まされていたからである。
 というのは、佐野下総守は城持ちとはいっても、丹波篠山火打岩に近い砦のような
小さな山城を持たされているにすぎぬ身分なので、あたりは山また山の険しい難所。
まるで島流しのような土地柄であった。
 だからして妻の幸は、
「せめて年に一度なりと、女のこの身でも京なり安土へなりと行けるような、そない
な土地へ移していただきなされ。それには手柄をたて他へ転封してもらうしか方法は
ありますまい」
あけくれ愚痴ばかりこぼしていた。
 佐野もそうくり返しせっつかれては、
「うん、うん」としか言いようもない。
 だが、佐野にしてみれば和田の山城は先祖代々の持城である。天正六年に明智光秀
が信長の命令で丹波攻めに来た時は、八上城の波多野党と共にあくまでも抗戦したも
のである。
 しかし、八上城が降参してしまうと、
「無駄な抵抗はよさっせ」と寄手の明智秀満が乗り込んできて帰順をすすめた。
後になって考えてみれば、ちっぽけな山城なのに攻めにくい火打岩の絶頂にあるから、
(力攻めするのも労多くして功少なし)と、明智秀満は一人でえっちら登ってきたの
だろうが、そのときの佐野は感激しきった。
「よくに一人でやってこられたものよ」
早速出迎えて、なけなしの酒を出した。
「昨日の敵は今日の友」ということになって、二人で大いに呑んだ。
 明智光秀の長女で荒木村重の長男新五郎に縁づけあったのを、荒木が信長様に謀叛
したとき返されたのを貰い、今では光秀の女婿になっている秀満は、酒の酔いが廻っ
てくると、
「こんな小城の一ツや二つ‥‥保しけりゃくれます熨斗つけて、、佐野さ」
とも言ってくれたものだから、
「降参しても、この城は今までどおりに、この佐野に下さると仰せあってか」
嬉しくなってハラハラ落涙してしまった。そこで話がついたから、
「男心に男が惚れて、雁がとんでいく火打山」とすぐさま開城することにした。