1170 織田信長殺人事件  2

 さて、その翌年に秀吉が死んで、次の慶長五年に、天下分け目の関ヶ原合戦があっ
た。
玄以はすぐさま千名の兵を率いて大阪城の守備に任じたが、伜の彦四郎茂勝は、この
一戦に大いに手柄をあげねばならんと、細川忠興の父幽斎の東軍に味方した田辺城を
攻めた。それゆえ、「細川家記・三刀屋田辺記」や「武家事紀」によれば、
「八月二日、前田茂勝らによって田辺城は開城。茂勝その兵を率い入城し駐屯」とい
う武運めでたい成果をあげた。しかし、一ヶ月半後には関ヶ原合戦で東軍が勝ったの
で、丹波亀山まで報復的に細川幽斎の伜忠興が戻ってくると占領されてしまい、十月
二十二日に放り出された。
「‥‥いかがしましょうか?」
せっかくの武功も夢と消え、五万石の城と領地を失った茂勝は蒼ざめてしまったが、
玄以は平然として、
「立身とは躓いてもすぐ立ち直れる者にのみ与えられる言葉である」てなことを言い、
直接徳川家康を訪ねていくと言い出した。
「‥‥西軍に与した者は、皆捕えられて六条河原で首をはねられておりますのに、そ
んなむちゃくちゃな‥‥」と伜の茂勝は驚いた。
 しかし、玄以は悪びれもせず、
「前田玄以かまり通りまするぞ」
と、堂々と群なす東軍の中を進んでゆくと、家康の許へ行き、
「てまえをお忘れでもございましょうが‥‥天正十年の頃、長谷川秀一と棒組みにな
って働きましたもので」ぬけぬけと言い放った。
 すると家康も苦笑して、
「‥‥そうであったか」と言葉少なく答えたが、ずばりその一言が効いたのだろう。
西軍に与した者は安国寺のような僧侶ですら梟首されたのに、玄以父子はお咎めなし
となった。
 しかも細川忠興に奪われた丹波亀山城は戻されなかったが、近江八幡山城六万石が
渡される事となった。
 関ヶ原合戦で西軍に与した大名で助命された上にベースアップまでされたのは、天
にも地にも、この前田玄以一人きりであろう。
 これは「細川家記」や「時慶卿記」にも記載され、今に残されているが、なにしろ
信長殺人事件の謎が判らないことには、長谷川秀一や前田玄以のような不可思議きわ
まる立身の史実は解きようもなかろう。
 では、その謎解きとは何かといえば、かつて八切日本史の「信長殺しは光秀ではな
い」で、俗説や通説のように[犯人は]明智光秀ではない事と、丹波から桑津船団両
郡を通って大江山越しに、京へ入って襲撃した小野木縫殿助ら実戦部隊の内訳を詳細
した。
 「信長殺しは秀吉か」では、小野木縫殿助がなぜに秀吉に使疾されて本能寺へ兵を
進めたかを、信長の末弟の源五郎有楽の立場から書いた。
 そして、「謀殺」では、江戸時代に入ってから江与の方と春日局との対立を、メア
リ・スチュアートとエリザベス一世との対決におきかえ、家光のために駿河大納言が
死に追いやられる解明として、家康が信長殺しの黒幕の一人だったことを書いた。
 しかし、それだけでは、この奇怪な殺人事件の全貌の解明とはいかない気がする。
 そこで、第四回目の謎解きへの挑戦として、これまであまり問題にされなかった丹
羽長秀や蜂須賀小六、それから城戸十乗坊とか木村吉晴といった、今までは全く知ら
れていないが、その当時としては世間をびっくりさせるような出世をした人物をも、
証人としてここへ引っ張り出してくることにした。
 なにしろ、「あらゆる犯罪は、それによって利益を得る者を片っ端から洗え」とい
うから、天正十年六月二日を境にして、いきなりそうした破格な立身出世をした連中
をどうしても洗い直す事によってしか、解明の途はないようである。
 この犯罪においては、端役並で泥棒団並なれば、その見張り番の如く立っていたに
すぎないくらいの前述の前田玄以にしても、六月二日以降は三十人扶持つまり五十石
取りの薬坊主だったのが、近江八幡山城六万石と千二百倍の大出世。
 長谷川秀一は千石の近習だったのが、本能寺の変から三年目には越前敦賀の東郷城
主になって十一万石になっている。千百倍の勘定だが、木村吉晴父子のごときは、五
十石ぐらいの軽輩が、六千倍の奥州登米城で三十万石になっている。もう、こうなる
と常識では考えられもしない。
 また、斎藤内蔵介の娘が春日局となって天下の実権を握るようになると、細川忠興
へ肥後熊本五十四万石が贈られている。
 しかし、その頃は外様大名が片っ端から取り潰しにあっている時代である。
細川も他の外様大名と同じ様に何かと難癖をつけられて、それまでの豊前小倉十万石
を取り上げられてもおかしくないのに、彼だけが五倍のアップをされている。
 木村吉晴らの六千倍には及びもしないが、世の中が落ち着いた時代に、こんな破格
な加増は徳川三百年を通じて他に例もない。
 それに今も伝わっている日本版カーニバルみたいな阿波踊りにしても、何故に日本
の民謡調とは全くかけ離れたものを、「踊る阿呆に見る阿呆」と極めて自虐的な韜晦
(とうかい)趣味な歌の文句を作って、蜂須賀家では歌って踊らせたのかの謎も出て
くる。
 もし他の大名なら、町人共が、
「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ」は、好いとしても、お殿様の許へ、
「踊る阿呆に見る阿呆」と、行列を繰り出していったらどうなるだろうか‥‥
「見物しているわしを愚弄するとはけしからん」と、デモにでも間違われて処罰され
ていただろう。なのに代々の蜂須賀の殿様が叱りつけもせず、かえって奨励していた
のはなぜだろう。
 この公許という理由は、踊るのや唄うのは町人共でも、この作詞者は蜂須賀小六の
伜の家政か孫の至鎮ではなかったろうかと思惟もされる。つまりこれは天正十年六月
当時の「蜂須賀小六の怨念の唄と踊り」とみるべきではなかろうかという事である。
 では何が怨念かといえば、本能寺の変の時に先祖の蜂須賀小六が、
(誰かに踊らされて何かをやり、そして、その結果、誰かがあっという間に天下をと
ってしまい、あれよあれよと見ているしかなかった阿呆らしさ加減)
を唄っているらしいのである。
 しかし阿呆となって、命じられる侭に踊らされ、そしてポカンと見ていただけだっ
たから、蜂須賀家は阿波徳島十八万六千七百石を貰えて安泰に代々家名を残すことが
できた。だから結果的には、「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ」となるというもの
だろう。
 つまり、そうした挽歌みたいなものを阿波踊りとして城下町で盛大にやらせたのも、
小六の霊を慰めたものとみれば、信長殺人事件におけるその立場も判るというもので
ある。
 寄ってたかって独裁者の信長を倒してしまった、といえばそれまでだが、日本歴史
の暗黒面の代表みたいな世紀の犯罪は、そんな漠然たる推理だけでは済まされない。
 また城戸十乗坊といった、世にもおかしな存在も、やはり糾明していかなくてはな
らないだろう。だから、
「黒幕である殺人教唆容疑者」と、
「直接の殺し屋である加害者」
とに分けて、この奇怪な謎解きはしていくしかなかろう‥‥


斎藤道三の死後

織田二郎信広

「好機到来にござりまするぞ」
 妻の妙は珍しくニコニコして夫丹羽長秀の戻りを待ちわびていた。
「なんぞ良いことでもあったのか?」
ガミガミやられるよりはましだからして、帰ってきた長秀もほっとして聞いてみた。
すると、
「人目忍んで逢いに来ました」妻は若やいだ声をはりあげて打ち明けた。
「‥‥それは男かや?」長秀が気にしてきけば、
「あったり前にござりましょう」
妻の妙はニコニコしてみせた。長秀はいやな顔をした。
 この尾張という国は信長の頃から遊女を置かぬ土地柄で、家康の末子義直が封ぜら
れて名古屋城を築くとき、九州の加藤清正らのごとき女好きなのが入ってきて弱り果
て、
「これは不自由ではござらぬか」
と談判され、やむなく慶長十二年に執政平岩親吉が、飛騨屋町(中区蒲焼町)に赤線
地帯を許したが、名古屋城ができると(はい、それまでよ)と国禁にした。
 そして西暦1610年から131年目の亨保十六年の宗春侯の時、ようやくの事で
解禁された。この時のいきさつも「名古屋史要」によるとその理由は、
「人の家婦に間ヨウ[漢字が出ない](人妻のよろめき)他邦に有りといえど此地最
も甚しく、人妻に梅毒はびこるは、これ娼家を禁ずる故なるべし」とある。
 現在の週刊誌にも同じ様な記事が出ているが、この本は名古屋市役所が尾張藩の史
料によって明治四十三年三月に発行したものである。これをみると、遊所を禁じた結
果は今も昔も変わりはない。
 つまり、後世の江戸期に到っても尾張というのはこうした土地柄なので、この時、
丹羽長秀が眉をひそめたのもやはり、
(人目忍んで男が来たと喜ぶはお国柄で、近頃流行の人妻のよろめきではあるまいか
‥‥叉貸しは困るのう)
という心配からだったらしい。
 しかし妙はお構いなしに、
「お前様は立身出世しますぞえ」と、こうきた。そこで長秀は、
(これは自分よりもはるかに豪いのが来て妻と仲良くしてからが、そちの夫の長秀を、
今後は兄弟の如くに扱おうぞ)
などと言い残して行ったものかと厭な顔をした。
 すると妙も、長秀の変てこな表情を初めは怪しんでいたが、
(男は案外にやきもちやきよ)と、気がついたから、
「父の二郎信広が来たのでござりまするがね」と慌てて告げた。
「なんじゃ、男は男でもそなたの父上でありしか」と、ほっとし、
「何御用でみえられたのか?」と訊ね返してみた。
 というのは織田家の一郎という長子は美濃合戦で討死をとげ、跡目の順序はこの二
郎信広の筈だったが、三河安城へ父信秀の名代として詰めていた時に、今川義元の軍
師太原雪斎に包囲されて降伏。向こうの捕虜になり連行されていた事がある。
 織田信長が遺言も残さず一晩で死に、跡目争いとなった際に、尾張の豪族土田久安
の孫にあたる四郎信行と平手政秀の孫の三郎信長の二人だけが候補にされ、二郎信広
は負け犬として初めから除外されてしまっていた。
 さて、通俗歴史ではお守り役だが、実際は祖父の平手政秀は吝で、孫信長のために
家臣団に銭をまかなかった。そこで跡目は四郎に決まりかけたが、信長の妻奇蝶の父
斎藤道三入道が娘可愛さに銭を出し兵を入れ、信長を跡目に決めさせ、四郎はやがて
攻め滅ぼされた。二郎信広も「三郎五郎」と解明はしたものの、不遇な立場にあった
のである。

「あんたというは、しようもないお人じゃのう。もう、ちいと気張ってもらわないか
んがね」妻の妙は夫の長秀にあけくれ口にするのである。
 なにしろ、まだ万千代と名乗っていた十五歳の頃に、信長の異母兄二郎信広の娘を
もらったのが、この妙である。いわば御下賜の嫁女ということになる。だから盃事を
した時から、「丹羽五郎左長秀」と、名はいかめしくなったが、そのかわりにあけく
れ二つ年上の妻から文句ばかりつけられている。そして、
「もともと丹羽の家というのは、斯波管領家の頃は丹羽郡を持っていたほどの家柄。
それが主家が没落したとはいえ、今はこない味鋺(あじま)に逼塞の身ではないかえ」
と、二言めには云う。
 現在は名古屋市北区楠町味鋺となっているが、ここは十八世紀の元文三年に尾張の
殿様に提出した万歳由緒書上げ文にも、「昔から陰陽師を代々相い勤めている者が十
六軒これあり」とあるように、「尾張万歳」の発祥地で、三河万歳の松永太夫の取締
下にあった。
 故小母沢寛の、「駿河遊侠伝」の中で、次郎長と逃げ回る結髪常が万歳になろうと
する場面があるが、万歳というのは、いくら節回しがうまくやれても昔は誰でもなれ
るというものではない。特殊な土地の、定まった商売だった。
 ここの出身で有名なのに「信長公記」を書いた信長の臣太田牛一もいるが、今日の
歴史辞典などは「尾張の安食の出身」とある。しかしそれは間違いで、そんな土地は
ない。なぜ誤記されたかというと、そこは院内と呼ばれた別所だからである。
 これは八世紀の頃に「藤原」と後世に名乗る大陸系の人々が渡来し、戦い破った原
住系を(一ヶ所に置いておいては危険だから)と、日本全国二千数百に分割し、収容
した所の名残りである。
 織田信長の先祖も、やはり近江国の八田別所の出身だから、同じ系統の者を多く家
来にしていた。が足利時代というのは、沖縄の王と並んでまた明国に対して、「臣足
利義満」と、はっきり臣属して封冊使に来てもらっていた時代だから、武家といえど
渡来淋聖王の末孫の大内氏などが覇をとなえていた世の中である。
 それゆえ信長の若い頃は、まだ足利氏の天下だったからして、丹羽という家も丹後
と同様に、今と違って「タンバ」と発音されていたらしく、非エリートの家名であろ
う。だからして長秀の妻も一人で発奮しては夫の尻を叩いていたのである。

「ああ、忠ならんと欲すれば孝ならず、また孝ならんとすれば‥‥」と長秀は口の中
でつぶやき悩んでいた。しかし三郎五郎と今は名乗る妻の父の織田信広はすっかり意
気がって、
「男は度胸。女は愛敬と申すではないか」とささやいてきた。
 長秀は忌々しくなって、よほど尾張弁で、
(おみゃぁ様ん家の娘は、わしんとこへ来とりゃぁすがよぉ、ちいとも愛敬なんかな
いであかんわね)
と言い返してやりたかったが、黙然と堪えた。
 なにしろ尾張のように遊女禁止の土地柄では、
(お前の相手をしたる女ごは、この世にわししか他は居りゃせんでいかんわね)
と、すぐ嫁がつけあがり、文句でもつけようものなら、
(他に貸したるかねぇ‥‥)と凄む時さえ多いからだ。
 だから長秀は、そこのところを思案しているのに、訪れてきた三郎五郎は、
「やっと、うどんげに花咲く思いじゃ。わしが清洲城から狼煙を上げれば、境目の木
曽川を渡って美濃衆が入ってきて、我が為に合力するんじゃぞ」悦に入っていた。
 わけを聞くと、信長の妻奇蝶の父道三入道を弘治二年四月に長良川で殺し、今は美
濃国主になっている斎藤義竜は信長がどうも煙たい。だから信長の異母兄で不遇をか
こっている三郎五郎に対し密使を送り、彼を国主にするからと謀叛を勧めてきていた
からである。
「わしのために協力して清洲城を取ってくれたら、一首名(おとな・一番家老)に、
その方をとらせよう」
三郎五郎は娘婿の丹羽長秀を説得にかかった。妻の妙も側から口添えして、
「お前様、機会というものは、そう何度もあるものではない。ここ一番、ちゃんとし
た男らしゅうなさるがよい」
口だけでは足らぬのか、手を伸ばし長秀の尻までつねった。
「い、痛い」長秀は叫んだ。すると興奮している三郎五郎は肯き、
「行きたいと言ってくれるのか」
聞きまちがえて、喜んで帰っていった。
 さて、困ったのは長秀である。
(男が立身し出世したいというのは、良き酒を飲み好き女ごを侍らせる事とは心得る
が、女房の父親など殿様にしてしまったら、酒の方は旨いのが呑めても、もう一つは
駄目じゃろ‥‥ならばすきこのんで、そんな阿呆らしい事に協力する事やある)
と考えた。
 そこで忠義のためでもなく、御家のためでもなく、自分の都合ですぐさま信長の許
へ行き、
「かくかく、しかじか‥‥」と訴えた。この結果は「信長公記」に、
「三郎五郎殿は清洲城に入り城留守居役の佐脇藤右を殺してから、合図の煙で攻め込
んでくる美濃衆と戦うように見せかけ、その実は、信長勢の背後から突きかけ挟み討
つ計画だったが、信長の方が先手を取って三郎五郎の屋敷へ向い『いざ出てそうらえ』
とよばわった。『やや、露見したるか』と、三郎五郎はびっくり仰天して戦わずに引
き篭ったままなので、せっかく対岸まで出陣してきた美濃勢も、これではなんともな
らず引き揚げた」
と出ている。
 つまり長秀の手柄で信長はここに異母兄を追い払って、謀叛事件を未然に防ぐ事が
できた。だから喜んで、
「なんなりと褒美を望め」という事になった。
この際に下取り交換をしたさに長秀は、
「妻の妙は三郎五郎様の娘にてござれば‥‥」とまず言上した。ところが、
「手柄に免じて嫁を許せというのか‥‥その方は愛妻家じゃのう」すっかり信長は感
心してキンキン声を脳天から響かせた。何の事はない、逆効果となった。

「ふむ‥‥しょっちゅう女房が口煩く申し、何かすると棒などもってその方を脅し、
これまでぶん殴っていたと申すのか?」
「はい、主筋よりの嫁と思えばこそ、叩かれてもはり倒すわけにも参らず、辛抱して
まいりましたが、なんせそうなりますと、たとえ灯りのない暗がりでも、浮かぶはお
っかない嫁の顔。耳に残っているは嫁の罵り声にござりまする。これではいくら求め
られても男が立ちませぬ」と助けてくれと言わんばかりに訴えた。
「無理もない、わかるわかる」すっかり打ち明けられて信長も同情してしまい、
「泣くな長秀よ」と慰めてやり、改めて願い出てきた件を認めてやって、すぐさま、
「噛みつく犬は繋げ。夫に喰いつく嫁は去れ」と上意をもって長秀の嫁の離縁を認め
てやったのである。
 織田信長が男に人気があったのは、どうも女に冷淡であったためらしい。今日では
二条普請の時に人夫が通行中の女へ悪さをしかけたのを、すぐ自分でとんでいって斬
ったからと、フェミニスト扱いする歴史書もあるが、あれはサボったのを怒っただけ
である。
 待たせてあった侍女達が勝手に他行したからと、中へ入ってわびる坊主もろとも斬
首してしまったり、荒木摂津守を攻めた時には二百人の婦女子を張付けにかけ、つい
でに京では三百五十一人の荒木方の娘や妻を焼き殺した。雑賀攻めでも長島攻めでも、
高野山や延暦寺の焼き討ちでも、男女を同様に扱って公平に殺した。
 なにしろ信長には「綺麗な女だから」と助けて側室にしたような例は、若い頃から
一度もないのである。
 当時の手のつけられないバカ女共を片っ端から成敗してくれたからこそ、世の男共
から、「あれぞ男の中の男」と、きわめて信長は人気があったのである。
 それが現代の通俗歴史屋の筆にかかると、「戦国時代の女は哀れであった」となる。
そして例証として、「合戦のたびに質に取られて、張付に架けられて殺された」とい
う。
 しかし、質というのは値打ちのある方を取るもので、戦国時代というのは今日考え
るのとは反対に女権の方が強かったからして[フロイスの覚書にもあり]、女が質に
なったのではあるまいか。どう考えても、(男を人質にとっては戦闘要員が減るでし
ょうから、女人の方で結構です)と敵が親切に云うわけはない。
 また、現代のような女性に甘い考え方でゆくものなら、
「敵将の娘や妻を質に取って、これを敵に見せつけ張付に殺す」
というのも敵愾心をあおり、かえって敵の士気をいやが上にも増すことになる。が、
戦とはそんなものではない。利敵行為をするはずはないからして、あれは、
「あんな恐ろしい女でさえ殺されてしもうた」と敵方を意気消沈させるためか、
「よくぞ口やかましい意地悪女を殺し、我らの仇を討って下された」と、敵の城兵を
喜ばせ、こちらへ投降させる策だったのではないか。そうでないと女を殺しては薮蛇
になってしまうおそれがある。つまり中世の戦国時代と現代では考え方がまるで違う
ようである。
 さて、丹羽長秀が妻と別れた後で仲良くしていたのは、寧子ではなかったかと疑え
る点がある。というのは、生前は百二十三万石にまで立身したのだが、天正十三年四
月、「子孫本領安堵」の確約を寧子を通して秀吉から貰ったのに、その死後、秀吉は
長秀の伜をわずか四万石に下げてしまうからだ。
 よほどの事がない限り、ここまで減らしてしまうような事はあり得ないからである。
思いの外に男とは嫉妬心が強いものだから、考えられることではある。
 それともう一つ、明智光秀の城だった坂本を秀吉から貰い、丹羽長秀は城主になっ
ていたから、その祟りで伜の代になったら、どすんと格下げになったのだという説も
古い本には出ている。
 しかし、そんな単純なものだろうか。もっと深い根が、それにはあるのだろう。つ
まり信長殺人事件に、かつて妻の父の次郎信広を裏切って殺している丹羽長秀が、は
っきり主要な役割に一枚かんでいる事が言いたくて、最初に彼の若い頃の事をまず述
べたのである。


                 意外な犯人

女婿丹羽長秀

「‥‥五郎左か。その方を召したのは外でもない。作事方を仕れ」
キンキンした信長の声が頭の上で鳴り渡っていた。
「うへえッ」と丹羽五郎左(後の長秀)は手をついた。そして、おもむろに、
(何をするので‥‥?)と尋ねようと顔をあげたところ、もう肝心な信長はいなかっ
た。
「ややっ」と見渡すと、合歓の樹の向こうに背が見え、木の葉の茂みに消えてしまっ
ていた。勿論五郎左は追いかけて行けばまだ間にあうとは思いはしたものの、さて、
そこまでしては御機嫌を損ねはしまいかと迷い、考え込んでしまい、追いかけそこね
る結果となった。
 が、他の者や同輩に、
(手前のいいつかった作事方は、一体何の仕事でござろうかのう?)
とも聞きかねた。そこでしょぼんとして戻ってきたところ、父の十郎左が、
「どないした‥‥お呼び出しを受けて出かけたのにしては、戻ってくるのが早すぎる
ではないか」
と不審がった。そこでわけを話したところ、十郎左は、
「ばかったれめ」
拳固を固めていきなり殴ってきた。
 まだ、この頃はアメリカはインディアンの天国で、ジョージ・ワシントンも産まれ
ていないから、後世のように「桜の樹を切ったワシントンが父に正直に打ち明けたら
父は素直な良い子であると褒めた」という学校の教科書もなかった。つまり五郎左が
本当の事を打ち明けたというのは、なにもワシントンの真似ではない。困惑し切った
せいなのである。なのに十郎左ときたら、
「この夏の桶狭間合戦でバカ勝ちしたとはいえ、ありゃ瓢箪から駒が飛び出したよう
な番狂わせじゃ‥‥あんな信長づれに威光などあろう筈はない。それなのに丹羽の跡
取り息子のその方が、へぇこら仕えるのさえ見苦しいのに、呼びつけられ、話もよぅ
聞かんと戻って来ることやある」
と情けなさそうに、老いの眼に涙を浮かべ、吐息をついた。そこで殴られながら、
(親の心を子は知らずと世間では云うが、俺が家ではこれじゃ反対じゃ)
五郎左はくさった。
 しかし殴られる方より手を出した父親の方がすっかり涙ぐんでいるから、
(ほうれみろ‥‥叩いて手が痛かったんじゃろ)
五郎左は気が済んで黙っているのに、
「よいか。かねて教えてもあるが、信長の父親の織田信秀などは、初めは吹けば飛ぶ
ような勝幡の小城にあって津島神社の祭礼に『傀儡師芝居』や『勧進舞』の興行をな
し、旅の遊芸人に働かせ、分け前を出すときは弓矢で脅かして『敵や』と言われてき
たような男。天文二年七月に蹴鞠興行をもって京より津島へ来た飛鳥井中納言の一座
を借り切って、これで大儲けをして軍備を整え、名を上げた程度の下司ではないか」
と父十郎左は伜に叉も言ってきかせた。
 「本能寺の変」の頃の事を日記に書いたのは時の中納言山科言経だが、その父の言
継も大永七年から天正四年まで五十年間の日記を残している。
 その中の天文二年七月十四日の条には、プロモーターとしてこの興行に同行した山
科言継が、
「織田信秀来る。今日の分の『盆料』として飛鳥井へ銭百疋。予と蔵人へは五十疋ず
つ」
と明記されている。つまり「盆ござ」とか「盆の料(しろ)」というのは幕末の天保
以降の事のように思いがちだが、織田信長の父の信秀の時代にお公卿さんに蹴鞠をさ
せて盆を敷いては客に賭けさせ、勝負は八百長で座主の飛鳥井卿には銭千疋も盆の割
り戻しがあったのが、これでよくわかる。