1168 信長殺しは秀吉か 18

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「おりゃ、天正十年六月二日に、なんで皆と一緒にドカーンとぶっ飛ばされてしまわ
なんじゃろか‥‥生きよう、生きたいと望んどったが奴がドカンと建物ごと宙にとば
されて爆死‥‥織田信長の弟ゆえ、なまじの敵の手にかかるは無念至極と、刀を咥え
て石垣の上から飛び降りようとしていた自分は、爆風に煽られて濠の中へ転落。そし
て、これから‥‥死に損なった身を、『おりゃ、死神に見放されてしもうたんじゃ』
と、ひたむきにそれでも生き抜いてきた。
 唯一の『生きるめど』は『誰が信長を殺しくさったか?』という存念にかかってい
た‥‥借銀をし、時には施しを受けるように秀吉から貰えばそちらに味方し、家康か
ら誘われれば、そちらへもついたものだ。つまり信長殺しの謎を解こうという自分へ
の掟のために、その経緯を捻出するために、まるで遊び女のように転身と身売りもし
た。
 だが、悔いてもおらん。恥じてもおらん。人それぞれに、生きとし生きるには、何
ぞの目標がのうては、やりきれたもんではないわい」
有楽は、えいの骨壷に向かって、あけくれ愚痴をこぼすようになった。本当のところ
は、
(‥‥おまえが去年の大坂城冬の御陣で首なし屍体になった時‥‥おりゃ寂しゅうな
って一緒に死んでしまいたかったんじゃ)
と言いたかったし、そんな甘えもしたかった。
 だが、それでは(男の沽拳にかかわる)と辛抱した。もちろん、そう話しかけてす
ぐさま。
「そうでござりましたかえ、嬉しや」
とでも云ってくれそうものなら、そりゃ見栄などはらずに口に出したかもしれない。
 しかし、骨壷の中からそんな返事が出てくる筈もない。
だから有楽は言わない事にしてるまでの事である。
というのは、何しろ近頃では、建仁寺の大山門どころか、境内の松の木にまで、
「臆病有楽。腰抜け有楽」
といった落書きの木札がぶら下げられるからである。全く当人としては、やり切れな
さすぎた。

 これは(判官贔屓というのか、弱者への憐れみなのか)
昨年の合戦では大坂城の総大将だった織田有楽が、今度は開戦の一ヶ月前に城を出て
しまい、ついに秀頼母子を棄て殺しにして、そ知らぬ顔で茶道に明け暮れするのが、
<卑怯者><腰抜け>と、京坂の者達に不快がられての結果らしい。
 正伝院まで忍び込んできて、投石する者も夜毎に増えだした。
「お身が危のうござります。大和の御領国へなりと、ひとまずお引取りなされませ」
 寺では、とても保護しかねると、建仁寺の方丈から勧告されてきた。
だが、えいの骨壷を抱えて、今更古女房の佐紀の許へ戻れるものでもない。だから領
国はこの際、生き残りに伜どもに兄、弟と分け隔てなどすまいと考え、
「おりゃ、織田信長という、あまりに高名な兄をもったばかりに、すぐ比較され、腰
抜けじゃ、弱虫じゃと云われる‥‥だが、一つ兄弟で、なんでそんな差があろうかや
‥‥信長は織田の家門の上り坂を上っていったからこそ豪そうにみえ、このおりゃは、
下り坂を降りてきたから、そないに見えるきりじゃ‥‥だいたい今度は大阪城へ入ら
なんだは、信雄とも相談の上で決めた事じゃわい。なんで、このおりゃだけを責める
事がある。
 第一、己れの女ごが首を飛ばされて死んだ所へ、又行けるほど、おりゃ情強(じょ
うごわ)ではないわえ‥‥どいつもこいつも誤解ばかりしくさる。もってのほかじゃ」
と、大和芝村一万石を上の織田左衛門佐長政、下の弟の織田大和守尚長(ひさなが)
には大和柳本の一万石を、それぞれ公平に分配してしまった。だから、気が澄んで大
いに満足をした。
 しかし、二万石の領国を、きれいさっぱりやってしまっては、建仁寺を出ていく所
もない、仕方ないから、旧縁を縋って山岡道阿弥を頼って江戸へ下る事になった。
 堀美作守邸の濠越しの角地に、すぐさま屋敷を貰えた。
なんせ上方へ行けば、腐るほど居る茶人も東国ではまだ珍しいから、そこですっかり
評判になった。
「数寄もの有楽」
と、今度は云われるようになり、諸大名が揃って茶事を習いに寄って来るから、まず
九鬼長門守の水手屋敷前の掛橋が、
「数奇屋橋」
と呼ばれるようになり、次いで有楽の邸前の小さな土橋も、
「有楽橋」
と誰が名づけるともなく、そんな言い方をされた。
 日々に茶湯に通う者が多くなって、この界隈では人の出入りが目立つようになり、
「有楽町」
と、その辺りが呼ばれるようになった。
 なにしろ、これまで茶湯には縁などなかった旗本八万騎までが、大坂夏の陣も終わ
って世は泰平になってしまったから、
「やる事がないで、茶でも習おうかい」
と目白押しに入門してきた。しまいには、
「有名な織田信長の弟とは、どない男じゃろ」
と、女までが競って有楽橋を渡ってきた。
 だから、頗る大繁昌をきたした。しかし、有楽にとっては痛し痒しだった。なにし
ろ、一時は、つい憶劫になって革文筥の中へしまいこんだままになっているものの、
「『信長殺し、秀吉なりや』の草稿を、あのままにもしておけぬ。精根込めて、もう
一度始めから手直しをせにゃなるまい」
とは、あけくれ思う。だが、筆をとる際というものがない。
 それに、わざわざ建仁寺にまでやってきて、勝手に一人でまくしたてて帰っていっ
た長宗我部盛親が、大坂城を枕に討死するとは云っていたが、落城前の五月七日に城
を脱出した。
 そして巧く生き延びていてくれたらよいものを、不甲斐なくも十一日に捕えられて、
十五日に京の三条河原で首を斬られている。だから盛親以外の人間で、当時の事に明
るい者を、もう一度見つけ直して、
(はたして秀吉は兄信長に忠義者で、信長殺しとは違うかどうか)
そこのところを確かめ直す必要があった。
 とはいうものの、又調べ直しをやるからには、先立つものは、これは何と言っても
銭である。
「止むを得ん、資金稼ぎじゃ」
と有楽は入門料稼ぎに、どしどし弟子をとって茶湯を教えた。
 しかし、もともと有楽は死んだ信長に初めて相伴させられた時、「苦い」と思った
ように、あまり茶は好きなものではない。
 そりゃ、まあ、日に四服や五服なら建仁寺の如庵の頃だって、啜っていたのだから、
飲んで飲めぬ事もない。
 しかしである。信長殺しを改めて調べ直す資金稼ぎに、どんどん入門をとっている
と、とてもじゃないが日に何杯ではすまされぬ。
 あまりに繁昌するのも善し悪しで、日に何十杯どころか、時には百杯も飲まされて
しまう。有楽は下風で眼を白黒させながら
「まことに結構なお点前でござる」
とか、ぐい、ぐいと我慢して飲み終え、商売ゆえ、
「この服加減‥‥実によお立ててござった」
と言わねばならない。たまったものではない。
 それに、江戸では茶湯指南で思いもよらぬ銭が、しこたま稼げはしたが、肝心な信
長殺しの手掛かりを見つけるには、やはり京へ戻らねば、何ともなるものではなかっ
た。
「困った。どないしようぞ」
と焦り過ぎたのが原因か、ついに有楽は倒れた。腹の病である。現代なら胃腸疾患は
精神障害からと診断されるが、当時の事なので、
「お茶の飲みすぎではござるまいか」
という本道(ないか)の看立てになった。
 有楽自身も苦っぽい茶を、おくびをしながら苦しそうに、
(銭を持って、早よ、京へ行かずばなるまい‥‥)
と、呻くようにも訴えた。
 門人どもは、
「さて、あちらには身寄りの伜の殿達が大和の国には居られるんで、そんでじゃろ」
相談し合った結果、有楽を駕に乗せて上方へと送った。
 しかし、大和へは行かずに、有楽は京へ止まって、そこで病の身を養っていたが、
木枯らしの吹きすさむ十一月の末、有楽は胃袋から吐き出した真っ黒な血の中に顔を
突っ込んで、そのまま息を絶やしていた。
 なにしろ、えいの死後は女人を近づけていなかった。そして、いつも一人で書き物
の綴りを覗き込み、家来の者も遠ざけていたから、誰にも見取られず、有楽は一人ぼ
っちで、えいの骨壷に向き合ったまま死んでいったのである。
 元和七年(1621)十二月三日の雪の降る日。東山の邸から運びだされた有楽の
遺体は、茶毘にふせられてから洛北の建仁寺へ送られた。
「正伝院如庵居士」
と、名を改めた有楽の骨壷は、えいの壷と一緒に塔頭の墓地へ改めて埋葬された。
 京都所司代は、板倉勝重からその伜の重宗の代になっていた。
だが、かねて先代からの申次でもあったのか、有楽の死が伝わると、すぐさま所司代
役人が来て、有楽の残していった書き綴りの文書は一切押収していった。
 そして直ちに早馬によって、江戸城へそのまま厳封したままで送り届けられた。
徳川家康が死んで五年目になっていた。
 二代将軍秀忠は眼を暗く光らせ、吃らせぎみに
「なに、なんと書いてあるぞ」
と、気になるらしく急かして革文筥を開けさせた。
 ひったくるように腕を伸ばして有楽の書き残していった綴りを掴み取った。が、ぱ
らぱらとめくったきりで、
「『信長殺しは秀吉』か‥‥これはいい。すぐさま権現様ご霊前にお供え申し、直ち
に火中に投じてしまえ」
と云い、
「ふふ‥‥」
と異様な笑い見せた。

‥‥つまり織田有楽が四十年の余もかけて調べ上げ、心血を注いだものも、その時の
徳川家からみれば、一笑にしか値しなかったようである。
 誰にしろ往々にして、人間が生涯かけてやった仕事というものは、当人はいくら頑
張ったつもりでも、他人からは、全く無視されたり笑いとばされる結果にもなりかね
ないものである。
 なにしろパスカルでさえ、
「真実を言うことは、言われる側には有益かもしれない。だが、それを言ったり書い
たりする者には、きわめて不利益である。なぜならば、真実を探求する者は、とかく
世間からは厭われてしまうからである」
と云っている。やはり人間の一生などというものは、有楽のように誤解され通すか、
さもなくば、もっと空虚なつまらんもので終わってしまうものらしい、と考えさせら
れる。


後記

 この作品は読みやすい小説体にしたから文献出典は省略した。原典根拠の判りたい
方は講談者刊<信長殺し、光秀ではない>を併読してほしい。なお、右拙書に対して、
日本歴史学会高柳光寿先生は「歴史読本」十一月号に、
「徳川家康は臣水野勝成に、光秀の所有していた槍を与えた事がある。その時、家康
は勝成に『光秀にあやかれ』と言った。これは家康は光秀を主殺しとして扱っていな
い事を語るものである。もし主殺しとして扱っていたら、主殺しにあやかれとは、自
分を殺せという事でなくてはならないのである。光秀を主殺しとするのは江戸時代の
儒学からであり、その最初と思われるのは光秀を主殺しにする事によって、光秀と争
って利を得ようとした秀吉であろう」
と述べられている。ご高説通りであろう。つまり、
「信長殺しが誰か」という事が解明されたのは江戸の家光時代に入ってからであり、
「誰か、が判った」からこそ、儒者はこれを「光秀」にしてしまったのである。
 機会をみて徳川家光から逆解明の書き下ろしをしたい。が、大衆小説ではないから、
答えは読まれる方にお任せしたい。
 だから、この物語は「臆病、腰抜け」と、永遠の汚名を背負った為に、「大坂冬の
陣の総大将」であった事実さえ、歴史家に認められていない哀れな男への挽歌なので
ある。「有楽」「有楽町」と口にするとき、人間それ自体が、いかに虚しいものか判
っていただければと想い、後記とする。

了