1167 信長殺しは秀吉か 17

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「今度は、有楽様はもう御入城あって采配をとられませぬとは、まことにござります
るか?」
と、妙な男が唐突に庵室へ訪ねてきた。
 かねて、密かに東軍に内通の噂のあった堺の町が、
 <大坂城の大野道犬の手勢によって、夜明けに焼き払われた>と京へも伝わり、
「また開戦」と、騒々しい取り沙汰のきこえた四月二十八日の事である。
 奇妙な訪問客を迎えて有楽は、戸惑ったように相手の顔ばかり眺めていた。
「我らも、今度は討死を覚悟の上でござる。よって本日は最後の暇をもらい、吉田へ
参って別れの挨拶をなし、ふと、有楽様がこちらと思い出し、かようにぶしつけなが
ら寄り道したのでござります」
髯達磨の赤ら顔の小肥りの男は、去年、城内で顔を合わせていた時とは違って、すが
すがしい目つきだった。あんまり有楽に顔を覗きこまれると、庭前の夾竹桃の膨らん
だ蕾などを眺めたりして視線を避けた。
 有楽も照れ、茶釜の湯を汲んで点前の仕度をした。
男はゆっくりと呑み終え、その碗を戻しに前へ乗り出したまま、
「余の儀でもござりませぬ‥‥本日こうして伺ったのは、お詫び言上して、心残りの
う、さっぱりと死にたい為でござりました」
と、髯もじゃの唇から、そんな呟きをもらした。
 あっけらかんとさせられて、その碗を受け取ったが、
(何だろう‥‥)有楽はとまどった。
 だが、向こうもいざとなると、話を切り出すのに、やはりためらいが先に立つのか、
押し黙ってしまった。そこで有楽は、相手が語りだしやすいようにと、慌てて神経を
使い、
「おてまえと、吉田家とは、一体どない繋がりでござるかのう‥‥」
と話を切り出しにかかった。すると、
「実は祖母方の一門。同族にござりまする」
と、包み隠すところもなく前置きし、
「わが祖母や、その兄に当る斎藤内蔵介、吉兵衛を産んだのは‥‥斎藤伊豆守の妻で、
その兄は蜷川大和守。姉は吉田一門の宗桂に嫁して、角倉了以を産んでござる」
一息に言われて、聞いている有楽の方が唖然とした。
 角倉了以というのは、昨年七月の大坂冬の陣の始まる前に六十一歳で亡くなり、今
は跡目の玄之(ひろゆき)が継いでいるが、十三年前に、「角倉船」という巨船を造
って、安南カンボジアを渡海。家康公より許された御朱印船の家柄である。
 そして、国内にあっても、大井川と丹波の保津川を結ぶ工事を五年がかりで完成。
次は、甲府から駿府までの富士川を開発。三年前は京の加茂川を、伏見から二条まで
川幅を広げて、舟行の便をあげた男で、御朱印船の方は一渡海で数十万銀。国内の各
水路からも通河銭が、やはり各数万銀入るという身代である。
 だから、秀頼が東山の大仏殿を建立した時も一切を引き受け、立替払いで造営した
程の大金持として知られている。
 昔は、その名のように倉貸しの倉庫業。堺に多い納屋衆から始まったというが、先
代あたりから、既に名のきこえた分限で、土倉の質屋を営む他に、仁和寺前と嵯峨谷
には造り酒屋の作事場を持ち、酒造業でも高名だが、廻船問屋も兼ねていて、
「京の富の殆どを押さえている」
とまで言われているものである、
 昔、有楽は、
「愛宕山の金貸しの資本が、吉田神社から出ている」
と聞いた時、
(御土御門帝の時から創めた卜部兼倶の吉田神道とは、そないに金の集まるものか)
と不審がったものだが、世に隠れもない名高い角倉財閥が、その吉田の一門なら、こ
れは唸るほど有り余っている。貸す金など、いくらでも融通できる筈である。
「当時、このわしは、まだほんの小伜でござりましたゆえ、一切は、おやじ信親が采
配ではありましたなれど‥‥あの天正十年六月二日は、我ら長宗我部の家にとっては、
まこと危急存亡の日にあたりました」
長宗我部盛親は、日焼けした額を突き出し、
(話を判ってほしい)
と言わんばかりの目つきをしてみせたものである。そして、
「天正八年、忘れもしないが‥‥六月と二十六日。お手前様は、その時どこぞの戦場
へ御出向でお留守でごじゃったが、手前の父信親が、そのおやじ長宗我部元親の名代
として、たしか、砂糖三千斤に、上様のお好みの青鷹十六羽をもって、色代(あいさ
つ)に安土城へと参り申した。が、その時も、上様は『四国は任せる。よしなに切り
取って、届けるものだけは違背なきよう運べ。判るな』というお諭しで、安心してお
ると、それから二年とたたぬのに‥‥上様はお気が変わって四国征伐。
 つまり、我らを滅ぼして、せっかく祖父元親が槍先一つで切り開いた土佐から阿波
まで御自分のものに、つまり伜殿達のために横領までなさろうとされましたのじゃ」
喋っている裡に、盛親の顔は次第に恨めしげになってきた。
 だが、そんな死んだ兄の事で、今頃になって文句をつけられてもかなわないから、
有楽は無言でいた。知った事ではない。弁解しようもなかった。
 だが、話は嘘ではなかった。
織田三七信孝をもって、新たに「四国管領」にあてる肚で、その六月二日の朝、丹羽
五郎左を初め津田正澄、一万五千の者が四国へ渡海するため住吉浦へ終結したのは事
実である。三男の信孝に四国をやるためである。
「『攻め込まれたら最後である』という事になりもうした。そこで、父の信親が義兄
の斎藤内蔵介に救いを求めたところ、もともと、内蔵介の妹を土佐の長宗我部へ周旋
したのは、廻船業の角倉了以だから、これとて今更放っておけず、親族の兼右の子の
吉田兼和(のち兼見)に相談をしたのでござります。兼和は自分の嫁の父の細川幽斎
に助力を求めたと、ひそかに聞き及びまする」
「‥‥よっと待ってくりゃ。あの細川幽斎や忠興までが、角倉一族にあたる吉田一門
と繋がってゆくのか」
有楽は面食らって手を振ってしまった。
「ほう‥‥御存じござりませなんだか。関ヶ原合戦で、田辺の城を小野木縫殿助に囲
まれ、城を出た後、細川幽斎は娘婿の丹波亀山の前田玄以の伜の利勝の許にいました
なれど、間もなく上洛。角倉が建てた吉田の随神庵に、ずっとこの間までのんびり隠
居しておりましたものを、(今日でも吉田山の辺りを隠居町という)」
かえって怪訝な顔をされた。
 そこで、よくよく有楽が聞き出してみると、
(幽斎の長女<伊也>が一色左兵衛へ嫁に行き、その一色を幽斎が城へ呼んで騙し討
ちにした後、伊也は吉田兼和の長男兼治へ再嫁している)
のだというのである。
「すると、だな。六月二日の四国征伐軍の渡海を阻止するために、まず斎藤内蔵介が、
吉田家で金融している傘下も同様な愛宕山へと明智光秀を連れ出し、ついでに、そこ
の西坊に命じて密かに里村紹巴を呼び寄せ、さも偶然に登山してきたよう取り繕って、
連歌百首の興行を始めさせておき、その間に密かに内蔵介はすぐさま下山して、角倉
了以の資金にて陣立てをして、六月一日の夜、亀山を出発。細川の強力のもとに本能
寺を襲撃‥‥午(ひる)頃になって、急をきいて駆けつけてきた光秀に対しては、御
所内でも金の力で権勢のある吉田兼和が畏きあたりに願って女房奉書でも出していた
だき、因果をふくめて光秀に後始末を言いつけ、光秀が『それでは手前が謀叛人に見
られます』と尻ごみすると、『ちゃんと大義名分はつける』と、身内の斎藤内蔵介と
共に言いくるめてしまい、その結果が、征夷大将軍の宣下となって、六月七日に吉田
兼見が勅使となって、光秀にそれを伝達した‥‥という事になるんじゃろか」
と、一気に有楽が言ってのけると、相手は否定するどころか、直ちに合点した。そし
て、
「御名答。その通りでござる」
と、まるで、
(自分の口からは云いにくい事を、よくぞかわりに云ってもらって助かった)
とでも云いたげに、長宗我部盛親は大きくうなずいた。だから、
「それにしても、あの時、細川幽斎父子は、すぐ頭を丸めたり、光秀から誘われたの
を断ったように手紙の写しなど盛んに人前で披露していたが、そういえば、確かあれ
にも『近畿を平定後は、幽斎の伜の与一郎こと後の越中守忠興に天下を譲る』と、そ
ないに書いてあったそうな‥‥」
忌々しげに有楽が呟くと、
「なんせ、細川にすれば、丹後の領内には明智領が三刀野(みどの)庄をはじめ各所
に散在しておりまする。よって勢力のある明智光秀は‥‥幽斎にしてみれば、たとえ
伜忠興の嫁の親とはいえ、眼の上のたん瘤にござりましょう。そこで本能寺の変の後
は、もはや光秀は用なしとみてとり、角倉の銀を秀吉の方へ吉田は廻し、この両者を
山崎合戦で戦わせ、まんまと丹後にある明智の旧領を猫ばばしたのでござろう。が、
寝覚めが悪いとみえ、宮津に先年、見上げるばかりな大きな光秀の供養塔を建立して、
盛大な施餓鬼をしたそうにござりまする‥‥よって何も、我らが直接に手を下したわ
けでは毛頭ござりませぬが、我らの血に繋がる者共がなしたる事ゆえ、まこと信長様
には申し訳なき事と存じより、よって今度は罪滅ぼしにも大坂城を枕に見事討死を仕
り、そして、あの世へ参れば、この由を泉下の上様にお詫び事言上いたす所存にござ
りまする。もうしわけとてござらなんだ」
 盛親は熊みたいに黒い剛毛の生えた手の甲を前について、恭しく何度も頭を下げる
と、庭先の家人に声をかけ、馬を曳かせると、初夏のまぶしい陽の中を去っていって
しまった。

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 月が換わって、五月八日の大坂落城の知らせが洛北にも聞えてきた。
秀頼も、姪の淀殿も、皆火中で死んだと伝わってきた。
 だが、紅い焔を背負って火の玉と飛び散った兄信長の夢ばかり見続けている有楽に
とっては、それも
「因果応報」
としか考えられなかった。
 が、しかし弱ったのは長宗我部盛親がわざわざ詫びにきて、
「あの本能寺の変を起したのは、何を隠そう、自分の大伯父にあたる斎藤内蔵介が、
やはり親類の吉田神道家を通して角倉了以の資金援助を受けてやったこと‥‥のち、
その資金網の吉田兼和の舅にあたる細川幽斎が秀吉に寝返ったから、それで明智光秀
は破れ去ったのである」
などと言い残して行ってしまった事だ。
(これでは、てんで『信長殺し・秀吉ではないか』という儂の綴りあげてきたものと
結びつかんのではなかろうか)
と、有楽は難しくなって気落ちしてしまった。
 そして、まるで京の富を一手に握る角倉が、親類の吉田や斎藤を手足のように使い、
その吉田が舅の細川幽斎を、その細川は内藤党の木村弥一郎らをそそのかしたのに、
これはすぎない、とも考えられてきた。
 すると、秀吉側より加勢に繰り出されてきた丹波福知山の小野木縫殿助などは、
(この企ては傍系の手伝いだから、その家来どもを生かしおいて露見しては大事が発
覚する)
と命じられ、死んだえいの父や兄をかためて虐殺し、谷底へ放りこんでしまわれた事
になる。
(いや、ことによったら、これはあべこべで、秀吉はあくまでも兄信長には忠義者で、
煩悶苦肉の策として、故意に小野木縫殿助を加えさせていたのかも知れぬ。つまり信
長を守護するために、一行に彼らを加えていたからこそ、本能寺は夜明け前に包囲さ
れても、その後三時間も四時間も無事だったというわけらしい)
と考えながら、有楽はハッとした。思い当たる事が浮かび出てきた。
 それは、今の茶室を建てた時の頃だが、
「ここの建仁寺の方丈が『如庵(じょあん)』と命名されるとは、まことでござりま
するかな」
と、問い合わせに役僧をよこした事である。有楽がその照会をいぶかって、
「なんぞ、如庵という名はまずうござりまするかな。今更改変もできかね申すがな‥
‥」
と反問したところ、その役僧も当惑げに、
「実はな‥‥去る天正元年の二条城旗上げの時、故足利十五代将軍義昭公の命令によ
って、鉄手千(てっぽうばなち)ともで五千の兵を擁して馳せ参じた丹波党の頭目が
内藤如庵。つまり当時の天主教の洗礼を受けている者で、その如庵はジョアンと呼ん
で向こうの洗礼名‥‥さて二条城に立てこもるに先立って、そのジョアンは四条の南
蛮寺の彼らの教会を戦火に合わせてはならぬと、やはり『ジョアン』の洗礼名をもつ
家来に疎開かたを云いつけたようにござります。
 よって、兵を引き連れたその者が、あろう事か、当建仁寺の広大な敷地に目をつけ、
ここへ移そうと企てて談判に参り、先代の方丈様に無理難題を押しつけようと致し、
全く寺内一同えらい難儀した事がありまする‥‥じゃによって、いまだに如庵という
名を聞くと、我らには悪鬼羅刹のような響きを与えますゆえ‥‥よって方丈様も、も
し改名を願えればと思われたのでござりましょう。
 だが、何としても、指折り数えてみてば既に四十二年も昔の事。今更、とやかく云
うのも愚につかぬ話‥‥まぁ方丈様には、よしなに拙僧から申し上げまするによって、
この話はなきことに致しましょうわい」
と、ぐちぐち言いながら、建ち戻って行った時の事である。
 なにしろ、そんな古い話を知っている役僧だけに、もう歯も抜けていて口をもごも
ごさせていたから、あまりよく聞き取れなかったが、思い出してみると、やはり有楽
としては気になった。そこで、
「丹波党の頭目の内藤如庵というからには、かつて丹波亀山の朝日城にいた内藤党の
事であろう。すると家来の中で、やはりジョアンの洗礼名をもつ者は、はたして誰で
あろうかや」
と、事のついでに昔、当時は存命中だった八郎太らに探り出させ書き留めさせておい
た亀山関係の綴りをもってきて、めくってゆくと、
「あっ」
と有楽は自分でも驚くような叫びをあげた。
何の事はない。例の木村弥一右衛門吉晴の調書の中に、はっきり、
「受洗名、ジョアン」
と但し書きがついていたからである。
(内藤如庵の家来で、やはりジョアンと名をもっていたのは木村弥一右衛門その人)
ということに、これではっきりする。
 なにしろ、これまでは、当時の南蛮寺の住職オルガンチーノを、死ぬまで保護して
いたのが豊臣秀吉なので、てっきりマカオ渡来の最新型爆薬を宣教師の手から密かに
入手して、あの日、本能寺や二条御所を爆発させてしまったのは、つまり、
「信長殺しは秀吉なのだ」
と確信を持ってきたあけだが、これではオルガンチーノに朝から接して、よく南蛮寺
へ出入りしていたのも、これは洗礼を受けてもいない秀吉ではなく、ジョアンこと木
村弥一右衛門ということになる。
 すると爆薬を手に入れ、ドカーンとやってしまったのも、備中高松にいて現場不在
の証明のある秀吉ではなく、現に当日、本能寺を取り囲んだ一万三千の中い潜り込ん
でいた亀山内藤党の木村弥一郎の仕業であるとみられるのである。
 そこで、おそらく秀吉の密命を帯びて兄の信長の身辺を護るつもりでついて行った
杉原七郎左の家来や、小野木縫殿助の伴った福知山党は激昂して、亀山党や細川党と
衝突したのだろう。
 ところが丹波衆一万三千と云われる内の半分までが亀山の内藤党の木村弥一郎、残
りの者の半分が、当時の丹波船津郡桑田郡から出兵してきた細川兵とみれば、他に美
濃から馳せ加わっていた者や、吉田神道から加勢に出ていた者らもいるから、福知山
党としては正味は千といなかったろう。だから、普段ならば避けて通りもしない胡麻
の峠の難所へ出てしまった。そしてここで両軍は戦ったが、なにしろ福知山党は寡兵
である。次々と、えいの父や兄達は討死してしまい、その亡骸は谷底へ放りこまれた
と思える。
 でなかったら、千にも近い人数が、昔、えいが口にしてもいたが、蔓草のように繋
がって次々と寝ぼけてストンストンと落ちる筈もなかろう。小野木縫殿助ら馬に乗っ
ていた者だけは必死に馬の尻を叩いて血路を開き逃げられたが、徒歩の者はあらかた
討ち殺されて崖から放りこまれたのだ‥‥そして、この時の命懸けの武功があればこ
そ、『表面に出しては世間の誤解も招こう』と秀吉は公表はせずだったが、小野木を
三万一千石にも取り立ててやったのだ。
 つまり、兄信長を庇いそこねて死なせてしまったとはいえ、その努力を買って、故
信長への追善供養として福知山城主にも秀吉は彼をしてやったのであろう、とも思え
る。
 ところがである。
慶長三年八月。秀吉が死ぬと情勢は変わってきた。
小野木縫殿助は生前の秀吉から、
「過ぎ去った事は、今は亡き信長様とて、もうお許しになっておられるじゃろ」
といった具合に宥められて、多分、細川幽斎や忠興らと強制的に仲直りをさせられて
いたのだろう。だからこそ、「関東関西のお手切れ」の時、小野木縫殿助は一万五千
の兵を率いて丹後の田辺城を攻略したけれど、
「故信長様の御名によって和解した相手を、ここで討ち滅ぼしては男としての約束に
違おう」
と男道をたて、相手は僅か三十分の一に過ぎぬ五百の城兵なのに、あくまでこれを落
城させなかったのである。
 それなのに、細川の方では、
「秀吉公在世中は手を出せなんだが、もう今となっては構う事はない。なんせ、あの
小野木めを生かしておいては、我らの為にならん。あやつめは‥‥もともと胡麻の峠
でぶっ殺す筈だったのを、つい取り逃がしたに過ぎんのじゃ」
というような事を父子で話し合って、忠興が三千の兵を率いて戻ってくるや、突如と
して福知山城を攻撃。家康から「和解せよ」と通達が来ると、「しめた」とばかり丹
波亀山へ誘きよせ、そこで巧く大方は騙し討ちにして殺してしまったのだろう。そし
て、
「その時、一日半遅れで、おりゃ小野木に逢いに行ったんじゃな」
と、有楽は思い起すと、げんなりさせられた。
 だから、
「信長殺し、秀吉なのか」
の綴りを書き直そうと思ったが、もう憶劫になってしまった。