1166 信長殺しは秀吉か 16

2
「あの男、我らを避けたがっている」
信雄に云われてみると、たしかに、その男には蔭があった。暗い表情が漂っていた。
(何か、織田一門に後ろめたい事があるのじゃなかろうか)
と調べさせると、
「明智光秀の家職(かしき)、斎藤内蔵介の妹の孫」
と素性が判ってきた。
 そして古いことだが、その父は天正三年に元服する時、死んだ兄信長に願って烏帽
子親になってもらい、その信の字をとって、
「長宗我部弥三郎信親」
と名乗りをつけた事も知れてきた。
 そして、その親の元親は、かつて四国全土を槍先一つで突き従えた剛の者である。
「たとえ、内蔵介の甥の子にあたる身上にしろ、当時、信親や盛親は四国の土佐にい
て本能寺には何の係り合いもない話だから、左程まで気兼ねする必要もなかろう‥‥
はて、なんじゃろ」
と信雄も言うし、有楽もそうだと思った。
 ところが、その盛親には妙な事があった。
というのは、新規の入城者はみな牢人なので、勘定差配から金銀を前借りするのが当
り前で至極当然な事なのに、(盛親に限ってそうした借出しが全然ない)というので
ある。
 そして、妙な事に、ひっきりなしに京都から使いが来て、それが又みな親類だとい
うのである。
「あやつ、関東の間者で、京都所司代とでも密かに気脈を通じ、『関ヶ原合戦で失っ
た浦戸城を返して貰う約束』で密かに裏切りを企てているかも知れんぞ」
という噂も耳に入ってきた。
そこで、盛親の許へ来る使いの後を、そっとつけさせてみると、
「聖護院の先の吉田山の中大路、吉田神社の社務所へ入って行きもうした」
と、尾行して見届けてきた者から報告がされた。
「えっ」
と、有楽の方がそれには驚かされた。
 神社と一口に言っても。吉田神道の本家は、中田から浄土寺にわたる地域を北白川
まで所領して、しかも、「愛宕の親質」として知られている。
 光秀も<本能寺の変>の前日まで参篭していた愛宕山は、勝軍地蔵を参拝し、武運
長久を祈る御利益ばかりではなく、他に金融業も営んでいて、その方が何といっても
名高かった。
 もちろん、当時はお伊勢様にしろ、船主相手の熊野権現にしろ、みな金貸しはして
いたが、お伊勢様は閏月で年十三ヶ月の時をみても、年に七回だけ利息を納めればよ
かったし、一航海四月とみて貸し出していた熊野さんは、年に三回の利子払いですん
でいた。
 ところが京に近い愛宕山だけは、それだけ需要が多いせいもあるが、ここだけは毎
月決済だった。
 だから、借りている連中がせっせと毎月お山へ登るのを、五条河原で興行しだした
女歌舞伎の者が、
「伊勢にゃ七たび、熊野にゃ三度、愛宕様には、さあ月まいり」
とも桟敷から唄って流行させたが、有楽が岐阜城攻めをした時の徳川方の目付の村越
七十郎直吉が当時は牢人して京へ来ていて、<○○七>の旗指物を看板に立て、伊勢
屋という金貸しの店を開き二ヶ月決済で好評を得ていた。
(だから、今でも関西へ行くと、<○○は七>といった看板が江戸時代を通して伝わ
っている。ひどい所では質屋といわずに、ひちやとか七つ屋とも云っている。これは
村越の名残りである)
「愛宕で諸人に貸す金の元は吉田神道のものというが、そう云えば天正十年六月に安
土の光秀の許へ勅使として下向したのは吉田左衛門督(すけ)‥‥」
と有楽が思い出すと、信雄も考えだして、
「たしか、その時の礼に光秀から銀五十枚貰ったのを、山崎合戦後に三七信孝から脅
かされて撒き上げられ、そこで狼狽したのか、五月七日には、また勅使になって近江
長浜の秀吉の許へ行き、太刀を戦勝祝いに持参して、己れの身の保護を頼みに行った
そうな‥‥忙しい話じゃな」
信雄は面白そうに、けたけた笑いだした。
 だが、有楽はそれについて笑えなかった。
勅使になって光秀と秀吉の双方に行っている吉田が、足利義昭が槙島へ立て篭った、
その十年前には、
(瀬田の山岡景隆、景友と談合の上、一泊して、翌日、佐和山の小松原へ信長の動静
を探りに来て、それから義昭の許へ戻って、室町奉行衆三千七百を一人残らず信長方
へ<埋火>してしまった事)
を続けて思い起してしまったからである。
「おかしい‥‥」
口の中で叫びを上げていた。
(愛宕権現を窓口にして京の金融を一手に握っている吉田神道の吉田兼見が、信長殺
しの十年前から足利義昭のために奔走していた事実と、それに繋がりがあるらしい四
国の長宗我部一族とは、何の関係があるのか‥‥そして、その結び付きが天正十年六
月二日に結び付いていないとは、どうして言えようか)
すっかり有楽は考え込んでしまった。
「何かある‥‥」
ぐっと胸に響く者があった。

3
 十二月四日。勝ち戦の酒宴が催された。
六文銭の旗をなびかせた真田幸村の手勢が、城の東南の平野口の出丸から打って出て、
小橋村の篠山で左右に分かれ、天王寺に陣していた越前の松平忠直の軍勢を誘いだす
と、騎馬武者だけでも約五百。徒歩の武者や雑兵小者は数知れず討ち取って、まず潰
走させてしまい、続いて旧武田勢の赤揃えで知られる彦根の井伊直孝を、やはり毘舎
門池まで追い落として、二百騎あまりの屍を踏みにじり、事のついでに脇坂、榊原、
松倉の陣営も蹴散らすと、木野村に近い加賀百万石前田利常の手勢の中へ、今度は一
丸となって火の玉のように突入。
 あれよ、あれよと、うち騒ぐ北陸武者を、見る間に三百騎ほど突き倒し、その背面
の岡山の麓にある征夷大将軍徳川秀忠の本陣めがけ、
「それっ」
と雪崩をうって怒涛のごとく殺到。
 すんでのところで秀忠に逃げられてしまい、惜しくも首は取れなかったが、三つ葉
葵の軍旗を二流まで分捕って真田幸村は戻ってきたのである。
「祝着至極」
総大将として有楽は、真田幸村を招いて盃を与えた。
相伴の後藤又兵衛、蒲田隼人も、皆、久しぶりの吉報に己が手柄のように相恰をくず
していた。和気藹々。そんな光景だった。
 秀頼や淀殿も顔を出していたが、間もなく引っ込んだから、有楽も織田信雄に合図
して、たまには大いに士気高揚のためにも酔わせてやるべしと、
「さあ、後は無礼講で、ゆるりと、心ゆくばかり召されよ。どんどん過ごされるがよ
い」
と、総大将の自分は席を立った方が、皆も気安く呑めるであろうと、会釈して大廊下
へ出た。すると、信雄も後を追うように出てきて、背後からいきなり、
「話がある」
と言った。
声をかけられた有楽も、もう少し呑み足らぬ心地もしていたから、うなずいて、
「おじゃれ」
と、己れにあてがわれている本丸の松の間に誘った。
すると、えいが、いそいそ出迎えた。
この女は、有楽が大坂城の総大将になってからというもの、目にみえて変わってきた。
まぁ見直したとでも言うところか。それとも口喧嘩に飽きがきたのか、近頃はまめま
めしく口数を減らして仕えていた。だから信雄も、えいは気兼ねのないものと思った
のか、座るなり、
「お手前様は、さる天正十年六月二日の事が秀吉めの調略だった事‥‥既にお調べ済
みでござりまするか」
えいのすすめる盃に手を出そうともせず、まず昂ぶった声で、やにわき切り出してき
た。
(この男、今頃になって、何を云っとるかや‥‥)
とは思ったが、とやかく云うのもおとなげないから、
「うん」
と有楽は低くうなずいたまま見返すと、
「本能寺で我らが父の信長は小姓どもを指図して、『弓を放ち槍を突きまくり、心ゆ
くばかり稼ぎまくって、その挙句、心静かに割腹して、生害なしたるもの』と巷では
色付けして申し居りまするが‥‥まことは手出しできぬまま、ずっと袋の鼠にされ、
じっと包囲されたきりで時を過し、やがて突如として天地をひっくり返すような大爆
発‥‥そして影も形も残さんと吹っ飛ばされての御最期‥‥」
と無念そうに拳固で目頭をこすった。
 さては信雄も自分で、やはり、父信長の殺された謎を一人で懸命に追いかけていた
のかと思うと、有楽も同じ立場なので涙を催してしまい、
「むごやのう‥‥」
と、それに相づちをうった。
「取り囲んでおった当時の雑兵の生き残りを、やっとの事で見つけだし、その者の口
より聞き及びましたるところでは‥‥夜明け前から四時間ぐらい、ただガヤガヤと本
能寺のさいかちの森に屯していただけで、ドガァンと大爆発を起した時には自分らま
でが爆風に煽られて腰を抜かしました由‥‥よって何者が、これまで見た事も聞いた
事もない強烈な大爆弾を放りこんだか存じよりませぬが、その時の兵どもは、後の山
崎合戦や賎ヶ岳合戦では一番まん前に追いやられて、殆どが捨て殺しにされたとか、
云うておりました」
「ふうむ。すると、やはり秀吉めが差し金‥‥という事になるのかのう」
と有楽は口をはさんだ。
「当時、秀吉めは備中高松にいた事は、これは紛れもない話‥‥といって、他に誰か
を手足の如く動かしたとしか、あの事はどうあっても考えられぬ仕儀‥‥よって『え
えい、ままよ。当たってくだけろ』とばかり、去る天正十八年の小田原御陣の時、思
い切って秀吉めに『我が父をまんまと討たれましたな』とかまをかけたところ、弁解
するどころか烈火の如く立腹。『目通りならぬ』と追い立てられて領地没収。すんで
のところで命も危うござったが、頭を坊主に丸めて、まずは辛うじて助かり申した」
と「常真」に改名した時の真相を信雄は打ち明け、
「人間が腹を立て激怒するというのは、こりゃ本当の事を云われた時‥‥よって本能
寺を爆発させたは、間違いなく、あの秀吉めが指図と、こない思い居りまする」
と、一息に信雄は言った。
「おそらく、その時の爆発というのは、天主教の京都管区長オルガンチーノが秀吉に
密かに渡したマカオ渡来の強烈な最新型のものであろう‥‥その後、秀吉めは天主教
を弾圧したり宣教師をみな追放しおった。が、何故かオルガンチーノだけはマカオへ
戻る事を、向こうを国王フェリッペ二世陛下が禁じられた。よって、戻るところとて
ない彼を秀吉は庇って扶持して生涯を気楽に保護してやった‥‥というが、それで、
どうやらこの話の辻つま合うというものじゃろ」
と云って有楽も涙をこぼした。
(あの豪気な兄が十重、二十重に取り囲まれて、まるで罠にかかった野兎のように何
時間も放っておかれ、挙句の果てはドカーンと一発。ものすごい最新の強力火薬で建
物ごと吹き飛ばされて、毛髪一すじも残さず跡形もなく消滅させられたとは、あまり
にも最期が憐れにすぎた。やはり兄弟として、無念に思えた。だから、
「秀吉めが、故織田信長の仇敵ならば、なんで、おりゃ達織田一門は、その秀吉めの
伜の秀頼を守って、この大阪城で采配をふるうことやある‥‥」
と、自分の立場の馬鹿々々しさに有楽は情けない声を出し、向き合っている信雄に、
「やめてしまうか?」
と相談してみた。
「如何にも‥‥」
信雄も同意した。だが、
「もそっと、様子をみてからでないと、今すぐには、なんぼなんでも、まずうござろ
う」
と苦笑いをした。

4
 十二月も十五、六日になってくると、大阪城の北の天満川の中州にある備前島から
撃ちこんでくる徳川方のポルトガル砲の威力が凄まじくなった。続けさま何発も落下
し城壁も崩れ放題になった。
 だが、それで本丸の花見櫓へ撃ち落とされた大筒玉で、えいが、砕かれて死んでし
まうとは、有楽とて思いもかけなかった。
 首がもがれて飛ばされ、肩から下だけが腹巻鎧の女武者達の手で真紅の打掛けをか
ぶされて戸板で運ばれてきた。
 十二、三の頃から、死んだ信長の名代となって戦場を往復していた有楽だから、も
っと無惨な屍体も見ていた。だが、自分に親しかった者が骸になって目の前へ届けら
れたのは初めてだった。だから改めて生々しいくらい、死というものを身近にひしひ
し感じた。
(急いで茶毘にふす事もなかろう)
と、近臣どもが片付けたがるのを押さえ、北向きの陽のささぬ小部屋へ、そっと遺骸
を寝かしてやった。
(男と女の結び付きは、身体を離してしまうと、ぽかりと穴の開いたような虚しいは
かなさの窪みに落ち込んでしまう。だから、若い時には、その間隙を埋めようと、ひ
た押しに続けられるだけは己れを没入させもしたが、思えば、えいとは初めが親や兄
弟の仇を討ちたさに、向こうから持ちかけてきたものゆえ、煩わしさにも似たものが
いつもつきまとった。こちらとて、兄信長の死因を追いかけ、謎を解くために、まる
で『生き証人』側へ囲っておくようなつもりで抱いていたようだ。だから、まるで断
層にも似た空虚さが、しっくりゆかぬ侭に溝をつくっていた‥‥
 考えてみれば、互いに利用しあう事しか思わぬ睦み合いなど虚しいもので、今とな
れば、そぞろ哀れを催してくるわい)
と、そんな事を考えながら、凝固した血を有楽は自分で拭うてやった。固まったとこ
ろは口をつけ唾で溶かしてこすった。すえたように舌にざらついた。
「睦み合った仲じゃ。できるだけはしてやらにゃなるまい」
と、侍女どもは遠ざけ、一人で血で汚れた小袖も剥いで、えいの気に入りの新しいも
のを纏わせてやった。そして、冷え切ってきた躰を、まるで温めでもしてやるように
しっかと抱えてみた。だが変だった。なにしろ首さえついていれば、よしそれが動か
ない侭にしろ、何かしらの表情が漂って見えるが、今のえいには、その肝心な顔がな
い。まるで首がもげた人形のようである。
 いくら手や脚は二本ずつあっても、肩から下からでは、頭を引っ込めた亀でも抱い
ているようなもので、とんとそぐわないものがある。
「これ、えいや。平素そなたは口煩いと、おりゃ疎んじていたが、なにも死ぬとき、
その口もろとも顔までふっとばさんでもよかったろうに‥‥」
と恨み言をいってみても、首がなければ耳もない、では喋ったとて聞えもしまい。こ
れでは詮無い話である。

 弓を引くときに手にはめる革袋を<ゆがけ>と呼ぶ。
首のない女体をもてあまし、まるで幹にかじりついた蝉のような自分を感じながら、
有楽は撫ぜまわして、
「あの、ゆがけの新品をおろして指にはめ込む時、皮と皮がくっついている中を開い
てゆく感じじゃったになぁ」
と、初めて接した時のえいの事など思い出し、なんとか首のない遺体から、ありし日
の事ども考えようとしても、こちらの顎がえいの肩のところにあったのでは、むんむ
んと血の匂いしかしない。
「おりゃ、愛(めご)して居ったんじゃぞえ‥‥本当はな」
今になって、始めて打ち明け話をしたところで始まらない。なにしろ、首と一緒に、
えいという女は丸太ん俸になってしまって、何処か遠くへもう行ってしまっている。
 そう思うと、ますます侘しさが有楽の胸板へ槍先を向けて、ぐいぐい突きかかって
いる。とてもたまったものではない。淋しくて吐息が立て続けに出る。
 だから、その哀しみを紛らわすために、もう樹の枝みたいに硬ばっているえいの五
本の指を己れの手で挟みこむと、有楽は柔らかくしてみようと、
「はぁはぁ」
と息をかけながら、柔らかく揉みほぐしたりしてみた。
 なにしろ、ここ久しくずっと、えい一人しか抱いてもいない有楽にしてみれば、自
分の身体の一部さえこの女体に咥えこまれた侭、何処か遠くへ飛び去って行くような、
そんな感じさえしていた。寂しさになんともやりきれなかったせいもある。首のない
女を抱いて有楽は男哭きした。

「よしなされ」
眉をひそめて、一族の心安さに信雄が、ずかずか入って来て、板戸を開けるなり鼻を
つまんで、
「臭い‥‥」
と言った。そして振り返りざま、
「早よう。ここの遺骸も死人塚へ運んでゆけや」
と、供をしてきた者共に云いつけた。
「では‥‥」
と会釈して入ってきたのは、鎧姿はしていても、みな城内の女どもだった。中には、
生前のえいとも顔見知りだったのも混じっていたらしく、
「死んでから二日も三日も添い寝してもらえるとは、まあ、なんと女冥利につきる‥
‥」
と顔のないえいに話しかけている者もいた。
 他の者なら追い払えもしたが、一門の織田信雄に持ち出されるのでは、まさか、
「まだ、えいには未練がある」
とも云いかねて、有楽は運ばれていく遺体の突っぱった手の指を見送りながら、
「この世に‥‥男と女は多いが、睦みおうた仲の者は、たんとはおらぬ‥‥それに親
兄弟を早よう亡くして身寄りもない女じゃった‥‥」
と云いさしたまま、嗚咽してしまった。もちろん信雄の手前、恥ずかしやとは思った
が、そんな事で止まる泪でもなかった。
 もらい泣きというのか、それに誘われるように遺体を運びだす女兵達も、すすり泣
きの響きを残していった。
 有楽も、何とかして泣き止めようと上唇を噛みしめた。
それなのに信雄は、
「困った伯父御じゃ‥‥城内には、まんだ若い女ごがごまんといるのに、なんで替り
を作りなさらん」
と意見した。
 しかし有楽は首を振って、
「もう、女ごは絶つ。それが、せめてもの儂の、あの女への供養じゃ」
と、そんな言い方をした。
「よくせき、あの死んだ女ごとは訳ありでござったのか‥‥」
と信雄は尋ねてきた。
「因縁、まぁ宿縁じゃろのう‥‥」
やっと泪をとめた有楽は座り直してから、
「実は今のえいというは、去る天正十年の本能寺を取り巻きに行った丹波福知山の小
野木縫殿助の配下の娘‥‥よって、わしはいつも腹の中で、
(こやつめ、兄信長の敵の片割れぞ)と、片時も忘れなんだで、つい冷たい仕打ちを
わざとした事もある。それを思い出すと不憫でならんのじゃ」
と、打ち明けてしまった。
「えっ。秀吉が美濃の頃より召し使っていた小野木めが、やっぱり本能寺を‥‥」
と、信雄は大きくそれにうなずくと合点してみせ、
「どうも秀吉めが信長殺しを企んだのは毛利方と相談し合っての策のようにも思えま
する。当時、備中高松城攻めの秀吉方の本陣、つまり蛙ヶ鼻の陣場にいました者の話
では‥‥父信長が旗本を率いて乗り込んできたら、これを毛利方と秀吉側の双方から
挟み討ちにして、一挙に葬り去ろうと談合しあい、そのため、『毛利勢に包囲されて
危うし』との偽りの救援の使者を、わざと安土へ送った‥‥と申しおりました」
と、意外な事を話した。
「そうか。そういう談合が前からしてあったればこそ、秀吉めは巧く和解して、引き
上げてもこられたのじゃな」
有楽も感心した。
「ところが、父信長がすぐにも出陣してくると思ったが、あてがはずれて、明智光秀
が名代役となっての先発と聞き‥‥では、なんとかせねばなるまいと手を打ったので
はござりましょう‥‥なにしろ、秀吉も昔ほど、当時は父信長に覚えがめでたくなく、
そのため、事あるごとに身の皮を剥ぐ思いで仰々しい進物を揃えては安土へ贈り込み、
父信長によろしく取り持ちしてくれるようにと側近衆にまで気をつかっていたのを存
じおりまする。
 それに、父信長の当時の腹が、『信雄や信孝も共に二十三歳になったし、あと、ま
だ八人の男児がいるから、これ達にしかるべき領国を与えてやりたい。それには、こ
れまでの大身の家来はおいおい邪魔になる』とは、頭のよい秀吉などには見え透いて
きて<走狗>は不用になり、やがて煮られる番が近づいてるような、取り越し苦労を
しだしたところだったので、秀吉は毛利方と策謀をしてしまい、かねて昵懇の間柄で
ある明智の家老共をそそのかして、
『いずれは明智殿も同じ運命になるは‥‥こりゃ目にみえたこと』
と説得し、その軍勢動員させた上に、自分の息のかかった者共をも加勢に合力させ、
本能寺を爆撃させ、巧く成功すると、ここぞとばかり、すぐ毛利方へ知らせ、あっと
いう間に和睦を取り決めたのでござろう」
と、信雄は信雄なりに三十年がかりで調べだした経緯を、詳しく教えてくれたもので
ある。
 そして、続けて、
「が、天下の耳目もあることだから、(恰好をつけるため)因果をふくめて清水宗治
に腹を切らせ、予定通りに京へ向かった。ところが、姫路城で、明智が思いの外に劣
勢なのを聞くと、俄かに変身して、『信長の仇討ち』とふれだして進発したものだか
ら、これにはすっかり面食らった光秀側が『それでは話が違う』と狼狽するところを、
遮二無二殺してしまったようである。その証拠には、秀吉は己れの為に死なせた清水
宗治の遺児をその後重く取り立て、その当時の恩返しをしてるではありませぬか」筋
道をたて、
「信長殺しは秀吉である」と信雄は言い張った。

 織田の血には、秀吉や光秀にそう感じさせるような冷たい空気が確かにあった。
兄の信長は、昔から人間が<神懸り>にできていたから、
(あらゆる戦功は、自分という神様が背後にいるからこそ、天からの加護である)
と信じこみ、光秀が働こうが、秀吉が稼ごうが、表面では子供をあやすように誉めて
はとらせるが、内心では全然買ってなかった。つまり、光秀は<きんかん頭の石頭>
にすぎなかったし、秀吉だって小者から昇進しても<禿鼠>程度だった。
 ひどい例が桶狭間合戦である。
有楽は当時十歳で、清洲城で怯えきって蒼くなっていたから、詳しい事は知らない。
 だが、織田の家の荒廃を賭けたこの一戦に手柄を上げて、その後、兄信長に報いら
れた者は誰一人としていない。
 なにしろ信長にぴったり喰いついて初めから出かけた側衆六人のうち、生き残った
岩室長門、賀藤弥三郎、佐脇藤八、山口飛騨にしても、誰も出世などさせてはもらな
かった。それどころか、次々と危ない所へとばされて悉く討死している。つまり殆ど
が死に絶えたままである。
 その外でも、桶狭間に出陣した者で、その後大名まで昇った者などは、これは一人
もいない。
 今川義元の首級をあげた毛利新助だって、その後二十四年もたって、相変わらぬ近
習勤めの馬廻り衆で、僅か四百貫の安扶持のまま、槍持ち一人だけ連れて二条城で、
信忠のために爆死を遂げている有様である。
 そうした前例を見せつけられ、また長年仕えてきた佐久間父子や、林佐渡、安東伊
賀達の追放を目の当たりにすると、
(明日は我が身‥‥)
と、秀吉が僻みたくなるのは、これは無理からぬかもしれぬが、それにしても、
「あの秀吉めが、信長殺しの黒幕‥‥憎むべき張本人であったのか」
と考えると、その秀吉にへいこらと仕えてきた自分がまこと面目次第もなく、阿呆ら
しく、情けなかった。
 といって、そこまで腹を割って甥の信雄に話してしまうのも癪だから、
「えいが生きとったうちは、ええとこ見せてやろうと張り切ってもいたが、死なれて
しもうては、もう張り合いもない。おりゃ、もう大坂城にいて秀吉の伜の殿に奉公す
る気は失せてしもうた」
と有楽は運び去られてしまった遺骸にかこつけた。
 そこで十六日の午後。
信雄と共に大野治長と談合してから、三人揃って淀殿と話をした結果、一日おいて十
八日。城方からは、淀殿の妹にあたる京極高次の後室の常高院が、和議交渉にと家康
方の使者に逢いに行った。そして、早くも翌十九日に講和は本決まりとなった。
 織田信雄はさっさと織田信包の跡目の三十郎長頼を促し、自分も己れの手勢を纏め、
大坂城を睨みつけるようにして引き上げてしまった。
 有楽とて、一日も早く退城したかったが、なにしろ外濠埋めとかの残務が多く、よ
うやく城を出られるようになったのは、ずっと遅れて翌年三月の末だった。
 えいの骨壷を抱えて、丹波路は遠いので、長安寺の親や兄の墓所へ葬ってやるのも
心許なく、有楽は戦火にあって跡形もない伏見屋敷へ戻れぬまま上洛した。
 洛北建仁寺へ訪れると、
「これは、これは‥‥」
と喜ばれ、ひとまず寺内の塔頭である別建物の正伝院を有楽の座所として取り持ちさ
れた。
 しかし、小坊主どもがつきっきりで世話をやいてくれるのも有難迷惑である。
だから正伝院に附属した楡林の中に、山家(やまか)風の庵室を建て<如庵(じょあ
ん)>と名づけた。
「えいや。そなたも、とうとう白骨になってしもうたで、よぉ口がきけん事になった
よな‥‥」
と、あけくれ骨壷に向き合っていた。
 ひと頃のように、あんなに口うるさくガミガミやられるのは堪らないが、まるっき
りものを言ってくれないのも、これまた有楽には寂しすぎた。
 だから有楽は自分が亭主役で茶をたて、
「お服加減は如何じゃな」
などと、えいの骨壷を客にしては茶湯三昧の日を過ごしていた。
 しかし、それだけではとても朝から夕方まではもたない。いくら「どうぞ」と進め
ても「客」のえいが、もはや口なしで、一服も啜ってくれぬ。つまり点前しただけで
は、有楽が自分で呑まねばならぬ」
 そこで建仁寺の納所に顔を出して、布施を包んできた紙などを貰ってくると、これ
で観る世縒りで綴じあげ、一気に、
<信長殺し・秀吉ではないか>
と、まず表紙に書上げ、これまでの事柄を筆を舐め舐め書き出した。
 所司代の板倉伊賀守も、訪れてきた時、その綴りを見かけ、これにはすっかり感心
してしまい、
「お書き上げになりましたら、てまえ下役の者に一部写させていただき、駿府の大御
所様の乙夜(いつや)の覧に供しとうござります。かねて家康公も、『信長様殺しは
明智光秀の仕業ではない‥‥して何者ぞ』と仰せられてますゆえ、さぞかし、この旨
を申し上げたら、きつう御所望にござりましょう。しっかりお書きなされましょう」
と首をふって敬服にたえぬ表情を見せた。
 だから有楽も、かつてこの男の謀みで己が伜の左馬助を死なせた怨みもつい忘れて
しまい、
「世間では様々にわしを誤解してござるが‥‥あの六月二日、刀をくわえて石垣から
飛び降りたところ、爆風に煽られて自殺し損ない、それから今日まで、これ一つに搾
って生きてきたのでござりまするよ」
と打ち明けたりした。