1165 信長殺しは秀吉か 15

 八月十九日の事。
村越七十郎が、徳川家康の使者として清洲へやってきた。
 若い頃、七の字をあべこべに書いたというので、<左七>の旗指物を家康から特に
許された男でである。つまり己れの無学さを得意がっているような軽率者なので、
「将軍家は、諸侯の去就を確認の上で、それから御出馬なさる」
と、口を滑らせた。
 そこで清洲城主の福島正則はじめ、これまで豊家の重臣だった連中は、まだ疑われ
ているのは心外とばかり、
「なら、まずおめにかけるでござろう」
と、木曽川を渡って岐阜城へ迫った。
 有楽も、行きがかり上やむなく、先手として河田島の中州を渡って、美濃入りした
ものの、気が気でなかった。
 なにしろ、八月の初めまでは、織田秀信は東軍に組する筈になっていた。そして有
楽の肝いりで、その前日の会津征伐にも加わる話まであった。
 ところが、八月九日に美濃垂井まで、兵六千を率いて石田三成が来て、十一日から
眼と鼻の先の大垣城へ入られてしまうと、年弱な秀信はまるめこまれてしまい、つい
に六千五百の城兵と共に、はっきり石田方へと寝返ってしまったのである。
(‥‥ここ十五年間は国内での戦がとんとなかったゆえ、近頃の若い者はどうかしと
る)
と有楽は全くてこずってしまっていた。なにしろ、その秀信も伜の左馬助も、二十そ
こそこだからである。
 つまり、どちらも戦などというものは始めてだから、つい恰好ばかりを気にして、
ぜんぜん後先の考えがないのである。困ったものだと有楽は考えた。
 そして、(織田の本家を潰すわけにはゆかん)
と、何度も使いを城内に送ってみたが、なにしろ二十一歳の秀信は、三万五千の大軍
に囲まれ悲壮感に酔っていて、とても有楽との談合どころではない。
 とうとう八月二十三日、東軍に力攻めされて岐阜城は本丸に火をつけられた。
仕方がないから、有楽は秀信の身柄を救出すると、福島正則らの尽力でひとまず上加
納の円徳寺で頭を丸めさせると、そこから安全と思われる知多郡大野へ送り届けた。
 しかし、
「眼にみえる戦果を、江戸表へ届けたい」
と、織田秀信の首を初みやげに送って、大いに手柄顔をしたい者が多かった。だから
仲に入った有楽は板挟みにされ慰め役になって難儀したものだ。
 だて、美濃は一段落したから、有楽らが大垣の西北方にある赤坂へ終結していると、
伊勢方面から安濃津の激戦が伝わってきた。
 城主は利休門下で、かつて秀吉の上使として利休屋敷へ追放の沙汰を持っていった
富田左近将監の伜、信高で、徳川方の旗を上げたところを、毛利秀元、吉川広家ら西
軍三方に包囲されたというのである。
 信高の妻は、宇喜多御前といって、芙蓉の花にも似た、まだ十八歳の色白な童顔の
残った女性(にょしょう)だそうだが、五色鎧に金竜の大兜をかぶり、女ごばかりの
百名ほどの槍隊を揃え、八月二十四日の夜明けに総攻撃を受けると、城門を開けて西
軍に突入すること四、五回。夥しい敵兵を串刺しにして屍の山をこさえ、
「美濃の女武者、手強し」
と、九州、四国、長州の南方族の侍どもを震え上がらせたが、三万の大軍には抗すべ
くもなく、翌日の夕刻、城主信高は命乞いして高田一身田の専修寺にて剃髪し開城し
た。
 だが、宇喜田御前は降伏をきかず、生き残りの女武者どもを天守にずらりと集め、
腰紐で膝をゆわえ、互いに乳房の下を刺し通し、薙刀で首をはねあって壮烈に自決し
たそうである。この女性は当時、
「大阪城の秀頼へ縁づいていた千姫と瓜二つ」
として有名だった。
 そして、その兄の宇喜田左京亮が、宇喜田秀家と衝突して、花房助兵衛らと牢人し、
この時は「坂崎出羽守」と名を変え、家康に仕えていた。
 後、大坂落城の時に、坂崎出羽が千姫を救出したのは巷説のような「惚れたはれた」
ではなく、「妹とそっくりだ」という噂がかねて高かったせいなのである。
 のち、坂崎出羽守は、己れの妹を死なせて自分だけ助かった富田信高を心よく思わ
ず、家康に願ってこの富田家を取り潰しにしている。

4
 慶長五年(1600)九月十五日。この日、まず織田有楽の軍勢は、向き合った西
軍小西行長の隊に激突した。
 朝まで続いた雨で、草も木もぐっしょり濡れていた。
薄(すすき)の白い花の房が触れるたびにぴしゃりと雫をはねてうちかかってきた。
 銃声が、湿った大気にぶつぶつ孔をあけて、鳴り響き渡っていた。
ワアワアと有楽の隊が気勢を上げて、がむしゃらに突っ込んでゆくと、関の藤川から、
大谷吉継の隊が不意に現れ、襲ってきた。
 ガンガン陣鉦を叩いて、まっしぐらに攻めかかてきた。
だから、東軍の先手の藤堂高虎の隊が、まず打ち破られ、わーっと悲鳴をあげ旗を捨
て槍も放った。先を争って雪崩をうって敗走してしまった。
 有楽の手勢も動揺した。つられて腰を浮かしかけたのである。
見ると、萌黄威しの鎧をつけたのが、馬の尻をもう反対に向けていた。だから慌てて
有楽は、その馬の轡を曳かせ引き戻しを命じた。
「負ける‥‥」
 連れ戻された左馬助は、唇をぴくぴく痙攣させていた。喘いでいるのである。もう
今にも敵に包みこまれ、四方から突き立てられるように蒼ざめていた。まざまざと死
への恐怖に、伜は怯えきっていた。
 たしかに形勢はひどかった。西軍宇喜田隊の旗が、味方の福島正則の本陣に立って
いたし、石田三成が、こちらの加藤嘉明の陣を崩していた。
 敗色である。今にも小早川勢が山上から東軍へ向かって攻め降りてきそうだった。
そうなれば味方の総崩れは目にみえていた。
 怯えたように有楽の手勢は、退却しかけた。
「大丈夫じゃ」
声を枯らし、必死になって有楽をそれを食い止めた。
「小早川へ養子には行ったが、秀秋は北政所の甥ごよ。お薬師の信徒が、なんで同じ
薬師の同宗を打つものか。みてみいやい。そのうち旗を翻し、あべこべにこちらを助
けに来るわ」
と松尾山を指差して慰撫した。
 怒鳴りつけられると、さすがに、
(同族は相討たぬ)のが宗旨の掟なので、有楽の部下もみな、
(そうかや‥‥)
とほっとしたように安堵して、ひとまず鎮まり戦った。
 そして、やがて午過ぎになると、案の定、小早川の銃隊六百が、まず俄かに西軍を
裏切った。
 不意に、それまでの味方だった大谷隊へ火蓋を浴びせた。おかげで、その大谷隊に
攻め込まれ押され気味に退陣していた有楽の隊は、ようやく辛うじて危機を脱し、逆
に攻め込んだ。
 そのうち、薬師派の小早川を見習って、次々と脇坂安治、赤座直保らが裏切った。
だから、あべこべに西軍の方が今度は総崩れとなり、勝敗はついた。
 そこで、天満山の西南方の藤川の畔に幕を張った家康の本陣へ、次々と東軍に加担
した武将が戦勝祝いに顔を出した。
 有楽も誘われていくと、家康が上機嫌で、
「源五様。お手柄。よう大谷隊を食い止められました。たいした武辺でござったな」
と、向こうから声をかけられた。あまりの晴れがましさに照れてしまい、有楽は誉め
られながらも、べっとり冷や汗をかいていたものである。
 家康の言葉は、まんざら口先ばかりではなかった。有楽はそれまでの摂津島下一万
五千石から大和へ三万石で転封された。有楽は、
(倍になった)と、悪い気はしなかった。
 国替えなので、あれこれ雑用もできた。新しい領地の検分もあった。
だから有楽は半月ほど大和へ行きっきりになっていた。
 久しぶりに伏見城へもどって来たところ、山岡道阿弥から言伝が待っていた。
「なんじゃろう‥‥あやつの取り持ちのおかげで、おりゃ家康から知行地を倍にして
もろうたので、その礼の催促じゃろか」
と口ずさみながら、封書を広げると、
(小野木縫殿助にかねて逢いたいと御所望であったが、この十月十日より丹波福知山
城を出て、いま丹波亀山の寺にいる筈。ふだんと違うて見舞いにでも行ってやれば、
口も軽うなって、あるいはお耳にしたき事を申すやも知れずと存じより、火急にてお
申し入れそうろ)
とあった。
 狼狽した有楽は家来に、
「これはいつ頃、届いたものか」と問えば、
「はあ、七日ほどにもなりましょうか」
と無神経な答え方をした。文中には十月十日とあるが、既に二十一日である。
(今から、すぐ丹波亀山へ早駆けしても、小野木に逢えるじゃろか)
と、虫の知らせか、不安な焦燥にじりじりして、
「すぐ旅立つ。早う仕度しくさらんか」
喚くように怒鳴りつけた。
 なにしろ、えいの口から、
(父や兄を丹波福知山から引き連れて、六月二日の本能寺を襲ったのは、小野木縫殿
助)
と知らされる前から、その名前には、かねてより有楽は引っ掛るものを抱いていたか
ら、えいから聞かされた時でも、
(さては、やっぱりあやつめだったのか)
と、歯の根を鳴らせて身体中を震わせてしまった覚えがある。

5
 有楽が「小野木縫殿助」の名を初めて知ったのは、天正十二年に大坂城内へ長逗留
していた頃である。
 越中の佐々成政の許へ、秀吉の名代として遣らされた後と思うが、本丸の書物(か
きもの)奉行の大名分限帳をひろげて覗きこんでいた際、全然これまで他人の噂にも
聞いたこともない、この小野木の名をその中に見出し、
(こやつ、何じゃろう‥‥)
と、まず首を傾げた。
 不審に思って書役の者に尋ねてみたところ、
「関白殿下が、まんだ木下藤吉郎と仰せられた頃、美濃で召し抱えられた子飼いの者
で、天正元年九月に長浜城主になられた際、二百五十貫で黄母衣衆になられた仁でご
ざる」
と、来歴を教えられた。
 しかし、いくら秀吉の子飼いの者とはいえ、その男が秀吉の妻の兄の子にもあたる
杉原長房を押しのけて福知山三万一千石になるのは合点がゆきかねた。
 なんで、摂津の西代尻地へ遣ったり、但馬の豊岡へ杉原七郎左の跡目を転封させて
しまって、こんな男を一躍取り立てて、福知山代を預けるのか‥‥格別要害の地とい
うわけでもないだけに、有楽にはさっぱり納得できかねた。
(変だ‥‥おかしい)
と、はっきり胸に刻みこまれてしまった。
 なにしろ秀吉の主人筋にある亡き織田信長の弟である有楽が、当時は一万五千石。
異母兄の織田信包だって一万六千石。つまり二人を合計した三万一千石を、この小野
木一人が貰っているというのは、
(理不尽な‥‥法外な‥‥)
と、まぁ、妬みでもあったろうが、忌々しくてならなかった。
 だから、その後も、いつも小野木の名は、まるで松の木の枝に引っ掛けてしまった
凧みたいに、有楽の意識のどこかにあった。
 だからこそ、えいを伴って丹波福知山の長安寺へ赴いた帰途、ところの城主として、
この男の名が出てきて六月二日に本能寺へ向かった張本人だと知らされた時でも、
「さてこそ‥‥」
と、どきりとはしたが、思い当たりもしたものである。
 そこで、
(信長殺しの功名なら、三万一千石でも安いものである)
と、謎も解けてきたし、
(まさか、その手柄では‥‥軍監奉行も、公式の功績簿には記録できなかろう)
と、腹が立つやら情けないやらで、有楽は苦笑いした。だが、内心では、
(何者が小野木に指図しおったのか)
と、腹わたが煮えくりかえる程に激しきったものである。
 といって、当時はまだ秀吉の時代。まさか子飼いの小野木縫殿助を疑って探りを入
れるとなると、これは秀吉の怪しむようなもので、とてもできる事ではなかった。
 が、今なら秀吉も死んだし、関ヶ原合戦で東軍が勝ったから、気兼ねなしに詮議だ
てもできる世の中とはなった。

 そこで考えるのだが、山岡道阿弥は、
「杉原七郎左は備中高松へは行かずだったろう」
とは言っていたが、あれは違う。やはり杉原は向こうへ行っていて、こちらの残りの
軍勢を率いて本能寺へ向かったのが小野木でなくては、三万一千石に昇進というのは、
話が合わなさすぎる。と有楽は思う。
 なにしろ秀吉というのは、ねねの兄弟や、その姉婿妹婿とも昔から仲が悪い。
これは宗旨違いのせいもあるが、全然信用もしてなかった。
 本能寺の変の後の賎ヶ岳合戦の時でも、秀吉は、わざと姉婿の杉原と妹婿の浅野長
吉を京へ置いたままで寄せつけていない。
 天下を取った後だって杉原は三万一千石と、兄の信長の頃のままで据え置だったし、
浅野長吉だって、明智光秀のいた坂本二十二万石を二十万石削られて、たったの二万
石。
 つまり、兄信長が備中神吉(かんきつ)城一万八千石をやっていた頃より、僅か二
千石しか増やしてやっていない。
 そのくせ他人の子飼いの者には、どんどん扶持をくれてやっていた。だからこそ、
今度の関ヶ原御陣だって、浅野長吉改め長政なんか、堂々と敵側である徳川家につい
てしまっている。
 さて、小野木の率いていった福知山勢の他に、木村弥一郎が、昔、二条城で信長に
抗戦した内藤党を伴って行ったらしい。そこで、丹波口から六月一日の夜、繰り出し
て行った一万三千の兵というのは、もともと明智光秀や秀満の家臣ではないから、本
能寺や二条御所を片づけると、さっさと丹波へ引き上げてしまったらしい。
(ここに匿された秘め事があるんじゃろ)
と、有楽としては考えざるを得ない。なにしろ、
(いくら丹波に一万三千の兵が戻っていても、自分の指図で動く兵力ではなく、なま
じ丹波へ足を踏み入れたら、自分が袋の鼠になる危険があったからこそ、本城の亀山
へ光秀は六月二日以後、死ぬまで一歩も踏み込んでいない。また、秀満にしても、六
十四歳の老父を置いているのに、やはり丹波へ戻れなかったのだ)
という事は、丹波にはその時、<信長殺しの指図した者>と<明智光秀を、まんまと
罠にかけ、信長を倒して用済みになると、放りっぱなしに野垂れ死にさせた者>が、
同一人物が別人かは判らぬが、ちゃんと居た事になる、としか判断できなかった。
 といって、それは、まさか小野木縫殿助ではない。が、しかし、おしめを干すよう
に旗ばかりを立てたがる杉原七郎左でもない筈である。
(では、誰か)となると、その正体を知っている者は、既に天正十二年に亡くなって
いた。そこで、今や生き残っているのは小野木縫殿助しかいない。
 だから、なんとかして話を聞きだそうとその後、有楽は焦りに焦ったものである。
 だが、無風流な小野木は茶道や歌道を嗜むわけでもなく、もちろん福知山の城へ行
けば逢えるだろうが、さて面会に行く口実も有楽には見つからなかった。
 そのうちに秀吉が死んだ。葬儀に小野木も出てきたから、声をかけようとしたが、
どうも人見知りするというのか、有楽には、そういう真似はできなかった。もたつい
ているうちに、小野木に丹波へ戻られてしまった。悔いたが遅かった。
 そのうちに、東西の雲行きが怪しくなって、誘われるままに有楽が大坂城を引き払
い、家康の許へ走ってしまった後、皮肉にも小野木は入れ代わりに上坂してきた。
(しまった‥‥)
耳にして有楽は地団駄を踏んだ。
 大坂城惣溝口のうち、鰻谷橋と、横橋口の二ヵ所の守備を、小野木は言いつけられ
た。
 まだ、それくらいなら何とかして逢える機会も残っていたが、七月十日、この男は
丹後攻めの総大将を福知山城主という地の利を買われて石田三成から任命されてしま
った。
 すると、この男は昔とはあべこべに、杉原七郎左の伜長房をはじめ、生駒雅楽頭、
藤掛永勝、石川備後らに大坂城の使番ら歩騎一万五千を率いて、七月二十一日から、
まず細川幽斎のこもる田辺城へ攻めかかった。
 当時、幽斎の伜細川忠興が大半の兵を率いて、家康方へ出陣して留守なので、田辺
城には細川勢はわずか五百。すぐにも落城しそうだったが、どうしたわけなのか、三
十倍の兵力を持つ攻囲軍が、はかばかしく攻撃をせずだった。
 なにしろ、一ヶ月半たった九月三日になっても、そのまま睨み合いの状態だった。
そこへもってきて、智仁(ともひと)親王からの勅使烏丸光宣(みつのぶ)の一行が、
丹波亀山城主で京都所司代の前田利勝に案内されて、田辺城の鳶島にある小野木の本
陣へ訪れてきた。
「休戦」
を命じたのである。
 畏きあたりの御沙汰である。そこで小野木達も撤兵したし、城内の細川幽斎も、娘
婿にあたる前田法印の伜の利勝に、九月十八日に田辺城を明け渡した。そして細川幽
斎は五百の兵と共に、前田利勝の亀山城へ移った。
 この時、有楽は話を聞きに小野木縫殿助に逢いたいと思った。是非とも<信長殺し
の謎>を聞き出したかった。
 だが、その十三、十四の両日は、なにしろ九月十五日の関ヶ原決戦の前日である。
赤坂につめていた有楽は、とても陣場を放って逢いにはいけなかった。
 ところが、九月二十日、関ヶ原合戦から引上げの途中、馬堀で父の幽斎に逢った細
川忠興は、引き連れた軍勢をそのまま福知山へ進め、小野木縫殿助を囲んだ。
 数日前の勅命の停戦で一万五千を解放して、己れの手兵七、八百しか残っていない
のに、忠興と田辺の兵の三千に、いきなり取り囲まれたのである。だが、小野木も頑
強に抵抗。十月に入っても降伏しなかった。
 そこで、見かねた家康が、
「開城するよう」
と和解の使者を出してやり、十月十一日、ひとまず福知山城を開けさせると、小野木
縫殿助の身柄をそのまま丹波亀山城へ移している、というのが今の話だった。

6
「どう考えても、細川と小野木の間の繋がりが判らん。なんで田辺城攻めが、あんな
馴れ合いずくのように、もたついたのであろうか。なんぼなんでも、あれではおかし
い。
 双方で恰好だけの戦で愚図ついて、お茶を濁し、勅使が来ると、いとあっさり受諾
して囲みを解いている。
だから、世間では、
(幽斎から歌道の奥義を受けた八条宮智仁親王が仲立ちしたせいだ)
とか、
(寄手の者も幽斎から歌道の極意を受けた者ばかりゆえ、なかなか落城しなかった)
ともいうが、誰が何をしようとも、総大将の小野木に攻め落とす肚さえあったら、一
万五千の兵力にものをいわせて、幽斎三百七十人に加勢の三刀屋(みとや)監物の百
三十人併せて五百の城兵ぐらい、ひと潰しにできた筈である。
 それに、「歌道の極意とか奥義」といったところで、そんなものは茶湯の奥伝と同
じで、合戦を左右するほどにありがたいものとは考えられぬ。
 そもそも八条宮というのは、天正十三年に生害された誠仁親王の弟御だから、この
仲立ちというのは、事によったら歌道とは表向きで、誠は信長殺しに糸を引いている
のかもしれぬ‥‥だからこそ、そういう経緯で小野木は恰好だけに田辺城を攻め、幽
斎を無事に守り通したのだ。それゆえ、本来ならば伜の細川忠興は、この事に関して
は礼を述べてしかるべきである。
 ところが、帰りに寄り道して福知山城を攻撃したのは、これまた何故なのだろうか。
やはり家康の開城の命令が出るまで落城させられずにいたところをみると、
(これも、世間の眼をごまかすための馴れ合いでもあったのか)と疑惑が涌く。

 桂川の渡しを越してからは、朝からの風も納まった。秋晴れの陽射しが襟から肩へ
かけて柔らかにあたってくる。
 そこで、つい白い陽光に包まれながら、有楽は馬の背に跨ったままぶつぶつ口の中
で独り言を続けて考え込んでしまう。
 坂道を上って文徳帝の御陵から半里ほど南へ入る。突き当たりが堅木原の宿駅(う
まや)である。ここは険しい丹波路へ入る前に一休みをする仕度場所なのである。有
楽も馬から降りた。
 乗換えの馬はいらなかったが、馬沓を取り替え、人間も草鞋を履き替え、食べ店へ
入って白湯を飲み名物の山芋の蕎麦などすすった。
 そこから上って沓掛へ入ると、すぐ「酒顛(しゅてん)童子腰掛けの石」という立
札が目にとまった。ここからが老の坂。つまり昔の大江山の大江の坂なのである。
 地蔵堂の西南には、酒顛童子の首塚まで祀ってあった。このあたりが山城と丹波と
の境目になっている。
 だから有楽は坂口から十四、五町上って、暗がりの宮へ出ると、そこから又、山道
を篠村ごしに進み、八幡社まで進んだ。すると、東に聳える勝軍地蔵の愛宕山が、楡
の森のむこうに、くっきり見えてきた。その途端、
「あっ‥‥」
有楽は叫んだ。馬の口取りの者が、
「えっ?」
と驚いて振り返るぐらいな声を出した。
「うーむ‥‥」
有楽は悲鳴にも近い呻きを又洩らした。そして、自分でも呆れるくれいに眼を見張り、
ぐっと唾を飲み込み、しゃがれ声で、
「この辺り、桑田郡じゃろ?」
と、急いでと問いかけてみた。すると口取りは、、
「はい、老の坂からずっとこっちは、船井郡と桑田郡。今の細川様が長岡と名乗って
いられた頃の御領国で、その時分は、この八幡様と、さっきの暗がりの宮、そして、
老の坂入口のあたりには、長岡坂番所が、厳しゅう昼夜の別なく見張っておられまし
たが、故太閤様検地の時から、たしか御関所はお取り外しでございますが‥‥して、
何ででござりまするな」
あべこべに向こうの方が不審そうに振り返った。
 が、有楽は顔色を変え、
「うむ、判った‥‥」
と言ったきりだった。
U
 なにしろ、この道はこれまで二度も通っていた。だが、天正十三年の暮は、於次丸
の急使で道を急ぎ、帰りは吹雪に悩まされて駆け抜けるのが精一杯だった。
 次はこの春、えいを伴って通った時は、片時も休まずにしょっちゅう話し掛けられ
る繁雑さに、とても左右を眺める余裕もなかった。
 だが、今度は女連れではない。一人で馬を急がせ丹波亀山へ行く途中である。だか
ら煩わしい相手もいなく、それで今更ながらのように、「ハッ」として気づいたこと
ではあるが、ここは十八年前に本能寺を襲撃した部隊の進路であった。
 つまり、
(丹波亀山を出陣してきた軍勢が、老の坂から沓掛へ出て兵粮をとって、桂川を渡り
入洛した)
というが、そのためには、ここはどうしても通らねばならぬ道だったのである。他に
通路はない。
 ところが当時、ここは細川領であって、京都への入り口なので見張り番所が三つも
あって、昼も夜も警戒をしていたという。それでは一万三千からの軍勢が通るのを、
まさか気づかぬわけはあるまい。
 当時の話としては、丹波亀山の先手の者が用心して、瓜畑の百姓さえも斬り殺して
前進したというが、そんな連中に先駆けされて京へ注進される心配よりも、もっと肝
心な事は細川番所の方ではなかろうか。
 人数が一万三千もいたというから「ワアッ」と細川番所の三つぐらいは包囲もでき
たであろうが、そうなれば、番所の者の一人ぐらいは脱出し、堅木原の馬小屋へ行っ
て駄賃馬をも借りだして京へとべる。
 それが不可能だったとしても、まだ包囲されていない番所へ烽火を上げて急を知ら
せもできる。そうなれば、京四条の細川邸へ、この一万三千の侵入は速報されていた
筈だ。だったら細川家から本能寺や妙覚寺へ知らせがあってもよい筈だ。しかし、そ
んな事を教えられた覚えは、これまでない。
「ちぇっ。あの日の朝、おのれ、細川めは前もって全てを承知しくさって、一万三千
の丹波衆の通るのを見逃していた事になる‥‥いや、ならば、その一万三千の丹波衆
の中に、同じ丹波の船井、桑田郡の細川の軍勢の千や二千は混じっていたと考えるの
が至当かもしれん」
ぶりぶり口の中で有楽は憤りのあまり呟いた。
そして、
(これでは何の事はない。よってたかって皆がグルじゃったんじゃ‥‥おりゃ、『細
川父子が髪の髻を切って兄の信長の菩提を弔った』とか、『細川幽斎めが、追腹を切
るかわりに隠居して家督を伜に譲った』と聞き、涙まで浮かべて『なんと忠義者じゃ
ろ』と歓んだものだったが、今になって思えば、阿呆らしや。こりゃ蔭にからくりが
あったのか。おのれ、まんまと瞞(だま)くらかしおって‥‥」
と腹を立て忌々しがっていたが、
「待てよ‥‥細川も本能寺を襲った一味徒党なら、こりゃ小野木縫殿助とは一つ穴の
狢。すりゃ田辺城を攻めたり逆に福知山城を囲んだり、互いによぉ落城させんと戦し
とったのも、こりゃ馴れ合いの芝居‥‥すりゃ、この際、小野木縫殿助の口を割らし
て、奴等の化けの皮をひんむいて、故信長様の仇をはっきりとさせてやろうかい」
と、頗る意気軒昂。そこからは馬に鞭をあて、有楽は一気に亀山へと駆け降りていっ
た。
 しかしである。
「えっ、小野木縫殿助‥‥その方なら一昨日からおられませぬ。なんせ首桶へ入れら
れ駿府の徳川家康様の御許へ行かれてござる」
と亀山城の前田茂勝の家臣から云われた。
「首桶で行ったとは‥‥これか?」
と有楽は手で首を発止と叩いて念を押した。
「いかにも左様。小野木縫殿助は賜死でござった」
顔を伏せたままで、そんな返事をしたのである。


羽柴筑前守秀吉

1
 慶長十九年十月二十三日、駿府を出て上洛してきた徳川家康が、また再建した二条
城へ入った。今を去る三十二年前の天正十年六月二日には、その二条城へ駆け込んだ
有楽は、迎えられて今度は大坂城本丸へ入った。
 かねて、噂が高まっていた「関東関西お手切れ」が実現してしまったからである。
 そりゃ有楽にしてみれば、ここで家康を敵に廻してしまえば、せっかく十四年前に
関ヶ原合戦の褒美として貰った大和三万石が、ふいになる心配もあった。
 しかし、信長殺しの隠された部分を探りだすためには、それがあまり表向きにはで
きぬ事柄だけに、眼に見えぬ人手や莫大もない銀が入用だった。とても三万石の実入
りからや、茶湯の方の礼金などでは足りもしなかった。
 だから、銀を借りた。次第に増えていった。借金で首が廻らなくなってきた。えい
などは小野木縫殿助が殺されてしまった後は、
「もう大概になされませ。過ぎた事ではありませぬかや」
などと、時分の方は親や兄の仇がとれて、もうすんでしまったものだから、しきりに
したり顔で諌めたりする。
 しかし、有楽にしてみれば、まだこれといって、はっきりした手証は掴んでない。
本能寺へ直接に向かったと思われる木村弥一郎父子は奥州一揆から死んでしまったの
か、八方に手を尽しても皆目所在は不明。
 小野木とは、たった一日半の手後れで逢えずじまいで、首と胴が生き別れの有様。
残りの臭いのは細川幽斎と忠興だが、これは近寄って直接にどうこうできる相手でも
ない。だから焦燥しきって、
(これでは二条の濠へ飛び込んだのが仇になり、かえって逆に生き恥をさらす立場に
なった、なんで馬齢を重ねて今日まで、このおりゃは生きて過ごしてきたのかも判ら
んようになる)
と癪にさわり、
(せめて、死に損なった己れというものが、『この世に生きていた』というあかしに
も、こりゃ確かめねばあいなるまい)
と、狂奔したのだが、ともすれば、いくら骨折って探ってみても、空廻りになるのが
殆どだった。へこたれきっていた。
 そんな矢先。
(しょうがない伜)とは思っていたが、長子の左馬助が、まるで家康のために死なさ
れる羽目になった。

「禁中の女房どもが、公卿の若者と集団で道ならぬ事をしているのは、不届き至極ゆ
え、直ちに厳科に処すよう」
と、わざわざ駿府まで密かに主上から勅使が立てられ密命が下ったという。
 そこで、家康から、折り返し厳罰方を命ぜられた京都所司代板倉伊賀守は、すぐさ
ま、広橋大納言の息女の広橋の局、中御門少納言の娘の唐橋の局をはじめ、主上の御
寵愛を受けながら、蔭で浮気遊びした女房衆五名をすぐさま召捕り、その相手をした
烏丸、飛鳥#、花山院、徳大寺の青公卿九名を捕縛してしまった。
 そして、情け容赦なく、男の方は即日打首にされた。そして嫉妬された主上の思し
召しによって、粟田口の天王社の斜め前の獄門台に見せしめのために、ずらりと並べ
て晒しものにされた。
 ところが、女房衆が一人で二名ずつ密夫を持っていた事が、取り調べの結果判明し
たから、獄門九名では員数がどうしても一人不足である。そこで、厳重に調べたとこ
ろ、猪熊清麿という者が行方をくらましている事が判明した。
 しかも、これが女房衆をそそのかした<かぶき者>の発頭人で、困った事に有楽の
伜の左馬助の遊び仲間と判った。
 そこで板倉伊賀守は、猪熊を逃亡させたのは織田左馬助らしいと見込みをつけてし
まい、
「左馬助を剃髪させ、高野山へ上げるよう」
所司代屋敷から厳重に内命が下った。
 有楽は、伜のために駿府の家康にも掛け合ってみた。
だが、重ねて板倉伊賀守から、
「これは畏れ多くも、一天万乗の御方様の、詔りである」
と通達され拒まれてしまった。
 それを聞かされて、さすがに当人も茫然自失、
「高野山は女人禁制。あそこへ登ったら、もはや女ごとも寝られぬ」
と喚きだした。
(そないに女が欲しいのじゃろか)
と憐れになってきて、つい左馬助に、
「高野へ上って苦しければ早よう死ね。人間、この世から解き放たれて楽になる道は、
所詮死しかあるまいて‥‥」
と教えてしまった。
 すると左馬助は、この世の名残りにと放埓を散々にした挙句、いよいよ高野山へ送
られる前夜に屠腹してしまったのである。

「なんと申されても、豊臣秀頼公は、まだ二十二歳の御年弱。よって阿袋さま澱殿が
仰せあるには、これは是非とも、故織田信長公弟の殿におわすお手前様に、格式から
申しても、大阪城の軍配を預かっていただき、全軍の総大将になって下さるようにと
の思し召しにござりまする。なにとぞ、よろしゅう‥‥」
と、大野治長が有楽を訪れたのである。
 彼は禄高は一万石だが、城内きっての実力者である。
その引出物の夥しい黄金の山を見据えた有楽は、
(これで長年の借銀の返済ができ、また新しく信長殺しの犯人探しもできる)
と勇み立ち、それに、
(腹切った伜左馬助のためにも、関東の奴ばらに一泡ふかせてくれん)
とばかり親心で性根をすえてしまった。
 だが、織田一門が東西に分かれては、前の関ヶ原合戦の時みたいに具合が悪い。そ
こで、松山から、やはり大和へ移っている常真こと織田信雄も呼んで、これを大坂城
の副大将にした。
 そして、その下に新規に入城した真田幸村、明石全登(ぜんとう)、毛利勝永、後
藤又兵衛、長宗我部盛親の五人を派属させた。
 大野修理ら城内衆は、女鎧をまとった淀殿指揮の女武者隊と共に、これは秀頼を守
護した。
 織田一門が大阪城の総大将になったのに驚いたらしく、家康は今度の戦にはなまじ
家名の者は信用せず、前の関ヶ原合戦で手柄を立てた者でも、ことごとく江戸残留を
云いつけた。
 だから、福島正則や黒田長政、平野長泰といった者どもは、小姓を二名ずつ伴った
だけで、江戸城へ押し込められて、まぁ、ていのよい軟禁で留守居をさせられた。