1164 信長殺しは秀吉か 14

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 信長殺しの謎を解こうとする織田有楽にとっては、
(種々の経緯からみても、えいの話を出鱈目)
とは、もはや言い切れなくなってきた。
 そこで有楽は、もしやと思って当人を伴い丹波路へゆき、まず、えいの父親の墓が
あるという奥部村の長安寺へ行ってみることにした。
 すると肝心な墓石は見当たらず、奥まった鈴懸の大木の根かたに、蔓草の絡みつい
た石柵の中で、皮肉な話だが杉原七郎左の墓を見た。
 五輪塔の碑文によると、行年五十四歳。
 天正十二年九月九日に福知山城入寂。
とあった。もう十四年前に死んでいた。
 これでは、七郎左の墓と向き合っていても死人に口なしで、道阿弥の言うように彼
が備中攻めへ行かなかったかどうかも判りはしなかった。
 なんだか、まるで、のっけから肩透かしを食わされたみたいで、せっかく訪れた有
楽は気落ちした。
 北に聳える鬼城山(きじょうざん)を仰ぎ見ながら、来たからには、やはりここの
寺の者に逢ってゆかねばと思った。
 なにしろ肝腎かなめな、えいの父の墓がどうなったか訊ねん事には、ここまで遠路
遥々来た甲斐とてなかったからである。
 秋といっても、大坂あたりでは人家が多いせいか、まだ温かいが、ここら辺りまで
来ると、もう肌寒かった。
 眼下の川を走り下る船の帆までが、そう思ってみるせいか凍りつくようにぴんとは
っていた。
 墓地から本堂までの間は耳門(くぐり)を抜けると、ずっと角石が埋けこんであっ
た。そして、ここの住持の好みか、黄色い小花をぎっしりつけた松風草が、踏み石に
そってひとむらずつ一列に植え込まれていた。
花の匂いがとても強かったので有楽は思わず、
「くすん、くすん」
と何度も嚔(くさめ)をだした。
すると、えいが風邪でも引かれたら道中なので介抱が厄介だといわんばかりに眉をひ
そめて側へ寄ってきて覗きこんだ。まぁ心配もしてるのだろう。
 襟許をかきあわせながら、案内を乞うて客室へ通ると、少し寒気もおさまってきた。
 えいは、ここの寺へは昔も来た事があるらしく、あちらこちらを懐かしそうに見廻
していたが、
「佐藤四郎介の忘れ形見にござります」
方丈から僧衣が現れてくると、すぐさま畏まって挨拶をした。
 だが、出てきた院主は代替わりでもしているのか、てんで話に覚えがないらしく、
会釈をすませてから、分厚い過去長を持ち出してきて、丹念にめくりながら、指で押
さえて一枚ずつを調べ始めた。
 そして、ようやく見つけだしたとみえて、さぞほっとした顔をこちらへ向けるもの
と思っていたら、眉を曇らせ、しばらくはうつむいた侭だった。
だから、えいの方が痺れをきらし、
「たしか昔は小さな石塔が墓地の入り口のほうの樹のあたりにありましたが‥‥」
むくれて不服そうに顎を突出し、口早にうつむいて、頭しか見せぬ白衣の僧侶を責め
た。
「はい‥‥お城普請の時に、その資材に使うと、一向門徒の侍衆に襲われまして、墓
石をあらかた盗まれた事がござりまする」
やっと顔を上げ、そんな言い訳をした。
(ないものはしようがない。責めたところで始まらぬわい)
と考えて有楽は懐から切銀の包みを取り出した。
 それで佐藤四郎介と伜の一郎太の墓石を、えいに代わって頼み、残りは回向料にと
差し出した。すると、
「これは、ご奇特なことで‥‥」
と院主は、銀を押し頂くと俄かに機嫌がよくなって、しみの浮いた顔を突出してにこ
にこしてみせた。
手を叩いて小坊主を呼び、
「唐茶でござりまして、赤茶で失礼」
と出しがらみたいな渋茶をすすめながら、えいに向かっても、今度は心安そうに、
「胡麻で災難に逢われた衆の御遺領も、先年、新しく御城下の町割の節は、地子銭
(地代)免除の沙汰をいただき、皆様、たつきも立つようになられて、こちらへも時
おり参拝に見えられるようになりましたぞ」
と付け加えて、いかにも親しそうな口をききだした。
「ほう‥‥胡麻での災難と申すと」
つい横合いから有楽が口を挟んだ。
「御存じでござりませなんだか‥‥この辺りは山の上で、高い土地柄でござりまする
によって、年柄年中、やたらと霧が多うて、朝晩などは目の前に人が来ても判らず、
つきあたる事さえも珍しゅうはござりません。特に殿田口(でんたぐち)から、下山
(しもやま)へかかる胡麻の峠は、川水がしょっちゅう上へ吸われて靄(もや)がた
ちこめ、崖っぷち続きの難所なのに、とんと、その切れ目の見分けがつかず、谷底へ
落ちて、あえない最後を遂げられる者が少のうはござりません。なにしろ、あなた、
野山には馴れとる狐でさえも、迷って落ちるほどでござりまするによってな‥‥」
と言ったところで、院主は一息いれ、
「こちら様の娘ごの親父様や兄弟衆も入れて総勢千にも近い武者衆が、何年前でした
ろうか。合戦の戻りに、その胡麻の峠でありもしない夢のような道をみてしまい、前
夜は一睡もせんと行軍し、その帰り道ゆえ、寝ぼけてもいなさったろうが、次々と吸
い込まれるように一度にどかっと渓へ落ちてしまい、えらい死人がでたのでござりま
するよ」
と説明していたが、途中で口をつぐむと合掌した。
 そして、そのまま仏壇の方へ向きを変え、遭難者の冥福を祈るように低い声で読経
を始めてしまった。どうやら、あまり喋りたくない話らしかった。
 いくら待ってもお経は終りにはならなかったので、痺れを切らしてしまい、有楽は
仕方なく、頼むことはもう話してあるし、それにこれ以上は、この僧から聞き出せそ
うもないと見切りをつけ、えいを促すと、そそくさと草履を履いて松風草の匂う山門
を出てしまった。そして、
「胡麻峠でそなたの父や兄が死んだのは本当らしいが、それは遭難といって厄にあっ
たんじゃな」
と慰めるように言ってみた。何しろ、それしかわからなかったからだ。
 だが二人きりになると、えいは足をさすりつつ、あくまでもその話に首を振った。
「先登の五人や十人は誤ったにしろ、なにしろ続けて何百も千に近い大の男が、糸や
紐で引っ張ったみたいに手軽に次々と墜落しまするか。それに、福知山の者が落ちる
なら、近在の綾部の者や、山家城の者も、同じ様に落ち、みな死ぬわけでござりまし
ょう。だが、他所の衆は何事もありませぬ‥‥だいたいそんな危なっかしい胡麻峠は、
土地の者なら初めから避けて通りませぬわいな‥‥つまり、福知山勢は、その谷間へ
落として殺される為に、そこへ連れてゆかれたのでござりますよ」
と、はっきりした口調で言ってのけた。
「そりゃ、また何故じゃ」
妙な言い回しをすると有楽は聞き返した。
するとえいは硬い表情に変わって、
「すみませぬ」
と頭を下げた。
 素直に詫びられると悪い気もしない。そこで、
「あまり、つべこべ口数多く云うでないぞ」
有楽は、(この女もよく喋るのさえ慎んでくれるんなら、それでよいではないか)と
言いたかったのである。すると、
「このまま、お側にいても差し支えござりませぬか‥‥よろしいのでござりましょう
かね」
えいは上目使いで、低く遠慮ぎみに言った。
 もちろん、もっと他にも何やらうつむいたままでぼそぼそ口にしていたが、有楽の
耳にはっきりと届いてきたのは、それだけだったから、急に哀れを催してしまい、
「なにも、えいの生れ在所へ来たからと申せ、そなたをここに放りにきたわけではな
いわい‥‥」
 急にしおらしくなった女に満足して有楽は心配させぬように慰めた。そして、
(ガミガミいわれると嫌気を感じるが、こない穏やかなら、ええではないか)
とうなずいていると、えいは、ぐっと持ち上げるように顔を上げ、
「なら、仇の片割れと判られても異存ないと仰せられまするのかね」と、こうきた。
 有楽はびっくりしてしまい、
「何を申すんじゃ」と狼狽した。
しかし、えいはもう落ち着き払っていて、
「はい、旦那様の殿の兄上様を討った仇なのに、本日は改めて墓をお建て下され、そ
の上に莫大もない回向料を賜り、えいは恐れ多うて、身もすくむ思いで恐縮しており
まするよ‥‥」
と、別に縮みもしないが、そんなふうに言った。
云われた有楽は呆気にとられてしまい、
「ちょと待ってくれ」
慌てて唾を飲み込み、眼を見張ったが、からかわれているとしか思えないので、
「兄織田信長を討ったのは、そなたの親や兄だった、とでも申すのか」
(何をまた、妙な事を言い出したのか)
と、苦笑して軽く睨むまねをしてみせた。そして砂埃がまだ白っぽく溜まっている女
の肩へ眼を落し、それを指先で軽く払ってやった。
 ところが、えいは昂然とした気負いだった顔を尖らせ、
「はい、旦那の殿の兄上様を、誰が手掛けたかは、はっきりわかりませぬが、出陣す
る時に、めいめいに松の仕手を背負えるだけ持っていきましたゆえ、本能寺を炎上さ
せた爆薬につけ火しましたのは、父や兄どもの仕業でござりましょう。それで仕事が
終えた後、口ふさぎにみな胡麻へ連れ込まれ、そこで災難に見せかけて悉く殺された
のでござりますよ」
と、えいは有楽に身体をまかせているという心安さからか、恐れげもなくすらすらと
云ってのけた。
 松の仕手というのは、昔は城中でも夜の明かりとりに篝火(かがりび)にして用い
たものである。やにの溜まった油臭い松の根株を、細く脈目にそって裂いたもので、
<火附け木>と呼ばれ、今でも町では売られているものである。
(‥‥それを、山ほど背負って出かけた。というからには、どう考えてもこれは初手
(はな)から、もう放火のつもりで出かけて行ったのだ。そうなると、あの日は本能
寺にしろ二条城にしても、みな火をかけられ大爆発をして吹っとび、それで全てが終
わっているのだから、直接に火打ち石を叩いて点火したかどうかは別にして、佐藤四
郎介達の福地山衆は、やはり紛うことなく敵の手先であったのか‥‥)
もはやここまで明かされては何も疑う余地もなかった。有楽もぐっと息を飲み込み、
「‥‥して、そなたの父や兄どもを引き連れて行ったのは、誰じゃったぞ‥‥さっき
寺で墓石を見た、あの杉原七郎左めか」
と、せきこんで尋ねかけると、その有楽に、
「いいえ、今の殿様にござりますよ」
まるで女童の様に唇を尖らせ、えいは判り切った事をと、そんな表情を顔に出した。
「えっ、今の福知山三万一千石の城主、小野木縫殿助公知(おのぎぬいどのすけきん
とも)か」
咽喉に、まるで餅でもつかえさせたように、有楽は顎の先をぐるぐる動かした。
何ともいいがたい、名状しにくいものが込み上げてくるように、嘔吐を催してきたか
らである。
 そして、火花のように、ちかちかと死んだ兄信長の顔が瞼に浮かんできた。
(やはり、彼奴だったのか)
という思いが、まるで矢のようにびしびし刺さってきた。
(おのれ‥‥)
と歯ぎしりすると、冷え冷えするぐらいにまで身体の芯が凍りついてきた。
 その感じはまるで、三つ又の槍の鉾先で突上げられ、ぐるぐる捻り廻されているよ
うな辛さで、有楽はもう、いてもたってもいられなくなった。


小野木縫殿助(ぬいどのすけ)

1
「三河で若い頃、儂は一向門徒と戦をしたが、今度もそれと同じくりかえしじゃ」
と、武蔵小山で旗上げした家康は、そんな言い方をしたそうだが、全く門徒派と薬師
派の戦の様相を呈してきた。
 薬師派の系統は、もともと白山様や八幡様の神徒系なので、源平の昔から、だいた
い姓の上の発音で区別されている。
 つまり、アカサナタハマヤラワとオコソトノホモヨロが始めについている。
家康はこの二つの系統を握るために、アカサのマのつく「松平」とオコソの列のトの
「徳川」の両姓を用いていたから、この二列の姓の呼び名を持つ者は、みなこぞって
家康側に加担した。<八切・姓の法則>

 文臣派といわれる中でも、<豊鑑>の著者で、その父竹中半兵衛は秀吉の無二の腹
心とも云われたし、美濃岩手の城主竹中重門をはじめ、文臣武臣の区別なく、秀吉子
飼いの加藤清正、加藤嘉明、田中吉政、山内一豊、中村一栄、有馬豊氏、加賀の前田
利長、飛騨の金森長近。
 甚だしきにいたっては、秀吉の妻の妹婿の浅野長吉から、藤吉郎の頃からの家老だ
った蜂須賀彦右まで、アカサナタの母音のつく家柄の者は、一人残らず東軍である家
康の側にはせ参じた。
 だからして、秀吉が浅井攻めの時に用いた小谷東別所の出で、賎ヶ岳七本槍で高名
な淡路州本城主脇坂安治でさえ、姓がワなのか、その伜の安元の名で、伏見城以来、
家康の腰巾着になっている山岡道阿弥に、
「関東下向を石田派に押さえられているが、時をみて御味方に参上。同門のよしみに
て御前ていを、よしなに願いそうろ」
と、密使をよこし、藤堂高虎に合図されると、他の薬師派の赤座直保や小川祐忠も誘
って山中村の高台から、それまでの味方の西軍へ逆に攻め込んで、とうとう関ヶ原合
戦の勝敗を決めてしまった。
 中には、信州の真田のように、長男は宗旨に従って東軍へ、父と次男は万一を慮っ
て、永代回向料を寺へ納めて家名を存続させる為に西軍へと二股かけて分離した者も
いたが、殆どの者は従来のゆきがかりよりも、
(人間は死んでも何度も生まれ変わって出てくる)
という、当時の輪廻の説を誰もが信じていたから、来世を心配し、
(死んでからのほうが未知なだけに、やはり不安で気掛かり)
とみえて、みな宗派によってその態度を決めたようである。
 つまり、東方光明を信じている薬師派の者が、もし誤って西軍に加担し、異教徒で
ある一向門徒と共に討死したら西方の極楽浄土とやらに生れ変わって一緒に出てしま
う心配がある。もし、そうなったら、東光の者としては、そこでは、、にっちもさっ
ちもいかなくなり、<場違い>だから、とても浮かぶ瀬もない。
もし「場違い」になったら、それこそ「ばちあたり」で、そうなったらば、どんな事
があっても現世へは蘇って戻れない。無限地獄の暗黒の裡に、未来永劫さ迷わねばな
らぬと、この時代は固く信じて疑う者もなかった。
 だから、今の現世でたとえ五万石や十万石増やしてもらったとて、死んでから阿鼻
叫喚地獄で苦悶する事を考えると、とても名利の沙汰では宗旨は変えられず、これま
での義理人情や旧恩をすっぱりと棄て、東光宗徒はみな徳川家康についたのである。
 ところが、大坂方は、これまたややこしかった。
秀頼の母にあたる澱殿は門徒。秀吉の後家殿の北の政所は、これは根っからの正真正
銘のお薬師様。
 だから、西軍であるべき筈の北の政所の寧子殿が、あろう事か、徳川へ味方したと
も伝わった。もちろん信心からいって事実であろう。この関ヶ原の役の手柄として、
秀吉の後家殿は、新しく一万六千石の褒美を家康から貰っている。

2
 この戦。
関ヶ原合戦に有楽も東軍だった。
山岡道阿弥の肝いりで、前もって家康から軍用金の名目で、貰うものも受け取ってい
た。それに、なにより勢いだった事は、改めて「美濃攻略」を言いつけられた事だっ
た。思えば十八年前に、まだ源五と云われた頃の有楽は、美濃に攻め込もうと徳川勢
と鳴海原まで出陣してきたことさえあったぐらいだ。
 当時三歳だった三法師も二十一歳である。織田秀信として岐阜城主となっていた。
だから、その昔、雷雨の中を逃げてきた岐阜城を今になって取り戻し、自分がそこの
城主となろうとは、もう有楽も思わなかった。
 だが、秀信の向背は織田一門にとって、本家筋にあたるから、有楽も頗る気にはし
ていた。もちろん、その父の信忠の頃は五十四万石だったのが、二条城で死に、秀吉
の代になって減らされ、今では中納言の官名は貰っているが、秀信は僅か十三万三千
石にすぎない。
 それでも、四国松山へ移されている織田信雄ら一門の中では禄高は最高で、織田の
本家には変わりはなかった。
 その岐阜城の織田秀信を、何とか東軍側にしておくには、どうしても周囲の西軍を
片付けねばならなかった。
 そこで、有楽はとりあえず石田方についている伊勢桑名城が、もと大垣城にいた妻
佐紀の姉の子、つまり甥にあたる氏家行広なので、すぐさま使者を送り、
「悪いようにはせぬから、徳川方につくか。さもなくば、中立を守るよう」
と云ってやった。
 次いで伊勢亀山城も、昔、織田三七信孝の一番家老だった良勝の伜の宗憲なので、
これにもすぐさま、
「織田の家門は徳川につくから、そちらもこの際、中立を守るか、さもなくばこちら
へ味方するよう」
と、密かに使者を出してやった。
 すると、この宗憲はにべもなく、
「我らの父の良勝は岐阜城の頃より、故太閤殿下には格別の思し召しを蒙ったもので
ある」
と、すげなく拒みとおしたという。
 戻ってきた使者の話によると、
「もったいぶって、大きな手文庫の中から、数多くの秀吉からの書状を誇らしげに取
り出し、揃えて見せてくれたが、その中には斎藤玄蕃允と連名、つまり良勝をいれて、
二人の名宛てになっているものが、たんと混じっておりもうした」
と、不審そうに付け加えて報告された。
(あの男‥‥)
絶えて久しぶりに聞く男だった。
「ほう‥‥」
と有楽は妙な顔をしながら、その話に耳を傾けた。
 なにしろ良勝の方は三七信孝の家老でありながら秀吉に買収され、主人を裏切って
切腹させてから、ずっと亀山城を貰って仕えた男だから二人の繋がりは判るが、玄蕃
允と秀吉は、ちょっと腑に落ちぬ組み合わせだった。
 もちろん二人とも清洲城の頃より、藤吉と新五郎の前名で顔は合わせている。
だから、まんざら知らぬ仲ではないが、どうして二人があらためて結び付いていたか
は、てんで見当もつかぬ事柄だった。
 ただ、妙なことが二つだけあった。
服部半蔵らの伊賀者を擁している家康でさえ、六月十二日からの山崎合戦を、七日た
った十九日後になっても秀吉からの使者が来るまで知らずだった。つまり、それぐら
い交通連絡の便の悪かった十八年前。六月二日の本能寺の変を、遠い備中高松の秀吉
が翌日に知って、次の日に兵を返す驚くべき神速ぶりと、同じく二日の変を、その日
の内に知ってしまってさっさと自分が直ちに岐阜城主になってしまった、あの時の玄
蕃允の迅速ぶりである。
 それと、もう一つは、明らかに叛乱軍に与して岐阜城を乗っ取った玄蕃允が、山崎
合戦後も何の咎もなく、秀吉が美濃へ攻め込んでくると、堂々とその世話でまた元の
家老に逆戻りできたというおかしな経緯だった。
(玄蕃允と秀吉が、共に本能寺の変を早く知ったというのは、ことによると、両方と
も事前からよく連絡を取り合っていて、互いに知っていたのではなかろうか)
そうでなければ、玄蕃允だって、いくらなんでもあまりに早手回しに過ぎる。それに
秀吉ときたら、京から一本道の安土の入り口の瀬田の山岡景隆でさえ午後三時まで知
らずだった本能寺の変を、遥かに遠い備中で、しかも敵に包囲されていながらその日
のうちに知ってしまい、さっさと和平談判をつけ引き上げてきている。おかしすぎる。
「我は、この世に復活せる神、そのものなり」
と常日頃言っていた兄の信長だし、毛髪一本さえなく、屍体が全然みつからぬから、
当時は、
「信長様はご無事で、きっと隠れてござっしゃる」
と、何日も続けて町中は大騒動だった。
 それなのに、兄の生死がまだ不明のうちに、秀吉は姫路の本城へ戻ってきた。そし
て、堂々と弔い合戦を布告している。
(これは、よほど信長の死を確信していなければできる事ではない。つまり、秀吉は
やはり事前に完全に信長が死ぬ事について自信を持っていたかもしれない。だから、
本当のところは毛利方との和平交渉も、既に何日も前から知っていたとしか考えられ
ない)
 なにしろ、吉川、小早川大軍に手動され、包囲されかけていた旗色の悪い秀吉の方
が、三日の深夜から和平交渉して、たった一時間で取り決めして、それで万事解決と
は、あまりにも話がうますぎる。てんで辻つまが合わない。
(あまりにも、これでは奇怪至極。おかしすぎやしない‥‥)
と、すっかり有楽は考え込まされてしまった。

 すると、その翌日、有楽の陣所へ案内されて軍使がやって来た。
利休門下で茶湯仲間だった美濃飛騨城城主金森法印の伜、金森可重(ありしげ)から
の伝騎だった。
「もと八幡城主にして、今は小田原城主であられる遠藤慶隆様は、てまえ飛騨勢と共
に美濃攻略の地固めに出陣されましたところ‥‥犬地城の遠藤胤直殿が城ヶ根によっ
て兵を挙げ、理不尽にも金森領へ押しかけてござる‥‥よって目下我らは美濃と飛騨
の境目の佐見山に砦を築き、防戦中でござるが、なんとかしかるべく首尾を計ってい
ただかねば、まこと難渋」
という口上だった。
 遠藤慶高の方は妻佐紀の伯父だが、胤直は妻の父が亡くなったあと、跡目を継いで
いる佐紀の弟で、美濃遠藤の本家である。
 なにしろ、大垣城に石田三成が入り込み、州股の砦には九州の島津が立てこもり、
美濃の形勢が俄かに西軍色を濃くしてきたらしいから、若い胤直がそれに刺激され、
つい石田方に走ったらしいが、有楽としては困った立場に追い込まれてしまった。妻
の実家が両軍に分かれて交戦では止めようもないからである。
 そこで、当惑顔で思案にくれていると、伝騎を案内してきた東美濃妻木城の妻木頼
忠が、さも同情するように、
「かかる仕儀と相成っては、すぐにも使いを出されまするがよろしゅうござりましょ
うに‥‥」
と、腰を屈めて案ずるように低い声で囁いた。
「はて‥‥」
有楽は、うっかり口走った。そして、まじまじと相手を見直した。
というのは、この男は、家康の近習永井直勝の肝いりで、五十騎ほど従えて参軍して
いるが、
(その父親の妻木貞徳というのは、あの明智光秀の妻の父、妻木勘解由の兄にあたっ
ていた。つまり、この男は光秀の従弟の身上だった)
と思い出したからだ。
 土岐郡にあった妻木城というのは、むかし美濃へ逆襲してきた斎藤竜興に襲われ乗
っ取られて、その根城ともなった事がある。そこで有楽が十六だった永禄九年の冬、
丹羽五郎左や蜂屋の手の者が押しかけ、城を焼き払ってしまった。
 だから、その時、巻き添えをくって妻木一族も討死したり、離散してしまった筈で
ある。
 その後、光秀が信長に仕え、やがて全盛だった頃は、勘解由は坂本へ引取られて宇
佐山砦を預かり、また本家の頼忠の父は墳墓の地である土岐郡に城の建て直しを許さ
れたりして、改めて織田家に仕えていたものである。
 だが、山崎合戦の後、光秀の舅にあたる勘解由は、その一族と共に明智秀満と坂本
城で死んでいる。
 だから、有楽は、
(てっきり妻木の本家も絶えさせられたもの)
とばかり思っていた。
 それなのに、伜の妻木頼忠が、ちゃんと生きている。さながら幽霊のように側に立
っていて、親切ごかしに口添えまでしてくれている。
 だから、
(なんで徳川は‥‥明智の縁辺など庇護するんじゃろう)
と、水泡みたいにぷつんと疑問が胸底から浮き出てきた。

3
「良い加減にせんか。その萌黄威しの派手な鎧を脱いでいけ。人目について、なんで
敵中をくぐって行けるかよぉ‥‥このたわけ」
あきれて有楽は伜の左馬助を叱った。
 遠藤胤直は妻の弟ゆえ、使者も身内の者を遣るのがよかろうと、大和から伴ってき
た伜に言いつけたのだが、敵中を縫って飛騨の境目に行くのに、あまりにも心得がな
さすぎた。
「いけませぬか」
と、それなのに、伜の方が、てんでむくれたような口のきき方をする。だから、
(こやつ。まるっきり母ッ子じゃ。佐紀にそっくりな口ぶりをしてみせおるわい」
有楽は呆れながら、それでもやさしく、
「そない目につく派手なものでは、遠矢にかけられるか、鉄砲に撃ち取られるぞよ」
と、注意してやると、左馬助はそれには返事もしないで、さっさと陣幕へ戻って行っ
てしまった。
(恰好よく己が体にあった誂えできの、美麗な鎧)を人に見せたがるのもわからん事
はない。だが、時と場所である。なんで敵中を抜け出して行く使者が、それを相手に
見せびらかす事があろう。
(ありゃ‥‥己が子種じゃろうかい)
と変な気になる。
 なにしろ有楽は二条城の石垣の上から刀を咥え、死のうと飛び降りたところ、爆風
にあおられれ、刀を落として死に損ない、今日までおめおめ生き延びてきたのも、自
分の口からいえば弁解がましくなるが、
(なんとか、兄信長を爆死させた真の下手人を探りだそう)
の一心だった。
 だから、ろくすっぽ子供に馴染んだりみてやったという事もない。
まあ、生れた時は、
(己が妻にしている女ごの腹から出たものゆえ‥‥)
と考え、赤子の時も、
(他人がみな似ている、父親似だ‥‥)
などというものだから、
(そうか、己が子か)
と思ったきりである。
 しかし、歳月がたつと、
(似ているところはどこじゃろ‥‥)
と、さがしても判らぬ。てんで見当たらぬ。
「父子(おやこ)とは、こないなものじゃろか」
と、それでなくてさえ時には考えもする有楽である。侘しかった。