1163 信長殺しは秀吉か 13

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「殺されました父と兄は、杉原七郎左様の家人にござりました」
とえいは云う。
 だが、杉原という名前で、すぐ頭に浮かぶのは、賎ヶ岳合戦の後、山岡景隆が放っ
ていった瀬田城を秀吉に云いつけられて押収。そこの城代を勤めた時、
(さも戦でもして城取りしたように、己が馬印や旗印を城壁や櫓に、おしめのように
ずらりと並べかけ得意がっていた男)
という評判ぐらいであった。
 しかし、えいの口にする、その天正十年の六月二日には、杉原七郎左は秀吉に従っ
て遥かに遠い備中高松攻めに加わり、蛙ヶ鼻の本陣にいた筈である。
 たしか、その三月から毛利方の宮地山、冠山の城を落した秀吉勢は、五月八日から
高松城の西北の門前村から東南の蛙が鼻にかけ、長さ四キロ余の土堤を築いた。そし
て、そこへ足守川の水を流し込み、高松城の水攻めを施工。
五日の末には城が水中に浮かび、石垣も没する有様だったのである。
 毛利方の吉川、小早川の両軍が、すぐに高松城の救援に駆けつけ、岩崎山と日差山
の二方面から石井山の秀吉方に決戦を迫っていたのが、ちょうどその六月二日あたり
の有様だった。
 だから、
「なにか、覚え違いではないか。杉原七郎左の軍勢は、みな備中攻めに行っていたぞ
‥‥それが何よりの証拠には、六月四日に城主清水宗治に切腹させてから、秀吉は高
松城の受け取りを杉原七郎左にさせ、その後も引き続き城代として、備中の高松で留
守役をさせていたではないか」
と、えいに噛んで含めるように云って聞かせてみたけれど、
「いくら、仰せられても、父や兄が殺されました所は備中ではありませぬ」
あくまでも首を振り、承知しなかった。
「といったとて、天正十年といえば、わりゃ、まんだ六つか七つの女童。何ぞ勘違い
でもしているのではないか」
有楽は、すっかりえいを持て余した。
「いいえ、間違いありませぬ。父や兄がお陣ぶれの太鼓をきいて、お城へ集まって行
き、そんで寂しゅうなって、そっと私が大手曲輪まで覗きに行きましたところ、父が
喰いかけの白い結飯(まんま)を下さりましたに‥‥」
少し平べったい顔を板みたいにまっすぐにして、えいは淀みなく喋りつづけ、
「食い物の事は忘れぬものでござりますよね」
とつけ加えた。なにしろ言い出したからには、引っ込もうとはしない。
(頑固じゃのう‥‥ちいと気が変ではなかろうか)
とさえ有楽は思った。
 えいの云う丹波福知山は、天正十年六月十三日の山崎合戦で天下の形勢が変わった
後、明智秀満の居城だったのが没収され、そこの新領主に杉原七郎左衛門家次が、改
めて秀吉の家老として三万石の領主になった所なのである。
 えいのいう六月二日の時点においては、杉原はまだ播磨の神吉(かんきつ)城主二
万五九の身分で、かつて秀吉をて手こずらせた三木城に治まった新城主の浅野長吉と
共に、秀吉の寄騎として播州の押さえだった筈なのである。
 だからこそ、その三月に播磨勢として動員され、但馬、因幡と共に秀吉の備中高松
攻めに加わっていたと、有楽ははっきり覚えている。
 それなのに、あくまでもえいは「そうではない」と言い張るのである。持て余して
王城しきった。
 ところが次の夜、また有楽の寝所へ人目を憚って忍び込んでくると、えいは座った
まま、
「これを御覧じなされませ」
と生麻の小袋に入れてあった、守り札のような薄紙をひろげて寝ている有楽の鼻先に
差し出した。
 のぞくと、その雁皮紙には、墨は古ぼけて滲んではいるが、
「天正八年庚辰閏三月、十兵衛尉家利の息、杉原七郎左衛門家次、福知山三万石城主
となり、佐藤四郎介、禄三十貫出仕」
と書かれ、その脇には丹波奥野村の医王山長安寺の墨印が押されてあった。
 そして左の隅に、
「天正五丁丑二月六日安土出生女、えい」
と、つけたしにこの娘の身上も欠き加えられていた。
 新たに領主として赴任してきた杉原七郎左が、家人を増やすために、牢人どもの募
集をして、それにえいの父の四郎介も応募。
 三十貫の給与で採用されるにあたって、その身許保障を、四郎介の菩提寺の薬師寺
系の長安寺が引き受けたという、これは証明の書付らしい。
 ここ十五、六年、秀吉の代になってからは、諸式が派手になり、めっきり物価も上
がってしまったが、天正八年頃なら、<一貫、一石>の定法だったから、四郎次は石
どりに換算すると三十石だが、当時はまるまる手取り勘定で、しかも検地前で余分も
多かったろうから、今ならさしずめ三倍の百石どりの身分であろう。
 まぁ、馬に乗れる程度の身分ではないが、徒足武者としては、ひとかどの扱いを受
けていたものだろうと、そこまではわかる。それから、領主七郎左の父が杉原十郎兵
衛だったと書き付けにあるが、これも間違いないことであった。
 なにしろ、有楽の子供の頃は、織田の家も信長が跡目をとったばかりで。あけくれ
駿河や三河から攻め込まれていた。だから尾張八郡から三河の安祥まで押さえていた
父の信秀とはこと違い、所領が半分以下に減っていた。
 それで、昔の小豆坂合戦では、七本槍の次にも数えられたという十郎兵衛も、当時
は逼塞して清洲城内の長屋から上の曲輪へ出てきては、よく幼い者を遊ばせてくれた。
 有楽達は十兵衛に背負われたり、五条川の浅瀬へ連れてゆかれて、水練を教わった
り、川狩りとよぶ簀立ても覚えさせられたものである。
 昔から子供好きで、この十郎兵衛には兄の信長も可愛がられていたらしい。だから
天正五年に、自分が任官し長秀、秀吉、光秀達にも官位の沙汰を受けさせた時、もう
十郎兵衛は亡くなっていたが、わざわざ兄は<尉>の位を避けてやり、霊前に仕える
よう、跡目の七郎左に伝えたのを有楽も覚えているのだ。

 つまり、この書付は、
「天正八年に、杉原七郎左が既に丹波福知山の城主になっていた」
というおかしな点の他は、みな疑いもない思い当たる事ばかりだった。
 そこで有楽は、
「ここに出とるそなたの父の四郎介が奉公した七郎左家次というのは、亡くなった関
白様の連れ合いの北の政所の義兄にもあたる身上で、関白様の家老を昔はやっていた。
よって跡目の杉原伯耆守長房も、豊岡三万石に転封になってからも、やはり北の政所
の妹婿にあたる浅野長吉の娘を迎えとりなさる‥‥その関白様の身内同様の杉原の家
人が、よりによって‥‥なんで六月二日に無法な目にあう筋合いがあろうぞ。そこの
所をよう考えてみんかい」
と、しょうがないから有楽は、子供をあやすように、えいに判りやすく話をしてやっ
た。
(‥‥とかく女ごというものは、間違った事でも初めに一旦こうと思い込んでしまっ
たら、矢でも鉄砲でも持ってこいと言わんばかりに、もう決めたが最後、なんとも変
えたり改めなどしない。てんで考え直しなどきかぬ頑なさがあるから、えいもその口
であろう。よってずうっと勘違いしているもの)
と思えたからである。そして、ついでに、
「杉原七郎左はその時、播磨の神吉城主だったからこそ、秀吉について毛利攻めに行
ったのじゃ‥‥そなたの云うよう、もし丹波福知山城主だったら、六月二日には本能
寺の方へ攻め込んでいたかもしれんではないか」
と思い切って言ってやると、えいはうなずき、
「はい。ですから戻ってきてから、みな胡麻(ごま)で残らず成敗されてしもうたの
でござりますよ」
別に慌てもせず、ゆっくりと返事をした。
「そりゃ、まこと‥‥か」
びっくりしたのは有楽のほうである。まるで枕から弾かれたように飛び離れ、血相変
えて起き上がった。
 そして、少しとまどったように間をおいてから有楽は、
「成敗されたという日は、もっと後ではないか。関白が明智の本城丹波亀山の朝日城
へ養子の於次丸秀勝を城主に入れた後、時々、亀山に赴いて、明智の遺臣狩りをして
いたそうゆえ‥‥つまりは、その頃の話ではないか。でないと、ぜんぜん話の辻つま
が合わぬ」
と、また根気よく説明を繰り返した。しかし、
「いくら、仰せられても、このえいめが、白い結飯を貰った次の日に、父や兄を討た
れたのでござりますよ。それに、私の家だけではござりませぬ‥‥なんせ、その時は
何百という衆が、みな胡麻の峠で崖下の谷々へ放りこまれたのでござりますね」
と言いながら、えいは横になると身体の方は素直に有楽を迎え入れていたが、口の方
はあくまで自分の話でいつまでも有楽を拒み続けた。
(頑固な‥‥)
と、口には出さなかったが、有楽はすっかり呆れ返って愛想をつかした。
(親や兄弟を失った孤児ゆえ、お連れなされと泣きつかれ、あの時最初からそれを承
知で伴った娘)
には相違ないが、あまりにも言うことが野放図にすぎて、とても話など信用しかねた。
だから、
(こりゃ、まことにとんでもない娘に、うかつに手を出してしもうたものだ。早めに
手切れの銀でも与え、この屋敷からすぐにも暇をとらせたがよいかもしれぬ)
と、そんなことを頭の中で考えながら、身体では有楽はえいを揺さぶっていた。

4
 伏見の養斎島(ようざいじま)に面した舟入場に織田有楽も屋敷を構えていた。
ちょうど藤堂高虎の邸の隣である。
 だから、伏見のそちらへ戻れば女達も多くいたが、大坂城内は言わば詰所のような
ものである。
 だから中曲輪の敷地に五間ほどの建物しか与えられていない。よって人手も少ない。
それを得たり賢しとばかり、えいはそうなってからというものは、もはや、おおっぴ
らに毎晩おしかけてくる。
 が、誰もえいの都合で通ってくるとは思わぬから、みな有楽が夜毎呼んでいると考
えるらしい。古くからの家臣などは心配して、
「あまり度を過ごされましては‥‥」
などと忠義ぶって諌めに来たりする。たまったものではない。
といって、
(実は、あのえいめは親兄弟の仇をとりたいと訴えに来てるのじゃ)
とも云いかねる。そこで、有楽は難儀してしまい、
「所労」と大坂城内の増田長盛に告げて、伏見屋敷の方へと移ってしまった。

 さて、伏見の有楽屋敷の裏手には福島正則。
その又裏が、加藤左馬助の邸と百軒長屋。
そして向こうが豊太閤の築いた伏見城である。今は五大老の筆頭の徳川家康が住まっ
ている。
「あれなる伏見城右端の仰々しい砦のようなものは、なんじゃ」
久しぶりに戻ってきた有楽の眼にいかめしい新築が見えたから家来に尋ねてみた。
「はい、あれは山岡道阿弥様のお邸にござりまする」
と留守居の者は説明し、それに色々の風評も付け加えた。
「山岡か。一瞥以来じゃな」
と有楽は懐かしそうに叫ぶと、振り返って、
「馬ひけっ」
と命じた。
 逢いたい要件を思いだしたからである。舟入場の柳並木を抜け、伏見城のまわりを
めぐって山岡邸の正面へ出ると、噂どおり鉄砲狭間がびっしりと鉄板の壁にとりつけ
られ、堅固な構えだった。
 しかし、山岡道阿弥はにこして出迎え、
「よう渡らせられた。さあ、すぐにも内府様にお目通りなされませ。なんせ源五様は
天正十年六月に石山寺を出られると、すぐ尾張の鳴海原へ行って徳川勢の名主になら
れ、小牧長久手合戦でもお味方を申し上げたによって、内府様には、きつう源五様に
は、お目をかけておられまするぞ」
と、こう切り出してきた。
「内府様」つまり内大臣の位は、秀吉の後三年ばかり織田信雄が継ぎ、天正十九年の
暮に豊臣秀次が一ヶ月だけ就任して関白になり、後はずっと空位だったのを、慶長元
年から家康が継いでいるのである。
 だから、その(内府に目通りしろ)というのは、これは山岡道阿弥と同じ様に徳川
家康に味方せいとの意味らしい、と有楽は即座に考えた。

 なにしろ、この伏見城へ関東の家康が入ってからというもの、大坂方では用心して、
伏見城の明治丸に面しては石田治部の邸。本丸に向き合っては増田長盛邸。同じく伏
見城西丸に対しては長束正家邸と、みな五奉行がいざという時の用意に、自邸をもっ
て囲んでいる。
 そこで、この山岡道阿弥というのは、当時まだ空いていた伏見城、松の丸にくっつ
けて、すぐさま石垣づくりに鉄砲狭間を切った砦のようなこの邸をもうけ、噂では万
一の時には伏見城内の家康を脱出させる為に、自邸から抜け道まで作っていると云わ
れる程の徳川方の味方である。
 もちろん兄の山岡景隆と共に秀吉から、瀬田と石山寺の城を追われた時から、既に
家康の息がかかっていて、蔭扶持は受けているから家来も同じ事だろう。
 そこで有楽は、それを良いことにして、
「天正十年頃の調べじゃが‥‥」
と心やすく相談した。
 すると案の定、道阿弥は大きくうなずき、
「その頃の検地帳なら長持に五十位を蒲生氏郷の親父の賢秀が、金銀や道具類はすっ
ぽかして、焼けおちる前に六月三日にみな無事に日野へ運びこみ、のち氏郷から関白
殿下に献上。よって今は、こちらの伏見城の方へすっかりきてござる」
と有楽の予想した通りだった。
 だから、気になることがあるゆえ、杉原を調べたいと言ったところ、
「その杉原七郎左なら、わしの兄の景隆が放った瀬田城へ、すぐさま乗り込んできて
押さえ居った奴ゆえ、当時の控えは、この儂の手許にもあるじゃろ、と思う」
と近習を呼ぶと、黒い革貼の文筥を、その場へ持ってこさせて、蓋をとった。
ひろげて見せられた綴りをみるなり、有楽は己が眼を疑うように、思わず息をのんだ。
なにしろ、
<丹波福知山城主 杉原七郎左>
と、それにははっきり書き込まれていたからである。
(天正十年六月以前に、丹波福知山の城に杉原)
とは奇怪すぎた。考えられもしないことである。だから、
「そんな莫迦な‥‥」
顔を真っ赤にして有楽は唸った。
そしていきなりいきり立ち、
「安土城を撤退し坂本城へ行き、城を火屋にして自決した光秀の娘婿の明智秀満の実
父は‥‥たしか丹波福知山の横山で捕えられ京へ送られて、七月二日に粟田口の刑場
で、六十四歳の老躯を張付柱に架けられとる‥‥つまり、その実父が丹波にいたとい
うことは、これはとりもなおさず、明智秀満が福知山城主だったという証拠‥‥」
 また、それの一年前の天正九年四月には、茶湯の津田宗及が、九日には丹波亀山で
光秀のもてなしを受け、十日には福知山で秀満に泊めてもらったという確かな証人も
いるのでござる‥‥」
と、
(決して左様なことはない。天正十年以前の丹波に杉原は無縁である)
といくら強情に言いはっても、相手の山岡道阿弥は、にこやかに聞いてくれてるだけ
で、(うん)とはうなずいてはくれない。
 その上、改めて、また違う綴りを道阿弥がひろげて見せた個所にも、
丹波亀山城主 明智惟任日向守光秀
近江坂本城主 明智惟日内明智秀満
と書かれてあるっきりで、何処にも、その明智秀満が「丹波福地山城主」などとは出
ていなかった。
 だから首を突出して覗き込みながら、思案投げ首で、
「判らん‥‥不可思議千万」
と、ついに弱音をはいた。そして道阿弥に、しょうことなしに微笑みかけ、往生しき
って、
「御教示、願おうか」
いまいまいしげに頼んだ。すると相手は、
「有楽様の仰せは違ってはおらんが‥‥」
と、まず前置きしてからが、
「さて、さて、何事も鷹揚に考えられ、丹後は細川、丹波は明智と、国別にして考え
られとるから、丹後国内に秀吉の家老杉原七郎左の領地が含まれていては『奇怪至極』
なれど、仰せられとる天正十年六月二日の当時は、杉原七郎左は、まだ秀吉の家老に
はなっとらん。当時のその役目の者は蜂須賀彦右と桑原治右の両名が秀吉の家老職で
‥‥後に秀吉の家老になった杉原や浅野長吉といった、おねねの方の兄弟衆は、禄高
の差異はあっても、当時はまんだ、みな一列に信長様の奉公人。秀吉とは同輩の身分。
しかも由跡(ゆうぜき)からいえば、その身一代勤めの新参者の秀吉や光秀、細川あ
たりよりは、杉原や浅野は、勝幡からの親子代々譜代の織田の家人。つまり、よし毒
にも薬にもならん取り柄なしの者であっても、まあ、信長様にすれば、『新参者に比
べれば、まずは安心はおける者だった』と思し召しなされていたと推察なされませ。
 なんせ‥‥亀山朝日城を囲んだ笹山城や綾部城と共に福知山城は要害の一つゆえ、
天正五年十月に攻め落とした時には掻き上げ城。つまり土累かための小城だったのを、
明智秀満が三年がかりで石を集めて積み上げ、石垣を高く築き、やっと三層建てを落
成させかけたところへ、安土からの命令で『杉原七郎左に引き渡せ』では、せっかく
の今までの骨折りが、くたびれ損ゆえ、渡すのが惜しくなって、坂本城主の秀満が城
代のように福知山にずっと居座って、まるで領主のように天正九年いっぱいは頑張っ
ていたらしい‥‥と思われまするなら、わけも呑み込めましょう」
と言った。
「それで、だいぶ話がよめてきた。杉原にしてみると、『お沙汰は出ている事だし、
急ぐこともない。それに、まんだ修築中の福知山城を貰ったのでは、自分の方に工事
の手間隙がかかって厄介ゆえ、まあ完成してから乗り込んだが得』と考え、旧城の播
磨の神吉城にいて、名目では天正八年から既に福知山城主でありながら、その身はま
んだ移ってはおらなんだのじゃろか‥‥」
「いや、そうでもない。天正九年の九月四日。丹後の一色義有の旧領処分にあたって、
弓木、田辺、由良、落合、滝山、峯山の諸城は細川へ、八幡、熊野、久美、竹野は明
智へと配分が決まった‥‥よって光秀にしてみれば、新しく細川藤孝の本城のある丹
後領内にも、四つも城を貰ったからには、延引していた福知山城の引き渡しを早々に
せねばならぬ羽目とはなった。
 そこで、因果を含められた明智秀満は、かねて福知山城の天守に住まわせていた父
を、新たに横山砦跡に新館を築き、そちらへ移してから、やっとの事で城は杉原七郎
左に明け渡したものらしいと、思われまするな」
「して、また‥‥それは一体いつ頃までの事じゃろ」
穏やかな事でない事になったから、有楽は顎を突出すようにして訊ねた。
「さあ、はっきりした事は判らんが、天正十三年三月五日に、信長様が自身で甲州出
陣された折に、光秀も秀満も共に一応はお伴しとるから、その前の事じゃろうし‥‥
その三月十五日には、杉原家次は秀吉について、これは備中攻めに出陣しとるから、
福知山城を明け渡し、引き継ぎしたのは、おそらく天正十年の正月から二月までの間
ではなかろうかと考えられまするな」
「すると、あの、六月二日は‥‥」
やけくそな声を有楽は張り上げた。
 だが、道阿弥は首を振って、白くとびでた眉毛を揺さぶり、
(判り切った当然な事を聞く)
とでも云いたげに、苦笑したきりであった。そして、伏見名物の八木醸(こめかも)
しの酒を運ばせてくると、
「まず、一献」
と有楽へ傍らの侍女をうながして、頻りに酌をさせようとした。
 だが、有楽にしてみれば、まさかと思っていたが、事の意外さに呑むどころの騒ぎ
ではなかった。
 そう云われると、六月十四日に、安土城を引き払った明智秀満が、もし福知山の城
主だったらば、六十四歳の実父もいる事だし、すぐにも丹波へ引き上げている筈であ
る。
 そして、そこで父子一緒になるべきが人情なのに、彼は丹波へ死ぬまで行っていな
い。
ということは、つまり、
(六月二日の時点において、明智秀満は福知山の城主ではなく、そこは杉原七郎左の
城だったからである)
といえる。
(言い換えれば、福知山城には杉原が移っていたから、明智秀満は坂本城へ引上げ、
そこにいた己れの妻子と共に自決して果てた)
という事になる。
 だから、そう話の順を追ってゆけば、すべて一切がっさいが有楽の頭の中でも、ど
うやら筋道を組み立ててゆけて、篭のようにも編み上がってしまう。
(それならば、えいの話はありゃ、本当である。それを頭ごなしに押さえつけ、てん
で話をきかなかったおりゃの方が、これではまるっきり女ごの腐ったような頑固者と
いうことになるわい)
と、いささか自分ながら阿呆らしくさえなってくる。
「だが、丹波福知山の城主が杉原であったとしても、備中へ行っていたならば、あの
六月二日の本能寺には何の関り合いもありゃせんじゃろ‥‥」
面白くもないから、そんなつっかかるような言い方を、つい有楽はしてしまった。
「うん」
別な事を考えているような顔で、道阿弥は調子はずれの相槌をうった。そして、
「わざと、にすぎる」
低い声だが、はっきりとそんな風に聞えてきた。
「‥‥何が?」
と、訪ねると、
「わしの兄の瀬田城へ杉原めが来おって、城受け取りし城代しくさったから、言うの
ではないが‥‥その時も仰々しく旗を並べて見苦しい程わざとらしかったそうだが、
今にして思うと、『前年、高松城を受け取り、城代していた』のを思い出させよう為
の、わざとらしさがあった‥‥
 死んだ秀吉は、あの六月二日の変を三日の夜に耳にしたという。そして、翌日、毛
利方と談判して清水宗治に朝のうちに切腹させ、すぐ出立したと伝わる。
 が、秀吉にしてみれば、杉原というのは兄婿にあたる者。普通ならばこれから天下
分け目の決戦をしに行くのなら、ぜひとも心頼みに伴うのが人情であり常識でもある。
それに杉原が天下に隠れもない武扁の評判者なら、毛利方に追撃されぬよう、惜しく
も殿軍として高松城へ残留させねばならぬ筋合いも判るが、杉原の武勇など、我らは
これまで爪の先ほどもかつて耳にした事もない」
言われて有楽をさっと顔色を変えた。
(たしか亡父の十郎兵衛は、先代の頃は織田家の御槍奉行で武扁者だったが、そうい
えば伜の七郎左はまさにその通りである)
「では、どうして杉原の存在がことさら人目につくように、備中高松の城の受け取り
人に仕立てられ、その後も城番として、おそらく賑わしい程に旗を並べ、備中にいた
のじゃろか‥‥そして、翌年、人目につきやすい安土の通行口の瀬田城をば、なぜ杉
原が城代したのか‥‥しかも、ことさらに旗をたんと立てて評判になるような手口を
くり返したんじゃろか。そこんところが今思えば不思議でならん。何故じゃろうかの
う‥‥」
皆目わからなくなってきた。だから、そのもどかしさに焦燥しきって有楽は、喚きた
くなるのをぐっと堪えつつ、咳き込んで尋ねかけたのに、道阿弥は、
「わっはっは」
と高笑いした。そこで、
(何がおかしい)
と有楽が顔色を変えて、きっと睨みつけたところ、
「杉原七郎左は備中高松へは行っておらなんだのよ。『いない者を、さも居るように
人目にみせるため』と言いつけられた者が、苦労して、旗をたんと並べて高松の城を
賑わしく飾りたてた。だが、それでも心もとないというか、うしろめたいと思ってか、
それから十ヶ月後、わしら兄弟が秀吉に腹を立て城を放ったら、これ幸いと乗り込み、
さも『杉原七郎左は、城受け取りと城番は、毎度の事でござる』とでもいいたげに、
仰々しく旗行列を湖面に浮かして、まるで祭礼のように派手に振舞ったのよ」
と、続けてからから笑った。
だから有楽は、
(まさか‥‥)と思いながらも、(そうかな)とも迷って考え込んでしまった。