1162 信長殺しは秀吉か 12

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 肥前名護屋の陣中で有楽が迷惑したのは、何といっても足利昌山の陣場に隣合わせ
た事だった。
 昌山とは、四年前に帰洛して出家し、今では法名を道休とも号する、先の十五代将
軍家の足利義昭の事である。
 さて、秀吉からは僅か一万石しか知行を貰っていないのに、昌山こと義昭の陣場は
三千五百の兵がいた。それに引きかえ織田の旗印を靡かせる有楽の方は、たった百名
しかいないのである。
 何が癪に触るといっても、これぐらい劣等感を持つことはない。有楽としてはまこ
とに厭な感じを味わされた。
 だから、隣陣屋の赫ら顔のでっぷり肥えた男を、時たま垣間見るたびに、有楽はそ
の日は一日中不快で、横になってもそれは直らなかった。
 天正十六年の聚楽行幸の飾り物に京へ戻ってきたこの男は、
<太皇皇后、皇太后、皇后>の三宮に次ぐ<準后(じゅんこう)>
の尊い位を御所から賜った。
 古来、この待遇を受けた者は、人臣では南朝の柱石の北畠親房と、この度の足利義
昭の二人きりだそうである。だから、世間の人々は今となっては口を揃え、兄の信長
が死んだのをよい事に、
「帝位を纂奪せんとした織田信長の野望を見抜き、諸国に勤王の師を求め、あくまで
も皇統を護持した足利義昭こそ、かつて後醍醐帝を守った北畠公にも劣らぬ史上空前
の大忠義者」
と、いい加減な出鱈目な事を言いふらし、大した人気だった。
 だからこそ、三千五百も「陣場借り」と称する無禄の牢人どもまでが、その人数に
加わっているのだが、それにも増して有楽が我慢できぬのは、土地の猟師や百姓ども
の手合いである。
 彼らは義昭が「古今絶無の忠君愛国の権化だ」という噂に心酔しきっているとみえ、
信心するみたいに毎朝、暗いうちから、
「献上でござります‥‥」
と口々に呼ばわりながら寄ってくる。
 この名護屋に諸国大名衆が集まって物価も高くなっている事ゆえ、他所へ持ってい
けば高値に売れる魚や野菜を、只でみんな運びこんでくるのである。もちろん嫉妬す
るつもりでもないから、それもよかろう。
 だが、構えの小さな隣の有楽の陣屋を義昭方の勝手口とでも間違えるのか、殆どが
紛れてこっちへ入ってきてしまう。
「違う。足利殿はお隣りだ。こちらは織田様だ」
と番衆に教えられると決まってどいつもこいつも、
「すみませぬ」と礼を云うかわりに、
「なんだ、こっちは悪いやつの方かや」
口々にみなこうである。狭いから、よく聞えてくる。
(‥‥足利義昭は善玉で、わが織田は悪玉なんじゃろか)
のべつ幕なしに毎朝これをやられては、源五としてもたまったものではない。
(もし世間で取り沙汰するように、兄の信長が御所に対して不逞な考えがあれば、そ
れはとうに実行できるだけの権力はあったのだ。だが、そんな真似はしていない。こ
りゃ、とんでもない濡れ衣だ。誤解も甚だしすぎるというもんだ。なんで織田一門が
悪いんだ)
すっかり有楽は気鬱になってしまった。
 そこで寝ながらしみじみ考えてみると、
(天正十一年、つまり本能寺の変の翌年に足利義昭の側室春日が上洛した。その時か
ら秀吉は頼まれたからと金銀の仕送りを始めた。そして天正十三年、義昭の猶子(ゆ
うし‥‥名目養子)になるのを拒まれると、関係を断ち、前関白近衛前久の猶子にな
って関白になった)
と世間ではいうが、その無関係になった筈の義昭が、近臣一色昭秀を鹿児島へ遣り、
島津貴久と秀吉方の和平の橋渡しを続けていた。
 そして翌天正十五年正月には、一色昭秀が当時の九州の事情報告に、密かに聚楽第
まで秀吉に逢いに来ている。
 だからなのか、九州征伐に秀吉が乗り込むと、四月二十一日には島津は昭秀を仲に
入れ、つまり足利義昭に縋って降伏してしまった‥‥
 こうしてみると、義昭が、かつての猶子の話を秀吉にすげなく断ったというのも、
どうも本当とは思えない。まこと何やら、臭い話である。
(秀吉の望みというのが、遥かに将軍職よりも上だったから、つまりは、その恰好を
つけるために、わざと義昭に養子を断らせたのではあるまいか。つまり、二人はどう
も前から共謀していたのやもしれぬ)
という、疑問だった。
 そうなると妙なもので、秀吉への気兼ねも出てきた。うるさくても隣の義昭には、
有楽としては文句をつけに行けもしなかった。
 だが、考えてみると、あまりに巧く話ができすぎである。
(‥‥足利義昭が世上で取り沙汰される程の勤王の士なら、何故、秀吉が天正十四年
七月二十四日に誠仁親王を生害させ、畏れ多くも先帝にさえ自殺の覚悟をつけられる
ような真似をした時、これを阻止する義兵を、足利義昭は挙げなかったのか‥‥信長
には辛くあたり、秀吉には甘い。そんな不公平きわまる足利義昭の誠忠無比なんか、
あるもんじゃないわい)
と有楽は憤慨した。
 それに、疑えばきりのない話だが、天正十年六月の時点に遡って考えてみると、備
中倉敷から右手の山へ入った所の高松城を秀吉は攻めていたのだし、左手の海へ向か
っていた鞆の在に義昭はいたのである。
 二人は約二ヶ月ぐらいの間、呼べば答える程でもないが、きわめて至近距離にいた
事になる。
 そして、前に義昭が二条城にいた頃、秀吉は京所司代として顔見知りの間柄だし、
その後、毛利方へ派遣されて談合に行っていた頃には、既に義昭は毛利領の備後にい
たから、そちらでも互いに逢ってもいた筈である。
 つまり、ずっと十数年にわたって繋がりのあった二人である。
だから、その天正十年の三月十五日から六月二日までの間、秀吉と足利義昭の双方で、
全然知らん顔でいたとは、これは到底考えられはしない。
 何しろ、表面では、
(六月三日に毛利と秀吉が急に和解したのは、安国寺恵瓊の取り持ち)
ということになっているが、実際は安国寺ではなく足利義昭の仕業で、ただ見せかけ
だけが安国寺恵瓊であろう。
 そもそも安国寺というのは、その以前から毛利と秀吉の周旋人として知られている
が、彼は鞆へ天正四年から移った義昭を盛り立て、昔、足利尊氏の泊まった小松寺へ
住まわせ、浄観寺へ移ってからも己れの寺の安国寺を「公方接見所」にして、自分が
到来物や貢銭を蔭で取って儲けていたような男である。
 だからうまい仕事になるのなら、義昭に代わって表向きの名目人になったのかもし
れぬ。
(‥‥三月から六月まで秀吉と義昭は二人で何の共同謀議をしたか不明だが、現実と
して六月二日に兄信長が殺されてしまい、そして僅か十日目に秀吉が仇討ちの戦をし
た事になって、一年たたぬうちに彼がとってかわって天下様になってしまった‥‥
 そして、兄の信長が、『未来永劫ともに再建を許さぬ』と命じた延暦寺さえ、秀吉
はさっさと復興させてしまい、かつて兄信長が『悪党』と読んだ義昭が、十年たつと
『正義の味方、殉忠の公方よ』ともてはやされ、『準后』と崇められて、あべこべに
信長が今や『悪人』なのである‥‥こんな馬鹿げた事があるもんか)
目まぐるしすぎると、しみじみ有楽は唸らされた。
 しかしである。
義昭と並べて陣場割をされているのに、こりゃおそらくは、
(‥‥旧怨はもう水に流して、供に仲良うせいやい)
という秀吉の思いやりかもしれぬと、時には考えられた。
 だから有楽は秀吉に気兼ねして、おりをみて顔を出し、義昭には挨拶もしよう。そ
して、うまくゆけば昔、石山寺の尼に聞かされた<埋火(いけび)>の話を、誠か否
か心底のところを聞き出してやろうとさえ思ってみたりした。
 ところが、いくら秀吉を憚って決心をつけたとはいえ、朝早くから
「足利の公方様は良い方。こっちの木瓜の旗の出てる方は不忠者の信長の弟じゃ。悪
人ばらの陣屋だぞ」
と、いと手軽に土民どもに善悪の区別をされ、
「昔から、やはり悪で栄えたためしはないわえ。見てみんしゃい、こちらの織田の陣
屋の貧弱なこと‥‥まるで足利様御陣屋の下厠のごとある」
などとまで喚き罵られて、毎朝その声で起こされていては、いくら有楽が秀吉おそろ
しさに隣の陣屋へ顔出しをする気でも、ちょっと行きかねてしまう。
 もちろん、(そこを辛抱し、何とかして十年前の経緯を聞き出さねば、殺された兄
信長の無念んが晴らせぬし、爆風に飛ばされたとはいえ、自分の死に損ないの意味も
ない)とは、あけくれ思う。
 しかし、思うというのは一瞬の事でしかない。そして、厭な事はどうしても気が進
まぬから、ついつい、すぐ忘れてしまう。
 そこで自分でも、
(これではいかん。何とか眼を瞑っても押しかけよう)
とは毎晩の如く考える。そして日課のように、寝付く前には自分を叱ったものである。
 だが、一日延ばしをしているうちに、とうとう正月が来てしまい、朝鮮から講和の
使者が来る事になった。休戦である。陣払いとなった。
 有楽は、八月二十五日に秀吉の伴をして大坂へ戻った。
義昭の方も途中で備後の福山荘にある人見山の己れの館へ行ってしまった。
 だが瀬戸内海一帯での人の噂では、義昭の人気というか権勢は、全くものすごいも
ので、有楽は圧倒された。
 なんでも義昭は、これはという若い娘を見つけると、誰かれの容赦なくみな人見山
の<公儀御座所>である自分の許へ片っ端から召し寄せて、これを飽きがくるまで何
日でも自由にしているという。
 だから今日では<人身御供>という、新しい言葉まで字を変えて福山在ではひろま
っているという話だった。
 なにしろ、<準后>の位をもつ公方様なので、義昭は田舎では<神様>並に尊ばれ
ているからである。
 そこで、大阪城内に邸を貰い槙島にも居宅を構えていても、やはりここの人見山の
方が、足利義昭には勝手がきくとみえ、そのまま落着いてしまい、二年たって慶長元
年(1596)八月にとうとう死んでしまった。だから、
(義昭が上洛してきたら、今度こそ刺し違えるよな覚悟で押しかけてゆき、信長殺し
の埋火の話を聞きだそう)
と意気込んでいた有楽は、その知らせを聞くと、
(間に合わなかった‥‥)
がっかり落胆させられてしまった。
 そして、自分が肥前名護屋で隣り合わせていたくせに、とうとう逢わずじまいだっ
た億劫さはすっかり棚にあげ、憤懣やるかたないような顔をして、
「人見山で若い娘ごばかり集めすぎ、それで腎を破られ、精根尽き果たされたか」
などと毒づいては、気を紛らわす事にして、
(無念、残念、口惜しや)
とばかり、ずっと吐息を洩らしつづけていた。
 だから、八郎太がようやく何処からか調べだしてきて、
「木村弥一右衛門は、その昔。弥一郎と申して明智の雑兵頭に取り立てられる前は、
公方様に仕えていた室町奉行衆の内藤党の一人で、天正元年に義昭様の命令で、二条
城に立て篭り、信長様に手向かった内藤如庵配下の郎党の一人でござりました‥‥」
と報告に来ても、
「もう、すべて後の祭りじゃよ」
と、そんな言い方で、ぶすっと情けない顔をしてみせたものである。
 さて、その義昭の葬儀は、足利家累代の菩提寺、洛北の等持院で営まれる事になっ
た。
 遺体は暑い盛りなのでとうに備後で葬られ、髪毛だけが棺に納められて送られてき
ているのに、室町奉行衆の元の家来どもは、足利将軍家の古式に則り、大きな火屋を
建て、そこへ棺を入れて燃やし、茶毘にふしたがったが、
(おおげさすぎる)
と、京の所司代前田法印が造作方の大工を等持院へ一名しか許さなかった。
 その話しを聞いて有楽は、その取り決めが法印の一存ではなく、おそらく秀吉の意
向だろうと考え、やれやれと。それで初めてほっとした。
全くのところ、救われたような心地になれた。
 なにしろ足利義昭が死後まで大切に扱われ、秀吉が親切にしたのでは、本能寺で死
んだ兄信長もとても浮かばれまいし、有楽自身も我慢ならぬ心地だったからである。

杉原七郎左

1
 慶長三年(1598)八月。秀吉が死んだ。
頭の上に宙吊りになっていた大石が、すとんと取り除かれたように、有楽はせいせい
した。両手をはって思わず大きく、
「あーあー」
と伸びをしてしまった程である。
 桶狭間合戦の二年ほど前に、小者として奉公に来た時、秀吉は二十三ぐらい。有楽
は清洲城へ移ってすぐだから、まだ八歳だったろう。
 だから、二人の出会いは向こうが大人に対して、こちらはまるっきり幼児だった。
ものは最初が肝要だという。そのせいなのか秀吉は死ぬまで有楽をてんで子供扱いし
ていた。
(‥‥この小うるさい餓鬼め)とでも最初に眼に映ったらしく、その観念を拭い去る
事なく、ずっと秀吉は有楽を見ていたようである。
 有楽にしてみても、藤蔓織りの仕着せ絆天を着て、泥まみれな毛脛を出していた藤
吉。つまり小者の頃の秀吉をずっと覚えていたからこそ、いくら殿下と呼ばれるよう
になっても、映像がダブって、あまりピンともしなかった。
 それに、藤吉の頃の秀吉は、大人どもには愛想よくまめまめしく仕えはしたが、有
楽のような童、特に男の子らには極めて無愛想で、追従笑いもろくに見せないような
男だった。
 しかし、子供というものは、犬や猫と同じで、すぐ相手に好かれているか嫌われて
いるかを直感で読み取るものである。
 だから、有楽たち男の子供達は誰も藤吉と名乗っていた頃の秀吉は好かなかった。
呼びもしなければ近寄りもしなかった。なにしろ他に子供と遊ぶしか能のないような、
そんな手合いがいくらでも奉公していたからである。
 つまり、幼い頃、有楽は秀吉に眼をかけ、いたわってやった覚えもなければ、向こ
うから可愛がられ大切にお守された事もない。
 十五、六になって、兄の名代として出陣しだしてから、新参の大将どもでは得体が
しれなくて気兼ねなのに比べ、その点、秀吉は幼い時から虫けら同然に思っていた小
者上がりゆえ、
「藤吉、藤吉」
心安く顎で指図して使っただけの事なのである。
 すると、もう三十男になって、<木下藤吉郎>といっぱしの侍大将にもなっていた
くせして、真面目くさった顔をして、てれもせずに
「はい、はい‥‥」
と、まめに仕えたものである。
 有楽にしてみれば、
(自分の年弱なのを周囲に侮られまい)
と取り繕うための背伸びをした虚勢だったし、また秀吉の立場では(さも、気に入ら
れている)ように他の者に見せかける為の偽装だったのだろう。
 だから、人前では、さも馴れ合った睦まじい主従にも見えたろう。だが仮りに二人
きりにでもなった時は、まるで人が違ったみたいに、どっちも面白くない顔で口をき
きあう必要もないからと、とんとものを云わなかった覚えがある。
 それが兄信長の死後、急転直下、立場がまるっきりあべこべになってしまった。
つまり、
(召し使いに召し使われる身の情けなさ)
を嫌という程まで有楽は骨身にしみらされた。
 そして初めは、この逆転した立場にどうついていけばよいものなのかと、ただオロ
オロしたものである。とはいえ、まだ甘えがあった。
(昔の主人筋ゆえ、大切にしてほしい。特別扱いにされてもよい筈だ)
と、向こうからいたわってくれる事ばかり期待していたようだ。
 ところが岐阜へ来て、吉村の許に匿われていたぐらいの前田法印あたりが八万一千
石。その伜の義勝まで丹波亀山五万石。しめて十三万石に比べても、有楽の方は僅か
摂津島下で一万五千石、と見る間に格差がつきだした。
(‥‥昔、秀吉が信長にしたように、はい、はい云って弁茶羅すれば、果報が報いら
れる)
とは承知はした。だが、判ったからといって、さて、実行できるものでもない。昔が
昔である。
 だから、ずっと腹の中ではむくれっぱなしで、いらいらしていた。諦めたような諦
めきれぬような、うじうじした心地だった。
(これではいかん‥‥)
とは自分でも思ったが、時たま、何かの弾みに秀吉から、
「源五様」
と昔の侭の呼び方でもされると、身体中がぞくぞくし、虫のよいことばかり考えたも
のである。
 しかし、といって、ろくな事もなかった。
それに、認められようと心を砕き、犬馬の労をとって粉骨砕身、働いてみせたところ
で、
(どうせ、相手はなにしろ子供の頃から側近くいて、こっちをよく知りすぎているか
ら)
と考えると、
(まぁ、なまじ骨折っても苦笑されるぐらいが関の山)
と馬鹿らしくて、とても努力もできかねた。
 それに初めのうちは、兄信長の仇討ちとばかり、明智の遺臣狩りなどに精出してく
れるものだから、
(よいところがある。忠義者じゃ)
と、内心頗る満足し、気をよくしていた時代もあった。
 が、利休に腹を切らせたり、あろうことか、「尾張の土豪崩れ」と織田一門を辱め
ていた足利義昭と仲良くされたのには、有楽も全く腹をすえかねた。
 下世話に云えば、婿養子に浮気をされた家付女房みたいに、癪だった。
だから、有楽は秀吉に死なれて悲しいなどと思うより、内心ではほっとした。肩を凝
らせつかえていた気苦労も、これでいっぺんに吹っとんだ感じだった。

2
「酒だ」
大声で喚いた。
 有楽はすっかり愉しかった。
晴々とした心祝いに、盃をあげたくなったのだ。
 しかし喜んだのは大坂城内では有楽一人きりらしかった。他は秀吉の死で上を下へ
の大騒動の最中である。まさかこんな時に有楽が一人で祝杯を上げようとは、誰も思
いがけない。だから家来どもの控えもいなければ、侍女達も手伝いに狩り出されてみ
な出払っていた。
「しょうがない‥‥」
舌打ちしながら、有楽は自分で己が屋敷の厨まで足を運んだ。台所口である。
すると、背を向けたまま足膳を拭いている婢女がいた。
「酒をもて」
有楽が大声を張り上げたから、考え事でもしていたらしい女は驚いたようにこっちを
振り返った。そして主人の有楽と気づくと片襷をはずして、頭を下げながら、
「ここへ‥‥でござりまするか」
と、低い声で怪訝そうに尋ねた。
 そう尋ねられると、まさか台所の板の間に座り込んでも呑めもしまいと考え、
「寝所へ持ってこい。肴は味噌でよいぞ」
と、本当は前祝いにきゅうっと一杯ひっかけたかったが、そんな具合に早口に云いつ
けて戻ってきた。
 暫くすると、先刻の女が胡瓜を刻んで味噌にまぶし、それを蒔絵台に乗せ酒瓶子と
供に運んできた。少し躊躇っていたが、まさか膳だけ置きっぱなしにして退がりもな
らず、おそるおそるにじり寄って酌をした。
 あまりみかけぬ女だが、どこか見覚えがあった。だが、名前までは想いだせないま
まに、
「そなたは‥‥」
ときくと、女は恥ずかしそうに赤くなって、やっと、
「あの丹波からついて参った、えい、でござりまするがね‥‥」
と口ごもった。
言われて、ああそうだったのかと有楽も気がついて、昔の事を思い出し、
「さてさて、さようか‥‥して、何歳になったぞや」
と訊ねた。酔いのせいか、美しくみえたからである。
すると、相手はもじもじして、
「お伴してまいって、もう十三年。女ごとしてはとうの立つ年頃にもなりました」
「そうか。於次丸の葬れんの戻り、丹波から連れてきたが、あれからもうそんなにな
ってか‥‥」
と呟きながら、有楽はえいをしみじみ見直してみた。
 だが、雪の中を藁帽子をかぶって、ぴょんぴょん野兎みたいについてきた幼女の面
影は、さすがにもう何処にも残っていなかった。
 酒で敏感になった鼻に、くすぐったいように女の匂いだけがぷーんとついてきた。
(誰も彼もというわけではないが、若い女ごの中には、時たま、思わずどきりとする
くらい、女の股の香をさせる者がいるが、えいも、そうした娘の一人かや)
と、その匂いをむうっと吸い込みながら、
「せめて十六、七ぐらいまでには、しかるべき男でもとりもってやれば良かったに。
つい忙しさにかまけ、まこと不憫な事をしたのう」
父親のようなまなざしを向けてやると、
「もう、手遅れでござりましょう」
えいは、照れたように云うと、顔を上げて微笑んでみせた。
「そうでもあるまい。近頃は女ごの嫁入りの齢が、ずんと遅れておるそうじゃ」
と言ってみた。
だが何もとりなしに気休めだけで慰め顔をしているわけでもなかった。

 有楽の若かった頃は、まだ戦国時代の続きだった。そこで、何処の国でも、みな境
目に城や砦を築き、そこを厳しく固めては互いに戦を繰り返していた。だから、弓、
槍の武器や兵粮もせっせと増産していたが、何より必要なものは、やはり軍用の人手
だった。こればかりはかねて心掛け、育て上げてゆかぬと、おいそれとは間に合わぬ。
そこで前もって、
「産めよ、殖やせよ」
とは何処の領主も奨めたものである。
 そして、まるで領内の若い女ご共の腹を空っぽにしておいては損をするみたいに考
え、なんでもよいから早く子種を腹に仕込ませてしまおうと、男女の縁組みをどこの
城代でも盛んに奨励したものである。
 だから、尾張や美濃などでも当時は、まるで年頃の娘がまだ嫁入らずにいては城と
して不名誉とさえ思われ、もう十三、四からさっさと縁づける早婚が流行した。
 そして、それらの娘の相手が城内で足りなければ、近在を探し廻っても次々と若者
を見つけてはあてがってしまい、後家になってる女でも、まだ子の産めるようなのは
腹を遊ばせんように、やはり後添えを都合してやって片っ端から娶せしてしまい、
「昼は田作り、夜は子作り。これがお国へ尽す御奉公の道だわな」
と訓示し、もし器量好みをするような面食いの男がいれば、組頭が樫の俸でトントン
地面をつつき、
「嫁っこは、ええ子が産める丈夫な身体さえしとったら、それでええ。面のことなん
か文句こくでねぇ。贅沢は敵だじょ」
と怒鳴りつけ、否応は言わせなかった。
 もちろん、やり口は城中のお長屋でも同じ事で、家中の娘が十四、五になれば、や
はり組頭が纏め役になって、順繰りに縁組みさせ、織田の実臣群の増加を心掛けた。
だから、女でさえあれば、どんな顔の娘でも次々と若いうちにみな嫁にもらわれてい
た。こと縁組みに関しては、戦国の世は女ごには良き時代であった。
 ところが秀吉の代になって、国内が一つに納まり、これまでの戦沙汰がピタリとな
くなり、平和になると、これまた娘どもには難渋な世になったらしい。
 もはや戦がないとなっては、何処も軍用の人手のいる見込みはない。
村方でも「検地だ」「差出しだ」と年貢の納税が厳しくなると、やたらに嫁を貰って
子を作っては養うのも厄介だからと、男どもが嫁取りを手控えしだした。
 それに、城内の組頭や村方の世話やきも、もはやその必要とてないから、どこの娘
が年頃になろうと前と違って知らぬ顔をした。そして、身内の娘でもない限りは、進
んでおせっかいなどしなくなった。
 だから、平和になったおかげで、とんと嫁入り口が前のように割り充てみたいには
来なくなったので、娘達はみな放りっぱなしにされ、自分で探すしかないらしい。近
頃では二十娘、三十娘もざらだという事である。
 それゆえ、家にじっとしていては、とても婿探しなどはできぬからと、この大阪城
なども、つてを求めて一万からの若い女が奉公に上っている。勿論表向きは行儀作法
の見習いだが、どの娘も思いは一つとみえ、慎ましそうに振舞いながら、
(自分でなんとか良い殿ばらを見つけ、射止められたら逃さずに盃事にもってゆこう)
と美々しく姿形を競争するよう装っている。

 それにつられ、見習っているわけでもなかろうが、えいも近頃ではせっせと京白粉
をつけ、山崎の香油で髪を艶々とさせだした。
酌をさせた日から目にみえて変わりだした。有楽も気になってしょうがなかった。
 なにしろ、狗ころみたいな童の頃から婢女に使ってきた娘で、これまで女として眺
めもしなかったのが、秀吉に死なれてほっとした開放感が、そんな形で出てきたのか
もしれぬが、有楽は、
(えいを抱きたい)
とも、時には感じた。
「どうだろう‥‥」
と、また酌にことよせて呼び、そっと相談するごとく打ち明けてみた。
なにしろ父娘ぐらいの齢の差もある。だから、有楽としては、酒に酔ったふりしてあ
たってみたのも、照れくさかったからである。
多分、
(まあ‥‥)
と笑いとばされ、断られるじゃろという気がして、前もって覚悟はしていた。
ところが、意外や、
「はい」
と素直にえいは返事をし、にこりと白い歯まで見せてきたのである。
「ほう‥‥まことか?」
信じられぬといった顔で聞き返したところ、
「前から、そない思うとりましたんね」
恥ずかしそうに身体をくねらせて言った。
(この娘は、おりゃに懸想しとったのか‥‥)
と考えると、少し心浮くものがあった。
 時によっては、あと三年すると、自分も死んだ兄の齢と同じになると考え、はたか
ら眺めると四十から五十の男はさも豪そうに見えるものだが、さて、自分がその齢に
なってみると、みかけだけは大坊主で憎ったらしいが、中身のほうは、とんと若い頃
よりかわりばえもせぬと、内心忸怩たるものがあったが、今はその反対で、この二十
二の娘の慕情の中へ、若やいだ心のまま溶け込んでゆけそうな心地だった。満ち足り
た気持ちになれた。

 抱え込まれると、えいは、わざと照れ臭いのか、視線をはずした。
胸元をひろげると、桜色の肌から草の実にも似た桃色の粒が、胸を動悸を伝えるよう
に震えていた。
 誘っても、すぐうなずく程だし、もう二十も越えているから、既に台所方の者にで
も挑まれ、一度や二度は裾を割っているものと思っていたが、えいの体はまだ硬かっ
た。
(こんな時、坊主頭に剃っていなければ、髪のびんつけ油が使えもしたろうに)
とあわてながら、有楽は咽喉がからからになってしまった。
 えいは、有楽が体をおしつける時はじっとしていたが、引く時には悶えるように歯
をくいしばっていた。そんなえいを覗き見しながら、酷い事をしているような気持ち
にさせられ、早々に打ち切ってはしまったが、何故、この娘が床へ入ってきたのか、
有楽は気にしてしまい、そっと娘の額にたれた乱れ毛を撫ぜつけてやりながら、
「えい、わりゃ、どうしたのじゃ」
と、いたわりながらも問い詰めてみると、
「もうしわけありませぬ。お役立たずで‥‥」
起き上がりかけたが、痺れたように肩しか動かなかった。
有楽は見かねて庇うようにして、
「よい、よい‥‥」
と、肩を押さえながら、まるで自分の娘にでもものを言うように、
「こないな事をなぜ‥‥そちから求めたのじゃ」
と詰ってみた。酔いが醒めてちょっぴり後悔していたからである。
 なのにえいは、
「お縋りしたかったんです」
とこたえた。
(死んだ秀吉からは役立たずと云われ、島下にいる妻や伜どもからは能無し呼ばわり
されとるこの俺でも、若い娘からみれば、そないに頼りがいがあるよう見えるものか
‥‥)
と、まんざらでもない心地になり、それならば気兼ねする事もなかろうと、有楽はえ
いの細い腰をまた抱えなおした。

「‥‥そう、そう、縋りたい頼みとは、いったい何じゃった」
己れが満たされたからには相手の望みもきいてやらねばと、有楽は声をかけた。
(‥‥小袖でも買ってほしい)とでも言うのだろうと思った。
なにしろ文禄の頃までは、若い娘はみな藤蔓や苧がら編みを着て、擦り切れたところ
から肌をのぞかせ、良いところへ縁づいた者だけが、三河あたりで国産されるように
なった木綿布子を着ていたものだが、近頃はすっかり派手になって、嫁入り前の小娘
までが唐渡りの生糸織りの衣を着て、昔はお歴々の女房衆しか纏えなかった山繭の被
衣を、女中ごときでもみな二、三枚は持っている。
 かつては女ごも弓をとり薙刀をふるって武者をしたものだから、<女鎧(めよろい)
>といって、胸あての裏側が柔らかくなったものさえあったのに、近頃は戦がなく、
それに嫁入り難ゆえ、そんなものより着飾る布子、化粧の品にばかり、どの娘も執心
しているらしい。
 だから、えいも他の娘達のように、やはり着るものや小遣い銭が欲しくての事と、
頭ごなしに有楽は思ったのである。
ところが、えいは、
「父や兄どもの仇を取って欲しいのです。それで旦那の殿にこうしてお縋りしておる
のでござりますよ」
と、有楽の体に自分から手をまわしながら訴えた。
「ひっ、殺されでもしおったんかのう」
慌て気味に聞き返してみると、えいは、
「天正十年、六月二日でござりますね」
と言った。
「えっ」
と、有楽は改めて自分でも驚くぐらいに甲高く面食らって大声を出した。