1160 信長殺しは秀吉か 10

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「やっと、少し謎の緒口が解きかけてまいりました」
と、八郎太がまた密かに訪れてきた。
 もと織田の家人で、秀吉の世になってからは、まるで置き去りにされたみたいに出
世もできず、大坂町奉行での書式方にくすぶっている八郎太は、源五が織田の一門ゆ
え、旧主の血脈として慕っているのか、時たま渡してやる銀が有り難いのか、妻に去
られてからというものは、人懐っこく、云われたとおりの事をよく根気をつめてそっ
と気を配りつつ探索してくるのである。
「なんでも‥‥誠仁親王様に、その昔お仕えしていた雑掌の男が、この六月の末に大
坂町奉行に捕えられ、投獄されたのが、どうも、このたびの事の発端のようにござり
ます」
 もう五十を越え、戦場で出て首稼ぎする気力も失い、生きている事を茶や連歌でう
さを紛らわしている男は、ゆっくりした口調で禿げあがった頭をつきだしながら、し
みの浮いた顔を前へつきだして報告した。
「なんの咎めじゃ」
早く話を聞きだそうと、源五は紙巾着から豆銀をつまみ出して、それを八郎太の袖の
中へいつもどおりにそっと放りこんでやった。
「これはこれは‥‥毎度、いたみいります」
少し照れくさそうに礼を言ってから、
「捕えられました発端は‥‥飲酒口論し人に怪我させたのでござります。次郎作と申
す者で‥‥この男め、黙って居ればよいものを、『先に、下の御所に奉公し、一品様
御目もじの者ゆえ、町奉行などへ捕えられる覚えはない。親王様執事に取次ぎしてほ
しい』などと、しきりに喚いた由にござりまする‥‥なにしろ、これが以前の事なら、
御所勤めの者では、京奉行に捕えられていたのなら、あるいはすぐ放免されたかもし
れませぬが‥‥なんせこちらは大坂。それに昔と違うて、関白様の世になってからは、
唐や韓から金掘りを多く呼ばれて、国内の金銀が夥しく産出。もはや、乞食一人おら
ぬ世の中となって、関白様を尊ぶ者はいても、御所を怖れ畏む者などは当節はあまり
ありませぬゆえ、いくら次郎作が喚いたとて放って置かれましたところ‥‥奇妙な事
をついに口走った由にござります」
「どない事を申しおったか」
「はい、『信長様殺しは、親王様のたくらみで、我はその手先を勤めたのじゃ』と、
騒ぎだしたそうにござります」
「えっ‥‥」
とばかり、源五もこれには、やはり驚かされた。
 人もあろうに、帝の皇太子。一の宮と尊ばれる一品誠仁親王が、兄信長の仇とは、
全く想像どころか思いもかけぬ話だった。そこでは半信半疑のあまり、
「何故、親王は織田の天下を転覆させる必要があったのか?」
と眉をしかめ咳き込んで訊ねた。
 昔、この八郎太は村井道春軒と呼ばれた京所司代村井長門守の手に属し、盲人取締
りの職(しき)屋敷の仕事を分担し、その担当の堂上公卿久我家へも出入りしていた
事を思い出し、何か知っているだろう、とせっついたのである。
 すると、八郎太は少し口ごもって、眼を奥の方へ引き込ませ、顎を引いてためらっ
ていたが、やがて、もぞもぞと、
「源五様、まこと、御存じではござりませなんだか‥‥」
あべこべに、むこうが聞き返すような口調で、じっと見据えられてしまった。
「知らん。教えてくれ」
吃るみたいな口調で、急き立てた。
「左様でございましたか。下つかたには、もう当時えらい評判でございましたが、源
五様のような御連枝様には身近すぎて、かえってお耳には入ってませなんだか‥‥」
と首をひねると、鬢の生え際に混じった白い毛が銀色に光って源五の眼を刺した。
「上様は‥‥」
と、信長の事を八郎太は、まず座り直して厳かに唇を尖らせ気味に口にした。
「天正四年、安土城へ入られた年の暮に、平の姓を名乗って受爵。内大臣にならせら
れ、翌五年の十一月、今の関白秀吉公が山中鹿之助を授けて、播磨の上月城を攻めか
けた二十日でござりましたが、これも、その翌六年四月、上月城奪還に毛利輝元が松
山まで出張って参りました頃に、たった五ヶ月ですっぱり辞任。時の関白の藤原晴良
が、すぐさま翻意を願い奉ったが、上様に置かせられては『あくまで、いやじゃ』と
仰せあって、御自身の官位一切を断られました。よって時の関白殿も責をとって辞職
仕りました‥‥」
 そういえば、世間では兄の事を「右府様」などというが、なにしろ天正四年から五
年にかねて、兄は内大臣になったが、すぐ辞めて右府にかわった。しかしこれとて半
年たらずしかやっていない。
 そして後は、いくら勧めにきても、兄信長は憤ったり苦笑いしただけで首を振って
いたのを源五は思いだした。
 そして、源五を見直すと、今でも(上様)と兄の時代を懐かしがっている八郎太は
正座したまま話を続け、
「よって、この年は暮になるまで関白も空位、右府も空位。ただ内府の二条明実と左
府の一条内基が気をもみ、備後鞍の津の足利義昭に教書を送り隠居させて、上様をも
って征夷大将軍の官位につかせようと骨折りしましたが、これには義昭も不承知。上
様の方も、
『去る永禄十二年三月二日にも、副将軍任命の勅を賜った事もあったが、義昭づれの
下風に立ったり、その後釜にと、今更将軍家などにつきとうはない』と、これにも難
色をみせられ、暮に九条兼孝が関白職をようやく勤めるようになってからは、是非、
なんとか上様を官途につけて御所の為を計ろうとしたが、ついに果たせず失敗。
 依って天正九年四月には左府の一条内基に関白の位を譲って自分は引責辞職。内基
はそこで改めて、<太政大臣>の最高位をもって上様を篭絡しようと計ったが、これ
とて上様は二月五日の初午の日にあたり、武田征伐に御自分も甲州出向の旨を仰せ出
されると、お出入りの近衛前久を代りに推して、これを太政大臣に、さっさとつけて
しまい、御自身は無位無官。野人のお立場で平気であられました。そこで、
『太政大臣の位は人臣としての最高位のもので、昔の平の清盛入道でさえ満足したも
のを、信長公は軽う思し召されてお受けなされぬは、やはり野望を抱いて居られるに
相違ない』
と一条内基は覚悟して、御前会議を開いたところ、もう四年ごしの懸案で、
『なんともなるまい‥‥』
と、帝も決意され、何とかせねばとのご意向を明らかにされたのでござります」
「ほう‥‥」
と源五は思わず吐息をもらした。
 話をきけば、うなずける事ばかりである。
全ては八郎太の云うとおりであろう。なんせ、<故右府さま>と源五なども口にする
が、それも本能寺の変の四年も前に、たった半年でさっさと辞職したままである。
 その後はずっと官職のないまま、平気で上の御所へいつも入り込み、天正八年には
力攻めで難攻不落の石山本願寺を勅諚をもって降伏させてしまい、翌天正九年正月か
らふれさせて、二月二十八日に御所の東に柳を植えて大馬場をつくり、ここで大馬揃
え、つまり主上を引き出し、堂上方にもあらためて信長の武威を見せつける示威運動
をして、叡覧に供したことがある。
 当日、
一番隊が丹羽長秀や摂津、若江、西岡衆。
二番隊が蜂屋頼隆や河内、和泉、根来、佐野衆。
三番隊が明智光秀に大和、上山城衆。
四番隊が総領の信忠、信雄、信孝の織田一門で、源五も馬乗りの武者十騎を従え、こ
れに美々しく加わったものである。
今にして思えば若かりし頃の晴れがましい思い出であった。
 さて、禁中の東門御築地より八町ばかりの所へ、主上の席を設けて、そこへ清涼殿
から出御していただき、兄信長は北国衆の柴田一党をはじめ国内の武者どもを揃えて
御覧に入れたのはよい。
 だが、信長自身は紅梅に白の段々と切り唐草の、目のさめるような小袖をつけ、上
に蜀江の錦。肩衣は紅どんす。腰に牡丹の花。襟に梅の生け花をさし、近衛前久、正
親町中納言、烏丸中納言、日野中納言ら、堂上摂家衆の中で、かねて腹心の公卿一同
を己が家臣として引き連れ、馬場を一廻りし、実力の程をはっきりと御所の人々に見
せつけたものである。
 しかも、三月五日には、今度はがらりと趣向を変え、信長は黒道服に黒笠の軍装で、
部下五百には新鋭銃を担がせ、また馬を揃えて禁中へ押しかけ、堂々たる武装行進を
みせ、今すぐにも実力で御所を占領する気構えさえ、お見せしたものである。
あれでは、主上も公卿も、信長の圧倒的な実力に縮み上がり、
(何とか思い切った処置をとらぬ事には危なかろう‥‥)
と思し召されたとて、まこと無理はなかったろうと源五は思いだした。
「左様な事情でござりましたので、上様の機嫌とりに、皇女のお一方さまを御跡目の
信忠様へ御降嫁。つまり公武合体の案をもって、六月一日の本能寺へ雨中にもかかわ
らず押しかけし者ら、太政大臣近衛前久、同伜殿信基。先の関白九条兼孝、今の関白
一条内基。右府二条昭実。以下聖護院、鷹司、今出川、飛鳥#、甘露寺、西園寺、三
条、久我、高倉、持明院、中山、烏丸、広橋、東坊城、花山院、万里小路、冷泉、四
条らと、堂上公卿が一人残らず、御所ならぬ西洞院の本能寺の客殿へ会し、数刻(四、
五時間)もかかって、あれこれと上様に懇願などなさって、そして自分ら公卿衆の身
の安全や保障を求め、それについて、あれこれとうるさい身勝手なお願いなどを上様
にお縋りなされたとの由に洩れ承りまする」
ぽつりぽつりと雨だれのように、八郎太は指を折って人の名前を思い出して並べては、
昔を偲ぶような、そのように説明をした。
「それで?」
心急くまま源五は後を促した。
「御当人の信忠様が、この事に関して上様から意向を訊ねられましたのは、その後、
つまり六月一日の夕刻。御所内部の事に詳しい村井長門守様お付き添い‥‥手前も当
日、本能寺御門前までお供をば仕りました‥‥さて、これはその時、表でお待ちして
いる間に耳に入った事でござりまするが、『‥‥もし岐阜中将信忠様へ畏きあたりか
ら御降嫁されると、その皇女様が女帝ということに次はなって、事実上は織田の天下
になるやもしれぬ。そうなると難儀されるは、次の帝になられる筈の誠仁親王様。こ
りゃ唯事では納まるまい』といった蔭話。そして、その翌日、夜明けと共に本能寺の
爆発にござりました」
「なるほど‥‥」
源五も思わず唸って答えた。
 なにしろ、むかし足利義満の時にも、太政大臣の徳大寺実時が辞めた時、義満がそ
の位の後釜を望んだが、
「平相国入道以後は‥‥武人には、その前例なし」
と断られるや、それではと、義満が腹をたててしまい、
「斯波、畠山を摂家、仁木、一色、佐々木、赤松らを、清華公卿‥‥鎌倉氏満をもっ
て征夷大将軍」
と立案して朝廷へ革命案を差出し、それまでの公卿共を、みな明国へ島流しにしよう
とした故事さえある。
 だからこそ、六月一日に摂政関白、太政大臣までが雨中に本能寺へ嘆願に行ったの
も判るし、また誠仁親王だって、おそらく、その前から公卿どもが自分らの身可愛さ
に、次の帝の自分を無視して画策していたのは前もって知っておられたのだろう。そ
れゆえに「親王が信長殺し」なら源五だって納得できる点が多い。
 もともと二条御所は、光秀が修理して親王様の<下の御所>となすまでは、死んだ
兄の信長が六条本圀寺を取り巻かれたのに懲りて、あの十三年前に数千の人夫を使っ
て堅固に築いた二条城である。だから天正元年四月に丹波亀山内藤衆五千の兵が、足
利義昭の為に篭城した際も、兄の信長は自分で堅固に作りすぎたため、攻める側に立
つと、周囲に四つの砦を築き、通路を遮って糧路を断ち、火を放って周囲を焼き払っ
ても、勅令が下って細川幽斎が行って開城させるまでは何とも攻め落とせなかった程
の城である。
 次いで七月になって、義昭が山城の槙島城に三千七百で立てこもり、側近の三淵藤
英に二条城を守らせた時も、信長はやはり力づくではとても攻撃できず、よって三淵
の異父兄にあたる細川幽斎をまた使者に遣って、辛うじて開城させたくらいの、きわ
めて難攻不落な城なのである。
 それなのに、あの六月二日。源五らが立てこもった時は、たった数時間で敢えなく、
まるで嘘みたいにあっさりした落城を仕方をしてしまったのである。まこと信じられ
ぬ話だが、バガーン、ドガーンと炸裂して皆吹っ飛ばされてしまったのだ。
(隣家の太政大臣近衛家の大屋根へ寄手が登って、そこから拳(こぶし)下りに撃ち
こまれたから、それで一挙に脆くも落城させられた)
ということに今ではなっているが、あの時、御所内にいて、つぶさに事情を見ている
源五としては、そんな事はあり得ない。もし隣の近衛の屋根から狙われただけなら、
反対側へ逃げていればすんだ筈だ。玉砕はしないだろう。
 落城の原因は、何と言っても強力な爆薬である。
当時、
(何者が、こんな凄い爆裂弾を放りこんだか)
と、皆が腹を立てて、
(忍び込んでやったからには、伊賀者を組下に持つ織田信雄ではあるまいか)
と論議され、信忠もそう思い込んで死んだ程である。
 だが、
誠仁親王が張本人なら、大爆発の謎は他愛もない。戦端開始の直前まで親王は御座所
として、あの御所内に居られたのだ。そして連歌師の里村紹巴が迎えの荷輿をもって
来て、はじめて上の御所へ動座された。だが、什器や荷物まで持ち出す暇はなかった
から、奥殿にひとまとめにして格納されていたのである。
 そして、そこに親王の雑掌(じそし)や舎人、衛士(えじ)の者が何人も居残って
番をしていたのである。
 その奥殿から大爆発。あちらこちらと吹っ飛び、一斉に煙が噴き出し、あっという
間もなく御所が跡形もなくなって、ただ、黄色っぽい煙に濛々と包まれ、難攻不落を
謳われた二条城が僅かな間に吹き飛ばされてしまって、焼け落ち、何処かへ消し飛ん
だ。
 だから、中将信忠以下みな怨みをのんで、討死とか切死というより、爆死を遂げて
しまったのだ。
(俺が刀をくわえて飛び降りてしまったのも、あれも不覚というより、やはりその、
ものすごい爆風に煽られての自殺未遂でしかない)
と源五は当時の事を忌々しく考えている。
 誠仁親王が家来の者に、
(頃合をみて隠してある爆薬に)
といいつけて出御されたものなら、いいつけどおり見計らって舎人や衛士が爆薬に続
く荷物に点火し、自分らは濠へとびこんで、はやいとこ逃げてしまったのだから、信
忠方にしてみれば、思いもかけぬ伏兵だったわけである。
 そして、当時、二条御所が開け放しの侭で、信忠の手勢を受け入れたのも、また途
中に邪魔をする要撃の兵が出なかったのも、これも今になって考えてみると何の事は
ない。爆薬を匿した二条御所は、<鼠とりの篭>に、初めから仕組まれていたのであ
る。
 洛中にあそこしか篭城するところがないのを前もって計算して、招き寄せるように
仕向けて、まんまと中へ入れてしまうと、親王はさっさと出御。残りの者が頃合を見
計らって、ドカーン、バーンと導火線に火をつけ、逃げ出したという具合のものらし
い。
(寄手の兵がもたついてだらしがない)
と蔑んでいたが、これとて、振り返ってみれば、<罠へ陥れた獲物>を急いで料理す
ることもないから、彼らはのんびりと構え、御所の内側からの出火を待っていたのに
すぎないのである。あまり近寄ってこなかったのも、やはり爆発するのを知っていた
せいだろう。

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(天正十年の六月のあの日、里村に迎えられ、上の御所へ移られた誠仁親王の命令で、
二条城を爆発させた‥‥)
という、当時の雑掌が「生き証人」として大阪城[の秀吉の許]へ引っ立てられてき
た。
「亡き織田信長様は、わが重恩のご主君。いかによし、御自分の尊い御方様にせよ、
主君の仇は共に天を戴けぬものと定まっておりまするが、これ武門の意気地というも
の」
と、兄信長の手で小者の分際から取り立てられ目を掛けられて出世した秀吉が、
「何人であれ、わが主君の仇は許すまじ」
とばかり忠義一徹なところを見せ、強硬談判したから、さすがに誠仁親王も切羽詰ま
ってしまい、ついに天正十四年(1586)七月二十四日、自ら生害を遂げられたそ
うである。
 これに関して、源五は二条御所の爆発は、ちゃんと居合わせていて、自分の眼で確
かめているからよく判ったが、まだ納得できないのは、
(光秀と親王との繋がり)
のほうである。これがわからぬ事には本能寺の謎は解けてこない。
そこで、あれこれと思案にくれていると、
「よきお方が見つかりましたゆえ、一緒にお連れ申しました」
と八郎太が、もと親王に仕えていたという梅香とよぶ三十二、三の女を伴ってきた。
 初め、自分では、
「命婦(みょうふ)の位で勤仕(ごんじ)していた」
と、すこぶる権勢な態度を見せていたが、源五が小袖の重ねと銀を一袋、目の前に積
んでみせると、まるで人が違ったように、その頬高で眼の細い女はにわかに愛想がよ
くなってしまった。
 そして、しなをつくるように、
「秀吉様が天皇に、弟の秀長様が関白に、そして駿河えびすの家康殿が将軍になられ
るのが決まったとかで、これからは、もう御武家様の世の中。とても公家(こうけ)
の者では、しゅせんうだつもあがりませぬ御時勢となりましたなあ‥‥」
と、お世辞のつもりか、そんなことをべらべら喋りだした。そこで源五が、
「そない噂があるのかや?」
と傍らに控えている八郎太にきくと、
「もっぱら、その噂でもちきりでございます。へぇ、源五様には、御存じでなかった
ので?」
と、逆に妙な顔をされてしまった。
(それでは、親王に詰め腹を切らせたのは、秀吉が兄信長への供養、つまり忠節な誠
意の志しだとばかり喜んでいたが‥‥この噂では、まるで何やら自分が位に上るため
に邪魔者を、畏れ多くも消してしまった感があるわい)
と、源五は割り切れぬ気持ちに襲われた。
 だが、梅香という、目の端に烏の足跡みたいな皺の浮かんだ女は、源五の感慨など
には、てんでお構いなしに、京紅の唇を大きくあけて、
「光秀殿へ、畏くも主上より、馬、鎧、香袋の類を、有り難い女房奉書と共に手交さ
れたのは、天正七年七月二十日のこと。よって御礼言上に親王様の許へも光秀殿が来
られたのは、たしか八月に入って早咲きの芙蓉の花が開いた頃と覚えておりまする」
と、まず話をし始めた。
 これは、丹波国の花背峠にある御蔵米の御領所の山国荘の事であるらしい。
というのは、大膳寮の御所の飯米を賄っている台所入りの、この土地を、花背別所に
宇津城を築いた宇津左近大夫が横領し、別所支配としてしまったから、禁裏御蔵の立
入(たていり)宗継の許へは、それからは、もはや一俵の入貢もなくなった。
 古来、別所・山所という地帯に限り上貢も課役も免除されるのが、七百年このかた
不文律だったから、いくら主上の御飯米とは申せ、別所の領分にされては、取り立て
不能で、遂に二年越しに、恐れ多い話だが、御口へ食される米が入らなくなってしま
ったのである。
 そこで、光秀は、十一年前の永禄十一年にも宇津左近と談合し、別所支配からこの
御料地を除外した事があったから、その時の旧縁で、また御所の宮内卿にあたる立入
宗継に頼まれたらしい。
 ちょうど、その前月に、ようやく丹波八上の波多野秀治を降伏させ、手の空いてい
た光秀は、また談合しても、こう繰り返して横領するのではしょうがあるまいと、部
下の者に云いつけて一息に宇津城を急襲させ、花背峠から別所者を追って、山国荘御
寮所を取り戻して御所へ戻すようにした。
 そこで、愁眉をひらき、ようやくほっとされた主上が、懇ろにその忠誠を褒められ、
褒美と勅語を、前例のない事だが、おん手づから光秀に直に賜ったのだ、という畏れ
多くもかしこい話だった。
 それに感激したのか、光秀は当時、義昭が逃散して空城になっていた二条城を修理
して、兄信長の許しを得てから、十一月二十二日に自分が奉行役になって住居に不自
由しておられた親王をそちらに移し申し上げ、これを二条御所と命名したりした。
 ところがである。
その年の山国荘は、せっかく回復したものの、収穫はあらかた、もう早苅りされて横
領されていた。
 だから、光秀は自分の米を坂本から御所へ納めて一時しのぎにし、翌八年十月六日
には己れの家来を派遣して収穫米を山国荘から直接に京へと運ばせ、これをまた禁裏
に改めて上納させた。
 御所では、三年ぶりの上貢米にほっとし、御蔵頭の立入宗継の手によって、内侍所
から誠仁親王の二条御所にまで配分された。
 ところが、思った程の量ではなく、行き渡らぬ端々も多いと聞いた光秀が、またも
見るに見かねて丹波の自領から米俵を取り寄せ、これを女中、末の者にまで十八日に
追加配給をした。主上も、いたく喜ばれたが、光秀から二条御所を世話されている一
品の誠仁親王も、大変にその厚意を嬉しく思われ、八月の末には、
「古今稀にみる皇室への大恩人」
として光秀を叮重に招待されたと、梅香は詳しく教えてくれた。
「どんな話をし合っていた?」
と源五が訊ねて見たが、
「さあ、そこまで立ち入っては‥‥」
 梅香はまるで小娘のように掌の甲を口のところへ持っていって、
「ほほ‥‥」
と声をたてて笑った。
 それでも、思い出してくれた処によると、その年内に四、五回、翌九年になると、
親王の方で微行で、明智の二条屋敷へ行かれた事もあり、繁雑に行き来が多くなって、
ちょっと数え切れぬくらいだ、というのである。
 さて、天正九年というのは、あの馬揃えをやったり、兄が自分から武装して、月華
門、日華門をぐるぐると銃を担がせた兵に駆け回らせ、示威運動をしていた年の事で
ある。
(そう言えば‥‥)
と源五の胸に浮かんだのは、山岡景隆の家人が洛中へ探りに行き、
「光秀の評判は大したもので、往昔の和気の清麿や、北畠親房、楠正成にもたち優る
大忠臣との噂が専らでございます」
などの報告を瀬田で聞いた事である。
 つまり、危険と思われていた信長を死に追いやったので、それを軽率に勘違いして
誉めたのか、かつて御所の飯米のために自腹まで切ったのを評判されていたのか、そ
こまでは判らないが、光秀を「大忠臣」と言った話は本当らしかった。
 が、それ以上、しっかりした手証のようなものは、女ごの梅香の口からでは得られ
もしないので、
「また、何か耳にしたら教えに来るよう」
と内密に頼んで引きとらせた。

6
 十一月に入ると二日に偶然ではあろうが、川上地蔵の堂宇と高野山の蔵王堂、吉野
山の大峰蔵王堂の三ヵ所が、同じ日に火を発して爆裂。消滅という椿事が起きた。
「無念の最期を遂げられた一品誠仁親王様の怨念が成仏できずに冥界をさまよい、天
から火の玉をあちらこちらに降らせ、三宝破滅、秀吉呪詛の祟りをしておられるのだ」
と、そんな噂がひろまった。
 三宝とは仏教の事だから、各寺院で密かに大施餓鬼などして、故親王様の御霊を慰
めにかかった。
 秀吉も己れに祟りをしてこられては迷惑と思ったらしく、ついに帝位は断念したよ
うである。
 十一月七日付という事に、怨念除けに期日を早めにして、二十五日丙辰の日を選ん
で誠仁親王の皇子和仁親王十六歳をもって帝の位につけ奉って、新帝の名によって故
親王の<怨霊退散>の加持祈祷が禁中と大坂城で盛大に催された。(のち、「御陽成
天皇」と申し上げる)
 さて、自分が主上になるのをやめた秀吉は、お祓いがすむと、少し未練そうに太政
大臣の位につく事で我慢したが、やはり不満だったらしく、その憂さ晴らしに、十日
ほどして天正十五年になると、いきなり元日に九州攻めを諸国大名に布令した。

 出陣は陽気が温かくなった三月になった。
源五も連れていかれ、四月に熊本城へ入ったが、五月に島津義久が降参して、あっけ
なく七月には戻った。それでも摂津島下郡で一万五千ほどの者を秀吉は、
「お手柄でござった」とよこした。
 そのかわりにというのはおかしいが、翌年四月、誠仁親王の皇子だった主上が聚楽
へ行幸された時は、鳥帽子をつけた萌黄の狩衣姿で、「源五侍従長益朝臣」として子
供みたいな前田利勝の横に並ばされた。
 利勝は本能寺の変の際、二条御所へ入る前に妙覚寺門前から美濃へ先に落された、
前田法印の伜で、今は既に五万石丹波亀山城主である。
 嫁は細川幽斎の姫だそうだが、於次丸秀勝の葬式が終って、源五が引上げた後、初
七日も待たずに、この前田利勝の親の法印めが亀山城主としてさっさと滑り込んだそ
うである。
 すると、あのとき[秀勝の葬式の時]細川の家老が城へ来て、何くれと家中の者に
指図していたのは、隣国の誼みではなく、既に後釜が、もう細川家の娘婿の親と内定
していたゆえ、それで膳立に来ていたのらしい。
 だからあの時、亀山城の城侍達が落ち着きはらっていたのも、もう跡目をそれとな
く聞かされ、家禄もそのまま安泰と教わり、安堵していたせいと思えた。
(於次丸秀勝は旧主信長の子で、しかも秀吉は自分がもらって十二歳から育てていた
養子である。それなのに何故こんな前田法印や、次いでその伜などを素早く後釜に決
めたのだろうか)
隣に座っている、間の抜けたような若者の横顔を覗き込みながら、源五はずっと考え
込んだものである。
(前田法印に手柄でもあれば別だが、あの坊主めは信忠から『三法師を清洲へ移すよ
う』に云われたくせに、何処かへ寄り道をしてきて、十日もかかって戻り、[岐阜]
城へも顔を出さず、二首名の吉村の邸に隠れていたきりであった。よって、三法師は
信孝が秀吉に降参するまでは岐阜城にいたのだから、格別これといって、何の役にも
たっていないんだ)
と思い出すと、妙な気がしてきた。
 何しろ他の城と違い、その丹波亀山というのは、六年前までは明智光秀の本城だか
らである。
 そして、養子の於次丸秀勝に逢いにゆくという名目で、秀吉はしょっちゅうそこへ
行き、「上様の無念ばらし」と称して、旧光秀の家人を探し出しては殺戮していたが、
そういえば前田法印や伜の利勝も、その伴をさせていたような気もする。
(それだから亀山の侍どもは、顔馴染の法印やその伜の利勝が新しい城主と聞かされ
安堵していたのだ)
と想出して合点がいったが、それと共に連想というのか、妙な事実にも気づいた。
 それは、同じ明智光秀の城の江州坂本を丹羽長秀に渡しておきながら、秀吉はそち
らへも泊り込みで出かけ、明智の遺臣を徹底的に探して殺していたが、天正十一年四
月、つまり本能寺の変から十ヶ月後に柴田勝家を倒すと、丹羽長秀を北の庄へ移して
しまい、丹波福知山から妻ねねの兄である腹心の杉原七郎左を呼んで城代にさせ、そ
れまで坂本城で光秀の遺臣狩りを手伝わせた長秀の臣の長束正家という者を抜擢し、
一躍福井鯖江の城主に取り立てた。
(その長束も今では江州口五万石の大名である。前田法印の方も、丹波亀山五万石。
こりゃなるほど、ぴったり同じ石高である)
と感心させられた。
 そして、源五は、
(世間では、とやかく云いもするが、秀吉はやはり信長の恩を忘れてはいない。協力
して敵の片割れと目される者を捕り殺した二人に同じ様に目をかけているのは、なん
といっても秀吉の誠意の現れ、まさしく兄信長にとっては忠義者というべきであろう。
‥‥なにしろ誰が蔭で操ったかは、まだ判然とはしないが、直接に手を下したのは紛
うことなく、やはり明智光秀の家臣共の仕業らしい)
と一人で満足した。
 そして、あの日、御所を囲んで攻め寄せてきて、わっしょいわっしょいと懸け声か
けて突きこんだ寄手の男どもの顔を、おぼろげながら次々と瞼に浮かべた源五は、
(あの連中をば‥‥国家権力を一手に握り、帝にさえもなろうとした程の男が、自分
の手で一人ずつ、供養のためとはいいながら斬り殺して仇討ちしてくれるとは、なん
たるありがたい事か)
と、しみじみ思うようにもなって、
(未だに信長に忠義を尽してくれる、この秀吉に奉公して仕えてやることが、信長の
弟としての儂の恩返しかもしれぬ)
と強く考えるようになった。
 だから、昔、佐々成政から越中の城で妙な事を囁かれたのも、今の源五には、
(あれは三十六の砦と五十八の山城を揃え、そのうえ倶利伽羅峠の天険によっても、
あの秀吉には勝てない成政が、癪にさわった鬱憤ばらしに、引かれ者の小唄として厭
がらせをわざとこの自分に吹き込み、たきつけたにすぎまい)
としか、思えなくなっていた。
(おりゃもこの際、大いに心を入れ替え、もっともっと秀吉に奉公し、扶持でも増や
してもらうべし)
と、まじめくさって考えたりした。なにしろ死に損ない自殺未遂した後というのは、
色々と名目をつけ、自分で納得しない事には、生きていく事自体が、なかなか億劫な
せいもある。


木村弥一郎

1
 天正十八年七月五日。北条氏の小田原城が落ちた。
一万五千騎を率いて参軍していた織田信雄が秀吉と衝突した。そして、引き上げてく
るといきなり、
「間もなく髪を剃り落とし、号を<常真>とつけた」
と四国の伊予から使いの者が有楽の許へ知らせをもってきた。
(なんとかして織田の天下に戻そうと、必死もっしで頑張ってきたが、もはや秀吉の
世はとても揺るぎもない。それで、とうとう、この八年間に信雄は精も根も尽き果た
しおったのか‥‥)
と憐憫の情を源五はもよおした。
そして、三十三の甥が頭を丸めるなら自分もつきあってやらねばなるまいと、そんな
気がして仕度を命じた。すると、
「暑気払いには坊主頭が涼しゅうて、およろしゅうござりましょうのう」
と上の伜の左馬助が言い、屈託なさそうに、「へへ‥‥」などと笑ってみせた。
(こやつ、からかっている)と源五は思い、
(どない気で言っておるのか)と、顔を覗きこんでやると、照れ臭いのか、さすがに
立って行ってしまった。
 昔、岐阜城で腕白をしていた頃と、てんで変わってもいない有様なのに、源五は、
(従弟の織田三十郎長頼に比べても、情けないやつ)
見送りながら顔をしかめて舌打ちした。
 三十郎というのは、織田上野介信包が隠居した後で、一万六千石の知行地を継ぎ、
三年前の九州征伐の時は、第七陣の二月二十五日出発にあたって、蒲生氏郷の千七百
に次ぐ千三百の軍勢を率いて出陣した異母兄の伜である。
 なにしろ兵力が岐阜城主の池田三左でさえ千名で、それよりも三百も多かったから、
すっかり評判になって、
「さすがは織田様御一門の事はある」
と、みな舌を巻いて感心し、噂されている男なのである。
 信包の所も上の子たちに早死にされ、織田三十郎は、たしか左馬助[有楽の伜]と
同年の筈だった。
 もちろん千三百の軍勢というのは、なにも三十郎の手勢というよりは旧織田の家臣
で、今牢人の者達である。
 懐かしい<木瓜紋>の織田の旗印の下に集まり、
「もう一度花を咲かせよう」
と陣借りに集まってきて、それだけの多数になったのだろうが、しかし、ということ
は、それだけ三十郎には彼らの夢を託すに足る器量があるのかもしれぬ。
(それに引き換え、あの息子めは‥‥)
と思うと、源五はやり切れなかった。
 なにしろ、昔から殆ど一緒に住まった事もない。秀吉の代になっても一万三千石の
旧領を安堵されている遠藤の実家へ、妻の佐紀が引き篭り伜どもを育て上げたから、
いつの間にか母親そっくりの子になってしまい、源五を父として見るより、まるで他
人よりも冷ややかな眼でいつも批判し、口をきくときには、決まってからかうような
言い方をしては、それで得意になっている。
というのは、なにしろ美濃あたりでは八年たっても、
(二条御所から自分一人裸で逃げた弱虫源五)
と、いかつい風評がいまだに根強く人の口に云い伝わっているものだから、伜どもは
親として源五を見る前に、<噂の男>として、離れたところからいつも冷たく眺めて
いるらしい。
 だから、何かの折にふれ、そうした目つきで扱われている己れを、時々ぴしっと鞭
打たれるように、源五だってはっきり意識してしまう。
 しかし、もちろん他人ではない。改まって、
「あの六月二日に、なぜ脱出したのか?」
ときいてくれるものなら、心底腹を割って自殺そこねた本当の事も話し、そして、<
信長殺しの謎>を解こうと焦っている自分は、この伜どもに協力して欲しかった。だ
が、むこうはとてもそんな態度は見せもしない。
 なまじ源五の口から話せば、弁解じみて見苦しい泣言になりそうである。そこで全
てが明瞭になってから、伜どもには打ち明けるつもりでいた。
 それだから、八月に摂津の国の島下の領地から大坂城内の屋敷へ単身で戻ると、そ
こで伜どもにも気兼ねなしに、つるつると頭を剃ってしまい、改めて「有楽」と、師
の利休居士から命名してもらった。
 利休の師にあたる北向道陳の書に、<有楽>という一軸があって、そこから名をと
ったのである。そこで、その掛軸をはなむけにと利休が贈ってもくれた。だから、そ
れに酬るような恰好になって、「織田有楽」となってからは、針屋宗和、三好実休ら
と共に、利休の高弟として聚楽第の中の利休屋敷にあって専ら茶湯指南に精出してあ
たるようになった。終には殆どつききりだった。
 すると十一月になって、同門の木村弥一郎の名が、また久しぶりに耳へ入ってきた。
秀吉の馬廻り衆から大坂城奉行になり、一品親王の雑掌を町奉行が押さえたとき、出
張って行って取り調べにあたって、それで大手柄を立てたというが、ここ一年ほどは
忙しいのか、とんと茶寄合いにも姿を見せぬと思っていたら、
「浅野長吉らと小田原御陣から、そのままお奥州の仕置きに行っているらしい」
という話が噂されていた。
そして、間もなく、
「法外な、えらい出世をされた」
と、みな羨ましそうに大層に評判しあった。
 なんでも、奥州の大崎、葛西の十三郡。つまり二ヶ国の太守に木村が取り立てられ
たという事である。
「人間の運とはわからぬもの。尾張伊勢二ヶ国の太守だった織田信雄様が坊主(ぼん
ず)になられ、その代り八年前には丹波亀山で雑兵ぐらいの卑しい身分に過ぎぬ木村
殿が、今では東北の土地とはいえ、二ヶ国三十万石の太守様‥‥さてさて世の流転は、
まこと厳しいもの」
と、来る者がよくそんな話しをした。
(とんだところへ常真も引き合いに出されるものだ)
と、有楽は苦笑いしつつ聞き流しにした。