1159 信長殺しは秀吉か  9

一品誠仁(いっぽんことひと)親王
1
 間もなく新年を迎えた。
ところが天正十四年(1586)の正月は、元日そうそう奇妙だった。
どういう風の吹き廻しか、真冬なのに東南から生暖かい風が吹き寄せ、陽射しも明る
く晴れ、暖かな三月頃の陽気で、小雨がきたがすぐ晴れ上がった。
 喜んで童らは外へ出て、昨日まで降り続いた雪で遊んでいると、午過ぎになって、
突如ぐらぐらときた。揺さぶられた。
 たいした地震ではなかったが、軒や屋根の根雪が温まって柔なくなっていた矢先な
ので、まるで揺り落されるように転げ落ち、俄かに大雪に見舞われたような恰好にな
った。
 二日、三日も快晴。すっかり春めいた時候はずれの暖かさが続いたから、落ちた雪
が飴色になって、ざくざくとけだし、草履ばきの者は難儀して、裏の金具をはった雪
駄沓にかえたり曲輪内でも藁沓を履いた。
 四日に、また地震の揺れ返しがあった。
だから初釜の茶寄合いの時でも、
「今年は、なんだか妙な事が起きそうだ」
などと、集まった者達が、そんな取りとめもない話をして不安がったりもした。
 正月二十一日、小牧長久手合戦の和議はできたが、
「別に戦に負けたわけではなし‥‥」
と、頑として大坂へ出てこない家康を手なづけるために、関白殿が妹御前を嫁入りさ
せる噂がきこえてきた。
 朝日御前といって、もう四十過ぎにもなる百所婆のような女だと蔭では云われた。
ずっと連れ添ってきた夫の副田甚兵衛に新たに五万石の加増が決まって、引き換えに、
朝日御前は大阪城へ連れ戻され、華やかな嫁入り行列を仕立て、五月に入って関東へ
下った。
 なにせ嫁様がよい齢なので、それを見劣りさせぬため腰元や侍女も若い娘は避け、
みな婆様ばかりを百名の余も集めたから、後家女や亭主持ちでも夫や子にあきのきた
古嬶が、みな応募して東下りした。
「とても古女房を五万石には売れなんがだが、それでもおかげで、お払い箱にでき申
した‥‥女房めが御行列に加わって行きおったおかげで、せいせいしましたわい」
 あまり口ほどに嬉しくもなさそうに、茶席へ来て報告する者もいた。どうも女とい
うのは案外に、夫には不平不満を抱いているものらしい。だから辛抱していても自分
が四十近くになるにつれ、倦きがくるのか無性に離婚したくなるものらしい。そこで
朝日御前様御供衆などという、まこと結構な勤め口ができると、これ幸いと、ずいぶ
んとも多くの古嬶どもが夫と別れ、せいせいしたように出かけたようである。
 利休屋敷へ集まる者の中でも、加田八郎太の妻をはじめ馬廻り格より下ぐらいの者
の妻女では、行ってしまった者が多かったようだ。
 そこで放られた夫の方は互いに興じあって、
(‥‥これでさばさばした。若い嬶を持とうではないか)
と、これ幸いに口では話し合っていたが、
(見限られ、放って棄てていかれたんだ)
という感じを内心は誰もが持っているらしく、喋るほどには、あまり、どうも、その
男も元気のよい顔はしていなかった。
 特に、その中でも八郎太は蒼黒い顔を人一倍引きつらせていたから、
(たまには遊びにでも行って鬱を散ずるように)と、
源五は銀などを、くれてやったものである。
 しかし八郎太という男は、初めのうちは見栄をはって、さも不本意なような顔つき
を見せていた。そして、
(大坂に天変地異が見舞ってくる)
という噂がいつとはなしに、かねてより広まっていたから、それに便乗して、
「評判に怖じ気をふるいおって、古女房は夫や子を見捨て東国へ、我が身可愛さに逃
げたのでござる」
と、自分のうだつの上がらなさのせいにはしたくないとみえ、流言飛語にかこつけ、
そんな言い訳をしていた。
 だが源五はそうした動揺のもとをなしている取り沙汰は、秀吉がこのたび拵えた黄
金の茶室に、その原因があるような気がしてならなかった。

 禁裏の小御所へ持ち込んで、この正月、恐れ多くも帝や皇太子誠仁親王その御子和
仁親王などをお招きして、秀吉が自分から手前したその茶室は、組立式の黄金の三畳
の家屋で、天井や壁から、明かり障子の桟まで純金。内釜、水差し、柄杓立、水こぼ
し、茶柄杓、茶碗、茶入、四方盆、みな純金で、猩々皮(しょうじょうひ)の敷物に
は黒地金蘭の縁をつけ、赤紗の絹幕をたらし、まこと豪奢なもので、見る者は「古今
絶無」と唖然とする。と言われている。
 だが、公然とは誰も口に出しては言えもしなかったが、これは質素を旨とする(わ
びの茶)の精神とは全く相反する違ったもので、足利将軍家時代の(ばさら茶)以上
のものだった。
 これまで村田珠光以来、ずっと必死に守り育ててきた(わびの茶)の運命が、秀吉
のために、もはや終わりとみえてきたようなものである。
 だから織田信長によって助成され、堺衆の手によって盛りたてられてきた<わび>
の者は、顔色を失って青ざめ、すっかり気病みした。
 利休屋敷へ集まる面々も。一体どうなる事かとおろおろし切っていた。
なにしろ、これは地震や雷よりもわびの茶湯を嗜む者共にとっては、揺るがせになら
ぬ変事だったからである。

2
「この七月の二十四日に亡くなられた一の宮様は、やはり病死ではござりません」
と、八郎太がこの前、源五から貰った銀の礼のつもりか、いきなり妙な事を吹き込み
にやってきた。
 一宮と申すのは、帝(正親町天皇)の御惣領の誠仁親王、恐れ多くも一品の皇太子
殿下である。
 この正月には秀吉の黄金の茶室で手前をうけられた殿下が、七ヶ月後に、おん齢三
十五歳で突然の崩御だった。
「疱瘡だとか、はしかだとか伝わっておりますが‥‥一宮様は、もう幼い頃にどちら
もすまされとるそうでござりました」
と八郎太は付け加えて声を落した。
「そうか。ああした病は一度すませておけば、もう罹らぬものか」
言われて源五もうなずいた。
(三十五にもなる大の男がはしかにかかって、一日でぽっくり死ぬ)
などとは、訝しすぎると、かねて思っていたからである。
 そして、その皇位継承者が亡くなってからというもの、しきりに源五の耳へも、
「次の帝は関白様」
つまり、秀吉が誠仁親王にかわって帝位に就くという取り沙汰がもっぱら聞え、
「豊臣天皇」
などと、もう大坂城内ではおおっぴらに口にされていた。秀吉に面と向かってへつら
う者さえいた。
 だから、八月七日には畏れ多くも。
(万世一系の皇統を今の世に到り、ここで素性も知れぬ者に奪われたとあっては、皇
祖皇宗の歴代の御霊にもうしわけなし)
と、常御殿から桜の御庭の廊下を出られた主上が、斎戒沐浴の上で紫震殿で生害をな
されようとなされあそばしかけたそうである。
 ところが、昨年の暮に丹波亀山城から連れ戻ってきた達子姫を、この二月に改めて、
九条左大臣道房へ三度目の嫁入りさせ、すっかり御所内に勢力を張り巡らしていた秀
吉の許へ、すぐこの知らせは届いたという。
 そこで、あたふたと駆けつけた秀吉は、清涼御門から飛び込んで、宜陽殿(ぎよう
でん)の陣の座から軒廊づたいに、西廂(にしびさし)から御殿へ上がりこみ、
「お腹を召されるなら、余人はかりず、介錯はして進ぜまするが、主上が自ら生害な
さる例など、これまであまり聞いたためしもない事ゆえ、錦小路の局をはじめ、お前
様ご寵愛の女房衆を、一人残らず素侭にひんむいて、磔刑柱にずらりと架け、後から
お供させ、あの世でも御不自由のないよう、お取持ちをしまする」
(つまり面あてに死なっしゃるなら、それ相応の仕返しは、して進ぜまするぞ)
と、天をも怖れぬ思い上がりようで、不敬至極にも、はったとばかり怒鳴りつけたそ
うである。
(なにしろ主君信長が死んで一年とたたぬうちに信孝の母、つまり信長の寵愛だった
板御前や、主君の伜の信孝の姫まで、ずらりと安土の焼け跡へ並べ、張付けに架けて
殺してしまう程の男だから、やりかねない事ではある)
と、主上もしばし躊躇していられると、すかさず秀吉は供奉の者どもを睨みつけ、
「刀剣、刃物の類は一切、主上から遠ざけぇ。もし粗相のあった者は、本人はもとよ
り一家眷属、みな六条河原で逆さ釣りに張付けてやる。みな忠義せんと許さんぞ」
大声で喚き散らしたから、慌てた側近の者は、主上の御手から剣をもぎ取り、神器と
して祀ってあった宝剣の類まで、皆一括して大阪城へ届けにきたそうである。
(‥‥おのれ、死ぬことさえままならぬか)
と主上は口惜しさに歯噛みされ、畏れ多くも食を絶って飢え死にをなさろうとしたと
ころ、
「そのような事を、主上がなされ遊ばされては、我らが磔刑にされまする」
と、驚いた女房衆達が、わいわい哭いて押し止め、ご寵愛の局達が寄ってたかって主
上に無理矢理にあつもの、すましものの汁などを口へ流し込み、とうとう断食の邪魔
をして食をとっていただくようにしたそうである。なんともいやはや、耳にするだに
畏れ多いことである。
「で、一の宮様は、なんで薨(こう)じられた」
訳知りらしい八郎太に、源五はそれとなく訊ねた。
一宮様が急死されたからこそ、跡目の事でごたつき、秀吉がとってかわって帝位につ
く話や、勿体なくも主上がおん自らの玉の緒を縮めようとまでなさるのである。余り
の事に源五も、
(己れ不忠の臣めが、逆賊の秀吉め‥‥)
と顔色を変えてしまった。すると、
「ご生害か、ご他殺か、そこまではわかりませぬが、その前後に伺候した里村紹巴の
話では、『親王様は、いつもに変わらぬ御元気だった。だから、次に日の前に急死な
ど、とても考えられもせぬ事である』と密かに洩らした由を聞き及んでござる。なん
でも‥‥切腹されての御自害との風評が専らにて‥‥」
とそんな具合に八郎太は恐れ多そうに声を落した。
「そうか‥‥」
うなずきっぱなしで源五は考えてしまった。
 里村紹巴の名に引っ掛ってきたのである。
源五は流行の連歌にまでは手が廻りかね、その門を叩いた事もなく、また弟子入りし
た事はないが、茶席などではよく顔を合わせている。
 ところが、この男を見かけると、どうしても昔の事を思い出してしまうから、源五
はいつも視線を避けている。
 というのは、この男を初めて見かけたのは、あの日、つまり天正十年の六月二日だ
ったからである。
 その日の朝、この男が白木の欅材の荷輿を担がせて持って来た。そして、いま話に
出ている親王とその皇子を乗せ、吾妻門からささと上の御所へと送り届けてゆく有様
を、その時源五はじっと己れの眼で石櫓から眺めていた。もちろん里村を見た最初で
ある。
 だから、つい、この男の顔を見るたびに、それから一刻もたたぬうちに、謎の大爆
発を引き起こし、粉々に吹っ飛んで死んでいった信忠はじめ御坊源三郎様や、他の親
しかった者の面影が偲ばれてならない。そして自殺し損ねて、こうして行き残った自
分がなんともやり切れなくなる。
(生き恥をいかいとる)と情けなく嘔吐しそうにさえなってしまうなってしまうから
である。
 それに、もう一つ‥‥この男には妙な話がある。
明智光秀が五月十七日に兄信長から出陣を下知されて、ひとまず近江坂本へ赴き、二
十六日に本城の丹波亀山へ戻り、二十八日から勝軍地蔵尊で名高い愛宕山へ参篭した
が、その二十九日にこの連歌師の里村紹巴がたまたま参詣に登山してきたから、光秀
が招き寄せ、西坊(にしのぼう)の茶室で主人の西坊も加え三人で連歌百題を、つれ
づれのまま催したということを‥‥聞き及んでいる。
 ところが、西坊は翌月の六月十五日夕方に食中りで急死している。つまり、その連
歌を五月二十九日にしたという三人の中で、現存しているのはこの里村紹巴一人きり
である。
 だから源五はかねてから、
(変である。いくら偶然にしろ、里村を交えての連歌百韻の会をやったのは、翌日が
出兵の日にしては、あまりにのんびりしすぎていて、話が奇怪すぎて合わなさすぎる)
と、ずっと疑い続けている。

 なにしろ、翌、天正十一年は閏年になって十三ヶ月だったから、当時の天正十年の
五月は小の月で二十九日で終り。
 だから翌日が六月一日。つまり一万三千の兵が丹波から出陣したと云われる日であ
る。すると、いくら光秀が横着であったとしても、出征するのが決まっていたら、ま
さかその前日にのうのうと愛宕の山頂で腰を落ち着けて連歌をやってはいまい。
 だいたい、そんな馬鹿げた事は、あの几帳面な性格では考えられもしない。
と言うことは、取りも直さず、これはどう考えても、光秀は翌日、出兵する心づもり
はなかったとしか思えない。
(知らぬ者は‥‥出陣する前に『武運長久を祈願するために勝軍地蔵へ祈る』という
考え方をするが、それは違う。兄の信長は『何処々々を攻めい』とは指図するが。軍
費は出してやらぬ。命ぜられた者が自分で金策をつけ、占領地から色々と献上させる
掠奪戦法だった。『愛宕山は金を借りる所』だからこそ、光秀も出陣を命ぜられて軍
費の融通に登山したまでである。そして、泊まり込んで連歌をしたり、おみくじを引
いていたというのは、金策がすぐつかずに待っていた事になる。つまり、光秀が軍資
金の都合をつけている間に、丹波亀山一万三千が勝手に金なしで出かけたとは、これ
はどういう事になるのだろうか‥‥)
 なにしろ、陣揃えを首名や軍奉行に任せっきりで、用意万端整ってから馬に乗る武
将もいるけれど、光秀というのは<明智軍法二十一ヶ条>まで発布している男で、な
んでも自分で点検までやらねば気のすまぬ男である。几帳面な性格の持ち主なのであ
る。
 それに、一万三千の出動となると、夕食一回、夜食一回、朝の提げ飯までみると、
一人一回二合とみて七十八石。丹波米は山国ゆえ担ぎやすいように三斗が一俵だから、
二百六十俵の米を炊きだして、それを握り飯にこさえて、喰わしたり持たせんことに
は、これだけの人間は動かせない。だから、すくなくも前日から仕度にかからねば間
には合わない。
 その外に、馬匹の世話から小者に持たせる槍、長柄をば武器庫から出したり、弦や
火縄の配分もあろう、というものである。
 どこでもそうではあるが、(陣揃え)だからと、法螺貝を吹き陣鉦を叩いて人集め
しても、戦仕度をしてくるのはせいぜい武者なみ以上の者である。あとは、大半を城
方で用意して、持たせるものは背負わせてやらんことには(手ぶらの方が楽だ)と、
素手で従軍するような者も多く、出陣するまでは何処の陣立ちでも眼は離せないもの
である。
 もちろん、そんな事は百も承知な、あの神経質な光秀が、もし「六月一日に出陣」
と、はっきり予定が立っていたら、自分だけ暢気にかまえた恰好でゆっくり金策のつ
くのを待って、山頂で連歌などしている暇はないはずである。

3
「五月二十九日の昼下がりより始めて、晩景(ばんげ)近くまでかかり百韻興行、こ
れを神前に奉納。惟任日向守、帰る」
と紹巴は証言しているそうだが、百韻とは百首だから、一人が三十三首とみて、一つ
の歌を二十分とみても、のべつまくなしに筆を走らせて作って、これには十一時間か
かる。
 ふつう百韻興行は、昼から始めても泊まり込みと定まっている。だから、晩景とい
っても、それでは午後十一時か十二時まではかかろう。
 それに云うまでもない事だが、愛宕の西坊というのは、町の中ではない。これは高
い山の上なのである。しかも京の空は六月一日は夕方から、まぁ晴れもしたが、その
前日の二十九日はものすごい土砂降りの大雨で、雷鳴さえ混じっていた。
 だから、日帰りのつもりで本能寺へ来た信長や小姓も、一泊に予定を変更したのだ
し、妙覚寺にいた城介信忠も、難儀だからこそ次の日の六月一日に訪れるのも、夜ま
で延期したのでもあろう。
 つまり、「車軸を流すような」大雨の中を、まさか夜中の十一時や十二時に真っ暗
な山道を、光秀は馬の藁沓が滑るのを承知で下山できるものではないということ。
 だから、「帰る」といっても、その日ではない。おそらく夜が明け雨が止んで視界
がきくようになってからの、つまり翌日ということになるだろう。
 すると、雨が京で降り止んだのは、たしかもう午後六時頃だったから、山はもう少
し早かったかもしれぬとみても、午後四時頃とみればよいだろう。ふつうなら愛宕の
山頂から篠村へ出て亀山までは馬を駆けさせると三時間近くだが、雨は病んでも二日
間の雨で道は濡れている。そうなると下り坂で駛らせたら滑るのは眼にみえている。
まさか五十五歳の光秀が面白半分に馬の尻を叩いて駆けるわけもないから、用心して
降りたら、倍の六時間はかかろう。
 すると、早くて、丹波亀山への帰城は午後十時過ぎという勘定になる。
ところが、その日、丹波亀山では雨が晴れると「すぐ陣よせ」と太鼓が打たれ、集合
の法螺貝がなり、午後五時には陣揃えをしたという。
 そして、馬堀の原から出陣したのは午後七時前で、道が悪かったから粂野へ出たの
が午後十二時、とされている。
 すると、光秀が丹波亀山へ帰城した時は既に城は空っぽで、誰もいなかったという
事になる。
 しかしである。まさか、取り残されたからといえ、光秀が泡をくって迷子になった
からと、後を追いかけて行ったとは考えられもしない。
(多分、安土から催促されて、一足先に中国路へ先手として重臣が率いて出発したも
の)
とでも光秀は考えたのだろう。
 なにしろ、行先が判っていて徒歩の軍勢なら、一日や二日遅れても、馬なら後から
楽い追いつけるから、それほど慌てふためきもしなかったであろう。
 といって、手勢なしでは身動きもできぬから、光秀は支城の坂本へ赴き、そこから
三千程の子飼いの連中を率いて翌朝つまり六月二日に進発したところ、途中で、
「洛中の本能寺が爆発炎上。二条御所も同じく火事勃発」
と連絡を受け、急いで上洛してみた。
 すると既に本能寺は吹っ飛び、二条御所もない。そこで善後策を講じに、当時の大
本営にあたる安土城へ行こうとしたところ、山岡景隆に橋を焼かれて立往生し、そし
てひとまず安全な坂本へと引き上げて行ったらしい。
 ここの情景は山岡景隆と直に山から見ている。
「人数が少なすぎるし、戦をしてきた後の武者とは見えない」
と、その時山岡も言っていたし、京で大変な事をやってきた者達なら、橋が渡れぬか
らと、坂本へ馬首を進めて戻って行くのも、考えようによってはおかしな事だった。
 本来なら、そのまま京へ引き返すか、でなくとも本城の亀山へ行くべきである。
(‥‥だからこそ、その後、自分を放り出して無断で出兵した丹波亀山を警戒して、
己が本城であるにもかかわらず、光秀は、その日から死ぬまで、とうとう亀山へは二
度と行っていない。これは間違いない事実である)
と源五にもうなずけるものがある。
 つまり、六月二日の午後になって、既成事実を押しつけられ、もはや抜き差しなら
ない立場になって、坂本へ帰って考えた挙句、六月三日から全てを己れのした事にし
て、彼はその後の行動を取ったのではあるまいかと思える。これならば、かつて越中
の城で、
「光秀はあの日、本能寺も二条の城も攻めてはおりませんぞ」
と謎めいた事を洩らした成政の言葉とも一致する。
 そして、源五があの日、石櫓から見たぶざまな戦かけひきの寄手の有様も、明智光
秀の采配でないものならば、さもあろうと納得できる。
 そして、六月三日から十二日までの期間、明智光秀とも謳われた程の頭の良い男が、
なんの方策ももたずに、ただ右往左往して周章狼狽、なすところを知らず、事前に何
の用意もしてなかったのを如実に曝け出し、醜態をきわめた当時の事も呑み込める。
 つまり、六月二日に本能寺を囲んだ一万三千の兵が丹波亀山へ勝手に引き上げてか
らは、彼の掌握下へは戻らず、兵力の不足をきたした光秀は坂本衆三千を本命にして、
それをその後、娘婿の秀満に渡して安土を守らせ、自分は旧幕府奉公衆や、新しく寄
せ集めた合計八千ばかりの寡兵で、秀吉二万の軍勢と円明寺川を挟んで山崎合戦をし
て、敗れてしまったのが本当らしい。
 だから、里村紹巴が、もし声を大きくして、
「光秀が愛宕の山を降りて亀山へ戻ったのは二十九日ではない。本当は翌六月一日の
昼過ぎか夕刻である」
と、はっきりさせたら、光秀が六月二日朝は洛中に入っていなかった現地の不在証明
も立つわけなのに、この男、あべこべに、後になって秀吉に呼び出されて、当日の事
を確かめられると、
(時は今、あめが下しる五月かな)
という、当日の百韻興行の冒頭の句だという光秀の懐紙を持参して<し>の字を消し
たり書き入れたりして小細工した。
 おそらく、この日の吟詠のものなら、ちょうど例の大雨が山の杉木立を震わせて、
ざーっと降りかかった時刻なので、光秀の軽い気持ちでの、最初の発句ではあるし、
まぁ、
(時まさに、ざーっと降ってきたが、これで、この五月も今日で終りかな)
といったぐらいな心やすい句だったらしいものを、さももっともらしくこじつけ、
「『時は土岐』つまり光秀の出身の土岐氏をさし、『土岐氏が今や、あめのした、つ
まり、天下を制圧する五月なり』と、これは計画的な企みを裏付しまする確かな証拠
と、推測できまする」
などと、まことしやかに陳述したところ、
「そのような逆心をみてとったら、なんで上様の許へ、すぐお知らせに行かなんだ」
あべこべに叱られ、そこで、消して、また書き入れてある<し>の字を指差し、
「初めは『天の下なる』とありましたので、うかつに見過しましたが、光秀が帰り際
に、『天の下しる』と、己れの本意を明瞭にして自分で加筆訂正していったものと思
われます」
と言い逃れ、処罰を免れたそうである。

(‥‥一体、どこの世界に、自分で後の証拠をわざわざ作りに発句を直す奴があるも
のか。おかしな事をいう‥‥得体の知れぬ男である)
と、源五はその話を聞いた時から、里村紹巴を疑っていた。とても常識では本当にで
きなかったからである。
 だから、かねて利休門下で、里村の方へも顔を出しているこの八郎太のような男に
は、源五はそれとなく銀などを包んで渡し、さり気なく様子を探らせていたのである。
 なにしろ、
(時とは、土岐の事である)
などと、里村はもっともらしく鬼の首をとったように言いふらし、てんで教養がなく
無学な秀吉あたりは、それを真に受けて、光秀も桔梗の旗を用いていたから、
(美濃は土岐の守護代が久しく続いていたから、美濃出身の明智も、さては本姓は土
岐氏であったのか)
と勘違いして、里村に言いくるめられてしまったらしいが、とんでもない事である。
 明智城を滅ぼし、明智一族を弘治二年に焼き殺したのも土岐頼芸の旧家人どもであ
るし、光秀の妻の実家、可児郡妻木城も、やはり土岐氏に滅ぼされている。
 もともと光秀は、土岐にはなんの係り合いもない。あべこべに反土岐派で不倶戴天
の旧敵である。
(何処の世界に、己れの実家や妻の実家を滅ぼした土岐氏のために、天下をとってや
ろうなどという、奇特というか、見当違いな馬鹿者がいようわけはない。
 もし光秀が、郷愁のように美濃の土岐氏を懐かしむ気があるのなら、元龜三年に松
永久秀の許から一度は美濃へ戻ってきた事もある土岐頼芸が、当時東国の安房へ漂泊
敗残の身を寄せ盲目になっていたのゆえ、稲葉一鉄の代りに自分が面倒をみてやった
方が、まだ功徳というものでもあろう)
と、なにしろ美濃に明るい源五は考えていた。
 それに、(天が下しる五月かな)といったところで、五月は二十九日の当日、その
日までで、泊まって夜が明けた翌日は六月一日である。だから、里村流の解釈をする
ものならば、これはどうあっても、
(天が下しる六月かな)でないと、話にも何もならない。
 そして、何故、里村という連歌師は、
(先代里村昌叱の頃から出入りして、眼をかけられ礼金も過分に貰っている筈の光秀
へ、何の恨みで、恩を仇で返したのか‥‥何故、どうして光秀に、もっともらしく罪
を背負わせねばならぬ必要があったのか)
 ずうっと疑問を抱いていたのだが、さて、八郎太から、
(‥‥里村から聞き出した話では、一の宮誠仁親王の死因が、どうもただ事ではなく
怪しい)
と耳打ちされ、どきっとした。里村と親王との間柄というか、繋がりをはっとしたよ
うに、源五はあらためて考えだしたのである。