1157 信長殺しは秀吉か  7

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 「永禄七年といえば、まだ二十一の筈だが、よくもこれほどの銀を蔵入りからごま
かして、汝という奴は盗みだせたものだのう」
と源五は綴りを返しかたがた、玄蕃允のいる天守まで行った。そして問題の箇所をひ
ろげて、癪に触るから突き刺すように指して決めつけてみた。
 なにしろ当時、岐阜城内にいた人間で、光秀に銀を送り届け、後日の蜂起に役立て
ようと、そんな深謀遠慮を企てる心当たりは、かねて兄信長を仇と狙っていたこの男
しかいないからである。
 だが、玄蕃允は首を振ってみせた。不本意そうに、
「人聞きの悪いことを云うな。その年はたしか信忠様に甲州の武田信玄の姫を迎える
話などあって。わしゃ甲府の躑躅ヶ崎の館へ使者に発ったりして、忙しかったんじゃ。
どうしてそんな暇があろうかい」
とうそぶくように、てんでとりあおうとしない。
 言われてみれば、なるほどそうでもある。だから、
「あの頃の蔵入奉行は誰じゃったろ‥‥」
仕方なく源五は矛先を変えてみた。
「丹羽五郎左の前だから多治見の岸勘解由よ。ほら、あの吝々したうるさい奴よ」
と、この男は眉を皺寄せていた。
「あれが金蔵番だったか。では銭一貫と胡魔化せん」
源五も言われて思い出し、苦笑させられた。
「なにしろ、あの頃はこの岐阜城の築き直しが大変で、『ものいりが嵩む』と、あけ
くれ口喧しゅう、岸の老人に云われ通しで、ろくに冬に炭さえも出なかった程ではな
いが、それに、ほら‥‥此処から追い落された竜興様が、長島の一向門徒を引き連れ、
この城の奪還に押寄せ、土地の美濃者は尾張人に苛められかけ困窮し始めていたから、
みな地侍が、それに呼応して加わり、そりゃ大変な勢いじゃったろう」
と、この男も思い出した。
「そうそう、おぼえとる。この岐阜城はこっちの一の丸を新築中で、囲がけの最中だ
ったゆえ、『築城前に奪い返してしまえ』とばかり、永禄八年の打ち込みも凄まじか
ったが、翌九年の時は、すぐ川下の州俣の砦まで、竜興側に焼き払われ、誰が出かけ
てもみな追い払われ、そこでな‥‥今の秀吉めが、やっと砦を築き直し、功名をしお
ったわ」
と思い出して、源五も合槌をうつと、
「あの時、初めての砦の頭にしてもらえた藤吉郎が、今では羽柴筑前守。それに比べ
ると、とんと我らはお前様の兄上が在世中はちょっと出世しなさすぎたなぁ‥‥」
玄蕃允はニコニコ初めて歯を見せた。
(この男、自分は岐阜城主になったからと思って、おりゃを見下して蔑んでいる)
腹の中で源五は息巻いたが、
(今はそれどころではない)と当時の事を一心に思い出してみた。すると、まさかと
は思いはするものの、心当たりが浮かび上がった。

 斎藤竜興の度重なる逆襲に手を焼き、すぐ、それに加担して攻め寄せてくる執拗な
美濃侍をなんとか慰撫しようと、兄の信長は先年、小牧へ自分が移った時も清洲へ残
してきたままで、ずっと別居の形になっていた奇蝶つまり濃御前を、こちらのニの丸
へ呼んだ。
 ニの丸は、稲葉山城とも言われた昔の井の口の城が、そっくりその侭で残されてい
た。
 だから、そこで生れ育った濃御前が懐かしがって移ってきたところ、東美濃の名門、
明智光継の孫姫にあたる血筋ゆえ
「土地者の姫がもどってきた」
と、ようやくの事で、美濃衆もそれで落ち着き、兄信長も後顧の憂いをなくして、そ
の翌年は上洛できたのである。
 その頃、新たに美濃で新知の扶持を貰った尾張侍が、占領軍の鼻息の荒さで隣接の
美濃侍の所領まで蚕食したり、商人までが美濃紙の取締座や、塩座、酒座にいたるま
で、その座中の美濃者を追い除け、自分らが一手で押さえて儲けようとしたので、も
め事が多く、公事訴えが多かった。
 兄信長は、その裁きや処理を、初めは美濃三人衆の輪番にさせていたが、それでは
尾張者の苦情が多く、といって、尾張者の長井甲斐にさせたところ、これもまた巧く
ゆかず当惑していた矢先だったから、もと犬山城主の家老で久地砦の中島豊後守を奉
行役にして、美濃に明るく人気(じんき)のある濃御前のニの丸で、
「まあ、あんばいよお、やれや‥‥」
と公事ごとや一切の取り決めをさせたものである。
 往時の事を思い浮かべているうちに、やっと、どうにか源五は心当たりがついてき
た。
 勿論、当時の源五は殿様の弟だが、新築できてからは本丸の方にいて、旧城のニの
丸へは余り行かなかったが、近習達から噂話は何かと耳にしていた覚えもうっすらと
ある。
(‥‥ニの丸で裁く公事訴訟は、ご奉行の中島様が、なんでも御前様に伺いを立て、
その指図どおりに裁可されるから、御前さまへの進物は夥しい。銭や板銀が鎧櫃に仰
山、もう溜まっとるそうじゃが、さてさて何にお使いなされるのじゃろ。お羨ましい
ことではある)
といった噂だった。
 もとより、なにも訴訟の為に便宜を計ってもらうための献金ばかりではなく、とこ
ろの者が清洲城で逼塞していた濃御前の噂を聞き伝え、
(生国へ戻ってこられてまで、不自由はさせられぬ)
と、めいめいに銭をもちよって、土地者の濃御前に届けていたのだろうが、莫大な額
が集まっていたのは事実のようである。
 もちろん、濃御前様の許へ集まった金は、これは奥向きの御手許金だから、倉入奉
行の岸勘解由の管轄ではない。だから、何に使われても差し支えはないのだが、そう
といって、その金を「何処へ費消したか」というような話を、てんで当時は源五は聞
き及んでもいない。
 するとである。その莫大な濃御前様の御手許金は誰も知らぬ間にいつとなく消え失
せているのだ。
(だから、この話は結びつく。銀六十貫を内密に、おそらく裏街道の山越しに、京の
十兵衛の詫び住居へ、そっと送り届けたのは岐阜城ニの丸に当時いた兄織田信長の室、
濃御前の仕業かもしれぬ)
と思い巡らすと、ぎくっとさせられるものがあった。
(目の前にいる岐阜城主になった斎藤玄蕃允利尭(としたか)は‥‥亡き道三利政の
末子。濃御前は、その一の姫。つまり二人はれっきとした姉弟なのである。すると、
当時二の丸にいた、この男は、姉の指図で秘密裡に銀の荷駄を送り出す宰領をしてい
たかもしれぬ)という疑いだった。
 茫然としたように、源五は吃驚した。愕然とした。
 だが、相手は素知らぬ顔で、家来が届けてきた文篭をひろげて、余念ないような顔
つきで丹念に黙読して、あくまでもさり気ないように装っていた。
 そのうちに鈴鹿あたりの空から稲妻が、ぴしっぴしっと弾けてきて、間を置いて、
ごろごろと雷鳴が雨を縫って響いてきた。
(今の立場では、なまじ強く決めつけては、おのれが不利になる)とも躊躇したが、
なにしろ童の頃からの馴染み深い男である。
 つい口をすべらせるように源五は、
「もう今となっては隠すにも及ぶまい。なんで姉さまは、こないに銀を送ったかや」
と言ってしまった。すると相手は振り返り、
「お前様にも、やっぱし姉様にも当たろうが‥‥」
と、そんな返事をしてにやりとした。
 言われてみれば兄信長の室ゆえ、そのような道理になるが、この男は、(光秀と濃
御前の繋がり)を、昔からよく知っているらしいのに比べ、源五のほうは、銀を送り
届けた事さえ、たった今やっと朧げながら感づいたにすぎない。とても(互角)など
ではあり得ない。
(これは何か隠してる)と源五は気づいた。

8
 天文四年に、この城に誕生した濃御前は道三の初めての女児だが、父は四十二の厄
年。母は小見(おみ)の方という東美濃可児郡の明智駿河守光継の三女で、時に二十
と三歳。嫁いできて二年目の事といわれている。
 道三が晩婚なのは、それまで旧主より拝領の深好野と呼ぶ女が側にいた為であるが、
小見の方の方はちょっと首を傾げたくなる年頃だった。
(なにしろ、普通でも十五、六歳を嫁入り盛りとし、姫ともなれば、十二か十三で輿
入れするのが当り前なのだ。話では、上の二人の姉妹はみな十四歳で縁づいている。
それなのに令質玉をあざむくと今でも慕われている小見の方だけが、なんで二十過ぎ
まで<行かず後家>の格好で、明智の城に残っていたのか、姉達の順からゆけば、ま
るで七年間も故意に婚期を遅らせていた事になるが、これは、はたしていったい何故
だろう)
考えあぐんで源五はさり気なく、
「姫の母御前はおいくつにて亡くなられたのかな」
と、烈しい雨だれの隙を縫って書見中の玄蕃允に、また声をかけてみた。
「たしか四十に一つ前と云うとったから、三十九。わしが五歳の時と覚えとる」
と書状をおいて、指を折り逆算して、
「天文二十年の三月の、はやり病じゃったな‥‥葬式まんじゅうで、やっと思い出し
た」
また笑って話をはぐらかそうとした。
「明智光秀が明智城を出奔したのも、その年と聞いとる。なにせ、その天文二十年な
ら、三月におりゃが親父様の織田備後守信秀どのも三日の晩に、はやり病で亡くなら
れとる」
と源五も言った。
 しかし、妙な暗合だが、別に係りはない話である。
 ところが、玄蕃允は狼狽したように、鼻の下の虎髭をこすりあげながら、
「光秀が明智城を出たのは、その五年後、弘治二年の明智城落城の時と聞いとるが、
違うかな‥‥なにしろ、童の頃で、その頃、もうわしは清洲へ居候に行っていて、と
んと美濃の事など聞いとらんが‥‥」
体よく肩すかしに逃げられてしまった。
 昔からまごつくと、上目使いに見返す癖があったが、今もえらそうに虎髭を撫ぜて
いるが、眼は下から掬い上げている。
(だが何故、光秀の出奔の年代を糊塗する必要があるのだろうか。小見の方が稲葉山
で死んだ年に、十兵衛光秀が明智城を欠け落として諸国流浪に旅立ったことが、どう
してそこまで隠さねばならない事柄だろう)
 指を折って、自分も逆算していくと、天文二十年なら、今五十五歳の明智光秀も多
情多感な二十三の若者だった勘定である。
 この男が言うように、五年後の明智城落城の時の出奔なら、光秀が二十八歳の時で
ある。
 斎藤道三の室、小見の方の在所だという憎しみをうけて、幾重にも包囲され火をか
けられ、明智一族は女子供まで焼け死んだ時に<孤児>の身をずっと育てられたと伝
われる光秀が分別盛りの二十八歳で、どうして砦を見捨て、自分一人だけが不義理に
も逃げ出せるのか、ちょっと考えられもしない。
 それに、あの山城で裾を囲まれたら、翅でもない限り空を飛ばねば脱出は不可能で
ある。
 だから、落城の時の出奔というのは、やはりこの男の嘘であろう。もう、その時は
光秀は城内に居合わせず、だからこそ、それで命拾いをして今日まで存命なのであろ
う。
 それから更に遡って勘定をしてゆくと、小見の方が、その明智城から嫁入りした時
には、光秀は五歳。当の小見の方は二十と一と逆算できる。
 つまり、小見の方の方が十六歳の時に、同じ明智城の中に孤児の光秀が、オギャア
と産まれ落ちていた事になる。
 といっても、まさか初めから孤児という事はあるまいから、生れてくる時には母親
はきっと側にいたに違いない。でないと出てくるところがない筈である。
 それに、大きな城ならいざ知らず、明智城は当時も二層もない小さな山城である。
だから明智一族といっても、せいぜい身内は数十人。子供を産むような若い女は、そ
う何人もいなかった筈である。
 侍女が産んだとか、端下女がこさえた子なら、まさか一族の交名(けみょう)には
入れまいから、やはり生母は、その何人もいない筈の若い女の一人に相違なかろうが、
さて、夫のある身なら、孤児を作る筈もない。すると、これは、未婚の姫となるが、
そうなれば、城内に唯一人しかあてはまる姫君はいない。それは三女の小見の方であ
る。
(‥‥おそらく末娘のわがままで、城内の一族の若者と契られ、祝言するやさきに戦
があり、その夫になる者が討死。よって、その後に光秀を出産してしまったから、子
供は父なし子になった‥‥そこで親の光継夫妻は、孤児の恰好で孫の光秀を育てる事
にして、五歳になった時、
「もう手放して別れても大丈夫じゃろう。それに多少の物わかりもしだしたから、な
まじ生母は側に居らぬ方が良かろう」
と、気のすすまぬ小見の方を嫁がせたらしい。だから、小見の方も子供を産んでいる
弱みがあればこそ、倍も年の違う、油売り商人から成り上がった道三の許へ我慢して
嫁入りをしたのではなかろうか)
 そう推し進めて考えてゆくと、もう一つ、思い当る事があった。
光秀という男は感傷的で、よく詩や歌を詠むが、その短冊を前に見た事がある。
あまり上手とも思えないが、光秀がすぐ筆にする自作の吟詠だそうで、
「よほど、お気に入りの作か。何か想出でも光秀様にあるのでござりましょうか。よ
く同じ御歌を、あちらこちらで拝見いたしまする」
と見せてくれた者も云っていたが、
(咲き続いている花の梢を眺め下ろしていると、雪みたいに冷たい山風に吹かれた)
というような文句のものだった。
 花の梢というからには、草の花ではない。樹木に咲く花である。それが続いている
というのは、先年、武田勢に乗っ取られた時に焼き払われ、今はないが、昔の明智城
には山桜の並木が上から下へ、大手門までずっと続いていたそうである。
 だが、これを人間の花に換えれば、もっと意味が簡明である。花の行列とは、つま
り小見の方の嫁入り行列らしい。
 三月だったそうだから、里ではもう暖かったが、明智城みたいな山中では、行列を
見送っていた五歳の光秀に雪みたいな山風が吹きつけ、凍りつきそうに冷えたのだろ
う。
 さて、である。
(女の子なら嫁入り行列は印象に残るものだろうが、男の光秀が、なんで水洟をたら
しながら、小見の方の行列をいつまでも、寒さに震えながらずっと見送っていたのか。
そして、四十年、五十年たっても、そのときの感慨をいつまでも忘れかね、郷愁のよ
うに思い出しては‥‥歌に託して己れの気持ちを吐露しているのか‥‥これは男性特
有の母体追慕でなくてなんであろう。だから、やはり二十三の時に稲葉山の城で小見
の方が死んだと聞かされ、それで彼は世をはかなみ出家するようなつもりで、明智城
から放浪の旅に出てしまったのだ。事によると光秀はどうも小見の方の隠し子らしい)
 雨がますますひどくなってきて、雷鳴が大きく鳴り響いたが、話の方も、どうやら
ぴしゃっと呑み込めてきた。
 そこで源五は雨の音を跳ね返すように、
(明智光秀‥‥濃御前‥‥斎藤玄蕃允。三人は父(てて)や母(かか)は違うが、ま
ごうことなき一つ兄弟じゃろが‥‥)
大声を出して決めつけようとした時に、
「殿っ」
と近習が折悪しく急ぎ足で入ってきた。
 源五がいるのを見かけると迷惑そうに眉をしかめ、ためらったが玄蕃允の近寄り、
低い声で急いで何やら耳打ちした。
 光秀か、内蔵介の早打ちの使者でも来たのか。伊賀守や主だった者がぞろぞろ詰め
かけてきた。
(惜しいところで‥‥)
と思ったが、仕方なく源五は座をはずして廊下へ出てしまった。

9
 長話の後なので尿意を催し下の厠へ入ると、板下の桶の隙間から竹網床を通し、
「源五郎さま、か‥‥」
と声がした。
不意の事なのでドキッとして出ていたものが止まった。
「‥‥いずれの者ぞ」
と源五は慌てた。
 こういうところに潜むからには、ただ者ではあるまいと下を覗きこむと、
「駿河は久能の者にてござる。我ら殿様は故右府様の弔い合戦にご出陣。よって、
『おみさまは亡き上様の弟御ゆえ、名主(みょうしゅ)として、火急、三州岡崎へお
出で下さりませ。鳴海の砦までお忍びあれば、そこよりはすぐさま御案内を仕り申す』
との、手前主人の口上にござります」
と、徳川家康からの招きの使者だった。そこで、
「よし、承知をばした。よしなに伝えい」
と源五は、つぼめていた股をひろげ、踏ん張ってそれに答えた。
(ここの城では遅く戻ってきた為に、あの男にまで軽く見られ、妻にも冷たくされと
るが、まんだ『織田信長の弟』という肩書きは、まんざら棄てたもんではないわい。
徳川でさえ弔い合戦には、おりゃを立てんことにゃ恰好がつかんのじゃ)
と気負立ったから、続きが雨よりも烈しく出た。
「‥‥では」
と、頭から浴びせかけられて驚いたのか、厠の下に入り込んでいた使いの者は、床下
づたいに、何処かへ潜って行ってしまった。
 厠を出ると、ぴかっと眼も眩みそうな稲妻がした。そして、続けざまに、どかーっ
と雷鳴がした。どうやら近くへ落ちたようである。
(この天候なら、土砂降りの雨にまぎれ今の使いの者も無事に立ち戻れるであろう)
と源五は、車軸も流すような横殴りの烈しい斜めの雨を見つめて思った。
 そして、何食わぬ顔で、今あてがわれている本丸の己れの部屋へ戻ってくると、や
にわに、
「なんで、お前様。せっかく朝餉(あさげ)をしてますのに、勝手に出歩かれまする。
塩汁が冷めて、また温めなおしをせねばなりませぬ。子供より始末の悪いお方じゃ」
出会い頭に妻の佐紀から、いきなり文句をつけられた。だが源五は、
(うかつには小用へも立てぬのか)と、がっかりして、
「悪かった」と言った。そして、
(女とは判らぬもの。織田家の全盛中は慎ましゅう三つ指ついて、おどおどものを言
っていたのに、今のこの変わりようはどうじゃろ‥‥前のおとなしいのが正体か。つ
んつんしとるこの有様がまことの姿なんじゃろか)
 源五は呆気にとられて、まじまじと濃い目に化粧したのが斑(まだら)になってい
る妻の顔を見直した。
 だが、考えてみると、二の丸にいた頃は、十二、三名の者を使って、妻はあけくれ、
銅鏡を日当たりの良いところへ置いて、髪をとかせたり、京白粉を塗らせて暮してい
たのに、こちらへ押し込め同然になってからは、使っていた女たちも恐がって暇をと
り、今は一人で子等の世話やきに追われ、普段は滅多にいない夫の面倒までみるのだ
から、忙しすぎて、血の道が頭へ逆さに上っているのかもしれぬと、少し憐れにもな
ってきて、
「すまぬ、玄蕃のところへ行って、それからは厠じゃ」
といいわけをすると、
「すこし御遠慮なされませぇな‥‥いくら昔は御家老でも、今は当美濃の国主で岐阜
城主斎藤玄蕃允様ではありませぬかいな‥‥お前様が前通りに心やすうものを云わっ
しゃるのが、家来衆が聞いても、とても聞き苦しいと、供物方(くぶつかた)より
『注意してあげなされや』と苦情がござりましたぞえ」
と、すぐに文句をつけてきた。
「ばかな。おりゃが、あの男に手をつき頭を下げてものを云うのかよ」
源五が面食らって聞き返すと、妻はうっすらと泪を浮かべ、恨めしそうに、
「お前様が昔ながらのおつもりで殿様に口をきかっしゃるから、その腹いせに‥‥こ
ない味噌がきれても、供物方は届けて下されず、汁も塩味。食べ盛りの子等が、これ
ではあまりに不憫でありませぬか」
と、せっかく白粉を塗った顔を、また崩してしまい、
(これも、夫の不了見のいたすところ)と、源五に噛みつきそうな眼を見せた。
(供物方というのは、台所奉行差配の米味噌を出し入れする料理方で、そこに睨まれ
ては、昔のように小者に買出しもさせられぬ今の境遇では、顎が干上がるおそれもあ
る)
と妻の佐紀は何詰するのである。
「搦手(からめて)から押さえつけ、おりゃを屈伏させようとは、あの男も汚い真似
をしくさる」
腹が減りきっている源五は(喰物で意地悪されている)と聞かされては腹が立った。
そこでうなずくと、
「まあ、辛抱なされませ。お前様さえ、ちゃんと殿様を立て、頭を下げなさるなら、
もとの二の丸へ戻して下さり、小者も侍女も呼び戻して下さるげにござりまする。な
んせ今のままでは子等がいじけてしまい、見るも憐れではありませぬかえ」
と妻は云う。
(なんで、妻にゆっくり化粧させ、子供等にもっと腕白させるために、男は下げたく
もない頭をペコペコ下げて、いやな勤めを強いられるのか。てんで割が合わんわい‥
‥男女も共に同じ人間じゃろが)
と源五はがっかりしてしまい、厠でたった今耳にしてきた徳川家康からの招きの話を
妻に打ち明ける気もしなくなってしまい、
(そうか、女ごというものは、己が容姿に可愛げがなくなると、まだ、可愛げのある
子供等をば身代わりのように矢面に立て、それで夫を己れの采配に従わせる。だが、
なんせ、うちの子等のような悪たれ坊主どもばかりでは、とんと可愛げのないのを妻
は知らんのじゃろか)
そう思いながら、白湯をかけ、もそもそした飯を息をつめつつ、かきこみながら、
(こりゃ、とても辛抱できんぞ)
と唸った。

 源五は腹ごしらえが済むと、土砂降りの雨の中を蓑を頭からかぶって、大手門へ出
た。
雨は濁流のように石段から泥水を噴きこぼし、逆巻くように奔流していた。だから、
番衆共も雨宿りに小屋へ潜っているらしく、あたりに人影もなかった。
 水が溢れて、海のように漣(さざなみ)が一面に波だつ長良川を横目に睨みつつ、
尻からげした源五は、烈しく雷鳴の轟きわたる河原へ向かって駆け出し、それっきり
蒸発してしまった。
 なにしろ、どんな事があっても六月二日の仇討ちをしなければ立つ瀬もない源五と
しては、とてもじっとなどしてはいられなかったから、そこで折からの豪雨をもっけ
の幸いとばかり、すたこらさっさと随徳寺を決め込み、いちはやく出奔してしまった
のである。なにも妻の佐紀を怖れて、というばかりではない。


奇蝶美濃御前(きちょうのうごぜ)
 天正十年六月十三日に三州岡崎を出立した徳川勢は、十四日に本陣を鳴海城に進め、
先手として西三河衆と呼ばれる三州吉田(豊橋)城主酒井忠次の八千が矢田川を渡っ
て稲沢から西南へ向かった。
美濃海津の今尾城主高木貞久の伜の貞利。
加治田の城を玄蕃允にとられた恰好の美濃加茂の佐藤石近の跡目佐藤六左衛門。
岐阜城の二番家老であったが斥けられた吉村氏吉の弟の吉村又吉郎。
といった美濃侍が人質を入れて徳川勢に加わっていた。
 だから、それら千五百の軍勢を預かり、織田源五郎長益は扇川にかかる中島橋を渡
り、三つ山に陣を敷いていた。
 萌木裾濃(もえぎすそご)の緑の濃淡四色に染め分けられた華やかな大鎧に、銀の
鍬立つけた大兜をかぶって、白房采配を握った恰好は、いくら借り物とはいえ、その
二日前に蓑をかぶって尻からげした姿とは似ても似つかぬ武者ぶりだった。
源五は眼を細め、
「うまい」
久しぶりに箸を握ったまま呟いた。
鳴海潟が目の前にひろがっているから焼蛤もよかったし、鯵の塩焼きも芳しかった。
舌の上で、ゆっくり味を堪能しながら、
(おりゃ、なんで、あんな料理のできん女ごを妻にしたんじゃろ)
と妻の佐紀の事を呆れたように思い出していた。
 これまでは時たま城へ戻っても、料理をするものが別にいたので左程にひどくは感
じもしなかったが、今度は召使いがいないから妻の手料理を初めて食わされ、驚かさ
れたのである。
(ひもじい時にまずいものなし)
などとも云うが、目眩がする程まで餓えてしまえば別かもしれないが、普通の空腹で
はやはり、うまい、まずいのけじめはつく。
 ふだん、己れの好きなものしか食べぬ源五のような男は、舌に合わぬと、いくら腹
が減っていても、てんで咽喉へ押し込めない。無理に呑み込もうとすれば嘔吐してし
まう。
 それなのに、妻の拵えるものは汁も菜も、ただ辛いだけで、味も何もあったもので
はない。
 仕方がないから、湯漬けでいつもかきこんで咽喉を通す。だいたい湯漬けというも
のは、黒米(げんまい)はどうしても口当たりがざらつき、いがらっぽいから、それ
で白湯をかけて流し込むものである。
 ところが、妻は子供らに食べやすいようにと、黒米を鉢で突いて白米(よね)にし
ている。つまり湯漬けにしなくてもよい飯を我慢して喰うために湯をかけるのだから、
まるっきし粥を喰っていたようなものである。
 喰うといえば、織田の血脈は、みな喰い意地が張って兄の信長もうるさいほうだっ
た。
 生れてから二十五歳までは尾張から一歩も出なかったから、魚といえば川魚しか喰
わぬ兄の信長だった。
 なにしろ猫でも尾張の猫の中には川の魚は喜ぶが、海の魚は見向きもしないのもい
る。と云われ、まるっきり他国の猫とはあべこべだそうだが、これも土地柄である。
 兄が生れた勝幡から甚目寺、清洲にかけての尾張の海部郡(あまごおり)[現在の
海部郡(あまぐん)]は、百姓が野良へ行くのにも舟で濃いで行くぐらいに、一間巾
の水路が縦横に流れていて、鮒や鯔(ぼら)の川魚が何処でもすぐ釣れるから、土地
の者は猫でも子猫と時からそればかり食して育っているのである。
 だから、川魚の鮎の塩焼きが喰いたさに、長良川に臨む岐阜城をとり、わかさぎの
生きた三杯酢が喰いたさに、琵琶湖へ安土城を建てた兄である。
 天正二年の高天神城が落ちた時でも、浜名湖の今切までは一気に駆けつけ、そこで
猟師に網をうたせ、腹一杯に淡水魚を喰って、それで気がすんで、さっさと引き上げ
てきた事さえもある。
 今年の甲州攻めでも、笛吹川の沿岸で生きのよい川魚がとれる所では機嫌がよかっ
たが、山路へ入ると途端に不機嫌で、一日でもたった魚は『におう』といって手をつ
けず、近習どもがすっかり手をやいたそうである。
 なにしろ兄が死んだらしいと伝わってから、いろいろ悪口がひろまってきたが、そ
の一つに、兄が初めて御所へ参内した時、行器(ほかい)所の大膳寮で四条流の包丁
頭が一番の料理を出したのに、兄がまずいと云い、二番目のものを持ってきても箸を
つけず、しかたなく雑仕が川で釣った雑魚の煮付の田舎料理を出したら、初めて大喜
びをした。
(つまり、それほど信長という男は下司であった)
という、ざん訴であるが、淡水の川魚しか食さない兄を知らぬからの、勝手な云いご
となのである。
 なにしろ、兄弟の父親の織田備後守信秀は、何十人もの妻を順繰りに持っていたか
ら、その死後も女どうしの軋轢が凄まじく続き、それを目の当たりに見せつけられ育
ったから、兄も源五も、織田の男どもは皆やっかいな色慾より、食慾のほうに専念し
たらしく、源五も女色よりもっぱら味覚を愉しむ方だったが、兄と違って諸国へ名代
に赴いていたから、それで海魚もおいしく食べられる。

 十六日には、津島の国府宮に酒井忠次の陣営が進んだ。本隊も鳴海から合流して、
一挙に上洛して決戦をする体制が整えられた。
「そのうちに進撃が開始されたら、鮮度のよい魚ともお別れで喰えなくなる」
と源五がせっせと喰い溜めしていると、十九日、まさに出陣という矢先になって、突
如、羽柴秀吉の使いという指物武者が馬をとばしてきて、
「さる十二、十三日の両日にわたり、織田信孝様を名主となし、秀吉軍二万は山崎円
明寺川にて、明智光秀を討ち破り、粟田口の刑場に首を晒してござる」
と、寝耳に水の知らせをもってきた。
「しまった‥‥」
誰よりも、それを耳にして口惜しがったのは、食にばかりうつつを抜かしていた源五
だった。
 もし美濃へなど来ずに、もう数日近江に止まっていたら、その弔い合戦に、晴れて
(信長の弟)として参陣できたのである。
(十二日は向こうも大雷雨で、小競合いが開始されたのは、雨が上がってからで、勝
敗は十三日の午すぎから日没)
と聞かされると、その十二日に飛び出してきた源五はますますがっかりして、
(せっかく雷鳴の中を岐阜城を抜け出してきたのだから、東の鳴海へ走らずに、反対
の西へ駆けてさえいたら、おりゃ、充分に戦に間に合って、恰好がついたものを)
と、かえすがえすも無念でたまらなかった。
(これでは、何のために死に損なって二条御所を脱出し、今日まで生き長らえたか、
てんで意味がない)
 くさりきった源五は、食べ過ぎて石みたいに固くなっている下腹を撫ぜ、癪に触る
から今度は介錯人を呼んでおいて、また割腹してやろうかと、すっかりくさくさした。
 なにしろ、自分の手勢としては千五百だが、徳川二万の名主として、晴れて上洛し、
六月二日の仇として斎藤内蔵介なり光秀なりの首級を兄の霊前に供え、そこから軍を
進めて美濃へ戻り、あの男を追い出すか降人させ自分が岐阜城主として納まる筈の、
せっかくのもくろみが脆くも夢になってしまったからである。
 味噌さえ出し渋った岐阜城の台所役人を、晴れて帰城したら縛り首にしてやりたか
ったのに、これも、やはりお流れで、全てみんな水泡に帰した。
 他人にはどうでもよいが、せめて妻子にだけは見栄を張り、好い恰好を見せてやり
たかったのに、すっかりふいにさせられたのである。情けなくなってしまった。

 すっかりあてが外れて源五が落胆していると、やはり此処まで出陣しながら思いも
かけぬ事態に見舞われ、あたら無駄な骨折りになった徳川勢の将兵も、さすがにみな
騒ぎだした。
「備中の高松城を攻めている最中に、毛利の大軍に出動され逆に包囲され、慌てふた
めき救援を安土へ求めてきていた秀吉が、そんな早く山崎で戦のできる道理とてない
‥‥」
と、みな口々に疑った。
 それは、先月十五日に徳川家康に従って安土城へ招かれた重臣はみな、十七日に、
その秀吉の急使が備中から早馬で到着したのを、自分らの眼で見たり、耳に聞いてい
たからである。
(そんな阿呆な話があってたまるものか)
と、誰もが顔を見合せた。
「勝ち戦をしてるなら、脱出し引き上げもできるが、負けかけて敵に包囲されていた
秀吉が、なんで‥‥どうして高松を抜け出せたか」
 この月初めまで家康の供をして堺にいて、よく情報を知っていた者達が、口を揃え
て首をふった。
「上様が本能寺で討たれたのは六月二日。いくら早く使者が備中へ行ったにしろ、着
到は早くても五日の夜だろう。毛利方との談合が、たとえ一日で片づいたにしろ、纏
めて引き上げには、丸二日は掛かるから、出発は九日すぎだろう。さすれば京へ近づ
けるのは、どんなに、いくら急いても十四日以降となる。
 それなのに、十二、十三日の山崎合戦とは話にならぬ。こりゃ定めし調略のための
趣向であろう」
と、源五の寄騎になっている美濃侍達も話し合っていた。
誰も山崎の戦は本当にしなかった。
 だから、秀吉からの使者の口上で、
「もはや、早々に御帰国あって、しかるべく」
と云われたが、次の二十日もその侭で全軍が居座って滞陣していた。