1156 信長殺しは秀吉か  6

 清洲城へ源五が移って、初めて四つ年上のこの男、玄蕃允を見たとき、当時奇妙丸
と呼ばれた四歳の信忠を背に乗せて広敷を、
「おんまに候」
と駆け廻っていた。
 奇妙丸に頭や尻を叩かれると、その頃十二歳だったこの男は、
「ひ、ひーん」
と物悲しげにないてみせ、奇妙丸が喰いかけの餅を突き出すと、
「飼葉にて候か。うまし、うまし」
はしゃいで背中の幼児を喜ばせていたものだ。
 だから、源五は初めのうちは、この男を家来筋から城勤めに上っている小姓ぐらい
に考えていた。
 そこで、まだ八歳だった源五も、(殿様の弟)という自負心から、奇妙丸同様にこ
の男をこき使った。てんで家来のように扱ったものである。
 なのに、黙々とこの男はいつも言いなりになっていた。
源五が木太刀でいたずら半分に滅多打ちに殴りつけ、瘤だらけにしても、泪の薄膜を
はったまま、じっとそれに堪えていた。
 日がたって、家来ではなく、この男は(居候)だと近習の者から教えられた。
しかし、意味が飲み込めぬまま、源五は名前かと勘違いして、
「居候、居候」
とよびつけて、木に登らせ下から竹でつついたり、時には自分が上から尿をひっかけ
たりして、子供の持つ残忍さを、あきもせずにこの男には繰り返した。
「美濃の大殿様御在世中は、嫁に来られた濃御前様の権勢が凄まじく、こちらの殿様
も小そうなって遠慮しとらしたが、今はてんで見向きもしやあせんで、あの子を苛め
ていやあても、怒らっせんわ」
と侍女達までが地言葉であの男を軽んじた。
 だから奇妙丸や源五の兄弟どもがした、いたずらや不始末まで、みんなこの男に押
しつけてしまった。そして、侍女共は自分等の落ち度になるぬよう、寄集まっては声
高に叱っていた。
「美濃のもんは山猿じゃ」
面と向かって罵り蔑む小姓もいた。
 この男が、
「兄信長の室、美濃から来たので濃御前と呼ばれる女性(にょしょう)の弟」
と、源五にも判ってきたが、侍女達の噂するように、里の大殿様が死んでからという
ものは、こちらの殿である兄がよりつきもしなければ声をかけられても返事もせずに、
全く無視しきっていたから、濃御前も己れの部屋に引き篭ったまま、滅多に廊下へも
姿を見せなかった。
 だから、(上のなすところ、下もならう)というが、殿様である兄信長の態度がガ
ラリと一変したので、侍女や近習も安気にこの男を馬鹿にしきっていた。源五達の兄
弟もそれを真似て、この男が堪りかね、べそをかくまで蜻蛉の翅をむしるような酷い
苛め方をしたものである。
 なにしろ、美濃御前が嫁にきて両国の矛楯は一時おさまっているものの、その前は
何度もこっちが押しかけては散々な目にあっている。
 つまり、城内の者は親や兄弟を殆ど美濃戦で失っていたせいもあるだろう。
だから、尾張の者にしてみると、美濃の人間はみな仇敵の片割れなのである。そこで、
よってたかってこの男は美濃への憎しみを小さな身体一つに受けていたのであろう。
 まるで下男扱いをされ、時には水汲みまでさせられていた。小さな手の甲に何本も
のひび割れさえ作っているのを源五は覚えていた。
 だから奇妙丸の側にいつもへばりついて馬になって這い廻っている方が、この男に
とっては苛められぬための隠れ蓑だったようである。それを思い出すと源五は同情し
たくもなって、
(あれだけ、よってたかってちょうらかされたり[名古屋弁で『馬鹿にされたり』の
意]、意地悪されたら、人間誰しも僻み根性が植えつけられてしまうわい)
と考えれば、まんざら判らぬ事もなく、
(それが陰に篭って爆発したのが、今度の事かも知れぬ。そうなると、この男は一味
ではなく首謀者。つまり斎藤家の忘れ形見なので、みんなに担がれ総大将となったの
だ‥‥つまり光秀を指図していたのは、こうなると備後にくすぶっている足利義昭で
はなく、実は美濃岐阜城にいたこの男だったのだ)
と、そこまで煎じ詰めていけた。
源五は呑んだ酒の酔いもすっかり醒め切ってしまった。

「あなた様は城中の者を油断させておいて、わたしら母子を連れ出すか、逃がして下
さる存念でござりましょうが‥‥わたしの親兄弟はもとより、姉の婿殿も眼と鼻先の
大垣城‥‥決して案ずる事はありませぬゆえ、貴方さま、お一人でこの城を欠け落ち
なされませ。いつでも密かに御発足なされるよう、旅の仕度はできておりまする」
妻の佐紀は織田信長の弟にあたる夫の源五の身をやはり案じて、
(自分達は放っておかれても大丈夫だろうから、この反織田の旗織を鮮明にした岐阜
城から脱出するように)とすすめながら、
「吉村様邸内に前田玄以様が昨夜より隠れていなさって、ぜひ貴方様にお縋りしたき
旨、小女がそっと人目をしのんで知らせに参りましたぞえ」
と、低い声で囁きかけるようにつけ加えた。
 吉村又吉は、「二おとな」とよばれる次席家老で、主席家老の斎藤玄蕃允が新領主
に納まったのが面白くないとみえ、六月二日までは何くれとなく玄蕃允に助力してい
たくせに、翌日からは病気だと休んでいる。と源五は、かねて耳にしていた。
(そこに前田法印が密かに隠れている、とは面白い)と、だから源五は考えた。
 あの二日の朝、妙覚寺を出て二条御所へ移動する時、信忠は薬医師として陣中に伴
ってきている前田法印を呼んで、
「今からの戦は傷を手当をする暇もあるまい。それゆえ、無用の者が篭城する事もな
い。よって、そちはこれからすぐ岐阜城へ行け。余にもしもの事があれば、美濃者は
尾張人をひどく憎んでいるゆえ、三法師や下の赤子の身が案ぜられる。よって、着到
次第すぐ尾張の清洲へ子らをば移すよう」
と言いつけ、金蘭の黄金袋を渡していた。
 そこを源五は眺めて、見知っている。だからつまり、信忠の本陣を離れたのは源五
より前田法印の方が半日も早かった筈である。
 それなのに、源五は瀬田、石山寺と廻って、ようやく昨十日の朝にこちらへ辿りつ
いたばかりだが、一直線にかけつけるべき前田法印も昨夜の着到ときけば、道中で何
をしていたかと首を傾げたくなる。
(‥‥京から岐阜までそんなにかかるはずもない。あの坊主め、どこへ寄り道してき
たのだろう。それに、玄蕃允にこころよくない今の吉村又吉を誰に教えられて密かに
訪ねてゆき、何故そこに匿われているのか)
と、美濃へ初めて来たにしてはおかしすぎる前田法印の行動に、妙な疑問をもち、
(あの坊主めの仕事は、三法師を清洲へ移すことだから、本来ならもそっと急いで早
う着到すべきなのに、のんびりかまえてきたとは、こりゃ、この城がもうあの二日の
日から玄蕃允に押さえられ、慌てて駆けつけても所詮は間に合わない。とても独力で
は連れ出せぬと、誰かに教わってきたのに違いない)
と、すかさずそんな判断も下した。
そして、
(まさか、この俺に密かに逢いたいと申し込んできたにしろ、『三法師を盗みだして
くれ』とも頼むまいから、ありようは玄蕃允の新領主を好まぬ者を糾合して、謀叛に
謀叛をして、この城を奪い戻し、三法師を手に入れる算段らしいが、まさか吉村又吉
の手勢だけでは何ともなるまい。すると、他に加勢が来る事を意味するが、その前田
法印をずっとこれまで引き止めて相談し、蔭で操っているのは一体何処のどやつ‥‥
誰じゃ)
と考えると、やはり美濃での大物は、本能寺で討死したと伝わる森乱丸や力丸、坊丸
の長兄の「森長可」しか、まず考えつかぬ。
 甲州平定後、武田の遺領の信濃四郡を得て、川中島の海津城にいるわけだが、前の
美濃可児郡の金山城は森乱丸が貰っている。
(‥‥さては、おのれめっ、これが黒幕なのか)
と、しきりに思案をめぐらしていると、
「前田玄以殿の話、どのようかは、存じませねど、この際、あまりかかわり合いにな
らず、おん身お一つを大切になされませ」
妻は考え込んでしまった夫、源五を心配して、己れの口から言い出した事なのに、玄
以の話は取り消してしまい、
「しっかりなされませ。大切な時にござりまする。貴方様にうろたえ、しくじられて
は子供らの行く末にかかわりまする‥‥玄蕃允様の父君道三ほどの豪傑でも、うかつ
に鷹狩になど出かけたばっかりに、無惨やお子二人は殺され、末子の玄蕃允様とて‥
‥今まで散々ご苦労続き。なんせ父親がだらしのう、へまなされますると、あわれ子
供らの生涯が酷うなりまする」
下げ髪を揺すって、ここを先登と意見する妻の声に、聞かれている源五はうんざりさ
せられた。
 初めは(夫の身を案じてくれる、けなげな妻よ)と思い、(これでこそ妻にも逢と
うなって戻ってきた甲斐があったというもの)と、少しよい心持ちになって満足して
いたが、よく聴いていると、なにも夫の心配ではなく、(夫が自重して賢明に立ち振
舞ってくれぬと、子供等が先行き、父親のせいで難儀する。よって子供等の将来の事
をよく慮って行動しろ)というのである。これでは、まるっきりお説教でしかない。
案じられているのは何も<夫>ではなく、己れが産んだ<子供>の方だけだった。妬
くわけではないが、つまらんと思った。

 源五は眠れぬまま、その晩いろんな事を考えたところ、あの男、つまり斎藤玄蕃允
が世をすねているのは、あながち子供の頃に清洲城で苛められたせいばかりではなさ
そうだと気づいた。
 あの男は親父が偉すぎて名前が轟き渡っているから(多少の働きをしても、とても
追いつくまい)と考え、それで、
(どうせ俺は不肖な伜で比べ者にはならぬ)と、諦めきって、全てを放り出していた
ところ、俄に魔がさしたというのか、
(ドカーンと一発。天地をひっくり返そうなど、えらいことをしでかして、土地の美
濃者をば喜ばせ、親父以上の男になろう)
と気張ってしまったのが、今度の出来事ではあるまいかと、そんな気もした。
(‥‥なにしろ美濃は岐阜城下の加納、柳ヶ瀬一帯の座衆と申す問屋も、みな清洲や
小牧から引き移ってきた尾張者の店ばかりで、尾州人の多いところは<楽市>といっ
て貢銭も取らぬ。そのかわり美濃人には夥しい軍費を容赦なく振り当て、役人もみな
木曽川を越えてきた尾張人ばかりで、情け無用に米粟をとりあげ、軍夫に女まで狩り
出していたから‥‥よって、その怨みをはらすべく、美濃の反乱は明智光秀や斎藤内
蔵介を先手にして勃発したものだろう)
と、考えを纏め上げて源五は眠った。
 だが、朝になったとはいえ、まだ眼もさめずに、うとうとしている矢先、二間先の
子供達がもう起きだしたらしく騒ぎ始めて源五の朧げな頭にガンガン響いてきた。
「うるさいのう‥‥」
と舌打ちしながら、ふと源五は二条御所で一緒だった玄蕃允の一人息子の鎧姿を想い
だした。
 十七歳の斎藤新五郎は、あのうす茶っぽい濛々した煙に包まれ、彼処で討死したの
だと、源五ははっとさせられた。
(‥‥いくら親が名をあげたいと気張ったにせよ、己れのたった一人の伜の新五郎を、
あの男が自分の売名のために棄て殺しなどできるものだろうか‥‥こりゃ何かが別に
ある‥‥そうでのうては不条理じゃ)
と、掛け布を頭からかぶったまま思案した。
(そういえば、あの時、『安土から二万の救援がくる』などと嘘をいいふらしたのも、
『火がついたが消せない』と呼び廻っていたのも、みなあの男の伜の新五郎だった‥
‥親から言い含められ、死ぬ覚悟で最初からいたのだ‥‥すると、これまで耳にした
事もない、あの天地をつんざく大爆発を仕掛けたのも、あれの仕業かもしれぬ)
と疑惑が渦をまいてきた。そして耳の鼓膜が破れそうだった爆音を蘇らせながら、
(‥‥道三と義竜に父子喧嘩させたのは信長の謀略)
と、あの男が言っていたのを改めて又思い出した。
(そんな莫迦な‥‥)
と一笑にふして、耳も傾けなかったが、どうもこうなるとひっかかるものがある。何
か関連がありそうにも思える。
 源五は起き上がり帷子を着ていると、急いで手伝いに妻は近寄っては来たものの、
「なぁ、早まった事はなされまするなよ。なんせ頑是ないあの子らが不憫にござりま
するでのう」
と駆け廻って遊んでいる子供を指差して、また念を押した。
しかしそれどころではない。
(あんなうるさい子供が何で憐れじゃ)
眠いところを騒がれた忌々しさに、口まで出かけたが、源五は止めにした。
 唇を曲げたまま広敷へ出ると、天守へ昇って玄蕃允の許へ急いで行った。
そして、板戸をあけて顔を合わすなり、源五は、
「昨夜の話、途中だったが‥‥加治田の城は、川辺へかけて猿啄(さるばみ)衆の巣
じゃろうが」
と、思わず歩きながら考えてきたことを、つい口早に云ってしまった。自分でもしま
ったと思った。
 それなのに、意外にも相手は、こくりとそれに頷いた。
だから口に出した方が、あべこべにさてはと驚き、
「げえっ」と源五は唾をのみこんだ。

5
<猿啄衆>と呼ばれているのは、美濃加茂郡蜂屋川流域の、上、中、下の蜂屋の別所
で、古来、甘みの素である山蜂(やまんばち)の巣から蜜をとるのが慣わしで、部落
も蜂の習俗にならい、戸ごとに女が女王蜂の如く主人で、何人も亭主を抱え、その他
の男は奴(ど)と呼ばれるか、狗みたいに「ちょっ」と呼び棄てられて、「何千代」
と名乗り、いわゆる働き蜂並に生涯労役に服する所である。
 なにしろ生殺与奪の権は全て女が持ち母系家族で、公けの年貢も人足割当ても延暦
の昔からない別天地である。
 そして渋柿のしぶを抜いてしまったものを甘味用に蜂屋柿と称して売り歩いたり、
山から出る砂鉄で肥田瀬から安桜山にかけては、鋳物や鍛冶が盛んである。なにしろ
別所の入り口に関があったことから、俗に<美濃の関もの>と呼ぶ孫六銘の刀剣も鍛
練しているが、稼ぎの銭は、白山権現か薬師堂へ納められ、一切は、やはり女ご衆支
配。もし、それに叛くような不逞な男は、人買いの手で他国へ売り飛ばされてしまう
ような格別の土地柄で、他村とは全く婚姻も付き合いも一切しないから、<村はちぶ
>などと言われているが、ここの男どもは、幼い頃より口やかましい女に厳しく躾ら
れ、「どんな辛抱もできる」といわれ、応仁の乱このかた戦には重宝がられて人買い
の手で集められる。
 素手でくるのが<すはち>、法螺貝を持ってくるのを<らっぱち>というが、織田
の家中では<素破(すっぱ)><乱破(らっぱ)>とよんでいた。
 なにしろ、戦が終わって部落へ戻されると、また女ごしゅにこき使われ、ろくに喰
うものも貰えん境遇なので、戦の時は、それらの者どもはみな、
「死んでも惜しゅうない命じゃ」
と、実にめざましい働きぶりをしてみせる。
 だから、手柄を立てた者を、
(そんな、男の苛められる里へ戻してやるのは不憫じゃ)
という事になって、部落の女主人に身代銭を遣わして、家臣の端くれに取り立てなど
もした。又、そのため彼らも必死に働いた。
 だから、織田家中では、蜂屋頼隆が、その支配頭のような差配をしていたが、山に
篭る蜂の者が一揆を起すのを「蜂起」、彼らが山から山へ合図の火を焚くのを、「蜂
火(のろし)」というくらい、彼らの勢力は大きなもので、仏門へ入った者でも、西
方浄土とは反対の東光系の薬師寺の信徒であり、俗に鉢、八弥、などとも当字をされ
ている。

「その猿啄衆の、はちやが、何としたと、おぬしは言いたいのかや」
 永禄七年に、この城をようやく落した時は、兄が彼ら蜂屋衆を使って、瑞竜寺山か
ら火矢をとばしたり、城下へ潜入させて風上から放火させたのは知っていたが、その
ずっと前の事までは源五は聞いてもいないから、何も知らずだった。それなのに玄蕃
允は、
「はちやの男どもを女主人より借りだして、おみさまの兄じゃの信長様は、ずうっと
調略に使っていたのでござる。それじゃによって、後日の生き証人を押さえておかね
ばなるまいと、蜂屋部落は貢もとれぬ所ゆえ支配地には入らぬが、それを含む加治田
の城を、わざわざ‥‥なにも御存じない信長殿から、わしゃ何食わぬ顔で頂戴し、今
日まで温存してまいったのでござるよ」
 言い訳がましく、くどくど云ってから、玄蕃允は立って行って、自分から渋紙張り
の文筥(ふばこ)を抱えてくると、伏し拝むように蓋を開けた。そして、
「当人どもは、まだ存命なれど、古い事ゆえ、一応は口がきをとってござる」
と云いながら、中から美濃半紙の綴りをとりだした。
端が茶ばんだ古いもので、手にとると、気のせいかかび臭い臭いがあたりにむっと漂
った。
<中ハチヤ>差配内カネ寄人(よりど)、竹千代
[ここからの手紙は、八切氏が、原住系たる堺の茶人達の手紙・文書が殆どカタカナ
であるからと、カタカナ書きで書いてありますが、読みにくかろうと考え、平仮名に
変えました‥‥影丸]

「義竜様が、大殿様のお子でないようにと、触れ廻れ」と指図をうけましたは、たし
か、あれは弘治元年の初雪の頃と覚えて居りまする。
 大殿さまの斎藤道三入道どのは、当時六十一でござりましたが、京の妙覚寺で「法
蓮坊」と呼ばれた頃は、「卵に目鼻」とよばれ、還俗して油屋になられても、その男
前は、今でも上方で「油壷から出たようないい男」という誉め言葉が残っているくら
いでござりましたから、すでに六十過ぎでも色白く、まことに涼しげなお顔にござり
ました。それに比べ、長男の義竜様は色黒で唇厚く、顔がむくんで、てんで似ておら
れませんゆえ、それを良いことに、<下はちや>の者共が、お城や、お曲輪のお長屋
を、釘や包丁、鍋釜売りをして歩く際に、そっと「義竜様を産まれた深芳野御前さま
は、美濃守護の土岐頼芸様の側室だったのを、若い頃の大殿が貰い下げたものゆえ、
その当時お腹に残っていられた義竜様こそ、まごうことなき土岐の血脈である。だか
ら、その土岐の家をつぶされた大殿斎藤道三様は、義竜様には、こりゃ土岐家を奪わ
れた不倶戴天の御仇敵にあたる‥‥」
と低い声で囁き廻りました。すると、他国者の大殿道三さまにかねて、あきたらぬ思
いをしていた土地者の土岐の旧臣が、大いにこの話を喜んで弘めました。
 だから、翌年には、とうとう御本人の義竜さまの耳にも入り、「そうであったのか」
と、発憤されて、遂に大殿道三さまを討たれたのでござります。
 さて、<下はちや>の者が申しますには、清洲さまの銭はみな、女衆がとり、男ど
もは、ただ縫針百本を手間代に貰い、あとから、粟酒に壷の振舞いが、その祝に配ら
れただけの由にござります。
 尚、<上はちや>の衆は、遠国廻りの年番ゆえ、云いつけられて、越前、近江へゆ
きますると、各所で、「斎藤道三と義竜どのは、表むきは父子であっても、本当は違
うらしい」との話の外、もっぱら「悪党道三」といった蔭口を信長様の御命令どおり
に噂をばらまいて歩いたといいます。これも、効き目がありまして、後に大殿道三様
が救いを隣国へ求められましても、何処も彼処も、みな口をそろえ、
「極悪無道、人非人と呼ばれ人気の悪い者に、なんで加勢し合力する事やある。放っ
ておくが、分別というもの」
と、一兵の援助もなかった由でございます。
 さて、<中はちや>村の者は、丁度その辰年は順繰りに、戦があれば出る番になっ
ていました。
 そこで、四月十八日のこと。男衆三百余人が木野の薬師堂に集められました。なに
しろ、われらの宗旨は「西方極楽浄土、東方は地獄穢土」の反対で、「東方にこそ光
明あり」という<東光さま、東方瑠璃光>でございますから、「戦死しても、次に生
れかわってくる時は、必ずや、また東方に産まれて出てこられるよう」と、あの世で
迷わぬようにと、よお拝んでから、東田原から川について下り、飛騨街道の白金まで
野宿し、権現山の裾を廻って、そこで翌日、やってこられた清洲さま(織田信長様)
の軍勢に加わりましたのでございます。
 白金の渡しを越えて保戸島へ向かい、戸田坊構えに入り、我らは先手として保明へ
迄、出張りましたから、川下まで流れを挟んで大殿様と義竜様の軍勢が渡ったり渡ら
れたりの、戦ぶりは、その日空が青白く抜けるよう澄んでいましたゆえ、手にとるよ
うによう見えました。だが、いくらたっても、清洲さまは進めとは采配を振られませ
ん。
 そのうちに人数の少ない大殿様の軍勢がどうしても追いやられまくれ、向かって右
手から次第に追い詰められ、下切から古津、志段見、天神林、小野と退却するのに、
それでも加勢に来られた筈の清洲様は、動こうとはなされませなんだ。
 やっと暗うなって、長良川の向こう岸から物見の者が戻ってきて、
「大殿さまを討ち取ったという叫び声を、城田寺(きだじ)村の手前の東蝉部落の者
から聞きました‥‥」
と言上しますと、
「では、もはや仕方がない」と合図をして引き揚げさせ、せっかく戦に行きながら、
礫を一つ放らずに、地虫に刺されたきりで戻ってきたのでござります。
 清洲様が、その後段々に豪い様になられ、とうとう天下様になられましたゆえ、
「‥‥あんな天下一強い大将様でも、よう戦せんと、退かれた所なんじゃ」
ということになり、ただいまは地名が「大退(おおどき)」と変えられておりまする。
 戦はせんでも仰山に銭をもらったようでござりまするが、里の掟ゆえ女が皆とりあ
げたと覚えておりまする。

6
(男も女も、同じ様に竹細工でも鋳掛けでもできるが、子を孕んで作るだけは男には
できん)つまり、
(女は人間作りが出来るから、神様なみに尊いものだが、それに比べて、ただ働くし
か他に能のない男という者は、詰まらん下等の生き者だ‥‥)
と、猿啄衆の女どもは云っているそうだが、この口書きをみても、一切は女が支配し、
稼がせた銭もいわば、給与袋ごと取り上げてしまっているようなものである。これは
全く男の立場からみるとひどいと源五は唸った。
 まあ、それはそれとしても、何ともいやはや、これはまことに面食らわせる綴りだ
った。途中で読むのをやめて、源五はすっかり持て余してしまった。
(古代その侭の習俗で暮している蜂屋衆達は、嘘いつわりは言わない)
とされているから、この書いてある事は、みな正真正銘らしい。もちろん弘治元年と
いえば、源五は頑是ない五歳の幼児で、何も知ったことではないが、これをみると、
亡き信長は濃の方を室とし、七年目にあたる。ちょうど生駒将監の後家娘に後の中将
信忠を生ませてしまった年に、信長は目の上の瘤である美濃の斎藤道三を亡きものに
せんと、これでは計画的に事を運んだことになる。
 だが、兄の信長は時に二十二歳で、その二年前に平手政秀と衝突して、これを死な
せたばかりで、頼みにする家老の林新五郎兄弟には叛かれ、やっと叔父の織田孫三郎
の手で、清洲城を手に入れたばかりの多事多難の際である。
 うかつに兵を動かしたら、留守中、どんな変事が起きるかも判らない。だから、仕
方なく兄は用心して猿啄衆を用い、調略をしたのだろう。それしか考えられぬ。
 保戸島へ、せっかく出陣しながらも、戦場へ出なかったのも、同行した<中はちや
>の者は恨めしそうに書いているが、これとてなにも彼らが寡兵で敵すべくもなく討
死した斎藤道三に対して、同情などしているのではない。自分らが合戦場へ出て戦死
者の鎧や布子を剥いで儲けたかったのを、止められてしまい、みすみすふいにしたか
ら、それを残念に恨めしく考え、口惜しがってるに過ぎない。
 兄は、岳父の死ぬのを確かめに行っただけだから、葭っ原にひそんで検分すれば、
事たりたのだろうし、それに当時の兄は猿啄衆三百を加えねば陣揃えができぬくらい、
かわいそうにも、まだ極めて微力だったのである。
 だが、それにしても、この中に出てくる「悪党道三」の評判は、呆れるくらい実に
よく広めたものである。
 那古屋城にいた頃など、まだ子供の源五が悪戯をすると、
「ほら、道三さまが来ますぞえ」
と侍女に脅かされた。その恐ろしさに、喚いていても源五はすぐ泣き止んだものであ
る。
 だから、清洲へ移った初めは何も知らずに、あの男を面白がって苛めたものだが、
一年ほどして、彼が斎藤道三の忘れ形見と聞かされたとき、「げえっ‥‥」とびっく
り仰天し、半泣きになってしまった覚えがある。なにしろ知らぬ事とはいえ、(蝮の
道三)とか(悪党道三)といわれた恐ろしい男の子供と聞かされては、すっかり脅え
てしまったも無理はなかった。
(迷って道三が、この世に出てきて、仇をされる)
と恐ろしくなってしまったからである。
 ところが、その時、あの男は、
「おやじは、そない悪党じゃない。ありゃ嘘だ」
と、せっかく謝りかけようとした源五を、がっかりさせるような事を言った。
「ふつう、風呂というのは、湯気を出し蒸して身体の垢を擦り落すものだが、うちの
おやじは肝性もちだから、関の鋳物屋に云いつけて大釜を作らせ、中に板の下敷きを
入れて、夏は冷たい水を入れて行水し、冬は下の口から薪を燃やして温まったそのも
のの中へ、じかに身体を入れて浸かった。
 が、なにしろ色が白くて坊主頭だから、桶から出ている顔が見る間にゆで蛸みたい
になったものだ。それを水風呂も釜風呂も知らぬ、川で水浴しかしたことのない下司
どもが、『生きた人間を釜ゆでにする』と、釜の中が道三とはいわず他人でも入れた
ように言いふらし、それをまにうけた奴等が、よってたかって悪党にしちまったんだ。
なにしろ朝夕、南無妙法蓮華と御題目ばかりあげていたおやじ様なんだ。悪党でない
何よりの証拠には、攻め込まれるのはやむなく、そりゃ防戦したが、生涯ただの一度
も境目を越して他国への侵略など絶対していないぞえ」
と、十三歳で元服したばかりのくせに、あの男は自分の父親の事になると、大人っぽ
い口のききかたをして、当時、それに抗議をしたものである。
 といって、
(そうか、悪童道三が悪党でないなら、迷って出てきても、生れ変わってきても、お
そがない[恐くない]から、じゃあ、苛め直そうかい)
というわけにもいかない。
 だからして、それから源五だけは改めてあの男の無二の仲良しになったのである。
 いろはの文字は外来の変形で、この国の古代は、片仮名だというが、猿啄衆の仮名
文字は、釘を折って並べたように読みにくい。だから何度も繰り返して眺めていると、
「お疲れにござりましょう」
妻の佐紀が白湯を碗に入れて持ってきた。
 そして、浅黒い顔を傾けながら、
「どうなるので、ござりましょう」
落着かぬとみえ、不安そうに声をかけた。
「今日は、もう六月の十一日。あれから十日もたつが、なんの噂もない。やはり二日
に本能寺で、兄の信長は死なれたようだなあ」
と源五が暗澹として呻くように呟くと、
「ご兄弟とは申せ、生きていられた時にも、大した御恩寵のおかげもなく、死ねば死
んだで、えらい災難。思えば私は、どんな所へ嫁に参りましたものよなぁ」
愚痴とも、嫌味ともとれるような事を、ずけずけと遠慮なく口にした。
 戻ってきた日だけは嬉しそうに何かと気をつかってくれたが、二日三日となると、
だんだん気安くなるのか、どうも肚にあることが、そのままスラスラ遠慮なく、口か
ら出てしまうらしい。だから、なんで女ごとは、こない余計な事までいうものかと、
少し肚をたて、仕方がないから、
「信長の弟の嫁で、危難が及ぶと思うのなら、子らを伴って、大垣なりと親許なりと、
さっさと去(い)んでもよいぞ。おりゃ構わんぞえ」
そう考えてやったまでなのに、
「なんぞ、起きましたのかえ」
はっとしたように妻の佐紀は目頭を神経質によせた。

 昨夜はまだ源五は楽観していた。あの男が出来心で謀叛をして城とりをしたものな
ら、よく談合し、自分をこの岐阜城の城主にさせるつもりでいたのだ。
 だが、こう証拠の口書きを示され、預かってきてくり返し読んでみると、事態はそ
んな甘いものではない。どうやら、あの男は、あくまでも復讐のために、己れの一人
息子まで因果を含めて犠牲にし、そして取り掛かってるような想像もできる。
(こりゃ、一つ間違うと、とんでもない事になる。最悪の覚悟も要ろう)
と源五は決心した。

 翌六月十二日は、源五は頭が重たくて、なかなか起き上がれなかった。空もどんよ
り黒雲が下へ垂れぎみに低迷して、やがて、風が強く吹き出すと、雨模様にかわって
きた。うっとうしかった。
 だから、庭先へ出て遊べない子供が柱や仕切り板に突き当たり、仔狗のように駆け
回る騒音が、源五の枕許まで響きとおしだった。
 すこし窘(たしな)めて静かにさせたらよいと思うが、なにしろ初めに産まれた子
が次々と疱瘡やはしかで早死にしたから、今の幼児達を妻は甘やかして、したい放題
にさせている。源五が睨んだくらいではおとなしくしそうもない。
 だから離れていれば、可愛いような気もしたが、さて戻ってくれば側へくる子もな
く、ただ騒々しいだけである。うんざりさせられて、これではうるさくて寝てもいら
れず、といって、起きても誰も近寄らないから、手水をすませ源五は文机の上の昨夜
の猿啄衆の口書き綴じを、また手にとってぱらぱらめくっていると、
「永禄十年丁卯十月。銀二駄、オ城御用ニテ京送リノタメノ、白山権現サマ社司ニ、
通リ銭奉納。護符拝受。届先ジュッペサマ印形(いんぎょう)トテコレナク、爪印ノ
他ニ、請ケ書ヲ書イテ頂ク」
という一枚が、源五の眼にとまった。

 ここに出ている年号の頃は源五は十七歳。
たしか、その年は五月の末に、兄信長のいいつけで、その娘の五徳姫を三州岡崎の松
平信康の許へ輿入れさせ、その行列に、親類役として同行したはずである。
 そして、その年は、後には敵となった石山本願寺からも祝いの使者が来たり、上洛
するようにとの、かしこきあたりからの勅使も下向していた。だから、
(京送りの銀ニ駄というのは、おそらく御所への献納)ぐらいに、昨夜はさっと目を
通して、別に何も感じなかった。が、さて気にしてみると、この文面はどうもおかし
るぎた。
 伊勢路は、神戸城へ異母兄の上野介信包が遣られて当時は味方の筈である。近江路
は鈴鹿を越え、土山の田村川までは信長の目が届いていたのだから、そこから京まで
は、ほんの一跨ぎである。
 それなのに、たかが馬二頭のものを京へ送り届けるくらいの事に、なぜ白山様に願
って、その通行札をわざわざ貰ったのか。そこが合点もゆかない。なにしろ、この頃
はもう、兄信長は尾張美濃伊勢三国の太守で、蜂屋者に頼ってそれを利用せねばなら
ぬほど、もはや弱体ではなかったのである。
 そもそも、白山権現の護符というのは、加賀の白山さまの末院が諸国に三千あまり
あって、各地に白山神社、白山権現として鎮座し、信仰する各地の蜂屋衆が、みな、
その氏子となって、網のように互いに繋がりあって、同族を守り庇いあう組織の通行
切手であう。
 だから、そこへ御札料を奉納してまで、道中の安全を保護させる、そんなやり方は、
既に実力を持つようになっていた兄信長には、てんで必要もないことだった。まこと
腑に落ちない。
 だが、「御城御用」と出ているからには、この岐阜城から、銀ニ駄が送り出された
事に間違いはない。
 しかし、一駄で振分け荷が二個。その一個を銀十五貫とみても、銀六十貫とは、こ
れは夥しい金額である。
(‥‥そんな莫大なものを、誰が、此処から兄の眼を盗んで、ひそかに京へ送り届け
たのであろうか)
と、源五は考え込んでしまった。
 それに、それ程の金高を受け取る相手が印形さえも所持しない程度の身分で、届け
に行った蜂屋者さえ危ぶみ、どうも怪しいと思えばこそ、受取書まで書かせてきてい
る、と、この書付けにはある。
 どうも得体の知れぬ、これはまことに奇妙な話である。
(いったい何者が、そんな大金を誰に送り届けたのだろう)
と首をひねっているうちに、
「おう、ジュッペとは十兵衛。つまり惟任日向守光秀の前の名ではなかろうか」
と、思わず源五は独り言を言った。
(石山寺の尼が、‥‥光秀に夥しい金が美濃から来ていて、それで俄かに分限になっ
て大きな邸宅を構えたり、牢人どもを沢山召し抱え家来にした。それから将軍義昭に
も献金して、新参のくせに次第に申次衆の重職につき、兄の信長とも初めは互角のつ
きあいで、邸へ泊めてやったり、何にくれと面倒をみてやって有り難がられていたも
のだ)
という話が真っ先にすぐ浮かんできた。
 その話を聞かされた時には、(まさか‥‥)と半信半疑で耳にしたが、美濃から光
秀の許へ銀六十貫が届いていたというのは、ここに手証があるからには、やはり紛ご
うことなき事実だったようである。
(‥‥誰が密かに送ったかは判らない。だが、岐阜城から出た金なら、これは兄信長
の納戸(なんど)金である。すると、何も知らずに兄は、自分の金で建てた邸へ泊ま
って馳走になり、それを知らずに有り難がって礼をいい、光秀を尊敬していた事にな
る)
「呆げた阿呆らしい話よ」
源五は、頭へ手を廻して寝転がった。
 何者かに貢がれた金力で、光秀は己れを地位を固め信用をつけ、兄に接し重用され
た。そしてその十五年後にまだ今のところは、はっきりしないが、明智の馬印や旗を
噂にもせよ揚げた連中に本能寺を爆破されたのは「策士、策に溺れる」ともいうが、
これでは自縄自縛。
「なんたるこっちゃい‥‥」
源五は伸びた無精髭を指先でつまみ、思わずためいきをついた。
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