1155 信長殺しは秀吉か  5

 源五はその後、小牧から岐阜城へ移されたが、あの恥をかいた大広間が残っている
ので、いやでいやでたまらなかった。何年たっても、あの満座の中でかかされた赤恥
は忘れられなかった。残滓みたいに胸底に不快な思い出が沈殿しきっていた。
 だから、天正四年に安土へ新しい城ができると、そちらへ移りたいと申し出たが、
「信忠についていてやれ」
と岐阜城残留を申しつけられてしまった。
 それが癪で、凱旋して手すきの時でも、すねるみたいに岐阜へは戻らず、京や安土
で過ごす事が多かった。
 それでも、時には岐阜へ戻らねばならぬ事もあったから、あてがわれた侭で置いて
ある妻にも、ぽつん、ぽつんと子ができた。だが、滅多に帰らないから、その子らは、
まるで見物でもするような恰好で、源五が戻ると迎えた。
 源五の方でも、いつでも、
(どこの子じゃろ‥‥)
と、見渡しながらも、やはりとまどう事が多かった。なにしろ初めは珍しくて顔を覚
えていた上の二人を、幼いうちに死なせたりしてしまって、それから気落ちしてあま
り後の子の顔を覚えようともしなかった。
 それでよけいにいつも迷ってしまうのである。
 子供等にしても、たまに戻ってきてそれで、すぐ出かけてゆく源五を何と思ってい
るのか、遠くからは眺めてもあまり近寄りはしなかった。
 だから、離れていても、これまで子が懐かしいと思った事もなく、妻にしてからが、
その子供らの母親というだけの事で、別にとりたてて、懐かしやとか、慕わしいとも
思いもしなかった。
 つまり、いってみれば、家の中の什器のように、ちゃんと納まって待っているもの
だ、ぐらいしか源五は考えていなかった。
 だから戻ったときは、調度の手入れをするような、そんな心づもりで妻とも接して
いた。
 子供とも格別親しむ余裕とてなかった。
なにしろ、兄の信長が他人とちがって使いやすいのか、自分の名代としてか弟の源五
をたえず出陣させていたし、また戦が尾張時代のような農閑期だけに限られず、もう
その頃は年中無休の有様だったせいもある。
 しかし、今度はどうしたものか、あの二条御所の澱んだ水の中でせっかく咥えた刀
を取り落とし、つまり死に損なって浮かび上がったとき、なんということはなしに、
岐阜の妻子の事が思い出された。悲しいと思った。逢いたかった。自分でも妙な気が
してきて、
(俺も人並みに親らしゅう、夫らしゅうなってきおったのか)と、そんな心持ちにな
った。
 だが、煎じ詰めて考えてゆくと、他の女ごの如きは、てんでその名前どころか、ろ
くに顔さえも覚えていない。そこへゆくと、つい長年にわたって時折とはいえ慣れ親
しんでいる妻は顔も名もよく覚えている。それだから、つい手軽に懐かしんでしまう
らしい。
 また、子供に逢いたくなったのも、討死した信忠が、その伜の三法師を抱き上げ、
別れを惜しんで出陣してきたのを見覚えていたから、つい自分もそんな気になってし
まったようだ。
 だが、それがわかって、自分の胸が納得したからといって、今の源五には何のたし
にもならなかった。かえって、めそめそ物思いに沈むだけ、気が滅入ってやりきれな
かった。
 しかし、今の源五は本当はそれどころではなかった。(実直な男、物堅い男)と聞
かされていたからこそ、源五もその評判を信じこんで進んで瀬田の山岡を頼ってきた
のである。
 それなのに、尼の話では(どうやら足利義昭が怪しい)と、信長殺しのめどをつけ
だした今となっては、山岡も信用しかねた。まこと、どうも居心地がよくなかった。
(‥‥そもそも、瀬田や石山寺は安土を護るための出城である。よって最初に橋を焼
き払ったはよい。しかし、橋の修理をさせてしまって、五日から往還を自由にして、
安土城へ光秀の出入りを見逃しているのは、これは、やはり合力の証拠でなくて、な
んであろう。
 初めに己れの城をやいたのも、あの頃はまだ信長生存説が強かったから、それに気
兼ねしてのみせかけの所作にすぎんのかもしれぬ)
と、源五は危ぶみはじめ、
(いつ何時、この自分も捕えられて、どんな目にあわされるかもしれぬ)
と落ちつかなくなった、
 疑心暗鬼といってしまえば、それまでかもしれないが、こうした突発的事態になっ
てしまって、もう、信長の弟という肩書きが前とは違い、なんの御利益もなく、かえ
ってあべこべに身の危惧を招くように変わっては、用心するより源五には他になかっ
た。
(どうしたものか‥‥)
と途方にくれながら、心の中では、
(世間の噂通りに何処かで兄信長に生きていてほしい)
と、そんな事ばかりをあけくれ祈った。
 昔、城中の大広間で(乞食のような)と罵られたとき、
(同じ兄弟のくせして、無情な‥‥)
と腹にすえかね、そんな気持ちが抜けぬままに、
(ひとりよがりで威張りくさって、神懸りな態度は鼻持ちならん)
と、心の何処かでいつもけなしつけていたのが、今となっては、もはやまるで嘘のよ
うに吹き飛んでかき消され、
(懐かしい)と、そんな親しみだけが込み上げてきた。
 だから、これまでのように
(兄弟じゃなどと思うから腹もたつが、相手は殿様で遅く生れたおりゃは、どうせ弟
というより家来のほうじゃ)
と、いまいましくなって、ずっと、(兄じゃ)と呼びかけた事もなく、いつも「殿様」
とか「上様」と声をかけていた僻みが、自分で後悔させられてきた。
 そして源五は、信長が生きていてくれたら、笑われてもよいから、「兄」と呼んで
みようとさえ思った。

 そんな事をいろいろ考え込んでいるうちに、
(あっ)と思いがけない事に気付いた。
 それまで考えも及ばなかったが、それが判ると源五はびっくりさせらてしまい、
「うーむ‥‥」
と唸りだした。そして、
(さすがの兄の信長は‥‥深謀遠慮である)
と舌をまいて感心し、すっかり緊張した。
(‥‥この俺を冷や飯喰いの部屋住みとして岐阜城へ放っておかれたと『冷遇しすぎ
る』とずっと僻んでいたが、兄は万一の際を考えていたのだ。もしもの時には幼い三
法師は無理ゆえ、それに代わらせるため‥‥わざとこの自分をあの岐阜へ置いていた
のだ。つまり、おりゃは予備というか差し替えの岐阜城主であったのだ)
そこに気付くと、さすがに源五はぴしゃりと頬げたを叩かれる思いがした。
そして、
(安土が、もう敵の手に落ちている今となっては、織田一族は元龜の昔にもどって、
また岐阜城を本拠に、美濃尾張伊勢の三国をまず基礎にして、諸方に散らばっている
重臣に檄を飛ばし、上洛してくる足利義昭の軍勢を叩き潰さねばなるまい。そして兄
信長へ不軌を謀った張本人をどんな事があっても赦免せず、逆さ張付けにかけて成敗
してしまうのじゃ。
 もともと十字架にかけて磔けにするのは、兄が南蛮人から、その神の処刑の絵や像
を見せられ、元龜元年、姉川の役の時に浅井方の者を十文字の柱にかけ、鞭うちをく
らわせて、打ち殺しをしたのが始まりで、各地で真似をするようになったが起源ゆえ、
兄に供養のために是非ともそやつは十字架じゃ‥‥)
もはや美濃岐阜城の五十万石の太守になったつもりで、源五は兄信長のために目尻を
つりあげ気張って唸った。


斎藤玄蕃允

1
「思えば、絶えて久しい‥‥長いことだった」
吼えるよう斎藤玄蕃允は喚いていた。
「十九年の前の永禄七年八月に、この井の口の城を奪われ岐阜城と名までかえられ、
それからどっと入り込んできた尾張者らに美濃の者は銭を巻き上げられ米を持ち去ら
れ、娘を辱められ、隠忍、今日に及んだが、ようやく解き放ちができた。やっと美濃
の国を我ら美濃衆の手で取り戻せた‥‥これまで<わやく>し放題だった尾張の役人
どもは、村ごとに百姓が捕らえて皆木曽川まで追い立てたそうじゃ」
顔を真っ赤にした男は、力みかえりながら、うっすら眼には泪を浮かべていた。
(相変わらずこの男の泪もろさは変わらん)
と見詰めはしたが、それにしても、源五はまるで茫然としていた。
 なにしろ、ようやくの思いで西近江の石山寺から、この美濃まで戻ってきて、自分
が、さて岐阜城主になろうとしたら、とうにこの男がもう新城主に納まっていたので
ある。
(こんな‥‥莫迦げた話があるもんか)
源五はすっかりむくれ切っていた。
 もし他人が攻め込んできて落城させられていたものなら、そりゃ、まあ諦めもつく
が、なにしろ、この男たるや城代家老として留守番していて、主君の信忠の討死が伝
わると、すばやく空巣を狙って、さっさと自分が城主の褥に座ってしまったのだ。
 途中で瀬田ヘ寄り、ずっと道草をくって遅れて戻ってきた源五よりも城に初めから
いたこの男の方が手っ取り早く、われ先にと城主に納まってしまったのだから、
(こんな没義道な話はない)
と源五は腹を立てた。
 知らない奴にしてやられたのなら諦めもつくが、童(わっぱ)のころから鼻つらを
突き合わせて育ってきたこの男に、まんまと横取りされたのでは、我慢がならぬわい)
怒鳴りつけたくて源五はいらいらした。
それに、
(十九年ぶりにこの城を取り戻した)
と、この男は云っているが、当時の城主の斎藤右兵衛大輔竜興というのは、この男の
父や他の兄弟を皆殺しにした斎藤義竜の跡目なのである。
 そして織田勢は、元龜二年(1572)八月の刃根峠合戦で、朝倉勢に一味して押
寄せてきた竜興を討ち取り、首を供養のため、この男の父の菩提寺の墓に供えてやり、
手柄をたてた宮川但馬には、兄の信長が言葉をかけてやって、銀二枚の褒美までくれ
てやっている。
 竜興の妻子も朝倉一族と運命を共にして、すっかり根絶やしにされ、この男の親兄
弟の仇はちゃんと晴らしてやっている。
 つまり、この男から織田一門は感謝される事はあっても、こんなむげな仕打ちをさ
れるいわれは全くない。
(この男は全く忘恩の徒である。美濃衆のために美濃を取り戻したなどと、もっとも
らしい口をきいているが、とんでもないくわせ者である。十歳で孤児になったから、
この男を兄の信長が養ってやったのを、一体どう考えているのであろうか)
腹が立って、拳固で思い切り張り倒してやりたかった。

 弘治二年(1556)四月二十日に、この男の父道三は長良(柄)川を挟んで斎藤
義竜と戦い、城田寺(きだじ)の森で、その首を刈られたのだが、その二日前に鶴山
の陣所から、当時十歳だった末子のこの男に黄金の念持仏を形見に持たせ、
「仏門に入れ坊主にしてもよいから、なんとか生かしてやるよう助けてほしい」
と、清洲城へ送り届けてきたと聞き及んでいる。
 だから、あの時、兄の信長が頼まれたとおり、この男を小僧に出しておけばよかっ
たのだ。
 それなのに、なまじ情けをかけて兄信長が武者に育てたばっかりに、今日こういう
羽目に陥ったのである。
 もちろん、当時は源五は六歳[九歳?]で、まだ那古屋城の方に住まっていたから、
詳しくは知らない。だが、八歳の夏からは清洲へ引っ越したので、それからは四つち
がいのこの男とは馴染みなのである。
 よく五条川で泳いだ事もあるし、蓮の実をとりにいって、一緒に苗字池へはまりこ
んだ事すらもある遊び仲間である。
 他の兄弟は幼い時からあちらこちらへ養子になどやられたが、源五は麻疹をやった
後、よく熱を出したりして虚弱だったから、清洲から小牧そして岐阜と、他家へは行
かずに育った。
 だから、この男ともそれから一日中ずっと一緒で、血肉を分けた兄弟より、もっと
親しくしていた筈だ。
 だからこそ、
(この男が家老として城にいると思えばこそ、その力添えで自分を岐阜城主に守り立
てさせよう)
と勇んで石山寺から無理をしてまで帰ってきた。
 それなのに、何も知らずに岐阜城の大手門まで辿りついたら、いきなり番衆どもに
取り囲まれ、連行されて、
「新しい御領主様である」
と云われ、はっと顔を上げると何の事はない。この男が済ましこんで座っていたので
ある。
 そして、その後は言い訳がましく、これまでの尾張人の横暴ぶりを訴え、それで、
この男は己れの非行を弁護しようとした。
(ばかげている)
と立腹しても、なにしろ城内の武者どもがすっかりこの男の指図のままに動いている
のだから、徒手空拳で戻ってきている源五には、みな気の毒そうな眼は向けてくれる
が、さて誰もろくに口もきいてはくれぬ。これではなんとも太刀打ちできはしない。
(‥‥止むを得ん。しようがないから、当座はおとなしくして暇をみて、この男を説
き伏せてやろう)
と、源五は考えた。つまり、
(信長の弟の織田源五郎長益が城主なら世間も納得する。だが、家老の斎藤玄蕃允で
は軽くみられて、いつ何時よそから攻め込まれるか判らない)
と、その不用心さをよく言い聞かせて納得させる気だった。
(おりゃが城主で、この男はまた元の家老。それが物の道理・序列というもの)
と、それまでの辛抱ぞと、一人でうなずき腹の虫を押さえている。それなのに、
「なんと云うても昔馴染。どうじゃろ、こう戻ってみえたからには儂に合力して源五
様。ひとつここの家老職でもやってもらえんだろか」
と臆面もなく、この男は懐かしそうなまなざしを向けて相談などしてくる。
(これでは話があべこべで、反対ではないか)
源五としては返事のしようもない。そこで、黙りこくっているのに、横合いから、
「故斎藤山城守入道利政様の遺孤、玄蕃允利尭(としたか)様が、今や美濃国主。当
城の主にあられる。
 さて弘治二年の昔、その利政様へ謀叛されし義竜様の血脈も、越前にて絶えおる今
日、昔は矛と楯の間柄だった者達も、今や旧怨をみな水に流し、『美濃衆のための美
濃』に、やっと取り戻した喜びで、こぞって一致団結してござるによって、ここはお
身さまも、ひとつこの際お力添えをばお願いしたい」
と玄蕃允の代わって、その舅にあたる安藤伊賀守守就が大声を出したが、やはり老人
も泪ぐんでいて、最後は言葉にならなかった。

 稲葉伊予守一鉄、氏家卜全と並んで美濃三人衆と呼ばれる安藤伊賀は若い頃信長に
嫁いだ奇蝶姫の警護に尾張へ行き、(美濃から来たというので、美濃御前と最初は呼
ばれていた姫を、美は<み>の音に通じ、敬語であると、信長が『濃』と呼び捨てに
しだしたのを苦々しく思って)、面と向かって苦情まで言ってのけ、「お濃の方」と
呼ばせた程の剛の者である。
 弘治二年に駿河の今川勢が岡崎から攻めかかり、山岡砦を奪って寺本の砦を下し、
村木まで押寄せてきた時も、安藤伊賀は物取新五以下、田宮衆、甲山衆、安斉衆を率
いて加勢に駆けつけ、一月二十日から那古屋をはじめ志賀、因幡の二郡に進駐して敵
の侵入を防ぎ、その後も斎藤道三名代としてしょっちゅう美濃衆を率いて尾張へ行き、
桶狭間合戦の起きるまでの四年間は駐屯するようにして尾張を守ってやって、信長か
ら感謝され、その後、信長に奉公してからも姉川合戦のあと、浅井に箕浦を攻められ
た時も信長を庇って殿軍を勤め、氏家卜全は討死。伊賀も鉄砲創傷三ヵ所、槍傷ふた
とこを受けて、瀕死の重傷まで被りながら勤めを果たしていた者なのである。
 ところが、一昨年八月十二日、兄の信長は長年の敵だった大坂石山本願寺を納める
と、それまで大坂天王寺に在城させ、退陣させていた佐久間父子が怠けていたと腹を
立て、高野山に追放すると、(ものはついで)と考えてか、五日後にさらに家老職の
林佐渡をも、昔の離反を種に遠流処分に附した。
 これは安藤伊賀が那古屋へ進駐していた頃、
「このままでは、いずれは尾張の国は美濃の斎藤道三のために併呑されてしまう」
と、当時林新五郎と呼ばれていた佐渡が騒ぎだし、自分が城代をしていた那古屋城を
放り出して荒子の前田与十郎の城へ引き払い、
「末森城の信行様をお跡目に替えよう」
と、己が姉の嫁入り先の娘、土田御前の子を擁立しようとして破れ、弟の林美作は討
死したが、のち佐渡は詫びを入れ許されたという、既に二十五年前の事である。
 安藤伊賀も、いわば、その時の林佐渡の喧嘩相手のようなものだったから、それを
兄は想いだしたのか、当時の喧嘩両成敗のような恰好をとり、一緒に所領を没収して
これも追放にしてしまった。もちろん昔から何かと色々な事が癪には触っていたのだ
ろう。
(‥‥わしが昔、那古屋から熱田の宮の浜を守っておらねば、桶狭間合戦の起きる前
に織田家はとうに今川に滅ぼされとった筈。それじゃによって、信長殿は随分とも有
り難がられて、再三、再四、頭を下げて礼を云われとったに‥‥今になって、その恩
を仇で返されたる今度の仕打ちはあまりに酷うござる)
と、源五もこの男に愚痴をこぼされ、なんとか信長にとりなしてくれと再三にわたっ
て頼み込まれたものである。だから、
(安藤の旧領の美濃揖斐北方五万石のうち、せめて半知なりと、伊賀守就の嫡子、尚
就(ひさなり)にやって、改めて取り立ててくれるよう)
と信長に頼み込み、跡目の信忠にも口添えを依頼してあったが、まだその侭になって
いたのである。もちろん、尚就の妹を妻にしている斎藤玄蕃允は、なんといっても岳
父のことゆえ、これも八方に運動をしていたのだろう。
 それに、こと改まって、安藤伊賀が、
「美濃者のために、美濃の国を取り戻したのだから、協力してほしいものじゃ」
と源五に訴えたのは、源五の嫁佐紀が、東美濃郡上神路城の遠藤胤基の娘で、その伯
父の遠藤慶隆(よしたか)も同じ郡上の八幡城主だったから、源五も美濃者とみなし
て、それで云ったのであろう。
 佐紀の姉も、亡くなった美濃三人衆の筆頭、氏家左京亮卜全の長子に嫁ぎ、今は大
垣城主氏家直通の妻となっている。
 つまり、尾張の信長の弟とはいえ、源五の縁者はことごとく所の土地者で、同じ様
に美濃者扱いをされたにしても、さながら当然のような婚閥になっていたのである。

2
「この度の事、どうしてそのように早う判って、こない迅速に手がうてたのか」
気になるところだから、源五は伊賀が立ち去ってからそっと低い声で尋ねた。
「内蔵介でござる」
ぽつりと玄蕃允が答えた。
「ああ、そうか。斎藤内蔵介は、美濃三人衆の清水の城主稲葉一鉄入道貞通の妹婿で
ありしか」
とは膝をぴしゃりと叩いた。だが、あっけにとられた。源五は開いた口がその侭塞が
らなかった。
 明智光秀はもとより美濃可児郡明智城の出。その家老の内蔵介は美濃清水城の婿。
その上、話によると、美濃海津の今尾の城主高木貞久の手の者や美濃の地侍が斎藤内
蔵介に招かれ、六月二日の軍勢には加わっているというから、
「これでは、美濃の反乱ではないか‥‥」
さすがに源五も二の句が継げなくなった。
 よく世間で、「盗人を捕らえてみたら我が子なり」とも云うが、こうなってみると、
これでは、足利義昭とばかり思い込んでいた発頭人が、実は信長の領国美濃人共の謀
叛ということになってしまう。呆れ返ったことだった。
 だが、そう言えば、思いあたる点も多かった。なにしろ、二条御所で、あの幼い甥
の御坊源三郎が、
「寄手は山の者で、恰好に見覚えがある」
ともいっていたが、なるほどそれも道理で、源三郎が養子にやられて十年も育った岩
村の城も、やはりこの美濃の国なのである。
 それに本能寺の攻めぶりの生ぬるさも、美濃人なればこそ、長年にわたって信長に
お目見えしているから、どうも具合が悪くて、一息には攻め込めなかったのだろう。
 信長の伜どもが、他にも沢山いるのに、信忠だけを狙ってこれを殺したのも、現に、
美濃岐阜城の当主だからで、どうしても亡き者にする必要があったのだろう。
 だが、美濃人といっても、十歳の時から尾張人同様に清洲城で育てられたこの男が、
何故それに一味したのか。血脈といえばそれまでだが、どうも、そこが合点しかねた。
(なんじゃろう)と思いあぐねた。
 だから、源五は武者窓の連子(れんじ)格子から、鉄砲よけの仕寄矢来(しよせや
らい)の竹束みたいに、尽き刺さってくる白い陽光を、頭から浴びた男をじっと見据
えながら、
「なんで、三法師や、下の赤ん坊まで押し込めて‥‥わりゃ‥‥この城を乗っ取りお
ったのかや‥‥」
決めつけるように詰ってみた。
 なにしろ、自分の妻子もニの丸からこちらの岐阜城本丸へ移され、人質みたいに押
さえられ、源五としてはもはや城主を横取りされた上に、全く手足も出せぬ状態にま
で追い込められていた。それだからこそ癪にさわって、すっかり声まで震えて出てし
まう。忌々しかった。
 それなのに、相手の玄蕃允は、
「わしの持城。梨割山の加治田城を、自分から願い出て拝領した時、源五様、お前さ
まという方は、えろう心配し、あれこれとこのわしに諌めなされたろうが‥‥」
と、古い事をいきなり言い出してきた。

3
 天正五年八月の事だった。兄信長は柴田勝家を大将にして、斎藤玄蕃允や氏家直通、
安藤伊賀らの美濃衆を、加賀衆、若狭衆に加え、羽柴勢も入れて上杉謙信攻めに出陣
させた。
 源五は兄の言いつけで、軍監(めつけ)として、名代役でこれに参軍したものであ
る。信長の予定では、羽柴秀吉を越中へ持ってゆき、上杉方の城を片っ端から談合で
開城させる筈だった。
 ところが、秀吉という男は、尾張生れというので美濃衆にはてんで好かれんし、さ
りとて北国衆にも味方がない。それに何分とも素性がはっきりしていないから、何衆
という郷里の直属がいない。それで、他から軽んじられ、面白くない事があったらし
く、無断で兵を引き上げ戻ってしまった。
 このごたつきですっかり織田軍がもたついているうちに、せっかく救援に赴いた七
尾の城を、さっさと上杉謙信に落されてしまい、役立たずで戻る羽目になった。
 信長は憤ったが、なにしろ勝家や秀吉をあまりむげには叱責できないものだから、
弟の源五をつかまえ、
「このうつけめっ。何歳になる」
と、散々にまるで身代わりみたいに怒鳴りつけられた事がある。
 さて、その北国の軍監職は途中で全軍を引き返してきて、そのままだったから、翌
年九月、越中の富山でまた一揆が起きたと早打ちがきたとき、源五は叱られた信長へ
のはらいせもあって、(構った事はないわい)と、自分だけの一存で昔馴染みの斎藤
玄蕃允を総大将に任命してやった。そして、昨年の秀吉で懲りていたから、今度は他
国者を混ぜず、美濃衆六千だけを率いさせて出動させてみた。
 すると、玄蕃允はよく働いてくれて、十月四日の月岡野合戦で、敵の首級三百六十
も討ち取り、ついで今泉城を占領し、神保安芸を守将に残して引き上げてきた。
 これで源五も昨年の不首尾を取り戻したが、玄蕃允もおおいに面目を施し褒美に
「何処の国なりと信忠より望め」
と信長から言われた事がある。
 すると玄蕃允は美濃へ戻ってから、昔佐藤右近の持城だった美濃加茂の梨割山にあ
る加治城を信忠に願い出た。
 その話を聞いたから、源五は驚いて、
「善い加減にせんか。正気の沙汰か。何処なりと望めと云われとるのに、よりによっ
て加治田とは何じゃい。あそこは源氏野から金山にかけて山ばかりで、ろくに畑もな
い痩地ではないか。あんな所を貰って何とする。しかも蜂屋川から源氏までは別所部
落が続いて年貢もとれねば、人夫も差し出さんひどい所だ。むちゃすんな。止せ」
と慌てて諌めてやったものである。
 だが、玄蕃允は首を振って承知しない。
(‥‥せっかく童の頃からの仲良しに手柄を立てさせてやったというのに、そんな実
入りのない荒野の城を所望するとは、人の親切を無にするにも程がある)
と源五は立腹し、散々に翻意させようとくり返し忠告したものである。
 ところが、この男は人の親切が判らんのか、口にしたからには変更するのは恥だと
思うのか。頑固にそれを通してしまった。
 当時まだ二十一だった城主の信忠も、やはり諌めて、もう少し米のとれる所をすす
めたらしいが、玄蕃允が聞き入れないので、翌年長男が元服し、親の名を継ぎ、斎藤
新五郎と名乗ったのを幸いに、十三の伜を小姓に取り立て、加治田の城の埋め合わせ
みたいに切米五百俵の扶持を、改めて伜分として加増などしたものである。

「覚えとるぞ‥‥だが、その加治田の城がなんとした。云うてみいや」
(散々に人をてこずらせ、それでも頑張り通して我意を張ったくせに、今になって愚
痴でもあるまい。古い事を持ち出したりして、ぬけぬけとよくも言えたものだ)
と源五は五年前のいきさつを思い出し、ぶすっと膨れ面して運ばれてきた盃を受け取
った。すると、
「言っちゃ悪いが、お前様の兄は、とんだお人じゃった」
瓢(ふくべ)を傾けながら、男はそんな言い方をした。
「ああ、なんでも云うがよいわ。兄貴が生きとる頃は、皆恐ろしがって何にもよう云
わなんだくせしおって、本能寺でどうやら骨になったと判ってくると、おりゃの耳に
入ってくるのは『ありゃ、酷い男じゃ』と、ざん訴ばかり。誉め言葉なんか一つもき
かんぞ」
ぐっと呑み干すと、盃の雫をぴしっと切って、源五は顎を引いた。
 なにしろ童の頃から兄の信長に拳固で殴られたり、弓の折れたのでひっぱたかれて
いるところを、この男には見られている。今更隠しだてをしたり、兄を庇ってもしょ
うがない、とそんな気もしていた、
 それに、この男に(加治田城をうっかり貰って困った)などと愚痴を言わせるため
に、こっちも兄の仕打ちへ未練がましい繰り事を云うのもいやだった。なにも追従す
る事はないと思ったせいもある。
 だから源五は自分で手酌で傾けながら、
「はっはっは」と高笑いをしてのけた。
もちろん、意味もない馬鹿笑いだし、虚勢でもある。それなのに、
「なら、話してしまおうかのう‥‥」
と玄蕃允も苦笑いをして膝を崩した。
「弘治二年十一月に、わしが親父の斎藤道三が鷹狩にこの城を出た後で、大手門を閉
め、わしの異母兄義竜が、突如として謀叛して、わしの上の小さな兄どもを討ち殺し
て、とうとう親子喧嘩のような戦になった‥‥が、あの起こりというは‥‥お前様は
当時五つか六つで知りなさらんが、ありゃ、すっかり計略にはめられてしまった罠だ
ったのよ‥‥」
妙な事をいきなり言い出してきた。
「そんな訳知りの事を云うな。この俺が五つか六つならその方も鼻たらしの九つか十
じゃろ」
何を云っているかと源五は鼻先で笑った。
「そりゃ、そうじゃが、生き残りの者がよう教えてくれた‥‥なんせ尾張者みてえな、
平野でノンビリ育ったもんは同じ様な駿河平野の今川勢には太刀打ちできても、美濃
みてえな山国のもんにゃ、からっきし弱いもの。そこで、お前様の兄貴の信長という
人は、『父信秀の代より連戦連敗の美濃を何とか早く処置したい。己れの舅ながら道
三入道は恐ろしいゆえ、早う葬りたい』と念願したらしいが、なんといっても当時は
桶狭間合戦の前で、今川方から分取りの鉄砲類があるはずもなく、武器にしろ兵力に
しろ、とても義父には太刀打ちできなんだ。そこで思いついたのが、謀略じゃよ。
『義竜は将来の業病持ち。どうせ先行きは長くもなかろうから、うまくこれと道三入
道を噛み合わせ、一緒に倒してしまったら、熟柿が木からぽとんと手に落ちるように、
美濃一国が自分の手に落ちてこよう』と、そないに画策したんだわな」
「今になってそんな呆げた事を云ったって、なんの証拠があるかや」
(死んだらしからとて、そう兄の信長を悪者扱いにしてくれるな)
と、源五は大きく首を振った。
「あるある、大ありじゃ。わしゃ、そのため、信忠様が奇妙丸といって、まんだ四つ
ん這いの頃から自分で志願して小姓みたいに仕え、天正三年にあの方がここの城主に
なった時、他所へ土地や城をもらって独立するのを避け、わざと進んでその為なれば
こそ、ここの家老になったのだわさ」
「待てよ‥‥」
瓢を振る恰好で相手の口を封じながら、源五は考えた。少し話がひっかかるような気
がした。笑ってばかりはいられなくなった。
(妙な男である)
と、源五は今更のように向き合った玄蕃允の太い虎髭を見詰めつつ考えた。

「頼む」
と、わけを話して戦場へ出せば、この前の越中合戦のように、六千の兵を率いて獅子
奮迅の働きをして大手柄を立てるほどの実力をもっている。そのくせに、普段はてん
で稼ごうとはしない。
 普通の者は少しでも手柄をあげ、立身出世しようと心掛ける。中にはこすっからく
他人の武功まで騙し取って、それで出頭人になるたがる者さえいる。それなのに、こ
の男ばかりはまるっきりあべこべの生き方をしている。たしかに妙な所がある。
 兄の信長が「良き城を選べ」と、褒美にいったときも、
「もう信忠も二十歳を過ぎて一人前ゆえ、玄蕃允も美濃を出て、近江なり大和でよき
土地を持ち、兵馬を養って一人前の城持ち大名になり、ひどかどの武将になれや」
という腹づもりだったのに、この男にはそれがてんで通じないらしく、相変わらず美
濃岐阜城の家老職のままで甘んじて居残り、城も、やはり美濃国内の、それも遠慮し
たのか、よりによって山地のひどいところを恰好ばかり貰ったにすぎない。
 だから当時、誰もが玄蕃允の無欲ぶりに呆れ、
「少し、おつむが弱いのではないか」
とさえ、そんなひどい取り沙汰をされたものである。
 だが、源五はずっとこの男を側から何十年と見ている。お人好しでとろいかもしれ
ぬ。だが、莫迦たわけなどではなかった筈である。
(すると、この男、ひねくれもんで、これまでは世の中をすねて投げていたのだ)
源五も腹の中で呟かざるを得なかった。
 勿論、22日になって秀吉が織田信孝と共に不破の長松まで押し寄せてくると、彼
は降参してしまった。