1152 信長殺しは秀吉か  2

御坊源三郎
1
「おかしい‥‥人間は当てがない事には、とても骨折りはできんもんだが、夜明けか
ら、もう三時間近くも、十四、五の稚児小姓まで加えて三十人。厩中間が、駒一頭に
つき馬の口取り一名とみて同数。たんだ、それだけの人数で、堀や囲いもできとらん
本能寺を守り固めて、どうして戦っとるんだろ」
 本能寺門前の京所司代職宅の裏口から駆けつけてきた村井長門守父子の火急の知ら
せを耳にした時、まず織田源五郎は、それに不審を抱いた。
 中将と呼ばれる二十六歳の甥の城介信忠も、まだ勘九郎といった幼少の頃から、信
長の長男として明け暮れ戦場に出されているだけに、
「まことに囲んでいる人数は、一万の余もいるのか」
と何度も繰り返して同じ事を尋ねていた。
(一万何千の兵力で、たった七、八十人の馬の口取りや小姓共しかいない寺を囲んで、
そんなに手間ひまのかかるわけはない。一間巾の惣堀はあっても、矢狭間・鉄砲狭間
の類もない)
と、源五郎も同じ思いで、どうにも腑に落ちなかった。
「あの二町四方の本能寺の周囲は、堀をこさえた時の浚え土を盛り上げ、築地にした
土堤が、ぐるりを取り巻いているにすぎないではないか。それに、上様の調度はある
が、子供どもや中間は物具はおろか、道具さえない筈」
父の信長の事をいつもの癖で「上様」と呼びながら、信忠もさかんに不思議がった。
 調度とは弓のこと。仏具とは鎧。道具と呼ぶのは槍の事である。
(腹巻一つ持っていない素かたびらの小姓どもが、脇差ぐらいの短い打刀を振り回し、
まるで餓鬼どもの戦ごっこのような真似をして、それで一万余からの弓鉄砲を持つ甲
冑武者を、何時間もくいとめている)
というのである。
「そんな莫迦(ほお)げたことが‥‥」
と源五が小声でもらすと、信忠も暗い表情でうなずき、
「寄手にやる気があるなら、わーっとかかれば、ものの一息つく間もないものを、な
んじゃろ。解(げ)せん」
と眉をねじるように顔をしかめた。そして、
「まことに馬印は白地四手しない、なのか」
首を傾げて、信忠は又不審そうに呟いた。
 白地四手しないというのは、白紙を切って榊葉に吊るし、神前に供える形の大きな
ものが、四方に垂れ下がった、明智日向守光秀の馬印である。
 勇猛果敢でなる明智勢なら、鉄砲をうちかけ弓を射て、わーっとかかってゆく筈な
のに、村井長門守が駆けつけてきての注進では、ワアワア言ってはいたが、攻めるよ
うな様子もなく、といって普通でもないという。おかしい、ということにならざるを
得ない。
(攻める気でなくて、本能寺を何故包囲しているのか)
という評定となって、主だった者が呼ばれて集まった。
 すると、昔桶狭間で今川義元の首級をあげた近習の毛利新介が、
「白地四手しないの馬印など、白紙さえあれば‥‥そりゃ子供でもすぐ切って、手軽
に作れるもの。そりゃ、事によったら、偽りの馬印ではあるまいか」
と云い出した。
 すると、やはり今川義元に一番槍をつけ、腰を斬り払われて討死した服部小平太の
跡目の小藤太が、
「一万の余も人数を持ちながら、僅か六、七十人の小姓や中間にくいとめられる程、
明智惟任なら戦下手ではない。それに、この妙覚寺に中将殿がおられるのは先刻承知
の事ゆえ、もし光秀の謀叛なら、五、六千人ずつ二手に分かれ、こちらの方へも、わ
ーっと寝込みを襲って攻め寄せている筈。それなのに物見のような者はちらついてい
るが、とんと、まだ攻めかかってくる気配もない。こんな莫迦げた戦ぶりが又とあろ
うか。合点もゆかん。‥‥皆の衆も同意見でござりましょう」
と言い出した。
それに信忠もうなずいて、
「わしを無視して、こちらへかかって来ないとは、こりゃ又理不尽な間の抜けた采配
ぶり。一体、明智の偽装した何処の兵だろうか‥‥」
と首を傾げてしまった。そして、とにもかくにも、まず四条西洞院の本能寺に、すぐ
さま押し出し、囲んでいる輩をすぐにも退散させねばと、信忠はすぐ馬揃えを命じた。
すると、村井長門が、
「こちらへ攻めかかってきませぬのは、放っておいても、中将様が押し寄せると目通
しを立て、向こうは待ち構えている証拠。みすみす、それを承知で罠に落ちに行く事
はござりますまい。お止めなされませ」
と、信忠の卯花妻取りの明るい緑色の鎧の袖を、掴まんばかりに押しとどめた。
「といって、もし、この侭にしていては、押し寄せられた時は厄介至極」
菅屋九右が、居並ぶ一同を見廻した。
 この室町薬師の妙覚寺は、昔斎藤道三入道が小僧奉公をしていたこともある日蓮宗
本山の一つで、構えは壮大だったが、寺院の事なので土塀だけはあるが、他には防禦
物は、これといってはなかった。
 それではと評定したあげくが、近くの二条御所が良かろうということになった。衆
議一決である。
 御所とはいえ、もともと信長が先の足利将軍義昭のために建てたもので、以前は二
条城とよばれ難攻不落を謳われる程の堅固さで、構えも厳重。洛中、洛外、そこしか
外には拠るべき所はなかったのである。
 源五も、甥の源三郎らと共に馬に跨り、信忠の供廻り五百騎と共に二条勘解由小路
の室町にある御所へ移ることになった。
 外へ出ると、もう夜明けから三時間半もたっているので夏の陽射しはまぶしかった。
が、暫く進んだ時、
ガバァンダァーン。
突然聞こえた。物凄い響きだった。
馬が驚いて竿立ちになった。
「はて、本能寺の方角じゃが、向こうはまた降りなのか。百雷が一時に落ちたような
凄まじさではないか。耳の孔がつぶれそうじゃった」
と馬の手綱をひきしめつつ話していると、
「落雷じゃのうて本能寺らしい、見てみい。さいかちの森の蔭から黒煙が見える」
と指差した者が出てきた。騒然とした。
たしかに煤煙にも似た黒い翳りが本能寺の上のあたりを覆いかぶしていたからだ。
「急げッ」
誰かが叫んだ。みな顔面を引きつらせたまま、二条御所へ、まるで逃げ込むように急
いだ。信長の伜のうちでも年下の「御防」と呼ばれている源三郎は声をたてて泣いて
いた。

2
 [二条]御所に行く途中、攻撃されるものと覚悟して、鉄砲には火縄をつけ、弓に
は弦をはり、槍は鞘をとって進んで行ったのに、不思議な事に一兵も敵は姿を現さな
かった。
「敵のやつばらは、本能寺を取巻いて、火事見物でも致しとるのでしょうか。
と前髪立ちの御坊源三郎が前屈みになって駒の立て髪を撫ぜながら、怪訝そうに話し
かけてきた。
 そう言われると、全く莫迦げた具合だった。妙覚寺を出立すれば、洛中、行く先は
誰がみても[二条]御所に決まっている。石櫓をかまえた堅固な要塞に立てこもられ
たら、攻める方としては厄介千万な事である。それだから食い止めるため、待ち伏せ
しているか、遅ればせながらでも四条から駆けつけてくるべきなのに、てんで敵は押
し寄せてこない。
(さては、二条御所は、もうとっくに彼等の手に落ちているのではあるまいか)
そんな不安に源五は脅えた。だが御所へ近寄ると、三方の大門もそのまま、跳ね橋も
上げてなく、敵兵らしい姿も見当たらなかった。
「無為無策。あやしすぎる‥‥」
憤ったような顔つきで、用心しながら、信忠の供廻りは御所の中へ入り込んだ。
 そして一人残らず渡り終えると、慌てて直ちに三ヵ所の跳ね橋を上げてしまい、鉄
門も締め切ってしまった。そして、
「ここへ入ってしまえば、もう占めたもの」
と誰もが安堵したように、吻っとした顔をお互いにみせあった。
「不審な事だ。もし明智の逆心なら、あの男は上様初上洛の以前より、この先の明智
の二条屋敷の向こうに、昔からの大邸宅を構えている。なにしろ初めて上様が御所へ
参内なさった時も、姉川の合戦の後も、そこへ泊まられたぐらいだ。だから軍法に明
るく、地の利を弁える光秀なら、己が二条屋敷と昔の邸宅に挟まれたここを押さえぬ
法はない。こりゃ、どうみても何処ぞの田舎の軍勢らしい」
と、紫紺威しの鎧の福富平左が、若武者どもに教えている時、
「今になって敵が近寄ってまいります」
物見に上げた者が石櫓から知らせてきた。戦機は熟した。
 その頃合になって、もはや戦は避けられぬとみてとられたか、先の将軍義昭の代り
にこの御所に住んでおられる帝の皇太子、一の宮におわす誠仁親王が、皇子や女房た
ちと共に上の御所へ遭難したいと、吾妻御門より勢揃いして、連歌師里村紹巴が担が
せてきた迎え輿に乗って出御された。
 そして、ようやく周囲が騒がしくなり、西側の町屋の方へも敵がとりつき、二条御
所はぐるっと周りを包囲された。
 駆けつけた村井長門守や、その伜の清次、作右の言ってたとおり、白紙の四手しな
いの馬印が、眩しい皓い陽射しに、ちかちか照り輝いて見えてきた。
 だが見参してところでは、気のせいかもしれないが、榊形に切りそろえて垂れ下が
っている紙が、不揃いの切り方のようにもみえ、風にひらめきすぎるのも、なんとし
ても重みがなかった。
「丹波亀山六十万石の太守ともあろう光秀が、大切な己の馬印を野武士みたいに竿の
先にくっつけてくるという、そんな呆(ほう)げた事があろうか」
光秀とは親しかった野々村三十郎が、黒の厚板鎧を光らせつつ、汗を滴らしながら、
大声で側の者達に喚いていた。
「そういえば‥‥」
と、村井長門守も唇をひそめて言った。
「上様は、夕景に戻られる遠のりの軽いおつもりで、一昨日安土を出てこられたに、
日帰りの御予定が雨で一泊に延び、昨日は晴次第に引き上げられる筈のところを、中
将信忠様と我らを本能寺へお呼びなされて、御懇談。まだ明るかったから、つい長話
になって、気付くともう晩景(ばんげ)。
 今度は中国へ御自分で乗り込まれるから忙しい、とは口にされていたが、供廻りの
小姓どもの中に、力丸、坊丸といった年弱な者達もまじっていることだから、夜露を
早掛けで安土へもどるのは可哀想。もう一泊して朝の早立ちにすると仰せあったのは、
もう随分とも昨晩おそくなってからのこと‥‥もし明智の京屋敷の留守居の者が、そ
れを耳にして早打ちを出したところで、丹波亀山へ到着は今朝のことだろうに‥‥は
て、その頃はもう本能寺は取り囲まれていた‥‥なにしろ一番鶏が鳴きだした頃には、
もう軍馬のいななきがして、小豆色の空から薄明かりが洩れだした時分には、もう本
能寺は十重二十重にぎっしり囲まれておった‥‥すりゃ馬印を明智のものと聞いて、
早呑み込みしたが、本当は何処のどいつめでござろうな‥‥」
 源五は、その村井長門守の話を聴きながら、
(‥‥もし光秀の逆心なら、彼は昨夜、まだ兄の信長が本能寺へ二泊をするか否かも
決めもしない先に、やまをかけて丹波から出陣してきた事になるが、そんな莫迦げた
話があるだろうか)
と考えてしまった。
 なにしろ、丹波の亀山から三春越しに大江山を抜け、保津川を渡って入洛するには、
徒歩の夜行軍では片道七時間はかかる。
(とてもじゃないが。知らせを聞いてからの出陣では、上洛するのは昼近くなるだろ
うし、といって、どう考えても、やまを張って見込みで出てくる筈などはあり得ない
‥‥なにしろ普通なら、兄の信長は昨日の昼過ぎに雨が晴れていたから帰る筈だった
のである。それが、もう一泊延期したのは、これは予定外の事。そんな偶然を巧く掴
んで、光秀が逆心を抱けるわけとてない。これは、もっと近間にいて、昨夜の変更を
早耳でつかみ、それから用意して、すぐさま押し寄せてきた奴等の仕業ではあるまい
か)
と思った。他の者も、やはり考える事は源五郎長益と同じらしく、みな口々に、
「こりゃ、惟任日向ではない」
と首を振った。だが、そうかといって、
(では、誰か?)となると、みな迷った。

「浜松の家康殿が怪しい」
と侍大将の福富平左が言い出した。なにしろ家康なら十五日に安土へ招かれて、そこ
で供応され、二十一日からは京見物に入洛。上様が安土から出てこられた一昨日から
は和泉の堺にいる筈だが、目にみえては数百の供揃えでも、その連れてきているのは、
これみな一騎当千のくせ者ぞろい。それに上様に三千両献金して、千両は戻されてい
るが、噂では万と持ってきているそうだから、それを資金にして一万ぐらいの兵を集
め、それで不意を襲ってきたのではないか‥‥
 堺からならば、昨夜、本能寺にて上様がもう一泊と予定を変えられても、近間だか
ら、楽に陣揃えしても充分に間に合うし、家康の配下なら、洛中の地理に暗くて、こ
の二条御所を囲むのが遅れたのも、これまた当然だと云うわけである。
 なにしろ、他に実力のありそうな衆は、滝川一益は、関東管領として上野国の厩橋
の城にいるし、柴田勝家は上杉攻めで越中魚津城を攻めている最中。羽柴秀吉は備中
の高松攻めで、これも遠すぎて問題外である。
 丹羽五郎左だけが近くの大阪城にいるが、これは織田三七信孝を大将に奉じて、た
しか今朝、住吉浦から船出して、もう四国征伐に遠征していて留守の筈である。
「中国行きを命ぜられている明智光秀も、十七日に坂本へ行き、二十六日から丹波亀
山の本城へ戻っているが、二十九日には弾薬などの長持百個を、もう中国へ送ってい
るから、昨日あたり、とうに出陣している筈である」
と声をからして、しきりに信忠の使番の坂井越中も言い張っていた。
「荒木村重か松永弾正の一味、又は六角承禎の残党どもではなかろうか」
と、毛利や服部は言った。
すると、石山の本願寺が毛利の援助を受けて、また叛いたのかもしれん。
 異見も乱れとんで、揣摩臆測しているうちに、ようやく陣立てを揃えたのか、押し
かけるように濠へ寄手の連中は近寄ってきた。

3
紅黄青三色合わせの樫鳥(かつお)おどしの鎧袖をもちあげ、眼を赤く泣きはらした
ままの源三郎は、むうっとして、
「どこのどいつとも判らん敵を相手に戦うは、まこと張りあいのでないもの」
大人びた口調で源五に話しかけたとき、
「一万余の軍勢を動かすからには、並の者ではありますまいが、それにしては、攻め
口にしろ、駆引きにしろ、御覧なされませ‥‥てんでん、ばらばら、さながら烏合の
衆の寄せ集めのようでござりまする」
 中将信忠の近習頭の鎌田新助が寄ってきて、ぐるっと眼下の寄手を眺め廻し、指を
さしつつ源三郎にそんな具合に説明をした。
「なるほど。戦上手な明智光秀の軍配とは、どうみてもこれはうなずけませぬな」
いつの間にか側へきたのか、尾州刈谷の城主水野宗兵衛が三間槍を杖に立っていた。
この男の長姉が「於大」といって、今は久松土佐の後家だそうだが、徳川家康の生母
にもあたるという話を源五郎長益は想いだした。だから、もし寄手が徳川家の者なら、
この水野はこちらの様子を窺うために、わざと同行しているのではあるまいかという
危惧をいだいた。
 だが、近習頭の鎌田は振り返って頭を下げ、
「これは、これは、高名な水野さま。今日もさぞ、めざましい手並みをお見せなされ
まするか」
と、少し追従ぎみに声をかけていた。
「己れが手勢を何百なりと連れておりませば、その手本に武者もしまするが、この齢
で、我が身一つで働いても、足軽小者なみの匹夫の勇。さてさて難儀な事になりもう
した」
宗兵衛は白い顎髭をつまんで笑った。
源五もつきあいに頬は綻ばせたが、腹の中では、
(本能寺で小姓や厩仲間が何時間もの間支えていられたのも、こうしたまとまりのな
い連中に包囲されたいたせいだったろうか)
と、眺めていたが、そのうちに、やっとの事で濠の近くまで寄ってきた連中が弓に弦
をはったり、鉄砲の火縄に点火などしだした。
(毒を食らわば皿までというが、今度は性根をすえてかかってくるらしい。本気で向
かってくるのか)
と源五郎長益も眼を光らせた。
そして、
(それにしても、村井長門守が『邸前の本能寺の上さま御宿所へ、夜明け前より、ひ
たひたと人数が集まってまいり、『何奴っ』と誰何(すいか)しても、一向に要領も
得ませぬで、ひとまず『御注進』と妙覚寺へとんできてから、最前の天地をつんざく
ような大爆音まで、えらい時間の隔たりがありすぎる)
と考え込んでしまい、
(事によると、こうした具合にノンビリと囲まれていただけなのに、『何をぐずぐず
しとる。いつまでも何たるていたらく』と、包囲している連中へ、何処からか重圧が
かけられたか。そうでなければ、新手の別動隊が、これに加わって、情け容赦なく弓
鉄砲をうちかけ、わーっと一気に押し込み、兄の信長を取り逃がさぬように、大筒を
固めて撃ちかけ、あっという間に土堤を乗り越え殺到したのではあるまいか。本能寺
の柱に火の手が上がって煙を出したのを見たのは八時近くゆえ、甲冑武者一万余に対
し、素肌同然の小姓や中間八十人と、弓と槍を持っていたのが兄の信長一人という劣
勢で、四時間近く戦ったとは、どう計算してみても、いくら兄が神業の振舞いであっ
たとしても、こりゃ、とても考えられない話ではある)
と源五は、首をひねらざるを得なかった。

(なんせ、あの兄の信長という男は、安土城が落成したとき、白目石とかいうツルツ
ルした石像を運びこませ、注連縄をはらせ、それを自分に見立て、
『わしこそ‥‥この今の世に蘇ってきた<神>そのものである。余の他に造化の神は
ない』
と、実の弟の源五にさえ、その石に礼拝させてはいたが、現実に一人で一万に当たれ
る道理はない。神業といったところで、やはり限度というものがあろう。
 それに同じ父親の伜でありながら、なんで兄だけ一人が神様だという‥‥そない馬
鹿げた話があってたまるかや)
と考えてゆくと、どうも、最初に取り囲んだ軍勢と、四時間後、天地をひっくり返す
ような爆音を轟かせ押込んだ手勢とは、こりゃまるっきり違うらしいとしか、源五に
は納得できなかった。
 すると、前の軍勢は誰で、後のは何処の手勢だろうか、ということになるが、その
時、
(あっ、三七が四国へ行かずに謀叛した)
と、はっとしたように思い当たった。

4
 三七信孝は、嫡男信忠や次の信雄らとは母違いで、小島の後家どのである板御前の
子である。
 源五郎には兄にあたる織田信包の妻の兄の、神戸具盛のところへ養子にやられ、そ
の娘を娶っていたから、「神戸信孝」ともいっているが、信長の伜どもの中では抜群
の男として、柴田や滝川といった老将どもからも受けがよい。
「信長にそっくりだ」
と評判も高いから、上の二人は信孝をとても嫌っている。特に母違いの信雄とは同年
同月の生れというだけに、幼い時から犬猿の仲である。
 ところが、信長の気に入りの嫡男信忠と信雄は実の兄弟だけに、昔からの事だが、
二人は組んで、いつも信孝を邪魔者扱いにしている。
 今度、四国征伐の総大将を言いつけられたのも、土佐の長宗我部を討ち、四国全土
を平定したから、そこへ納まって四国管領にされ、安土の信長の許から、遥か遠ざけ
られる事になる。もとより、これ信忠・信雄ら兄達の献言による事ぐらいは、当人の
信孝もよく知っている事だろう。
 そんな島流しみたいな恰好で遠隔の地の四国に追いやられてしまえば、もはや天下
に望みをかける夢もなくなる。だから信孝にしてみれば、
「船出するか、しないかは、一生の別れ道となるところ」
だから、乾坤一擲、謀叛もしかねまい。
 同じく本丸にいる補佐役の丹羽長秀も、織田の家では、信行付だった柴田勝家より
古い家人の筆頭で、譜代衆である。
 世が世なら「一番おとな」の恰好であるべきなのに、安土城の普請とか、佐和山の
造船といった事ばかりやらされている。つまり今では一益、秀吉、光秀といった新参
者に追い抜かれ、一手の大将として軍配を預けられた事もない始末で、この男が腹の
中では信長を快く思っていないのは判る。
 同じく、本丸にいるのが源五郎とは異母兄になる織田信包。
三七信孝には伯父の立場だが、婚閥からいっても、信包の姪が嫁いで二重の血縁。
それに、兄信長は伜の信雄に十万石、信孝にさえ五万石やりながら、弟の信包には僅
か五百石しかくれていない。だから、吝な信長や、邪魔になる信忠を亡きものにして、
信孝に天下をとらせたら、今の五百石が、少なくとも百倍の五万石ぐらいにはすぐ増
えるわけである。
 信包だって、そこの勘定はあるだろう。なにしろ子供の時から欲が深くて、柿の実
や梨の実を一つずつ分けてもらって噛りかけると、ずっと年上のくせして信包は、さ
っと皆のを横取りしては源五ら幼い弟をよく泣かしたものである。
(あの異母兄なら、自分から信孝をけしかけたかもしれぬ。間違っても諌めなどしま
い‥‥)
と、源五は眼のぎろっとした背の高い、痩せ型の織田信包の姿を想いだしてみる。
(そこで、その本丸の連中が先に本能寺へ押しかけ、四時間後に到着したのが織田信
包)
と、源五は考えてみた。
 大阪城ニの丸に三千の兵を率いて、渡海のために泊まっている織田信澄は、津田七
兵衛と名乗っている。
 というのは、今を去ること二十五年前、つまり彼が赤ん坊の時に、当時まだ二十四
歳だった父の武蔵守信行は信長に謀叛のかどで殺されている。
 いくら子供の時の事とはいえ、信長は彼にとって不倶戴天の親の仇である。
表面は、今日までそしらぬ顔で信長に仕えてきてはいるが、まさか腹の中では片時と
いえども忘れてはいまい。
 だからこそ、初め三七信孝や信包が押寄せたが、そこは身内の事で、もたついてい
るし、丹羽五郎左長秀にしても、何十年も仕えた恐ろしい主君なので、二の足を踏ん
で躊躇していたところへ信澄が現れて到着し、
(なんで猿楽の所作事みたいに愚図ついておられる。我らに任せなされ。いざや親の
恨み、はらしてくれん)
とばかり、己れの手勢をもって大砲を撃ち放ち、本能寺を爆撃し、一気呵成に討ち込
んで、あっという間もなく片づけ、それから二条御所へこうして押寄せて来てるので
はないか。
 どうも、そう受けとるのが解釈としては順当のようである。
なにしろ、丹波の光秀や堺の家康よりも、大坂の信孝なら一番の短距離で、夜中すぎ
に(信長は二泊)という情報をとって、それから進発してきても、そこからなら楽に
夜明けまでには入洛できる距離なのである。
 それに何といっても、信孝ならば、四国行きを見送ってさえいれば、武器弾薬から
糧秣か御用金まで、すっかり揃えた完全武装の一万余の兵を掌握している筈である。
(兄の信長は、尾張を統一するまでの八年間、その兄を二人、弟も一人、次々に謀叛
人としてまず首にし、次いで伯父すじの守山の信光、清洲の信友、岩倉の信賢、信家
‥‥血脈を次々と根絶やしにした。だから、信孝が本能寺へ向かって親を襲ったとし
ても、おかしくはない。なにしろ、彼も信包も信澄も、みな織田の一門なのである。
つまり同族相殺の宿命的な、そんな謀叛気質がそれぞれの体内に流れているのは宿命
的なものなのだ)
と源五は、そんなふうに諦めてしまった。

5
「どうじゃ。そなたの眼では、こりゃ何と見る」
甘えるように、寄り添ってきている源三郎に、身内の心安さで伯父にあたる源五は話
しかけてみた。子供の純な見方のほうが、こうなっては正鵠を得るかもしれんと考え
たからである。
 甲州へ武田攻めに行っていた間も、ずっと源五に馴れて、いつも腰巾着のように側
へくっついていたが、向こうでも遠目のよくきく子で、いつも源五のために物見など
してくれた源三郎である。それが、
「鉄砲衆の身なりがちぐはくで、藁帽子などかぶっていますゆえ、ありゃ、山がつの
猟師どもではござりませぬか」
と指差し不審そうに呟いた。
 頑是ない頃から美濃岩村城へ養子にやられ、ずっと山の中の暮らしが長かっただけ
に、山者の区別が子供でも一目でつくらしい。
それを聞かされると、
(そんな、おかしな風体の山の者を、わざわざ船へ乗せて四国へ連れていくはずもな
い‥‥では、これまで考えていた信孝の寄騎共とは、これは違うかもしれん。さては
間違ったか‥‥)
自分の判断が心細くなって、櫨(はぜ)匂いと呼ばれる五色鎧の袖を持ち上げ、源五
は汗を拭った。
 そして、(けたましい爆音がして、それで煙が見えたからといって、本能寺で、あ
の兄はまさか死んでなどいまい‥‥)
と考えた。
 もし信長を討っていたら、どこでもやることだが、三間槍の穂先にその首を突き立
て、これみよがしに、うち振る筈である。だが、てんでそんな様子もない。
だから(兄は無事なんだ)と思っているやさき、
「上様が安土より間もなく御到着。瀬田、石山寺の山岡兄弟を先手とし、総勢二万で
すぐ駆けつけられる由、只今濠を泳ぎ渡った者が矢文で知らせてまいりました」
と、信長生存を裏書するような吉報を、汗水たらして大音声で呼び廻ってくる若武者
がいた。
 誰かと兜庇(かぶとびさし)から覗きこむと、信忠の家老、斎藤玄蕃允(げんばの
すけ)の嫡男新五郎だった。
 父親が留守居城代として岐阜の本城を守っているから、その名代として、このたび
の甲州御陣に伴してきて、そのまま妙覚寺にいたものである。
「そうか、この濠は深そうだが、泳げば渡って渡れぬ事はないのか」
と、源五は青黒い澱んだ水面を見下ろした。
 そして、
(山岡景隆と景佐では、瀬田と石山の城を併せて、兵力は二千ぐらいだから、定めし、
あとは安土勢)
つまり兄の信長が本能寺から無事に安土へ戻ったのは本当らしい。だから安土城の本
丸御番の津田源十郎や遠山新九郎が城内の馬周り衆を陣揃えさせ、それにニの丸御番
の蒲生の兵でも併せ、それで二万の軍勢にして押寄せてくるのだろうと数えだしてみ
た。
(安土から京までなら急いでも四、五時間はかかるが、先手が山岡なら、その居城の
瀬田や石山寺からなら京へは近い。では、おっつけ着到だろう)
という具合に誰もがみた。
そこで、鹿の角を前立につけた大兜を、ひとまず頭から近習にとらせた信忠が、汗を
ぬぐいつつ、
「急(せ)くことはない。午下がりまでには怖じ気をふるって立ち退くであろう。そ
の機を逸せず、こっちも討って出て、山岡の手の者と挟み討ちにしてくれよう。な、
如何じゃ」
と、やっと蒼ざめた頬を蘇らせたように紅潮させて、一同を見渡した。
これで、一安心と居並ぶ家臣の聞いている方も、みなほっとした。
 米倉を開けさせた。大釜がないから、分けて炊がせた。そして朝からの空腹を満た
すため、とりあえず順に握り飯を喰い、打ち出すときの用意にも、つないだ馬にも飼
葉や水を与えさせた。
 なにしろ信長からいつもの口癖に、(わしはこの世の神ぞ)と言われどおしだった
から、あの凄まじい爆裂音や本能寺の社の煙をみても、誰もが(信長様が死んだ)な
ぞとは本心から思っている者もいなかった。だから、
「上様に謀叛するとは、とんだたわけをする莫迦者ではないか」
などと口々に言いながら、まだふけていない強飯(こわめし)のように硬い握り飯を、
ふうふう言いながらみな食べていた。
 というのは浅井長政にしろ、荒木村重、松永弾正、みな謀叛した連中は、これまで
誰一人としてろくな目はみていない。だから、今度とてもその伝だろうぐらいに誰も
が気安く考え、みなノンビリと構えていた。
 御所の前庭の植込みに白いくちなしの花が咲いているのが、源五郎の眼にとまった。
幅広い緑色の葉に囲まれ、むんむんする強い匂いを立ちこめて匂わせていた。
 すると、側で握り飯を食べ終わっていた十三歳の御坊源三郎が鎧の袖を伸ばしてむ
しりとり、まるで誇るようにして摘んできて、くんくんと白い花に鼻をつけ匂いを嗅
いでいた。
源五も微笑んで、それを眺めていたものである。