1149 秘聞 柳生石舟斎 12

陰流と陰流

「蔭とか陰と申しましても、決して物の暗い部分の蔭とか、光による影の意ではあり
ませぬ。露わなる物象に隠れた見えない幽玄なるもの、つまり根源的な実相をこそ、
さすものであるやの由、てまえ師匠より愛州陰流を習いし折に、口伝をうけおります
るが‥‥」おずおず言うと、
「それだけか‥‥自分でそれ以上に考究した事はないのか」
「はあ、師の教えゆえいっこうに‥‥」
「じゃろうのう。その説明では、見えない幽玄なものが蔭であり陰であるとするが、
それでは心ということになり、心の形つまり心形となる。つまり神の経(たていと)
をいう神経の事になるな。でないと森羅万象それ形あるものは、これに陽が当たれば
必ず影をやどし、陽暮るればみな陰となる究理の途にそむく事とならん、いかがであ
るか」
「はあ、さようにござりまするか‥‥」
「異論があらば申してみよ‥‥その方の説く陰流では、心形つまり神経の働きいかん
ということになって、動く神経の活発なものにはできても、生来その動き鈍きものに
は、多少は稽古にて早うなっても、もともと駄目なものには上達が望めぬというわけ
になろう」
「そりゃ仰せられるまでもない事でござる」
「ならば、刀の心とか、見えない幽玄なものといったような、天竺人の達磨大師の禅
問答の如き、わけの判らぬ言い逃れを致すな、そういうのを詭弁ともうすのだわ」
「うへっ、そない申すのでござりまするか」
「そもそも武の道は本朝にあっては、鹿島、香取の両神道にその根幹をきざすと、も
のの本にて読んだ事があるが、それはあくまでも剣の道である。存じおろうのう‥‥」
「はあ‥‥剣と刀とは違いまするか」
「なんじゃ、その方それしきの事も、まだ存じよらなんだか」
「いっこうに知り申さずにそうろ」
「剣とは諸刃つまり両刃のもの。刀とは片刃のもの。本朝へ天降りたまいし神々が持
ち伝えられたは剣にて、それにて大八州(おおやしま)の国々を治められたもうたの
じゃが、人皇第六十八代後一条帝の寛仁三年(1019)に壱岐対馬より肥前怡土
(いど‥‥伊都)郡に至るまで異狄が来寇。翌年閏十二月二十九日には碧眼紅毛の蛮
賊、また夥しき舟師を率いて薩摩大隅半島に上陸東上せし事があった。よって時の関
白藤原頼通公はおん父である太政大臣藤原通長公に諮(はか)られ、それまで山々に
散らばらせ隔離してあった俘囚の裔をもって、この未曾有の国難に当たらせんと人狩
りをなされた。
 が急場の事ゆえ、村里の鍛冶屋へ残らず命じ、剣を鍛えさせたが量産が間に合わず、
よって手間を省き増産のために片刃だけの刀を作り、これを俘囚の裔には持たしめた
もうたるによって、この時の外憂を、唐(もろこし)の言葉にては一をイとよぶゆえ、
刀一(伊)の乱と我が国でもいう‥‥」
「うへえっ、それでは藤原氏がごとき公家衆は陽の民で、それまで被征服民として山
や島に隠れ住もうて生き長らえ参りし者が、蔭の民にござりまするか‥‥」
「その通り、やがて外憂の方はなくなったが、永承六年(1051)に陸奥の蝦夷阿
倍政良が乱を図り、陸奥守藤原登任らが討伐に向かったが逆に討たれた。
 そこで俘囚の裔の長吏頭源頼義が思し召しによって、陸奥守に任ぜられ追討の次第
を命じられた。が、彼は刀の部族のものゆえ剣は賜らなかった。事後、征東大将軍、
征夷大将軍の制ができたが、節刀を下賜されることはあっても、剣は下しおかれる事
がないのじゃ」
「そうした差別があったのでござりましたか」
「前九年後三年の役の後に、失業せし者どもを白河上皇様が御所の警備に採用せしめ
られ、これを北面の武士とよんだ。よって、その嘉保(かほう)二年(1095)よ
り、武士なるものは正式に誕生したのだが、あくまでも攻撃用の両刃の剣は持たされ
ず、攻めくるのを防ぐに用いるだけの片刃の刀を持たされるにとどまった。そこで武
士たる者は、剣ならば突く事も左右前後どちらへも両刃ゆえ立ち向かえるのが、刀に
ては一方にしか用の立てぬ不便さに、矛や戟に似たる槍をもって主戦用具となし、刀
は敵の首を斬る際の包丁ぐらいにしか使わぬようになった‥‥よって槍術には、大和
の宝蔵院流をはじめ名だたる名門も多いが、刀はまったく顧みられぬものゆえ、その
方の弟子の卵割りも珍しがられたのであろう」と、ずけずけ言った。
 ----この男、北条氏長は曾祖父と同じ名乗りだが、元来は遠州高天神城主正成の跡
目だたった。それが武田信虎一万五千の大軍と飯田河原で決戦し父と城を失った後、
北条氏綱の女婿となって北条氏を名乗ったのである。そして天文七年にはわずか五百
の兵で、北条氏康と共に、関東進出を計って攻めてきた上杉謙信二万の大軍を撃破し
たという剛の者で、天正十五年に陣歿するまで戦うこと三十六回。いつも「勝ったぞ、
勝ったぞ」と黄地八幡の旗を振り回して敵中へのりこみ、一度も負けた事がなかった。
人よんで、「直八幡」と称された名代の英雄で、その曾孫北条安房守氏長が、彼の軍
学に武田兵法を加味して著作したのが、有名な「兵法雄鑑」前後二巻なのである。
 さて、聞きたいことがある、振舞ってやろうと連れ出されたのはよいが、あべこべ
にしゃべりまくられてしまい、げっそりした上泉伊勢守は、
「剣は陽の公家用のため、片刃で防禦専門の刀が、俘囚の裔の佩刀となったので、よ
って刀術は陽流正流の名は避けて、陰流、蔭流と称するのでござるか‥‥となると、
てまえ師匠より教わったごとき、陽に現れ内なるものの影といったような、禅寺の坊
主の説教のごときは、これまやかしの言葉の綾にすぎず、俘囚の裔ゆえにそれを取り
繕って申すのでござりましょうかのう」
もう、どうでもよくなて北条氏長のいうなりに合点してみせ、
「では、せっかくの馳走、冷え切ってしまわぬうちにいただきましょうかいのう」
もう、毒喰らわば皿までといった勢いで、むしゃくしゃ箸で口へ運んだ。なにしろ甥
だけが召し抱えられても、自分はこのままでお払い箱。
 どうせ今度はあの神後伊豆と二人だけで、あいやお立ち会いとやって旅を続けてゆ
くのかと思えば、手酌で瓶子の酒をがぶがぶ呷るしかなかった。
 それに、せっかく神がかりな気持ちで、新蔭流と名乗ったのに、
(刀は俘囚の民の裔にあてがわれたものゆえ、公家へ遠慮して陽流正流とはいえず、
蔭流、陰流というのじゃ)
とまで教えられてしまっては、上泉伊勢守としても面白くなく、
(どうせ、そう言やあ、わしらは日陰者なんじゃ)
と、ますますむしゃくしゃした。
 そこで三本並んでいた瓶子を一人であらかたガブ呑みしてしまった。そして、
「すっかり食べ酔ってしまい申した」と、出かかるげっぷを押さえているところへ、
「‥‥疋田文五郎殿お召し抱えの儀、大殿様より見合せるようお申し出なされました」
ここへ案内してきた武士が、さも残念そうに、そこへ告げに来た。
 これには上泉伊勢守もびっくりして、
「そりゃまた何ゆえに‥‥」振り向き聞き返したところ、
「‥‥大殿様仰せられなされまするのは、卵であれ矢玉であれ飛びくるものを打ち払
う疋田の刀術は、戦場にあっては真っ先かけて抜け駆けの功名を上げねばならぬ匹夫
下郎の術。いやしくも大将たるものには、そない芸は不用のものであると仰せあった
由にござりまする」と告げた。
 これには耳を傾け聞いていた北条氏長も少し気の毒そうに、高い鼻に皺よせつつ、
「上泉殿、ならばここより大和へ行かれるがよい。なんでも松永久秀の先手となった
柳生宗厳なる者が、この正月の多武峯合戦に、比叡山の僧兵どもを相手に稀代な刀術
にて、槍も及ばぬ働きをなしたとか、もっぱら海道筋の評判である‥‥おそらく貴殿
の卵割りの刀術とは相違あるやもしれぬが、刀が槍に勝った働きをなすとは、前代未
聞‥‥訪ねて行かれるも一興じゃろ‥‥これは些少じゃが、わしの話をよう聞いてご
ざった寸志。これを旅費に、早よ行かっしゃるがよい」
渋紙の銀入りの袋を文筥(ふばこ)より取り出して、上泉伊勢守に差し出した。


柳生家家譜

 正徳(しょうとく)四年(1714)に脱稿し亨保元年(1716)に版行したと
奥付のある「本朝武芸小伝」なる漢文体の書がある。これは「千城小伝」の別名もあ
って、日夏繁高(ひなつしげたか)の著作ということになっている。そして、その第
三十六に、上泉伊勢守のことは、
「父は上泉憲綱、一に憲縄に作る。伊勢守は初め義秀、のち秀綱、さらに武田信玄よ
りの信の字を賜りて信綱と改め、伊勢守に任官、晩年は武蔵守と名乗る。<関八州古
戦録>に金刺秀綱とあるのと同人である」とでている。
 しかし、「関八州」に出てくる金刺は、古代朝鮮語の城をさすサシの意味であるし、
それに武州氷川神社禰宜金刺正綱の子の秀綱の事をいっているので、上州上泉とは関
りは全くなく別人である。また同じ第六では、
「長野信濃守に仕え箕輪の城にあったが、永禄六年二月二十日に長野信濃守が武田晴
信(信玄)に滅ぼされ、城は落ち上泉伊勢守も浪人した。信玄はこれを召し抱えんと
して、己が名の信の字を与え信綱と名乗らせたが、伊勢守固辞して受けず、疋田文五
郎並びに神後伊豆守を従えて旅に出た」
といった具合になっている。が、話ができすぎである。
 さて、柳生家歴代の記録を纏めたものに、「玉栄拾遺」全八巻がある、
これは神代から宝暦三年(1753)二月五日までの柳生家の系譜を、各代ごとに日
記風につけたもので、柳生の重臣萩原信之の筆になるものであるが、その序に、
「元弘、建武の乱から正徳、亨保、寛延の何度もの大火によって、資料とすべきもの
がなく、よって諸書を参考にして編集した」と断り書きが先にしてある。
 もちろん家臣が代々その扶持を賜る主君の家史を書くのだから、客観的な書き方な
どできようはずもなく、お家大切をモットーにまず冒頭に、
「本姓は菅原。菅原は天穂日命より出づ。中世、故ありて平姓をおかし、慶長年中に
本姓に復す」
となっている。
 だから本姓に戻るというからには菅原姓になったものかと思うと、そうではないら
しく、次は「新撰姓氏録」や「武家大系図」を引っ張ってきて、
「神別下、天孫条下日(にく)、菅原朝臣は天穂日命十二世孫」とか、
「十四世孫は従四位下宇合男、従五位古(故)人始めて、菅原姓を賜う」と、菅原姓
は神別系の姓であって由緒正しき天孫系であると、
「柳生家譜略」
という小見出しをつけながら、北野天神の菅原道真まで引き合いにだしているが、そ
の菅原が柳生に変わった引例など一行半句も出ていない。江戸時代に流行した系図歴
史の影響であろうか、全く関係のないものを尤もらしく並べだして、そのまま結びつ
けもせず、尻つぼみに終わらせている。
 が、それでは格好がつかぬから、「延喜式」の神名帳を採用してきて、「大和国添
上郡夜支布山口神社」の名をひき、
「これをみると往古は、夜支布といっていたものであるが、里俗に言うところでは、
先君が江州よりここへ迂居(転住)してきた際に、柳枝を携えきて地面にさしたとこ
ろ、その枝が大木に繁茂したから、まず柳森の名をつけ、そして夜支布の文字を柳生
とするというも、年歴真偽未詳なり」
と逃げてしまっている。つまりこれが、柳生家名の起こりであるというのだが、ここ
で留意したいのは、
「先君が江州から移ってきたとき」というように、柳生の土地と主君の柳生家が初め
から別個で無関係であったとの主張である。
 徳川家も薬師寺十二神将の一人の生まれ変わりであると、天下をとった家康から秀
忠まではよかったが、三代家光からがらりと変わってきた。
 五代綱吉の代になると、皮剥ぎをして利潤をあげている薬師寺系や白山信徒を弾圧
するため、生類憐れみの令といった、獣物を殺すな、その皮を剥ぐななどの法令が出
たり、六代家継をへて七代吉宗となると、ますます差別政策がひどくなって、そのま
ま次の家重の代になった。
 つまり、その八代将軍の時代が、この著作のできた宝暦年間という事を考えると、
なぜ、柳生の家臣が、柳生の土地と柳生家を切り離して、己が主君の家系を他所(よ
そ)者扱いしたのかということも判り得るといえよう。
 この時代は江戸牢獄奉行石出帯刀(いしいでたてわき)の建てた関屋の碑文でさえ、
その出身地がいわゆる除地(のけち)で別所であったのを隠すため、削除されたよう
な風潮であったから、守戸上がりの山がつ呼ばわりされていた柳生の土地は、
「殿様の領地ではあるが、殿の出身地ではない。なにしろ殿は天穂日命のご子孫の尊
い出である」というのが、臣下としての忠義心からご奉公として、これには書かれて
いるのだろう。
 さて、「玉栄拾遺」という本は、まあこうした具合に、資料のないものを誇り高き
筆によって補っているものだから、上泉伊勢守に関しても、これを立派にしておかな
い事には、柳生石舟斎の師ともなる人物だし、柳生新蔭流の原点でもあるからして、
嬶天下に空っ風の上州から、女房に放り出されて出てきた男、などとはしていない。
おおいに権威をつけ、
「臣按ずるに、上泉秀綱は常陸国鹿島明神ノ神職で従四位下伊勢守なり、上杉定正ノ
直臣である」と出ている。なぜ「信綱」の名を避けたのかといえば、いくらなんでも、
武田信玄に攻め落とされた箕輪城の長野信濃守に仕えていたものが、敗北後すぐ尾を
ふって武田に降参して家来にしてもらい、信という字を賜ったというのでは、格好が
よくないと、それでやめにしたのだろう。
 しかし、それだけでやめておけばよかったものを、辻講釈の速記本といった「北越
太平記」や「東国太平記」「東国談話」の類まで麗々しく引用してきては、まず、上
泉伊勢守金刺秀綱の名を掲出し、次に、
「上泉主人佐金刺道治生年四十三歳討死」
「上杉家家老、上泉主水佐憲元、羽州にて討死」
といったのを並べて書き出している。
 これは何のための援用かといえば、初めに長野信濃守といったような無名より、有
力な方が誰もが信用しようと、(上杉定正ノ直臣)と自分でうたっている関係で、そ
の裏付けの為に上杉家中から、上泉の姓のつくものをもってきて並べたらしい。
 そして、まだ、その後へ続けて、
「宝暦八年、臣信之は上杉家の臣と会って上泉の話をしたところ、今も上泉志摩某と
いう方が上杉家寄合衆の中におり、その某は本国上州で先祖は太胡武蔵守信綱であり、
その四代目源五郎秀胤が伊勢守で、その伜が討死した主人佐であって、今の志摩某は
上泉伊勢守より十代目なりという」
とまでご丁寧に付記している。
 しかし寄合衆となれば、二千石以上の上杉家では、四、五人しかいない重臣である。
なのに上杉の臣が、ただ某としか名を知らぬというのもこれまた変である。
 荻原信之がそれほどまでに上泉伊勢守の実存説を唱え、上杉家に縁があったと主張
したいのなら、その十代目の上泉志摩某に逢いに行き、何か確証を握るべきであるも
のを、会談した相手である上杉家臣の名は書いていても、肝心な志摩某は某のままで
放ってある。
 それに宝暦八年といえば1758年だが、参考史料の如く持ち出してきている「北
越太平記」は、序文だけは「寛永二十年癸未九月〓良洛東隠士」となっているが、こ
れは周知の如く文久二年(1862)の大文字屋本。「東国太平記」は天保十一年
(1840)の近江屋本。「東国談話」は嘉永二年(1849)の尾張屋清助版であ
る。
 どうして1758年にできたとされる「玉栄拾遺」に、その一世紀後の版本が、麗
々しく題名までだして参考文献のごとく引用でき得るのか。これでは真剣白刃取りで
なく、ギマンである。
 また、そこでそうしなけらばならなかった、つまり他に立証のしようなかった点に
おいて、俗説の上泉伊勢守信綱のような大物が、はたして実在していたのかと首を傾
げたくなる。
 お墓ではないが、「上泉伊勢守供養塔」というのが柳生芳徳寺にあるが、宝印塔の
下の台石が正方形に近く大きいのは、江戸中期以降のものの特徴である。恐らくこれ
は「甲陽軍鑑」が世に弘まりだしたために、それに合わせて墓ともできぬから供養塔
として建立されたものではあるまいか。
こうなると話はお化け世界でしかない。


三泉か上泉か

 さて、幕末文久二年に辻講釈をそのまま本にしたのが、よく知れ渡っているにもか
かわらず、その「北越太平記」序文に、臆面もなく二百二十年も前の、寛永二十年な
どと書かれてあるのはなぜか、という問題がここに、上泉伊勢守の問題が出たために
明るみに出てくる。
 「東国太平記」や「東国兵談」の類も初めは、同様にさばをよんで百年か二百年前
の年号入りの序文か奥付がついていたものだろう。ではそれは、(年号を古くしてお
くと箔がつき権威があるようにみえ、後年の歴史学者が史料と間違えてありがたがる
から)といった作為で、古くみせかけたものだろうか。
 なにしろ骨董商の話によると、書画の偽作などは紙を灰汁に漬けたり、硫黄を燻し
て紙質を変えたり、海岸の舟食い虫でシミのような虫穴をつけなどして、本物そっく
りに仕立て上げるのには相当な苦労がいるというから、年号を古くするだけですむの
ならお手軽であると、それでやったものだろうか。
 しかし、これは当時の出版社である版屋が、あくどい儲けを計るために故意に年号
を遡って、勝手につけたというのではない。
 1735年つまり亨保二十年から、あらゆる出版物は絵草子や一枚絵に至るまで、
江戸なら月番の奉行所、大坂なら大坂町奉行へ納本届け出をしなければならない事に
なったからである。
 講談やテレビでは、大岡忠相は庶民の味方で人情深い名奉行だが、辣腕家で能吏の
彼は、もっとずっと政治的な存在であり、それまで刊行されたもので治安上益のない
もの、徳川家やその体制に筆が触れているものは一斉にこれを押収処分し、害ありと
認めたものは焚書にまでした。著者や画家が生きている場合は遠島、手錠(てぐさり)
、所払い、町内預けと厳格に処分した。
 つまり1735年から厳重な出版統制がしかれ、それ以降の刊行物は厳しく検閲さ
れて、すこしでも奉行所の調役の目に引っかかったものは、呼び出しを受けてから発
禁処分。ついでに体刑も科せられた。

 さて、現在の出版物は何々ブックスといった型なら初版四万冊。B六版でも一万五
千から二万冊は印刷されるが、江戸時代は木版に文字を彫りつけ、これを竹皮バレン
で一枚ずつこすって手作りするのだったから、だいたい二百枚が一版である。
 何万となると、それはたやすく捌けはしないが、わずか二百冊程度なら新刊の本屋
でなくとも、古書屋でも売り切れてしまう。そこで版屋の処世の知恵として、「取締
りに引っっからない方法」「検閲納本として奉行所へ提出し、面倒くさく調べられず
にすむ便法」として、無難な人情本の類の他は、ほとんど年代を亨保年間より遥かに
遡らせ、版木に彫りつけてこれを刊行したものである。
 といって、版屋だけがそうしたのではない。江戸時代は芝居にしても、たとえば赤
穂義士を扱うのにも元禄年間では引っかかるから、足利時代にもっていってしまい、
吉良上野介を高師直に替えてしまう。
 もちろん現在でも「実録忠臣蔵」は、塩谷判官と高師直のままだが、観客は誰もが、
それが江戸時代の事であると承知して見ている。なのにそれが本となると、幕末製の
ものでも江戸初期寛永二十年の文字があれば、
「これは、その時代に書かれたものであるから、信頼すべき史料といえる」などと権
威とされる者までが大真面目に自分の著書に平気で引用する。
 脱線するが、版に記されている年号が本物か贋ものかの鑑別法はあるのである。俗
に文化文政の版行ブームというが、1807年の文化四年に美濃武儀川の紙すき伝平
なる者が、製作原料の楮(こうぞ)のホモジナイズ化に成功した。
 といって、それは発見・発明というほどの事でもなく、煮詰めたものを砧で叩き潰
し石臼で細かくしただけだが、これで美濃紙の生産量は倍加され、各地の製紙業者も
それを見習って一躍紙価が低落し、そのため版行が盛んになった。そこで売れそうな
ものは片っ端から本にされ、危なっかしい硬派本は古い昔の年代に遡らせたのだが、
これを紙を透かしてみれば一目瞭然である。
 というのは年号が寛永二十年になっていようが、亨保元年になっていても、その版
本の用紙が透かしてみて楮が細かくなっていれば、それらは間違いなく十九世紀の1
807年以降のものであるし、透かして楮の糟(かす)みたいなのが、ぶつぶつ残っ
ているのは、その年代より以前のものである。
 ----こうした科学的な分析をした見方からしてゆくと、上泉伊勢守信綱の存在は少
し朧げになってきてしまい、「宝蔵院文書」に収録された、
「永禄八年乙丑 上州之在 三泉伊勢守藤原秀綱(花押)」の印可状にある三泉姓の
方が実在の伊勢守かも知れない。
 仰々しく印可を与えるものへ自著捺印するに際して、いくらそそっかしくても「上
泉」と書くのを当人の伊勢守が「三泉」と間違えるわけはない。
 鹿島明神の神官だったり、上杉定正の直臣で長野信濃守につけられていたほどの、
れっきとした教養のある武士としてはおかしすぎはしまいか。また、受け取る方もそ
れをそのままとっておく事もなかろうと思える。
 だから、そうなると、上泉伊勢守が実在の人物であったならば、刀使いにかけては
稀代の名人にせよ、己が名もろくすっぽ書けなかった野人、とでもみるしかないよう
である。
 つまり古女房に愛想をつかされて追い出され、小田原で仕官しようと思ったが、そ
れも駄目になり、
「おらあ死んじまったがええだ‥‥」などとぶつくさ口の中で呟きつつ、めっきり白
くなった髪を風になびかせて、
「どこぞで戦をしておったら、どっちゃでもええから入れてもらい、思い切り刀を振
り回して、そのままおっ死んでしまいたい気がする」
などとも甥の疋田文五郎に洩らしたりする方が、でっち上げの虚像より実物に近い。

 さて、神後伊豆守は、くさりきって歩いている二人を励ますように、
「小田原では北条氏長などという剛の者が現れ、とんだ邪魔をしくさってうまくゆか
なんだが、なぁに世の中は目明き千人盲千人‥‥我らの蝿叩きや卵割りに刮目(かつ
もく)してくれる有徳な人もいましょう。なんせ天下が麻のごとく乱れとる今の世じ
ゃから、巧く売り込みさえすれば、安気な身分に出世できんとは言い切れますまい」
などと大言壮語をする。そこで疋田文五郎も誘われる如く、それに合点してみせてか
ら、
「これから大和まで足を伸ばしてみなされましてはいかが」と、上泉伊勢守にすすめ
た。
「うん、柳生か‥‥逢うてみたいな」
白い入道雲を見詰めつつそれに答えた。
 刀に賭けた五十余年の生涯を振り返って、虚しさにいつも胸をしめつけられる想い
でいた上泉伊勢守には、またききとはいえ、
(大和の柳生の庄に、己れと志しを同じゅうし、刀術に精進する者がいる)というの
は、張り合うといった心地より、同病を憐れむにも似た親しい気持ちを抱かせていた。
だから苦笑しながら、
「逢うて、刀について語り、共に嘆息するか」
そんな言い方をして二人を振り返った。すると神後伊豆守は、滅相もないと言わんば
かりに手を振って、伊勢守の側へ寄ってゆき、
「東国の小田原まで伝わっていましたる柳生の刀法‥‥一見の価値はありまするし、
もし手合わせしてみて、立ち勝っているとなれば、改めて上泉伊勢守の名が天下に鳴
り響くは必定。さすれば繋がるご縁にて、お供の我らもひとかどの者になれようとい
うもの」
しきりに熱っぽく話しかけ、疋田の方へも、
「そうでございましょうがのう」と相槌を求めた。
「‥‥うん」文五郎にとっても悪い話ではない。
そこで、
「大和へ行くべきでござりましょうな」
煮え切らぬ態度を示す伊勢守を、二人で突上げるようにして、柳生へと向かわせる事
にした。


消えた伊豆守

「‥‥どうしまする」
自分から進んで柳生へ行こうと言い出した神後伊豆が、伊賀上野までくると、にわか
に迷いだしたらしいのである。
「あと島河原まで一里半、大河原まで同じ。そこから笠置まで二里‥‥だから明朝早
立ちすれば陽のあるうちに柳生へつけるというに、ここまできて何のことかや」
 宿といっても屋根があるだけの、床板も踏み抜けそうな広間の隅で、疋田文五郎が
眼の色を変えて詰め寄ると、
「‥‥うん」神後は困ったように顔をしかめっ放しのまま、低い声で、
「柳生の里とは、とんでもない所らしい」
首をすくめて情けない声を出した。だから文五郎が、今頃何を言うかといったように、
「せっかくここまではるばるとやって来たというに、引き返しもできまいが」と睨み
つけた。
 しかし神後伊豆守は肩と肩の間に、首を落としてしまいそうな恐縮ぶりで、
「実は何も知らんと、柳生へ柳生へと、わしが先達の格好で連れ出して来てしまいま
したのじゃが‥‥どうも普通の所ではないらしい。一旦入り込んでしまうと、二年や
三年は出てこられんとの噂を耳にしましたのじゃ」と頭をかいて話しだした。
 これには文五郎も面食らったように、
「して‥‥また何故じゃ」聞き返したところ、
「うん詳しくは判りませぬが、柳生の山というのは、四つ足の神を祀っているとかで、
里の者は汚れると忌み嫌い、一度でも入り込んだが最後、あそこから里へはよう戻っ
て来られんじゃそうな」と打ち明けた。
「ほう、そりゃ、まことか」
「わしも知らなんだが‥‥宿を捜そうと鍵屋の辻で草履を求めたところ、そこの店の
婆から何処へ行かっしゃるときかれ、柳生と申したところ、そこで教えられ、たしな
められたような次第で」
「道理で‥‥この宿へ入ってからも何やら、憂えっぽい浮かぬ顔をしとると思ったが
‥‥そうでありしか」
「恥ずかしい話じゃが‥‥十日じゃ二十日というならまだしもの事だが、二年も三年
も山の中への閉じこめというのでは、とても行く気にはなれなくなり申した」
「うん、思いがけぬ仕儀となったものよのう」文五郎も腕をこまねき考え込んでしま
った。
 しかし、その時。
もう手枕のままで寝てしまったと思っていた伊勢守が、
「‥‥よいではないか」背を向けたままで声をかけてきた。そして、
「我らは何処へ行き、そこから何処へ帰るというあてのある身ではないのじゃ」
と、ぽつりと洩らし、そのまま又高鼾をかきだした。
 伊豆守と文五郎は互いに顔を見合せて頭をふってから、
「我らも寝るとするか」とうなずきあった。
 しかし床板の根太(ねだ)が腐っているのか、寝茣蓙の下が軋み、それに眼が冴え
てなかなか寝つかれなかった。
 だから文五郎が眠ろうとあせりながら眼を閉じていると、神後伊豆がそっと起きだ
して外へ行く気配。だから、はっとして、
(はて、怖気をふるい、我らを残して逃げ出してゆく気か‥‥)
忌々しくなり、初めは放っておこうとも思ったが、文五郎も、そっと抜き足さし足、
その後をつけるようにして戸外へ出てみた。
 だが、もう十三夜の月が青々と冴え渡る中を、伊豆の姿はもう遥か向こうを走って
いた。
「しまった‥‥」と文五郎も、手にぶら下げ出てきた草鞋を履いている暇もなく、裸
足のままでその影を見失うまいと、息せき切って追いかけた。
 が、伊豆は、まるで人が違ったような敏捷な身ごなしで、名張の方へ、まるで矢の
ように一直線に走ってゆく。
「えい、忌々しや」もう、こうなっては疋田文五郎も意地になって追ったが、最初か
ら距離があったのが縮まるどころか広がってゆくばかりで、とうとうしまいには姿を
見失ってしまった。
「はて、どこへ行きおったのか‥‥」と、それでも駆けてゆくと、月明かりの野良道
を向こうからくる土地者らしい百姓に出会い、
「これこれ、その方らは‥‥来る道で走って行く者と出会わなんだか」と尋ねかけた
ところ、手にした鋤や鍬で身構えた百姓達は、文五郎の前後を取り巻き、
「横柄な口をききおって‥‥うぬはこの先の人外の者か」と絡んできた。
そして大柄な男が月明かりで文五郎の風体を透かし見て、
「見ればどうやらおらたちよりましな着物をきとる‥‥さては他国へ出稼ぎに行って
帰ってきたところか‥‥やいやい懐中の銭を出せ。四の五の吐かすと叩っ殺すぞ」怒
鳴りつけた。
 すると他の百姓もそれに悪のりして、
「おめえら人外の者は殴り殺しても、お咎めがないのが‥‥この伊賀の掟」
「命が惜しくば身ぐるみ脱いで裸になれ。すりゃお慈悲で見逃してやらぬでもない」
と喚き立てた。
 そこで文五郎も呆れて睨み返し、
「わしは相州小田原から参った旅の者。言いがかりをつけるな」叱りつけたのだが、
「何をぬかす‥‥常人なら近寄りもせぬ人外の里をめがけ、走ってきたのが何よりの
証拠」
仲間がいて先に駆け込んでいるからには、汝もその同類に違いあるまい」
と手にした鋤鍬で殴りかかってきた。しかし文五郎も、愛州陰流を学んで自得した上
泉伊勢守の甥。幼い時から仕込まれている。
「何をいたすかっ、無礼者っ」
身体を沈めて打ちかかってくる手許を潜りぬけ、腰をつかむと、これを持ち上げ、
「百姓とはいえ理不尽な真似をするに及んでは、容赦はせぬぞ」
岩石落しにこれを田圃に放りこみ、
「やりやぁがったなっ」とかかってくる大男をば、奪った鋤で力まかせに張り倒した。
 こうなると他の百姓も、とてもかなわぬとみてとったか、転がった仲間を助け起こ
して肩を貸し、
「‥‥やりゃがったなっ」
「覚えてやがれ‥‥村中にふれだして人外者の通り抜けは一切停止(ちょうじ)にし
てやるぞ」
捨て台詞を残して逃げ散ってしまった。
 文五郎も手についた泥を払って、
「これは、とんでもない言いがかりをつけられ、いらざるお節介をしてしもうたもの
よ」
 神後伊豆の後を追うのは断念し、旅人宿へ戻ってくると、裏口から中へ入った。
柱にくくりつけてある鉄枠の中の松仕手の樹脂臭い赤い灯で、又もとの寝床へ入り込
み、泥足のままで横になった。
 すると伯父の上泉伊勢守は寝言のように、
「旅先での腕だめしはいかんな‥‥」たしなめるように低く声をかけてきた。
だから文五郎はびっくりして、
「おきておられましたのか‥‥」泡をくって尋ね返した。
すると、やはり同じ様な調子で、
「汗をかいて戻ってきたゆえ、匂いでわかるわ」ぽつりとそれに答えた。
だから文五郎は声を低めに、
「伊豆めが風をくらって逐電。追いかけましたが取り逃がしました」と報告した。
すると、それにかすかに笑い声をたて、
「あやつ‥‥わしらには身許を匿しておったが、ありゃ山がつとよばれる素性で、四
つ足の里とよばれる所の生れ‥‥つまり柳生と同じような土地柄の出ゆえ、なんぞよ
き思案をと、この土地の名張の里の長吏頭の許へでも相談に行ったのじゃろ。まあ朝
までには戻ってこんでも、ここから柳生までは一本道、夜のうちか、次の日には追い
かけてこよう」と教えた。
「へえ、そうでござりますのか」と感心すれば、
「あの伊豆も、わしらと離れて、どうこうの目途(めど)のある者でもないでのう‥
‥」と言いさしたまま、また鼾をかきだした。