1148 秘聞 柳生石舟斎 11

上泉伊勢守出奔

「愛州惟考師より、刀の道は陰の道なりと教えを受け、それより自分なりに訓練も工
夫もこらし、新しく蔭流を編み出したるものの、武者たる者は槍一筋の家柄などと称
し、世に弓を調度、槍を道具とよぶが、刀となれば足軽小者の矢払いの打ち刀としか
見ず、わが刀術も今のままでは朽ち果ててしまうのであろうか」
 上泉村の信左衛門は太刀を抜き放ち、その刀身をさながら鏡の如くし、頬にも顎に
も白いものが増えだした己が顔を映し見て嘆息した。そして、
「人間わずか五十年、化転のうちに比ぶれば、あに果敢(さだめ)なき人の世や‥‥
と申すが、わしは既に五十五歳、陰(ほと)にも白毛が生えてきて、近頃はめっきり
体力も落ちてきたようだ」
 幼いときから子供のようにして手許に引き取って、ついでに刀術をも仕込んできた
甥の疋田村の文五郎に、愚痴るように訴えてみた。
「なにせ、おばばがうるそうござるでのう」
甥も気の毒がるように相槌をうった。
 なにしろここは、上州名物嬶天下に空っ風と呼ばれる土地柄。しかも上州蓑輪の上
泉といえば、名物赤城下ろしは砂塵を巻き上げて吹き抜けるが、女の方は口やかまし
いだけでなく、すぐ手荒な事をするので知られている。
 後年、幕末近くになっても、ここの男達はうるさい女房に辟易して蒸発したり、ま
たは追い出された格好で諸国へ浮浪の旅に出るなどしていて、やくざの喧嘩に狩り出
されると、
(どうせ戻る所はないんだ)とか(戻ったところで、あんなひどいめにあわされるん
なら、死んだがまし)という不惜身命(ふしゃくしんみょう)のやけっぱちで、命を
すてて相手と渡り合ったからして、世に「上州長脇差」の名を轟かしたが、日清・日
露から先の大東亜戦でも、群馬出身の上州の兵隊は、
(生きて帰っても、あのうるさい女房では)とみな勇戦敢闘、進んで死地におもむい
ては各地で玉砕して果て、あまり生還はしていない。
 家貧しゅうして孝子あらわれ、国乱れて忠臣出ずというが、女房が優しく親切だと
男は会社では仕事していても、早く退社して家路へつこうと急ぐあまり、あまり出世
はしないというが、上州のようなこうした土地柄では長脇差や勇敢な兵隊を出す前に、
今では剣豪と讃えられる上泉信綱を世に送る結果ともなった。
 つまり‥‥刀身を抜き放った信左衛門を、甥っ子の文五郎が慰めているところへ、
「近頃、夫らしい夜の勤めも、ろくにようやらんと思っとったら、今きいとりゃ陰
(ほと)に白毛が出たと言ったな、そんな役立たずでは世話する方も、ほとほと困る
でな‥‥さあ、どこへなりと出てゆかっせ。ええか、こちらが食わしたるんら、ぴん
ぴんした若い男がいくらでもおるでよお」
目くじらをたてて女房が喚きながら現れ、
「まあ、そう怒らんと、おばば待ってやってくだされ。叔父殿もこの齢ではどこへい
って、行く所があるはずもない。これまで通り、ものはついでと思うて料簡してやり
なされ」
と文五郎が仲へ入ってしきりに詫びを入れたが、女というのはいったんこうだと決め
てしまったら最後、考え直すという頭の余裕がない。まして半分は男でなくなりかけ
たのを、この先養っていっても、良い目を見られるあてはなかろうと、今でいえば下
取り交換に出す如く、
「さっさと退(い)んでゆくがよいだ」と、手切れ金代りの草履一足に破れ笠、それ
に粟餅の若干を藁包(わらづと)の中へいれてぽいと表へ放り出した。
 後年この信左が講釈師や剣豪作家の手にかかって、「上泉伊勢守信綱」といった豪
そうな名乗りで、ものの本に残ると判っていたら、
「腰の刀に縋りつき、連れて行きゃんせ何処までも」とは言わないまでも、
「では堅固に行っておじゃりませ」と頭を下げて、貞淑に見送りぐらいはしたかもし
れぬ。
 が、現代と違って昔の女性は、女、賢(さか)しゅうして牛を売り損ないといった
程度だから、
「おばば、そりゃあ、つれなかろう‥‥」と、まだ仲へ入って納めようと必死の文五
郎までが、
「うぬも、とっとと一緒に出てさらせ」
ついでに放り出されてしまう結果となった。
 しかし信左衛門は既に諦め切ったごとく、投げ棄てられた破れ笠を頭に戴き、大切
そうに粟餅を懐中へ納めつつ、
「この先の蓑輪城主長野業盛(なりもり)様にお仕えしていた若年の頃に、愛州惟考
師に刀術の教えを受けてより、いつか立身する時もあろうかと、それのみにうつつを
抜かしていたが、落城後も浪人してしまい、それでも世に出る折も又あろうと、桑葉
一枚摘むでなく、何の手伝いもしてやらんと食させてもろうてきたが、とうとう埋め
合わせできんじゃった‥‥こりゃ致し方もない事だ」
肩を落として、とぼとぼ歩きだした。
 そこで文五郎も仕方なく、
「おばばどのに対して‥‥せめて男としての埋め合わせの方だけでも、一刀流の心得
をお用いなされておけば、よろしゅうございましたな」と慰めてみたが、
「言うな、今更何を申しても愚痴になる」
 くるくる風に吹き飛ばされ、黄色く輪に描いて舞ってゆく銀杏の葉の後を、
(おどまうっちんだば道端へ埋(いけ)よ‥‥)
身につまされるようなのを口ずさんで、とぼとぼと歩いてゆく。
 そこで文五郎も、これでは放って見送るわけにもゆかなくなり、
「この先の街道をまっすぐ突き出た次の境の、馬頭観音のあたりでお待ちなされまし
ょう。粟餅だけでは旅にも出られませぬで‥‥どこぞ知り合いを頼んでまわり、いく
らかなりと銭を作って後を追いかけまする」という事になった。
 そこで言われるまま、砂埃の渦巻く渇いた道を。てくてく境目まで出て、馬頭観音
の石碑まで歩いてゆき、そこの根株に腰を下ろしてじっと待っていたが、どうしたの
か、なかなか文五郎は来ない。だから信左衛門は、
「上泉村の家におればこそ、後でおばばが返済すると思えば貸す所も所もあろうが、
さて出されたとあっては、なかなか貸してくれる家もないのか」
憮然として待ちわびていると、馬頭観音の近くだからというわけでもなかろうが、ブ
ンブン虻が舞ってきて、これがいくら追ってもチクチク肌身を刺す。
 そこで信左衛門も、
「石もて追われるごとく‥‥というのはあるが、虻までがわしを馬鹿にしくさって」
と腰の一刀を抜きざま、今にも飛んで来ようとするのを真っ二つ。そして次から次へ
と刺しにくるのを、みな片手で切って落した。
 すると、そこへ背後からいきなり大声で、
「お見事っ」と声がかかった。信左衛門がびっくりして振り返ると、いつの間に背後
の薮に隠れていたのか、やはり旅の者らしい日焼けした若者が肩の所へ顎を出し、
「今の術、手前でも習えば覚えられまするや」
と側へ寄ってきた。
「なんじゃ、教えてほしいとぬかすのか」
先にほめられたので、まんざらでもなく聞き返すと、
「はあ、道中で虻や蜂ほど、歩いていると群がってきて厄介なものはありませぬ。そ
れを今のように一刀ですぱっと片づけてしまえたら、さぞ小気味よかろうと存じ‥‥」
 さながら殺虫剤の噴霧器のように言われ、
「この愚か者め‥‥そないな心がけで、このわしの刀術を習いたいとは言語道断。も
のになるわけがなかろ、ここな虻蜂とらずめ」と叱りつけ、
「とっとと何処へなりと退(い)んでしまえ」
自分が言われてきたような事を口にした。
 すると、そこへ文五郎が息せき切って、ようやく追いついてくると、
「もう一度とって返して、おばばに詫びを入れなされ。どこも銭を貸しくさらんで、
これでは道中がなりかねまする」と呼びかけた。
 すると旅の男が、
「断わられると習いたさも昂ずるが人間の欲‥‥いかがでござりましょう。つましく
旅するのであれば、ここから相州小田原までくらいの三人分の路銀はござります。道
中の顎(食扶持)は持ちまするで刀術をお教えなされませ」と交渉してきた。
「よし、この際のことゆえ、背に腹は代えられぬ。文五郎そちが稽古をつけてやれ」
上泉村を出て行くのは他に手段がないから、その話に乗ることにして、
「して名は何と申す」と尋ねると、
「はあっ、上州佐位郡(さいごおり)神後村の生まれで、親が伊豆の石切りゆえ、私
めも伊豆と言いまする」


虻蜂取らず

 教え方が悪くて途中で逃げられては、道中が続けられなくなる。そこで文五郎は落
ちている頃合の枯枝を杖代りに渡しておいて、道々懇ろに教授するし、信左衛門も脇
から口を入れてそれに手直しをする。
 だから武蔵の江戸郷を過ぎ、小田原に着いた頃には、伊豆も即席の稽古にしては一
応は使えるようになっていた。そこで、
「ここまで仕込んでいただきましては情も移り、旅費が尽きましたゆえ、お別れしま
すとも申しかねまする」と言い出し、
「‥‥人の通りが多いので尋ねましたところ、本日から明日にかけ、相州大山の石尊
(しゃくそん)の祭りとの由。ひとつ稼がしてはいただけませぬか」
恐る恐るにきりだしてきた。信左衛門も文五郎も生れて初めて旅へ出た身なので、
(路用が尽きたから稼ぐ)という意味が判らず、互いに顔を見合せたが、銭がなくて
は餅どころか粟粥も啜れないくらいは知っている。そこで、
「よし」と承知した。すると伊豆は、
「売物に花をそえるとか申しまして、体裁を重々しくせねばなりませぬ。そこで、手
前は神後伊豆守と、豪い様のような名乗りりにしまするで、大先生には信左衛門など
の名はやめになされ、生れられた村の名を姓に上泉伊勢守、ついでに信左を信綱とい
ったような、いかめしいのになされましてはいかがさまで」と申し出た。
 これには聞いていた文五郎も驚いたが、それでも、
「近頃は、鍬鍬をうつ在郷の田舎鍛冶でも、刀や槍の穂を鍛えるときは、よき銭がと
れるよう肥前守とか薩摩守忠度(ただのり)などとつけまするで、路銀稼ぎとあれば
やむをえませんでしょう)
脇から伊豆の話に口添えした。
しかし、そんな難しい名前をつけて、何をやりだすのかと文五郎は内心その方を心配
していた。
 ところが伊豆守となった方は、少しの頓着もなく、参道になっている道祖神脇の分
かれ道に木の切株を見つけてきておくと、そこへ二人を連れていって腰掛けさせ、
「あいや、御当地は初めてのお目見えにござりまするが、上州箕輪の住人上泉伊勢守
信綱先生は、新蔭流の達人でござい。空飛ぶ鳥は無理でも、虻や蜂、蝿やかなぶん、
ばったの類は刀光一瞬、見るも鮮やか真っ二つにしてごらんにいれる。いいかお立ち
会い‥‥その辺りに飛んでいるのを捕えてきて、己れが銭一文つけて飛ばしなされ。
もし先生が仕損じたら十倍の十文に増やしてお返ししよう。さあさあ石尊さま参詣の
ご利益を、もう行く道で儲けたい衆は、始めた、始めた」大声で客集めをする。
 すると人間誰しも欲の皮は突っ張っているものとみえ、てんでに手拭いや笠を振り
回しては蜂や蝿を捕えてくる。
 さて上泉伊勢守信綱となった方も、疋田文五郎も、しくじったら十文にして銭を戻
さねばならぬと口上で聞いているから、二人して、
「これが、まことの真剣勝負」と、片っ端から飛んでくるのを右へ左へ、獅子奮迅の
働きで斬って落す。
 さて塵も積もれば山となるというが、虫の骸も掃き棄てたいくらいに散らばったが、
永楽通宝の一文銭の方も結構これまた山になった。
 そこで、信左衛門の伊勢守はしみじみした声で、
「人間これ頭は生きているうちの使いようというが、刀術も用いようでは、こない銭
になるのか」
溜め息をつき、
「これさ文五郎、こういう稼ぎを覚えたからには、上州へ戻り、刀の柄にかけ銭儲け
をしようではないか」と言い出した。
 しかし文五郎は首を振り、
「他国でこそあれ、上泉伊勢守でも通りましょうが、上泉村へ戻ってそない名では、
犬をけしかけられるがおちでございまする」と反対した。
 伊豆守の方はそれにお構いなく、
「祭りで人の集まるのは、しゅっちゅうの事ではありませぬ。稼げるときに稼がねば
後で悔ゆる事になりまするぞ」と、それまでの銭を拾った細縄に通してしまいこみ、
またぞろ声を張り上げ、
「御当地に初めて御意を得まする蔭流は、蔭か形か蝿ぶんぶんか、虻でも蜂でも切っ
て二つに地に落す天下の見物。有名な上泉伊勢守信綱先生に高弟疋田文五郎、かく申
す神後伊豆守が手練の師芸を御披露申す‥‥」
とよばわり、照れ臭そうな二人には早口で、
「世の中は自分で売りこまな他に誰がしてくれまする。有名なと言っていれば、人も
そう思ってくれるものでございますよ」
己れの名を大きく喚いたのを、聞きとがめているのか勘違いし、むきになって弁解し
た。
 するとその時。見物人の間をかき分け、前へ出てきた深編笠の武士が、
「てまえは当小田原城主北条氏政が家臣でござるが‥‥ご高名なる上泉伊勢守どのが
当地へ起しとは露知らず、大変失礼をつかまつった。これより城中へご案内しまする
で、虻蜂斬りの秘術を殿にもお目にかけて下さりましょう」と申し出てきた。
 すると神後伊豆守は、
「大先生にはかねて、ご当地の大山石尊を武の神として信仰してござれば、神前奉納
の意味合いにて、ここではこうして披露してござらっしゃるが‥‥城中へ招かれて上
つ方の貴人へお目にかけ興を添えるといった類の術とは、これは違い申すのでござる
よ」
勿体をつけて言下にこれを斥け、
「もともと、この新蔭の流儀というは、赤城の山にたてこもられし上州佐位郡国定村
の愛州惟考先生が、八年八ヶ月の長きにわたって、万年溜の水鏡に己れを映しみて、
その醜さにたらりたらりと落ちる脂汗を、見るも煩わしやと右へ左へ斬って落された
術を、これなる上泉伊勢守先生が、実用にと新案に改良を加えられて、新たな蔭流と
して編み出されたもの」一息に当意即妙な事を、口から出まかせにまくしたてて、相
手を煙にまいてしまった。
 だから、すっかり恐縮した武士は網笠をとって、改めて三人に拝礼してからが、
「山駕であれ馬であれ、見つけ次第にお三方をお乗せし、礼を尽くして城中へお供し
なするによって、これまでの失礼の段は平にご容赦の程を‥‥」
と詫びを入れてきた。
 小田原城へ赴き北条氏政の面前へ目通りにでるというので、上泉伊勢守は怖じ気を
ふるったが、それを伊豆守が傍らから、
「名を売り込むには何事であれ、恐れてはなりませぬ。それに小田原の北条様に見参
というは名前に箔がつく上、ここで一文銭を集めるのと違って帰りには銀なども沢山
にいただけましょう」
と必死に励まし口説いた。銭でさえ目の色を変えた伊勢守ゆえ、銀ときいては、
「そりゃ、まことか」と無邪気に歓んで合点し、そこから山道をおり馬にのせられる
と、落ちぬように手綱をひきしめつ、今の「御幸が浜(みゆきがはま)」へ出た。
 案内の武士の従者が、前もって知らせてあったとみえ、城中の馬出し曲輪には竹矢
来が素既に張られている。
 北条氏政とその跡目氏直父子の席の周りには、一門の韮山城主北条氏規と同じく八
王子城主北条氏照、相模甘縄城主北条氏勝と、一族がずらりといかめしく並び、桟敷
が組まれていた。
 これには上泉伊勢守信綱もびっくりして、
「だから、わしは大げさな事は好かん‥‥と言ったであろうが」
背後からついてくる伊豆守に文句をつけたが、もはや後の祭り。
 それにはさすがの伊豆守も恐縮してしまい、
「手前は道中で手妻使いをしたり、傀儡を操っての人形芝居はした事はありまするが、
これは又どえらい事となりましたな」
顔色を変えてしまったが、最前の広言の手前、ニ進(にっち)も三進(さっち)もゆ
かなくなり、
「いかがしましょうや」と兄弟子の文五郎へ、あべこべに相談する始末となった。
「‥‥口は禍の門とはこの事よ」
文五郎もしたり顔で言いはしたが、まさかこんな広い竹矢来の真ん中で、虻や蝿を飛
ばせて斬っても、さまになるまいと思案している矢先、案内してきた武士が、
「では、ひとつ、殿のご前にて‥‥」
いかめしい声をかけて側へ寄ってきた。


試合剣術の始め

 「剣術」といえば、双方が向き合い、互いに木刀や竹刀を持って叩き合いをする試
合が昔からあった如く誤られているが、そうではない。
 ----幕末には頼山陽のごとく、その子の頼三樹(みき)三郎が勤皇の志士として獄
死したため、その余栄をもって明治時代には絶大な信用を博してしまったという通俗
史家がいて、「本朝編年史」を焼き直した「日本政記」や、講談本的内容で親しみや
すく面白いからと多くの人に広まった「日本外史」のごとき通俗史的読物の類が多く
残され、後世を誤らせている。
 が、その一方では安政二年十月二日の江戸大地震で圧死した藤田東湖のように、本
当の事を書き残しておいてくれて、そのために後世を益している学者もいる。
 その東湖著の「回天詩史」によれば、
「試合剣術と称して双方向き合って木剣や竹刀でお面、小手をやりだしたのは、幕末
の文政二年(1819)からの事で、水戸へ戸ガ崎熊太郎が乗り込んで来て、撃剣な
るものを門人相手に披露したときには、水戸の侍達は物議騒然としてこれを罵り且つ
嘲った」というのである。
 そしてまた、水戸で試合剣術が初めて行われたのは、江戸上屋敷にいた杉山子方が、
その子の子元を岡田十松の撃剣館へ入門させたのが初めてで、藤田東湖が十四歳で習
いだしたのが、その文政二年だとある。つまり、水戸の武士というと、この四十五年
後には天狗党の旗上げをしているため、昔から剣術が盛んだったように思われがちで
あるが、実際はこの後、戸ガ崎熊太郎が五十俵で改めて招かれ、それから流行しだし
たのであり、それが筑波山の旗上げへとなっていったものらしい。
 さて藤田東湖はまたその著「常陸帯」の中で、水戸へ試合剣術が持ち込まれてきた
時に、なぜ水戸家中の侍達がこぞってこれを嘲笑し避難したかという点に関して、
「身体髪膚これをみな父母に受く、あえて傷つけざるが孝の始めなりとも教えられて
いたが、武士というものは殿様より丸抱えにしてもらい扶持を戴いているゆえ、自分
の身体は自分のものであって自分のものでないと考えるのが士道であった。だから戸
ガ崎熊太郎やその門弟のような主君持ちでない百姓上がりの非武士ならば、殴り合い
叩き合いなどで怪我をしても、差し支えはないだろうが、御扶持を賜っている身分の
者がそんな馬鹿げた真似ができるものかというので、戸ガ崎達は撃剣を教えに来たが
追い返されたのである。これは水戸だけが頑迷であったのではなく、どこの家中でも
試合剣術などは、弓槍と違って卑しめられ、もって士道に悖(もと)るものとして当
初は排撃されたのである。」
と、士道のあり方においてこれを説明している。
 しかし、ここに抜け落ちている概念がある。藤田東湖にすればそんな事は判りきっ
ているから書かずもがなの事と説明はしなかったのだろう。
 が、今日では無責任な講談や大衆小説に歴史の方が引きずられてしまっているから、
うやむやどころか、まるっきり誤り伝えられてしまっている。
 というのは、かつて豊臣秀吉が朝鮮征伐の前に国内の治安維持強化のために「刀狩」
を断行して庶民の帯刀を禁止した時点から、武士の刀というものは「公刀」の扱いに
なったのである。
 つまり、扶持を貰っている主君を防衛する目的で、刀は公務としてさす事になった
のである。
 これは岩波文庫にも入っている大道寺友山の「武道初心集」の中にも、
「刀というはすぐ折れたり曲がったりして使いものにならぬから、なるべく戦場には
持って出るな。どうしても用いたくば差し控えを家来や馬の口取りに帯びさせろ。家
来は若党や小者にささせてゆくべきである」といい、家来はみな「移動刀架け」であ
るというのが出ている。
 映画や芝居では殿様の佩刀は背後の小姓が捧げ持つ事になっているが、実際には家
来全部の帯びている刀が、もしもの時の殿様のスペア刀になるということになるので
ある。
 つまり「刀は武士の魂」というのは、何も精神的な話ではなく、刀をさしている者
はいつ何時でもそれを殿様に渡せるように心がけておかねばならぬのだから、それに
ついての心構えを言ったものであり、また、武士は刀を差しているからこそ扶持が戴
け食していけるのだから「刀は武士の糧」といった意味合いにもなる。
 そこで、武士の帯びる刀が公刀であるという性質から、ここに「殿の命令がなくて
は私に抜刀してはならぬ」という不文律が生まれてくる。
 江戸時代に武士の私闘が厳しく処罰されていたのは、公刀を気ままに私用に抜き放
ってはいかぬからあり、「仇討免許状」という変な制度が設けられていたのも、それ
は敵を斬っても可のライセンスではなく、「この者が刀を抜くのは殿よりの許可があ
っての事である」という免許証であったにすぎない。
 だから「殿から何々の銘刀を拝領」というのも、万一の時にはこれを差し替えに用
いるから戴けるという事であって、刀を与えるという物質的な褒美ではない。これか
ら側近くに仕えさせてやるという、恩恵の沙汰なのである。
 そこで、そうした刀を渡された者は貰ったものなら質に入れても売ってもよいはず
なのに、あくまでも大切に保管していたのである。
 俗に「鯉口三寸抜いたらお家は断絶、身は切腹」というのは、大名といえども将軍
家の家来で、「刀架け」の立場だったから、それへの罰則だったが、その大名自身も
己が家来に課していた私用抜刀禁止の武家社会の「不文律」であった。
 武士たる者は刀は差しているが、百姓上がりの剣術使いのごとく、やたらに抜けは
しなかったし、また許しがなければ絶対に斬り合いなどできぬというタブーがあるの
にかかわらず、「試合剣術」を持ち込んできたらして、不届きであると戸ガ崎熊太郎
達は最初は水戸から追放されてしまったのである。
 では、何故にそれが解禁というか、幕末の撃剣ボームになったかといえば、天保十
一年清国では阿片戦争が起き、その二年後、公儀より各藩へ海坊の厳命が通達された
が、硝石の解禁は出なかった事による。
 つまり日本では鉄砲が舶来すると、器用な日本人ゆえ精巧な和製銃も作られたが、
黒色火薬の原料の75パーセントを占める硝石を大量採掘できる鉱山がなく、したが
って鉄砲に必要な火薬は専ら外国からの輸入に頼っていたからである。
 徳川家が鎖国の令を出したのも「切支丹禁止の為」というのは表向きの政治的発表
であって、「硝石を他の大名が入手して天下を覆すなどということができぬよう治安
維持の必要上から、幕府だけが長崎出島において独占輸入していたのである。
 天保八年の大塩平八郎の蹶起は、徳川家が大坂方面の貯蔵硝石庫の鍵を、出先機関
である大坂町奉行所天満与力に与えていたから、彼は職業柄火薬を自由に使い、乱を
起す事ができたのである。
 さて、この乱に懲りたためか、徳川家は海防布令は出したものの、硝石の方は放出
しなかった。そこで各大名家は、大東亜戦争末期のアッツ島やサイパンで玉砕した日
本軍の部隊長のように、
「鉄砲はあっても弾薬がなくては撃てず、役に立たない。かくなる上は斬り込み隊で
いくしかあるまい」となって、このため、みな大名家は、藩内ににわか作りの道場や
訓練所を作って、ここに初めて試合剣術とか撃剣といったものが公認されだし、流行
しだしたのである。
 つまり上士というか、家柄の高い武士は、藤田東湖が書き残したように、きわめて
保守的で、
「やたら刀を抜き斬り合うのは士道に反する」という抜きがたい昔からの伝統精神が
あって急場に間に合わないのでと、足軽クラスや郷士の若者などといった連中を集め
て、速成で稽古をさせたのである。
 こうなると、それまでは農家の百姓の次男三男に草相撲ならぬ草剣術を教えていた
連中が、今こそわが世の春とばかりに、
「出世したい者は当道場へきて入学金を払え」と募集広告するために生まれたのが、
天保版「本朝武芸小伝」の類であるが、権威をもたせるために
「当流は由緒正しく、戦国時代の何某から始まったものである」式の箔をつけて誇張
した。
 そしてこういった類は今でいえば、「各種学校入学手引き」のような木版刷りのも
のゆえ、明治になって多く残っていた。
 ところが明治九年の公刀佩刀禁止令が出て以来、剣術は廃れてしまい、僅かに見世
物としてしか信用されなくなったのに、山田次郎吉あたりが発奮して、「権威あるも
のとして復活させるため」にはと、止むを得ず「撃剣叢談」あたりを信頼できるもの
として、さも戦国時代から剣豪がいたように世に伝えた。これが名著といわれる大正
十四年刊の「日本剣道史」である。
 そこで上泉村生れの上泉伊勢守信綱も、後になると、忍術の戸沢山城守白雲斎あた
りと共に、「立川文庫」の立役者にされてしまったのである。
 しかし後世での事は何と書かれても、当人はいっこうにさしつかえないが、小田原
城の馬出し曲輪での伊勢守信綱は、講談本とは違い、冷汗をかき当惑しきっていた。
 ----北条家の豪傑が出てきて、太鼓をドンドン打ち鳴らし、そこで武術大試合が始
まると期待して呼んでこられた方には申訳ないが、現実はキビしくて、そう面白おか
しくはないのである。

小田原城の立ち会い
「どうぞ生卵を四方八方より投げて下され、もし払い損じて浴びたなれば遠くからで
も一目瞭然。もし、見事一つ残らず右へ左へ払いのけられましたなれば、拍手喝采の
ほど願い上げまする」
 疋田文五郎が切羽つまって言い出した。すると伊豆守も脇から低い声で、
「石ころではどこにも無尽蔵にあるゆえ、放られるにしろ数限りもなかろうが、卵と
はよいところへお気がついた。呑めば精がつくし飯にかければおかずにもなるもの、
恐らくそう無闇矢鱈とは勿体のうて投げてきますまいが‥‥」
ほっとしたように言ってきた。
 上泉伊勢守信綱としても想いは同じ事。
「よかろう」と、すぐ合点してみせた。というのは上泉村の箕輪川の河原で、文五郎
を相手に投石を棒で打ち払う修行を、これまで久しくやって来ているから、卵も石同
様に考えてよかろうと安心したのである。つまり上泉伊勢守は、自分が出て卵払いを
やる気でいたからほっとしたのである。
 ところが、卵打ちの事を北条氏政の許へ報告に行った武士は戻ってくるなり、
「それでご聴許となった。しかし若い弟子の方でもやれるなら、なにも老体をわずら
わす程の事もない‥‥そない仰せになられましたぞ」
と氏政の指図を披露した。
 だから上泉伊勢守が露骨に厭な顔をした。なにしろ自分では、
(わしも年じゃから)とは口癖のように言っていることだが、それは文五郎に、
(そんな事はありませぬ)と言ってもらうために声をかけるようなものである。
 女でも見てくれのよい若い娘なら、今でも一晩中抱きづめにもできると思っている
伊勢守は、老体よばわりされるのが、まこと心外に堪えなかったのである。
 しかし向こうが文五郎で可というのだから、その方が肩が凝らぬだけ助かる。もし
仕損じたら、その時こそ自分が代わればよいので、甥とはいえ長年にわたって仕込ん
できた文五郎がよも誤るような事はなかろうとも、伊勢守は確信をもっていた。
 とはいえ、下げ渡された白晒(さらし)を裂いて、それで襷がけをし鉢巻きを締め
た文五郎の晴れ姿をみていると、
(俺の一生は、こやつを一人前にするためだけだったのか)そんな侘しい気にもなっ
てきた。
 さて、四方八方と伊豆が言ったので、そのように按配され、やがて十二人の侍が、
左右の手に二個ずつの卵を握って文五郎を取り囲んだ。
 が、あっけなく試しはすんだ。四十八個の卵は文五郎の一刀の許にみな弾かれ叩か
れ、殻と黄身とが地面に撒かれたように、一瞬のうちに散乱していた。
 検分役に駆け寄ってきた武士達が、透き通って見えぬ卵の白身に足を取られ、細い
銀色の糸を引っ張りながら、文五郎の周りに集まってきて、仔細に爪先から頭の頂ま
で調べてみて、一雫の卵の跳ね返りもついていないのを確かめると、満足そうに引き
上げていった。
 案内してきた武士が改めて寄ってきたので、上泉伊勢守は、
(今度こそは自分の見せ場‥‥何かやるよう所望の旨を伝えに来たのだろう)と思っ
たから、
「はあっ‥‥」張り切って己れから前へ一歩踏み出した。
 ところが案内役の武士は、その前へ出した足先に重なるように寄ってきてからが、
「大先生におかれては、あの疋田文五郎殿を、お手放しなさるご意向ありや。若殿氏
直様が、いたく今の妙技に感心なされ指南を受けておけば、必ずや役立つ日もあらん
と、大殿に願うておられまするでのう‥‥」打診するような口のききかたをした。
「し、仕官でござりまするか」
興奮した上泉伊勢守は吃って聞き返した。
 思えば二十余歳の若き日に、愛州について刀術を習いだしてからというもの、河原
で文五郎相手に石を投げそれを打ち払いのけ、誤って額を割って血を流したときにも、
(今にみておれ、いつかは、しかるべき大名に召し抱えられ、槍と立て歩く一人前の
お武者様になってくれようぞ)と、思い詰めた一心で、なにくそと修行してきたので
ある。
 それが、まるでもがれた木の実のように、造作なく前へ突き出された感じである。
「‥‥け、結構でござる」あえぐように、それに生唾をぐっと呑んで答えた。
 そして上泉伊勢守はじっと眼を閉じ、
(上泉村のおばばのやつめも、仕官の放しを嫁になったばかりのころは信じていたら
しいが、次第に怪しむようになり、挙句の果ては嘘つきじゃ騙りじゃったと俺を放り
出しおったが、ざまをみろ、何が嘘な事であるものか‥‥)
 別れてきた口煩き妻の顔を瞼に浮かべ、それに毒づくよう胸の中で言い返して気を
落ち着けた。しかし、
「‥‥さようでござるか、大先生のご承認があれば、疋田文五郎殿も、当北条家への
仕官に否応もありますまい」
 念を押すように言われ、初めて仕官の話は自分でなく甥の文五郎だけらしいと、は
っとさせられるものがあって、そこで憮然としつつ、
「手前は、もう年でござりまするでのう‥‥」
相手へというよりも、自分に向かってする言い訳めいた口のききようをした。
 すると向こうは、
「そのご老朽のところで、刀についての談義を一席講じて賜りたくと、川越城主北条
氏長様たってのご所望で、あれなる松の木の向こうの離れ書院に、なんの趣向もあり
ませぬが酒肴は整えさせおりますれば‥‥何卒こうお出でさなれませえ」と迎えにき
た旨を告げた。
(なんじゃ甥めには仕官の口がかかったに、わしには一献呑ませてもらうだけの話か
‥‥)
がっかりしたものの、なんとも仕方がなかった。そこでやむなく連れられていくと、
北条氏長はもう待ちかねていて、
「その方の師の愛州惟考の編み出したる術は、愛州陰流という由じゃが、してその方
のはなんと申すのじゃ」
開口一番、難しい事をきいてきた。眼前の高足膳には、海辺だけに磯の香りのする生
魚の刺身や、こんがり焼けた切り身も、びっしりと並んでいたが、これでは箸を握る
暇もなかった。
 そこで上泉伊勢守は恨めしそうに膳を見下ろしつつ、
(大山石尊神のお導きによって、こうして小田原城へも招かれたのだから)と考えつ
き、
「はい、手前の流派は神様の蔭という文字をとって、神蔭流と申しまする」
と答え、もう箸をとってよかろうかと北条氏長の、傷跡のある突き出たような高い鼻
筋を眺めた。すると、
「ふうん、神蔭流というのじゃな。そうか、実は若殿氏直公が、そちの門下の卵割を
みて、何やら役立ちそうゆえ習いたいと仰せあるのじゃ‥‥そこで当小田原は知って
もいようが、北条早雲様がお国を建てられしよりの名門。やたらやみくもには、お好
みじゃと仰せられても我らとしては、おすすめしかねる。そこでかくは師匠であるそ
の方を招き、何かと承っておきたく、かく呼んだのである」
「はあっ‥‥」
 これでは瓶子から、酒の香がぷんぷん匂ってきていても、
(ちょっと一杯、頂戴)というわけにもゆかぬ。
 だから上泉伊勢守もやけくそみたいな声をだして、
「なんなりとお尋ね下さりませ」と北条氏長のひきつれた傷跡に向かって言った。
早く聞くことをすませ食させてもらわねば、何しにここへわざとよばれに来たのか、
わからぬことになると思ったからである。
「では、まずきく。刀術を蔭流、陰流とよび、正流、陽流と言わざるわけを、まず教
えてもらいたいものじゃ」
傷跡に似合わずににこやかな顔だったが、北条氏直はぴしりと真っ向上段に話をもっ
てきた。