1146 秘聞 柳生石舟斎  9

七生報国

 現在と違って中世は宗教が幅をきかせていた。
だから「輪廻の」の説といって、人は信心さえ厚くしていれば、死んでも又すぐに生
まれ変わるものと考えられていたからして、「七生報国」などという、七度までは生
き返ってこられる、という観念もあった。
 そこで信心を絶やさぬように続けるためには、家門というものが大切にされて、た
とえば関ヶ原合戦から大阪の役にかけ、真田一族が二つに分かれ、長男の信之は東軍、
その父昌之や幸村は西軍。どちらが滅びても家門は残るといった分かれ方をしたもの
である。それゆえ、柴田権六の母が、信長の許へ行けと自分の伜を追い出すようにし
たのも、やはり柴田の家名を信行方と信長方の二つに分け、どちらかが残るようにと
心がけた深謀であったのかもしれなかった。
 が、そこまで深く読み取れる権六ではない。
「なんじゃい、産みの親のくせして、甥っこの信行めに肩入れしくさって、我が子に
暇出すとは太い女ごじゃ‥‥」
 すっかりむくれてしまって、言われるままに那古屋城へ行った。そして信長へ目通
りを願い出た。
「なに‥‥あの大男が‥‥」
と奇蝶は心配して、
「柴田権六というは、先の稲尾合戦の際には末森方の信行殿の名代として、金覆輪
(きんぷくりん)の鞍おいた五歳駒に跨って、千五百の土田勢を率いて攻めてきたと
かいう剛の者‥‥それが単身ここへ押しかけてくるとは、よくせきの事と見えまする。
ご用心あってしかるべし」と止めだてした。
 しかし信長は、例のきんきん声を出して、
「彼奴はその昔、柳生新介とよぶ刀術者を俺のところへ寄越してくれたほどの者‥‥
別に他意あって来たのではあるまい。通せ、逢ってくれようぞ」無造作に言ってのけ
た。
 そして、権六が引き立てられるような恰好で眼前に現れてくると、
「おぬし、ますます大きくなったのう‥‥」
さながら子供をあやすような口をきき、
「はあっ、てまえ末森城を出されてきましたゆえ、ぜひともこちらにてお召し抱えい
ただきたく、かくは参上したのでござります」
 そこは嘘の言えぬ権六の事ゆえ、荒いざらい憤懣をぶちまける如く、道三入道に死
なれ孤立無援の信長を今こそ討たんと、異母兄弟の四郎信行が平を集めだしているこ
とを告げた。
「‥‥そうか」
初めは不快がって聞いていた信長であるが、汗を拭き言いにくそうに打ち明ける権六
に同情したのか、
「よしよし、よい事を知らせに来てくれた。それだけでも新規に召し抱えてやる値打
ちはあるぞよ」大きく請けあってからが、
「どうしたら、この場を巧く切り抜け得るか‥‥そちに委ねるによって、よきに計ら
え」
と命じた。
 そこで権六は、
「うへえっ‥‥」と畏まって手をついたが、困惑してしまい、上目づかいに信長を仰
ぎ見て、
「そうあっさりと、よきに計らえと仰せなされましても‥‥こちらは手軽には扱いか
ねまする。なんぞ思案がござりましたなら、お教えなされて下さりませ」と訴えた。
 すると、信長は、からから高笑いをしてのけ、
「世の中の事はなんであれ、話し合いでかたがつかぬ事はあるまい‥‥その方が仲立
ちとなって信行をここへ連れてまいり、わしら二人で、とっくり談合させるのだわ」
と答えた。
 言われてみれば生母こそ違え、同じ先代信秀様のお子で他人ではないのだから、
(兄弟どうしで話し合えば、穏便に事も鎮まろうというもの)と権六も初めて納得し、
「よう判りました」すぐさまとって返して末森へ戻った。
 そして四郎信行に対し、
「那古屋城へ一緒に行って下され。向こうの信長の殿が話をしたいと仰せられとるで」
と誘った。
 信行の生母土田御前や外祖父の土田久安は、
「呼ばれて行って大丈夫じゃろか」とは案じたが、なんといっても使者として仲へ入
っているのが柴田権六では、疑いをかける余地もなく、信用するしかなかった。
 そこで念のために、
「もしも何かあった節は、その方が後始末つけるつもりで、その覚悟でお供してゆけ
や」と言いつけた。
「かしこまって候」とばかり権六は、供揃いを仕立てて行こうとする四郎信行を、
「おおげさすぎる」と止めて、単身で今の名古屋城ニの丸あたりの那古屋城へ連れて
いった。
 さて信長も初めのうちは兄弟の間柄ゆえ、二人で話し合えば信行を言いくるめもで
きて、己が意に従えさせるものと思っていたらしい。
 しかし、実際に逢ってみると、信行はまことに意気軒昂たるもので、
「兄じゃのように、馬鹿だのたわけなどと人の口の端にかかる者は、この戦国の世、
どうして尾張一国をまかせおけましょうや」
などとぬけぬけと面と向かって言うありさま。
 そこで初めのうちこそ苦笑して余裕をみせていた信長も、次第にかっかとしてきて、
「ほざくな」と叱りつけたところ、それでも信行は、「からす勘十郎」と渾名されて
いる色黒な顔をてかてか光らせてからが、
「兄じゃは、この前の稲生合戦で我らの軍勢を蹴散らしなされたゆえ、それで勝った
気でいなさるようだが、ありゃ御承知のごとく、林佐渡は弟の美作をたて、わしの方
も従兄とはいえ図体が大きいだけの権六を、うかつにも名代に出したがためのしくじ
り。いわば、お前様は自分が出てござって第一軍なのに、われらは二軍を出したので
負けたようなもの‥‥」さも自分が出陣していれば勝っていたというような口ぶり。
 そこで、信長も黙って睨みつけていたが、仮にも血を分けた弟である。仕方がない
ので、
「よい加減にせぬか‥‥」とたしなめてみた。
 しかし四郎信行は、
(自分の方こそ尾張の国主になるのが好ましいと、皆が期待しているのだ)といった
自負心があるからして、
「ものには長幼の序列というものがる。弟の癖していいかげんにせぬか」と言われれ
ば、
「何が長幼の序じゃ‥‥美濃人の嫁さまを貰ったればこそ、その尻押しで辛うじて跡
目になれたのを忘れくさったか」と毒づき、
「が‥‥その肝心な後盾の斎藤道三入道を失った今では、木から放り出された小猿同
様な身の上ではないか。そう兄貴面せんと、さっさと手をつきわしに降参さっせい」
居丈高になって、信長を説得しようとまでするありさま。
 だから権六は、それに仰天してしまい、
「これでは話し合いどころか、喧嘩口論ではござりませぬか」
二人の間へ入って止めようとしたところ、
「えい権六、邪魔するなっ」信行は血走った眼になって、
「うぬ、信長めを逃がさぬよう、羽交い締めにしろ」
と言いざま、腰の小刀を抜き放った。
 そこで権六が太い腕を伸ばし、信長に組みついてゆくと、
「こらっ、そちは誰の家来だ‥‥」と叱りつけられた。そこで、
「そうか、こりゃ間違えた」後ろ向きになって、信行を押さえにかかった。
 だから小太刀を振りかぶった信行は烈火の如く立腹し、
「この大男の馬鹿ったれが、うぬから先に切り刻んでくれん」とかかってきた。
 しかし権六は、柳生新介から矢留や刃避けの基本を習っている。そこで、ここで柳
生流の真剣白刃どりをはじめたから、
「あっ‥‥」勝手違った信行は、小太刀を奪われまいと焦るあまり、誤って己れの心
の臓へ切っ先をあててしまった。


                柳 生 開 眼

桶狭間のとばっちり

 四郎信行を那古屋城へ呼び寄せ、そこで誅殺したような恰好になった信長は、
「これで競争相手を一人減らす事ができた」
と、ほっとはしたが、駿河の今川義元が三河の松平党を手先にして尾張へ侵入してき
たため、枕を高くして寝てもいられなかった。
 父信秀の居城だった古渡城も、熱田浜から攻めてくる今川方に奪われかけ危うく、
その根城(根拠地)にされかけたので破却してしまった。
 そして信長は自分の那古屋城も危ないと、織田下本家の持ち城だった清洲城に眼を
つけ、今で言えば疎開のような具合に、そちらへ移り住み今川方の鋭鋒を避けている
うちに永禄三年(1560)。
 駿河、遠江、参河、三カ国百万石を擁した今川義元は、宗家足利家の衰微を憂えて、
「われ京に上りて将軍家を助け天下に号令せん」
と、三万五千の軍勢を陣揃えさせて出陣となった。が、それに先立ち、遠州引馬城主
飯尾豊前守連竜と、織田方で鷲津砦を守っている飯尾近江守とは親類で従兄弟の間柄
だったから、義元は連達に命じて、
「せっかく揃えていく軍勢を、途中で掃討などに使うわけにいかん。何としても無傷
で京へ持って行かねばならぬによって、信長めが降参し人質を入れてくるならよいが、
そうでなくば出陣の前に片をつけ、尾張を安気に進軍してゆけるよう致すがよい」
前もって善後策を講じさせた。しかし飯尾豊前守にすれば義元の出陣前に三河の松平
党を使って徹底的な掃討をするとなれば、いやがおうでも身内の飯尾近江守と戦をせ
ねばならぬ羽目になる。
そこで豊前守は従兄弟、近江守の仲立ちで信長に逢い、
「駿河御所さま今川義元公におかせられましては、上洛遊ばされたら帰国なさらず向
こうで将軍家になられるような趣である。となると、これまでのように明け暮れ戦と
言う事もなくなる。じゃによってここは天下万民の為にも眼をつぶってお跡目の奇妙
丸(後の中将信忠)さまを質に出されて和平なさる事こそ好ましけれ」
と、熱弁をふるった。
 悪い話ではない。そこで織田方の重臣一同はそろって賛成した。だから信長もやむ
なく同意して、今川義元が出陣してきたなら出迎えの恰好をとり、人質を伴って三河
岡崎城へ赴き、その場で義元への忠誠を誓うという段取りになった。
 そして五月一四日、
「明日は今川義元公が岡崎城へ入られまするぞ。お出迎えの立場ゆえ向こうへ行かれ
ませ」と、飯尾近江守が気をもんで催促に来たが、
「おりゃ、腹痛じゃ」と、気が進まない信長は出発を拒み続け、その翌日飯尾豊前守
よりの迎えの使者が馬を走らせてやってきても、
「まんだ按配が悪うて動けんぞ」と断った。
 このため今川義元は、信長待ちのため岡崎城で三日も過ごしたが、とうとう痺れを
きらしてしまい、
「飯尾豊前の親類の篭もっている鷲津砦から、先に焼いてしまえ」
と、まず命じ、ついで近くの佐久間大学の篭もる丸根砦へも火をかけさせ、岡崎から
尾張の沓掛へと進んだ。
 こうなっては信長も腹痛だといって寝てばかりもいられなくなり、岩室長門、長谷
川橋介(きょうすけ)、佐脇藤八(とうはち)、山口飛騨、加藤弥三郎ら五人の近習
を従えただけで、清洲の城を飛び出していった。
 さてこの時、今川義元はまっすぐ清洲攻めをしていればよかったのだが、左京山の
裏手にあたる平手の庄が信長の生母の里方だと耳にすると腹立ち紛れに、
「そこも焼き払ってしまえ」とばかり寄り道をした。
 現在は鳴海球場ができ土地も整備されているが、その辺りは江戸時代でさえ、しめ
じ茸の産地だったくらいである。それゆえ湿地で野生林のような雑木林が多く、田楽
狭間や桶狭間の名で呼ばれたほどである。
 さて、平手政秀の館に放火し快哉を叫んだのはよいが、道不案内な窪地へ入り込ん
で俄雨に見舞われた義元の本陣は
「しもうた、雨がくるなら雨宿り用に先刻の平手館の焼き討ちをせんでおけばよかっ
た」
と、みなぶつぶつ言いながら、泥寧になってしまって歩けないから、雨がやむまで木
から木へ縄や網を張って、それに手持ちの楯板や布をくくりつけて、その下で雨宿り
したが、このため京へ討ち込む目的で用意した五百挺の鉄砲が雨ざらしになってしま
った。
 さて五名の近衆を従えただけで飛び出してきた信長だが、崖端まで出て眼下の敵を
見おろすと、
「なんじゃ、義元の本陣を固めている自慢の鉄砲隊がこの雨で濡れ鼠となっているが、
火縄がつかねばただの棒きれ同然ではないか。あれなら何も恐ろしがる事はない。背
後から物見高げにぞろぞろ着いてきている野伏(のぶせり)どもに、こちらへ手を貸
して鉄砲をぶんどったら銭を褒美にやると伝えて集めい」
傍らに控えた近習の誰にともなく命じた。そして降参する気でやってきたのが、情勢
の変化で途端に気が変わってしまって、一の谷戦記のひよどり越えのように崖の上か
ら、
「わあっ」と逆落としに攻めかけた。
 野伏や百姓といっても、戦国の世だから褒美が貰えるとなれば、みな勇気百倍。そ
れに遅ればせに後を追ってきた織田の家来も、その中には混じっていたからして、
「やってこませ」みな揃って一騎当千の獅子奮迅の働き。とうとう今川義元の首級さ
えあげてしまった。
 ----この時、織田信長は今川方の鹵獲(ろかく)兵器である最新式鉄砲五百挺を手
に入れるのだが、それによって織田兵団を近代装備化させ、やがて美濃・伊勢を併呑。
ついには「天下武布」の旗を中原に進めて行くのだが、この世に言う桶狭間合戦の影
響で、えらい目にあわされる事となったのが、頭陀寺城の松下加兵衛一族であった。
 というのは、
「わが父今川義元公が、まんまと瞞し討ちにあわれ、信長ずれに首を授けたもうたは
‥‥ありゃ遠州引馬の飯尾豊前めの裏切りじゃろ」
と義元の跡目の今川氏真が、親の敵と引馬を狙いだしたからである。

 むろん氏真とても、攻めたいのは清洲の織田信長だったろうが、虎の子の鉄砲をそ
っくり持っていかれてしまっているので、そちらへは手が出ず、身近なところで怨念
をはらそうとしたのだろう。
 氏真は今川一門の新野(しんの)左馬助を大将にして、
「豊前めの首をとってこい」と五千の兵を向かわせた。
 この知らせに驚いた豊前守は、
「こりゃ濡れ衣でえらいことになった。しかし降りかかる火の粉は払わねばならぬが、
先代の義元公は討死されたとはいえ、今川家はまだ腐っても鯛。このぶんでは二万ぐ
らいの兵力はなお集まるだろう‥‥すりゃ正面切って新野五千の兵と戦うは、恐ろし
くはないが、ここはよく考えねば相なるまい」
と、すぐさま妻女と相談した。すると、
「わが妹の娘手まりが十六歳になり、あのように器量もようござりまする‥‥よって
あれを今川氏真に献じて和平を願われたらいかがでござりましょう」となった。
「そりゃ名案じゃ。氏真様は女ご好きゆえ、手まりをつかわせば機嫌を直されよう。
しかし我らの裏切りで義元公討死、と思い込まれているらしいゆえ、そこは何とする?
誰ぞ納得されるような裏切り人の名など出さぬ事には、手まりの色香だけではたすか
るまい」
「ならば、人手不足で伴っていった頭陀寺城の松下加兵衛めが怪しゅうござりまする、
徒訴えたらいかがさまで‥‥あれならば我らや今川御本家様とは、全くの宗旨違い」
「うん。よいところへ目をつけた。松下加兵衛めを裏切り者として訴え出れば、氏真
公のお憎しみはあちらへ移ろうというもの」となった。
 桶狭間合戦のちばっちりで、松下加兵衛の頭陀寺城の方へ、とんだ災難が舞い込む
ことになったのである。


松下の家系

「なに駿河よりの軍勢が引馬城を攻めんと、この頭陀寺を目指してくるとな」
普段はあまり大声を出さぬ温厚な松下加兵衛も、ぎょっとしたように叫んだ。
 現在では浜松駅からバスに乗っていくと。十分ぐらいで「頭陀寺幼稚園」に着く。
頭陀寺の名残りは空き地の片隅に積み重なるように集められている宝印塔や古い石塔
だけであるが、それも幼稚園の遊び場所ゆえ、駆け上がったり降りたりして遊ぶ子供
達の格好の足場となっている。
 幼稚園前の田圃越しには、こんもりした畳三枚ほどの薮があって、そこに「松下加
兵衛邸跡」の棒杭が立っているが、今川の軍勢に包囲された当時の頭陀寺は、あんな
ちゃちなものではなかった。
 なにしろ「千住院日瑜(せんじゅいんにちゆ)文書」などによると、
「十二坊の大伽藍の規模宏大、方十八町に及ぶ」
とあるから、二キロ四方の規模だったらしい。
 そして、当時の薬師寺派の東海地方における本山だったので、
「僧俗の衆徒三千人を越え、警護の松下加兵衛はその延べ二里余の築地塀に矢狭間を
設け、所々の門脇に物見櫓を立て、兵千余をもって日夜をわかたず警備す」
と、「家忠日記増補」や「浜松城御在記」の中にも頭陀寺城の荘厳さが出ているから、
今川義元の全盛時代にも手を触れなかった禁断の地へ、氏真は飯尾豊前にそそのかさ
れて兵を向けたらしい。
 その月日は千住院文書によれば、永禄七年二月二日付の今川氏真の判がついてある
ものに、「頭陀寺こと先般悉く焼失」などと出ているから、これはその前年の出来事
であったらしい。
 さて、大和の国の筒井氏が興福寺守護の衆徒の僧兵団から、だんだん勢力を伸ばし
て、しまいには戦国大名にまでのし上がったように、宗派が異質で「反西方浄土的」
な薬師寺系だが、松下加兵衛も、いわゆる修験者とか山伏と称せられる者の中から頭
角を現した戦国大名だったとみるべきだろう。
 そして、この松下家というのは、のち桜田門で殺されて有名になる井伊大老の祖で
ある井伊直親(なおちか)が今川氏真に殺されたとき、井伊谷は「みくりや神領」で
直親はそこの出身だったから、そのよしみで直親の忘れ形見を遠州掛川城主朝比奈三
郎兵衛の手から、井伊と同じ系統の松下加兵衛之綱(ゆきつな)の弟、源太郎清景が
助けだした。
 「松平記」によれば、徳川家康が遠州入をしたときに、井伊家は同宗門だからと、
遺孤を求めて、その幼児を引き取ると、側近くに置き可愛がった。これが後に家康の
懐刀とも呼ばれ、代々、掃部守を名乗る近江彦根初代城主の井伊直政である、という。
 だから井伊家では松下家を先祖の命の恩人として、「井伊家譜」や「井伊家伝記」
では、詳しく松下家の事を書き残している。
 そして井伊直政の幼児の頃に、これを我が子のごとく可愛がったのが松下加兵衛の
娘であり、後に柳生石舟斎となる新介と結ばれ、柳生宗矩らの母となる春桃(はるも
も)姫である。
 だから、これは後の話しだが、柳生石舟斎を家康に引き合わせるようにとりもちを
したのも、井伊直政が春桃御前のために取り計らった事である。
 なお、掛川城へ忍び込んで、手討ちにされる前の幼き直政を危ないところで救いだ
させた源太郎清景の弟源次郎安綱が、家康が駿府城に落ち着いた後に「常慶」という
名で、その側衆に招かれたのも、井伊直政の尽力によっている。
 しかし今も駿府城内には、その名をとった常慶門などというものがあるから、
「まさか二百石とりの小役人に過ぎなかった松下常慶の名を、家康自身さえ頭を下げ
て潜る門につけるわけはなかろうと思うが、全く変な事である。」と書かれた歴史書
もあるが、それはこうした経緯を知らないせいだろう。
 故高柳光寿氏は室町時代の「蜷川親元日記」の寛正六年(1465)の条を引用し
て、「室町御所の政所頭人(まんどころとうにん)伊勢氏の被官に源右衛門尉」とい
うのが、松下家の先祖だと、その由緒正しさを解明している。
 しかし、源右衛門尉というのは一見個人名のようにみえるが、「室町御所日記」な
どでは、
「追捕(ついぶ)のため源右衛門尉ら馳せ向かう」
「源右衛門尉ら近江へ追補に赴く」というのが随所にあらわれてくる。
 これをみると、検非違使の官名ではなかろうかと思われる。つまり今日のCIAや
FBIのような特高の任務を帯びていて、家康が後に名づけたという「廻国者」の足
利時代の呼び名ではなかったろうかと考えられる。
 つまり、そうした特殊任務をもっていたからこそ、掛川城内に忍び込んで井伊直政
を松下源太郎、源次郎兄弟が人目につかずにさらってもこれたのだろうし、源次郎が
常慶と名乗ってからも、家康のために大坂方を瓦解させるような手柄を上げ、そこで
感激して家康が彼の名を門につけたのかもしれない。
 そして、後に柳生一族が「廻国者」として徳川家に認められ、万石大名となれたの
も、春桃夫人が松下の直系だった事を考えると、これまでの俗説のように、上泉伊勢
守から新蔭流の教えを受け、柳生新蔭流の開祖となって、徳川家に印可を与え、公儀
御指南番となったという説は全く政治的なもので、表面を糊塗するためのものでなか
ったかと疑える。 というのは、将軍家自ら槍ならまだしもの事、斬り合いを習うよ
うな事は、全く必要ない話で、あれは柳生と密談をする場合、普通の座敷では誰かに
聞かれもするが、開けっぱなしの広い道場で二人きりで、袋竹刀でポンポンやりなが
ら、近寄って話をすれば、これほど安全な密談場所はなかろうと思えるからである。
 つまり松下加兵衛のところへ、幼き日の木下藤吉郎みたいなのが入り込んでいたの
も、そして柳生新左衛門が、その子の新助を頭陀寺へやったのも、そこが全国の薬師
寺系の信徒を組織網とした被圧迫民族の情報活動の根拠地だったからかもしれない。
 なにしろ「日本神祇史増補版」には、「異端」という欄が追加されていて、そこに
は邪宗邪教のごとき扱いで「松下神社」の名が見える。これは伊勢二見が浦と奥州の
平泉の二か所にあって「蘇(素)民将来、来福之守」というお札を出しているところ
である。
 増補版の解説では、「屠児その殺せし獣の霊を慰め、刑吏その無実の罪を捏造し殺
しせし者の霊を弔い、常人の信仰する神ではない」といった決めつけ方をしているが、
慶応二年に刊行された「街道ぞめき」という小冊子によると、
「抜け詣り伊勢参拝といえば、五十鈴川を渉(わた)っての内宮外宮のお参り、とお
おかたは思うならむが、彼らは二見が浦夫婦岩に面した松下神社の参詣人にて、これ
をアマサママイリといい、海岸に越後屋鴻池(こうのいけ)の手代が出張っていて、
白木尊を祀ったり、その旗を立て、銀一朱ずつの施餓鬼をなしおり」と出ている。
 いま東京日本橋の東急が、かつて白木屋と呼ばれていた頃は白木尊を祀っていたが、
関西の大店はほとんどその系統だったから、そのため松下神社への蔭参りの人達には
同族として施しをしていたらしい。
 今では「お庇(かげ)参り」の文字を当てるが、そうではなく、これはあくまでも
被圧迫民族の「蔭参り」であるのが正しく、「愛州蔭流、疋田蔭流、上泉神蔭流、柳
生新蔭流」の蔭と同じ事で、「陽の民」に対する民のいいで、「物事の眼にみえぬ実
体が蔭である」といった詭弁とは、まったく違うものなのである。
 お札の「蘇民将来、来福」の意味はというと、この日本列島に元から住み着いてい
る原住民にも、いつかは花咲くときも来ようといった護符で、その実物は牛にビール
を飲ませるので有名な和田金本店の、道路向いにあるガレージの奥の住宅玄関口にも
貼られているが、平泉の方でもお札は同じで、明治維新後はさびれているが、それで
も信徒の数は想像以上に多い。
松下というのは原住系では、神様のような家柄だったものらしい。


頭陀寺焼討ち

 さて松下加兵衛の家門が神様の如く信仰されていたとしても、それは同じ宗旨の者
に限られての話であって、押し寄せてきた今川勢には、なんの御利益も効き目もなか
ったらしい。
「やってこまそ」と雑兵どもが口々に喚き立て、掛矢をふるっては築地塀を叩き崩し
て、
「女はどこだ、銭はどこだ」今川の軍勢はまるで山から獣の大群が里へ降りてきたよ
うに乱入してきた。
 そこで松下加兵衛は、
「わが兵は千たらずなのに敵は五千‥‥こりゃ勝算はおぼつかない」と考えたから、
「者ども、防げや、神を恐れぬ輩に神罰の征矢(そや)をくらわしてやれ」
と呼び叫びつつ奥へ入り、からたち館まで駆け戻ってくるなり、
「これさ千賀(ちが)に春桃はいてか‥‥」
気遣わしそうに二人の娘の名を呼んだ。
 松下加兵衛とて人の子の親である。心配して娘の安否を気づかったのである。
「我らはひとまず西塚の砦へ避難するが、そのためには敵の中へ突きこんで血路を開
かねばならぬ‥‥よって、そもじらを伴って行くは危険じゃから、どうだ、この泉水
へとびこみ水門を潜りぬけ、濠を越えて敵の背後へ出てしまい、いっそ柳生谷まで落
ち伸びてはいかに」
言われた二人は、狼狽したように濡れ縁のところまで揃って出てきはしたものの、
「柳生とは‥‥大和の」と父の突然の言葉にびっくりした。
 しかし加兵衛は手をふってなだめるごとく、
「遠国へやるのは心許ないが‥‥今川氏真が我らへ兵を向けてよこしたのが何ゆえか、
さっぱり見当もつきかねる今のありさま。少し落着いて情勢が判るまでは、大和路ま
で難を避けたがよいのではあるまいか」
話している最中にも、乱入してきた今川勢の野太いどら声が、次々にとびこむように
響いてくるし、からたち館へも外れ矢がびしびしと突き刺さってくる。
 そこで加兵衛も顔色を変え、
「早う、急げや‥‥」叱りつけるように言い、
「大和の柳生には破石に、この方の薬師寺の別院はあるし‥‥前に柳生新左衛門の伜
新介がここへきていて、そもじらも顔馴染であろうが」と付け足した。
 これには千賀も春桃も、思わずほっとしたように互いに顔を見合せ、
「新介様がいなさる所でおじゃりまするか」とうなずき合ってから、
「では、父(てて)じゃ、行って参じます」と泉水へ足を入れた。
 加兵衛は紐のついた銀入りの袋を懐から取り出し、これを春桃の首へかけてやると、
おびていた脇差をとって、千賀の背中へ押込むようにし、
「次々と薬師寺か白山明神の社を中継ぎにして行け。すりゃ道中は同宗の者が安全に
守ってくれようぞ」
と念押しをした。姉妹は、
「かしこまって‥‥」と振り向いて一礼。そのまま水の深いところをめざして、抜き
手をきりながら潜って行ったが、次の水門へ入ってしまったのか、それなり姿を見せ
なくなった。
「これでよい‥‥」とばかり松下加兵衛は、ほっとして、からたち垣から出ていこう
とすると、そこへ弟の源太郎清景が、
「兄じゃここにいてか‥‥」既に、ざんばら髪になった頭を振り乱して駆け寄ってき
た。そして、
「御坊の人々は裏手より落し、我らにて防ぎに防ぎまくったなれど、なにせ今川勢の
大将小笠郡新野(にいの)の城主新野左馬助は、稀代の豪傑ゆえ我武者羅(がむしゃ
ら)に討ち込んでは、十二坊のどれこれ容赦なしに火をかけてきおって、このままで
は風向きが変わった時、我らも焼け焦げしてしまいますぞ」と呼ばわった。
「よしっ、娘らを今、落としてやったところ、それでは我らも敵の囲みをついて出ん」
と答えたが、気になるように首を傾げ、
「源次郎は‥‥」と三男の源次郎安綱の安否を確かめた。すると源太郎は、
「あれはとんでもない奴‥‥新野左馬助と取っ組み合って馬を奪い、もうとうに西塚
へ行ってしまっておりますわい」と弟のことを高笑いした。
 そして早口に、
「新野の軍勢が何ゆえもって今川氏真公の命令で、この頭陀寺めがけて攻め寄せてき
くさったか‥‥不審に思って乱戦中ながら、小者の耳のよいのを選んで聞かせてみま
したら、どうやら引馬城の飯尾連竜めが、我らが義元公を殺す手引きをなしたるごと
く、話をでっちあげましたる模様」
と急ぎ告げた。
「そうか‥‥それで不意に押し寄せたるか。それにしても怪しからん奴は飯尾連竜め
じゃ」
 いつも静かな松下加兵衛も、眼に角をたて憎々しげに呟き、無念そうに、
「では源太郎、火の粉がどんどん落ちてくるゆえ、さあ、我らも早めに引上げようぞ」
今川方の軍兵の声のしてくる方角は避け、からたち垣の中へ入ると、娘たちの館の裏
手になっている柏の木の土塀に取りすがり、そこから外へと抜け出した。
 さて、この時の松下加兵衛の恨みから、その配下の者を使って暴かれたためか。こ
の二年後の、「武徳編年集成」の永禄八年十二月二十日の条には、
「飯尾豊前守連竜は、その姪が今川氏真寵愛の引馬御前なので、連竜も氏真の殊遇を
受けていたが、何者かが、連竜は今川の裏切り者であるという風評をしきりに撒き散
らしたので、氏真は連竜を駿府城内へ呼び、その二の丸にある飯尾の館で遠州からき
た連竜夫妻が一服しているところを、屈強な侍百名ばかりに襲わせた。
 飯尾方にも引馬より供してきた武士が二、三十名いたので、すぐさまこれに防戦し
た。このとき飯尾連竜の妻は、手に滑り止めの粉白粉をつけ薙刀をふるい十余名まで
今川方の侍を仆したが、衆寡敵せずついに夫連竜と共に首を取られ、二の丸大手門に
晒されたが、世にこれを『駿府の小路の戦い』という」
と出ている。
「松平記」には、
「先年、須田寺(頭陀寺)を追われし松下兄弟や、久能山の久能宗能、堀江の大沢左
衛門尉らが、密かに人を入れて氏真に讒(言)したもので、彼らはその(連竜事件)
を怖れ、神君家康公遠州を手に入れたもうや、率先してその傘下に降り、馳せ参じた
るなり」とある。
 また飯尾連竜の妻が女ながらも武士の妻と、白粉の粉を掌につけて滑り止めとし、
夫連竜を庇って健気にも十余名の敵を倒した物語は、静岡ではあまりにも有名だった
から、戦時中には女子挺身隊への講話にいつも引用されていた。
 さて、そうした後世の事など知る由もなく、無事に川の中を潜り抜けた千賀と春桃
は、できるだけ頭陀寺の城から遠ざかったところで、
「もう、ここまでくれば大丈夫じゃろか‥‥」
「あたりに今川の兵の姿も見えぬゆえ大事なかろう」
と、そっと岸の葭草につかまって、一息いれ、ぐっしょり濡れた身体を互いに引きず
り合うように助け合って、やっとの事で叢まで這い登った。
 昼の事ゆえ紅蓮の焔はあげていないが、真っ黒な煙に包まれた頭陀寺を二人は振り
返って、
「まあ‥‥」と言葉にもならず涙を溢れさせた。
 そして、
「父じゃ伯父ご達は大丈夫でござりましょうか」と泣きじゃくる春桃を、
「松下一族が火攻めにされたくらいで焼き殺される事はない。それより、父じゃに言
われたように、早う大和へ行かねばなるまい」
千賀はきっと叱りつけるようにたしなめた。
 それでも春桃が、
「西塚の砦へ行きたい」と心細がるのを、
「なりませぬ。柳生へ行くのじゃ」と、その手を引っ張るようにして駆け出した。