1140 秘聞 柳生石舟斎  3

矢留の術

 矢留の術は武芸十八般の一つに入っている。
しかし、あまり一般向きではない。そのため、天文十二年の鉄砲伝来以後、弓矢は鉄
砲に取って代わられて衰徴し、したがって矢留の術も消滅してしまったかのように、
今は思われがちである。
 しかし、鉄砲が伝わってから、それを模した精巧な和製の銃も雑賀や国友では作製
され、江戸初期には「倭銃」「和銃」の名称で、今のベトナムやマレーシア方面にま
で輸出されるようにもなったが、その銃の弾丸をとばすのに必要な火薬が、硝石七割
五分硫黄一割五分、木灰一割という配合でききるのだが、その最も重要な硝石たるや
鉱脈が今でもないが、当時においてもやはり採鉱されなかった。
 だからどこの山を掘っても、一片の硝石鉱も得られぬ日本では火薬の自給ができず、
ゆえに戦国時代はポルトガル領のマカオから輸入していたが、徳川の世になって、島
原の乱以降は、
(口の津の火薬庫を押さえれば、土民の一揆といえどかかる大事となって、火薬が尽
きるまでは討伐が困難であった)と懲りてしまい、「出島」を長崎に築き、そこを公
儀直轄地として、表向きは「切支丹禁止のため」ということにして、実は徳川家だけ
が硝石の輸入を独占し、他の大名が直接外国船と貿易して硝石を入手するのを防ぐた
め、これを「抜荷買いの御法度」として固く取り締まったから、幕末になって長州や
薩摩が上海から新しい火薬樽を輸入するまでは、泰平も保て鎖国の効果を上げられた。
 つまり鳥羽伏見の合戦の際、公儀のしまいこんであった湿った古い火薬では、不発
弾ばっかりだったのに比べ、新しい硝石を使った薩長の方は無駄玉がなく、二千の兵
力が二万の徳川軍を惨敗させてしまうのだが‥‥それ以前、まだ江戸が華やかだった
頃は、各大名家とも戦国時代からの鉄砲はあっても、火薬が自由に入手できなくては、
無用の長物ゆえ、それよりも、竹さえ切り出せば矢になる弓の方が簡単で効果がある
と認められ、弓が再び流行し、そのため矢留の術も幕末には息を吹き返した。
 このため上野国多胡郡馬庭村(群馬県多野郡吉井町字馬庭)に道場をもち、大度
(おおど)の関所の捕り子どもに念流の棒術を教えていた、馬念流十八代めの樋口定
伊が、「矢留術指南」を看板にして江戸表へ進出し、初めて神田明神下で教えだして
からは、
「ぜひとも、矢を打ち払う術を教わろう」といった若者が多く、このためそこでは手
狭になったので、現在の和泉橋の凸版印刷工場のところへ大きな道場をもうけ、「ヤ
アヤア」と矢声をあげ弓弦(ゆづる)を鳴らして、ご維新まで盛んであったという。
 尾張徳川家では、家老田宮如雲の命令で、藩校明倫堂において、武芸十八般の一つ
として必須科目にされたが、その教授矢留源雄の伜霊雄は、御一新後、愛知県中島郡
祖父江町三丸淵の寺を継ぎ、今はその子の矢留不二麿の代で、尾張矢留術の伝書を代
々残している。[この矢留氏は八切氏の先祖にあたると、氏の他の書で読んだことが
あります]

 山の中で育った新介は、戦の時には父新左に伴われ、槍や長柄を担いでついてゆく
程度だったから、刀というのは山刀、つまり若草山から柳生にかけて続く野生林の中
を駆け抜けるとき、邪魔になる木の枝を払うために使うもの、といった概念しか持ち
合わせていなかった。
 つまり刀で打ち払える相手は、木の枝や羊歯の茂み、それにもつれた蔓草。さもな
くば不意に襲ってくる狼などの獣よけといった具合に頭の中で固まっていた。
 だから、その刀で飛び来る矢を打ち払うというのは、大和あたりの戦ではみかけな
いものだっただけに、一つの驚異だった。
「この術に巧みになれば、しつ払いと呼ばれ、どこの大名家にでもすぐ召し抱えられ
て大切にされる。なにしろ殿様の楯ともなってお守りする、大切なお役目じゃからな」
という双心斎の言葉にも魅力があった。
 柳生の庄を奪還するには、しかるべき大名の庇護や援助がなくては叶うまいとは、
かねて新介も心に期していたからである。
 ----もちろん柳生の山中にいて三好長慶の手に属していたとはいえ、いつも木津川
べりの川守りぐらいにしか使われていないので、都大路や宇治川での大きな戦を新介
は見ていないのである。
 だから矢留の術に巧みになれば、おおいに立身出世できるよう言われ、その言葉に
励まされて、新介はやる気になったといえる。

しかし山名方と細川方とが相争った戦乱の次第を書き残してある「応仁記」などによ
れば、
「それぞれ集め来たりし足白(素足)の者らに青竹二本ずつを持たせ、これを横列に
させて、それ進めやと、幾重にも繰り出す。これ飛来する矢を打ち払わせ、後続の味
方に届かぬよう防がせる為の人間楯なり」といった記述が既にみえている。
 つまり矢除けに木楯は重くて持ち運びできぬから、人買いの手で奴隷として支い集
められてきた者達を横隊にして繰り出し、これらの者に青竹で飛んでくる矢の邪魔を
させ、防ぎ切れず自分に刺さって倒れる場合も多いから、それを埋めるために何列も
次々と送り出していたものらしい。
 しかし「続応仁私記」などになると、
「飛びくる矢や石に当たりて、血まみれになり、倒れる者も多かりしが、運よく命拾
いせる輩は敵味方の区別なく、屍の中を山犬のごとくあさりまわりて、銭あれば銭を
とり、刀をもぎ、その死せる者の布子さえ奪いて、これを己が身に纏う。さながら悪
鬼餓鬼が死屍をむさぼり食するにも似て、地獄の幽鬼のごときありさまゆえ、かかる
やからを悪党と言いはべるなり」
とある。つまり初めは仕寄せの竹束なみの消耗品として使われていた山者の奴隷の中
で、後方へ飛んでゆく矢はほったらかしにして、自分に刺さらぬよう、これを懸命に
打ち払って命拾いした者達、つまり運動神経が発達していて要領のよい者が、「使え
る奴」として、改めて取り立てられ、新たに陣笠やぼろ具足の類をあてがわれ、これ
が「足軽」といった下級士卒の中へくりこまれたものらしい。
 しかし山者は元々神祠や神宮の信徒の群で、反仏の者達ばかりだから、体制側の室
町御所へ、たとえ低い身分であれ採用されると、今度は集団を組んで「仏都」の名さ
えある洛中を押し廻り、寺々へ入り込んで乱暴し、怨敵とばかり仏像を毀し寺僧をい
ためつけたのであろう。
 そこで関白一条兼良(かねなが)などは、その三男の尋尊のいた大乗院に身を寄せ
ていた事もあったから、神信心の山者が足軽になった途端、持たされた武具で敵と戦
うより、これまでの因縁で寺々を荒らし廻るのを実際に見ていて、
「近ごろ、足軽と呼ぶ悪党どもが、都大路を荒らし‥‥」と、その日記に書き残した
のであろう。
 しかし、これが資料として今に伝わっているからして、仏徒側の立場で、兼良が神
信心の山者を悪党よばわりしたのを判らぬむきが、
「足軽の初めの頃は各地の悪党どもの中から、足腰の強い者を選んだ。これは、つま
り足の軽き者、走るに足軽き者であり、足軽の男が適当だということだった」
と判ったような判らぬような解釈をしているが、交通機関が何もなく二本の足に全て
がかかっていた頃は、動物なみに人間も誰もがみた足腰が強いのは当り前の事であり、
悪党といっても、それは立場や主観の問題で、どこにもそう名乗るような部族がいた
わけではない。
 もし神信心の山者を、みなひっくりめて悪党よばわりするのなら、柳生一族など典
型的な悪党ということになるだろう。
 なにしろ悪に対する反対語が善だから、「禅宗」という、もっともらしい文字があ
てられているが、尋尊の書いた「大乗院寺社雑事記」の中には、はっきりと、
「悪(神道)に対する善の教え」とか、「善宗」の文字が使用されている。

引馬の使者
 矢留双心斎の教え方がよかったのか、持って生れた新介の天稟(てんぴん)による
ものか、五十本までの矢なら両手の刀捌きで皆叩き落し、百本までの矢でも皆打ち払
って、己れの身体には一本たりとも当てさせぬ程になった。
「もうよい。これで教える事も学ばせる事も何もない‥‥後は実戦で腕を磨き、しか
るべき主とりをして、矢留の術の名を天下に弘めてくれたら、それでよいのじゃ」
 飄然として、浜木綿(はまきう)の花が砂丘に咲く頃、双心斎は熱田の源太夫大浜
へゆく鰯舟に乗せてもらい去っていってしまった。
 弁天海の浜まで見送りに行った新介は、これで一人前になったという喜びよりも、
何ともいえぬ寂しさを感じて、小さく遠ざかっていく舟影をいつまでも眺めていた。
 その後、柳生の庄にあっては山刀としか扱わなかった刀というものに対し、矢留の
術を修得してからの新介は、(俺は刀をもって身を立てられかも)といった想念‥‥
言い換えれば、刀によって名を上げ立身して、柳生の庄を筒井から取り戻せるやもし
れぬ、といった新たな希望を抱き始めた。
 そんな矢先の事。
近くの引馬城の飯尾連竜の許へ、刀術をよくする中条流の富田一刀斎なる者が来てい
るという噂を聞いた。
 引馬城の飯尾というのは、以前は室町御所奉公衆であった先祖が、駿河へ今川家が
派遣されるときに目付のような役割でつけてよこされて以来、そのまま遠江に居座っ
てしまった形であるため、薬師寺十二坊の砦を守っている松下加兵衛とは、かねてよ
り犬猿の仲の大名である。
 だから、いくら眼と鼻のところとはいえ、松下に厄介になっている新介が、
「刀術とは矢留術とは違うものでござるか」
とも心安く引馬城へ訪ねてはゆけなかった。だから気にしていながら、訪れてゆけぬ
歯がゆさに、心中いらいらしきっていた。
 ところが彼岸の中日。
「月見をかね舟遊びをしたやとの姫君の仰せ。その方は手潜りの巧者ゆえ供をしいや」
千賀付の老女から言いつけられる事となった。
 今でこそ浜名湖と区切られた湖水になっているが、その頃は遠江灘に続いていて、
今切の浜と呼ばれていたが、頭陀寺川から舟を漕ぎだして行けば、その今切の浜まで
出られるのである。
 だから舟で出かけたから、そのまま周遊して戻ってくればよかったのだが、なにし
ろ小舟の事なので手狭で窮屈だから、浜の砂浜を見つけるとそちらへもやいで、
「ゆるりとなされませ」と付き添いの老女は、千賀をおろし、用意してきた花筵(む
しろ)をのべると、それに座らせた。
 すると、彼岸の中日の月見など、考える事は誰も同じとみえて、別の舟がすうっと
近寄ってくると、これも砂浜に眼をつけ、
「あれがよい、あそこが恰好」とばかり、どかどか数人の男どもが降りてきた。
 しかし舟の中で既に食べ酔っていたらしく、千賀達が花筵に座って、月見の団子な
どを食しているのを見かけると、
「これは重畳(ちょうじょう)‥‥酒は美女の酌に限ると申すに、こりゃうってつけ
の好き女ご、弁天さまがいなさるわい」
酩酊した男どもが、ふらつく千鳥足で寄ってきて、花筵の上へ土足で上がろうとした。
 老女がきっとして千賀を庇いつつ、
「おのれ酔余の戯れ言にせよ、無礼は許しませぬぞ」と叱りつけた。
が、酔っぱらいどもは、
「何をぬかすか。我らが所望は、そなたのようなおばばではない。あれなる姉妹じゃ」
と、千賀とまだ幼い春桃の二人を指差してからが、
「そんなら、こまい方はよいから上の方だけでも、我らに貸せ‥‥どうせ使って減ず
るものではあるまいが、女ごの道具は」
 卑しい言葉を吐きかけ、無法にも力ずくで千賀を連れ去らんとするありさま。
それにお河童頭の童女の春桃は、
「あ、あねえさまえ‥‥」と悲鳴を上げて泣き叫び、千賀の方も妹を庇うようにして
眼をすえ、
「我らを松下加兵衛の娘どもと知っての乱暴か」
かすれた声をはりあげてぐっと睨みつけた。
 言われて酔っぱらいどもは、一瞬はっとした様子を見せたが、事ここにいたっては
止むにやまれぬこの場の仕様とばかり、
「何をぬかす。この今切の浜は飯尾豊前守様御所領の土地。そこへ松下の娘が入り込
んでいるわけがなかろ」
「我らをだまくらかさんと、つべこべ御託をならべくさるな」
勝手にわいわい喚きながら、千賀の肩を掴もうとする者まで現れた。
 さて、砂浜の蔭にとめた舟内に残って待っていた稗吉と新介もこれには驚き、
「おのれ無礼者めが‥‥」
舟を漕いできた竿をもって駆け寄るなり、花筵の上へ足をかけている者を、
「----土足でなんじゃい」と、これをびしりと叩きのめし、
「慮外なり、我らに手向かいいたすとは猪口才なり」と、手にした六尺槍で突いてく
るのは、とっさに避けて空を突かせ、
「どっちが無法じゃ」
と、その脾腹あたりを思い切り差し込むと、仰向けにひっくり返して砂をかませ、
「さあ、この新介が相手になろう。うぬらどこからでもかかってこいや」
竿を振って叩いたり突いたりして暴れ廻れば、すっかり勢いをくじかれた面々は、酒
の酔いもさめはてたのか、みなこそこそと待たせてあった舟へ逃げ込み、そのまま漕
ぎ去ってしまった。
 だから千賀をはじめ、泣きじゃくっていた幼い春桃もほっとして、
「早うに退(い)のう」ということになった。
 新介は稗吉とともに、散らばった食器や団子を、花筵にくるんで舟へ運び、
「さあ、お戻りなされましょう」と老女達をもせかして、そのまま頭陀寺川の方へと
漕ぎ戻った。
 しかし、先刻の酔っぱらいが引馬城の者達と判っているだけに、もし父の松下加兵
衛に話せば、事が大きくなろうと案じたのか、
「今宵の事は、この千賀が舟遊びして月見したいなどと、我侭を言い出したによって
出来(しゅったい)したこと‥‥幸いとりたてて何の間違いもなかった事ゆえ、一切
なかった事にして他言は無用ぞ」
 千賀は舟から降りて、からたち館へ入るとき、一同にきつく言い渡した。
稗吉などは不服そうに、
「あないめざましい働きしたのに、何もなかった事にせよでは、ご褒美をもいただけ
ん。つまらん事になったもんだぎゃあ」
まるで自分が竿をふるって酔っぱらいを追い立てたかのように、間尺に合わぬといっ
たふくれ面をした。しかし新介は初手から恩賞目当てというわけではなかったので、
「よいではないか‥‥」とそれを慰めた。
 さて、頭陀寺の方は、口にするなとの千賀の言いつけで誰もしゃべりはしなかった
が、引馬城の方では、散々に懲らしめられた連中が腹いせに、ある事ない事を訴え出
たものらしい。引馬の家老江間権太夫(えまごんだゆう)の名で、
「今切浜は駿河御所様いいつけにて、当家が一切仕切りおる地なるに、新介なる者み
だりに闖入(ちんにゅう)、曲事(くせごと)ありたる由。取り調べたき仕儀により、
身柄をお渡し下されたく」
 厳しい口上で掛合いの使者が訪れてきた。これには松下加兵衛も何の事か判らず、
「うむ」と唸ったまま返事もすぐにはしかねていた。

柳生の血の謎
「わしの娘を救ってくれた者を、いかに今川義元の威勢を笠にきて強談してきよって
も、何じょうもって渡す事やある」と、千賀達から事情を聞いた松下加兵衛は、
「江間の使者を縛り首となし、首吊りの松の木に吊るしてしまえ」
とまで激怒したが、新介は、
「手前一人が向こうへ行けば、それにてすむこと」
それを制して、進んで使者と同行しようとした。
 なにしろ、かねて引馬城の仕打ちに腹を立てていた加兵衛の弟源太郎のごときは、
「この際、一戦を交えて、引馬城の奴等の鼻をあかすも面白や」などと張り切ってい
たが、頭陀寺で松下兄弟が握っている兵力は四百足らず。それに比べて引馬城の方は
千を越し、近くの掛川には朝比奈三郎兵衛の城があり、駿河には今川義元が控えてい
る。
 松下兄弟が引馬城に弓をひけば、待っていたとばかりに、寄ってたかって叩きふせ
られるのは目にみえていたから、迷惑を及ぼすまいと新介は、進んで連れて行かれる
事を望んだのである。
 だからして千賀や幼い春桃をはじめ、からたち館の女どもは、皆涙ぐみ、
「男らしや」と誉める者もあれば、
「健気やのうし」と、いたわりの言葉をかけるものもいた。
 しかし稗吉だけはむくれ、口を尖らせて、
「自分だけ、ええ恰好し、儲けようとしとるんとちがうんか」
露骨に妬情をみせ、ぎらぎら光る目つきで厭味を言い、
「‥‥無事に戻ってこりゃあたら、千賀様か行く末は春桃様の婿にでもなれようと、
そう勘考してだろまいか‥‥腹ん中がようみえとるでいかすかね」
十二歳の少年らしからぬうがった口の利き方した。それゆえ、
「何をぬかす、この下衆め」
新介は立腹し、むきになって色黒な尖り顔の少年に言い返し、拳固を固めて力任せに
思わず殴りつけてしまった。
 ----兵法の舵をとりても世の海を、渡りかねたる石の舟かな、の一首が、新介こと
後の柳生石舟斎宗厳の遺作であると、「柳生家記」には納められている。
 もちろん後の偽作かもしれない。しかし、この尖り顔の少年が、いつか木下藤吉郎
となり、やがて太閤秀吉とまでなってしまった為に、新介の運命は狂いだしてしまう
のである。
 殴られた方は、昔の事だから水に流すと言ってしまえばそれで納まるが、殴った方
はそうはゆかぬ。水にも川にも流しようはない。
 まして少年の日の秀吉が、千賀か春桃の姉妹のいずれかに胸ときめかした追憶があ
るものならば、後に春桃を妻にして、柳生但馬守宗矩ら多くの子女を産ませている新
介が、秀吉の時代に世に出られようはずはない。
 まして秀吉のように、若いときにはその容貌の醜さから、てんで女にもてなかった
男は、おそらく初恋の女を取った新介を、その生涯にわたり憎しみ続けていたであろ
う。
「寛政譜」によれば、信長の命令で柴田勝家が大和の国へ入った時に、新介は案内役
を命ぜられて、その馬側に付き従っていたという。
 だから信長の世が続いていたら、勝家の口ききなどで、そのまま陽の当る場所へ出
られたかもしれない。しかし本能寺の変で世の中が秀吉の天下となると、辛うじて回
復した柳生の庄さえも秀吉の異母弟秀長が大和の国主になるに及んで、所領一切を召
し上げ追放の憂き目にあっている。
 通説では、上泉信綱の同門の弟子であった松田新蔭流の、松田織部之助の主家井戸
野城主戒重(かいじゅう)肥後守の城を、新介改め柳生宗厳が攻め滅ぼしたから、そ
れを逆恨みされて、「柳生には隠し田がある」と訴え出られ、そのために柳生家は取
り潰しにあったとされる。
 そして、このため宗厳は百石の軽い身分で豊臣秀次に仕えたが、これも後には秀次
謀叛の志しに同腹と見られて、秀次が殺される前に辛うじて宗厳は逃亡し、命を全う
したが、彼の次男三男は寺へ駆け込んで生き延び、これが久斎、徳斎だという。
 長男の厳勝(よしかつ)は足萎えで柳生谷に隠れていたから助かったが、徳斎の次
の子は伯耆まで逃げて、米子城主中村一忠(かずただ)の臣横田村詮(むらあき)の
陪臣に拾われ、十二年後には五百石取りにまで昇進したが、その主横田が手討ちにさ
れると、柳生五郎右衛門は、「我に主あるを知って主に主人あるを知らず」と、横田
の妻子を守って中村一忠の差し向けてよこした上意討ちの軍勢と戦い、その強弓で十
余名を仆したが、ついに自分も咽喉を射抜かれ落命したと、土地の「伯耆志」や「慶
長見聞禄案紙」には出ている。
 が、話は戻って、「隠し田」の一件だが、これは「柳生家記」にも体裁ぶって出て
いるが、元禄以降の作り話であろう。というのは、隠したくても当時の柳生には田な
どなかったからである。
 正保(しょうほう)三年三月に柳生但馬守宗矩が、一代奉公の初めの約定ゆえ、一
万二千石五百石の領地をひとまず公儀へ返納し、改めて、
「長子十兵衛三厳(みつよし)へ、八千三百石」
「次子又十郎宗冬へ、四千石」
「三子義仙の芳徳寺へ二百石」
と分割供与された頃でさえ、柳生の庄の分としては、芳徳寺の二百石と十兵衛への千
石。つまり千二百石だけが江戸中期に近い正保年間の柳生の産米高で、あとは隣接他
郡が領地として下付されているのが「寛政譜」には記録されている。
 そして、「筒井家記」の記載によれば、秀吉在世中はいかんとしても芽が出ず、三
十三年間も逃げ隠れし、冷や飯を喰っていた柳生石舟斎が、秀吉死後の慶長五年、家
康の東征に際して、一旗上げんものとついてゆき、下野小山より家康に言いつかって
戻り、それから諜報活動で働き、戦後また改めて柳生の庄を正式に貰った時の朱印状
には、二百石あったというのが出ている。
 二百石ではあまりに軽少であると、五百石に書き直している「譜牒余録(ふちょう
よろく)」や「藩翰譜(はんかんふ)」の類もあるが、何も手柄が二百石分であるの、
五百石に価するというのではなく、正保三年より四十六年前の慶長五年当時、柳生の
庄の産米高がそれだけだったというのにすぎない。
 だからそれより十六年前の羽柴秀長の入国時は隠し田どころか、田などあるわけは
なく、一石分の収穫さえ、あったかどうかも疑問である。
 なお通俗史家の手では明らかにされていないが、柳生のような守戸系の山者は、
「延喜式」の昔から、その地は「除地(のけち)」の扱いになっていたものである。
 この取り扱いは幕末まで続いていて、非農耕系の彼等は原則として米を作らぬもの
とされ、今日のように「地租」といって土地に税金をかける風習もなく、収穫物に貢
租をかけていた明治初年までは、大名の領地のうちに含有されてはいても、年貢や助
郷(すけごう)といった貢租の類は一切かからぬのが除地扱いというものだったので
ある。
 こうした例は、今は京都市内に入っている山科を領有していた山科権中納言が、
(山科の土地からは竹束しかこなくて、当家の飯米年二十三石の台所入りは別の土地
から入っていたのに、それを押さえられては食い扶持に困る)
と、京町奉行前田玄以に対し、その執事名で抗議しているのが、岩波版の「山科言経
卿記」下巻にも収録されている。
 だから柳生石舟斎が家康に奉公する条件で、正式に朱印状を貰った慶長五年頃、柳
生の庄は「除地」にはずだから、非農耕系の山者が人目に隠れてまで田を耕す筈もな
く、また検地しないたてまえの土地の調査があるわけもない。だから、秀吉に憎まれ
ていたので、それで追放されたと考える方が自然で正しかろう。

富田一刀斎
「旅の者から、矢留の術をよくする者が頭陀寺にいると聞いたが、その方であるか‥
‥」
 藤蔓で後手に縛られた新介に向かって、虎鬚(とらひげ)の男が重々しく言った。
「あなたはここのお城の豪い様か‥‥」
聞き返すと、その鬚男は振り返って後方を指差し、
「殿様やご家老衆はあなたに居られるわ‥‥かく言うわしは当城食客の富田一刀斎、
刀術をもって近畿東海にその名を知られた者じゃ」
目の前の新介に言い聞かせるにしては、かなりばかでかい大声をはりあげた。
「ほう、お前様が噂にきく中条流の使い手の富田様か、名は存じておる」
素直に新介がうなずくと、
「そうか、逢うは初めてでも、わしの名はよう知っとると申すのか」
またしても野太い声を聞こえよがしに轟かせ、
「頭陀寺の奴は宗旨違い。よって叩きのめしてぶっ殺すべしとの、城中のおおかたの
ご意見じゃが、言葉は国の手形というに、うぬが訛りはここらあたりの遠江のもので
はなくて、どうも遠国の大和あたりと思えるが‥‥となるとおぬしも旅の者か」
「御意、仰せの通り」
「さようか‥‥わし同様うぬも旅の人間ときいては、このままぶっ殺すのは忍びんな、
よし待て、あちらの豪い方様に、ご慈悲を願ってきてやる」
「‥‥それはまことか」
「当り前じゃ、旅は道連れ世は情け‥‥と申すであろうが」
と、とって返して後方へゆき、何度も頭を下げながら話し合っていたが、戻ってくる
と、
「お許しを得てきた‥‥」
大きな声を又しても張り上げたはよいが、
「いいか、中条流の妙技で、うぬの縛(いまし)めをすぱっと切ってつかわす」
と告げてから声をひそめて、
「じっと動かんようしとれば、怪我はさせんから大丈夫じゃ‥‥がその代り、さあっ
と藤蔓が切れたら、それを皆に見えるように両手でもって差上げて振ってみせぇ。な
んせ、豪い様は遥か後の方じゃから、よほどおおげさに身動きしてくれん事には、見
栄えがようないんじゃ」
言ってきかせる如く諄々(じゅんじゅん)と訓(さと)した。新介も縛めを切りほど
いてくれるというのだから、さからう事もなかろうと考え、
「よっしゃ」すぐに承諾した。
 すると一刀斎は足を八方に構えたが、思い直したようにくるりと背後へ向きかえ、
恭しくそちらに一礼してから、独楽を回すように足を心棒に半回転してきた瞬間、
「いいか」とよばわった時にはもう新介の藤蔓の縛めは、バサリと地面に落ちていた。
 しばらくは新介もあまりの早業に呆然としていたが、約束を思い出すと慌てて足下
の藤蔓を拾い上げ、頭上に高々と振って見せつつ、
「これでよろしきや」小声で聞いてみたところ、
「うん、そこまではそれでよい‥‥が、次があるんじゃ」一刀斎はこたえた。
 そこで、次とは何かと、きょろきょろ周りを見廻していると、番衆が九尺槍とよぶ
三メートル近くもある大槍を担ぎ出してきて、これを新介に持たせた。そこで、
(いかが致すのか‥‥)と身振りで尋ねた途端、
またしても割れ鐘のような大音声を頭のてっぺんから出し、
「さあ、そこからなりとかかってこい。中条流の刀技の素晴らしさ、いざ、めにもの
見せてくれんず」
とよばわってきた。
 しかし、槍と打刀では勝負するまでもないことと、これには新介もためらった。
九尺槍を持てば、相手より八尺離れたところにいて向こうを倒せるが、三尺の打ち刀
を持っている方は二尺の距離まで縮めねば刀身が届かない。だから、手合わせするま
でもない話だし、そんな事をしてよもや相手を傷つけでもしては、せっかく縛めを切
ってくれた好意に相すまぬ事、と考えてしまった。
 だから一刀斎が、
「早うに突いてかかってこんかい」と、せかしても、新介は首を振って、
「恩を仇で返すような真似は、やりとうない」
構えていた槍を立てようとした。すると一刀斎は難渋したように、
「ばかをぬかすな。俺を誰と思う‥‥中条流の富田一刀斎だぞ。心配せんでもええか
ら、ちょいなちょいなと突いてこませ。そうせな、わしの見せ場がだいなしではない
か」
叱るが如く懇願するように顔をくしゃくしゃさせ、しきりに小声で、
「大丈夫じゃ、大丈夫じゃ」と言った。
 そして、それでもかかってゆかぬ新介に業をにやしたのか、今度はまた脳天から絞
り出すような声で、
「この一刀斎の太刀先におそれをなしたるか、これな弱虫め」
べえっと唾を吐きかけてきた。
 新介も若い。それまでは気兼ねして遠慮していたのだが、人の見ている前で青痰を
顔に飛ばされては、
「おのれっ」逆上してしまって、抱え込んだ長槍もろとも、一刀斎めがけて吹っとん
でいった。
 すると、槍のけら首を刀で叩かれたか、カチンと痺れるように肩の筋へ跳ね返りが
きて、
「あっ」と叫んだまま新介はたたらを踏んで前のめりになり、辛うじて爪先で止まっ
て転げるのは食い止めたものの、宙を泳ぐ恰好となった。
 そこで、ますますかっときて、
「やったなっ」
 二度目は背を丸くし、滑らぬように爪先に力を入れ、一刀斎の胴の中心を狙って、
「田楽刺しだあ」ととびこんだところ、またも肩と脇のところへ金槌でぶたれた如く、
ぐいっと反動がきて、力一杯握り締めていた槍の柄が、自分では手放した覚えもない
のに、カランコロンと地面に音たてて転げていた。
 何やら判らぬまま、夢中で落ちた槍を拾い上げると、
「うぬ、返すがえすも無念っ、残念っ口惜しや」
 三度目の正直とばかり、がむしゃらにとびこんでゆけば、今度は向こうに体をかわ
されてしまい、弾みをつけて走り出た勇み足を、刀の峰であろうが下からさらわれた。
 もちろん新介は、
「なんのこれしき‥‥」さあっと、気合を入れ、大地を蹴って上へ飛び上がっていた
から、叩かれはしなかったが、跳躍する時、手許がゆるんだか、又しても長槍は地面
へ落下。ごろごろとだらしなく転がっていた。こうなると、阿呆らしさよりも精神的
にがっくりとゆるみがきてしまった。
 槍を拾うのも面倒くさく、へなへなとその場に両手をつくと、
「参った‥‥」絞り出すような声を、肺腑から迸らせた。
 矢留双心斎について、山刀でない刀法を習い、それを習得して我が意を得たつもり
ではいたが、矢を留めるだけでなく、槍を止めるのにも役立つ刀の利用法に、まるで
百雷に打たれたごとく新介は感じ入ってしまい、
(この術をも覚えて、自分の物にせねば‥‥)
と思う一心から、
「てまえをお弟子に‥‥」
地面に這いつくばったまま泣訴するごとくに声をかけた。
 すると富田一刀斎は初めてしみじみと、
「芸は芸を知るというが、よくぞ申した。わしは今までこの城に滞在していたが、目
明き千人盲目千人とは申せ、誰も中条流の値打ちをよう認めおらん‥‥そこへいくと、
その方は矢留術の極意を極めただけの事があって、我が流儀を三合の立ち合いのうち
によく見て取ったらしい。わしは本日その方を伴ってここを出立しよう。頭陀寺へ戻
らぬというのであれば、その方への咎めも帳消しになろうは必定であろう」
やさしく言って新介の肩をさすり、手をかして立たせた。